工藤公康

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
工藤 公康
福岡ソフトバンクホークス 監督 #81
工藤監督.jpg
日本一を決めた直後のセレモニー(2017年11月4日、日本シリーズ第6戦)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 愛知県名古屋市昭和区(現:天白区
生年月日 (1963-05-05) 1963年5月5日(58歳)
身長
体重
176 cm
80 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 投手
プロ入り 1981年 ドラフト6位
初出場 1982年4月10日
最終出場 2010年8月25日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督歴
  • 福岡ソフトバンクホークス (2015 - )
野球殿堂(日本)
Empty Star.svg Empty Star.svg Empty Star.svg 殿堂表彰者Empty Star.svg Empty Star.svg Empty Star.svg
選出年 2016年
得票率 76.6%(337票中258票)
選出方法 プレーヤー表彰

工藤 公康(くどう きみやす、1963年昭和38年〉5月5日 - )は、愛知県名古屋市天白区(旧:昭和区[注 1]生まれ[1](同県豊明市出身とする文献もある。出身地については後述)の元プロ野球選手投手[2]福岡ソフトバンクホークス第20代監督(現職)[2]

選手時代は14度のリーグ優勝、11度の日本一を経験[3]西武ライオンズ福岡ダイエーホークス読売ジャイアンツ(巨人)の3球団で日本シリーズを制覇し、優勝請負人と呼ばれた[4][5]。日本シリーズ通算最多奪三振(102奪三振)記録を保持する[6]。また最高勝率もNPB最多タイ記録となる4回獲得している。

現役引退後は、2012年 - 2014年の3年間にわたり野球解説者野球評論家として活動し、2015年からはダイエーの後身であるソフトバンクの監督(第20代)として指揮を執っている[7][8]。監督としては2020年までにソフトバンクを3度のパシフィック・リーグ(パ・リーグ)優勝[9]、5度の日本一(日本シリーズ優勝)に導いている[10]

長男は工藤阿須加俳優[11]、長女は工藤遥加プロゴルファー[12]

経歴[編集]

プロ入り前[編集]

出生[編集]

1963年昭和38年)5月5日愛知県名古屋市天白区[注 2](当時は昭和区[注 1]で誕生[1]。3人兄弟の三男だった[15]。父親[注 3]名古屋市交通局バス運転手で[1]、2歳の時に妻(公康の実母)と離婚[15]。そして公康が6歳のころに後妻(公康の継母)と再婚し、妻の連れ子と、2人の間に生まれた息子を加えた7人家族で暮らしていた[注 4][15]

出身小中学校は名古屋市立高坂小学校名古屋市立久方中学校(名古屋市天白区)で[注 5][13][20]、公康の高校時代、家族は天白区高坂町の市営住宅「高坂荘」に住んでいたが[21]、公康が西武に在籍していた1984年(昭和59年)に同県豊明市二村台に引っ越している[注 6][1]

ホームラン』(日本スポーツ出版社廣済堂出版)の選手名鑑によれば、工藤の出身地は1982年版 - 1984年版では「愛知県名古屋市天白区」とされていたが[23][24][25]、1985年版および2015年版・2020年版選手名鑑では「愛知県豊明市」とされている[26][27][2]

小中学校時代[編集]

公康は高坂小学校3年生から野球を始めた[28]。まず父親から野球を教えられ[29]、一緒にキャッチボールをするなどしていたが、幼少期の公康[注 7]は野球は好きではなかった[30]。これは、熱狂的な読売ジャイアンツ(巨人)ファンであった公康の父親が[17]、巨人が負けると機嫌を損ねて子供たちに当たり散らしたり、キャッチボールの際に息子がうまく投球できないと自分でボールを拾いに行かず、「早く取ってこい!」と怒鳴るなどしていたためだった[30]。一方、公康は父親にカーブを教えてもらって投げたところ、ドロップ気味に大きく変化したため、父親から「お前は投手をやったらいいかもしれない」と言われていた[29]

公康は4年生で高坂小の野球部に入部すると、5年生からはカーブを武器にエースとして活躍[1]。6年生の時には4番打者(投手)として中日新聞少年野球大会に出場し、名城公園で満塁本塁打を打ち、チームを大会優勝に導いている[29]

少年時代には野球週刊誌を購入してプロ野球選手の投球フォームを研究したり、バッティングセンターに通ったりして野球に打ち込んだが[31]、中学入学直後は野球部ではなく、ハンドボール部に入部[32]。しかし、公康の野球センスに注目した教師(ハンドボール部の顧問)によって野球部に移籍させられ[32]、すぐエースになる[1]。中学3年生の時には名古屋市大会の優勝投手になった[33]が、愛知県大会決勝戦で敗退し、全国大会には出場できなかった[1]

愛工大名電高校時代[編集]

久方中学校を1978年度(1979年3月)に卒業[34]。工藤家は経済的に貧しく、子供5人全員を無条件で高校まで進学させる余裕がなかった[注 8]ため、父は公康に対し「野球で特待生として声がかかれば(高校に)行かせてやる。そうでなければ働け」と言っていたが、中学時代から評判の好投手だった公康は地元名古屋市の野球部名門校である愛知工業大学名電高等学校享栄高校などからスカウトされた[注 9][35]。当時は「甲子園を目指す」「プロ野球選手になる」という夢を持っていたわけではなかったが、公康は結果的に野球を高校進学の手段とすることになった[36]。愛工大名電は当時まだ新興校だったが、当時監督に就任したばかりの中村豪が工藤の才能に惚れ込んでスカウトし、入学させた[37]。1年生の秋からエースとして背番号1を着用した[33]。同期には中村稔(1番打者・遊撃手 / 後に日本ハム入り)・高橋雅裕(2番打者・二塁手 / 後に大洋入り)・山本幸二[注 10](4番打者・捕手 / 後に巨人入り)がいる[33]。高校時代は制球力を鍛えるため、学校とグラウンドの間(約13 km)を連日走ったり、山本とともに投球練習を繰り返したりしていた[33]

高校時代は、同学年かつドラフト同期の槙原寛己大府高校から巨人1位指名)・浜田一夫愛知高校から中日2位指名)とともに、愛知三羽烏と呼ばれ[26]速球と大きく割れるカーブを武器に活躍[38]。2年生秋の愛知県大会では自らの牽制悪投で西尾東高校に敗れた[33]

1981年4月29日、春の愛知県大会の準々決勝(熱田球場)で槙原を擁する大府高校と対戦[注 11]し、槙原から場外本塁打を打って7対1で勝利[33]。そして県大会で優勝し、中部大会に進出したが、2回戦(静岡代表・御殿場西高校との試合)で延長12回2死から連続5四球により逆転サヨナラ負けを喫した[40]。これにより、中村監督が2年生の左腕・長谷川に夏の大会を託すことを考えたほどのスランプに陥ったが、槙原の活躍や長谷川の成長に触発され復調[41]夏の愛知県大会では第5回戦(熱田球場・対東邦高校戦)で打席に立ったところ、右目付近に死球を受けて医務室に搬送されたが、意識朦朧状態になりながらも続投を志願[41]。中村も「将来のためにも、このまま終わらせたくない」と続投させ、4被安打に抑えて完封勝利[42]。そして浜田にも投げ勝ち、念願の甲子園(第63回全国高等学校野球選手権大会)出場を果たした[39]

甲子園デビュー戦は長崎代表長崎西高校との試合[1](第2回戦・8月13日)[43]。この試合では16奪三振を記録し[1]、史上18人目(19度目・金属バット採用後では初)のノーヒットノーラン[注 12]を記録(4対0)[43]。3回戦(対北陽高校戦)でも高木宣宏と投げ合い[45]、速球の球速は138 km/h[39]、投球成績も延長12回21奪三振[注 13]を記録[1]。チームは延長12回裏に中村稔のサヨナラ本塁打により勝利し[44]、準々決勝・志度商業高校香川代表)戦では5回表に自らソロ本塁打を放ち、相手打線を2被安打に抑えて完封勝利を記録[47](12奪三振)[1]。これにより、チームを史上初のベスト4進出へ導き[47]金村義明を擁する兵庫代表報徳学園高校との準決勝(8月20日)に臨む[21]。しかし蓄積疲労により上腕に違和感を覚えるようになり[48]、7奪三振・13被安打の投球内容で[1]、試合も3対1で敗れ、決勝戦進出を逃した[21]。同大会における試合数は4試合[49]投球回数は39イニング、奪三振数は56(当時・大会歴代5位)[38]

ドラフト指名[編集]

甲子園での活躍をきっかけに「屈指のサウスポー」と高い評価を得るようになり、熊谷組リッカー東京ガス本田技研など社会人野球チーム二十数社が名古屋電気高校に工藤の入社を依頼していた[50]。一方でプロ球界のスカウトからも「即戦力の左腕」と評価され[39]同年(1981年)のドラフト会議における目玉選手として注目されるようになり、会議直前の『毎日新聞』では金村・槙原とともに「大型投手トリオ」「高校のビッグスリー」と[注 14][49]、『中日スポーツ』(中日新聞社)では「ドラフトでは人気を集め、1位指名は確実。(パシフィック・リーグ〈パ・リーグ〉の)西武ライオンズを除く11球団が事前調査を済ませている」と報道されていた[46]日本ハムファイターズ横浜大洋ホエールズロッテオリオンズの3球団を除く9球団が工藤に対し、事前に指名の挨拶をしていた[51]が、地元・愛知県に本拠地(ナゴヤ球場)を置く中日ドラゴンズは特に工藤を強く勧誘し[52]、同じく「愛知三羽烏」とうたわれた槙原[注 15]・浜田や、尾上旭中央大学)・津田恒美協和醗酵[注 16]とともに1位指名候補に挙げていた[56](最終的には尾上を1位指名)[55]

一方で工藤本人はセントラル・リーグ(セ・リーグ)球団[49](特に巨人)[注 17]を希望していた[46]が、ドラフト会議4日前(11月21日)に突然「プロ入り拒否」を宣言[57]。同日に工藤の父も、指名の挨拶をしてきた9球団に対し「指名お断り」の文書を発送した[51]。これは、工藤の父[注 18]が「息子は甲子園に出てから慢心の気配がする。人間形成のため就職すべき」と考え、熊谷組に就職させようとしたためで[51]、工藤は両親から説得され[注 19]、一時はプロ入り拒否を宣言した[57]

しかし、ドラフト会議当日(11月25日)に西武が6位で工藤を強行指名した[51]。工藤は指名直後こそ「進路は決定している。『プロには行かない』と言ったのに指名されてびっくりしている」と述べたほか、工藤の父も入団交渉に応じない構えを見せていたが[59]根本陸夫管理部長が指名直後に挨拶に出向き、その後も西スカウトを中心に粘り強く交渉[60]。その結果、工藤も両親も最終的には翻意[注 20]し、工藤は12月28日に西武入団を表明して西武と契約[60]。その後、工藤の父親が一転して「いったん入ることになっていた熊谷組が(西武入りの)了承をしていない[注 21]ことが分かった。約束が違う」と態度を硬化させ、契約の白紙撤回を求めた[62]が、1982年1月6日に熊谷組野球部部長・大塚本夫(同社専務)が「工藤本人と父親から『熊谷組入りしない』との意思表示がない限り、当社野球部との間で交わした入社の約束は有効だが、この件に関して熊谷組が圧力をかけることはない」と表明[63]。工藤の父は同月8日に熊谷組本社を訪ねて工藤の入社内定取り消しを申し入れ[64]、名電高にも西武入りの了承を得た[注 22]ため、工藤は同月12日に正式に西武への入団を発表した[67]

入団時の経緯については、管理部長(編成責任者)の根本陸夫が主導して工藤をドラフト指名し、入団に至らせたとされ、俗に「根本マジック」と称される出来事のひとつとされている[68]。しかし、広岡達朗1982年より西武の監督に就任)は「ドラフト会議時の根本は工藤の指名に反対する立場で、西武監督に就任したばかりの自分が指名を強く進言した。結果、ドラフト会議当日に会場で6位指名することを決めた」と述べている[68][69]。背番号は47で、同年のドラフト1位だった伊東勤が契約金5,000万円・年俸300万円の契約だったのに対し、工藤は契約金6,000万円・年俸480万円とともに伊東より高額だった[70]。西武入団時には「目標となる選手もライバルもいない。自分だけの独特の型を持ちたい」と発言した[51]一方、「尊敬する人」としては同じ左腕の金田正一を挙げていた[67][1]。高校3年生夏ごろの体重は70 kg(本人曰く「ベスト体重」)だったが、プロ入り時には体重が7 kg増えていた[71]

なお「愛知三羽烏」全員について高い評価を下していた中日は、最終的に3人のうち浜田一夫のみを「3人の中で1番」として2位指名したが[72]、工藤・槙原[注 15]はともにNPBで通算150勝以上を挙げた[74][75]一方、浜田は1勝もできず球界を去った[76]。また、中日はドラフト5位でプロ入り拒否を表明していた浜田知明電電東海)を指名[注 23]したが、これについて『中日スポーツ』には「今年のドラフトは『不作』『コマ不足』と言われており、指名枠が増えたので『交渉権だけでも確保しておこう』という球団が出てきてもおかしくない。名電からは山本が巨人から2位指名を、中村稔が日本ハムから3位指名を受けたが、名電関係者は『地元の中日にも1人くらい指名してほしかった』と言っていた。入団説得が困難な浜田知を指名するぐらいなら、純地元選手である工藤を指名すべきではなかったのか」というコラムが掲載された[79]

西武時代[編集]

入団1年目の1982年から監督の広岡達朗から「坊や」とかわいがられていたが[80]、一方でその広岡から厳しい指導を受け[注 24]、大きな影響を受けた[82][83][84][85][86][87][88]。広岡からは「マウンドでオドオドしない。球の力もプロ級で、短いイニングなら使える」と評価を受け、高卒新人ながら開幕一軍ベンチ入りを果たす[89]。8月31日の対日本ハムファイターズ後期9回戦[80]西武ライオンズ球場)でプロ初勝利[90]。同年は中継ぎで起用されて27試合に登板し、1勝1敗・防御率3.41と好成績を残した[91]この年のパ・リーグプレーオフに登板し、第2戦では勝利投手になっている。なお前期後期制時代のプレーオフはこの年が最後であった。

2年目の1983年は「新人王候補の筆頭」として注目されたが、オープン戦開始後はその声も薄れていった[92]。3月ごろには武器であるカーブの切れ味が鈍り、本人も自信を喪失しかけていたが、5月15日の対近鉄バファローズ戦(藤井寺球場)で3番手投手として登板し、シーズン初勝利[93]。同年も主に中継ぎで起用され、防御率も3.24を記録した一方[91]、2試合に先発した。しかし、入団3年目の1984年はわずか9試合の登板に終わり[91]、「(工藤には)精神的に甘い面がある」と感じた広岡がハングリー精神を身に着けさせるため、アメリカマイナーリーグ(1A級サンノゼ・ビーズ)へ留学させた[94]。工藤は留学先でメジャーリーグを目指し、真摯に野球に取り組む選手たちを見たことが転機となり、帰国後に宮田征典コーチの指導を受け、主力投手となった[95]

1985年1月5日(自主トレーニング開始日)にキャッチボールをしていたところ、肩を痛めて選手生命の危機に立たされる[92]。そのため開幕直後は二軍イースタン・リーグ)で治療に専念したが、4月中旬に一軍昇格して以降も中継ぎ・ワンポイントで登板[92]。7月9日の対南海ホークス線でプロ入り初の完投勝利を挙げると、8月2日の対日本ハム戦、8月8日の対近鉄戦と3戦連続で完投勝利を記録[96]先発ローテーションに加わり[61]、34試合登板[92]・8勝3敗・防御率2.76の成績を残し[61]最優秀防御率のタイトルを獲得して広岡西武の3度目のパ・リーグ優勝に貢献[91]

1986年は初勝利が5月8日の対近鉄戦と出遅れたが、7月13日の対近鉄戦では9回一死までノーヒットノーランに抑える快投を見せた[61]。それ以降は調子を上げ、2桁勝利(11勝)を挙げた[61]。また完投数も10を記録した。広島東洋カープとの日本シリーズでは西武が第1戦を引き分けた後3連敗で迎えた第5戦の延長12回、投手である工藤がサヨナラ安打を記録した。その後西武は息を吹き返し4連勝で日本一。1勝2セーブを挙げた工藤はシリーズMVPに選ばれた。

1987年は15勝を挙げたほか、シーズン最多の23完投を記録し、2度目となる最優秀防御率、最高勝率ベストナインのタイトルも合わせて獲得。しかし、この年のMVPは優勝争いの後半戦に9勝1敗と活躍した東尾修が選出された。それでも、この年の日本シリーズでは巨人相手に1完封を含む2勝1Sで前年に続き2年連続MVPを受賞し、名実共にパリーグを代表する左投手となる。

1988年は開幕戦は完封勝ちも、その後は打ち込まれる試合が続き、6月に二軍落ちした。一軍復帰後は調子を取り戻し、10勝10敗1セーブだったが、11完投を記録し、これで3年連続2桁完投を記録した。1989年は調子を落とし、4勝8敗2セーブの成績で終わり、中継ぎで登板することもあった。最終的な登板数は33だった。

1990年は故障離脱があり、9勝を挙げたものの、1984年以来となる投球回数100未満でシーズンを終了した。1991年シーズンに自己最高の16勝を上げ復調し、最高勝率を獲得。1992年も11勝を挙げ、チームのリーグ優勝と日本一に貢献した。

1993年のシーズンは15勝3敗、最優秀防御率、最高勝率、ベストナイン、そして自身初となるパ・リーグMVPを受賞する。この年のシーズンオフから始まったFAの権利を取得するも西武に残留。

1994年も11勝を挙げ、4年連続2桁勝利を記録したが、秋の契約更改時にそれまで老朽化していた練習設備の改善を訴え続けていたものの、球団からは色よい答えが返ってこないことから11月9日にFA権行使を表明し、11月15日に西武を退団した。根本が球団社長、王貞治が監督に就任した福岡ダイエーホークスへの移籍が12月6日に発表された。同年、石毛宏典もFAでホークスへ移籍したが、同一チームの2選手が、別の同一球団へ同一年度にFA移籍した史上初の事例となった。西武の黄金時代を支えた秋山幸二と再びチームメイトになり、チームの再建を託された。

西武へは「13年間有難うございました」などと感謝の気持ちを忘れてはいなかった。

ダイエー時代[編集]

1995年、移籍後の初登板は古巣西武との開幕戦の先発で、この試合は大乱打戦で工藤も4回を投げ8失点だったが試合はチームが勝利したため負けは免れた。シーズンでは6月に1ヶ月ほど故障離脱はあったものの、チームトップの12勝を挙げたが、チームは不振で自身初のBクラスを味わった。

1996年は2年連続の開幕投手を務め29試合に先発し、9完投を記録し8勝を挙げ、初の178奪三振で最多奪三振のタイトルを獲得。一方、開幕から黒星先行で月間勝ち越しが一度もなかった。結局、同年の成績は29試合登板・8勝15敗・202イニング2/3投球回・防御率3.51(パ・リーグ規定投球回到達者数20人中12位)の成績で[97]、リーグ最多の15敗(近鉄酒井弘樹と同数)を喫した[98]。一方、同僚の武田一浩は防御率(3.84、20人中16位)、投球回数(171回)とも工藤を下回っていたが、リーグ3位[注 25]となる15勝[99](8敗)を挙げている[97]

1997年は背番号を西武時代と同じ47に戻した[100]。同年は2年ぶりの2桁勝利となる11勝を挙げたが、一軍定着後初となる完投0でシーズンを終えた。

1998年は2年ぶりに開幕投手を務めたが故障離脱があり、7勝に留まった。しかし、チームはダイエー譲渡後初となるAクラス入りを果たし、オリックス・ブルーウェーブと同率の3位(しかし前年の成績はオリックスが上だった為開幕権はオリックスになった)に入り、工藤自身西武時代の1994年以来4年ぶりにAクラスを経験した。

1999年は、工藤はエースとして11勝を挙げ4度目となる最優秀防御率と、2度目となる最多奪三振のタイトルを獲得。ダイエーの福岡移転後初のリーグ制覇に大きく貢献し、MVPに選ばれた。中日ドラゴンズと対戦した日本シリーズでも第1戦に先発し、シリーズ新記録となる13個の三振を奪って完封したこの試合で自身の日本シリーズ通算奪三振数を86に伸ばし、稲尾和久が持っていた記録(84)を塗り替えた[101]。中日監督の星野仙一は「敵を褒めるのは嫌だが、工藤はウチを0点に抑えたわけで、たいしたモンだ」と悔しさを露にしてコメントした。工藤自身はこの試合のピッチングは「生涯最高の出来だった」と評し、三振を奪うのもゴロを打たせるのも自分の思い通りにいったと後に自著で語っている。「圧倒的中日有利」との下馬評の中、工藤の完封で勢いに乗ったダイエーが4勝1敗で日本一に輝き、工藤もシリーズ優秀選手に選ばれた。シーズン終了後の11月1日にFA宣言し、一時は中日ドラゴンズかメジャー移籍に絞られたとも報道されたが[102]、最終的に読売ジャイアンツへの移籍が12月14日に発表され、背番号「47」、4年契約を辞退し、単年契約を結んだ[103]。FAにあたっては「もっと(ダイエーで)やりたかった」とも語った。

2008年に『週刊ベースボール』のインタビューで、オークランド・アスレチックスからもオファーがあったことを明らかにした。 結果的に日本を選んだのは、相談した野茂英雄に「迷っているなら、それは日本に残りたいということ。一度でも迷ったら海は渡らないほうがいい」と助言を受けたからだという[104]

移籍に際し、福岡では工藤の残留を願う17万3000人もの署名が集まった。工藤は移籍後、約7年かけて署名に参加したファン全員に住所と宛名を自筆した感謝の手紙を送った[105]

巨人時代[編集]

移籍1年目の2000年は「優勝請負人」として投手陣を引っ張りシーズン序盤から快調に勝ち星を重ね、前半戦だけで10勝を挙げる活躍を見せる。シーズン終盤に右ふくらはぎを痛め一時離脱したものの、12勝を挙げてリーグ優勝に貢献し、最優秀投手賞を受賞。日本シリーズでは故障をおして第1戦に先発し、前年まで所属していたダイエーを退け、2年連続の日本一に輝いた。しかし、翌年2001年は左肩の故障に苦しみ、5試合の登板に終わった。

2002年は移籍後初自身としても1999年以来の防御率2点台(現役では最後の規定投球回クリア)だったが援護に恵まれず9勝8敗ながら、チームのリーグ優勝と日本一に貢献する。日本シリーズでは古巣の西武と対戦。第3戦に先発し、8回2失点8奪三振の好投。チームはそのまま勝ち、自身も勝利投手となり、自身の持つシリーズ奪三振日本記録を102まで伸ばした。2003年は故障で戦列を離れたこともあり、7勝6敗、防御率4.23の成績で終わった。

2004年8月17日、対ヤクルト戦で2失点完投勝利で通算200勝を達成、日本プロ野球史上23人目、41歳3か月での200勝は当時の史上最年長記録。また、この試合でプロ入り初本塁打を記録、41歳、プロ入り23年目での初本塁打は日本プロ野球史上最年長記録。ただ、打者としては、2000年から2002年にかけて84打席連続無安打というセ・リーグ記録を残している(日本記録は嵯峨健四郎の90打席)。自著の中で「昔日本シリーズで打ったイメージがあるらしく、巨人に入った時は『バッティングも期待してるぞ』と声をかけてもらったが途中から『バッティングはもういい。バントだけしっかりやってくれ』と言われるようになった」と述べている。同年は防御率4点台ながらも4年ぶりの2桁勝利を挙げた。

2005年5月19日の対ソフトバンク戦でセ・リーグ最長完投勝利記録(当時)を更新。2005年8月26日の対阪神戦では最年長2桁勝利記録(当時)を更新した。2017年現在では、最年長200勝を含め、いずれも山本昌が記録を更新している。この年の工藤は11勝を挙げたが、規定投球回には到達できなかった。

2006年はシーズン前半に3勝を挙げ、7月には大野豊を上回り、プロ野球史上初の43歳2か月以上の現役左腕投手となった。しかし、6月 - 7月の2試合で計20失点を喫し、更に肩痛も発症し、登録抹消。最終的に3勝2敗、防御率4.50の成績でシーズンを終えた。12月の契約更改では限度幅を超える年俸ダウンの提示を受け保留。年越し、トレーニング地へ渡米していた。オフには、巨人の若手の成長株3人(会田有志山口鉄也木村正太)をアリゾナ自主トレに帯同させ、プロとしての私生活やトレーニングの大切さを一から指導を行い、才能を開花させた。この自主トレ期間中に門倉健がFA移籍したことに伴う人的補償で横浜ベイスターズへの移籍が決まった。

横浜時代[編集]

2009年、横浜時代

2007年1月7日、横浜から巨人にFA移籍した門倉の人的補償のプロテクト枠28人に入らなかったことが判明したこと、また、それに対して横浜は215勝左腕の経験を評価して獲得候補の一人と考えていることなどが先行して報道された。なお、巨人フロント側は本来秘密裏に行われるはずの交渉が報道先行になったことに対し「遺憾の意」を表明した。1月9日、横浜への移籍が正式に決定した。自身がFA移籍をし、なおかつFAの人的補償となったのは2006年の江藤智に続き2例目。江藤は工藤と同じ2000年に巨人へFA移籍している。横浜へ移籍後も背番号は47。

マスコミからは、トレードで同じく横浜に移籍した仁志敏久と共に巨人との「因縁の対決」が期待されていたようではあるが、1月11日放送の報道ステーションのインタビューで「自分がフロントだったら43歳の選手をプロテクト枠には入れない」と在籍した球団のチーム事情へ理解を示し、「自分を欲しいと言ってくれる球団があることに感謝している」と明るく語った。横浜球団には「明るいイメージの球団。ただ投げる以外でも貢献したい」とメッセージを送り、「もうトレーニング先でクルーンに会った」と早くもチームメイトへのメッセージを飛ばしている。2007年1月19日の正式入団の記者会見ではTBSアナウンサー青木裕子の「ハマの何と呼ばれたいですか?」の質問に対し「じゃ、ハマのおじさんでいいです。」と、茶目っ気たっぷりに答えた。年俸は前年の2億9,000万円から2億円減の9,000万円(他に最高5,000万円の出来高払い)と、プロ野球史上最大の減俸額(当時)となった(金額は推定)。

2007年4月1日、対巨人戦に登板し一軍での実働年数が26年になり、野村克也の持つプロ野球最長記録に並んだ。しかし開幕当初は不安定な投球が目立ち3連敗で自ら二軍行きを志願し調整、5月11日の対広島戦の9回に9年ぶりのリリーフ登板で一軍復帰。5月23日、対西武戦に先発登板し勝利投手になったことで、米田哲也と並んでいた22年連続勝利記録を更新し23年連続勝利を達成した。また、44歳以上での勝利投手は史上2人目の記録。

同じ年7月12日の対中日戦で、6回裏に中田賢一から中前打を放ち44歳2か月というセ・リーグ最年長安打記録を樹立、さらに9月26日の阪神戦では5回裏に橋本健太郎から左前打を放ち44歳4か月と自身の記録を更新した[106]。2007年7月24日の対巨人戦に先発し、勝利投手となったことで史上初の近鉄を含めた全13球団から勝ち星を挙げた投手になった。規定投球回には満たなかったものの4年続いた防御率4点台を3点台に収め7勝を挙げた。同年オフの契約更改では、2000万円増の年俸1億1000万円で更改した。

2008年、4月1日の対ヤクルト戦で先発して実働27年となり、野村と並んでいた実働26年を更新し歴代単独1位となるも、肘を故障しこの1試合のみで二軍に降格した。9月9日の日本ハム湘南戦(鎌ヶ谷)16回戦に先発して5イニングを投げ、イ・リーグ最年長勝利投手となった。しかし、一軍では1勝も出来ず、1984年以来24年ぶりの一軍未勝利に終わる。同年オフの契約更改では、野球協約で定められている減額制限を超える約55%減の年俸5000万円プラス出来高払いで更改した。

2009年には、代名詞となった背番号47の着年数が26年に達し、プロ野球新記録となった。4月8日には古巣の対巨人戦に先発し、自らの持つ実働年数記録を28年に更新した。この試合に8失点でKOされると、その後の二軍での調整を経て、チームの方針からリリーフに転向。工藤の本格的なリリーフは1989年以来20年ぶりのこととなった。5月5日の対巨人戦では、自身初のホールドを記録。同5月25日の対楽天戦で4番手で9回表に登板し無失点で抑えると、チームが逆転サヨナラ勝ちしたことにより、自身が持っていた44歳4か月のセ・リーグ最年長勝利記録を46歳20日に更新した。この勝利で通算223勝とし、村山実を上回り単独13位。また40歳以降37勝目となり、36勝で並んでいた大毎若林忠志を上回り単独1位となった。7月1日の対ヤクルト戦で1-2とリードされていた6回表二死から登板し打者1人をわずか4球で抑え、その裏チームが逆転しそのまま9-5で勝利したため通算224勝目を挙げた。この試合は地方である山梨・小瀬球場で開催されたためファンサービスも兼ねての登板であったが、結果としてこれがプロ野球生活最後の勝利となった。この年自己最多の46試合に登板したが、9月15日、選手の若返りを図りたい球団本部から、戦力外通告とシーズン終了をもって自由契約となる旨の通知を受ける。現役続行の意思を示し、古巣の西武が獲得の意向を示した。

西武時代(第2次)[編集]

2009年11月14日、工藤が「家族会議の結果、西武にお世話になる事に決めた」と明言、16年ぶりに古巣に復帰することになった。デビュー以来、ほぼ毎年つけ続けてきた背番号47は主軸左腕投手の帆足和幸が着用。帆足は「(背番号47は)元々、工藤さんの番号」と返還の意向を見せたが、工藤本人が「若くて旬な選手に気を遣わせたくない」と固辞[107]。11月16日、背番号は「55」と発表された[108]

2010年7月18日、前半戦終了間際に復帰後初めて一軍登録された。7月20日の対ソフトバンク戦(福岡 Yahoo! JAPANドーム)で、7回裏に先発・野上亮磨の後を受けて2番手で登板し、自身が持つ実働年数の記録を29年に更新した。しかし、以後は10試合で0勝2敗、防御率10.50。8月25日の対ロッテ戦では同点の場面で登板したものの勝ち越しの本塁打を打たれ、28日に登録抹消となった。9月27日に球団から戦力外通告を受け、10月1日に退団[109]

西武退団後・引退表明[編集]

西武退団後も現役続行の意思を表明していたが、2011年シーズンは獲得に名乗りを上げる球団が現れず、トレーニングを続けながらメジャーリーグへの挑戦も視野に入れて1年間浪人した[110]。現役続行に向けてトレーニングを積む傍ら、文化放送のゲスト解説者も務めた。この頃父親が死去しており、告別式に顔を出せないほど多忙だったという[111]

7月、秋にメジャーリーグのトライアウトを受験するつもりである旨表明した[112]が、後述の通り肩の傷が癒えなかったことから受験には至らなかった。

2011年11月22日のスポーツ報知の取材で、肩関節唇に炎症を抱えるなど肩の調子が上がらないことで、本人の口から引退を示唆する発言が出た。最終的な進退判断は、家族と話し合って決めるとしていた[113]。その後、横浜ベイスターズを買収したDeNAに新監督就任を要請されたが、12月5日に交渉が合意に至らず破談したことが明らかになった[114]。工藤はこの時鹿取義隆達川光男の入閣を要求したが、高田繁GMにより却下されている[115]。12月9日、自身のブログで肩の故障が治癒しないことから現役引退を決意したことを表明した[116]。工藤の引退後は、中日山本昌が日本プロ野球で最年長の選手となった(満50歳の2015年のシーズンで引退)。1988年限りで球団売却された阪急ブレーブス・南海ホークスから勝利した経験のある最後の現役選手でもあった。

2012年4月7日、西武ドームでの西武対ソフトバンク戦の試合前に工藤による始球式と引退セレモニーが行われ、工藤と共に西武黄金時代を支えた西武監督の渡辺久信がキャッチャー、ソフトバンクの監督の秋山幸二が打席に立った[117]。工藤の投じたゆるい大きなカーブはワンバウンドし、「マウンドから届かなかったのは初めて」とコメントしている[118]

引退後[編集]

2012年からは、日刊スポーツ評論家や文化放送ライオンズナイター』の解説者として活動[119]テレビ朝日の『報道ステーション』にも、日本ハムの監督に就任した栗山英樹の後任扱いで、プロ野球担当キャスターとして定期的に出演している[120]

また、2011年まで栗山が務めていた朝日放送の「熱闘!高校野球ナビゲーター」を継承。全国高等学校野球選手権大会の予選・本大会期間中には、プロ野球の解説・評論活動と並行しながら、同局が制作する大会関連番組(『速報!甲子園への道』『熱闘甲子園』など)で司会や取材を担当する[121]

2013年7月19日、自身のブログ筑波大学大学院に合格したことを発表[122]。翌年4月、同大学院人間総合科学研究科に仁志敏久吉井理人とともに入学した[123]

福岡ソフトバンクホークス監督時代[編集]

2014年11月1日、西武、ダイエーの先輩でもあり、前任監督であった秋山幸二の勇退を受け、その後を引き継いで福岡ソフトバンクホークス監督に就任することが決定し、王貞治球団会長同席の下に就任記者会見を行った[7][124][8]。投手出身のホークスの監督は杉浦忠以来26年ぶりである。なお、監督就任にあたり、工藤の背番号は当初、王がダイエー / ソフトバンク監督在任時代に着用していた「89」をつけるという報道もされていたが[125]、前任者の秋山が着用していた「81」を引き継ぐことになった[7][124]

2015年の就任1年目のシーズンでは、交流戦は12勝6敗、首位・日本ハムと0.5ゲーム差の2位で終えるも、6月16日の阪神対日本ハム戦で日本ハムが敗れたことで、ソフトバンクの交流戦勝率1位が確定[126][127]。チーム打率・287、チーム本塁打・23本、90得点はいずれも12球団トップ[128]。福岡移転後最速でマジック38が点灯し[129]9月6日の対楽天戦に5-3で勝利し3位以内が確定、両リーグ一番乗りでのクライマックスシリーズ進出を決めた[130]9月17日、本拠地での対西武戦に勝利し、パ・リーグ最速でリーグ優勝を決める[131]クライマックスシリーズファイナルステージでは、ファーストステージ勝者のロッテと対戦。3連勝でアドバンテージの1勝を含めて4勝0敗で日本シリーズへ進むこととなった[132]。 10月29日の日本シリーズ第5戦では、5-0で迎えた最終回を守護神のデニス・サファテが締めくくり、就任1年目にしてレギュラーシーズン、クライマックスシリーズ、日本シリーズの3部門において完全優勝を成し遂げた。2016年1月18日、野球殿堂入りを果たした[133][134][135]

日本一後の胴上げ(2017/11/4 日本シリーズ第6戦後)
日本一後の胴上げ(2018/11/3日本シリーズ第6戦後)

2016年は首位を独走し、一時は2位に最大11.5ゲーム差をつけていたが失速、大谷翔平らを擁する日本ハムに逆転されて2位に終わり、CSでも敗退し、秋山監督時代から続いた日本シリーズ連覇が2で途絶えた。野手総合巡回コーチに関川浩一を起用したが、試合中の作戦面やブルペンとの連携、また選手の昇降格などで試行錯誤を繰り返した[136]。関川は一年で解任された。

2017年は参謀役に達川光男をヘッドコーチに招聘し、森浩之を作戦兼バッテリーコーチを抜擢しベンチを強化した[137]。2位西武に13.5ゲーム差をつけてのリーグ優勝。 CSは楽天に4勝2敗、日本シリーズはDeNAに4勝2敗で日本一になった。なお、この勝利で選手監督通じて、選手時代に所属した球団全てから日本一を上げることとなった。その後、2018年2019年は2年連続でシーズン2位からの下剋上を果たし、日本シリーズ3連覇を達成した。就任5年でリーグ優勝2回・日本一を4度達成し、2019年シーズン終了後2021年までの契約延長が発表された [138]

2020年は、中盤から首位に立ち一時は独走状態となりながら、10月に入り9日には2位ロッテにゲーム差なしまで迫られたが、直後の12連勝で2位以下を突き放し、10月27日、2位ロッテとの直接対決に勝利し3シーズンぶりのリーグ優勝を果たす。そのままの勢いで6連勝を記録し、日本プロ野球新記録となる月間22勝を達成[139]。特別に2位チームとの3戦先勝方式のみとなったCSをロッテに連勝し突破、巨人と2年連続対戦となった日本シリーズでは、第4戦の1回表以外巨人にリードを許すことなく前年に続き4連勝で優勝、2018年の第3戦から続く日本シリーズにおけるチームの試合連勝記録を12、また2011年の第7戦から続く日本シリーズにおける本拠地連勝記録を16にまで伸ばした。

2021年3月27日のロッテ戦(福岡PayPayドーム)での勝利で、戦後生まれおよびドラフト制導入後[140]に就任した監督としては最速の837試合で監督通算500勝を達成した[141][142]。同年4月29日の対北海道日本ハムファイターズ6回戦の勝利で監督通算513勝を挙げ、野村克也が南海ホークス時代に挙げた512勝を抜き、球団歴代1位の鶴岡一人の1773勝、同2位の王貞治の968勝に次ぐホークス球団史上歴代3位の勝利数となった[143]

選手としての特徴[編集]

プロでは最高球速149 km/hストレートとスピンの効いた大きなカーブが武器[144]

現役時代、健康と肉体管理を徹底し[145]、特に栄養値の高い食事をしたり青汁を飲んだりするなど体調管理には気を遣っていたことで有名だが[88]、そうなったのは結婚してからで、それ以前は毎日のように朝まで飲み歩いては二日酔いのまま登板するという不摂生な生活を繰り返していた[146]。それが蓄積され1988年シーズン途中から不調に陥り、89年には肝機能障害を発症。医師から「選手生命以前に死ぬよ」と告げられるほどの状態になり、1989年シーズンは何度も二軍落ちを繰り返し4勝8敗・防御率4.96という散々な成績で、戦力外通告を覚悟したという。同年オフに結婚した際のプロポーズは「(野球を辞めて)山にこもって暮らそうよ」だったが、妻が「夫をもう一度野球を出来る身体にして、野球で喜ぶ顔が見たい」と、引退を考えていた工藤を説得し、夫婦二人三脚での体質改善に取り組むようになった。工藤はその後約1年間のリハビリを経て復活、以降体調管理には非常に気を遣うようになった[147][148]

また、現役時代は股関節のトレーニングを重点的に行っていた。きっかけは西武時代の1992年に大腿部の肉離れを起こした際、筑波大学教授及びスポーツトレーナーの白木仁[注 26]のもとを訪れたことであった[150]。同年のシーズンオフに白木のもとで肩のトレーニングに加えて股関節のトレーニングも同時に行うこととなり、白木がドイツで学んだレッグランジ[注 27]、腰割り[注 28]といったトレーニングを行った。白木によるとこのトレーニングを始めた当初の工藤は股関節が全く動かなかったが、トレーニングを積んだ結果股関節が柔らかくなり、足が上がるようになったことで投球の際の動作が良くなった。さらにランニングがよくなる(楽に走れるようになった)という効果が表れ、その後も工藤はランニングの最中に腰割りを取り入れていたという[150]。元力士で1983年の初土俵から昭和以降の力士で最高齢となる46歳11か月で現役を引退した2007年まで24年間大相撲の土俵に上がった一ノ矢充は、白木との対談の中で工藤は股関節のトレーニングを行っていたことで野球界のさまざまな最年長記録を更新できたのではないかと述べている[150]

ダイエー時代の1999年9月11日の近鉄戦、ノーヒットノーランがかかった8回2死の場面において、打者の鈴木貴久に3ボール1ストライクとなり、捕手の城島健司がマウンドに来て「歩かせましょう。次のバッターで勝負しましょう。ノーヒットノーラン、チャレンジしましょうよ」と言った際には、「おれはノーヒットノーランをするために、マウンドに上がってるんじゃない。勝つために上がっているんだ。今日の試合、これで勝てるんだから。いいから、座ってろ」と拒否、続く5球目を左翼スタンドに運ばれホームランとなったものの、結局、このソロ本塁打の1安打だけで勝利した。これについては、工藤がノーヒットノーランを達成するよりも勝利を望んでいたためで、四球で走者を出すことを嫌ったため勝負を選んだ。工藤自身は「打たれた瞬間、城島はガックリしていたよ。おれは別に何も思わずに投げていた。とにかく勝つことで、ホークスを勝てるチームにしたいとずっと思っていた」と振り返っている[152]


人物[編集]

ドラフト会議前の『中日スポーツ』では「好きなプロ球団は巨人。好きなプロ野球選手は原辰徳篠塚和典(ともに巨人)」と報道されており、本人も「近所の人に(地元の)中日に入ったら、とよく言われますが、僕は巨人が好きなんです。巨人戦はテレビでよく放送するから…」と話していた[46]

顔つきから[61]、入団1年目には「カリメロ」のあだ名で呼ばれていた[71]。また、新人年の1982年にはビッグマウス[注 29]で知られ、1年先輩の秋山幸二小野和幸から「変わったやつだ」と見られていた[153]。巨人時代の2004年オフには、母校の名古屋市立久方中学校で講演会を行い、在校生から将来の夢について尋ねられ「メジャーに行くこと」と答えていた[34]

1980年代当時の野球選手の普段着は、大き目の襟のゴルフシャツ、ベスト、スラックス、エナメル靴、ヘアスタイルも角刈り、パンチパーマが当たり前であったが、DCブランド、ジーンズ、スニーカーを着こなし、ヒーローインタビューで笑いをとったり、優勝決定時の胴上げに加わらず、カメラに向かってはしゃぐ等のパフォーマンスをよく行っていた。そのため、先輩等に酷評されることもあったが、1986年新語・流行語大賞では、その年の流行語「新人類」を象徴して清原和博渡辺久信と共に表彰され、球界に新風を吹かした先駆者であった[155][156]。また渡辺とは翌1987年の春季キャンプの頃、テレビ朝日ニュースステーション』で「クドちゃんナベちゃんのキャンプフライデー」というコーナーを持ったことがある。

読売ジャイアンツ球団公式サイト内に『僕の野球塾』という少年野球指導コーナーを長きにわたって掲載しており、野球少年に「正しいトレーニング」の重要性を伝えていた。全国の野球少年からの質問が殺到する人気コーナーのため、データの蓄積は膨大な量となった。工藤は2006年に同タイトルの書籍を講談社から刊行している。横浜移籍後は横浜球団ウェブサイトにデータ・権利が引き継がれていた。

子供たちに夢を与える活動「夢の課外授業」の発起人として、2000年より全国の小学校を訪問している。毎年オフに神宮の室内球技場で行っているチャリティキッズベースボールスクールも2009年までに15回開催(主催二十一世紀倶楽部)。

人間関係[編集]

巨人移籍後に、ダイエー時代の同僚であり公私共に親交の深かった藤井将雄が亡くなったが、シーズン中にもかかわらずスーツ姿で葬儀に参列。ダイエーのユニフォームを着た選手と共に棺を担いだ。当時藤井の本当の病状については関係者でもごく一部にしか知らされておらず、工藤は後に「本当の病状を知っていたらFA移籍はなかったかも知れない」と語っている[要出典]

横浜時代のチームメイトだった加藤康介は、工藤の姿を見て大いに勉強させられ、横浜を戦力外通告後に阪神に移籍した際の活躍の原動力になったと語っている[157]。工藤自身も『報道ステーション』2013年7月12日放送分にて加藤の奮闘ぶりを讃える発言をしている。

詳細情報[編集]

年度別投手成績[編集]





















































W
H
I
P
1982 西武 27 0 0 0 0 1 1 0 -- .500 122 28.2 22 0 21 2 1 29 1 0 11 11 3.41 1.50
1983 23 2 0 0 0 2 0 0 -- 1.000 138 33.1 30 6 13 0 0 24 0 0 13 12 3.24 1.29
1984 9 0 0 0 0 0 1 0 -- .000 53 12.1 10 1 10 0 1 8 0 0 4 4 2.92 1.62
1985 34 14 8 0 1 8 3 0 -- .727 554 137.0 84 13 73 2 2 104 1 1 44 42 2.76 1.15
1986 22 20 10 2 1 11 5 0 -- .688 586 145.1 111 22 56 3 1 138 1 0 53 52 3.22 1.15
1987 27 26 23 2 2 15 4 0 -- .789 899 223.2 181 18 64 4 2 175 2 0 65 60 2.41 1.10
1988 24 20 11 2 0 10 10 1 -- .500 694 159.0 164 18 70 6 1 94 4 0 77 67 3.79 1.47
1989 33 17 4 0 0 4 8 2 -- .333 540 118.0 126 12 76 4 2 94 9 0 70 65 4.96 1.71
1990 13 13 4 1 0 9 2 0 -- .818 359 85.2 58 11 46 1 2 89 4 0 33 32 3.36 1.21
1991 25 23 10 4 1 16 3 0 -- .842 705 175.1 124 17 75 1 0 151 4 0 55 55 2.82 1.13
1992 25 24 6 3 0 11 5 0 -- .688 645 150.2 140 17 69 3 3 133 4 0 60 59 3.52 1.39
1993 24 23 4 0 0 15 3 0 -- .833 697 170.0 129 10 65 4 2 130 5 0 46 39 2.06 1.14
1994 24 22 4 1 1 11 7 0 -- .611 554 130.2 120 12 44 0 3 124 2 1 54 50 3.44 1.26
1995 ダイエー 22 22 6 1 1 12 5 0 -- .706 652 163.0 137 15 48 0 0 138 4 0 69 66 3.64 1.13
1996 29 29 9 1 0 8 15 0 -- .348 867 202.2 207 17 70 2 1 178 6 0 94 79 3.51 1.37
1997 27 27 0 0 0 11 6 0 -- .647 670 161.1 153 14 48 2 3 146 2 0 61 60 3.35 1.25
1998 15 14 1 0 1 7 4 0 -- .636 386 93.2 90 8 28 1 2 65 0 1 35 32 3.07 1.26
1999 26 26 7 3 2 11 7 0 -- .611 754 196.1 143 12 34 1 1 196 6 1 56 52 2.38 0.90
2000 巨人 21 21 1 1 1 12 5 0 -- .706 545 136.0 127 14 16 0 1 148 5 0 53 47 3.11 1.05
2001 5 5 0 0 0 1 3 0 -- .250 103 21.1 35 3 7 1 0 8 2 0 21 20 8.44 1.97
2002 24 24 1 1 0 9 8 0 -- .529 681 170.1 157 21 26 3 2 151 5 0 61 55 2.91 1.07
2003 18 18 4 2 1 7 6 0 -- .538 483 117.0 117 15 22 2 3 115 1 0 56 55 4.23 1.19
2004 23 23 2 0 0 10 7 0 -- .588 596 138.2 160 27 33 1 1 128 3 0 78 72 4.67 1.39
2005 24 24 1 0 0 11 9 0 0 .550 595 136.0 159 26 44 3 1 130 4 0 73 71 4.70 1.49
2006 13 13 0 0 0 3 2 0 0 .600 295 70.0 69 12 19 0 3 52 0 0 41 35 4.50 1.26
2007 横浜 19 18 0 0 0 7 6 0 0 .538 442 103.2 118 6 28 1 4 73 2 0 46 45 3.91 1.41
2008 3 3 0 0 0 0 2 0 0 .000 70 13.2 21 3 5 0 1 7 2 0 13 8 5.27 1.90
2009 46 1 0 0 0 2 3 0 10 .400 172 37.1 53 11 14 1 0 24 2 1 30 27 6.51 1.79
2010 西武 10 0 0 0 0 0 2 0 0 .000 33 6.0 11 1 4 0 0 7 0 0 7 7 10.50 2.50
通算:29年 635 472 116 24 12 224 142 3 10 .612 13890 3336.2 3056 362 1128 48 43 2859 81 5 1379 1279 3.45 1.25
  • 各年度の太字はリーグ最高、赤太字はNPBにおける歴代最高

タイトル[編集]

表彰[編集]

記録[編集]

レギュラーシーズン
  • 実働29年(歴代1位タイ。他は、山本昌中嶋聡。)
  • 年齢別最多勝(42歳で11勝、44歳で7勝)
  • 40歳以降2桁奪三振試合数
  • 23年連続勝利(歴代1位タイ)

なお、通算勝利数224は、最多勝タイトルを一度も獲得していない投手として日本プロ野球史上2位、またシーズン20勝以上が1度もない選手としては日本プロ野球史上最多である[159]

日本シリーズ
  • 出場回数:14(シリーズタイ記録)
  • 通算奪三振:102(シリーズ記録)
  • 1試合奪三振:13(1999年第1戦、シリーズ記録)
  • イニング3者3球三振(1994年第2戦3回、シリーズ史上初)
  • 両リーグ勝利投手(パ8勝、うち西武で7勝、ダイエーで1勝 セ1勝、うち巨人で1勝、史上3人目)
初記録
  • 初登板:1982年4月10日、対阪急ブレーブス前期1回戦(西武ライオンズ球場)、6回表2死に2番手で救援登板、1/3回無失点
  • 初奪三振:同上、6回表にウェイン・ケージから
  • 初勝利:1982年8月31日、対日本ハムファイターズ後期9回戦(西武ライオンズ球場)、5回表2死に2番手で救援登板、3回1/3を無失点
  • 初先発:1983年8月4日、対南海ホークス16回戦(西武ライオンズ球場)、3回1/3を2失点
  • 初先発勝利・初完投勝利:1985年7月9日、対南海ホークス12回戦(大阪スタヂアム)、9回2失点
  • 初完封勝利:1986年6月18日、対南海ホークス11回戦(西武ライオンズ球場)
  • 初セーブ:1988年6月5日、対阪急ブレーブス11回戦(西武ライオンズ球場)、9回表に4番手で救援登板・完了、1回無失点
  • 初ホールド:2009年5月5日、対読売ジャイアンツ4回戦(東京ドーム)、7回裏に2番手で救援登板、1回無失点
打撃成績
節目の記録
その他の記録
  • 1イニング4奪三振:1996年8月2日、対千葉ロッテマリーンズ戦17回戦(福岡ドーム)、7回表 ※NPB史上3人目
  • 最年長ホールド:46歳4ヶ月-2009年9月20日、対中日ドラゴンズ23回戦(ナゴヤドーム)、8回裏1死に3番手で救援登板、2/3回無失点
  • オールスターゲーム出場:10回 (1986年、1987年、1991年、1993年、1995年、1997年、1999年、2000年、2004年、2005年)
監督としての記録
節目の記録
  • 500勝:2021年3月27日、対千葉ロッテマリーンズ2回戦(福岡PayPayドーム)、3-2で勝利 ※史上31人目(球団史上4人目) - 837試合での到達は球団最速、歴代3位[160]

背番号[編集]

現役時代[編集]

  • 47 (1982年 - 1994年、1997年 - 2009年)
  • 21 (1995年 - 1996年)
  • 55 (2010年)

21をつけたダイエー時代の1995年と1996年以外は2009年まで47を背負い続けたことから、47は工藤、あるいは左腕投手の代名詞と言える背番号となっている[161]。2010年は背番号を55にした。

プロ入り時に西武が最初に用意した背番号は17だった。ところが熊谷組の入社試験まで受けていたので、他のスカウトから絶対プロ入りはない、と考えられていた工藤が、「プロ入り拒否・熊谷組入社」から「西武入団」へと方向転換したため、西武との密約が噂されたが、これについては球団側・工藤側ともにそれを否定できなかったため、47に「降格」となった[要出典]

1995年ダイエー移籍時、西武時代と同じ背番号47を希望したが、1994年途中よりケビン・ライマーに与えられていたためやむなく21をつけた。その後、1995年限りでライマーが解雇されたが、1996年はスコット・ライディ47を引き継いだため、移籍3年目の1997年に希望通り47が与えられた。21は西武時代の先輩でプロ選手の心構えを教えてもらった東尾修の現役時代と同じ番号で、西武在籍時のチームメイトでもある渡辺久信が1998年にヤクルトに移籍した時も工藤同様、背番号21をつけている。

21をつけていた2年間はかなりの違和感を覚えていたといい、1999年シーズン終了後に巨人に移籍する際も47を希望。当時47を付けていた小野仁13に変更した。横浜に移籍する際も背番号47をつけ、前年まで47を付けていた堤内健は36に変更した。

背番号47が左腕投手に与えられる例として、ダイエーは工藤の退団後に入団した左腕の杉内俊哉に、工藤の背番号であった47を与えたが、二人には左腕という他に、夏の甲子園でノーヒットノーランを記録しながら優勝できなかった、カーブが得意、隔年で調子を崩す傾向があるなどといった共通点がある。また、杉内は入団時、工藤について尊敬していると語り、目標にしている選手であると語った。なお、杉内は2012年に巨人に移籍した際に背番号18を与えられた(47をつけていたのは左腕投手の山口鉄也)。西武での後輩にあたる左腕の帆足和幸は、2001年の入団以来何度も47への変更を訴え、2006年にようやく認められている。その後、帆足は2009年オフに工藤が西武復帰を決めた際、背番号47を工藤に返還する意向を見せたが、工藤はそれを固辞し、55を選んだ。なお、帆足は2012年にソフトバンクへ移籍し、背番号を11としたが、2013年から背番号を47としている。また、同じく左腕投手の野口茂樹が中日時代(1995年~2005年)に47を付けたが、1999年の日本シリーズ・第1戦で「背番号47」同士の先発投手対決となった。

2009年11月16日に埼玉西武ライオンズの入団会見を行った際に、背番号55を選んだ理由として、ホークス時代のチームメイトであり、現役中の2000年に31歳の若さで急逝した藤井将雄が生前に着用していた背番号15を意識し、「彼の5番が入るのでいいと思う。彼の分も野球を続けていこう、と心に決めていた」と語った。また「子供たちから『イケイケゴーゴー』だと言われたし、自分の誕生日も5月5日なので」とも語った。

背番号の上の名前の英字表記はいずれも「KUDOH」であったが、西武(第1次)在籍時の1985・1986年頃は同姓選手が在籍していなかったにもかかわらず「K.KUDOH」のユニフォームも併用(ビジター用は1985年の日本シリーズ第3戦登板時、ホーム用は1986年のリーグ優勝を決めた10月9日のロッテ戦登板時に着用を確認)。

監督時代[編集]

  • 81 (2015年 - )

背番号の上の名前の英字表記は「KUDO」である。

年度別監督成績[編集]

リーグ公式戦



























2015 ソフトバンク 1位 143 90 49 4 .647 - 141 .267 3.16 52歳
2016 2位 143 83 54 6 .606 2.5 114 .261 3.09 53歳
2017 1位 143 94 49 0 .657 - 164 .259 3.22 54歳
2018 2位 143 82 60 1 .577 6.5 202 .266 3.90 55歳
2019 2位 143 76 62 5 .551 2 183 .251 3.63 56歳
2020 1位 120 73 42 5 .635 - 126 .249 2.92 57歳
通算:6年 835 498 316 21 .612 Aクラス6回、Bクラス0回
  • 太字は日本一
ポストシーズン










2015 ソフトバンク パ・リーグクライマックスシリーズ
ファイナルステージ
千葉ロッテマリーンズ(パ・リーグ3位) 4勝0敗=日本シリーズ進出
(※1)
日本シリーズ 東京ヤクルトスワローズ(セ・リーグ1位) 4勝1敗=日本一
2016 パ・リーグクライマックスシリーズ
ファーストステージ
千葉ロッテマリーンズ(パ・リーグ3位) 2勝0敗=ファイナルステージ進出
パ・リーグクライマックスシリーズ
ファイナルステージ
北海道日本ハムファイターズ(パ・リーグ1位) 2勝4敗=ファイナルステージ敗退
(※2)
2017 パ・リーグクライマックスシリーズ
ファイナルステージ
東北楽天ゴールデンイーグルス(パ・リーグ3位) 4勝2敗=日本シリーズ進出
(※1)
日本シリーズ 横浜DeNAベイスターズ(セ・リーグ3位) 4勝2敗=日本一
2018 パ・リーグクライマックスシリーズ
ファーストステージ
北海道日本ハムファイターズ(パ・リーグ3位) 2勝1敗=ファイナルステージ進出
パ・リーグクライマックスシリーズ
ファイナルステージ
埼玉西武ライオンズ(パ・リーグ1位) 4勝2敗=日本シリーズ進出
(※2)
日本シリーズ 広島東洋カープ(セ・リーグ1位) 4勝1敗1分=日本一
2019 パ・リーグクライマックスシリーズ
ファーストステージ
東北楽天ゴールデンイーグルス(パ・リーグ3位) 2勝1敗=ファイナルステージ進出
パ・リーグクライマックスシリーズ
ファイナルステージ
埼玉西武ライオンズ(パ・リーグ1位) 4勝1敗=日本シリーズ進出
(※2)
日本シリーズ 読売ジャイアンツ(セ・リーグ1位) 4勝0敗=日本一
2020 パ・リーグクライマックスシリーズ 千葉ロッテマリーンズ(パ・リーグ2位) 3勝0敗=日本シリーズ進出
(※1) (※3)
日本シリーズ 読売ジャイアンツ(セ・リーグ1位) 4勝0敗=日本一
  • 勝敗の太字は勝利したシリーズ
※1 リーグ優勝したチームに与えられるアドバンテージの1勝を含む。
※2 ディスアドバンテージの1敗を含む。
※3 2020年は新型コロナウイルスの影響によりファーストステージを実施せず、レギュラーシーズン1位チームと2位チームによる1ステージのみとし、当初の日程を変更したため試合数も4戦3勝先取制に規模を縮小して開催。

関連情報[編集]

著書[編集]

単著[編集]

共著[編集]

監修[編集]

  • 『工藤公康のピッチングバイブル:DVDでマスター』(カンゼン、2012年6月、ISBN 9784862551306

関連書籍[編集]

  • 『ON対決初戦工藤公康86球にこめた戦い!:スコアラーの目から…』(吉見健明著、三省堂スポーツソフト、2000年10月、ISBN 4385602328
  • 『工藤公康「42歳で146km」の真実:食卓発の肉体改造』(黒井克行著、講談社+α新書、2006年1月、ISBN 4062723573
  • 『工藤公康 粗食は最強の体をつくる!:食事を変えれば、体が楽になる!強くなる!若くなる!』(幕内秀夫著、三笠書房、2006年4月、ISBN 4837921868
  • 黒井克行『工藤公康 プロフェッショナルの矜持』新潮社、2006年10月30日。ISBN 978-4104489046
  • 『強打者 工藤公康が語る、18.44メートル向こうのライバルたち』(飯尾哲司著、竹書房、2015年3月、ISBN 4801901468

出演[編集]

テレビ出演[編集]

ラジオ出演[編集]

その他[編集]

脚注[編集]

[脚注の使い方]

注釈[編集]

  1. ^ a b 天白区(かつての愛知郡天白村)は1975年(昭和50年)2月1日に昭和区から分区独立した[14]
  2. ^ 『中日新聞』 (1981) は「名古屋市天白区高坂町出身」と報道している[13]
  3. ^ 工藤の父親は宮崎県延岡市出身[15]。2011年9月29日に延岡市内の病院で肺がんにより死去(76歳没)[16]
  4. ^ 黒井克行 (2006) は「(公康は)5人兄弟の四男として生まれた」と述べている[17]
  5. ^ 小中学校の1年先輩には佐藤啓中京テレビアナウンサー)が[18]、2年後輩には紀藤真琴中京高校から1983年のドラフト会議広島から3位指名 / 広島・中日楽天)がいる[19]
  6. ^ 『週刊朝日』 (2011) は「公康の父は、息子がプロ入りした際の契約金で名古屋に自宅を建てたが、後にその家を売り払って帰郷した」と述べている[22]
  7. ^ 公康は後年に「自分だけでなく、兄たちも父親に強制的に野球を教えられていたが、最終的には野球が嫌いになって辞めていった」と述べている[30]
  8. ^ 上2人の兄は私立高校に入学したが、公康の時点では公立高校でなければ経済的に進学は困難だった[35]。しかし公康は当時、公立高校へ進学できる程度の学力を有していなかった[35]
  9. ^ ベースボール・マガジン社 (1987) によれば、最初に享栄高校から勧誘され、次いで愛工大名電高校からも勧誘された[1]。また工藤自身は同じ名古屋市にあった中京高校(現:中京大中京高校)からの勧誘を待っていたが、結局は中京からは勧誘されなかった[1]
  10. ^ 山本は中学時代から県下一の捕手として知られており、中村は山本を活かす投手を探していたところ、工藤に目をつけた[37]
  11. ^ 高校時代、槙原との直接対決はこれが唯一だった[39]
  12. ^ 選手権大会としては8年ぶり[44]
  13. ^ 当時、大会史上3位タイ[46]。このうち、9回までに奪った三振は16で、この試合で与えた四死球はゼロだった[44]
  14. ^ 同年のドラフト会議では社会人野球に好投手がいたため、(1巡目入札で)1位指名される可能性がある高校生はこの3人のみと予想されていた[49]
  15. ^ a b なお、槙原はドラフト会議前に「希望する球団は(地元の)中日、その次は在京のセ・リーグ球団。それ以外ならセ・リーグならどこでも」と表明していた[73]
  16. ^ 複数球団の競合が予想されていたが[53]、本人は広島入りを強く希望し、広島や大洋・阪神以外の球団への入団は拒否する意向を表明していた[54]。結局、広島が単独1位指名[55]
  17. ^ 工藤は同年の国体終了後に「セ・リーグに入りたい。できれば小さいころからファンだった巨人がいい」「パ・リーグに指名されたら熊谷組に就職する」と表明していた[46]
  18. ^ 工藤の父は翻意する前、息子のプロ入りについて「本人任せ」と話していた[46]
  19. ^ 工藤の父は「甲子園で成績が良かっただけではプロで通用しない」と助言したほか、母もプロ入りには反対寄りの立場だった[58]。また、工藤本人は「11月18日にテレビの取材を受けた際、板東英二さん(中日OB・解説者)から『ストレートに切れがあったら…』と言われたことで『自分の速球はプロでは通用しない』と思った。自分はプロに行きたかったので、父から『ノンプロに行け』と言われた時には反発したが、最終的には両親の言う通り、ノンプロでプレーすることにした」と述べていた[57]
  20. ^ 実際に西武との入団交渉に入ったところ、工藤の父が態度を軟化させたことについては、「(西武が)他球団に指名させないために芝居を打たせた」と指摘する声が上がり、ヤクルトスワローズのスカウトは「バカバカしい」とコメントしていた[51]
  21. ^ 熊谷組は当時、「工藤は我が社に入社する約束をしており、二重契約ではないか」と反発していた[51]。また当時は「(工藤が西武に入団すると)父は名古屋市交通局に勤めづらくなるので、西武系企業に転職するのではないか」と噂されたり、「熊谷組に入社すれば3年後に中日に入団させる」という密約があったとまことしやかに伝えられたりしたことで、工藤家は地元ファンからの嫌がらせを受け、電話番号を変えることを余儀なくされた[61]
  22. ^ 名電高校の校長・後藤淳は野球部監督・中村豪とともに「学校に相談せず、熊谷組への就職を反故にして西武から契約金を受け取り、入団を決めた工藤の行動は遺憾だ。企業の信頼を裏切る結果になった」との態度を表明していたが、工藤のプロ入りについては「学校が決めるものではない」としていた[65]。結局、後藤校長は熊谷組から入社内定取り消しの連絡を受け、工藤の父に対し「名電OBとして、プロに入っても恥ずかしくないよう頑張るように」と答えたほか、この件で高校側から工藤にペナルティが課されることはなかった[66]。ただし、工藤は(この件とは別に)学校の許可なく自動車教習所に通っていたことが発覚し、校則違反のペナルティとして丸坊主にさせられた[51]
  23. ^ 最終的に入団拒否[77]。翌1982年度のドラフト会議で阪神タイガースから5位指名を受け入団[78]
  24. ^ ただし、広岡は自著 (2016) で「工藤を『坊や』と呼んではいたが、特別扱いしたわけではなく、自分のそばに置いて私生活も野球も厳しく鍛えていた」と述べている[81]
  25. ^ キップ・グロス(日本ハム)の17勝、西口文也(西武)の16勝に次ぐ[99]
  26. ^ 工藤のほかにもプロゴルファーの片山晋呉のコンディショニングを担当したほか、2000年のシドニー五輪及び2004年のアテネ五輪ではシンクロナイズドスイミング日本代表のトレーナーとして帯同し、同代表の銀メダル獲得に貢献した実績を持つ[149]
  27. ^ 足を肩幅くらいに開いて立ち、一歩前に足を踏み出して膝を曲げ、腰を落とすトレーニング[150]
  28. ^ 足を軽く広げ、腰を少し上下させる運動[151]。白木はイチローがバッターボックスに入る前に行っていた動作はまさに腰割りであると述べている[150]
  29. ^ 厳しいことで知られていた広岡について「ウチのオヤジより優しそうな人です」と発言したり、栗橋茂(近鉄)に頭部死球を与えた際に「野球人生、いろいろありますから…デッドボールだって、与えますよ」と発言したりしており、後者の発言に対し栗橋は「高校生新人のくせに生意気だ」と憤慨していた[153]。また西武の厳しい練習については「これなら、中日に行っていたほうがましだった」と軽口を叩いていた[154]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o ベースボールアルバム 1987, p. 38.
  2. ^ a b c 『完全保存版 プロ野球 セ・パ両リーグ 12球団全選手カラー百科名鑑2020』廣済堂出版〈廣済堂ベストムック〉、2020年2月21日、40頁(日本語)。ISBN 978-4331802939 - 『ホームラン』特別編集
  3. ^ 【日本シリーズ】自らサヨナラ安打…「優勝請負人」工藤公康の"名場面" (1/2ページ)デイリーニュースオンライン 2015年10月24日配信、2015年10月26日閲覧。
  4. ^ 【日本シリーズ】自らサヨナラ安打…「優勝請負人」工藤公康の"名場面" (1/2ページ)デイリーニュースオンライン 2015年10月24日配信、2017年1月27日閲覧。
  5. ^ 日めくりプロ野球 5月【5月23日】2007年(平19) 工藤公康、セ最年長記録「一番長くて忘れられない1勝」」『Sponichi Aneex』スポーツニッポン新聞社、2009年5月1日。2020年12月5日閲覧。オリジナルの2020年12月5日時点におけるアーカイブ。
  6. ^ 【日本シリーズ】自らサヨナラ安打…「優勝請負人」工藤公康の"名場面" (2/2ページ)デイリーニュースオンライン 2015年10月24日配信、2015年10月26日閲覧。
  7. ^ a b c 工藤新監督「恩返ししたい」 背番は81」『nikkansports.com日刊スポーツ新聞社、2014年11月1日。2020年12月5日閲覧。オリジナルの2020年12月5日時点におけるアーカイブ。
  8. ^ a b 工藤公康氏の福岡ソフトバンクホークス監督就任について 福岡ソフトバンクホークスオフィシャルサイト 2014年11月1日付
  9. ^ 川島毅洋「ソフトバンク3年ぶりのリーグ優勝 工藤監督「川村君と戦う」 感謝と勇気届けた特別な1年」『Sponichi Annex』スポーツニッポン新聞社、2020年10月27日。2020年12月5日閲覧。オリジナルの2020年12月5日時点におけるアーカイブ。
  10. ^ 浦田由紀夫「新伝説作った工藤監督「これからも強いホークスで」」『nikkansports.com日刊スポーツ新聞社、2020年11月26日。2020年12月5日閲覧。オリジナルの2020年12月5日時点におけるアーカイブ。
  11. ^ “5人きょうだい”工藤阿須加、ドラマでも大家族に意欲」『ORICON NEWS』オリコン、2015年5月22日。2020年12月5日閲覧。オリジナルの2020年12月5日時点におけるアーカイブ。
  12. ^ 長女・遥加、父の鷹・工藤監督は「理想のアスリート」」『SANSPO.COM』産業経済新聞社、2015年9月18日、紙面より。2020年12月5日閲覧。オリジナルの2020年12月5日時点におけるアーカイブ。
  13. ^ a b 中日新聞』1981年8月14日朝刊県内版・名古屋市民版15頁「名電 1万応援団燃える 息子よくやった 工藤の父」(中日新聞社
  14. ^ 天白区の概要” (日本語). 天白区トップページ. 名古屋市. 2020年10月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年2月21日閲覧。
  15. ^ a b c d 柳川悠二「現役引退、横浜DeNA監督就任へ プロ野球最年長投手 工藤公康が初めて語った父との相克」『週刊朝日』第116巻第58号、朝日新聞出版、2011年11月30日、 3頁。 - 2011年12月9日号(通巻5104号)掲載。
  16. ^ 柳川悠二「現役引退、横浜DeNA監督就任へ プロ野球最年長投手 工藤公康が初めて語った父との相克」『週刊朝日』第116巻第58号、朝日新聞出版、2011年11月30日、 2頁。 - 2011年12月9日号(通巻5104号)掲載。
  17. ^ a b 黒井克行 2006, p. 65.
  18. ^ 佐藤啓の「ご歓談ください」:中京テレビ アナウンスルーム » 「スポーツスタジアム」で偉大なる後輩にインタビュー!!” (日本語). 中京テレビ放送 (2011年8月9日). 2019年12月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年12月4日閲覧。
  19. ^ 『中日ドラゴンズ 2001ファンブック』中日ドラゴンズ(発行)・中日新聞本社(発売)〈中日ドラゴンズファンブック〉、2001年3月9日、24頁。ISBN 978-4806204251
  20. ^ 「1983年開幕ワイド特集 開幕直前 この男たちの夢と現実と不安 工藤公康(西武) 不安見せない強心臓男の現代的開幕の迎え方」『週刊ベースボール』第38巻第17号、ベースボール・マガジン社、1983年4月18日、 33-34頁。(※1983年4月18日号・通巻第1398号)
  21. ^ a b c 『中日新聞』1981年8月20日夕刊E版第一社会面9頁「第65回 全国高等野球選手権大会 第13日 準決勝 報徳学園(兵庫)3-1名古屋電気(愛知) 無念、名電ナイン 金村(報徳)に1点どまり 決勝進出の夢消える」(中日新聞社)
  22. ^ 柳川悠二「現役引退、横浜DeNA監督就任へ プロ野球最年長投手 工藤公康が初めて語った父との相克」『週刊朝日』第116巻第58号、朝日新聞出版、2011年11月30日、 4頁。 - 2011年12月9日号(通巻5104号)掲載。
  23. ^ ホームラン 1982, p. 19.
  24. ^ 「'83プロ野球 12球団全選手百科名鑑」『ホームラン』第7巻第4号、日本スポーツ出版社、1983年3月31日、 93頁。(通算:第67号 / 1983年3月増刊号)
  25. ^ 「'84プロ野球 12球団全選手百科名鑑」『ホームラン』第8巻第3号、日本スポーツ出版社、1984年3月31日、 93頁。(通算:第78号 / 1984年3月増刊号)
  26. ^ a b 「'85プロ野球 12球団全選手百科名鑑」『ホームラン』第9巻第3号(通算:第88号 / 1985年3月増刊号)、日本スポーツ出版社、1985年3月31日、 37頁。
  27. ^ 『完全保存版 プロ野球 セ・パ両リーグ 12球団全選手カラー百科名鑑2015』廣済堂出版〈廣済堂ベストムック〉、2015年2月20日、24頁(日本語)。ISBN 978-4331802939 - 『ホームラン』特別編集
  28. ^ ベースボールアルバム 1987, p. 383.
  29. ^ a b c ベースボールアルバム 1987, p. 43.
  30. ^ a b c 黒井克行 2006, p. 66.
  31. ^ 黒井克行 2006, p. 67.
  32. ^ a b 黒井克行 2006, p. 68.
  33. ^ a b c d e f ベースボールアルバム 1987, p. 54.
  34. ^ a b 読売新聞』2004年12月3日中部朝刊名古屋市内版31頁「巨人・工藤「夢はメジャー」 母校・久方中で後輩にエール=愛知」(読売新聞中部支社
  35. ^ a b c 黒井克行 2006, p. 69.
  36. ^ 黒井克行 2006, pp. 69-70.
  37. ^ a b AERA 2006, p. 65.
  38. ^ a b 読売新聞』1981年11月18日東京朝刊第14版スポーツ面17頁「近づくドラフト 上 有望選手(高校) プロ志向減少の中で 金村(報徳学園)に人気集中 投手だが打力を評価」(読売新聞東京本社 『読売新聞』縮刷版1981年11月号:679頁)
  39. ^ a b c d ベースボールアルバム 1987, p. 56.
  40. ^ ベースボールアルバム 1987, pp. 54-55.
  41. ^ a b ベースボールアルバム 1987, p. 55.
  42. ^ ベースボールアルバム 1987, pp. 55-56.
  43. ^ a b 『中日新聞』1981年8月14日朝刊県内版・名古屋市民版14頁「夏の甲子園 がんばれ名電 工藤、最高の球威 女房・山本、一発で援護」(中日新聞社)
  44. ^ a b c ベースボールアルバム 1987, p. 49.
  45. ^ ベースボールアルバム 1987, p. 46.
  46. ^ a b c d e f 中日スポーツ』1981年11月1日第4版4頁「ドラフトの顔 1 工藤(名電)巨人の指名心待ち 即戦OKの超高校級 きっぱり“パならノンプロ”」(中日新聞社
  47. ^ a b 『中日新聞』1981年8月20日朝刊第12版第一運動スポーツ面17頁「第65回全国高校野球選手権大会 第12日 準々決勝 名古屋電気(愛知)3-0志度商(香川) 工藤(名電)ますます快調 2安打完封勝ち 9回 佐藤、ダメ押し二塁打」(中日新聞社)
  48. ^ ベースボールアルバム 1987, p. 51.
  49. ^ a b c d 毎日新聞』1981年11月19日東京朝刊第14版スポーツ面19頁「ドラフト期待の“新風” 上 高校 金村(報徳)ら投・ビッグ3」(毎日新聞東京本社 『毎日新聞』縮刷版1981年11月号:559頁)
  50. ^ ベースボールアルバム 1987, p. 42.
  51. ^ a b c d e f g h 神田憲行「プロ野球選手の「10年生存率」 2005年ドラフト組は「47%」」『NEWSポストセブン小学館、2015年11月15日、2面。2020年11月27日閲覧。オリジナルの2020年11月27日時点におけるアーカイブ。
  52. ^ 手束仁「愛知県のアマチュア野球事情と中日のドラフト力~なぜ、中日は地元のイチローを指名しなかったのか~」『中日力-なぜ中日は強いのか!?』桃園書房〈TOEN MOOK〉、2006年10月15日、96頁。ISBN 978-4807842698
  53. ^ 『中日スポーツ』1981年11月25日第4版1頁「中日は尾上か きょうドラフト “逆指名”津田に6球団 1位の星 右田、3球団が食指 巨人、金村にも色目 投手で田中宮本らも」(中日新聞社)
  54. ^ 『中日スポーツ』1981年11月25日第4版2頁「津田、広島恋し ボク、毎日祈ってます 強くないクジ運 お願い!!ダメなら神洋」(中日新聞社)
  55. ^ a b 『中日スポーツ』1981年11月26日第4版1頁「中日、金的尾上 '81恋人たち 意中球団へ 2位浜田(愛知高) 金村()津田()」(中日新聞社)
  56. ^ 『中日スポーツ』1981年11月20日第4版1頁「中日、迷う1位指名 地元豊作年 うれしい悩み 候補5人 工藤(名電)槙原(大府)浜田(愛知) 即戦力の尾上(中大)津田(協和醗酵)か 投手・捕手・内野手(近藤監督の希望)」(中日新聞社)
  57. ^ a b c 『中日スポーツ』1981年11月22日第4版1頁「工藤キッパリ宣言 ノンプロでエースだ 迷った末、熊谷組へ 通用しない速球 板東さんにも言われた」(中日新聞社)
  58. ^ 『中日スポーツ』1981年11月22日第4版1頁「解説 安定を望む両親の説得で急転」(中日新聞社:新宅洋志
  59. ^ 『中日新聞』1981年11月26日朝刊第12版第一運動スポーツ面19頁「ドラフト会議 工藤は西武お断り」(中日新聞社)
  60. ^ a b 『中日新聞』1981年12月29日朝刊第12版スポーツ面13頁「工藤(名電高)一転西武へ 熊谷組行きをやめ契約」(中日新聞社)
  61. ^ a b c d e f ベースボールアルバム 1987, p. 45.
  62. ^ 『中日新聞』1982年1月1日朝刊スポーツ面19頁「工藤側、西武入りで硬化 『熊谷組が了承してなかった』」(中日新聞社)
  63. ^ 『中日新聞』1982年1月7日朝刊第12版スポーツ面17頁「工藤、西武入りに決定 契約問題、熊谷組が軟化」(中日新聞社)
  64. ^ 『中日新聞』1982年1月9日朝刊第12版スポーツ面19頁「工藤の西武入り 熊谷組もOK」(中日新聞社)
  65. ^ 『中日新聞』1982年1月8日朝刊第12版スポーツ面17頁「西武入団問題 『工藤の行動は遺憾』 名電高校長ら語る」(中日新聞社)
  66. ^ 『中日新聞』1982年1月10日朝刊第12版スポーツ面19頁「『西武・工藤』12日に誕生 騒動決着」(中日新聞社)
  67. ^ a b 『中日新聞』1982年1月13日朝刊第12版スポーツ面15頁「「西武・工藤」晴れて誕生」(中日新聞社)
  68. ^ a b 広岡達朗 2016, pp. 33-34.
  69. ^ 工藤公康 ドラフト会議の席で指名を決めた「坊や」|プロ野球激闘史|広岡達朗 - 幻冬舎plus
  70. ^ ホームラン 1982, pp. 128-129.
  71. ^ a b ベースボールアルバム 1987, p. 39.
  72. ^ 中日新聞』1981年12月15日朝刊第12版第一運動スポーツ面17頁「『中日の浜田』が誕生 入団発表 『スタミナに自信』 球質の重い剛速球タイプ」(中日新聞社)
  73. ^ 『中日スポーツ』1981年11月25日第4版3頁「吉報待つ尾上 心は既にドラゴンズ “相愛”槙原も神頼み 意外や平静 そこがまたプロ向き18歳」(中日新聞社)
  74. ^ 工藤 公康(埼玉西武ライオンズ)” (日本語). NPB.jp 日本野球機構. 日本野球機構. 2020年12月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年12月9日閲覧。
  75. ^ 槙原 寛己(読売ジャイアンツ) 個人年度別成績” (日本語). NPB.jp 日本野球機構. 日本野球機構. 2020年12月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年12月9日閲覧。
  76. ^ 浜田 一夫(中日ドラゴンズ) 個人年度別成績” (日本語). NPB.jp 日本野球機構. 日本野球機構. 2020年12月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年12月9日閲覧。
  77. ^ 『中日ドラゴンズ70年 昇竜の軌跡』池田哲雄、ベースボール・マガジン社、2005年6月1日、146頁。ISBN 978-4583613246
  78. ^ 浜田 知明(阪神タイガース) 個人年度別成績” (日本語). NPB.jp 日本野球機構. 日本野球機構. 2020年12月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年12月9日閲覧。
  79. ^ 『中日スポーツ』1981年11月26日第4版2頁「ドラ番記者 工藤指名でもよかったのに」(中日新聞社)
  80. ^ a b 【11月12日】1982年(昭57) 工藤公康“プロ初先発”はメロメロ 追試もボロボロ」『Sponichi Annex』スポーツニッポン新聞社、2009年11月1日。オリジナルの2015年9月24日時点におけるアーカイブ。
  81. ^ 広岡達朗 2016, p. 35.
  82. ^ 『ライオンズ60年史 獅子の記憶―「西鉄」から「埼玉西武」まで』 ベースボール・マガジン社、2010年、74-77頁。
  83. ^ 週刊現代』2009年11月14日号、136頁(講談社
  84. ^ 九州スポーツ』2009年10月28日3面(東京スポーツ新聞社
  85. ^ 人の自立を促すのが真のリーダー 野球評論家 工藤公康」『日本経済新聞日本経済新聞社、2013年7月2日。2020年12月5日閲覧。オリジナルの2020年12月5日時点におけるアーカイブ。
  86. ^ スポーツライター・梶原昌弥「工藤新監督、鷹常勝軍団へ“広岡イズム”で指導 厳しい指導も“プロとは何か”教わる」『zakzak』産業経済新聞社、2015年1月27日。2020年12月5日閲覧。オリジナルの2020年12月5日時点におけるアーカイブ。
  87. ^ ソフトバンク担当・長友孝輔「【球界ここだけの話(254)】ソフトバンク・工藤監督が半袖を着られないワケ」『』産業経済新聞社、2015年8月1日。2020年12月5日閲覧。オリジナルの2020年12月5日時点におけるアーカイブ。
  88. ^ a b ソフトバンク・工藤公康 V当確の裏にあった“広岡式管理野球”!「ヘッドコーチを置かなかった理由」」『Asagei+徳間書店、2015年9月13日。2020年12月5日閲覧。オリジナルの2020年12月5日時点におけるアーカイブ。 - 『週刊アサヒ芸能』2015年9月10日号掲載記事
  89. ^ ベースボールアルバム 1987, p. 31.
  90. ^ ベースボールアルバム 1987, p. 75.
  91. ^ a b c d 広岡達朗 2016, p. 34.
  92. ^ a b c d ベースボールアルバム 1987, p. 73.
  93. ^ ベースボールアルバム 1987, p. 76.
  94. ^ 広岡達朗 2016, pp. 34-35.
  95. ^ <朝日新聞×マイナビ転職>Heroes File〜挑戦者たち〜 工藤公康さんvol.1” (日本語). マイナビ転職. マイナビ. p. 1 (2009年). 2020年12月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年12月5日閲覧。
  96. ^ ベースボールアルバム 1987, p. 64.
  97. ^ a b ホームラン 1997, p. 212.
  98. ^ 江川卓 & 二宮清純 1997, p. 310.
  99. ^ a b 『中日ドラゴンズ '97ファンブック』中日ドラゴンズ(発行)・中日新聞本社(発売)〈中日ドラゴンズファンブック〉、1997年3月18日、119頁。ISBN 978-4806203360
  100. ^ ホームラン 1997, p. 184.
  101. ^ コメントで読む99年ダイエー日本一 痛めた脚でスーパージャンプの秋山は…”. 西日本スポーツ (2017年10月27日). 2017年10月29日閲覧。
  102. ^ 工藤 巨人消した?”. 毎日インタラクティブ. 2001年2月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年6月11日閲覧。
  103. ^ 工藤 引退覚悟契約”. 毎日インタラクティブ. 2001年2月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年6月11日閲覧。
  104. ^ 野茂英雄の言葉
  105. ^ SB工藤監督が初告白 ダイエー残留署名17万人に感謝の手紙
  106. ^ プロ野球記録は1950年9月28日、阪急の浜崎真二が対大映戦で打った48歳9か月。
  107. ^ 工藤、西武入りへ!背番「47」は辞退 サンケイスポーツ 2009年11月14日閲覧
  108. ^ 復帰喜ぶ工藤 サンケイスポーツ 2009年11月16日閲覧[リンク切れ]
  109. ^ 西武・工藤に戦力外通告 最年長47歳、現役続行の意志”. 朝日新聞 (2010年9月27日). 2011年6月26日閲覧。
  110. ^ 信念と現実のはざ間で。現役最年長・工藤公康の現在地”. スポーツタイムズ. スポーツタイムズ通信社 (2011年10月13日). 2013年6月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年12月30日閲覧。
  111. ^ プロ野球最年長投手 工藤公康が初めて語った父との相克(週刊朝日 2011年12月09日号配信掲載) - @niftyニュース(Internet Archive)
  112. ^ 今秋、米球界に挑戦=元西武の工藤氏―プロ野球”. 時事通信 (2011年7月24日). 2011年12月9日閲覧。
  113. ^ 工藤、引退へ「投げるたび肩壊れる」プロ30年で区切り”. スポーツ報知 (2011年11月23日). 2011年11月24日閲覧。
  114. ^ 横浜DeNAが工藤氏と監督交渉打ち切り”. デイリースポーツ (2011年12月5日). 2011年12月9日閲覧。
  115. ^ 達川ヘッドコーチ有力 SB工藤監督と6年越しのタッグ実現
  116. ^ 30年間ありがとうございました。”. 工藤公康公式サイト (2011年12月9日). 2012年7月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年6月19日閲覧。(archive.is)
  117. ^ ありがとう47番!工藤公康氏来場!!西武球団公式サイト
  118. ^ 工藤公康氏 引退式 秋山、渡辺監督もひと役「この2球団は大事な球団」スポーツニッポン 2012年10月13日閲覧
  119. ^ 工藤投手「引退します」 解説者に転身”. 日刊スポーツ (2011年12月9日). 2011年12月9日閲覧。
  120. ^ 工藤公康氏「報ステ」に登板!栗山氏後任”. 日刊スポーツ (2012年1月13日). 2012年1月13日閲覧。
  121. ^ 「熱闘甲子園」キャスターに工藤公康氏”. 日刊スポーツ (2012年6月22日). 2012年6月22日閲覧。 ちなみに、歴代の「熱闘!高校野球ナビゲーター」のうち、高校時代に同大会で甲子園に出場した経験のある人物は工藤が初めてである。なお、本大会期間中は「熱闘甲子園」の取材ならびに番組収録が優先されるため、文化放送のプロ野球中継には出演しなかった。
  122. ^ 工藤公康氏 50歳で筑波大大学院合格「スポーツ医学研究したい」 - スポーツニッポン 2013年7月19日
  123. ^ 工藤、吉井、仁志の3氏 そろって筑波大大学院に入学:朝日新聞デジタル
  124. ^ a b 工藤氏が新監督就任=「強いチームを継続したい」-プロ野球・ソフトバンク 時事通信 2014年11月1日閲覧
  125. ^ 工藤新監督は背番号「89」王会長の“半永久欠番”を継承へ スポーツニッポン 2014年11月1日閲覧
  126. ^ ホークス交流戦「1位」が決定! - 福岡ソフトバンクホークスオフィシャルサイト、2015年6月17日
  127. ^ ソフトバンクが最高勝率 日本生命セ・パ交流戦 - 西日本新聞、2015年6月16日
  128. ^ 交流戦勝率1位はソフトB!賞金総額1500万円手に - スポニチアネックス
  129. ^ 優勝マジック「38」が初点灯 福岡移転後では最速、福岡ソフトバンク
  130. ^ ソフトバンクがCS進出 両リーグ一番乗り
  131. ^ ソフトB ぶっちぎり連覇!1年目工藤監督、パ最速Vで歓喜 - スポニチアネックス、2015年9月17日
  132. ^ ソフトB、4番内川3戦連続V打で日本S決めた!“下剋上”ロッテを撃破 - スポニチアネックス、2015年10月16日
  133. ^ 平成28年野球殿堂入り発表 斎藤氏、工藤氏、榎本氏、松本氏、山中氏が殿堂入り 野球殿堂博物館ニュース 2016年1月18日付
  134. ^ 中日新聞』2016年1月19日朝刊スポーツ面27頁「工藤、斎藤氏ら殿堂入り 山中、故榎本、故松本氏も」(中日新聞社)
  135. ^ 野球殿堂入り 工藤公康氏や斎藤雅樹氏ら5人 NHKニュース 2016年1月18日閲覧 Archived 2016年1月18日, at the Wayback Machine.
  136. ^ 工藤体制新ポスト 達川氏ヘッドコーチ西日本スポーツ
  137. ^ 東京中日スポーツ2017年9月17日5版
  138. ^ 工藤公康監督との契約更新について福岡ソフトバンクホークス公式サイト
  139. ^ “ソフトバンクが月間最多22勝、日本一へ緩みなし”. 日刊スポーツ (日刊スポーツ新聞社). (2020年10月31日). https://www.nikkansports.com/baseball/news/202010310001327.html 2021年4月16日閲覧。 
  140. ^ 1966年シーズンから
  141. ^ 戦前生まれ・ドラフト制導入前を含めると水原茂(753試合)・藤本定義(791試合)に次ぐ3位。
  142. ^ “ソフトバンク工藤監督500勝 スピード3位の達成”. 日刊スポーツ. (2021年3月28日). https://www.nikkansports.com/baseball/news/202103280000252.html 2021年4月9日閲覧。 
  143. ^ “ソフトバンク工藤監督が通算513勝 故・野村克也氏超え球団史上単独3位”. 日刊スポーツ (日刊スポーツ新聞社). (2021年4月29日). https://www.nikkansports.com/m/baseball/news/202104290000530_m.html?mode=all 2021年4月30日閲覧。 
  144. ^ ソフトバンク・工藤公康(第20代監督) “常勝”に磨きをかける『優勝請負人』/監督徹底分析 週刊ベースボールONLINE、2019年5月18日
  145. ^ プロ野球 名選手列伝 驚きの記録を残したツワモノたち。著者・吉野秀。2008年6月15日。19頁。
  146. ^ 「あいつ終わったな」の恐怖 - 日経スタイル 2017年1月6日閲覧
  147. ^ 2010年8月6日放送『情報ライブ ミヤネ屋』より
  148. ^ 坂本雄次の訪問!スポーツ人 vol.1 工藤公康さん | 日本製粉(Internet Archive)
  149. ^ 白木仁『「腰割り」で体が若返る 肩こり・腰痛・ひざ痛など体の不調を改善するお手軽体操』SBクリエイティブ〈らくらく健康シリーズ〉、2014年、本書見開きより。ISBN 4797376171
  150. ^ a b c d e 一ノ矢充『股関節がみるみるゆるむすごい腰割り体操』実業之日本社〈じっぴコンパクト文庫〉、2017年、73-78頁。ISBN 440845687X
  151. ^ 一ノ矢充『股関節がみるみるゆるむすごい腰割り体操』実業之日本社〈じっぴコンパクト文庫〉、2017年、10頁。ISBN 440845687X
  152. ^ “ノーヒッターの可能性蹴って勝利に徹した工藤監督”. nikkansports.com (日刊スポーツ新聞社). (2015年7月6日). https://www.nikkansports.com/baseball/news/1502439.html 2017年9月21日閲覧。 
  153. ^ a b ベースボールアルバム 1987, p. 32.
  154. ^ ベースボールアルバム 1987, pp. 31-32.
  155. ^ 【話の肖像画】男のプライド(中)プロ野球投手・工藤公康 - MSN産経ニュース
  156. ^ みなぎるバイタリティー | 週刊ベースボールONLINE
  157. ^ 加藤 完全復活の支えは工藤氏から学んだ心得 スポーツニッポン 2013年7月12日、同14日閲覧。
  158. ^ 2011年 第46回テレビ朝日ビッグスポーツ賞 (PDF)”. 2017年7月27日閲覧。
  159. ^ 宇根夏樹 (2021年1月28日). “最多勝のタイトルを「獲得していない」投手の通算白星ランキング。1位は254勝。2位と10位は現監督”. Yahoo!ニュース (Yahoo Japan). https://news.yahoo.co.jp/byline/unenatsuki/20210128-00219684/ 
  160. ^ “ソフトバンク工藤監督が通算500勝を達成「感謝」”. 日刊スポーツ. (2021年3月27日). https://www.nikkansports.com/m/baseball/news/202103270000843_m.html?mode=all 2021年4月24日閲覧。 
  161. ^ 日本プロ野球名球会所属の投手では、工藤に先立ち小山正明が1958年から引退した1973年まで47を付けていた。小山は右腕投手である。また、現役最終年は横浜の前身に当たる大洋ホエールズに所属したため、工藤と同じチームで背番号47をつけた「先輩」でもある。
  162. ^ テレビドガッチ (2014年7月3日). “阿部サダヲ、スポーツの現場で突撃取材!?栗山英樹、安藤美姫、工藤公康が友情出演!『ママが生きた証』”. 2014年7月3日閲覧。
  163. ^ 「クッキングパパ」作中に工藤公康が登場、次号モーニングに「ピアノの森」”. コミックナタリー (2015年7月30日). 2015年7月30日閲覧。

参考文献[編集]

  • 「'82プロ野球 12球団全選手百科名鑑」『ホームラン』1982年3月増刊号、日本スポーツ出版社、1982年3月31日、 19,129。
  • 「工藤公康 不敵なマウンド度胸で日本シリーズMVP」『ベースボールアルバム』第9巻第1号、ベースボール・マガジン社、1987年12月15日。 - 通算第84号。1987年(昭和62年)1月1日発行。
  • (解説)江川卓、(制作)二宮清純『プロ野球スカウティングレポート'97』(編集)株式会社デポルテ、(編集担当)飯田健之・小関順二ザ・マサダ〈第1刷発行〉、1997年3月5日。ISBN 978-4915977848
  • 「'97プロ野球 12球団全選手百科名鑑」『ホームラン』第21巻第4号(通算:第225号 / 1997年3月号増刊)、日本スポーツ出版社、1997年3月31日。
  • 黒井克行「プロ野球投手 工藤公康 オヤジ左腕144キロの秘密」『AERA』、朝日新聞出版、2006年4月24日、 63-67頁。
  • 広岡達朗「第1章・名監督の条件とは?ドラフト会場で決まった工藤の単独6位指名」『巨人への遺言 プロ野球 生き残りの道幻冬舎、2016年3月15日、第1刷発行、33-35頁。ISBN 978-43440291632020年11月28日閲覧。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]