北澤豪
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![]() 第31回東京国際映画祭にて(2018年10月) | ||||||
名前 | ||||||
愛称 | キーちゃん、中盤のダイナモ | |||||
カタカナ | キタザワ ツヨシ | |||||
ラテン文字 | KITAZAWA Tsuyoshi | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 |
![]() | |||||
生年月日 | 1968年8月10日(54歳) | |||||
出身地 | 東京都町田市 | |||||
身長 | 170cm | |||||
体重 | 68kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | MF | |||||
利き足 | 右足 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1987-1991 | 本田技研工業サッカー部 | 71 | (17) | |||
1991-1992 | 読売クラブ | 20 | (2) | |||
1992-2002 | ヴェルディ川崎/東京ヴェルディ | 265 | (41) | |||
代表歴2 | ||||||
1991-1999[1] |
![]() | 58 | (3) | |||
1. 国内リーグ戦に限る。2002年12月31日現在。 2. 1999年6月6日現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
北澤 豪(きたざわ つよし、1968年8月10日 - )は、東京都町田市出身の元プロサッカー選手。ポジションはMF。元サッカー日本代表。現在は日本サッカー協会理事、日本障がい者サッカー連盟会長[2]、國學院大學客員教授[3]。三桂所属のタレント、サッカー解説者としても活躍している。
選手時代[編集]
クラブ[編集]
小学生時代は町田SSS、町田市の町田JFC、中学時代は読売ジュニアユースに在籍[4]。修徳高等学校に進学後はユースとの掛け持ちを認められず部活動に専念、1985年に全国高校サッカー選手権出場、翌1986年に高校総体ベスト8進出に貢献した。卒業後は宮本征勝監督の勧誘もあり本田技研工業サッカー部に入部した(同い年で同期就職に古川昌明・黒崎久志)。1990-91シーズンの日本サッカーリーグで得点王に輝いた。
1991年に古巣である読売クラブに倉田安治と一緒に移籍。JSLカップ決勝で対戦した本田技研戦では決勝点を挙げた[5]。Jリーグでは三浦知良やラモス瑠偉、ビスマルクらと共にヴェルディ黄金時代を支える主力選手の1人となり、アイドル的な人気を誇った。1994年にはベストジーニスト賞にも選ばれている[6]。Jリーグ開幕戦となったマリノス戦では日本代表の合宿での怪我の影響で[7]、後半からの出場となったが[8][9]、第2節のジェフ戦でJリーグ初ゴールを挙げた[8]。同年のJリーグカップ決勝では決勝ゴールを決めて優勝に貢献した[10]。1997年元旦、第76回天皇杯全日本サッカー選手権大会決勝のサンフレッチェ広島戦では決勝ゴールを決めて優勝した。晩年は出場機会に恵まれなくなったもののヴェルディ一筋。旺盛な闘志と豊富な運動量を誇るプレースタイルから、中盤の“ダイナモ”と称された[11]。この間の1995年頃、スポルティング・リスボンへの移籍話もあったが、クラブが難色を示したことで移籍には至らなかったという[12]。
2002年に現役を引退。Jリーグでは通算264試合に出場、41ゴールを挙げた[4]。2002年終盤に、翌年横浜F・マリノスの監督の就任が決定していた、岡田武史から移籍のオファーが届いたが、膝の調子が芳しくなくオファーを断り引退した。2003年6月21日に国立競技場で開催された引退試合には多くのファン、プレーヤーなどが集まった。
Jリーグ開幕後はスタメン選手は11以下の背番号という決まりがあったため8番をつけた(固定背番号制になっても8を着用)が、好きな背番号は戸塚哲也にあこがれて14だった。
日本代表[編集]
1991年4月4日のスパルタク・モスクワとの親善試合で代表デビューを飾り、同年6月のキリンカップでは2得点を決め、日本の初優勝に貢献するなど、レギュラーを務めていたが、1994 FIFAワールドカップ・アジア予選前の合宿中に負傷して以降は控えに回った[7]。最終予選の第4戦の韓国戦では先発出場して勝利、しかし最終戦のイラク戦(ドーハの悲劇)では出場機会が訪れなかった[7]。1998年のFIFAワールドカップ・フランス大会では、(前年のアジア最終予選では4試合で先発出場、ジョホールバルの歓喜と言われる、ワールドカップアジア第3代表決定戦のイラン戦で先発出場して勝利[13])、アジア予選突破に貢献したにも関わらず、本大会直前のフランス合宿中に三浦知良と共にメンバーから「ポジションがない」という理由で外された[11]。1991年から1999年までの間に日本代表に選出され、Aマッチ59試合に出場した[4]。
第1回FIFAフットサル世界選手権出場の為に(自身と同い年の野田知1名除き)本田技研の選手によって構成されたフットサル日本代表にも選出されており[14]、グループリーグの対カナダ戦で宮本監督の期待に応え2得点を挙げている。
引退後[編集]
引退後はサッカー解説者を務める傍ら2003年4月からはJFAアンバサダーとして、若年層へのサッカーの普及活動にも積極的に取り組んでいたが、多忙のためか2006年3月に同職を退任している。現在はフットサルチーム監督の他、日本サッカー協会特任理事兼国際委員、サッカースクールフットボールコミュニケーションアカデミー主宰、国際協力機構(JICA)オフィシャルサポーター。カンボジアやアフリカ大陸の難民にサッカーの文化を広めようとサッカー教室・講演などを行っている。また、人気サッカーゲーム「ウイニングイレブン」シリーズにて、実況を長年務めるジョン・カビラと共に解説を長年務めている。
三桂に所属している点からTBS色・関口宏ファミリーが濃いと思われがちだが、引退当初はNHK衛星テレビに出演。その後は読売グループ繋がりで日本テレビへの出演が多く、スポーツ報知の専属評論家も務めている。2004年4月改編から、日本テレビ系のスポーツニュース番組『スポーツMAX』(2005年10月から『スポんちゅ』と改名)月曜日のコメンテーター及び『ズームイン!!サタデー』のコメンテーターとして出演。2006年10月からの『スポんちゅ』の後番組『NEWS ZERO』にも引き続き出演している。また、WOWOWの海外サッカー中継の解説や絵本「ぼく(わたし)と魔法のスパイク」を執筆するなど幅広い活躍をしている。
2012年4月、日本フットサルリーグ(Fリーグ)のCOO補佐に就任。同年5月には日本スポーツ振興センターによる「NAASH スポーツ・ジャパン・アンバサダー」にも就任。2012年6月、日本サッカー協会理事に就任。2016年4月には新たに設立された日本障がい者サッカー連盟会長に就任している[2]。
エピソード[編集]
現役時代、ヴェルディのチームメートのみならず他のチームの選手の間でも、髪はかつらではないかと噂になっていた。1996年のJOMOドリームマッチにおいて、三浦知良がふざけて「ズレてるよ」と北澤に言ったところ、他の選手たちはやはり噂は本当だったのかとてっきり信じ込んだという[15]。
所属クラブ[編集]
- 町田SSS(スリーエス) (市内選抜チームとしてFC町田にも選出)
- 1981年 - 1983年 読売ジュニアユース
- 1984年 - 1986年 修徳高校
- 1987年 - 1991年 本田技研工業サッカー部
- 1991年 - 2002年 読売クラブ/ヴェルディ川崎/東京ヴェルディ1969
個人成績[編集]
国内大会個人成績 | |||||||||||
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年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
日本 | リーグ戦 | JSL杯/ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1987-88 | 本田 | 13 | JSL1部 | 0 | 0 | 0 | 0 | ||||
1988-89 | 7 | 0 | 0 | 0 | |||||||
1989-90 | 22 | 4 | 0 | 0 | |||||||
1990-91 | 22 | 10 | 1 | 0 | |||||||
1991-92 | 読売 | 14 | 20 | 2 | 4 | 1 | 5 | 0 | 29 | 3 | |
1992 | V川崎 | - | J | - | 11 | 1 | 2 | 2 | 13 | 3 | |
1993 | 35 | 6 | 1 | 1 | 3 | 2 | 39 | 9 | |||
1994 | 40 | 9 | 3 | 1 | 2 | 1 | 45 | 11 | |||
1995 | 40 | 11 | - | 3 | 0 | 43 | 11 | ||||
1996 | 28 | 4 | 15 | 5 | 5 | 2 | 48 | 11 | |||
1997 | 8 | 29 | 1 | 0 | 0 | 2 | 0 | 31 | 1 | ||
1998 | 34 | 5 | 0 | 0 | 3 | 0 | 37 | 5 | |||
1999 | J1 | 28 | 4 | 3 | 1 | 3 | 2 | 34 | 7 | ||
2000 | 4 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 5 | 0 | |||
2001 | 東京V | 23 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 23 | 0 | ||
2002 | 4 | 1 | 2 | 0 | 0 | 0 | 6 | 1 | |||
通算 | 日本 | J1 | 265 | 41 | 36 | 9 | 28 | 9 | 329 | 59 | |
日本 | JSL1部 | 71 | 16 | 5 | 1 | ||||||
総通算 | 336 | 57 |
その他の公式戦
- 1990年
- コニカカップ 6試合0得点
- 1991年
- コニカカップ 4試合0得点
- アジアクラブ選手権 2試合0得点
- 1992年
- ゼロックス・チャンピオンズ・カップ 2試合0得点
- アジアクラブ選手権 1試合0得点
- 1993年
- Jリーグチャンピオンシップ 2試合0得点
- 1994年
- サンワバンクカップ 1試合0得点
- XEROX SUPER CUP 1試合0得点
- Jリーグチャンピオンシップ 2試合1得点
- 1995年
- サンワバンクカップ 1試合0得点
- XEROX SUPER CUP 1試合0得点
- Jリーグチャンピオンシップ 2試合0得点
- 1996年
- サントリーカップ 1試合0得点
- 1997年
- XEROX SUPER CUP 1試合0得点
- アジアカップウィナーズカップ 2試合0得点
個人タイトル[編集]
- 1990/91年 - 得点王/ベストイレブン(日本リーグ)
- 1994年 - Jリーグベストイレブン
- 2003年 - 功労選手賞
代表歴[編集]
出場大会など[編集]
- 1992 AFCアジアカップ
- 1994 FIFAワールドカップアジア地区予選
- 1998 FIFAワールドカップアジア地区予選
- 1994 アジア大会
試合数[編集]
- 国際Aマッチ 58試合 3得点(1991年 - 1999年)[1]
日本代表 | 国際Aマッチ | |
---|---|---|
年 | 出場 | 得点 |
1991 | 2 | 0 |
1992 | 11 | 1 |
1993 | 4 | 0 |
1994 | 7 | 1 |
1995 | 14 | 1 |
1996 | 5 | 0 |
1997 | 11 | 0 |
1998 | 3 | 0 |
1999 | 1 | 0 |
通算 | 58 | 3 |
サッカー以外での受賞歴[編集]
- ベストジーニスト(協議会選出部門:1994年)
- アクアピースゴールデンハート賞(2001年) ※アクアピースネットワーク主催[16]
- 人権擁護功労賞法務大臣表彰状(ユニバーサル社会賞)受賞(2019年)
出演[編集]
テレビ番組[編集]
- NEWS ZERO → news zero(日本テレビ 番組放送開始当時の2006年10月からサッカーコメンテーター、不定期出演)
- ズームイン!!サタデー(日本テレビ、表記こそあるが、実際の出演は殆どなし。2018年11月3日にゲストMCとして出演。)
- Jリーグ中継(NHK 一時期。日本テレビ出演後は殆ど出演なし。)
- サッカー中継解説(2011年現在は日本テレビ、日テレG+や、日本テレビが制作協力しているスカパー!の横浜F・マリノスホームゲーム中継で主に担当。またWOWOWでリーガ・エスパニョーラやUEFA EUROでの解説も行なっている)
- リーガダイジェスト!(WOWOW 解説)
- 趣味の園芸 やさいの時間 (NHK Eテレ、2011年4月8日放送分~)
- 本田圭佑もC.ロナウドも!世界のNo.1徹底解剖SP (2017年12月10日、日本テレビ) - 解説
- さんま&手越も大興奮!世界一の◯◯全部見せますSP (2017年12月17日、日本テレビ) - 解説
- FOOT×BRAIN(2011年4月2日放送分~、テレビ東京) - 解説
- Challenge Spirits 〜スポーツの未来を考える〜(2020年5月3日 - 2021年3月28日、BSテレ東) - MC
ラジオ番組[編集]
- 渡辺美里と北澤豪のスーパーオフショット (ニッポン放送 2007年度からシンガーソングライターの渡辺美里とともに毎年、担当していたナイターオフ期番組・初冠番組。2010年度からは美里の相方は小堺一機に交代した)
CM[編集]
- グンゼ『YG』(1993年)
- ナイキ『サッカー維新』
- エポック社『Jリーグ エキサイトステージ'94』(1994年)
- エポック社『Jリーグ エキサイトステージ'95』(1995年)
ゲーム[編集]
- ウイニングイレブン(解説、ワールドサッカーウイニングイレブン9以降のシリーズ)
ディスコグラフィ[編集]
参加作品[編集]
- 16 Voices - 『ひとり ひとつ』(2015年10月1日)[17]
脚注[編集]
- ^ a b “北澤 豪”. サッカー日本代表データベース
- ^ a b “日本障がい者サッカー連盟発足 元代表MF北澤豪氏が初代会長就任”. スポーツ報知. (2016年4月2日) 2017年2月14日閲覧。
- ^ “水曜講座「多様化する社会の中で、どうチャンスを創り出していくか」”. 國學院大學メディア. 2019年7月13日閲覧。
- ^ a b c “北澤豪”. tokyofa. 2020年4月21日閲覧。
- ^ “「カズ、戻れ!」松木安太郎35歳が“最強ヴェルディ”を作るまで…スター軍団ゆえの衝突、北澤豪と武田修宏が回想したホンネ”. NUMBER (2023-515). 2023年5月19日閲覧。
- ^ “歴代受賞者”. ベストジーニスト. 2013年9月21日閲覧。
- ^ a b c “ドーハの悲劇」イラク戦で出場できなかった北澤豪の本音”. sportiva. 2020年4月21日閲覧。
- ^ a b “27年前のカズさんのプレーを堪能して 北澤豪が語るヴェルディ黄金時代”. sportyahoo. 2020年4月21日閲覧。
- ^ “93Jリーグサントリーシリーズ 第1節”. data.j-league. 2020年4月21日閲覧。
- ^ Jリーグヤマザキナビスコカップ 1993決勝戦-J.data
- ^ a b “北沢豪、岡田監督に対し「何だお前!?」という感じ”. サンスポ. 2020年4月21日閲覧。
- ^ “2023.05.15北澤豪が語る30年前のJリーグ誕生秘話「骨折していたけど、スパイクの裏に特注で鉄板を入れて開幕戦のピッチに立った」”. SPORTIVA (2023年5月15日). 2023年5月19日閲覧。
- ^ “ドーハ組、北澤豪がもたらしたもの”. sportsyahoo. 2020年4月21日閲覧。
- ^ 北澤豪・藤井健太 - ぴあ「@ぴあインタビュー」
- ^ “キング三浦知良にバラされた! 〝北沢豪ヅラ騒動〟「ちょっとズレてるよ」”. 東京スポーツ (2023年2月2日). 2023年4月17日閲覧。
- ^ アクアピースゴールデンハート賞.NPO法人/アクアピースネットワーク.2016年元日閲覧。
- ^ “青年海外協力隊50周年ソングを川嶋あい、乙武洋匡、倉木麻衣、宮沢和史ら16組歌う”. 音楽ナタリー (2015年10月1日). 2015年10月1日閲覧。
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 北澤豪 - National-Football-Teams.com (英語)
- 北澤豪 - WorldFootball.net (英語)
- 北澤豪 - Transfermarkt.comによる選手データ (英語)
- 北澤豪 - FIFA主催大会成績 (英語)
- 北澤豪 - J.League Data Siteによる選手データ
- 公式サイト
スポーツMAX歴代キャスター・コメンテーター
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期間 | キャスター | コメンテーター | ||||||
月・火・金 | 水・木 | 月 | 火 | 水 | 木 | 金 | ||
1997.9 | 1998.9 | 関谷亜矢子 | 中畑清 | 山本浩二 | 掛布雅之 | |||
1998.10 | 2001.12 | 角田久美子 | 松岡修造 | 中畑清 | ||||
2002.1 | 2003.3 | 西尾由佳理 | ||||||
2003.4 | 2004.3 | 西尾由佳理 | 山本舞衣子 | 中畑清 | 長嶋一茂 | 宮本和知 | 掛布雅之 | |
2004.4 | 2004.11 | 北澤豪 | ||||||
2004.12 | 西尾由佳理 | |||||||
2005.1 | 2005.3 | 西尾由佳理 | 杉上佐智枝 | |||||
2005.4 | 2005.9 | 阿部哲子 |