岡崎郁

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
岡崎 郁
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 大分県大分市
生年月日 (1961-06-07) 1961年6月7日(56歳)
身長
体重
178 cm
77 kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 内野手
プロ入り 1979年 ドラフト3位
初出場 1982年10月5日
最終出場 1996年5月8日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴
  • 読売ジャイアンツ (2006 - 2015)

岡崎 郁(おかざき かおる、 1961年6月7日 - )は、大分県大分市出身の元プロ野球選手内野手、右投左打)・コーチ二軍監督。現役時代は、一貫して読売ジャイアンツ(巨人)でプレー。引退後の2006年以降も、野球解説者として活動した時期をはさんで、巨人でコーチ・二軍監督・スカウト部長などを務めている。

経歴[編集]

プロ入り前[編集]

大分商業高校への在学中は、投手内野手を兼務していた。3年時の1979年には、エースとして春の第51回選抜高等学校野球大会に出場。作新学院との初戦を制したものの、2回戦で東洋大姫路に敗れた[1]。夏の第61回全国高等学校野球選手権大会には、遊撃手として全国大会に出場。2年生エース松本健(東芝大分)の好投もあって準々決勝に進出するが、横浜商宮城弘明に抑えられたため、チームは準決勝進出を逃した[2]

高校卒業後に法政大学への進学を希望していたが、1979年のプロ野球ドラフト会議では、巨人から内野手として3位で指名。その後の交渉で当時の一軍監督だった長嶋茂雄の説得を受けたことから、入団に至った。

プロ入り後[編集]

入団当初は一軍の内野陣に河埜和正篠塚利夫中畑清原辰徳などが揃っていたため、一軍公式戦への出場機会に恵まれなかった。1984年には、肋膜炎を患って療養生活を送ったため、支配下選手登録を外れて練習生として扱われた。

肋膜炎の癒えた1985年には、支配下登録選手への復帰を経て一軍に定着。河埜や石渡茂といったベテラン内野手と遊撃手のレギュラーを争った末に、シーズン後半からレギュラーに定着した。

1987年には、一軍公式戦での通算失策を2にとどめるとともに、守備率.994を記録。遊撃手としてのシーズン守備率のNPB記録(当時)を樹立するなど、レギュラークラスの働きを随所に見せていた。しかし、翌1988年までは、セントラル・リーグ(セ・リーグ)のシーズン最終規定打席に到達できなかった。

入団10年目の1989年には、当時の一軍監督・藤田元司に勝負強い打撃を見出されたことを機に、春季キャンプで三塁手一塁手としての守備を練習。オープン戦で首位打者を獲得すると、開幕戦で一塁手としてスタメンに起用された。さらに、レギュラー三塁手・中畑の故障を機に、三塁のレギュラーに定着。結果として、遊撃手から三塁手へのコンバートに成功した。打撃面でも、親友の駒田徳広とのコンビで6番(または7番)打者を任されると、「第2のクリーンナップ」として他球団から恐れられるまでに成長。1989年の日本シリーズおよび、1990年のセ・リーグ優勝に貢献するとともに、オールスターゲームのファン投票でも1989年から4年連続でセ・リーグ三塁手部門の1位になった。さらに、日本シリーズでは1989年に優秀選手に表彰され、チームが不調に喘いだ1990年には孤軍奮闘し敢闘賞を受賞した。

1991年から選手会長・主将も務めると、1992年まで三塁のレギュラーの座を維持していた。1993年の一軍公式戦ではチーム58代目の4番打者に起用され、1994年は規定打席不足ながらも主に5番に座り、リーグ優勝と日本シリーズ優勝に貢献したが、1995年以降は、元木大介の成長や仁志敏久の入団などから出場機会が減少。1996年に現役を引退した。

現役引退後[編集]

1997年から2004年まで、ニッポン放送野球解説者として8年間活動。その一方で、『おはようクジラ』『エクスプレス』(いずれも平日の早朝にテレビで放送されたTBS制作・全国ネットの情報番組)のスポーツキャスターや、東京都千代田区三崎町焼肉店「香おる」のオーナーも務めた。

2005年に、ニューヨーク・ヤンキースへコーチ留学。2006年から、二軍打撃コーチとして巨人に復帰した。2008年に二軍ヘッド兼内野守備コーチを務めると、2009年には、吉村禎章の後任として二軍監督に就任。2010年には、第17回IBAFインターコンチネンタルカップの日本代表の監督も務めた。

巨人では、2011年に一軍のヘッドコーチを担当。シーズン終了当初は、翌2012年シーズンもヘッドコーチを務めることが球団から発表された。しかし11月11日に、球団会長渡邉恒雄によって江川卓の一軍ヘッドコーチ就任・岡崎の降格という人事が決められていることが、当時の球団代表・清武英利による渡邉への告発を通じて明らかになった。これに対して、渡邉は翌12日に、江川に対して正式にヘッドコーチの就任を要請していないことを明言。チームの秋季キャンプ中だった同月15日には、桃井恒和オーナーがキャンプ地の宮崎を訪れたうえで、岡崎に対して一軍ヘッドコーチへの留任を伝えている[3]。球団では、江川のヘッドコーチ就任を「原辰徳一軍監督と渡邉の会談で出た案の一つ」と説明する一方で、清武に対して同月18日付で球団内のあらゆる役職からの解任を通告した。

結局、岡崎は2012年まで一軍ヘッドコーチを担当。2013年から2015年までは、役職を川相昌弘と入れ替える格好で、再び二軍監督を務めた。2016年の編成本部アドバイザーを経て、2017年1月1日付でスカウト部長に就任[4]

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1982 巨人 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- ---- ---- ----
1983 1 1 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000 .000 .000 .000
1985 96 236 198 27 53 11 0 4 76 19 2 0 4 3 30 7 1 29 5 .268 .362 .384 .746
1986 92 314 281 33 83 10 3 6 117 37 0 0 11 4 18 5 0 34 7 .295 .333 .416 .750
1987 117 359 297 40 74 17 0 0 91 14 0 1 31 2 28 0 1 61 4 .249 .314 .306 .620
1988 106 368 316 38 87 13 5 5 125 30 9 1 17 2 33 0 0 39 5 .275 .342 .396 .737
1989 127 501 444 57 119 23 1 12 180 59 4 3 5 5 43 1 4 49 8 .268 .335 .405 .740
1990 102 403 356 52 103 24 6 6 157 49 2 1 1 4 41 1 1 50 10 .289 .361 .441 .802
1991 113 452 400 44 103 13 1 5 133 44 1 2 2 5 43 4 2 56 10 .258 .329 .333 .661
1992 124 510 461 57 116 24 2 12 180 53 1 2 0 2 45 2 2 86 6 .252 .320 .390 .710
1993 70 183 165 14 35 3 0 3 47 19 1 1 0 2 15 0 1 30 5 .212 .279 .285 .564
1994 111 363 327 35 84 15 0 6 117 45 1 1 1 3 32 1 0 32 13 .257 .320 .358 .678
1995 84 259 233 23 48 6 2 3 67 14 2 2 3 0 22 1 1 37 7 .206 .277 .288 .565
1996 12 13 11 2 1 0 0 1 4 1 0 0 0 0 2 1 0 1 1 .091 .231 .364 .594
通算:14年 1156 3962 3490 422 906 159 20 63 1294 384 23 14 75 32 352 23 13 504 81 .260 .327 .371 .698

表彰[編集]

記録[編集]

初記録
節目の記録
  • 1000試合出場:1994年6月21日、対広島東洋カープ11回戦(東京ドーム)、5番・二塁手として先発出場 ※史上320人目
その他の記録

背番号[編集]

  • 45 (1980年 - 1987年)
  • 5 (1988年 - 1996年)
  • 75 (2006年 - 2008年)
  • 83 (2009年 - 2015年)

関連情報[編集]

出演番組[編集]

脚注[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ 「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年
  2. ^ 「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年
  3. ^ 朝日新聞 2011年11月16日
  4. ^ 【巨人】岡崎前二軍監督が新スカウト部長にスポーツ報知 2016年12月15日

関連項目[編集]

外部リンク[編集]