新庄剛志

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SHINJO (新庄 剛志)
Pbpshinjo.jpg
サンフランシスコ・ジャイアンツ時代(2002年)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 福岡県福岡市南区
生年月日 1972年1月28日(44歳)
身長
体重
181 cm
76 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 外野手内野手
プロ入り 1989年 ドラフト5位
初出場 NPB / 1991年9月10日
MLB / 2001年4月3日
最終出場 MLB / 2003年6月27日
NPB / 2006年10月26日 (日本シリーズ第5戦)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
しんじょう つよし
新庄 剛志
本名 同じ
別名義 SHINJO
生年月日 1972年1月28日(44歳)
出生地 日本の旗長崎県下県郡美津島町(現対馬市
血液型 A型
職業 タレント、元プロ野球選手
活動期間 野球関連 / 1990年 -
芸能関連 / 2007年 -
配偶者 大河内志保2000年 - 2007年
事務所 (株)レハサフ
公式サイト LHSF_COLONY
主な作品
映画(製作総指揮)
僕たちのプレイボール
音楽
第II章〜True Love〜
受賞

新庄 剛志(しんじょう つよし、1972年1月28日 - )は長崎県下県郡美津島町(現:対馬市)生まれ、福岡県福岡市南区出身の元プロ野球選手外野手内野手)。引退後は、タレント実業家クリエイター商品プロデューサー画家など)、地方競馬馬主(株)レハサフ所属。愛称はプリンス」など。元妻はタレントの大河内志保紺綬褒章受章(2007年)。

メジャーリーグベースボール(以下、MLB)のワールドシリーズに初めて出場した日本人選手である(2002年)。[注 1]

2004年よりの北海道日本ハムファイターズ時代の登録名は「SHINJO」(イニシャル以外でのアルファベット表記としたのは日本プロ野球(以下、NPB)における初例[注 2])。

2001年より2009年までは個人事務所・株式会社剛ゴーエンタープライズに所属し[1]アワーソングスクリエイティブケイダッシュグループ)と業務提携してタレント活動等を行う[2]2008年に株式会社レハサフを設立し、同年より2013年まで取締役を務める[3]。タレントとしては2010年頃に同社へ移籍し、2012年プラファーから、2013年よりエージェントオフィスタクトからマネジメント協力を得ている[3]

2010年頃よりインドネシアバリ島へ居を移している。[4]

経歴[編集]

プロ入り前[編集]

福岡県で造園業を営む家庭の第2子(長男)として長崎県の母親の実家にて誕生。体重は3680gあり生後10か月で歩きだす[5]。小学時代に8回も交通事故に遭うが、幸い大怪我は負わずにすむ。しかし、中学時代の授業中に左手小指を切断寸前の大怪我を負い、自身はこれがもし右手だったら間違いなくプロへは進めなかったであろうと語っている[6]。小学1・2年時には町内のサッカーチームへ所属[7]。後にソフトボールを経て野球へのめりこむきっかけは、漫画・アニメ『キャプテン』との出会いでもある[8]

新庄の父親は自身が果たせなかった夢から、息子には将来何が何でもプロ野球選手になって欲しかったという。足の速さと肩の強さは幼い頃から身につけており、6歳時には既に大人よりも遠くまで石を投げられる程であった。やがて父親から野球を教り始める。小学時代(2年時より)の日課である自宅近くの坂道でのキャッチボールでは、新庄を坂上に立たせて父親が坂下から思い切り球を投げ、後ろにそらすと(その位置で待っていればボールは転がり戻ってくるが)「横着せずにボールが戻ってくる前に追いつけ」と言って坂上まで走らせていた。父親によると新庄は泣きながらも決して弱音を吐かなかったという[9]。小学高学年時には家業を手伝い、重い石碑等を持つ作業で体力をつける[10]

小学3年時より始めたソフトボールでは、6年時5月の町内対抗大会にてサヨナラ負けの際の判定をした審判員に泣きながらひとり食ってかかり、なだめる監督にも誤審を訴え続けた。こんなにも負けず嫌いな子供は見た事がないと驚き、その様子を見るに見かねた監督が、そんなに悔しいのなら自分が監督を引き受けるから軟式少年野球チームを創ってその悔しさを晴らそうと持ちかけると、新庄は2日でメンバーを集め、ユニフォームのデザインやチーム名命名も担当して「長丘ファイターズ」というチームが誕生する[11]。同チームへは後年に、後にプロ入りする古本武尊、当時には現役俳優池松壮亮が在籍する[12]キャプテンエース4番打者の新庄は目立ちたがり屋で、ノーステップでのジャンピングスローをよくやっていたという。チームのコーチを買って出た新庄の父親はここでも手加減なしで、至近距離の猛ノックを浴びせ、新庄は泣きながらも最後までこれについていき、その様子は、監督が「子供がかわいそうなくらい厳しく見ていられない時もあった」と語った程である。チームは結成後1か月余りで福岡県大会64チーム中3位入賞を成しとげる[13]

福岡市立長丘中学校時代には軟式野球部に所属。当時の監督も新庄の小学時から走力・肩力が桁外れと評すなど実力を認めていたが、一度だけ試練を与えるため、2年時の全国中学校軟式野球大会ベンチ入りメンバーから外す。大会から帰宅した新庄は自室に閉じこもり泣いていたというが、「監督は恩人」とプロ入り後に振り返っている[14]

1987年、高校は父親からの薦めもあり、西日本短期大学附属高等学校へ一般生として入学し寮生活を送る。所属した硬式野球部には2学年先輩として後にプロ入りする石貫宏臣柴原浩が、2学年後輩として後に社会人野球選手からプロボクサーとなる荒木慶大が在籍。高校時代は中堅手であった。3年時の1989年1番・中堅手として挑んだ第71回全国高等学校野球選手権福岡大会4回戦・筑紫丘戦(久留米市野球場)でサヨナラ安打を記録[15]。決勝の福岡大大濠戦(久留米)ではサイクル安打を達成するもチームは敗れ甲子園出場を逃す[16]。高校時代に全国大会出場はかなわず。

同年秋のドラフト会議にて阪神タイガースから5位指名を受ける。この際の能力評価は横溝桂スカウトによると「打力:B、走力:A、肩力:特選A」であり、横溝のスカウト歴で高校生選手の肩に「特選A」をつけたのは新庄のみである[17]。新庄がファンであった読売ジャイアンツ(以下、巨人)[18]のスカウトから「3位までには指名できる」という話をもらっていた事もあり、新庄父子ともに高卒でのプロ入りを迷っていたが[19]、最終的に父親から「お前が行けなかった甲子園でプレーできるだろう」と助言を受けた事により決意して入団する[20]背番号は「63」に決まる。

阪神時代[編集]

1990年 - 1991年
プロ1年目の1990年は腰痛の影響もあり[21]二軍で出場36試合、打率.074(安打2)[22]。守備は志願して外野手から遊撃手へ転向する[23]。9月から11月にはフロリダ秋季教育リーグへ参加する。1991年も秋口まで二軍で過ごし、打率.246(244打数)、本塁打9、打点39を記録[22]。その後、一軍の中村勝広監督など首脳陣から見いだされ、9月9日に初の一軍昇格を果たす。翌10日、東京ドームでの巨人戦で9回表の代打としてプロ初出場。香田勲男からプロ初打席初安打初打点を記録する。16日、広島市民球場での広島東洋カープ戦で7番・遊撃手としてプロ初スタメン出場。

亀新フィーバー[編集]

1992年
3月に欧州で実施予定であったバルセロナオリンピック野球キューバ代表壮行試合の対戦チームメンバー[注 3]に選出されるも、事前にキューバ代表側の都合で遠征中止となる。シーズン開幕は二軍スタートとなり、40人枠(当時)から外れるも4月下旬に故障者と入れ替わる。5月に一軍の主砲で三塁手トーマス・オマリーが故障離脱したのを機に、急遽の三塁守備練習後に昇格し、26日の横浜大洋ホエールズ戦(阪神甲子園球場)で7番・三塁手としてこの年の初出場。第1打席で有働克也の初球を左翼へプロ初本塁打して決勝打となり、初のヒーローインタビューを受ける[23]。この初本塁打をはじめとして、2日後の初代「ミスタータイガース」と称される藤村富美男が亡くなった日のナイターで決勝打を含む猛打賞を記録し、シーズン初出場から12試合連続安打を記録する活躍などにより、新庄が次代のタイガースの担い手となる事を期待するマスコミの記事が出始め[24][25][26]、一軍に定着して「(虎の)プリンス」という愛称が浸透してゆく[27]
この年、守備は遊撃手を経て中堅手に定着して、打順は主に5 - 7番で起用される。7月のジュニアオールスターゲームへ出場。9月16日、優勝争いが山場を迎えていた広島戦(甲子園)の両チーム無得点8回表二死満塁の守備で、山崎隆造の右中間へのライナーを中堅から走り込みダイビングキャッチしてピンチを防ぎ、そのまま0-0で迎えた9回裏の攻撃では大野豊からプロ初サヨナラ安打となる本塁打(参照)を放つ[28]。試合後のヒーローインタビューでは「優勝です!」と宣言する。
前述のようにこの年、前年まで低迷していたチームは優勝争いをする(最終順位は2位)。この躍進は、右中間守備コンビを組む亀山努らと共に活躍した事から亀山・新庄の頭文字をとり「亀新フィーバー」と称される。また、新庄の行く先々や入寮している球団寮・虎風荘へ連日殺到する若い女性ファンを指して「新庄ギャル」と報道される[29]。シーズン打率.278、本塁打11を記録するも規定打席に僅かに及ばず、新人王を選定する記者投票でも同僚の久慈照嘉に僅かに及ばず次点となる。11月の日米野球に初出場してロジャー・クレメンスなどと対戦するも無安打に終わる。翌1993年契約の年俸は推定2200万円となり、前年比323%増の昇給率は2007年→2008年の桜井広大に346%で抜かれるまで球団歴代最高であった[30]
1993年
この年より背番号を「5」に変更。打席時応援歌北村照文金森永時と背番号5の外野手に引き継がれている曲に変更され退団まで使用される。春季キャンプより再び遊撃手へコンバートされるもキャンプ中に中止となる(#内野守備を参照)。2月下旬のオープン戦でのヘッドスライディングの際に左肩を故障した影響で[31]シーズン初出場は5月中旬となり、中堅手として2番と7番以降を除く打順で起用される。10月1日、甲子園での中日ドラゴンズ戦でプロ初の4番スタメン出場。21歳8か月3日での4番スタメンは球団歴代最年少記録である[21](2015年終了時点)。この年初めて規定打席に到達して打率.257、オマリーと並びチーム最多の23本塁打を記録しベストナイン初受賞。守備ではリーグ外野手最多13補殺(自己最多タイ)を記録しゴールデングラブ賞初受賞。
1994年
1番中堅で開幕して、その後打順は6番、7番、3番で起用される。自身の後援会「新庄会」発足記念の「新庄ナイター」となった5月13日のヤクルトスワローズ戦(甲子園)で高津臣吾からプロ初となるサヨナラ満塁本塁打を記録[32]。7月のオールスターゲームにファン投票セントラル・リーグ最多得票で初選出され、第1戦(西武ライオンズ球場)で代走として初出場し、球宴初盗塁を記録。この年は石嶺和彦と並びチーム最多の17本塁打、同じくチーム最多の205塁打を記録。守備ではリーグ外野手最多289刺殺(自己最多)を記録しゴールデングラブ賞受賞。
1995年
中村勝広監督が途中休養となり藤田平代行となる中、主に6・7番中堅で起用される。
本塁打性打球が応援旗に当たり二塁打と判定
6月20日の横浜ベイスターズ戦(横浜スタジアム)にて、1点差を追う9回表の先頭打者として佐々木主浩から放った左翼フェンス最上部付近への大飛球が、観客により振られている応援旗(新庄の名前入り)に包まれた後にグラウンドへ落下[33]。そして内野へと送球され、新庄は三塁まで達する。この出来事に対し審判団は協議の末、公認野球規則3.16(妨害と同時にボールデッド。審判員は妨害がなければ競技はどのような状態となったかを判定するとの旨)に従い、二塁打と判定する[34]。妨害がなければスタンドインしていたかどうかは微妙であり、阪神側の抗議後に審判員からの場内説明がなされると、左翼席からグラウンドへ多量のメガホンやごみに加え、太鼓、ごみ箱なども投げ込まれ、侵入者もでる事態となり、出場選手は一旦ベンチへ引きあげる。中断後、試合はそのまま敗れる[33]。この件について自身は2年後の取材では「一生懸命応援してくれているので仕方ないですよ」と語る(尚、後の北海道日本ハムファイターズ時代2004年4月にも、自身の大飛球を東京ドーム外野席最前列の観客により捕られた際に、同様の二塁打の判定がなされている[35](「幻の本塁打一覧」を参照))。
この年は右足関節捻挫、右膝打撲など[36]出場選手登録抹消を繰り返し規定打席に到達できず、この年から打率が4年連続して2割4分を切る。
引退騒動
オフの11月19日、契約更改交渉後会見にて「野球に対するセンスがないって見切った」と突然の引退宣言を行う。予想される真の引退理由として報じられた当オフの出来事は、右肘や右足を痛めていて治療に専念しようとしていた時に藤田平・新監督により四国黒潮リーグへ出場させられた件や、慕っている柏原純一打撃コーチの退団により球団への不信感を募らせ横浜ベイスターズへのトレードを志願するも拒否された件などである[37]。しかし引退宣言後に新庄の父親の病気が悪化(後述)し、父親を勇気づけるために現役続行を決断。21日に宣言を撤回して契約更改した後の記者会見にて「ユニフォームを着ている姿を見せるのがオヤジへの一番の薬だと思ったんです。自分の人生どうこうじゃなく、命にはかえられませんから」と説明し謝罪する[38]。父親は当時の病状について「妻が息子の引退を思いとどまらせるために、私の体調不良を実際より深刻に伝え一芝居打ったようだ」と告白している。新庄は球団へ引退を申し入れるにあたり、地元福岡の後援会「福岡剛虎会」[注 4][39]からの了解を得るなどの手続きを踏んでいる[40]。また引退宣言の際の「センスがない」発言については、著書に「1995年シーズン中に足首の故障で二軍落ちしていたある日、故障状態の悪さから判断して練習開始時間に合わせグラウンドへではなくトレーナー室へ行った行動について、当時二軍監督であった藤田から遅刻であると咎められた際に正座の罰を受けた件[41]をきっかけに、藤田とは野球観が合わないと考えるようになっていった。しかし、どうせ辞めるのなら人のせいにはしたくないとの考えから、発表する理由を「センスがない」にすれば打撃成績も悪かったのである程度は納得してもらえると思った」との旨を記している(「藤田平#引退後」も参照)。新庄はこの騒動の頃からMLBへの移籍志望を強く持ちだす[42](志望の旨は騒動以前に球団へ伝達済み[43])。後年、引退を希望した他の理由として「引退して野茂さん(野茂英雄)のように大リーグに挑戦したい気持ちもあった」と取材にて告白するが、大きくは報道されず[注 5]。尚、翌1996年の年俸はプロ入り以来初のダウンとなる。
1996年
開幕より5月下旬まで1番中堅。その後打順は9月上旬までは主に6・7番、そして藤田監督が途中休養に入り、柴田猛代行から4番で起用される。4月の中旬に4試合連続本塁打、月末からの横浜3連戦1・3戦目の2試合で初回先頭打者本塁打を記録(1戦目が自身初の先頭打者弾)するなど好スタートを切り、シーズン19本塁打。打率は.238に終わるも、共に自己最高の四球55、出塁率.335を記録。10月9日のシーズン最終戦(対中日・甲子園)1回に金森隆浩から満塁本塁打を放った後の同イニング塩谷和彦も同投手から満塁弾を放ち、チーム1イニング2満塁本塁打というNPB史上初の記録を残す[44]。ゴールデングラブ賞受賞。オフに派遣され所属したハワイ・ウィンターリーグヒロ・スターズには、後に日本ハムで再び仕えるトレイ・ヒルマンが監督として、ニューヨーク・メッツ(2001年)で再び同僚となるベニー・アグバヤニが選手として在籍していた[45][46]
1997年
吉田義男新監督のもと5月下旬まで3番中堅。その後打順は1番、7番、6番、5番で起用される。
応援ボイコット
7月のオールスターゲームにファン投票外野手部門第2位で選出され、シーズン打率2割1分台の状態で出場するが、第1戦(大阪ドーム)で自身の打席ごとのセ・リーグ応援団による応援ボイコットと一部の観客による「新庄帰れ」コールが起こる。自主的に応援する者もいたが、ペットボトル、メガホンをグラウンドへ投げ入れる者がいて試合中断する場面もあり、スタンドのある横断幕には「新庄剛志 そんな成績で出場するな 恥を知れ」と書かれていた[47]。この件について自身は現役最後の試合翌日の引退会見においても「あの時のショックな気持ちは未だに忘れない。(自身は引退するが)選手は一生懸命プレーしているので、例え不調であっても応援して欲しい」という旨を訴える[48]。また、試合後のエピソードも参照。
この年は公式戦でも自身のみへの応援ボイコットを受け[47]クリーンナップを組んだ桧山進次郎と共に三振を量産する(自己最多120三振)。生涯唯一となるシーズン全試合出場を果たし、本塁打は20本記録して4年ぶりの20本台に乗せる。守備ではリーグ外野手最多13補殺(自己最多タイ)を記録しゴールデングラブ賞受賞。オフのテレビ番組出演にて、高く積まれた跳び箱を跳ぶ競技に挑戦した際に跳び箱で左膝を強打負傷し、残りの競技もリタイアする[49]
1998年
6番中堅で開幕して、その後打順は7・8番など主に下位で起用される。この年はオープン戦でセ・リーグ・スター大賞[注 6]を受賞するもシーズンでは極度の打撃不振に陥り、通算100号本塁打まで残り3本としての開幕であったがシーズン1号及び記念本塁打達成は7月となる[50]。シーズン打率はリーグ規定打席到達者最低の.222を記録し、本塁打6、打点27と合わせ打撃三部門においてそれぞれ規定打席到達シーズンでは自己最低の成績に終わる。10月8日に甲子園で横浜がリーグ優勝を決めた試合では、最終回二死から佐々木主浩の前に空振り三振に倒れ、最後の打者となる。守備ではリーグ外野手最多タイ12補殺を記録しゴールデングラブ賞受賞。契約更改ではプロ入り以来2度目の年俸ダウンでサイン。
投手挑戦
秋季キャンプから野村克也新監督の発案により、外野手との兼務(二刀流)を目指して投手としての練習を開始する。
1999年
オープン戦で投手として数試合登板するも左膝を痛めたため、投手挑戦を断念する。
この故障によりシーズン初出場は4月中旬となり、左太股痛も抱えながらシーズンを送る。1990年代後半から現役引退まで、ほぼ常に腰や脚部のどこかに故障を抱える事となる。3番中堅で多く起用されるが、打順は4番、6番、8番など特に変動が激しい年となる。5月27日、首位攻防の中日戦(富山市民球場アルペンスタジアム)にて、三重殺(無死一二塁から三塁ゴロ)をとられたり、守備では満塁からの中前安打を後逸し3失点となる失策を犯した[注 7]後、7点を追う攻撃でチーム初得点となる2点本塁打を放つなど二度得点に絡み、更に6-7と1点差まで追い上げた最終回の攻撃では宣銅烈から9球粘り中前安打して一打同点の場面をつくる。結果チームは敗れ「僕のせいで負けた」と語り、良くも悪くも目立ったこの試合は、数週間後に敬遠球をサヨナラ安打した試合(後述)と共に「新庄デー」などと報道され、当時の新庄の代表的エピソードとして取り上げられる[51][28]
敬遠球をサヨナラ安打
6月12日、首位攻防の巨人戦(甲子園)12回裏同点一死一三塁の攻撃(投手:槙原寛己、捕手:光山英和)で、敬遠球を打ちサヨナラ安打を記録。初球の外角への外し方がやや甘い投球を見逃し、自身は「これくらいの球(外し方)なら打てる」と感じ2球目の同じような投球を三遊間を抜いて左翼前へ転がした。遊撃手が二塁ベース上に守っているのを見て三遊間に転がせば抜けると確信し[52]、甘い球が来るように打席の後方に立っておき、打つ際にいつもの足のところに踏み出したという。巨人側から、打つ際に踏み込んだ左足がバッターボックスからはみ出しており反則打球ではないかと抗議があったが、球審の田中俊幸は「はみ出した足が打席ラインの一部分にでも掛かっていれば反則にはならない」とこれを退けた(実際、ラインに左足踵が掛かっているので問題はない)。自身は実行3日前の広島戦で敬遠された際にバットを出せば届くのではないかと感じ、予め柏原純一打撃コーチ(現役時代に敬遠球を打ち本塁打にした経験がある)、尻無浜啓造打撃投手と大きく外された投球を打つ練習を行っていた[53]。また、野村監督とも柏原を通し状況により実行許可のサインをもらえるよう打合せていて、実行直前にサインが出されていた[52][54]。尚、巨人側のこの敬遠策は走者三塁となったための満塁策であるが、前イニング同点の場面での阪神の攻撃においても先頭・新庄の三塁打が出たため満塁策がとられ、後続は三者凡退するという経緯があった[51]。新庄のこのプレーは引退後の2015年に行われた阪神球団創設80周年特別企画でのファンに対するインターネットアンケート「思い出のシーン ベスト10」にて6位に選出される[55]。この試合では他にも、リードされた直後の8回の攻撃で同点ソロ本塁打を放つなど、6打数4安打2打点を記録。12回の守備では、前回の攻撃での代打起用で内野手が足りなくなった関係でプロ初の二塁に就いている。ヒーローインタビューでは、最後の質問に対して「明日も勝つ!」と宣言し、そのままお立ち台を離れ自らインタビューを締める[52]。しかし翌13日の同対戦でチームは敗戦。自身も前夜から一転して上原浩治から3打席連続三振を喫するなど5打数無安打に終わる[51]。自身は敬遠球を打つのは一度きりと決めていたと語ったにもかかわらず、この日の試合前打撃練習でも大きく外された投球を打つ練習を行っている。以降しばらくの間、新庄を敬遠する際には相手捕手が投手に対して投球前ごとに大きく外すようジェスチャーを送る姿が見られる。[56]
7月のオールスターゲーム第2戦(甲子園)にて黒木知宏から記録した自身球宴初安打が全セ・リーグ通算1000本目安打となる。第3戦・2リーグ制発足50周年記念試合(倉敷マスカットスタジアム)では岩本勉から球宴初本塁打を記録して、初のMVPを獲得。9月10日の巨人戦(甲子園)で決勝本塁打を放ち、再びお立ち台で「明日も勝つ!」と宣言するも、今度は翌日から球団歴代最長タイ記録の12連敗を喫する[57][58]。この年はチームに復帰した恩師である柏原打撃コーチ指導のもとで打撃成績は前年の低迷からは持ち直し、5年ぶりの打率2割5分台に復帰して14本塁打、5月には月間MVPを初受賞。この年の投手4冠を達成した巨人の新人・上原浩治との対戦では打率.381(21打数)3本塁打を記録し、低めへの速球を難しい体勢で打った本塁打[28]や前述の連続三振などにマスコミも注目する。併殺打を5月後半まで記録せずシーズン初は珍しい三重殺(前述)であったが、シーズン総数は21と終わってみれば両リーグ最多で自己最多を記録。ゴールデングラブ賞受賞。翌2000年契約の年俸は阪神時代最高の推定7800万円となる。オフに左膝の遊離軟骨除去手術を受ける。
2000年
手術の影響で春季キャンプは別メニューからスタートとなるも自身初の開幕戦4番スタメン出場を果たす。序盤に故障離脱もあったがシーズンを通してほぼ4番中堅で起用される。6月17日に自身の公式サイト「CLUB SHINJO」(旧サイト)を開設[1]。7月20日、甲子園での巨人戦で通算1000試合出場を達成。9月30日、甲子園での広島戦で9回裏に紀藤真琴から右翼席へ阪神時代最後の本塁打となるサヨナラ本塁打を放ち、これがNPBにおける20世紀最後のサヨナラ本塁打となる(日本シリーズも含む)[59]。この年は6月に4試合連続本塁打、9月には16試合連続安打を記録。シーズン猛打賞数は10回、打撃主要三部門ではチーム三冠となる打率.278、本塁打28、打点85を記録(本塁打、打点は自己最多。本塁打においては「先制、同点、勝ち越し、逆転」の殊勲本塁打が20本)。他の多くの打撃部門でもチーム最多を記録する[60]。ベストナイン、ゴールデングラブ賞受賞。11月の日米野球に出場して打率.409(22打数)を記録[25]

MLBへの移籍表明[編集]

8月に初取得したフリーエージェント (FA) 権をオフに行使してFA宣言。横浜ベイスターズヤクルトスワローズとの交渉が報道される。シーズン中から残留交渉を重ねてきた阪神が当年の好成績の評価と、人気選手を引き止めようとして提示した条件は5年12億円(推定)である。しかし移籍先は阪神球団関係者も予想できなかったところであり[43]、横浜やヤクルトへの移籍や阪神残留でもなく、MLBのニューヨーク・メッツへ年俸20万ドル(日本円換算約2200万円、メジャー選手最低保障額)[注 8]での移籍となる。シーズン中にはメッツ・大慈彌功スカウトやオマー・ミナヤGM補佐も試合を視察しているが[61]、交渉事実はメッツ側の都合で公表していなかったのである。オリックス・ブルーウェーブからシアトル・マリナーズへ移籍するイチロー外野手と共に翌年より日本人野手(投手以外)としては初めてMLBへ移籍する事となる。12月11日の移籍発表記者会見では「やっと自分に合った野球環境が見つかりました。その球団とは、ニューヨーク・メッツです」と発言。背番号は阪神時代と同じ「5」に決まる。[62]
12月27日、タレントの大河内志保と入籍。大河内との交際は始まった1993年当時から認めているが[31]、この時 当時から結婚までの約8年間同棲していた事を公表。夫人は芸能活動を2005年まで休止する。

メッツ時代[編集]

※ 以降のMLB時代の節の日付は現地時間。

MLB1年目は自身の意向で単身渡米し[63]、2年目より夫人も居を移す。代理人をMLBでの3年間、マイク・ニコテラ及びその同僚のジーン・カザレッジョが務める[64]通訳を2001年は球団職員・岩本賢一[注 9]が、2002年よりは球団職員・小島克典(2003年は新庄と共に移籍)が務める。また2001年より現役引退まで専属トレーナーをつける[65]。また2001年より2009年までのタレント活動等は個人事務所・(株)剛ゴーエンタープライズ所属として行う。
2001年
オープン戦での好成績に対し球団よりジョン・J・マーフィー賞を受賞して[注 10]開幕メジャー入り(MLBでの3年間は毎年開幕メジャー入り)。シーズン序盤はスタメン落ちも目立つが実績に伴ってレギュラー扱いされていき、打順は7番、6番、1番、3番、4番など様々となる。MLBでの守備は毎年 外野3ポジション全てへ就くが、この年のみ中堅メインではなく3ポジションへ万遍なく就く。4月3日の開幕アトランタ・ブレーブス戦(ターナー・フィールド)8回表の代走としてMLB初出場。一塁走者としては珍しくセンターフライの際にタッグアップして二塁進塁し、後続の本塁打で初得点を記録。更に9回裏の左翼守備でダイビングキャッチを見せ、10回表の初打席ではケリー・ライテンバーグから初安打を記録する[66]。5日の同対戦で7番・右翼手として初スタメン出場。9日の本拠地開幕ブレーブス戦(シェイ・スタジアム)でジェイソン・マーキーから左中間へ初本塁打を放ち、チームメイトが整列しての日本式の出迎えを受ける[67]。5月17日のサンディエゴ・パドレス戦で日本人選手初の3番スタメン出場[注 11]、20日のロサンゼルス・ドジャース戦でテリー・アダムスから日本人選手初のサヨナラ安打を記録。24日のフロリダ・マーリンズ戦の大差リード中(11-3)の打席でカウント3ボール-0ストライクから打ちに出た行為が不文律に反するとされたのか、翌日の同対戦で足に死球を受ける[68][69]。MLB1年目には他にも、日本では日常的に行っていた、本塁打となると自身が確信する打球を放った直後にバットを高々と放り投げる行為(参照)や、その後ホームイン時に手で触塁する行為(参照)が相手チームから挑発的と解釈されたり、打席で投球前にバットを高く突き上げる際に捕手が出すサインを覗いているのではないかという疑惑(参照)をかけられたりもする。
左太股の故障をおしての出場を続ける中、6月17日のニューヨーク・ヤンキース戦(シェイ・スタジアム)2点を追い掛ける8回裏一死一三塁の攻撃で二塁ゴロを放ち、全力疾走して一塁へ足から滑り込んで併殺は阻止する(打点1)。その後に次打者マイク・ピアッツァの逆転決勝2ラン本塁打が出て、この試合はサブウェイシリーズ屈指の名試合と称され、新庄の故障をおしての走塁は「カミカゼ・スプリント」と称されて報じられる[70][71]。しかし、この走塁後に代走を送られたのを最後に、左太股裏(大腿四頭筋)肉離れで15日間の故障者リスト(以下、DL。期間は延長できる制度)に入る。尚、最終出場以降もベンチ入りはしており、DL入りを発表したのは20日である[25]。その後A-級・ブルックリン・サイクロンズでの調整出場[注 12]を経て7月16日より復帰。22日、フィラデルフィア・フィリーズ戦(ベテランズ・スタジアム)6回裏一死一塁の中堅守備で、直射日光を受ける中、トラビス・リーバックスクリーン方向への大飛球を背走して追い続けた末にフェンス手前で振り向くことなくポケットキャッチ(背面キャッチ)。このプレーは、ウィリー・メイズの「ザ・キャッチ」を彷彿とさせると報じられる[72][73]ボビー・バレンタイン監督などからクラッチヒッターとの評価を受け打順3番で起用される事が多くなり[74][75]、9月11日に起きたアメリカ同時多発テロ事件ニューヨーク市に影を落とす中、チームのプレーオフ進出争いに終盤は4番打者としても貢献する。
この年は外野3ポジションそれぞれで補殺を記録して総数は12(リーグ外野手5位、両リーグ新人外野手最多、球団歴代新人外野手最多記録更新[76])。打撃では故障離脱の影響もあり規定打席には未到達(MLBでの3年間は毎年が未到達)ながら、満塁時に12打数7安打.583の打率を残し、勝利打点11はピアッツァと並びチーム最多[77]Topps ルーキーオールスターチーム[注 13]などを受賞する。翌2002年契約の年俸は135万ドルとなり、日本円換算で約1億3500万円と自身初の1億円越えとなる。

ジャイアンツ時代[編集]

12月16日、デシー・レラフォード内野手と共にサンフランシスコ・ジャイアンツショーン・エステス投手との2対1トレードが発表され移籍。背番号は引き続き「5」。プライベートではベストドレッサー賞日本メガネベストドレッサー賞を受賞。
2002年
球団が獲得に際し想定していた1番中堅で開幕[78]。1番打者という事で基本的に早いカウントでは打つなとの指示を受け[79]、4月下旬に打撃不振で打順降格してから7月下旬のDL入りまでは7番など主に下位に入る。5月11日、モントリオール・エクスポズ戦(オリンピック・スタジアム)1点リード8回裏一死一塁の守備で、フェルナンド・タティスの右翼(定位置付近の後方)フェンス直撃打球のクッションボール処理に右翼手がもたつく間に、中堅から駆け付けて すぐさま本塁まで約90mをワンバウンド送球して走者・トロイ・オレアリーを補殺。このプレーに興奮した一部の観客がグラウンドに乱入する。試合はそのまま勝利し、相手監督のフランク・ロビンソンもこのプレーを賞賛する[80][81]。17日のマーリンズ戦(パシフィック・ベル・パーク)でブレイデン・ルーパーから日本人選手初となる満塁本塁打を記録。オールスターゲーム・ファン投票ではナショナルリーグ外野手4位となる。7月25日の出場を最後に右太股(ハムストリング)を痛め15日間のDLに入る。その後AAA級・フレズノ・グリズリーズでの調整出場を経て8月13日に復帰出場するが、離脱中にケニー・ロフトン外野手がトレードで加入しており中堅手レギュラーの座を失う。復帰後の先発出場は激減し、この年は打撃の殆んどの部門において前年より成績を下げる。守備ではリーグ外野手及び中堅手のレンジファクター(RF/9)1位を記録[82]。シーズン最終戦の1試合前に決めたチームのワイルドカード獲得に貢献して、自身日米通じて初のポストシーズン出場、リーグ優勝を果たす。
日本人選手初のワールドシリーズ出場
10月19日、対アナハイム・エンゼルス第1戦(エディソン・インターナショナル・フィールド・オブ・アナハイム)にて9番・指名打者で日本人選手として初めてワールドシリーズに出場[注 1]。指名打者起用についてダスティ・ベイカー監督は「守備面を考えれば新庄を守備に就かせたいが、当時は相手先発が左投手時限定のスタメン起用方針で、且つ第3戦 - 5戦は指名打者制ではなく、シリーズを通して出場するロフトン中堅手のリズムを崩せないため」と説明する[83]。第2打席にジャロッド・ウォッシュバーンからシリーズ日本人選手初安打となる中前打を放ち、この時使用したバットは「TSU No.5」と自筆サイン入りでアメリカ野球殿堂博物館に展示されている[84][85]。27日、両チーム3勝で迎えた最終第7戦(アナハイム)の3点を追い掛ける9回表最後の攻撃、本塁打が出れば同点の場面で代打出場するが、トロイ・パーシバルの前に空振り三振に倒れる。チームはそのまま敗れシリーズ制覇を逃し、選手らはナ・リーグのチャンピオンリングを翌年に受け取る[86]
オフに球団は翌2003年の契約オプション[注 8]を行使せず、ノンテンダーFAとなり年を越す。プライベートでは日本ジュエリーベストドレッサー賞を受賞。

メッツ復帰[編集]

2003年
日米の数球団より届いた契約オファーの中から在籍経験を活かせるよう古巣であり、また好きな都市の球団であるニューヨーク・メッツを選び復帰[87]。1月11日に年俸60万ドル(日本円換算約6000万円)で契約する。背番号は引き続き「5」。
オープン戦で50打席以上のナ・リーグ選手としての最高打率.426を残すも[88]、シーズンでは最終的に引退の理由ともなった左内太股故障の影響もあり[89]、主に相手先発が左投手時の中堅手としての起用で出場試合は減少する[90]。5月8日、シェイ・スタジアムでのドジャース戦で日米通算100補殺(外野守備機会)を達成。打撃成績が低迷していき、6月28日のヤンキース戦デイナイトダブルヘッダー第1試合(ヤンキー・スタジアム)終了後にMLB3年目にして故障明け調整出場以外では初めてマイナー落ちする[91](最終出場は前日27日の同球場での同対戦)。その頃「あのような成績でメジャーにいるのは恥ずかしかった」「球団の選択は正しい」と語る。この年はスプリングトレーニングで必死に頑張る若い選手を見て「自分の代わりに彼らに(オープン戦で)チャンスを与えて欲しい」と首脳陣に提言したところ、消極的な選手であると受け取られたほか、アート・ハウ監督との確執が報じられる[92]。7月17日にロースター40人枠から外れDFAとなり、後日にメッツとマイナー契約を締結[91]。AAA級・ノーフォーク・タイズ(背番号23)でシーズンを終え、打率.324(111打数)、本塁打3、打点9を記録[22]。マイナー生活では様々なメジャーとの条件格差を体験するが、昇格を夢見て頑張る若い選手との交流などもあり、これまでの野球人生で一番に学べ、楽しい時代であったと語る[92]
オフにノンテンダーFAとなり、MLB数球団からも契約オファーを受けるがNPB復帰を決意[62]。自身は渡米する2001年シーズン前にはMLB移籍は3年間と示唆している[93]

日本ハム時代[編集]

移籍先は翌シーズンから北海道へ移転する北海道日本ハムファイターズに決まり、推定年俸8000万円の2年契約[注 14](補殺数の出来高契約もあり)を結ぶ。最初に声をかけてもらった球団に行くと決めており、それが日本ハムであったという[94]。他にオファーを受けた球団は千葉ロッテマリーンズである[95]。また、非公式ながら最初に獲得を打診してきた球団は巨人であるという(引退後に告白[96])。古巣の阪神は外野手層が厚くなった事情から獲得を見送る[97]
入団発表予定の前日となる11月19日、映画『バッドボーイズ2バッド』の日本公開特別試写会にて、非公式に入団を発表する[98]。翌20日の仮契約の席にてサインする様子が新庄の希望で後にテレビ放送される。仮契約後の入団公式発表会見では、北海道などのファンが自身の入団を求めて集めた署名を紹介する[99][100]。12月3日に新本拠地・札幌ドームのグラウンドにて一般公開され行われた入団発表(正式契約)の会見では、「札幌ドームを満員にする」「チームを日本一にする」と目標を掲げる[101][102]登録名は「SHINJO」、背番号は「1」と決まり、自身の専属広報に荒井修光が就任し現役引退まで務める。また日本ハム時代の専属トレーナーは自身運営の鍼灸院スタッフが務める[103]
入団初年度よりファンサービスの一環として、本塁打時の談話にて独特の打法命名を始めたほか、翌年にかけて試合前シートノックにて かぶりもの(仮面)を着用するというパフォーマンスを5回行い、該当試合でチームは3勝1敗1引き分けの成績を残す(「新庄劇場#かぶりもの」を参照)。[104]
2004年
開幕から7月まで主に2番中堅、8月に打順を坪井智哉と交代した後はプレーオフ終了までビッグバン打線の1番で起用される。3月28日、開幕2戦目となる大阪ドームでの大阪近鉄バファローズ戦で吉田豊彦から「北海道日本ハム」としての球団第1号本塁打を記録。5月30日、函館市千代台公園野球場での西武ライオンズ戦で張誌家からNPB通算1000本安打を達成。
球宴でホームスチール
前半戦最終試合(札幌ドーム)で受けた入団後初のヒーローインタビューと後日の取材にてオールスターゲーム出場について触れ「MVPは僕のものです」と宣言する。7月11日、第2戦(長野オリンピックスタジアム)3回裏二死三塁の場面(バッテリー:元同僚の福原忍矢野輝弘、打者:同僚の小笠原道大)で、三塁走者の新庄は捕手が投手に返球した瞬間にスタートを切り本塁にヘッドスライディング。投手からすぐさま送球されクロスプレーでセーフとなり、球宴史上初となる単独本盗を記録[注 15]ヘルメットが脱げていた新庄は腹ばいのまま、両手両足で地面を叩き続けて喜びを表現する。このプレー直前に新庄は三塁塁上から三塁ベースコーチを務めていた松中信彦へ本盗敢行についての相談を行い、三塁側の相手ベンチの中には新庄の意志を知って本盗敢行を笑いながらあおり立てる選手達もいた。この試合では二塁打2本を記録して、球宴通算打率を.382とし当年開催終了時点30打席以上の選手として歴代5位となる[105]。また本盗での決勝点と合わせチームの全2得点も記録して、先の宣言通りにMVPを獲得。ヒーローインタビューでは、この年起こったプロ野球再編問題を受け「これからはパ・リーグです」と宣言する。[106][107]
走者追い越しでサヨナラ「フェンス越え」安打
プロ野球再編問題から発展した日本初のプロ野球ストライキ明けの初戦となる9月20日の福岡ダイエーホークス戦(札幌ドーム)試合前に「一昨日、昨日と試合できなくてゴメンJoy」と称し、森本稀哲島田一輝石本努、坪井智哉との同僚外野手5名で『秘密戦隊ゴレンジャー』のかぶりものパフォーマンスを実施する(他人と合同では初実施)[108]。プレーオフ進出争いを繰り広げる中での試合では、4-8で迎えた4回裏に新垣渚から左翼へソロ本塁打を放つ。更に9回裏にはチームが9-12から12-12の同点に追いつき尚も二死満塁とした場面で打席がまわり、三瀬幸司から4回の本塁打時と同じく左翼フェンス奥の三角形の空間へ打球を運ぶ[109][100]。この場面で一塁走者の田中幸雄は歓喜のあまりに新庄を二塁の手前で迎え、二人は抱き合ってその場で一回転。この動作により新庄は前位の走者(田中)を追い越した事になりアウトとなる。しかし新庄は一塁まで到達していて、彼のアウトより先に三塁走者が本塁へ到達していたのでサヨナラ勝ちは成立する(二死からの場合、追い越し行為による第3アウトより先に本塁へ達している走者の得点のみが認められる。同点であったため、この得点をもってサヨナラとなりスコアは13-12)。新庄の記録は追い越し行為がなければ記録されるはずのサヨナラ満塁本塁打ではなく、サヨナラ適時打単打)となる[110]。サヨナラ本塁打の取り消しは過去3例目であるが、取り消された結果でもサヨナラ勝ちのままとなる例、また個人の記録がサヨナラ記録のままとなる例は初めてである(「幻の本塁打一覧」を参照)。また仮に本塁打が成立していたとすれば、個人通算サヨナラ満塁本塁打のNPBタイ記録(2本)となるところであった。新庄はアウトとなっているがダイヤモンドを一周し、本塁付近でチームメイトから手荒い祝福を受ける。この後、田中から本塁打を単打にしてしまった事を謝罪され、新庄は「いいんです!何言ってんですか、勝ったんだから」と笑顔で返す[注 16][111]。ヒーローインタビューでは「今日のヒーローは僕じゃありません、みんなです!」と発言[110]。更に「明日も勝つ!」と宣言して、阪神時代にはお立ち台でその言葉を発すると翌日チームは負けるというジンクスが報道されていたが、翌日も勝利する[58]
この年は猛打賞を12回(チームは該当試合で11勝)、打率.298(リーグ16位)とそれぞれ自己最高を記録。7月から9月はいずれも月間打率3割以上を残し、7月には下旬に『スパイダーマン』のかぶりものパフォーマンスを行った試合から5試合連続マルチヒットを記録。8月には中旬から7試合連続マルチヒットとリーグ月間最多二・三塁打(11本)を記録。9月には15試合で安打し(無安打は1試合)、前述したサヨナラ安打の試合から3試合連続本塁打するなど、それぞれリーグ月間最多の7本塁打、20打点、15得点を記録して月間MVPを受賞。守備でもリーグ外野手最多272刺殺を記録するなど、球団移転初年度でのプレーオフ進出に貢献。第1ステージにて自身NPBポストシーズン初出場を果たす。11月の日米野球にファン投票選出されるも、シーズン終盤から悪化させた右太股裏痛を理由に出場を辞退する。受賞は他に、ベストナイン、ゴールデングラブ賞、JA全農Go・Go賞3回(歴代年間最多)、日本プロスポーツ大賞功労賞など。
2005年
1番中堅で開幕して、打順は5月中旬より7月中旬の故障までは主に5番で起用される。4月23日、東京ドームでのオリックス・バファローズ戦で日米通算1500試合出場を達成。6月5日、ナゴヤドームでのセ・パ交流戦・中日戦で山本昌から日米通算200号本塁打を達成。11日、甲子園での古巣阪神戦で本塁打を打った際に阪神ファンからも拍手を受け、打法名「オレを育ててくれたこの球場に感謝打法」と命名する[109]。7月上旬より自身初の3試合連続猛打賞を記録するも、19日に死球を受けて右手小指球部を挫傷した後は、その影響により登録抹消期間もあり出場がまばらとなる[112]
この年は規定打席に到達できず。ゴールデングラブ賞を外野手部門最多得票で受賞するが、授賞式を欠席し、「今年の俺のゴールデングラブ賞はおかしい。1年間この賞を心の中で目指して取り組んでいた選手に申し訳ない。来年からは、印象ではなく数字で選んでほしい。そうでないとこの素晴らしい賞の価値がなくなってしまう」と談話を出す[113]
2年契約満了のため結んだ再契約は新庄側の希望で1年契約、年俸は自身最高の推定3億円[注 14]となる。プライベートではベストフォーマリストを受賞。

新庄劇場[編集]

2006年
この年、阪神時代の監督であった中村勝広がオリックスの、野村克也東北楽天ゴールデンイーグルスのと同リーグ球団監督に就任し、ロッテのボビー・バレンタイン監督(2001年メッツ時代の監督)と合わせ、3人の恩師と対戦する事となる。1年間を6番中堅でほぼ固定起用される。自身の発案で「ファイターズ超満員大作戦(43,000プロジェクト)」と銘打ち、何かやりますと予告していた3月25日の開幕戦(対楽天・札幌ドーム)試合開始にあたり守備へ就く際に、自身がハーレー・ダビッドソントライクを運転して入場し場内を周回して守備位置へ向かい、続いて他の先発メンバーもそれぞれサイドカーの助手席に乗車して守備位置へ向かうというパフォーマンスを、満員となった観客の前で実施[114][115]。これを皮切りとして、この年の試合前に本格的なパフォーマンスショーを行った3試合はいずれもチームが勝利を収める(「新庄劇場#試合前パフォーマンスショーの例」を参照)。
開幕直後の引退表明
4月18日、東京ドームでのオリックス戦にて、1本目の本塁打を「28年間思う存分野球を楽しんだぜ。今年でユニフォームを脱ぎます打法」と命名する事により、試合中に開幕直後にもかかわらず当シーズン限りでの現役引退を表明。そしてヒーローインタビューで改めて引退を宣言する。尚、引退を表明する命名を最後に2004年より続けてきた本塁打への打法命名を封印する。
引退表明からシーズン後半にかけてマスコミの注目度は日に日に増し、新庄のグラウンド内外におけるパフォーマンスは「新庄劇場」と形容されて連日のように報道される。
襟付きアンダーシャツ問題
30日の福岡ソフトバンクホークス戦へ出場した際、ユニフォームの下に着用していた襟付き練習着についてマナーの問題で物議を醸す。自身は試合前に審判団へ同品を着用しての出場可否確認を求め、前川芳男パシフィック・リーグ審判部長の「現行規則では明記されていないため、今後の検討材料にする」との判断により着用許可を得ていた。試合中から試合後に渡り、相手球団の監督、フロントが苦言を呈し、審判団の協議の末「今後は着用しての試合出場不可」と通告を受ける[116][117](更なる物議、新庄の意図も含め「新庄劇場#襟付きアンダーシャツ問題」を参照)。
6月16日、札幌ドームでの広島戦で佐々岡真司からNPB通算200号本塁打を達成。阪神時代の1991年にプロ初スタメン出場した試合でプロ初三振を喫した相手でもあるプロ入り同期の佐々岡とは、互いの節目の記録において縁があり、1998年には佐々岡の通算1000奪三振目を喫している。7月、現役最後となるオールスターゲームの第1戦(明治神宮野球場)にて、守備での好捕などでSANYO賞を2つ獲得して優秀選手賞を受賞。8月22日、岩手県営野球場での楽天戦で渡邉恒樹から日米通算1500本安打を達成。9月15日、2007年夏の参院選への出馬を自民党民主党が要請していたことが判明するが出馬せず[118]
引退セレモニー
27日、レギュラーシーズン最終戦となる札幌ドームでのソフトバンク戦にて、この日限定で背番号をプロで最初に背負った「63」に変更。これに伴い、元々「63」だった渡部龍一も1日限り「68」に変更する。チームがレギュラーシーズン1位通過を決めた試合後に引退セレモニーが行われる。場内を消灯して大型ビジョンに流された野球人生を振り返るVTRを、中堅の守備位置から新庄の恒例となっている帽子の上にグラブを被る姿で見守った後、ユニフォーム、グラブ、リストバンド、タオルをその場に置き、涙を浮かべながらグラウンドを後に。ユニフォームを脱いで現れたアンダーシャツの背中には「今日、この日、この瞬間を心のアルバムに刻んで、これからも俺らしくいくばいっ!」とファンへ向けるメッセージがプリントされていた。スピーチは行わなかったが、去り際には大型ビジョンに「残りわずかな野球人生 明るく楽しく 白球を追い掛ける事を 今日この日 みんなに約束します」と署名つきの直筆メッセージが表示された。尚、球団はこの時点では新庄の引退を認めておらず(シーズン終了後に慰留するため)、このセレモニーは球団ではなく自らがプロデュースしたものであり、先の引退表明を東京で行った事に対する地元ファンへのけじめの意味合いも込められていた[119][120]。予定通り、翌28日に渡部と共に背番号を戻す。[121]
CM出演契約中であるダイドードリンコD-1 COFFEEの「SHINJO引退記念缶」が10月2日より12月まで限定発売され、同時に「SHINJO引退記念キャンペーン」も展開される。また、札幌パルコなどでは引退記念グッズショップが設置される[122]。自身NPBでは初めてのリーグ優勝を決めたプレーオフ第2ステージ(対ソフトバンク)の2試合通算で6打数2安打1打点(第1戦の勝利打点)を記録[123]
自身初出場の日本シリーズで、日本一を達成して引退
日本シリーズ後の11月に予定される日米野球にファン投票でトップ選出されるも出場辞退を表明し「日本シリーズで完全燃焼したい」と語る。シリーズで対戦した中日のアレックス・オチョアは、新庄がジャイアンツ時代に2002年のワールドシリーズで対戦したエンゼルスの選手としても出場しており、両者は日米のシリーズで選手として対戦した初めての例となる。このシリーズでチームは4勝1敗で44年ぶり2度目の日本一に輝き、個人5試合通算17打数6安打1打点を記録。10月26日の最終第5戦(札幌ドーム)8回裏、涙を流して入った現役最後の打席では、中里篤史からの全3球ストレート勝負にて空振り三振に倒れる。最終回の守備、二死からアレックスのレフトフライで日本一が決まると、捕球した森本稀哲マウンド方向へではなく打球を追ってきている中堅手・新庄の方へ向かい走り出し、両者は左中間で抱き合う[124]。そして、両者はマウンド付近にできている歓喜の輪へ向かい歩き出すが、新庄は涙を流し、まともに歩く事が出来なかった。その後、選手、首脳陣、スタッフ達の方が外野へ向かい歩いていって左中間で抱擁し合い、胴上げが監督より先に新庄、小笠原道大田中幸雄大社義規前オーナーの遺影を掲げた現オーナーの順に行われる。日本ハム入団会見で掲げた2つの目標である「札幌ドーム満員」と「チームの日本一」を共に達成してユニフォームを脱ぐ。
翌27日に札幌ドームのグラウンドで引退会見を行い、引退後の活動方針については明言を避ける。11月のアジアシリーズについても、気力と体力の限界を理由に出場を辞退する[125]。11月8日、10度目のゴールデングラブ賞を受賞する。18日、札幌で行われた優勝パレードに私服姿で参加し、これが日本ハムの新庄としての最後の姿となる[126]。シーズン中から引退撤回を求めるファンが署名活動を行い[118][119]、球団からも撤回要請を受けていた。しかし本人の意思は固く、球団側は手続き上、自由契約とする事を勧めるが、新庄側の希望で任意引退となる。

現役引退後[編集]

現役引退後はタレントへ転身。また、エアブラシアートエアブラシを使用する絵画制作及びメイクアップ)やモトクロス競技の練習に取り組んでいる。
2007年
1月28日、2003年を最後に休止していた自身の公式サイトの更新を再開して、今後の活動の方向性などを報告。3月1日、2006年度ゴールデン・アロー賞・スポーツ賞を受賞。5月10日、COTTON USAアワードを受賞。6月21日、前年に行った寄付について紺綬褒章を受章(#社会貢献活動を参照)。12月28日、志保夫人との離婚を自身の公式サイトにて連名で発表[127]
2008年
1月28日、(株)レハサフを設立して取締役に就任。業務内容はアスリート、アーティスト等のマネジメントやコスメティックアパレルグッズの企画、販売など。自身の公式サイトを自社のものと共同として、名称「CLUB SHINJO」から「LHSF_COLONY」へ変更。レハサフはこの年の5月より新庄の元同僚・森本稀哲とマネジメント契約を結んでいた期間がある[128]。5月18日、福岡Yahoo! JAPANドームでのソフトバンク対日本ハム戦の始球式投手として余興ながら森本と1打席の真剣勝負を行う(「新庄劇場#始球式」を参照)[129]。11月23日、札幌ドームでの日本ハムのファンフェスティバルにて特設スペース「SHINJOコーナー with ひちょ」が設置され、自身及び森本のプロデュース商品などが販売される[130]。28日、ホテルオークラ東京にて「2009年 新庄剛志 全計画」と題し、翌年の自身の活動予定(自社商品の開発#プロデュース商品を参照)、俳優歌手地方競馬の馬主(後述)、画家)を発表。初の絵画個展を29日より年末にかけて開催(#個展を参照)。
2009年
絵画制作モデルとして購入する馬が競走馬となる予定である事から、地方競馬馬主資格を取得していた。同馬はタノシンジョイ号と命名され、9月に初出走で勝利し、翌年には中央競馬へも一度出走する(#所有馬を参照)。また、この年には映画『僕たちのプレイボール』製作のエグゼクティブプロデューサーを務める[131]。同作品主演・小原裕貴が11月1日の日本シリーズ・日本ハム対巨人第2戦(札幌ドーム)にて始球式投手を務めた際に付き添いとしてグラウンドへ姿を見せ[132]、その後の同試合テレビ中継にて初のプロ野球解説を担当する(#メディア出演詳細を参照)。
2010年以降
2010年頃にタレントとしての所属をレハサフへ移す。同年前半を最後にメディア出演はなくなり、以降インドネシアバリ島に住居を構え滞在する。現地へは以前CM撮影に訪れた事がきっかけといい、現役引退後すぐに始めた絵画制作に加え、2011年よりモトクロス競技の練習を開始。また地元の子供達への簡単な野球指導も行っている[133]。2011年8月初旬、新庄の父親の通夜・告別式にてメディアに映る[134]。9月8日放送のTBS世界の強運実話!もってる人グランプリ』にて2年ぶりにテレビ番組へ出演し、以降も仕事などの度に日本へ帰国している。10月、球団買収される予定の横浜ベイスターズ(現、横浜DeNAベイスターズ)の買収企業がDeNAとなる場合の次期監督の最有力候補に挙がっていると『サンケイスポーツ』が23日より複数回に渡り報じるも実現せず[135]。12月9日、野球殿堂入り候補者名簿・プレーヤー部門に掲載される(#評価を参照)。
2012年11月18日の阪神対巨人OB戦(甲子園)には参加しなかったが、川藤幸三・阪神OB会長からの要望を受けてバリ島の自宅及びモトクロス場で収録したビデオメッセージがイニング間に大型ビジョンで放映される。この模様および現地での生活ぶりが12月29日のダイジェスト番組(日本テレビ)で松村邦洋のリポートによる特別企画として放送される。2013年にレハサフの取締役から離れる[3]。日本国内では以降も時折ではあるがCMやテレビ番組出演等でメディアに登場している。

人物[編集]

現役引退について[編集]

開幕直後の引退表明

2006年4月18日、恩師である中村勝広監督が率いるオリックス戦(東京ドーム)2回裏にダン・セラフィニからソロ本塁打しホームインすると、普段とは異なり外野応援席方向へ向かい、ヘルメットを脱いで深々と一礼した。攻撃が終わり守備位置に就くと再びファンに一礼(阪神時代途中からファンの新庄コールに対しては、一礼からガッツポーズに変えていた)。しばらくすると、恒例の本塁打の打法名が「28年間思う存分野球を楽しんだぜ。今年でユニホームを脱ぎます打法」と発表され、開幕直後にもかかわらず当シーズン限りでの現役引退表明がなされた。7回裏に金子千尋から満塁本塁打すると三たびファンに一礼し、今度は打法命名がなされなかった。チームが勝利して受けたヒーローインタビューでは、冒頭からしばし沈黙した後に自らマイクを握り「ええ…今日、ヒーローインタビューという最高の舞台で報告したいことがあります。タイガースで11年、アメリカで3年、日本ハムで3年…。今シーズン限りでユニフォームを脱ぐことを決めました」と観衆に改めて宣言した。引退を決意した決め手は開幕戦で観客満員を達成した事であり、早ければその翌日にでも表明するつもりで荒井修光専属広報など一部の球団関係者には事情説明がなされていた。またこの日の表明に踏みきった理由として、東京ドームが一軍初出場時の球場である事も明かした。翌19日の試合前には、この早い時期に引退表明を行い驚かせた件、また決意を一部にしか伝えていなかった件を現場の人間へ詫びており、トレイ・ヒルマン監督へは「1人でも多くのファンに球場へ足を運んでもらいたいから」と説明した。これに対しチームメイトも理解を示した[136][92][137]

引退理由

概ね以下のような理由を挙げている。

  • 守備の衰えと体力の限界。[138]
  • 開幕戦で観客満員を達成して夢が叶い「自分の仕事は終わった」という達成感。[137]

動体視力の低下に関しては、2006年の開幕後1週間ほど経った試合から急に投球がかすんで見えだし、特に右投手のカーブと左サイドスロー投手の投球が見えなかったとの事。視力の件を現役中はチーム関係者へも明かしていなかった[139]。尚、MLB時代の2002年頃には原因不明の目の痛みを抱えていた[140]

エアブラシアートについて[編集]

現役引退後よりエアブラシアートエアブラシを使用する絵画制作及びメイクアップ)に取り組み、特に引退後すぐに始めた絵画制作には没頭している。

絵画制作

作品数は2009年2月時点で30作を越え、数作品を公式ブログにて公開中で、個展の開催経験もある(#個展を参照)。作品の売却収入もあり、代々の自宅にはアトリエを設置している。2008年11月23日放送の日本テレビ行列のできる法律相談所 ~有名人100枚の絵でつなぐ カンボジア学校建設プロジェクト~』の主旨に賛同して制作した作品をチャリティーオークションへ出品。賛同理由として、前年に出演した日本テレビ『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』の企画にてカンボジアへ行き、現地住民の厳しい生活状況を目の当たりにする経験があった。出品作品は「青空・夕空・夜空」を描いたものでタイトル「Shinjo is Shinjo」と名付け、北海道在住の日本ハムファンの人物により300万円で落札された。

メイクアップ

エアブラシをメイクアップに応用した新技法(エアブラシメイク)にも取り組んでおり、アメリカ・ハリウッドで生まれた同技法の日本での普及を目指す活動のプロデュースを手掛けている。エアブラシメイクの複合ビル「HOLLYWOOD AIR TOKYO」(東京都渋谷区)の2009年のオープニングセレモニーではエアブラシによるテープカットを行った。[141][142]

モトクロス競技について[編集]

前述の絵画制作に加え、2011年より移住先のバリ島モトクロス競技の練習を開始してプロレーサーを目指している。郊外の自宅近所に練習場(日本円にして1000万円規模)を開設して、地元住民へも無料開放している[4][143]。2012年には日本のスポーツランドSUGO成田亮と共に走行練習を実施した[144][145]

人物像[編集]

阪神で同僚時のマーク・ジョンソンは新庄について「No.5にはカリスマがある。彼が打つと甲子園は世界一熱狂的なボールパークになる」と評した(No.5は当時の背番号)[51]。MLB時代頃から「野球を楽しむ」といった発言が目立ちはじめ、日本ハム移籍以降は同僚へも「楽しもう」と声をかけ、試合中でさえ笑顔をみせる時があった[146]。渡米した2001年以降には、その楽しそうにプレーする姿を指した愛称「SHINJOY(シンジョイ)」が浸透した[147]マスコミに対しては、自身から取材陣の方へ出向いて朗らかに話すとストレスはたまらないという事をアメリカで学び[148]、その独特の喋り口は「新庄節[注 17]と称され、2004年のユーキャン新語・流行語大賞にノミネートされた[149]。また現役引退宣言で沸いた2006年の同賞には「SHINJO」「新庄劇場」がそれぞれノミネートされた[150]。開幕早々に引退宣言して日本一を経験できたラストシーズンについて自身は「(強運を)もってるわ、俺。本当にこの漫画みたいなストーリー、出来すぎてません、これ? 今後俺、体に気をつけたいと思います」と総括した[151]

ファンサービス

独自に考案したファンサービスも積極的に行った。

日本ハム時代の新庄について当時のヘッドコーチ・白井一幸は「チームの勝利最優先の精神を徹底して貫き、自分が三振してもチームが勝てば素直に喜べる選手だった。当初は単なる目立ちたがり屋なのではないかと思っていたが実際は全く違い、常にチームの勝利、ファンに喜んでもらえる事を最優先にしていた」と評した[152]ヒーローインタビューなどでの質問に対して「そうですね」などと前置きしてから返答すると話が間延びしてしまうという持論から、自身は即答する事を心掛け、日本ハムでは一部の同僚へもこれを薦めた[153]。また「観客」という言葉は球場以外で観ている人間の事は指さないため「ファン」という言葉を使う事、日本ハム時代には本拠地を札幌ではなく「北海道」と言う事に拘り、マスコミに対してもそう指導していた[154][155]。日本ハム時代には試合で活躍してお立ち台の依頼を受けても、他に活躍をした後輩へ譲る事が幾度かあった[112]。また、自身が赤色をトレードカラーとする(後述)ように後輩へも各自の色を持つよう薦めたり[121]かぶりものパフォーマンスに同僚も誘って実行した。同僚も巻き込んでファンサービスに力を注ぐ狙いは、自身以外へも興味を持ってもらい新たなファン層を開拓するきっかけづくりにあり、後輩の森本稀哲は新庄の引退後もその役割を引き継いでいる[156][157]。同じく後輩の稲葉篤紀も新庄の姿勢に学び、プレーとファンサービスの切り替えができるようになったと語る[158]

選手生活晩年には選手としてのファッションに関する話題が多く報じられたが、それ以前からファッション的な事に限らず、球界に前例のない行動が目立った。引退を前にした現役最終年には「ファンのために選手個々がいろいろなことを最初にやる勇気を持ってほしい」と球界全体に訴え、これからは選手のファッション性も向上しないと集客できなくなってしまうと危惧した(「新庄劇場#襟付きアンダーシャツ問題」を参照)。こういった派手で破天荒な言動が日本ハム移籍後には「新庄劇場」と称されて目立ったが、試合前パフォーマンスなどの事前に各方面へ了解を取りつけるなど、周囲に対する配慮もあった[152]。漫画家の水島新司は「新庄ほど常にファンのことを考え、楽しんでもらおうと思っている選手はいない。日本プロ野球界において、たった一人で球場を満員にできる唯一の選手だ」と評している[131]

トレーニング

幼少期から努力している姿を人には見せなかったと新庄の父親は語り[159]、プロ入り後も同僚からの「個人練習している姿を見つかるとやめてしまう」といった証言がある[143]。走塁時の瞬発的なスピードを維持するため、あえて長距離走の訓練は避けていた。「ジーンズがはけなくなるから」と阪神時代途中までは下半身強化をしていなかったが、怪我防止のために考えを改め鍛えてみると、下半身は太らない体質であると判ったという[160]。MLBで太股に肉離れを起こして以降は、故障箇所をカバーする筋肉をつけるため、ジーンズの着用も止めてハードな筋力トレーニングを続けており、日本ハム時代の同僚の岩本勉は、新庄が鬼気迫る表情でバーベルを担いで片足屈伸を続ける姿を目撃した時には、圧倒されて声をかけられなかったと語る。

性格

幼い頃から相撲大会で負けて泣いた翌日には再挑戦し優勝するなど負けん気の強さを持っており、阪神時代晩年以降は敗戦後のコメントを例え自身が活躍していても控えていた[161]。反面、幼少時の得意のかけっこでは足の遅い友達を待ってゴールし、先生に「この子はタイムが計れない」と言わしめたというなどのエピソードがあり、現役時代には幾度か自身の代わりに若手選手の抜擢を監督へ進言した事がある(2003年オープン戦にメッツ同僚を、2006年リーグ戦に森本稀哲を[162](「q:新庄剛志#日本ハム時代語録」参照)、2006年日本シリーズに紺田敏正[163]など)。

裕福ではない家庭に育ち、高校時代に冬場の練習での寒さにたまりかねて革製手袋が欲しいと言い、初めて親に物をねだると、父親は自分の手が荒れるのも構わず仕事用の軍手を買うための予算を使い購入してくれた[164]。新庄は幼い頃から将来の親孝行を誓っていたという。幼い頃から父親より「不言実行」の教えを受けてきたが、自身は目標ごとについては「有言実行」を目指す考えである。阪神時代から時々の目標を積極的に公言し、MLB初打席初安打や2004年のオールスターゲームMVP獲得も事前のインタビューで予告していた[66][165]。その動機は、目標を公言する事で実現できなければ恥ずかしいという感情をモチベーションにすると頑張れる性格であると自己分析するからである[166]。現役引退後も目標を掲げる発言は目立つ。

トレードカラーと背番号・登録名

好きな色は「」。一軍定着と共にトレードカラーとして定着し、NPB在籍時はリストバンドなどで主に赤色のものを着用した。「赤=新庄剛志」で覚えてもらおうとプロ入り時から決めていて、一軍デビュー時には周囲からの「赤は派手すぎる」という声もあったが、活躍出来ない事には恥ずかしい派手な色を着用して自身を追い込みたかったという。[167]

好きな数字は「1」。シンプルで格好いいからという。1992年オフに球団より背番号63からの変更を打診された際には「1」、もしくは憧れを抱くダリル・ストロベリーや目標とするランディ・バース[29]が着用した「44」を希望したが、両方とも空き番ではなかった[168]。変更となった新背番号5に愛着を持ち、以降三度の移籍の際にも同番を背負い、その後 日本ハム移籍時に念願の「1」へ変更した[注 18]

また同時に登録名はNPB初となるイニシャル以外でのアルファベット表記「SHINJO」とした[注 2]スコアボードの選手名表記が縦書きの球場ではアルファベットが縦に綴られて表記された。既に従来の漢字表記での知名度が高かったため、新聞などで漢字表記をする例が多かったほか「SHINJO効果」[注 19][25]や「新庄劇場」などのフレーズでもアルファベット・漢字の表記が混在した。引退した翌2007年に、名前の読みが同じ「ツヨシ」であり親交も深い西岡剛が登録名を「TSUYOSHI」へ変更した際には事前に相談を受けた[169]

外国語

アメリカでは自身の時間や精神的余裕を確保するためにも専属通訳を通して取材を受け、チームメイト等とは大きなジェスチャーを交えコミュニケーションをとっていた[170]。また「q:新庄剛志#MLB時代語録」の黒人選手とのエピソードも参照。

社会貢献活動[編集]

復興支援

1995年に所属する阪神の地元で起きた阪神・淡路大震災の際に、球団選手会副会長として同僚と共にの支援募金活動などを行った。2001年に所属するメッツの地元をはじめとする地域で起きたアメリカ同時多発テロ事件の際には、同僚と共にの支援物資運搬などを行った[171]。2004年に起きた新潟県中越地震の際には、出演したラジオ番組イベントや自身の写真展での支援募金活動で集まった寄付金とポケットマネーを合わせた義援金と、クリスマスイヴ前には小型ケーキ約2000個を被災地へ贈るなどした。同じく2004年に起きたインドネシア・スマトラ島沖地震の被災地へは、翌年の自身の本塁打数に応じた義援金を贈るなどした。

SHINJOシート・個人広告看板

日本ハムに入団した2004年より引退した2006年まで自費で、本拠地札幌ドームでの主催試合の外野左翼席に野球少年達などを無料招待する「SHINJOシート」を毎試合126席ずつ用意し[172]バックスクリーン上方の看板スペースの右翼側2枚分に個人広告看板を連ねて掲示していた。この看板はSHINJOシートから見えやすい位置にあり、2枚共に同じデザイン(向かって右側は拡大されたもの)で、自身の個人マークなどが描かれていた[100]。尚、現役最終の2006年のみ向かって右側の1枚のデザインを、自身のイラスト(#登場する作品を参照)が喋るふきだし(中には何も書かれていない)が描かれたものに新調し、観客満員達成時にはふきだし部分へメッセージを入れると宣言。そして満員となった開幕戦の翌日以降は「札幌ドーム43,000ファン ヤバい 感動だぜっ!!」と書き入れられていた[151]。また2005年より2006年までは準本拠地・東京ドームでの主催試合にもSHINJOシートを用意していた。

札幌ドームのバックスクリーン上方に合計7枚ある広告看板のうち、向かって右側より水色系・赤色系の2枚が新庄のもの(2006年)
寄付

2005年8月、母校の西日本短期大学附属高等学校野球部が前年の夏の甲子園に出場した事を称えマイクロバス(車種はトヨタ・コースター)を寄贈し、「甲子園史上最大の差入れ」と話題になった[173]。2006年6月に達成したNPB通算200号本塁打を記念してメモリアルバットが製作され、その販売収益金1000万円を「北海道の青少年のスポーツ振興のため」として道へ寄付した。寄付金は道内スポーツ少年団の競技用具購入のために活用され、この件について道内の子供達から感謝の手紙を、高橋はるみ知事から感謝状を受け取り[174]、翌年に紺綬褒章を受章した。

「新庄」と名のつく市町村との交流

阪神時代の一軍デビュー後に、山形県新庄市・奈良県北葛城郡新庄町(当時)・岡山県真庭郡新庄村が新庄剛志の人気にあやかり村おこしの一環として友好自治体共同事業協議会「新庄会」を創設した後、剛志を1993年11月より現役引退まで公式に応援した[175][176]。同会は1994年に創設記念の阪神公式戦「新庄ナイター」(甲子園)を開催し(参照)、以降も球場での応援活動も行った[177]。剛志も現地への訪問歴があり、新庄村は1998年に剛志が訪村してクリスマスイベントなどへ参加した12月13日を「SHINJYO DAY」と称して、翌年以降約10年間続ける村役場などでのクリスマスイルミネーションの点灯日を同日としていた[178]

対人関係[編集]

首脳陣

プロ入り時の二軍打撃コーチであり、阪神で長年に渡り指導を受けた柏原純一を師匠と慕う。二軍時代には夜遅くまでの指導など、強く後押しを受ける。一軍での初本塁打やMLB移籍の際にも真っ先に報告したという[179]。新庄の父親は著書で柏原の指導法について「見守り続けた上で、わかりやすい言葉で端的に伝える」やり方が、自身の教育方針とも合致して息子と相性良かったとの旨の記述をしている[180]。新庄は1995年オフに柏原が阪神から退団したのをきっかけに、自身もトレードを希望した(詳細)。

阪神で最後に仕えた野村克也監督は新庄の守備・走塁に関しては、敵将の時代から一流と評していた[181]。打撃に関しても潜在能力は認めていて、就任1年目から度々スタメン4番に据え、初抜擢の際には「地位が人を育てる」と理由を説明した。翌2000年に新庄は過去最高の打撃成績を残し、著書に「ウマが合った。選手個人の性格をうまく見抜いて、それを利用する」「監督の言葉で力を出すことができた」などと記した[182]。また「q:新庄剛志#阪神時代語録」及び「q:新庄剛志#日本ハム時代語録」のエピソードも参照。

阪神でのプロ生活最初の監督であった中村勝広は、当時の新庄を褒める事主体で指導していたと振り返る。また中村は新庄のMLB1年目(2001年)の活躍の要因について、当時のメッツ・ボビー・バレンタイン監督の「褒めちぎって、乗せて、力を発揮させる」指導法が大きかったと想像すると語った。2003年オフの新庄のNPB復帰の際に、オリックス・ゼネラルマネージャーの中村と、実際にオファーを出した千葉ロッテの新監督バレンタインは、獲得に興味があったと語っている[183]。また移籍先となった日本ハムのトレイ・ヒルマン監督は、新庄と前所属メッツ時代(2003年)のアート・ハウ監督との確執が報道されていた件について独自に情報収集を行い、新庄の個性を尊重した上での指導法で接した[92]

チームメイト

阪神時代の同学年の広沢好輝とは親友で、阪神時代から日本ハム時代まで自主トレーニング等も共にした[184]。広沢は引退後に『週刊ベースボール』よりMLB1年目の新庄付特派員として派遣された。後輩の坪井智哉とは2球団で同僚となり、日本ハム移籍を決断するにあたり、先に阪神から移籍していた坪井の存在が大きかったと語る。移籍後はかぶりものパフォーマンスも共に行った。

阪神時代のマーク・ジョンソントニー・タラスコ、日本ハムではフェルナンド・セギノールなど、来日する外国人選手とすぐに打ち解けあい、著書では来日後の早い段階で放出される阪神の外国人選手を擁護する記述をしている[185]。ジョンソン、タラスコとは2001年メッツのスプリングトレーニングで再会し、ジョンソンとは同年のみであるがメジャーで共にシーズンを戦い、日米でクリーンナップを組んだ経験のある間柄となる。同年の背番号5は前年のジョンソンより譲られた番号であり[186]、翌年以降も互いの移籍や引退により、二人は2000年 - 2003年の期間に一年交代でメッツの「5」を背負っている。

ジャイアンツへの入団時、中堅を守る予定の新庄は左翼手のバリー・ボンズから「オレはホームランを打つから、守備はおまえに任せるよ」と伝えられた[187]。誰もが一歩距離をとってしまう存在であったボンズとの親交を深め、日本ハムでの3年間のホームゲーム打席登場曲として、同僚時のボンズが起用していた『The Next Episode』(ドクター・ドレー)を起用している[188]

日本ハム時代の後輩の森本稀哲と師弟関係を築いている。新庄の日本ハム入団が決まった頃の森本はコーチ等の指導にもあまり耳を傾けておらず伸び悩み、同じ外野のスター選手の加入を快く思っていなかったが、新庄から打撃や守備を毎日根気強く教わるうちに「初めて自分のためを思って言ってくれている」と感じて慕いだしたと語る[124][189]。前述の坪井と同様に かぶりものパフォーマンスも共に行った。新庄は現役最後の日に自身の背番号1の森本への継承を希望し[190]、現実となった。また「q:新庄剛志#日本ハム時代語録」及び2006年の日本一決定時のエピソードも参照。

日本ハム時代の同学年の岩本勉とは、チームを北海道に定着させるという方向性が一致した事もあり意気投合。タッグを組んでキャンペーンに精を出すなど友好を深めた。日本ハム時代の後輩の小笠原道大とは「ウマが合わない」などと報じられがちであったが、2006年のリーグ優勝決定後の合同記者会見にて、小笠原は「日本シリーズを制覇して監督はもちろん、ツーさんを胴上げしたい」と発言。これを聞いた新庄は「感無量」と語った[146]

球団関係者

ドラフト時に九州地区を担当した渡辺省三スカウトは新庄の気持ちが前へ出る性格も評価したというが、当初阪神としては上位指名を投手中心と決めていたため、他球団から上位指名されると予想する新庄の指名をほぼ諦めていた。このためヤクルトを除く11球団スカウト[191]が新庄家を訪問した中で渡辺は比較的簡略に挨拶を済ませていて、しかも新庄本人と父親は留守であった。よって新庄は渡辺と指名後に初めて対面したが好印象を抱いたという。入団後も渡辺は病気がちだった新庄の父親の事をいつも気に掛けてくれ、1995年の引退騒動の際にも「親父さんは元気か。心配掛けるなよ」とだけ電話をもらい感激したという。1998年8月31日に渡辺が神戸市内のビル屋上から謎の転落死を遂げた直後の試合となる翌9月1日・ヤクルト戦(甲子園)7回裏の2点を追い掛ける攻撃で、川崎憲次郎から1点差と迫る本塁打を放った。善戦するも敗戦の試合後、「今の自分があるのは渡辺さんのおかげ。どうしても勝ちたかった」と話した。[192]

他球団関係者

1992年に新庄から得意としていたパームボールを甲子園左翼席へサヨナラ本塁打(参照)された広島・大野豊は、その打たれ方のタイミングや飛距離を受けて、それを機にパームを投げるのを封印した。新庄は1997年のオールスターゲームにて応援ボイコットなどを受けた試合後にベンチで落ち込んでいた際、大野から「若いもんが、そんな暗い顔をしとったらいかん」と励まされた事に感激し、後に「他のチームの人から、あんな優しい言葉を掛けてもらったのは初めてでした」と振り返った。[193]

佐々木主浩とは阪神時代のオフに佐々木のラジオ番組へゲスト出演するなど親交があり、1995年の対戦にて放った本塁打性の打球が応援旗により阻まれた件について、もし妨害がなければ本塁打であったか否かを言い合うという。

2006年限りでの引退を発表後の9月10日・オリックス戦(京セラドーム大阪)で、相手チームの清原和博から贈られた労いのメッセージ入りのバッティンググローブを着用し、現役最後となる本塁打を放った[194]。その後2008年に引退試合を迎える清原に対して、自身が現役最後のオールスターゲーム(参照)で着用したバッティンググローブを贈った。

2006年の日本シリーズ(参照)での現役最後の打席は、全3球ストレート勝負を受けての三振であった。この時 涙を流しながら打席に立つ自身に対して、阪神時代から長年に渡り対戦してきた中日・谷繁元信捕手が1球目の見逃し後に「泣くな、真っ直ぐいくぞ」と言ってくれたように思ったという。[125]

プライベート

2000年に自身初のホームゲーム打席登場曲として福山雅治の曲を起用し、これに対して福山は自身のコンサートでステージのバックに阪神の球団旗を掲げて演奏し感謝の意を表した。そして新庄がこの年のコンサート前の楽屋に福山を訪ねたのを機に親しい間柄となった[195]。また、日本ハム時代にも福山の数曲を登場曲として起用した(#登場曲を参照)。

ファッション・趣味・好物など[編集]

服装

阪神時代初期にヴェルサーチの服などを愛用[196]。幼い頃から西崎幸広選手のスーツ姿をテレビで観て同ブランドに憧れていたという。MLB~日本ハム時代にはドルチェ&ガッバーナの服などを愛用した[197]。下半身の下着は着用済みのものを再び着用する事は少ないという。

香水

球場においてもベンチの汗臭さにたまりかねて、タオルやリストバンドに香水をつけていた。引退後には香水の類の商品開発にも携わった(#プロデュース商品を参照)。[198]

ヘアスタイル

染髪を好み、緑色や金色に染めた事も。帽子を被って乱れた髪型は見せたくないとの理由から、球場ではベンチにおいても常に帽子を着用している。日本ハムが移転した2004年に北海道内の理髪店で新庄のような髪型への注文が頻発したのを機に、理容組合北海道日本ハムファイターズ後援会が球団とコラボして、2007年より毎年の最新ヘアデザイン「ファイターズスタイル」のモデルを若手選手の中より選出する企画が始まった[199]。引退後にアデランスのCMに出演する際には「アデランスをしているのは誰?」というクイズ形式のCM内容の正解役となるため丸坊主にした[200]

阪神時代に、打撃時に食いしばり欠けた歯が痛くて集中力が低下し、食事も満足に出来ない時もあったため、また黒ずんだ歯が嫌であったため、約500万円かけて真っ白い歯(歯冠補綴物)に総入れ替えした[201]。歯に関する一般アンケート調査において、オリコン調査「歯がキレイだと思う有名人」男性部門で初回2006年より3年連続第1位に選ばれるなどした[202][203]

愛車

自動車好きであり、阪神時代の契約更改へ訪れる際に運転してくる車種を頻繁に替えるため、自動車専門誌記者までが取材するほど知られるところとなった。1993年:ランボルギーニ・カウンタック[204]、1994年:ポルシェ、1995年:ランボルギーニ・チータ[204]、1996年:メルセデス・ベンツなどである。MLB移籍決定後には所有するフェラーリをオークションにかけ、「僕のフェラーリ売ります」というCMにも出演した[205]

食生活

ひどい甲殻類アレルギーのため、エビカニが全く食べられず、エビを主原料とするスナック菓子でも無理だという[206]。少年時代から少食であり[207]、一番の好物は母親手製の黄粉餅というように大の甘党である。市販のデザートにはヨーグルト等に付いている砂糖を入れて食べるという。フジテレビとんねるずのみなさんのおかげでした「新・食わず嫌い王決定戦」』に過去2回出演した際に告白した嫌いな料理は、缶詰(果物の缶詰が苦手で桃自体は好む)、おはぎ粒餡が大の苦手である)。

メディア出演詳細[編集]

テレビ番組

2004年1月2日放送のフジテレビクイズ$ミリオネア』に解答者として出演。スタジオでの応援として坪井智哉ライフライン(テレフォン)の待機として山田勝彦岩本勉伊達昌司木元邦之らの同僚も出演した。ライフラインを使い果たし解答に迷った際には、鉛筆(各面に選択肢を記入した)を転がして上となった面の選択肢を選ぶという方法をとり、全15問正解し賞金1000万円を獲得。この賞金を2004年分の札幌ドーム・個人広告看板設置費用の一部に使用した。[208]

2009年11月1日、フジテレビ『BASEBALL SPECIAL 2009〜野球道〜 日本シリーズ 北海道日本ハムVS巨人第2戦』(札幌ドーム)の中継にて、初のプロ野球解説を清原和博と共に担当。冒頭の挨拶にて、清原と一緒だから解説依頼を受けた事、今回が自身最初で最後の解説である事を告白した。試合中は「(自身の引退後にプロ入りした)巨人・坂本勇人を知らない」「いくら言っても生で観ないと分からない」と、解説よりも日本ハム選手との交流エピソードを主に話した。[209]

CM

新庄という姓を文字ったキャッチコピーが使われた事があり、“新庄式 = 新常識”(日本ハム「モーニングサーブ」)、現役引退した翌年明けに"イッシンジョーの都合でデューダしました”(一身上。インテリジェンスデューダ」)[210]である。

大塚製薬オロナミンCドリンク」CMの2004年からの上戸彩主演バージョンの初代相手役として出演。キャッチコピーのセリフは、上戸「元気ハツラツぅ?」に対し、新庄「OF COURSE!」。新庄が2004年のオールスターゲームでのヒーローインタビューにて最後を締めたセリフは、上戸の「元気ハツラツぅ?」であった(当時は既にこの二人のバージョンは放送終了していた)。この共演に関連する翌年のエピソードとして「新庄劇場#始球式」を参照。

アメリカ映画2作品の日本公開のCM出演経験もあり、後述する。

映画イベント

2004年11月、『ナショナル・トレジャー』のロサンゼルスでのプレミア試写会にて、プロデューサーのジェリー・ブラッカイマーや主演のニコラス・ケイジらと親交を深めた。その縁で同作品の日本公開(翌年5月)の宣伝プロデューサーを務め、テレビCM企画及び出演、新聞広告用のキャッチコピー製作、イベント参加など宣伝部門全般を担当した。2007年にはブラッカイマー制作3作品『デジャヴ』(CM出演)、『パイレーツ・オブ・カリビアン/ワールド・エンド』、『ナショナル・トレジャー リンカーン暗殺者の日記』の日本公開応援プロジェクトの総合プロデューサーを務めた[211]。他には2003年11月のブラッカイマー作品『バッドボーイズ2バッド』の日本公開特別試写会トークショーにて、日本ハム入団を非公式に発表した[98]。またブラッカイマー作品以外では、2005年の『スター・ウォーズ エピソード3/シスの復讐』日本公開記念イベントの一環として、5月の公式戦始球式に現役選手として登板した(「新庄劇場#始球式」を参照)[212]

新庄語録[編集]

愛称[編集]

プリンス
冠がつく場合もある。阪神時代:「虎の〜」「浪速の〜」「〜 オブ タイガース」。日本ハム時代:「北の〜」「球界の〜」。[27]
SHINJOY(シンジョイ)
『SHINJO(新庄)』+『「ENJOY(楽しむ)」または「JOY(喜び)」』の組み合わせ。メッツ時代の2001年、楽しそうにプレーする新庄をニューヨークの地元新聞記事がこう表現した[147]。引退後には所有する競走馬名の一部に使用した。また阪神時代の登録名のアルファベット表記「SHINJYO」の下2文字を入れ替えた綴りでもある。
宇宙人
他人には予測できないパフォーマンスや性格から。名付けたのはヤクルト監督時代の野村克也。後に阪神の監督となり、新庄が敬遠球をサヨナラ安打とした際にもこう称した。[213]
ツー
名前の「つよし」という読みから。阪神時代に親友の広沢好輝らから呼ばれて、その継承。日本ハム時代は同学年である岩本勉らから「ツーやん」、後輩から「ツーさん」と呼ばれた。[214]

パーソナルデータ[編集]


※ 出典を付けていないデータ:1993年[218]、2001年[219]

野球選手としての特徴[編集]

守備において、NPBリーグ外野手のレンジファクター(RF/G)年間1位を3回(1993年、1998年、2004年)、2位を4回(1994年、1996年、2000年、2006年)記録[220]。MLBでは2002年にリーグ外野手及び中堅手の同指標(RF/9)1位を、リーグ中堅手のTotal Zone Runs(TZR)2位を記録[82]。外野守備機会で日米通算100補殺以上を記録している。しかし本人が引退後のテレビ番組[221]出演時に告白した事実として、1997年9月27日ヤクルト戦(神宮)と推定される試合[注 20]において、飛球に対し故意にスタートを遅らせて刺殺しなかった経験がある。その動機は、早く負けて帰り遊びたかったからであるという。

打撃において、年間での打率3割や30本塁打に到達した経験はない。生涯成績ではNPB通算200本塁打、日米通算1500安打といった節目の記録に到達している。

走塁において、年間盗塁数は一桁台の年が殆どであるが、阪神時代にチーム内年間最多盗塁数を3回(1993年、1997年、2000年)記録している[60]

守備[編集]

高校時代から外野手であったが、プロ1年目の1990年に志願して遊撃手へ転向し[23]、一軍デビュー後のコンバート歴は、1991年・遊撃手→1992年・三塁手→遊撃手→中堅手定着である(詳細は後述)。

内野守備[編集]

プロ1年目に中日・立浪和義の守備から刺激を受け、志願して遊撃へ転向する[23]。1992年の三塁での出場はトーマス・オマリーの故障期間中の措置であり、その後 久慈照嘉の故障中の遊撃を経て7月に中堅へ戻り定着するも、翌1993年1月のコーチ会議で遊撃への再コンバートが決まる。春季キャンプにて久慈とポジションを競うも守備力評価で劣り、腰痛の影響や首脳陣による「遊撃を守る事によりパワーのある打撃の長所を消してはいけない」との判断もあり、キャンプ中に中堅へ再び戻り、そのまま外野手としてキャリアを終える。[222]
主に三塁に就いた1992年6月(月末は遊撃)にJA全農Go・Go賞・好捕賞を受賞する。尚、阪神時代晩年には初の二塁、また遊撃、三塁へ試合中の移動で数度ずつ就き、また三塁へは1994年、1999年のオールスターゲームでも就く。[注 21]

外野守備[編集]

全般
主に就いた中堅手のポジションを、投手の動きがよく見えて投手へ助言出来るからと好む。尚、左翼右翼守備の経験は、阪神時代のオールスターゲーム日米野球での人員不足時にあるほか、MLBでは毎年 両翼にも就き、2001年は左翼46試合、中堅53試合、右翼39試合と万遍なく就く。
守備理論に独自の合理性のもと拘りを持ち[223]、日本ハム時代の外野守備走塁コーチ・平野謙や左中間コンビを組んだ森本稀哲はその理論には驚く点があるという[224]
ポジショニング
ボールカウントなどの状況や打者の特性に合わせて、細かく守備位置を変える[225]。また中堅から両翼の外野手へ指示を送るリーダー的存在である期間が長く[226]、自身が二塁守備へまわった際にも、その場から先輩外野手へ合図を数度送っている[51]
構え
自身は少年野球の子供達にも向けた提言として「投手の投球モーション時に上半身を屈める構えは、外野への打球の大部分である飛球の場合に上体を起こす事で一瞬目線が浮き上がり、それだけでスタートが遅れてしまう。自分の場合は常に上体を起こして体の力を抜いた状態でいて、小刻みなステップを踏みながらスタートのタイミングを計る」と解説する。[217]
打球判断
投手の投球方向より打球方向を予測してから打球が放たれるまでの間に2歩ほどスタートを切っていると、自身は語る[227]。元同僚外野手・本西厚博は新庄の守備の優れている点として「打球を予測する嗅覚」を挙げ、また飛球落下地点を予測すると、そこへ全速力で到達できるよう一旦打球から目線を切って走る、用語でいう「目が切れる」外野手であると解説する[228]
走者が次々塁を狙った場合に余裕で補殺できると判断すると、狙わせる為にあえて捕球を遅らす[220]
捕球
平凡な飛球でも落下点へ入った後に軽くジャンプしながら捕球するというスタイルであり、これは高校時代に先輩が2階から落とす生卵を割らないようにキャッチするというトレーニングを行って身に付けたものである。阪神時代に少年野球の指導者より、野球少年に悪影響を及ぼすと指摘された事を機に大熊忠義コーチと結んだ、もし落球した場合はやめるという約束により一時封印して以降は[229]、引退までこのスタイルを貫く。自身はその利点について「走り込んできて、フライ性打球は上方向、ライナー性は横方向へ早めにジャンプして、その頂点で打球を見る事で目線が一瞬止まり(ぶれを防ぎ)、打球の急な変化に対応できる。そして着地しながら捕球する事で、打球の勢いを吸収できる[217]。更に着地後には、その勢いですぐにスローイング(送球)できる」と解説し、これらを知人から「新庄式野球力学」と からかわれるという[223]。このスタイルはアメリカで「Shinjo hop」[230] 「Shinjo's crow hop」[注 22]と称されている。[46]
MLBでのトレーナー経験もあるフィジカルトレーニングスーパーバイザー広戸聡一は、新庄の追った飛球に正対する前の体勢での捕球について「新庄の肉体の一番の特長である柔らかさ、しなやかさが日本人離れしている上半身を自在に操り、顔は正面を向いて捕球できている」といい、2001年に行った背面キャッチの様に顔さえも正面を向けない状態でも、顔の近辺で捕球できていると分析する。また自身曰く、グラブの先が届くかどうか微妙な打球に対しては僅かでもボールへの距離を縮める為に、左肩の関節を外すという。[217]
ダイビングキャッチを行う選手であり[231]人工芝上で、袖の無いアンダーシャツを着用して腕を晒した状態であっても敢行する[232]
送球
ゴロ打球に対して全速力で前進してきて体が前に流れた時など、体勢が悪くスローイングへの体重の溜めを作れない状態でも、体全体のバランスと腹筋背筋などの上半身を生かして良い送球ができていると栗山英樹は解説する[17]。送球の球筋が変化してしまう場合には、ブルペンで投げ込み修正している[233]。また強度の投げ込みを行い、肩と肘の張りをつくるという独特の調整法もとる[234]
捕球してから送球するまでの動作時間が速い[228]。内野手の中継に送球する前の飛球捕球や、跳ねたクッションボールを素手の右手で捕る際などには、スローイング体勢に入りながら捕球する[235]
日本ハム時代の遠投は130m程であり[236]、球界の人間からも強肩と評され[237]、MLB時代には新庄の遠距離補殺をテレビ実況が「ロケットアーム」と称した。1997年のオールスターゲーム試合前の投球スピードコンテストでは147km/hを記録する[238]。阪神時代の送球は普通の外野手と比べると、塁上の受け手に走者が走る距離にして2 - 3mは早く到達しているであろうと、対戦経験から横浜・三塁ベースコーチ担当時の青山道雄は語る[239]。また阪神で同僚時の定詰雅彦捕手は新庄からの本塁送球について「きれいなストレートの球質。ワンバウンド送球時、手元までグゥーと伸びてくるので、どこでバウンドするか判らない。彼の強肩なら、送球が内野手の頭上を通過するノーバウンドのバックホームをしたとしても、打者走者は送球間の二塁進塁を狙わないと思う」と語る[238]
その距離の遠近を問わない強肩の要因について前述の広戸聡一は、柔軟な上半身をフルに使えているといい、肩のユニットだけではなく(テニス等のサーブ時にも必要とされる)全身をしならせて、最後に腕を強く振る事ができていると分析する[217]
他の野手との連携
他の野手の守備へのバックアップを怠らない[240]。MLB時代の2002年には中堅手としてランダウンプレイに加わり刺殺を記録した[241]
2000年5月25日の中日戦(甲子園)6回表同点無死一三塁の守備で、打者・レオ・ゴメスが打ち上げた左翼定位置付近への飛球に対し左翼・坪井智哉が一旦落下点に入るが、そこへ中堅・新庄が声で自身の到達を知らせながら走り込み(坪井から譲られて)捕球し、体勢を整えないまま体を捻りながら本塁へ送球し走者・李鍾範を補殺した。この守備について福本豊(前年の阪神外野守備走塁コーチ)は、当時の阪神外野手陣は「補殺を狙える場面の打球において肩の強い中堅・新庄が捕球出来る場合は優先して捕球を譲る」と取り決めていたと語る[17]。MLB時代の2002年には中堅の守備位置から走り込んで右翼守備をカバーして補殺した事もある(詳細)。
日本ハム時代、左翼・森本稀哲、右翼・稲葉篤紀との外野陣を2005年に10数試合、現役最終の2006年には1年を通して形成し、3人揃って2006年ゴールデングラブ賞を受賞した(同一チーム選手で同賞の外野手部門独占は1978年阪急ブレーブス以来 史上2回目)。この両翼の2人と「左(右)中間への深い打球を捕球→体勢が悪い時は相手にトス→トスを受けた方が補殺を狙う」という連携を時折行った。
日本ハムでは投手交代時に外野3選手が中堅の位置に集まり、立て膝をついて膝を突き合わせ、グラブを帽子の上に被ってミーティングするシーンが恒例となった(新庄の発案)。2006年の日本シリーズ第4戦では、外野3選手の他に内野でも4選手が集まり同じポーズをとってミーティングする姿が見られた[242]。新庄の引退後も日本ハム外野陣はこのポーズでのミーティングを続けている[243]
その他
日本ハム時代には「走者がいる場面で後方への飛球を追い、刺殺は無理でフェンスに直撃すると判断すると、咄嗟に振り返って打球に正対する体勢を一度とり、塁間で打球を見極める走者に一瞬「捕られる」と思わせてタッグアップに備えリタッチさせるなど惑わせて、結果的にその走者の進塁を明らかに一つ少なく抑える」というトリックプレーを稀に行った。

投手挑戦[編集]

1998年秋季キャンプより外野手との兼務(二刀流)を目指し投手としての練習を開始して、翌年3月5日のオープン戦(対巨人)においての初登板でリリーフの1イニングを三者凡退に抑え、球速143km/hを記録(藤崎台県営野球場)。その後もオープン戦数試合に登板し、福岡ドームでは最高の145km/hを記録した。この挑戦について、自身は「センターの守備位置からリリーフ登板してみたい」と発言するなど乗り気であり、発案者の野村克也監督は「打撃時に活かせるよう、投手心理を理解させる為」「あれだけの強肩の持ち主。どんな球を放るか元捕手として純粋に興味がある」「下半身の使い方を覚えたら150km/hは出る」などと説明。しかし傾斜のあるマウンドからの慣れない投球動作により、また当時の痛をかばって投げていた事も影響してか、左を痛めた為に挑戦は断念した[244]
高校時代は外野手であったが、1年秋・新人戦の準決勝・決勝ダブルヘッダーにおいて、エース投手の故障による代役として連続完投勝利を記録した。自身は「投手は好きではなかったし、コントロールもなくカーブなどの変化球が投げられなかった」と振り返る。当時の監督で新日本製鐵堺硬式野球部監督時代に野茂英雄を発掘した浜崎満重は、新庄を投手として育てなかった理由について「外野守備に天性のものがあった。加えて、性格的に常に一生懸命投げるから肘を壊しかねず、素直なので打者に球種を読まれる恐れがある」と説明した[245]

打撃[編集]

全般
投球初球からでも積極的にスイングする[246]。新庄の打撃の特徴について、敵将の時代の野村克也(ヤクルト)からは「状況によらず、強引に長打狙いのフルスイングをする」と評され[247]、同じくヤクルトの捕手として長年に渡り対戦した古田敦也からは「狙い球を変えずにヤマを張ってフルスイングし、腹をくくって打ってくる。例えば1・2球目にカーブが連投されたのに対し、直球を待っていたと予想される空振りを連続でした後の、(一般的に打者は空振りした球種を次も待つ傾向にあるので)今度はカーブを狙ってくるであろうと投げられた3球目の直球に対し、またも直球を待っていたと予想されるスイングで本塁打を打つ(そのようにして打たれた経験がある)。一般的な打者に対してのマニュアルから外れるという意味で嫌な打者」と評された[248][249]。特に阪神時代は成績不振と打撃コーチが頻繁に交代する事も影響して、打撃フォームの試行錯誤を繰り返し、一枝修平ヘッドコーチからは「10人の新庄がいる」と評された[36]
左投手に対しての成績は右投手に対してより良い場合が多く、大差がつく場合もある。MLB時代の2年目中盤以降は左投手の時限定での起用が多い[90]。比較的に直球を得意とし、変化球を苦手とする。高校時代に1番打者起用された理由は変化球への弱さにもある[5]変則投法に対し苦手意識があり、日本ハム時代に右アンダースロー渡辺俊介(ロッテ)からは安打できず「フォームが崩れるから」と同投手との対戦を避ける傾向にあった(対戦17試合で6打数3三振。2006年は対戦6試合で打席なし)[250]
2000年に年間自己最多28本塁打を打ち、そのうち「先制、同点、勝ち越し、逆転」の殊勲本塁打は20本。MLB通算の満塁時打率は.400(25打数10安打)で特に初年度2001年は.583を残し、同じく2001年にチーム最多タイとなる勝利打点11を挙げるなど[77]クラッチヒッターであるとの声が挙がった[75][74]。日米通算での満塁本塁打は9本、サヨナラ安打は10本(そのうち本塁打4本)である。
打撃において最も影響を受けた打撃コーチは、プロ入り時の二軍担当で後に一軍でも指導を受けた柏原純一であり、すり足打法(後述)や敬遠球を打つ練習などの試行錯誤を共にした(#対人関係も参照)。一軍デビューして定着するまでの間には佐々木恭介、その後 阪神では長崎慶一山内一弘などから指導を受けた。自身の打撃に対する考えや談話の中には「思いきり振っただけ」などのように単純明快な表現があるが、コーチ在任時の長崎は若手時の新庄について「あの年齢であそこまで(打撃について)考えている選手はいない」と評している[251]。打撃復調へのヒントを求めて、グラウンド整備担当者などのスタッフや荒井修光専属広報(日本ハム時代)に対して自身の状態を尋ねたりもする[252][253]
構え
両手を伸ばしてバットを高く掲げ、呼吸をするように幾度か全身の背伸びを繰り返す。この待機の仕方は「ジャック打法」と呼ばれた(由来は童話『ジャックと豆の木』より[254])。この待機法は形を変え、時には行わず、MLB2年目頃まで続けた。MLB1年目には相手チームから「両手を上げた脇の下から捕手が出すサインを覗いているのではないか」という疑惑をかけられた事もあるが、以後も自己スタイルを貫くと疑惑は消えていった[254]。この待機法の全身が伸びきった状態を描いたイラストレーションを自身の個人マークとして、グッズなどに使用している[255]。また、新庄をモノマネするタレントの神奈月は、演じる際に新庄の特徴としてジャック打法のポーズを強調する。
フォーム・スイング
一本足打法の時期が長い。阪神時代後期にはマーク・マグワイアを参考にするなどした、すり足打法の時期もある[256]。1998年秋季キャンプにて新監督の野村克也より受けた質問「バッティングには右手(右打ちの新庄にとって送り側)と左手(引き側)のどちらが重要な意味を持つか?」に対して、左手だと考えると答えた(それに対して野村は両方とも大事であると指導)[257]
柏原コーチ指導のもとで年間本塁打・打点の自己最多を記録した2000年シーズン序盤、自身はそれまでバットスイングにおける最大の弱点とされたドアスイング(トップからインパクトにかけてバットヘッドが遠回りをして出てきてしまうスイング)について「昨年まではバットを棒のように使ってしまっていた」と表現し、好調の要因については「バットをのように使って打てた」「バットヘッドの重みと投球のスピードを利用して打てた」などと表現した[28]。2005年6月12日の阪神戦にて阪神甲子園球場左翼席中段まで本塁打を運んだ事もあり[109]前述の広戸聡一は、新庄の打球に長飛距離が出る要因について「優れた上半身を生かしてのインパクトへの強い伝達能力」と分析する[217]
日本ハム時代、自身は右腕の筋力が左に比べ強くなりすぎたことを気にしていたが、白井一幸ヘッドコーチのアドバイスでアッパースイングでバットを振ることで打撃成績が向上している。
本塁打となると自身が確信する打球を放った直後にバットを高々と放り投げ[258]、この行為は後述の行為と共にMLB1年目に相手チームより挑発的と解釈されたものであるが、放り投げる理由にはグリップに滑り止めの松脂を多量に塗っていて手が離れにくい事情もある[259]
バント
セーフティーバントやセーフティー気味の犠牲バントを時折、4番打者の際にも記録した。2004年のオールスターゲーム第2戦では、1回表の先頭打者としてプレイボール前に左翼席を指差し予告本塁打のポーズをとった後、初球でセーフティーバントを敢行して一塁アウトとなった。スクイズプレイの経験は殆んどない[260]

走塁[編集]

ベースランニング
一つ塁を回って以降のトップスピードが速い[261]。右打席でスイングが大きいため一塁までのタイムは4.4秒と平均を下回る[262]。高校時代の直線100m走タイムは11.7秒[15]
スライディング
阪神時代にヘッドスライディングを行い左肩を二度故障して以降はこれを封印していたが、2004年のオールスターゲーム第2戦では球宴を盛り上げるためにと試みた本盗時に敢行している。[263][106]
打者走者として一塁へ駆け込む際では珍しい、守備側選手との接触を回避するための足からのフットファーストスライディングを渡米以降に稀に敢行し、2001年の「カミカゼ・スプリント」と称される併殺を阻止した走塁の際にも足から滑り込んでいる。
その他
本塁打を打ったホームイン時に時折、手で触塁する。この行為は前述の行為と共にMLB1年目に相手チームより挑発的と解釈されたものであるが、手を使う理由はベースを土で汚さないためであり、球審から礼を言われた事もあるという。[68][264]

評価[編集]

NPB
2011年12月9日、野球体育博物館「平成24年・第52回競技者表彰委員会・野球殿堂入り候補者名簿」のプレーヤー部門に掲載された。得票は5で翌年の名簿から外れた。[265]
日本プロ野球選手会が2000年より毎シーズンオフに行っている「選手が選ぶ!ベストナイン・中堅手部門」アンケートで、2004年、2006年に選出された。[266]
2010年のオールスターゲームに出場の「選手が選ぶ思い出のオールスター・ランキング」アンケートを中継局・テレビ朝日が行った結果、2004年に成功させたホームスチールが7票を集め第1位に選出された。投票者は、井口資仁青木宣親前田健太、他4名。
北海道日本ハムファイターズ札幌ドーム内の球団事務所を2012年に大幅改修した際、1階会議室の3部屋それぞれの部屋名に「北海道に移転してからの球団の功労者」として、トレイ・ヒルマン、新庄、ダルビッシュ有(入団順。序列の有無は不明)の3人の姓のアルファベット表記を使用した。[267]
MLB
Deadspinが2011年発表の"The 100 Worst Baseball Players Of All Time: A Celebration"に「But They Had Good Points(しかし、彼らは良い点を持っていた)」というグループで選出された。[268]

野球用具[編集]

アドバイザリースタッフ契約
※ 2002年、2003年のアシックス社はスパイクシューズのみの契約(デサント社はスパイクを製造していないため)[271]。現役最終の2006年は特定の企業と契約していないが、プーマ社から衣装類の、ルイ・ヴィトン社から野球バッグ類の提供を受けるなどした[272][273]
グラブ
  • メーカー不明:外野手用
プロ入りして初めての給料を使い7,500円で購入し、MLB時代の同僚に誤ってスパイクシューズで踏まれて大きく破損したりと4回の大補修を重ね、現役引退まで使用した[125][274]。ひとつのものを長年使い続けるプロ外野手は稀であるが、これには父親からの「商売道具を大事にしろ」という教えが影響を及ぼしていた。保管の際の湿気などにも気を配り、自身の「もうひとつの手」と称する拘りの代物で、他人がはめる事を許さなかった。冗談交じりながら「もし盗まれたら引退する」と語った事もある[217]。引退会見では、前日の最後の試合でライナーを捕球した際に破けたりと、消耗度合いが限界まで達していると語った[125]。2011年に父親が死去した際に、このグラブもに納めた[134]
打球の手元での急変化に対応するため、ポケットが、土手・中央・ウェブ・ウェブ先端の4か所にあり、ウェブ先端部分からボールが半個分ほど外側に飛び出した状態でも捕球できると語る[217](その状態で捕球した映像は、阪神時代に広島市民球場で本塁打性打球を捕った時など、幾度かテレビ中継されている)。使用時は手との固定のため、守備用手袋に松脂を塗布する。グラブ外側の親指部分に「 (TH) 63」(阪神球団マークと入団当初の背番号)と黒色で刺繍を入れている[275]。現役最終年には、手首(甲側)の商標位置にオリジナルタグを縫い付けていた(デザインは自身の個人マークと「Shinjo」の筆記体表記)[276]
高校時代は久保田スラッガー社製・外野手用を使用。特注品であり、同社へ送付した自筆の手紙に書かれている各パーツなどについての注文事項詳細がテレビ番組にて紹介された。受注した「日本屈指のグラブ作り・型付け名人」として知られる江頭重利は、あんなにも事細かな注文を受けた経験は過去にないと語る。
バット
  • デサント社製:34.5インチ・930 - 940g(1993年[218]) → 長さ不明・900g未満(1998年[5]) → 33.5インチ・910g(1999年[5]
  • オールドヒッコリー社・ロックメープル[注 23]:34インチ・890g(2006年)

他人より譲り受けたり借りたものも試合で時折使用し、2001年には全10本塁打中9本をジョー・マクユーイングプレストン・ウィルソンのもので打っている。[277]
バッティンググローブは主に両手にはめる。試合途中のテンションが上がった打席では、両手とも素手にする時がある。
ダイレクトプロテクト[194]を使用し、同品の普及以前の若手時は右手親指にスポンジを巻いていた[278]
エルボーガード
打撃時の投手側に向ける肘を死球から守る防具。1993年当時、同品はまだ普及しておらず、7月に死球を左肘に受け負傷した事を機に、既存の爪先ガードを切り刻み改良し、即席で肘にフィットするものを球団トレーナーに作成してもらい着用していた[279]。MLBで初めてエルボーガードが着用されたのはこれより後年との報道(『日刊スポーツ』)もあり、現在では普及している同品の類を早い時期から着用し始めている。また通常は打撃用であるが、外野守備時のダイビングキャッチに備え着用する事もある。
自打球対策のフットガード爪先からの中間位まで覆うもの)も時折着用する。
スパイクシューズ
長年の足の故障を考慮しての改良を度々行い、主にミドルカットタイプを着用。[280]
ユニフォーム
NPB時代はチームのユニフォームを製作し個人契約も結んでいるデサント社(日本ハム時代はビジター用が同社製。ホーム用は契約のないミズノ社製)へ特注して、上着は既製品と比べて胸元部分が深くV字型に開き、袖部分が短くタイトなものを着用[281]。また日本ハム時代はズボンや帽子にも見た目を良くする加工を施す[275]
アンダーシャツは主に、汗が首筋をたれ落ちるのを防ぐためのタートルネックで、夏場はノースリーブのものを着用。ノースリーブの製品が普及していない阪神時代初期には長袖製品の袖部分を切り落としていて、タートルネックでノースリーブのものを着用した選手はNPBでは自身が最初であろうと語る[282]。尚、日本ハム時代にはNPBで初めて首部分に自身の個人マークをプリントする[283]など、様々なデザインのものを着用する[275]
阪神時代初期にズボンの裾を足首付近まで下ろす穿きこなしが一般化して以降は、ほぼ全試合に裾を下ろして出場する[284]。裾を下ろし始めた当時のアンダーストッキングは、通常2枚穿く靴下類の代わりにサッカー用のものを1枚のみ着用。これは規則では禁止であるがこちらの方が都合が良く、皆も真似しだしたという[282]
リストバンド
主に長いものを両手に着用し、日本ハム時代には短いものを2枚(隙間をあけて)ずつ着用する事も。色はNPB時代は主に自身のトレードカラーである赤。MLBではチームカラー以外の用品の着用は認められず、所属したメッツ・ジャイアンツ両球団のカラーに赤色はないため、主にオレンジ色を着用[285]。前述以外の色では主に阪神時代にツートンカラー(赤色×黒色)、紫色、黒色など。日本ハム時代にはチェッカーフラッグ柄や水玉柄などの柄物も着用。[286][275]

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1991 阪神 13 17 17 1 2 0 0 0 2 1 0 0 0 0 0 0 0 3 1 .118 .118 .118 .236
1992 95 378 353 39 98 16 3 11 153 46 5 2 3 0 18 0 4 73 11 .278 .320 .433 .753
1993 102 436 408 50 105 13 1 23 189 62 13 2 0 0 20 3 8 91 6 .257 .305 .463 .768
1994 122 506 466 54 117 23 7 17 205 68 7 5 2 2 30 0 6 93 9 .251 .304 .440 .744
1995 87 346 311 34 70 15 3 7 112 37 6 4 2 2 26 1 5 76 6 .225 .294 .360 .654
1996 113 473 408 55 97 16 4 19 178 66 2 2 1 3 55 6 6 106 10 .238 .335 .436 .771
1997 136 539 482 62 112 17 3 20 195 68 8 4 0 4 44 0 9 120 7 .232 .306 .405 .711
1998 132 451 414 39 92 21 3 6 137 27 1 2 4 2 25 4 6 65 4 .222 .275 .331 .606
1999 123 507 471 53 120 21 7 14 197 58 8 2 2 1 23 2 10 72 21 .255 .303 .418 .721
2000 131 549 511 71 142 23 1 28 251 85 15 6 3 2 32 7 1 93 10 .278 .321 .491 .812
2001 NYM 123 438 400 46 107 23 1 10 162 56 4 5 4 2 25 3 7 70 8 .268 .320 .405 .725
2002 SF 118 398 362 42 86 15 3 9 134 37 5 0 3 3 24 2 6 46 5 .238 .294 .370 .664
2003 NYM 62 124 114 10 22 3 0 1 28 7 0 1 2 1 6 1 1 12 0 .193 .238 .246 .483
2004 日本ハム 123 544 504 88 150 28 3 24 256 79 1 3 12 4 15 0 9 58 6 .298 .327 .508 .835
2005 108 406 380 54 91 20 1 20 173 57 5 1 5 2 14 1 5 64 6 .239 .274 .455 .729
2006 126 477 438 47 113 21 0 16 182 62 2 6 10 3 24 3 2 76 8 .258 .298 .416 .714
NPB:13年 1411 5629 5163 647 1309 234 36 205 2230 716 73 39 44 25 326 27 71 990 105 .254 .304 .432 .736
MLB:3年 303 960 876 98 215 41 4 20 324 100 9 6 9 6 55 6 14 128 13 .245 .299 .370 .668
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別守備成績[編集]

内野守備成績(ポジション別)




遊撃 三塁 二塁




































1991 阪神 8 6 10 3 2 .842 - -
1992 9 9 18 0 3 1.000 26 13 47 6 3 .909 -
1999 - - 1 0 1 0 0 1.000
2000 2 0 3 0 0 1.000 1 0 0 0 0 - 2 0 0 0 0 -
通算 19 15 31 3 5 .939 27 13 47 6 3 .909 3 0 1 0 0 1.000
外野守備成績
















1992 阪神 65 127 8 1 1 .993
1993 102 236 13 6 1 .976
1994 120 289 4 1 0 .997
1995 87 206 5 3 3 .986
1996 111 248 6 4 1 .984
1997 135 276 13 6 1 .980
1998 124 268 12 4 5 .986
1999 121 247 8 3 2 .988
2000 129 251 8 3 3 .989
2001 NYM 119 256 12 3 3 .989
2002 SF 117 286 10 6 3 .980
2003 NYM 54 98 5 3 1 .972
2004 日本ハム 122 272 8 5 1 .982
2005 106 212 3 2 0 .991
2006 126 271 4 3 0 .989
NPB:12年 1348 2903 92 41 18 .986
MLB:3年 290 640 27 12 7 .982
  • 各年度の太字はリーグ外野手最高

表彰[編集]

NPB
MLB

記録[編集]

NPB初記録
NPB節目の記録
  • 100本塁打:1998年7月25日、対横浜ベイスターズ17回戦(阪神甲子園球場)、2回裏に野村弘樹から左越ソロ ※史上196人目。
  • 1000試合出場:2000年7月20日、対読売ジャイアンツ19回戦(阪神甲子園球場)、4番・中堅手として先発出場 ※史上362人目。
  • 150本塁打:2004年4月21日、対西武ライオンズ8回戦(西武ドーム)、8回表に小野剛から左越ソロ ※史上134人目。
  • 1000本安打:2004年5月30日、対西武ライオンズ11回戦(函館オーシャンスタジアム)、3回裏に張誌家から左前安打 ※史上219人目。
  • 200本塁打:2006年6月16日、対広島東洋カープ4回戦(札幌ドーム)、2回裏に佐々岡真司から右越ソロ ※史上87人目。
NPBその他記録
  • リーグ外野手最多補殺:3回 (1993年:13、1997年:13、1998年:12)
  • リーグ外野手最多刺殺:2回 (1994年:289、2004年:272)
  • リーグ最多三塁打:2回 (1994年:7、1999年:7)
  • リーグ最多死球:2回 (1993年:8、1999年:10)
  • リーグ最多併殺打 (1999年:21)
  • 16試合連続安打 (2000年9月7日・ヤクルト戦 - 9月30日・広島戦)
  • 7試合連続複数安打 (2004年8月15日・西武戦 - 8月24日・ロッテ戦)
  • 4試合連続本塁打:2回 (1996年4月13日・広島戦 - 4月17日・ヤクルト戦、2000年6月8日・巨人戦 - 6月13日・中日戦)
  • 1試合5安打 (2004年8月20日・近鉄戦)
  • ※チーム1イニング2満塁本塁打 (1996年10月9日・中日戦1回 1本目:新庄、2本目:塩谷和彦) ※史上初。歴代最多タイ(2015年終了時点)。
  • オールスターゲーム出場:7回 (1994年、1997年、1999年、2000年、2004年 - 2006年) ※全てファン投票選出。
    • ファン投票リーグ最多得票:2回 (1994年:434,906、1999年:915,773)
    • 単独本盗 (2004年第2戦) ※史上初(2015年終了時点唯一)[注 15]。本盗としては簑田浩二に次いで史上2人目。
    • 7試合連続安打 (1999年第2戦 - 2000年第3戦、2004年第1戦・第2戦)[注 24]
    • 全セ・リーグ通算1000本目安打 (1999年第2戦)
  • 日米野球出場:2回 (1992年、2000年) ※2004年、2006年はファン投票選出されるも出場辞退。
MLB初記録

※ 以下は歴代日本人選手初記録。

MLBその他記録
NPB・MLB通算節目の記録

背番号[編集]

  • 63 (1990年 - 1992年、2006年9月27日)
  • 5 (1993年 - 2003年)
  • 1 (2004年 - 2006年9月26日、同年9月28日 - 同年終了)

登録名[編集]

阪神時代の背ネームの綴りは「SHINJYO[注 25]であったが、渡米以降「SHINJO」に修正された。

登場曲[編集]

阪神時代
MLB時代

日本ハム時代

関連情報[編集]

栄典・野球以外での表彰[編集]

栄典
ファッション関連
その他
  • アクアピースゴールデンハート賞 (2001年) ※アクアピースネットワーク主催。[294]

ファッション関連[編集]

ファッションショー出演
ファッション誌出演
  • GQ』 (アメリカ版:2001年4月)[297]
  • GQ JAPAN』 (2004年5月)
  • FRaU』 (2005年3月) - 表紙をに扮装した姿で飾る。撮影者はピエール・エ・ジルであり、彼らの2006年1月よりの欧州での個展ツアーにてこの作品が展示される。
  • 美人画報』 (2005年3月) - 創刊号。当時の夫人・新庄志保と共演。

表彰

展覧会[編集]

写真展

個展[編集]

絵画展(エアブラシアート)
  • Sinjo's Gallery in Fukuoka "LIFE is ART!" (博多大丸・福岡天神店 2008年11月29日 - 12月7日)[298]
  • Sinjo's Gallery in Hokkaido "Love & Fight!" (札幌PARCO 2008年12月26日 - 12月31日)[299]
  • 北海道日本ハムファイターズ・イベント「乙女の祭典2009 乙女心は永遠に」内 (札幌ドーム 2009年7月10日 - 7月12日)[300]

所有馬[編集]

タノシンジョイ号 全40戦4勝 二着:3回 三着:5回 着外:28回(地方競馬:39戦 中央競馬:1戦(十一着))

品種:サラブレッド 性別: 毛色鹿毛
生誕:2007年4月2日(9歳) 父:ダイタクバートラム 母:ウイルタイムオン 母の父アスワン
生国:日本の旗 日本北海道野付郡別海町) 生産者:野付ライディングファーム
馬主新庄剛志 → 磯部敏夫 調教師岡林光浩船橋競馬場) → 今井輝和(川崎競馬場
馬名の由来:「楽しい」+「シンジョイ
※ 競走生活中に馬主変更、転厩がなされる。[301][302]

プロデュース商品[編集]

プロデュース映画作品[編集]

製作総指揮

出演[編集]

テレビ番組[編集]

他多数


※ 出典:[306]

ラジオ番組[編集]

CM[編集]

亀新フィーバー」と称された1992年のオフに亀山努へのものと共に複数の出演依頼を阪神球団は受けるも、野球への専念を理由に両人の同オフの出演を禁止して辞退する。[308]

1994年
時期不明 (阪神時代)
2001年
2002年
  • サントリー「スーパー・チューハイ」
2003年
2004年
2005年
2006年
2007年
2010年
2011年
2014年


※ 出典:[309]

広告[編集]

※ CM出演(上記)していないものを記載。

音楽作品[編集]

CDシングル
  • 『第II章〜True Love〜』 / 新庄剛志日本コロムビア 1994年3月1日発売) C/W 『最後に笑えたらいいね』

関連CD・VHS・DVD[編集]

マキシシングル
  • 『GO MY WAY/次の光へ』 / MISSILE (ナビーレコーズ 2001年2月7日発売) - 『GO MY WAY』が2001年に出演したナビードットコムのCMテーマ曲であり、タイトル中の「GO」は当時の背番号「5」をもじったものである。[205]
CDアルバム
  • 『SWAY』 / SUITE VOICE (What's New Records 2009年6月17日発売) - ジャケットに新庄のエアブラシアートが起用されている。[315]

VHS

DVD

著書[編集]

単著
  • 『ドリーミングベイビー』 (光文社 2001年4月 ISBN-13: 978-4334972974)
  • 『shinjyo5.net』 (二見書房 2001年6月 ISBN-13: 978-4576010540)
共著
  • 『タイガース中毒読本―1992年ハラハラドキドキの舞台裏』 亀山努、新庄剛志、中込伸ワニブックス 1992年10月 ISBN-13: 978-4847011665)

関連書籍[編集]

  • 『タイガースの革命児―中込伸・亀山努・新庄剛志写真集』 (ソニー・マガジンズ 1992年12月)
  • 『新庄剛志 (ベースボールアルバムNO.115)』 (ベースボール・マガジン社 1992年12月)
  • 『新庄剛志PART2 (ベースボールアルバムNO.116)』 (ベースボール・マガジン社 1993年8月)
  • 『新庄剛志 星を掴む男―新・猛虎伝説ミスタータイガースへの道』 立木義浩ビクター音楽産業第2 1993年9月)
  • 『新庄剛志写真集 (Gakken Mook)』 (学習研究社 1994年4月)
  • 『新庄くんは、アホじゃない!』 中田潤飛鳥新社 2001年4月)
  • 『大リーガー新庄剛志』 高部務 (ラインブックス 2001年5月)
  • 『新庄のお父さん、新庄のお母さん』 新庄剛志ウォッチャーズ (主婦と生活社 2001年7月)
  • 『新庄語録―メジャーリーグ“ニューヨーク・メッツ”新庄剛志』 目津幸太郎 (近代映画社 2002年1月)
  • 『新庄に学ぶ「楽観」の哲学』 三洲田泰雅 (廣済堂出版 2002年1月)
  • 『大リーガー「新庄剛志」の育て方―子育ては“木育て”』 新庄英敏 (ゴマブックス 2002年5月)
  • 『SHINJO』 ジョン・シェイ (朝日新聞社 2003年1月)
  • 『夢のとなりで―新庄剛志と過ごしたアメリカ滞在記』 小島克典メディアート出版 2004年3月)
  • 『元・阪神―そして、ミスタータイガースは去った―』 中田潤、矢崎良一、橋本清、池田浩明、高橋安幸 (竹書房 2004年5月)
  • 『こんなぼくでも英語がしゃべれた』 小島克典 (三笠書房 2005年1月)
  • 『新庄の信条―バカカッコいい男の真実』 宮崎満教、新庄剛志特別取材班 (東邦出版 2006年7月)
  • 『新庄のコトバ』 中田潤 (講談社 2006年9月)
  • 『Thank you to all people 新庄剛志―すべての人に (日刊スポーツグラフ)』 (日刊スポーツ出版社 2006年10月)
  • 『新庄のやり方50―人生・仕事に役立つ「SHINJO流」哲学』 三洲田泰雅、覇夢付愛太 (廣済堂出版 2006年12月)
  • 『SHINJO 夢をありがとう―新庄剛志と過ごしたアメリカ滞在記・北海道観戦記』 小島克典 (廣済堂出版 2007年3月)
  • 阪神タイガースオリジナルDVDブック 猛虎烈伝 選手編(13) 世界のSHINJYO 新庄剛志』 (講談社 2009年11月) ※分冊百科

登場する作品[編集]

漫画

脚注[編集]

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参考資料の略称[編集]

  • 1993BA:『新庄剛志PART2 (ベースボールアルバムNO.116)』 (ベースボール・マガジン社 1993年8月)
  • 2001著書A:『ドリーミングベイビー』 新庄剛志 (光文社 2001年4月)
  • 2002英敏:『大リーガー「新庄剛志」の育て方―子育ては“木育て”』 新庄英敏 (ゴマブックス 2002年5月)
  • 2003シェイ:『SHINJO』 ジョン・シェイ (朝日新聞社 2003年1月)
  • 2006三洲田:『新庄のやり方50―人生・仕事に役立つ「SHINJO流」哲学』 三洲田泰雅、覇夢付愛太 (廣済堂出版 2006年12月)
  • 2007小島:『SHINJO 夢をありがとう―新庄剛志と過ごしたアメリカ滞在記・北海道観戦記』 小島克典 (廣済堂出版 2007年3月)
  • 2007DVD:※DVD 『SHINJO』 (札幌テレビ放送ビクターエンタテインメント 2007年1月)

注釈[編集]

  1. ^ a b c 1998年のワールドシリーズ伊良部秀輝がベンチ入りしたが出場はしていない。
  2. ^ a b c 新庄より過去にアルファベット表記とした例はD・J(ダグ・ジェニングス)をはじめとした外国人選手のみであり、日本人選手としては同年よりのG.G.佐藤(佐藤隆彦、愛称のイニシャル表記)と共に初例となる。
  3. ^ 二軍選手の中から各球団2名ずつ。阪神からは嶋尾康史と共に選出。
  4. ^ 1992年6月創設。後年に球団を応援する組織へと変わる。
  5. ^ 1995年当時はNPBから引退すればMLBへの挑戦が出来る制度であり、自由契約になる必要はなく任意引退でよかった。この年よりMLBへ移籍していた野茂が前年にこれを明らかにし、その後には伊良部秀輝の事例が続き、NPBはMLB側からも球団間での選手獲得機会均等を実現する制度をつくる要求を受ける。そして新制度であるポスティングシステムがつくられ、前述の新庄への取材時には制度が既に確立していた。
  6. ^ a b セ・リーグのオープン戦MVP。出典:『月刊タイガース』1999年4月号9p
  7. ^ 1992年に一軍で初めて中堅守備に就いた当球場では、翌2000年にも同様のゴロ打球後逸の失策を犯しており、1999年、2000年の全6失策の内訳で送球失策もある中、1年に1試合のみの当球場で2年連続して後逸失策を記録した。
  8. ^ a b 2年+球団側が3年目(2003年)の有無を選択するオプション付きの3年契約。活躍次第ではインセンティブで2年目以降に日本円にして億単位の年俸も可能となる付帯事項あり。出典:2007小島・141p
  9. ^ 2004年よりの日本ハム時代の指揮官トレイ・ヒルマンの通訳も、2003年より務める。
  10. ^ a b ニューヨーク・メッツのオープン戦新人賞。球団担当記者の投票により選出される。A Real Award for Fake GamesFaith and Fear in Flushing 2016年元日閲覧
  11. ^ a b MLBではそのチームで最高の打者を4番ではなく3番に置く事が多い。尚、日本人選手初4番スタメン出場も新庄(同年8月3日・ダイヤモンドバックス戦)。
  12. ^ この年誕生の同球団でプレーした初のメジャーリーガーとなり、それを記念して本拠地・キースパンパーク(現、MCUパーク)にブルックリンでの背番号5のユニフォームが展示された。出典:2007小島・211p
  13. ^ a b 通称「新人ベストナイン」。選出対象となる新人扱い選手を両リーグ統一した中で、各ポジションごとに各球団監督の投票により選出される(例えばシルバースラッガー賞のように各リーグごとに選出されるのではない)。
  14. ^ a b NPBに復帰する年の年俸額は規定により渡米前最終年(2000年)の年俸額に準じて決定されるため、2004年よりの契約の年俸額が球団による評価額より低かった分の差額が2006年分の評価額に上乗せされた。
  15. ^ a b 単独本盗企画も史上初。自身としては今回が公式戦や学生時代を含めて生涯初の本盗企画。
  16. ^ 尚、シーズン終了後に球団の三沢今朝治統括本部長はこのサヨナラ安打の査定をサヨナラ満塁本塁打と同様に行うと発表。
  17. ^ 同音同字で山形県新庄市の民謡がある。
  18. ^ それまで同番を着けていた阿久根鋼吉へ事前に自身で電話を入れ、譲渡の了承を得た。
  19. ^ 2004年からの新庄のパ・リーグ移籍が各界にもたらした効果。
  20. ^ 本人は「石井一久投手から満塁本塁打を打った試合で」と発言していて、日米でのキャリアにおいて該当するのは当試合のみのため。
  21. ^ 水島新司の漫画では本職の外野手よりも内野手として出場していることが多い。NPB復帰直後に発売のゲーム『パワプロクンポケット1・2』では、メイン守備は外野であるがサブポジションで遊撃も守れる仕様である。
  22. ^ crow hop(クロウホップ)とは、強い送球をする為の既存の技術。名称の由来は、足の動きがカラス(crow)の飛び立つ様に似ている為。SHINJO BECOMING FAVORITE AMONG FANS IN NEW YORKRecord.com 2016年元日閲覧
  23. ^ メーカー名からヒッコリー製であると思われがちだが、社名の由来は本社がテネシー州グッドレッツヴィルにあるオールドヒッコリー (Old Hickory) という湖のほとりに立つからである。
  24. ^ 2001年 - 2003年は出場していないため記録は継続される(公認野球規則10.23(b))。
  25. ^ この表記はローマ字表記ではヘボン式・訓令式いずれの表記法でも間違いである。
  26. ^ 「テレビ広告電通賞」「最優秀賞(新聞流通・ファッション部門)」「キャンペーン賞」
  27. ^ HEADのアパレル及びアクセサリー関連商品の日本国内における独占製造販売権を有する伊藤忠商事とイメージキャラクター契約を締結。『ヘッド(HEAD)』ブランド 新庄剛志氏とのイメージキャラクター契約について伊藤忠商事株式会社 2016年元日閲覧

出典[編集]

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  17. ^ a b c TBS『ZONE「新庄剛志―その恐るべきポテンシャル」』より
  18. ^ 2009年5月17日放送『Music Lovers』にて発言。
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関連項目[編集]

外部リンク[編集]