上川誠二

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上川 誠二
2011年8月6日、QVCマリンフィールドで。
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 和歌山県の旗和歌山県有田郡広川町
生年月日 (1960-03-27) 1960年3月27日(64歳)
身長
体重
173 cm
70 kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 二塁手
プロ入り 1981年 ドラフト外
初出場 1982年4月4日
最終出場 1993年7月1日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴

上川 誠二(かみかわ せいじ、1960年3月27日 - )は、和歌山県出身の元プロ野球選手内野手)。

来歴・人物[編集]

プロ入り前[編集]

和歌山県立箕島高等学校では1977年昭和52年)、エース東裕司(三菱自動車水島)を擁し二塁手として第49回選抜高等学校野球大会に出場。準決勝で山口哲治のいた智弁学園を降し決勝に進出。東が中村高山沖之彦との投げ合いを制し、7年ぶりの優勝を飾る[1]。春夏連覇の期待もかかったが、夏は県予選決勝で田辺高木下透に完封負け。同年が最後の開催となった奈良県勢との紀和大会にも進めなかった。1年下のチームメートに石井雅博がいた。

高校卒業後、三協精機に進み、1年目で都市対抗に出場するも、入社1年目にして不況により野球部が休部となる。映写機のネジ締め作業を3か月行った後、大昭和製紙へ移る。1980年、1981年(昭和56年)と都市対抗に連続して出場するが[2]、同年の冬にまたもチームが休部となる。これを入団時にマスコミは「二度死んだ男」と言った。既に同年のドラフト会議も終わっており、阪急ブレーブス中日ドラゴンズから入団の打診があり[1]ドラフト外中日ドラゴンズに入団。

プロ入り後[編集]

1982年(昭和57年)2月6日の守備練習中にイレギュラーボールが下顎に当たり、顎を亀裂骨折、前歯1本欠損、残る歯もほぼ折れる怪我をしてしまう。しかし、数日後には、顎にブリッジをかけ包帯で包み、歯が取れかけていたので針金で強く巻いた状態でキャンプに再合流し、その姿に近藤貞雄監督は驚き、闘志を買って、翌週には一軍昇格を果たす[1]。1年目ながら二塁手として田野倉正樹と併用され、リーグ優勝に貢献。同年の日本シリーズでは全試合に先発出場。伏兵と称され、第3戦で逆転本塁打、第6戦で同点適時打を放つなど活躍。敗退はしたが、21打数6安打6打点を記録し敢闘賞を受賞。

1983年(昭和58年)オフに監督就任した山内一弘から、ダウンスイングからレベルスイングへの改造指導を受け、ヒットゾーンを広げた[1]。同年はレギュラー二塁手に定着し、初めて規定打席(36位、打率.249)にも達する。

1984年(昭和59年)は自己最高の打率.309(11位)を記録した。

1986年(昭和61年)12月、出産のために妻(後述)の実家がある東京に居たところ、オフに監督就任した星野仙一から「ロッテに行ってくれ。お前は向こうから指名されて行くのだから、しっかり頑張って来い」と電話があり、牛島和彦平沼定晴桑田茂と共に落合博満との4対1の交換トレードでロッテに移籍[1][3]

1989年平成元年)には、自己最高の12本塁打43打点を記録。

1993年(平成5年)には、堀幸一が育ち、控えに回ることも多くなったことから、体力的にはまだ余裕があったが現役を引退する[1]

引退後はロッテの二軍コーチ(1994年 - 1995年)、中日の二軍コーチ(1996年 - 1999年)、東海ラジオ野球解説者(2000年 - 2004年)を経て、2005年(平成17年)から楽天コーチに就任し2007年(平成19年)まで務めた。

2008年(平成20年)からロッテコーチに就任。

2012年まで務めた。

2004年(平成16年)には国士舘大学男子ソフトボール部コーチとして全日本大学ソフトボール選手権優勝に貢献した。

私生活では中日ドラゴンズ在籍当時、1980年昭和55年)に日本代表としてミス・ユニバース世界大会に出場した檜山久恵と結婚した。

ロッテのコーチを退任した現在は、知人の紹介でビル管理の会社に勤務している。

選手としての特徴[編集]

常にバットのグリップを一握り半余らせて握りコツコツと嫌らしく当てていくバッティングは、「ピラニア」と称された[1]。肘を故障する前のルイス・サンチェのストレートをコンパクトなスイングで弾き返すなど、シュアなバッティングが光る巧打者だった。

三振の少ない選手でもあり、規定打席に到達したシーズンでも30三振を記録したことがなく、リーグの最少三振打者に複数回なっている。

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1982 中日 99 254 233 20 53 8 0 2 67 17 4 4 5 2 12 2 2 21 4 .227 .271 .288 .559
1983 127 403 369 36 92 17 3 5 130 30 3 7 6 2 22 2 4 24 6 .249 .299 .352 .651
1984 126 442 404 47 125 26 5 7 182 39 17 5 5 2 27 13 4 16 4 .309 .359 .450 .809
1985 119 415 385 37 98 18 5 5 141 38 4 5 7 3 20 9 0 18 8 .255 .289 .366 .655
1986 129 478 437 43 129 20 5 3 168 22 7 5 15 1 23 5 2 26 7 .295 .333 .384 .717
1987 ロッテ 96 283 262 28 67 12 0 6 97 29 6 6 4 4 13 0 0 15 5 .256 .287 .370 .657
1988 98 258 230 25 60 9 2 2 79 20 2 1 6 3 16 1 3 6 5 .261 .313 .343 .657
1989 112 394 361 43 103 18 0 12 157 43 8 3 5 0 26 2 2 22 11 .285 .337 .435 .772
1990 107 313 291 27 85 17 3 6 126 28 7 0 7 4 9 2 2 19 3 .292 .314 .433 .747
1991 84 142 131 14 35 4 1 2 47 10 1 1 4 1 5 1 1 9 0 .267 .297 .359 .656
1992 57 102 95 5 21 3 0 1 27 5 0 0 2 0 5 0 0 8 1 .221 .260 .284 .544
1993 16 16 16 0 4 0 0 0 4 1 0 0 0 0 0 0 0 2 0 .250 .250 .250 .500
通算:12年 1170 3500 3214 325 872 152 24 51 1225 282 59 37 66 22 178 37 20 186 54 .271 .312 .381 .693
  • 各年度の太字はリーグ最高

表彰[編集]

記録[編集]

初記録
節目の記録

背番号[編集]

  • 59 (1982年 - 1984年)
  • 6 (1985年 - 1993年)
  • 77 (1994年 - 1995年)
  • 96 (1996年)
  • 92 (1997年 - 1999年)
  • 72 (2005年 - 2012年)

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g 澤宮優『ドラフト外』河出文庫、2013年、ISBN 9784309412603
  2. ^ 「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年
  3. ^ 落合博満、秋山幸二、糸井嘉男…世紀の“大型トレード”はこうして成立した!”. 新潮デイリー (2021年11月17日). 2022年8月17日閲覧。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]