中畑清

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中畑 清
20140923 Kiyosi Nakahata manager of the Yokohama BayStars, at Yokohama Stadium.JPG
DeNA監督時代
(2014年9月23日 横浜スタジアムにて)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 福島県西白河郡矢吹町
生年月日 (1954-01-06) 1954年1月6日(66歳)
身長
体重
183 cm
80 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 一塁手三塁手
プロ入り 1975年 ドラフト3位
初出場 1977年7月17日
最終出場 1989年10月29日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴

中畑 清(なかはた きよし、1954年1月6日 - )は、福島県西白河郡矢吹町出身の元プロ野球選手内野手、右投右打)・監督コーチ

1980年代読売ジャイアンツ(巨人)の中心打者として活躍し、労働組合日本プロ野球選手会初代会長を務めた。

引退後は巨人の一軍打撃コーチを務めた後、2004年アテネオリンピック野球日本代表ヘッド兼打撃コーチ・監督代行を務め、銅メダルに導いた。その後2012年より横浜DeNAベイスターズ初代監督(大洋ホエールズからの通算では第29代)に就任し、2015年シーズン終了まで在任した。

2016年から野球解説者に復帰している。

経歴[編集]

プロ入り前[編集]

安積商業高校で三塁手、遊撃手、捕手を務め、駒澤大学に進学。東都大学野球リーグでは5度の優勝を経験。1973年春季リーグでは河原井正雄、チームメートの吉田秀雄と首位打者を争うが惜しくもタイトルを逃す。同年秋季リーグで優勝、最高殊勲選手に選出された。直後の第4回明治神宮野球大会でも同志社大を降し初優勝を飾る。1974年春季リーグでも優勝に貢献。1975年は春秋季連続優勝、全日本大学野球選手権大会でも決勝で大阪商大を破り優勝している。また1973年1975年日米大学野球選手権日本代表に選出されている。直射日光を避ける為の偏光サングラスと一本足打法で注目を浴びた。リーグ通算82試合出場、300打数92安打、打率.307、10本塁打、51打点。ベストナイン4度受賞。

駒澤三羽ガラス(駒大トリオ)」と呼ばれた平田薫二宮至と共に1975年のプロ野球ドラフト会議の目玉となる。巨人からの1位指名が有力視され駒澤大学の合宿所に報道陣が殺到したが、銚子商業篠塚利夫が1位指名された。報道陣が帰って行くのを見て中畑は別室で将棋をしていたが、3位指名されたと聞き慌てて戻った。「高卒の人間(篠塚)が先に指名された」とがっかりした反面、ファイトが増したという。中畑は北海道拓殖銀行への就職が内定していたが、当時巨人監督だった長嶋茂雄の存在などが後押しとなり、内定を辞退してプロ入りを決意。「(プロから指名されなかった)平田と二宮も一緒なら入団する」と球団に申し入れ、巨人もこれを受け入れた(2人はドラフト外で巨人に入団)。

現役時代[編集]

当時巨人は王貞治張本勲土井正三高田繁らが現役で活躍し選手層が厚かったため、入団後3年間は1軍での出番に恵まれなかったが、3年目オフの1978年に開催された日米野球第1戦のシンシナティ・レッズ対巨人戦で、高田に代わって途中出場してマリオ・ソトから2点本塁打を放った。この日は試合前、コンタクトレンズを失くして何も見えない状態だったが、妻が後楽園球場まで届けた新品のおかげでよく見えるようになったという[1]。レッズ監督のスパーキー・アンダーソンは、長嶋に「あの三塁手(中畑)はハッスルしてファイティング・スピリットに溢れているのがいい。バッティングは荒削りだけど、ぜひ使うべきだ」と進言している。日米野球での活躍がきっかけとなり、1979年に一軍に定着。三塁手の高田が怪我で離脱した際に先発で起用され、高田の復帰後もレギュラーを守った。この年の新人王の資格もあったがシーズン終盤で骨折し、新人王は逃した。オフに地獄の伊東キャンプに参加した。

初の規定打席に到達した1980年の秋、長嶋が監督を辞任し王も現役引退。入れ替わるように1981年、大学野球のスター選手で中畑と同じ三塁手の原辰徳がドラフト1位で入団したが、新監督の藤田元司ら首脳陣は原を二塁手にコンバートさせることで対応。しかし、中畑がシーズン途中怪我で離脱した間に原が三塁にコンバートされ、二塁には元々守備には定評のあった篠塚が入り、.357と高打率を記録した。王が去った一塁には山本功児が入っていたが、中畑が戦線復帰すると山本に代わり一塁手に収まり、その後も一塁手として出場し続けることになった。この年巨人は1973年のV9以来の日本一を奪回し、中畑も規定打席に到達したシーズンでは自己最高打率の.322、16本塁打、66打点という好成績をあげた。

1983年、守備走塁コーチの末次利光が最終戦で3割前後の選手の打率を1打席ごとに電卓で計算し、3割に乗ったところで交代させたため、打率は3割ジャストであった。この点を指摘された中畑は「3割だけは契約更改の席での印象が変わるので勘弁してほしい。その代わり、もし自分がタイトル争いをしたら絶対休まない」と返答した(実際に中畑は駒澤大学時代に最終戦まで出場して首位打者を逃した経験があった。プロでは1987年に篠塚、正田耕三落合博満らと一時首位打者争いをしたが、結局タイトルは獲得できなかった)[2]。同年の日本シリーズでは西武ライオンズに3勝4敗と敗れたもの、第3戦で森繁和からサヨナラヒット、第6戦で杉本正から一時は逆転となるタイムリー三塁打を放ち3打点をマークし優秀選手賞に選ばれた。

1984年、オールスターゲームで第2戦、第3戦にまたがる2打席連続本塁打を放つ。公式戦では不振の原に代わりシーズン途中に4番を任され、自己最多の31本塁打を記録した。

1985年、前年監督へ就任した王貞治を「ワン公」と呼び批判した取材オフレコテープの存在が問題となる。中畑は電話で謝罪し、王から「何も聞かなかったことにする」と許されている。王政権下では長嶋第一次政権に若手だった選手が主力を担っており、そのことによる派閥争いが度々雑誌、新聞媒体で記事にされた[3]。また、同年11月5日には日本プロ野球選手会労働組合としての認可を受けた事に伴い労組としての初代会長へ就任した[4]

1987年は途中怪我で戦線離脱するが、首位打者を狙えるほどの高打率を残していたため、復帰後規定打席に達するまでは打席数を稼ぐために1番打者として起用された(首位打者は篠塚が獲得)。

1989年、監督復帰した藤田により三塁への再コンバートが試みられたが、シーズン序盤、甲子園での試合中に牽制球で一塁に帰塁した際に指を痛め、長期戦線を離脱。その間に三塁は一塁から岡崎郁が、また一塁も外野から駒田徳広が定着したこともあり、定位置を失った中畑はこの年終盤に早々と引退を表明した。リーグ優勝を決めた大洋戦(横浜スタジアム)で二塁打を放った際に球場に起こったウェーブについて、のちに、自分が日本の球場で最初に起こしたもの、と発言している(実際には、この前日の試合で既にウェーブが起こっており、この試合でも8回表で中畑の2打者前の中尾孝義の打席でウェーブが起こっている)。チームのシーズン最終戦となった10月13日ヤクルト戦で途中出場し宮本賢治から本塁打を打つ。さらに現役最後の試合となった近鉄との日本シリーズ第7戦藤井寺球場)では、吉井理人から本塁打(この後、もう1打席回ったが、最終打席は三塁フライに終わった)を放ち、有終の美を飾った[5]

現役時代サヨナラ本塁打を3本放っているが、すべて中日戦である(1982年4月22日、三沢淳から、1983年5月8日、牛島和彦から、1986年8月7日、杉本正から)。

自身が現役時代のベストゲームは巨人通算6,000勝となった、1982年4月22日の中日戦(平和台)での三沢淳から打ったサヨナラ3ランを挙げている[6]

現役引退後[編集]

引退後は日本テレビラジオ日本野球解説者、スポーツニッポン野球評論家を経て、1992年10月31日に翌シーズンより巨人の監督に復帰した長嶋の下で一軍打撃コーチに就任することが発表された。

しかし、前年好調だった打撃陣が一転して1993年はチーム打率が12球団最下位に終わり、また駒田の横浜へのFA移籍にあたり中畑との確執がその原因として取り沙汰されるなど[7]、打撃コーチとしての評価は低かった。一方で同年は松井秀喜がルーキーとして巨人に入団しており、本拠である東京ドームから松井が暮らしたよみうりランド隣接の若手選手寮の道中に自宅が位置したこともあり、新人の松井を自宅内の打撃練習室に立ち寄らせて夫人の手料理を食べさせ[8]、連日のように打撃指導した[9]。2020年7月20日号の週刊ベースボールのインタビューでは「若い時、特に結果が出ている時、自分のスタイルを貫き通したい。自分の打撃を崩してまで、違う打ち方にする選手なんて誰もいません。松井もそれと同じでした。自分に分かっていたので、余計なことは言いませんでした。」[10]と述べている。以後松井からは信頼を得ており、後年中畑がDeNAの監督になった際、松井がDeNAの1日打撃コーチを請け負ったこともある[11]

1994年は一塁ベースコーチとして、ムードメーカーの役割に徹した。同年は中日からFAで中畑と同学年の落合博満が移籍加入したが、中畑は落合について「しっかり4番の仕事をしました。それはそれまでの巨人の4番とは違いました。長嶋さんを男にするという落合の言葉もありますが、一方巨人軍からの考え、長嶋さんの考えもある。1994年当時の巨人はしっかりとした4番がいなかった。落合は4番として、1シーズン目で優勝して、日本一になった。当時の打撃コーチとして本当に感謝しています。」[12]と述べている。チームはリーグ優勝・日本一になったが同年シーズン終了後の11月8日に退団し、再び日本テレビ、ラジオ日本、スポーツニッポン野球解説者・評論家となり、日本テレビでスポーツニュースのキャスターも務めた。

2004年アテネオリンピック野球日本代表のヘッド兼打撃コーチを務め、監督の長嶋茂雄が病床に伏してからはチームの指揮を執った。大会では、国際オリンピック委員会の規定により長嶋の監督登録が認められなかったため、中畑が正式に監督に就任したが[13]、準決勝でオーストラリアに敗退し、銅メダル止まりに終わった。

アテネ五輪では、日本代表は対戦するまでオーストラリアを「やりやすい相手」と見ていたが、オーストラリア代表捕手で元中日のデーブ・ニルソン(ディンゴ)に、日本での経験を生かして研究されつくしていたことを、敗戦後に知ったと後のインタビューで明かしている[14]。さらに、中畑は五輪現地で対戦相手国の代表チームの試合の視察には行かず、観光に行ったり他の五輪競技の試合を観戦していたことが後に報じられている[15]。同オフ10月7日に巨人から一軍助監督への就任を要請されたが翌8日に固辞した。

国政選挙への挑戦[編集]

2010年5月9日には、たちあがれ日本が同年7月に執行の第22回参議院議員通常選挙の立候補者として擁立する方針であると報じられ[16]5月11日にたちあがれ日本の代表である平沼赳夫、共同代表の与謝野馨が同席する中、正式に出馬表明記者会見を行った[17]7月11日の投開票の結果、111,597票を獲得し同党内で2位になるも同党が比例区で1議席(片山虎之助)しか獲得できなかったため落選した。

翌年の8月末に離党したが、後に「結果的に受からなくてよかった」と発言している。その真意を問われ「(議員になっていれば)震災の後に自由に支援に故郷を訪れることができなかっただろうから」と述べている[18]

横浜DeNA監督時代[編集]

中畑「月に1度は会っていた高田繁さんが知らない間にGMに就任していて、監督就任を要請をしていた工藤公康の条件が厳しくて難しいかなと思っていたところ、俺のことが頭に浮かび、高田家の庭になっていた甘柿を切ってママチャリに乗ってジーパン姿で俺の家に来て『工藤の条件が厳しくて、もし破断になったら監督をやってみる気はあるか?でも、保険なんだけどな』と言われ、返事もまともに聞いてないのに次の日に監督就任決定と出てしまい、人事とかで慌てた。その1日後には監督就任記者会見があり、たくさんの報道陣が来ていたため嬉しくなってしまい、『DeNAという会社を知っていますか?』と質問されて、『知るわけねーだろ』と答えたりして大盛り上がりとなり熱気ムンムンで『ホント暑いぜ!』と言ったら、それがその年のキャッチフレーズになった。今考えれば、あの甘柿が契約金だった。」[19]

中畑清(2012年3月10日、西武ドームにて)

2011年12月9日横浜DeNAベイスターズの監督に就任[20]

自身の誕生日でもある2012年1月6日に就任会見を行い、会見の中での自身の発言「熱いぜ! 横浜DeNA」が正式にチームのシーズンスローガンとなった。しかし開幕から低迷が続き、この年優勝した巨人には4勝17敗3分けと大きく負け越した上に、巨人戦のビジターゲームでは1勝もできずに終わるなど前年度よりさらに勝率を下げ、最下位に終わった。12月5日、妻を子宮頸がんのため亡くした[21]

2013年は中日からエンジェルベルト・ソトホルヘ・ソーサトニ・ブランコの3人を獲得するなど補強をしてシーズンに臨んだ。ブランコはここ2年苦しんだ故障から脱却して本塁打を量産し、ソーサもセットアッパーとして奮闘し、抑えの山口俊が不調になるとソーサを起用した。だがまたしても巨人戦で大きく負け越すなど低調な戦いが続き、9月24日の阪神戦に敗れ、チームのクライマックスシリーズ進出の可能性が消滅。試合後に監督辞任を示唆するコメントをしたが[22]10月3日に2014年度の続投が決定した。最終的にはヤクルトが最下位となり、6年ぶりに最下位を脱出し5位でシーズンを終えた。またこの年は中日・阪神・ヤクルトの3球団に勝ち越している。

2014年は打線強化としてオリックスからアーロム・バルディリスを獲得したが、チームは前年同様の低調な戦いが目立った上、ブランコの故障、抑えのソーサの故障や13試合に出場時点で10打点と活躍していた中村紀洋が采配を批判したことで懲罰降格させるなど主力選手の離脱が響いた。9月2日の阪神戦で暴力行為で退場処分、審判員への度重なる暴力行為が問題視され、労組審判支部から球団へ抗議文が送られ、GM補佐の山下大輔(当時)から説明を受けた[23]。8年連続で負け越していた巨人に9年ぶりに勝ち越した[24]。なおこの年のセ・リーグ全チームの順位は前年と全く変化がなかった。

2015年も監督続投したが、球団史上同一監督が連続して4シーズン以上指揮を執るのは1968 - 1972年の別当薫以来43年ぶり、また1978年の横浜移転後では監督15人目(大矢明彦が二期務めたため16代目)にして初となった(愛称名がベイスターズになってからでも初)。この年は序盤戦で一時首位になるなど好調だったが交流戦で急失速し、交流戦を3勝14敗1分け[25]と大きく負け越したのを機に勢いを失ったままの戦いが続き、3年ぶりに最下位でシーズンを終えた。

成績不振の責任を取って監督を辞任する意向を固め、10月2日に南場智子オーナーに正式に辞意を伝えた[26]

横浜DeNA監督退任後[編集]

2016年以降は、日本テレビ野球解説者・スポーツニッポン野球評論家に復帰。さらに、TBSテレビテレビ東京の野球中継にもゲスト解説者として出演している。同年12月4日、巨人OB会副会長に就任[27]。2019年からラジオ日本野球解説者に復帰。同年12月7日、巨人OB会会長に就任[28]

選手としての特徴[編集]

入団間もないころ、監督の長嶋茂雄から「調子はどうだ?」と尋ねられた中畑は「まあまあです」と返事をしたところ、それを聞いていた一軍守備走塁コーチの土井正三から「まあまあなんて言うやつを監督が起用するか!絶好調と答えろ!」と叱られた。それ以来、中畑は何を聞かれても「絶好調!」と答えるようになり、「絶好調」「絶好調男」が中畑の代名詞となった[29]

一塁手として1982年から1988年まで7年連続でゴールデングラブ賞を受賞した。また中畑を三塁から一塁へコンバートした藤田元司は「中畑がサード向き、原はファースト向きの性格でありながら原をサードに、中畑をファーストにしたのは最大の失敗だった」と後年語っている[30]

監督として[編集]

DeNA監督就任当時、開幕前から「守れない選手は使わない」をチーム方針として、守備を重視したチーム作りを徹底して行うことを表明していた[31]。また機動力を使うことも明言し、盗塁やエンドラン、スクイズなどを積極的に行なっている。この機動力を使った野球は就任1年目の頃は「せこいぜ野球」と呼称されていた[32]。就任2年目あたりから送りバントも多用するようになり、2014年にはリーグ最多犠打を記録している。またオーダーを固定することは少なく、好不調で選手や打順を入れ替えることが多かった。

投手陣は基本的に投手コーチにほぼ一任しているが、小刻みな継投を好みシーズンののべ登板数の日本記録を作った前任監督の尾花高夫とは異なり、先発投手はイニングを引っ張る傾向が強い。特に三浦大輔にはかなりの信頼を置いており、2012年はリーグ最多の6完投をさせている[33]

試合後の監督インタビューは、勝った試合はもちろん、敗れた試合でも全試合で行った。またチームの勝利時のヒーローインタビューはベンチでチームメンバー全員で聞く方針を浸透させた。

また野球は集団スポーツであることから「全員の気持ちが一つにならないとそのチームは機能しない」というポリシーを持っており、成績が振るわない選手や見込みがない選手に対しては見限ったり、チームの和を乱す行為を嫌っているなどのシビアな側面も持っている。その方針は巨人一軍打撃コーチ時代から貫いており、打撃指導や采配における駒田との確執にも現れていたが、DeNA監督時代は特に顕著であった。

前述の通りDeNA監督時代は自身の元気さをマスコミの前でアピールする一方で選手の怠慢行動や采配批判とも取れる言動に対して厳しく対処した。特に監督2年目以降は顕著だった。

  • 2013年4月9日の対広島東洋カープ戦(横浜)で3回表2死満塁の場面で大竹寛が放ったゴロを処理した遊撃手石川雄洋が封殺を狙って二塁へ送球。その梶谷隆幸がベースカバーに入らず一塁方向へ走っていたため石川は慌てて一塁への送球に切り替えたが内野安打になったばかりか2人の走者の本塁生還を許した。このプレーが原因で梶谷を二軍への降格させた[34][35]
  • 同じく2013年には主将の石川が序盤は打撃不振もあったが、円陣の輪に入らなかったり首脳陣との話し合いをしても主将にも拘らず態度の悪さが目立ったことで二軍に降格させた[36]
  • 2014年には宮崎遠征のため羽田空港から出発する際、抑え投手を務めていたホルヘ・ソーサが足を引きずりながら現れたことで激怒し、ソーサの帯同を認めず一軍登録を抹消した[37]
  • 中村紀洋には二度に渡って二軍に降格させた。1度目は2012年8月15日の阪神タイガース戦では中村の打席で内村賢介が盗塁したが、中村はこの盗塁について内村に激怒した。だが内村に対しては首脳陣からグリーンライトの権利を与えているため、中村の叱責は采配批判にあたり、中村の登録を抹消した[38][39]。2度目は2014年5月6日の巨人戦で、中村がコーチに「場面によっては走者を動かさず打席に集中させてほしい」と相談したが、これを采配批判とみなし登録を抹消した[40]。中畑は中村を登録抹消する際「チーム方針に従わない言動があった」と表現している(この抹消以降中村を一軍に昇格させることはなかった)。結果的にシーズン終盤に中村は戦力外通告を受けてDeNAを退団した。このような問題行動がありながらも球界での貢献度が高かったことからDeNA球団は10月に一軍に昇格させて引退試合と引退セレモニーを提案したが中村は現役続行を希望したためこれを固辞した。
  • 梶谷隆幸筒香嘉智山﨑康晃など、才能を認め育てると決めた選手は使い続けた[41]岡田彰布は「戦える、勝てるチームの土台を作ったのは高く評価するべきだろう」、江本孟紀は「筒香と心中すると言って育てたのは評価する。弱点の投手陣に目を向けても井納と心中するとでも言っておけば良かったのに」と述べている[42]。中畑が監督を辞任した翌年2016年は、後任監督のアレックス・ラミレス監督が、これらの若手選手の活躍もあり(シーズン負け越ししながらも)10年ぶりAクラスとなる3位に入りCS初進出を果たし、2017年と2019年はシーズン勝ち越しでCS進出、2017年は日本シリーズまで進出した。

結果的には4年間でシーズン勝ち越しにはならなかったが、長期間30以上もの負け越しが続いていたチームを大きく立て直す事に成功した。

人物[編集]

愛称は「絶好調男」[43]ヤッターマン[43]など。

中畑家は陸奥石川氏の一族で、前九年の役石川有光の子の九郎光幹が中畑と称したことからはじまる(『白河古事考』)。戦国時代にはその系統の国神城主の中畑晴辰(はるとき)[44]が抵抗したために、豊臣秀吉から改易されて、浪人・土農の落ち武者狩りで討たれた(広瀬蒙斎『白河風土記』)。中畑はその晴辰の子孫である[45]

祖父の代に、横浜戸塚で土木業を営み成功したものの、工場に商売替えした後で失敗し、清の父を含む一家とともに帰郷した。中畑は貧しい少年時代を過ごしており、後に「米に牛乳のせる生活体験したらどんなつらい生活でも耐えられるよ」と述懐している。その後、郷里福島での牧畜業で成功した結果、父にグローブを買ってもらったのがきっかけで、野球に本格的に取り組むことになった。

1953年(昭和28年)度生まれのプロ野球選手(梨田昌孝、落合博満、真弓明信吹石徳一など)による親睦会プロ野球28会(にっぱちかい)の会長を務めている。また野球・ソフトボールの普及を願い、1983年から故郷・福島で「中畑清旗争奪ソフトボール大会」[46]を毎年開催、2001年から茨城県境町にて女子大会の「中畑清杯争奪中学校女子ソフトボール大会」の名誉会長として後援しているほか、師である長嶋茂雄の名が冠された「長嶋茂雄少年野球教室」の講師としてジュニア世代の指導にあたっている[47]

麻雀[48][49]ゴルフカラオケ愛好家で、カラオケ十八番吉幾三の「酒よ」である[50]。ゴルフでは20年以上に渡り[51]毎年「きよしのドリームチャリティーゴルフ大会」というチャリティーコンペの主催者となり開催しており[52]プロゴルファー飯合肇は駒澤大野球部の同窓である[53]

現役時代の1970年代から40年以上東京調布市内に居を構えており、地域に対する用具・施設・図書の寄付など貢献し[54]2012年春に市から「調布市宣伝本部長」に任命されている[55]。同年12月に妻を癌で亡くして以後は、100坪の邸宅での一人暮らしとなっている。

長男が同市内にてホルモン焼肉店を営んでおり[56]、中畑も友人と長男の店を訪れて飲食している。

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1977 巨人 7 5 5 0 2 0 0 0 2 0 0 0 0 0 0 0 0 1 1 .400 .400 .400 .800
1978 5 3 3 0 1 0 0 0 1 1 0 0 0 0 0 0 0 1 0 .333 .333 .333 .667
1979 100 352 333 42 98 18 3 12 158 45 4 4 6 3 7 0 3 46 8 .294 .312 .474 .787
1980 124 503 459 61 123 15 2 22 208 57 10 8 7 4 28 1 5 53 11 .268 .315 .453 .768
1981 109 440 416 55 134 17 7 16 213 66 10 2 0 3 19 3 2 37 7 .322 .352 .512 .864
1982 124 510 468 56 125 24 5 25 234 78 4 3 0 3 37 2 2 71 10 .267 .322 .500 .822
1983 114 446 416 53 125 20 2 15 194 68 13 1 2 5 22 3 1 39 5 .300 .333 .466 .800
1984 130 550 493 78 145 30 1 31 270 83 4 1 0 2 51 2 4 64 12 .294 .364 .548 .911
1985 125 526 490 71 144 32 2 18 234 62 7 3 2 3 30 1 1 39 11 .294 .334 .478 .812
1986 127 484 447 57 122 29 2 14 197 69 7 5 2 6 27 3 2 67 10 .273 .313 .441 .754
1987 110 413 371 37 119 23 1 6 162 40 6 3 7 5 29 1 1 46 13 .321 .367 .437 .804
1988 124 478 444 46 131 36 2 10 201 46 5 4 4 1 28 5 1 35 18 .295 .338 .453 .790
1989 49 128 113 8 25 6 0 2 37 6 0 2 2 0 12 3 1 24 2 .221 .302 .327 .629
通算:13年 1248 4838 4458 564 1294 250 27 171 2111 621 70 36 32 35 290 24 23 523 108 .290 .334 .474 .808
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別監督成績[編集]




























2012 DeNA 6位 144 46 85 13 .351 41.0 66 .233 3.76 58歳
2013 5位 144 64 79 1 .448 23.0 132 .262 4.50 59歳
2014 5位 144 67 75 2 .472 14.5 121 .253 3.76 60歳
2015 6位 143 62 80 1 .437 14.5 109 .249 3.78 61歳
通算:4年 575 239 319 17 .428 Bクラス4回

表彰[編集]

野球
自治体
ファッション

記録[編集]

初記録
節目の記録
  • 100本塁打:1984年6月16日、対横浜大洋ホエールズ13回戦(横浜スタジアム)、1回表に平松政次から左越先制3ラン ※史上129人目
  • 150本塁打:1986年8月5日、対中日ドラゴンズ19回戦(後楽園球場)、2回裏に小松辰雄から左越ソロ ※史上81人目
  • 1000安打:1986年9月2日、対広島東洋カープ22回戦(広島市民球場)、7回表に小林誠二から左前安打 ※史上146人目
  • 1000試合出場:1987年5月26日、対横浜大洋ホエールズ7回戦(後楽園球場)、5番・三塁手として先発出場 ※史上270人目
その他の記録

背番号[編集]

  • 24 (1976年 - 1989年)
  • 72 (1993年 - 1994年)
  • 70 (2012年 - 2015年)

関連情報[編集]

著書[編集]

関連書籍[編集]

テレビ・ラジオ出演[編集]

横浜DeNA監督退任後の出演番組[編集]

ディスコグラフィ[編集]

  • 十和田丸(1984年、バップ、VAP 10170-07) 作詞作曲は吉幾三。 b/w「酒、夜、時々…雨」
  • 港(1988年2月11日、バップ、VAP 10290-07) b/w「十和田丸」
  • ときめいて乾杯(1995年、ポニーキャニオン) 真木ことみとのデュエット。真木ことみのアルバム『演歌三昧』に初収録。

CM[編集]

ゲームソフト[編集]

  • プロ野球JAPAN2001(2001年11月。コナミ。PlayStation 2用ソフト) - 解説者として声の出演
  • THE BASEBALL 2002 バトルボールパーク宣言(2002年3月。上記のマイナーチェンジ版) - 同上

登場作品[編集]

脚注[編集]

[脚注の使い方]
  1. ^ 引退後の番組で「この日、後楽園から妻に電話してコンタクトレンズを買って届けてもらって装着したら視界が別世界だった」と語っている
  2. ^ 玉木正之『プロ野球大事典』新潮文庫、1990年
  3. ^ 『プロ野球「スキャンダル事件史」大全』 宝島社 2015年 ISBN 4800245451
  4. ^ 前年7月21日に法外組合として発足したときに会長へ就任していたが、東京都地方労働委員会から労組認定を受けたことで改めて就任(日本プロ野球選手会 運営組織・構成・変遷
  5. ^ この試合には夫人が観戦しに来ており、夫人が見ている中で現役最後の本塁打を放った。最後の本塁打の背景には、同僚である篠塚が打席に立つよう進言した、と言われている。
  6. ^ 週刊ベースボール2020年7月13日号、17頁
  7. ^ ハダカの長嶋巨人(5)”. 東京スポーツ (2014年3月3日). 2014年3月3日閲覧。
  8. ^ 松井氏、故・中畑夫人へ恩返しのために横浜DeNAに来た! The page 2015年2月5日
  9. ^ 長嶋がいて、松井がいた1 中畑清元巨人コーチ、現DeNA監督が見た“ミスター”と“ゴジ”の関係性 週刊ベースボールonline 2013年5月11日
  10. ^ 週刊ベースボール2020年7月20日号、26頁
  11. ^ 松井氏「奥様への恩返し」亡き中畑夫人手料理に感謝のDeNA視察 スポーツニッポン 2015年2月6日
  12. ^ 週刊ベースボール2020年7月20日号、27頁
  13. ^ 日本のメディアはこれらの事情に配慮し、大会中は中畑を「ヘッドコーチ」と称していた。
  14. ^ https://web.archive.org/web/20180921034544/https://bbcrix.com/articles/48208/original
  15. ^ http://www.asagei.com/excerpt/3825
  16. ^ “中畑清氏参院選!「たちあがれ日本」が擁立へ”. スポーツニッポン (スポーツニッポン新聞社). (2010年5月9日). http://www.sponichi.co.jp/society/news/2010/05/09/01.html 2010年5月9日閲覧。 
  17. ^ 中畑氏 正式出馬表明! 長嶋氏「政界で羽ばたけ」 スポーツニッポン 2010年5月12日閲覧
  18. ^ “中畑氏 すでに「たちあがれ日本」離党「お話があれば前向きに」”. スポーツニッポン (スポーツニッポン新聞社). (2011年12月6日). http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/12/06/kiji/K20111206002185350.html 2010年12月6日閲覧。 
  19. ^ https://www.youtube.com/watch?v=YAvbo8Hvb7M&t=320s
  20. ^ 【横浜】中畑監督発表「身震いする思い」”. 日刊スポーツ (2011年12月9日). 2011年12月9日閲覧。
  21. ^ DeNA中畑監督の妻・仁美さん死去 子宮頸がん”. スポニチ (2012年12月5日). 2012年12月5日閲覧。
  22. ^ 朝日新聞2013年9月25日スポーツ面
  23. ^ 労組審判支部がDeNAに抗議文 中畑監督「厳粛に受け止めている」”. スポニチ (2014年9月6日). 2014年9月6日閲覧。
  24. ^ この年のセ・リーグのリーグ優勝チームは巨人だが唯一巨人に勝ち越した
  25. ^ 2015年から交流戦は18試合制となり、1チームそれぞれ3球団とホームゲーム3連戦1回、残り3球団とビジターゲーム3連戦1回の日程となり、翌年はこの逆となる日程となった。2年で1セットの設定となった。
  26. ^ コーチ人事で決裂…中畑監督 辞意正式表明「俺が辞めるしかない」”. スポーツニッポン. 2015年10月4日閲覧。
  27. ^ 中畑氏が巨人OB会副会長に就任 「今年、ジャイアンツは最下位だと思ったら盛り返した
  28. ^ 巨人軍OB会新会長に中畑氏~2019年総会読売巨人軍公式サイト 2019.12.07
  29. ^ 絶好調男 中畑清 | ジャイアンツ一筋 | スポーツナビ+
  30. ^ ほぼ日刊イトイ新聞 -体温ある指導者。
  31. ^ 例外なし 中畑監督「守れないヤツは使わない」” (2012年1月31日). 2012年2月3日閲覧。
  32. ^ “せこいぜ野球”浸透の中畑DeNA「てっぺん獲るぜ」” (2012年3月26日). 2012年3月26日閲覧。
  33. ^ シーズン終盤の9月25日中日戦では9回151球を投げさせている。
  34. ^ “DeNA梶谷 凡ミスで“懲罰”降格 ベースカバー怠る”. スポニチSponichi Annex (スポーツニッポン). (2013年4月10日). http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/04/10/kiji/K20130410005578240.html 2013年4月21日閲覧。 
  35. ^ 【DeNA】キヨシ厳命 梶谷に2軍行き nikkansports.com 2013年4月9日)
  36. ^ “鬼キヨシ制裁!石川、無期限2軍&主将剥奪”. スポーツ報知. (2013年5月25日). http://hochi.yomiuri.co.jp/baseball/npb/news/20130524-OHT1T00203.htm 2013年5月25日閲覧。 
  37. ^ 前代未聞!中畑監督、羽田でソーサに「帰れ!」怒りの登録抹消Sponichi Annex
  38. ^ 中村紀 2軍落ちは懲罰降格だった!采配批判に中畑監督が決断Sponichi Annnex 2012年8月31日 06:00
  39. ^ 当初は右肘痛で登録抹消と発表されていたが、試合中にベンチ裏に退いたことが造反とみなされたためとされる。
  40. ^ “ノリが登録抹消DeNA中畑監督「チーム方針に従わない言動があった」”. http://www.tokyo-sports.co.jp/sports/baseball/263878/ 
  41. ^ Sports Graphic Number」文藝春秋、2015年11月19日号、p48-p49
  42. ^ Sports Graphic Number」文藝春秋、2015年11月19日号、p33
  43. ^ a b 『スーパーファミスタ5 スーパーファミコン公式ガイドブック』(1996年3月、小学館発行。「ワンダーライフスペシャル」シリーズ。書籍コード:ISBN 4091025315)より、プロ野球OB名鑑を参照。
  44. ^ 晴辰にとって中畑家は母系の血筋としてであり、父系の血筋は白河結城氏小峰氏)である。
  45. ^ NHK『ファミリーヒストリー』2017年11月22日放送分
  46. ^ 中畑清氏子供たちにエール「君たちが元気なら福島は元気」中畑清旗争奪ソフト スポーツニッポン 2018年8月4日
  47. ^ 中畑清現役彷彿とさせる一振り「長嶋ファミリーみんな頑張ります!」 テレビ東京/追跡LIVE!SPORTSウォッチャー 2018年11月12日配信
  48. ^ 山本功児・なんとなく幸せ(12)麻雀は大先輩との交流の場 東京スポーツ 2012年11月13日
  49. ^ 選手にマージャンのススメ・楽天星野流の洞察力育成プラン 夕刊フジ 2014年2月28日
  50. ^ 中畑清「舌好調」24連打(2)カラオケの十八番は「酒よ」 アサヒ芸能 2012年2月22日
  51. ^ 中畑監督のきよしドリームチャリティゴルフ参加 篠塚和典オフィシャルブログ 2011年11月25日
  52. ^ 中畑清さんの『きよしのドリームチャリティーゴルフ』にご招待をいただきました CALWING 2009年11月
  53. ^ 歌にゴルフ、趣味は人を前向きにさせてくれる・中畑清の「絶好調視点」vol.41 Baseball Crix 2017年2月22日
  54. ^ 中畑さん、監督就任報告・6日、調布市文化会館で 朝日新聞 2012年1月6日
  55. ^ 初代「調布市宣伝本部長」に「熱いぜ横浜DeNAベイスターズ中畑清監督」が就任されました 2012年2月15日 調布市公式ウェブサイト
  56. ^ 焼肉「ホルモン家族」宅麻伸さんオススメ!調布・仙川|にじいろジーン フジテレビにじいろジーン 2015年11月7日
  57. ^ 歴史と観光「ハッピーハンド」”. 幸手市観光協会. 2017年9月13日閲覧。
  58. ^ “中畑前De監督 名誉町民第1号に”. デイリースポーツ (株式会社デイリースポーツ). (2015年12月25日). http://www.daily.co.jp/newsflash/baseball/2015/12/25/0008675664.shtml 2015年12月28日閲覧。 
  59. ^ 参考:『ラジオ番組表 2005春』(2005年5月、三才ブックス。書籍コード:ISBN 4861990076)に掲載された、ラジオ日本の番組表。
  60. ^ 茨城放送・北日本放送にも部分ネット。
  61. ^ “中畑清監督:「絶好調!」な素振りを披露 モバゲー新CMに登場”. 毎日新聞デジタル. (2012年3月14日). http://mantan-web.jp/2012/03/14/20120313dog00m200063000c.html 

参考文献[編集]

関連項目[編集]

※校内に中畑清記念室が設けられている。

外部リンク[編集]