門倉健

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門倉 健
Ken Kadokura 2010 (2).jpg
SK時代の門倉(2010年、東京ドーム
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 埼玉県入間市
生年月日 (1973-07-29) 1973年7月29日(44歳)
身長
体重
193 cm
90 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1995年 ドラフト2位
初出場 NPB / 1996年7月26日
KBO / 2009年4月18日
最終出場 NPB / 2008年5月17日
KBO / 2011年7月16日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴

門倉 健(かどくら けん、1973年7月29日[1] - )は、埼玉県入間市出身の元プロ野球選手投手)・コーチ野球解説者

経歴[編集]

プロ入り前[編集]

入間市立藤沢中学校時代より、中学生にして190cmを超える長身投手として注目を浴びる存在であった。子供の頃は原辰徳のファンだった[2]

高校は県内の聖望学園高校に進学し[1]、野球部のエースとして頭角を表す[3]1973年度生まれの世代では、埼玉県下最高のエースと謳われ[誰によって?]、プロ野球界からも注目を集めた存在ではあったが、城石憲之が主将の春日部共栄高校に対して不思議な程に相性が悪く、高校3年生時の1991年には春季県大会、春季関東大会、全国高等学校野球選手権埼玉大会のいずれも、決勝戦で城石にも本塁打を打たれるなど1-3で春日部共栄に敗れ、甲子園の土を踏むことはなかった。

1992年東北福祉大学に進学(同級生に福本亜細亜)。全日本大学野球選手権大会でも準優勝の原動力となり[3]、プロ野球関係者の注目を大いに集め、1995年ドラフトの注目選手となる[3]

1995年のドラフト中日ドラゴンズから2位指名を受けて入団[1]。同期入団には荒木雅博渡邉博幸益田大介らがいる(益田とは、後に大阪近鉄でも共にプレーしている)。

中日時代[編集]

1996年は開幕こそ二軍スタートだったが[3]、7月に一軍に昇格。[3]、7月26日の対ヤクルト戦でプロ初登板を果たすと、2日後の同カードでプロ初勝利を挙げた。すると、8月2日の対巨人戦ではプロ初先発を務めて完封勝利をあげた。優勝争いの最中の10月1日の対広島戦では初の無四球完投勝利を挙げ[3]、監督の星野仙一から「アイツはようやっとるよ」と言われた[3]10月6日ナゴヤ球場最後の公式戦となった対巨人戦では先発投手を務めた。最終的に、この年は7勝をマークした。

1997年から2年連続で2桁勝利を記録した。しかし、1999年はわずか2勝に終わり、同年チームはリーグ優勝して日本シリーズに進出したが、自身は登板機会は無かった。シーズン終了後、小池秀郎佐野重樹善村一仁との交換トレード古池拓一東瀬耕太郎と共に大阪近鉄バファローズへ移籍した。門倉は中日時代について「星野中日時代が一番ミーティングをやった。試合前はどのチームもやるが、試合後も毎回やる。星野監督、島野ヘッドコーチが中心となり、試合の反省をする。こういうミスがあったが、どうすればよかったか。事細かに確認する。「課題はその都度消化していく」という意味をその当時は理解できず、星野中日での4年間は正直なところきつかった。怒られる、怒られないグループに分かれていた。当時の先発陣では、山本昌さん、野口茂樹、ボクが怒られる方。武田一浩さん、今中慎二さん、川上憲伸は怒られないグループだった。「鉄拳制裁」が有名だが、星野監督2次政権の時代。少し円くなった時だからか、殴られなかったとは言わないまでも、口で怒られた印象の方が強い。」と述べている[4]。トレード通告を受け、門倉は「あり得ない」と落ち込み、逆指名で中日に入団してたったの4年。捨てられた気分になったという、星野から近鉄の監督梨田昌孝が「二軍でくすぶっている投手じゃない。どうしても欲しい」と打診してくれたと聞いて前向きになれ、星野に挨拶に出向くと、「ホントはおまえを出したくなかったんや」と言われて救われたと語っている[4]

近鉄時代[編集]

移籍初年度の2000年先発ローテーションの一角を担い、7勝9敗の成績を残した。翌2001年は自身初の開幕投手を務めものの、開幕戦では初回にいきなり5失点を喫する等、3被本塁打6失点の大乱調で2回途中で降板した。しかし、この試合で味方打線の猛反撃で乱打戦の末にチームは白星をあげたように、チームは打線の奮起で勝利をあげる試合が多く、結果的にパ・リーグ優勝を果たした。門倉自身は先発ローテーションの一角を担い、チーム3位の8勝5敗の成績を収めた。イニング数もチーム2位(右腕ではトップ)で奪三振数もトップだったものの、防御率は6.49、被本塁打はリーグワーストの27本とチームの投壊に足並みを揃えてしまう内容で、2001年の日本シリーズではまたも登板機会が得られなかった。

2002年は自身初の未勝利に終わるなど不振に終わったが、2003年は一時期好調で6勝をあげて持ち直した。しかし怪我や不調があったものの近鉄在籍中一度も規定投球回数にはクリアできず首脳陣の信頼を勝ち取りきれなかった。同年オフ、福盛和男矢野英司との交換トレードで宇高伸次と共に横浜ベイスターズへ移籍した。

「力対力で、やや大雑把なは僕には合っていた気がする」と語っている[3]

横浜時代[編集]

2004年6月23日の対ヤクルトスワローズ戦で移籍後初勝利。同時にプロ入り初本塁打を放っている。シーズン当初は先発投手を任されていたが結果は出なかった。この年は抑え投手も経験[3]

2005年8月20日の対中日戦で勝利投手となり、史上4人目の「全球団勝利」を達成(ただし、達成時点に現存していた全球団のことであり、自身が在籍した近鉄からは勝利を挙げていない)。この年監督に就任した牛島和彦から「10センチ足を高く上げてみろ。」言われたことで上手く間ができ[3]7年ぶりに規定投球回数をクリアし自己最多となる11勝を挙げ、最終戦に中2日で登板させる牛島の計らいもあり同僚の三浦大輔と同数でリーグ最多の177奪三振を記録して最多奪三振のタイトルを獲得した。

2006年、前年に比べると不安定な投球で防御率4.84、不調のため一時は中継ぎで調整するなど、満足のいく内容ではなかったものの、牛島が辛抱強く先発で起用し、前年に続き規定投球回数に到達し10勝を挙げ2年連続二桁勝利を記録。投球内容は今ひとつの年であったが、先発の一角としての二桁勝利、チーム最多勝、何よりFA権の行使を理由として複数年契約と年俸の微増を主張。しかし、これらの主張に対して球団側は「10勝しても10敗する投手はいらない」「あと2、3年で終わる投手」などと球団が言っていると聞いて悲しくなったという[2]などと強硬な態度で突き放す。門倉は「2005年には7年ぶりの2ケタ勝利をクリアできた。再生してくれた牛島監督を慕っていたし、投手コーチの小谷さん、野村さんにも助けてもらった。横浜が好きだったし、現役生活を全うしたいと思っていただけに悔しかった。信頼していた牛島監督がこの年限りで辞任したことも、ボクのFA宣言を後押しした」と述べている[2]。また門倉によると実際「メジャー契約」と2、3球団が声をかけてくれて、インディアンスとは契約寸前までいったという[2]。そんな時、巨人の球団代表の清武英利(当時)から「2年連続2ケタ勝てる投手はそうはいない。メジャー? 海外に出すのはもったいない。日本でやってくれ。ジャイアンツに来てくれ!」、するとその日の夜に原辰徳監督から電話で「門倉君、ぜひ我が軍の力になってくれ!」とその場で「はい」と返事をし、条件の細部を詰めるだけだったインディアンスには代理人を通じ、「申し訳ありません」と断りを入れ、巨人入りが決まったという[2]。巨人との入団交渉に臨み、2年契約総額2億円プラス出来高払いの提示を受け、「すごく高い評価をしてくれた。気持ちはほとんど固まっている。心は一つです」と話し、この時点で巨人への移籍が事実上決まった。

12月11日、巨人への入団が正式に決定。「来季開幕カードの横浜3連戦で投げたい」と意気込んだ。なお、この移籍に伴う人的補償で工藤公康が横浜に移籍した。

巨人時代[編集]

2007年、本人の「来季開幕カードの横浜3連戦で投げたい」との希望通り開幕第2戦に先発し、横浜ファンからブーイングを浴びながらも好投するが、援護に恵まれず最終的に古木克明に決勝本塁打を打たれ敗戦。その後先発するも勝利できず、二軍落ちとなった。8月にようやく初勝利しヒーローインタビューで涙を流すも、次の登板で7失点するなど先発では結果を残せなかった。リリーフ登板でも、9月18日阪神タイガースとの天王山といえる試合で敗戦投手となった。クライマックスシリーズでは中継ぎ投手として2試合に登板。

2008年の開幕は二軍で迎え、4月下旬にリリーフ投手として一軍昇格。11試合に登板し2ホールドを記録する。しかし最終回に3度登板し3度とも失点、そのうち2回は同点の場面で登板し、2敗を記録した。5月17日の対広島東洋カープ戦の延長10回、栗原健太に決勝本塁打を打たれ敗戦投手となり二軍降格。6月以降は二軍の先発投手として登板した。リーグ優勝の胴上げの輪には加わったが、クライマックスシリーズでの登板はなく、日本シリーズの出場資格者にも選出されなかった。シーズン終了後、巨人が減額制限の25%を超える大幅減の金額を提示し契約更改交渉が決裂。本人が出場機会を求めたこともあり、自由契約となる。結局巨人では2年間でわずか1勝しかできなかった。

同年12月23日に同じく巨人から自由契約となった野口茂樹とともにシカゴ・カブスのトライアウトを受けた。

カブス傘下時代[編集]

2009年1月20日、トライアウトに合格し、シカゴ・カブスとマイナー契約を結んだことが発表され、春季キャンプの招待選手にも選ばれた。オープン戦では6試合で3失点と好投を見せるも、3月18日にマイナー行きを通告される。開幕直前の4月2日にはカブスから戦力外通告を受けた。

韓国時代[編集]

同年4月14日、解雇されたマイク・ジョンソン[5]の代役の外国人選手として、韓国野球委員会(KBO)のSKワイバーンズと契約したことが発表された。4月18日の対ハンファ戦で、2番手として初登板。その後、先発ローテーションの一角として28試合に登板し、8勝を挙げた。ポストシーズンでの好投もあり、再契約した。日本シリーズでの登板はない門倉は。起亜との韓国シリーズ第1戦、第5戦に先発登板し、第7戦でもリリーフ登板したが、勝利投手にはなれなかった。

2010年3月27日のハンファ戦で、近鉄時代の2001年以来9年ぶりとなる開幕投手として登板し、7回を8安打2失点に抑え勝利を挙げる。5月4日の対ネクセン戦で好投し、無傷の開幕7連勝。チーム16連勝の立役者となった。7月17日の対起亜戦で10勝目を挙げた。同年は日本プロ野球時代を通しても自己最多となる14勝(防御率は3位)を記録し、SKの公式戦優勝に大きく貢献した[6]。韓国シリーズ優勝後は11月5日の韓国・台湾クラブチャンピオンシップ第2戦で登板し7回無失点で勝利投手、11月13日日韓クラブチャンピオンシップでは3回途中3失点で降板し敗戦投手になった。その後日本国内の病院で診察した結果、以前より傷めていた膝の手術が避けられないとされたため、球団側は再契約しないことを決定し、退団となった。

2011年1月25日、前年より中日時代のチームメイトだった落合英二が投手コーチを務める三星ライオンズと契約を結んだ。同年5月18日大邱市民運動場野球場でのネクセン戦で完封勝利を収め、日韓プロ通算100勝を達成した。だが6月以降急激に成績を落とし、7月17日には二軍へ降格すると、7月21日にウェイバー公示され退団となった。

クラブチーム時代[編集]

2012年1月、日本プロ野球復帰を目指し楽天のテストを受験したが不合格だった[7]。2月には日本ハムの春季キャンプに参加し入団テストを受けたが、またも不合格となった[8]。同年4月、北海道伊達市のクラブチーム・伊達聖ヶ丘病院硬式野球部に入団し、北海道地区予選から都市対抗野球大会出場を目指すことにした[9]。同年5月25日、岩見沢市営野球場で行われた都市対抗野球北海道1次予選1回戦・小樽野球協会戦で先発し、7回参考ながら完全試合を達成した。その後の試合で連敗し北海道地区予選敗退となったものの、門倉本人はJR北海道の補強選手として都市対抗野球に出場することになった。7月15日東京ドームでの都市対抗野球1回戦・トヨタ戦で、JR北海道の3番手として7回裏から登板したが、2-2の同点の場面で坂田篤彦に決勝2ランを打たれ敗戦投手となった。

2012年11月21日ファイターズスタジアム千葉県鎌ヶ谷市)での2012年第2回プロ野球合同トライアウトに出場した。しかしオファーがなく[10]、12月末現役を引退する意思を固めたと報じられ、翌2013年1月初め、現役引退が正式に発表された。同年1月6日には埼玉県飯能市聖望学園高等学校野球部グラウンドにて、同校OB選手同士により引退試合を行った。

引退後[編集]

2013年より、2011年に在籍していた三星ライオンズで投手インストラクターを務めることになった。3月末の公式戦開幕後は、一軍の試合にもベンチ入りしていることもあった。リック・バンデンハークを指導し制球難の原因だったインステップを矯正し、サムスン2年間で通算20勝13敗、メジャー通算の与四球率は4・70だったが与四球率は2・82と大きく改善した[11]。2015年より三星ライオンズの一軍ブルペンコーチとなった。韓国プロ野球に在籍していた外国人選手が一軍コーチに就任したのは初の事例だったが、同年限りで退団。2016年からはTOKYO MXの副音声ゲスト解説など解説者としても活動し、日本各地での野球教室に参加している。2017年からは関西テレビ・横浜DeNAのOBとしてTBSチャンネル(いずれも本数契約)にも解説者として出演。

人物[編集]

アゴの長い顔が特徴で、ニックネームは「アゴ倉」「モアイ」、近鉄時代にはチームメイトから「ショベルカー」と呼ばれ、「アゴの長さでは現役一」を自称。アゴに関するエピソードが多数ある。

アントニオ猪木のようにアゴが長いことから、テーマソングを「炎のファイター」にし、お立ち台で猪木の物真似で「1!2!3!ダァ~!」」をしていた。2010年の韓国オールスター戦に出場した際に、アゴが特徴の他チームの選手2人と並んで「アゴ三兄弟」として多くのフラッシュを浴びた。さらにはかつての中日時代のチームメイトで現在も親交がある三星ライオンズ監督(当時)の宣銅烈から「アゴ、まだ若いなあ」と日本語で声を掛けられた。ちなみに韓国では「亜蔵」というニックネームがつけられている。

2008年から埼玉県八潮市で地元小学生チームによる「門倉健杯争奪少年野球大会」を主催。大会開催に併せて自ら投球を披露するなど、少年野球や選手の育成に寄与している。

詳細情報[編集]

年度別投手成績[編集]





















































W
H
I
P
1996 中日 14 11 3 1 1 7 3 0 -- .700 302 72.1 63 6 30 1 0 65 3 0 27 25 3.11 1.29
1997 34 26 2 0 0 10 12 0 -- .455 747 160.0 173 13 96 4 10 143 4 1 95 84 4.73 1.68
1998 26 25 3 2 0 10 9 0 -- .526 651 153.2 133 10 66 0 9 115 9 0 60 58 3.40 1.30
1999 15 8 0 0 0 2 4 0 -- .333 227 49.0 61 7 18 2 2 38 3 0 33 31 5.69 1.61
2000 近鉄 23 18 4 1 0 7 9 0 -- .438 501 117.1 108 13 46 0 4 109 2 0 54 51 3.91 1.31
2001 32 21 0 0 0 8 5 0 -- .615 552 123.1 136 27 51 1 0 122 4 0 92 89 6.49 1.52
2002 16 1 0 0 0 0 4 0 -- .000 124 29.1 25 4 12 3 0 32 0 0 12 12 3.68 1.26
2003 20 16 0 0 0 6 4 0 -- .600 432 98.1 102 12 44 3 5 103 5 0 47 46 4.21 1.48
2004 横浜 42 7 0 0 0 4 8 10 -- .333 336 76.1 84 16 26 3 3 86 7 0 42 39 4.60 1.44
2005 29 27 4 1 1 11 8 0 0 .579 832 197.2 175 19 76 1 6 177 6 0 80 74 3.37 1.27
2006 28 25 2 0 0 10 9 0 0 .526 691 154.1 187 19 51 0 3 114 1 0 90 83 4.84 1.54
2007 巨人 12 5 0 0 0 1 5 0 0 .167 144 31.2 36 7 14 2 0 26 2 1 21 21 5.97 1.58
2008 11 0 0 0 0 0 2 0 2 .000 56 12.2 13 2 6 0 0 16 0 0 5 5 3.55 1.50
2009 SK 28 23 0 0 0 8 4 0 1 .667 564 126.0 141 19 53 0 7 98 2 0 78 70 5.00 1.54
2010 30 27 0 0 0 14 7 0 0 .667 647 153.2 146 14 52 2 6 143 11 0 65 55 3.22 1.29
2011 三星 16 16 1 1 0 5 6 0 0 .455 376 86.1 92 9 31 0 5 62 5 0 55 39 4.07 1.42
NPB:13年 302 190 18 5 2 76 82 10 2 .481 5595 1276.0 1296 155 536 20 42 1146 46 2 658 618 4.36 1.44
KBO:3年 74 66 1 1 0 27 17 0 1 .614 1587 366.0 379 42 136 2 18 303 18 0 198 164 4.03 1.41
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル[編集]

NPB

表彰[編集]

NPB
KBO
  • 月間MVP:1回 (2010年4月)
その他
  • 元気な入間・生き生き功労賞 (第5号・2006年1月26日) ※史上4人目の全球団勝利の功績から

記録[編集]

NPB投手記録
NPB節目の記録
NPB打撃記録
  • 初安打:1996年8月8日、対広島東洋カープ18回戦(広島市民球場)、4回表に高橋建から右前安打
  • 初打点:1997年5月3日、対ヤクルトスワローズ4回戦(明治神宮野球場)、4回表に吉井理人から右前適時打
  • 初本塁打:2004年6月23日、対ヤクルトスワローズ12回戦(明治神宮野球場)、4回表に藤井秀悟から中越ソロ
KBO

背番号[編集]

  • 25(1996年 - 1999年)
  • 23(2000年 - 2002年)
  • 17(2003年)
  • 24(2004年 - 2006年)
  • 27(2007年 - 2008年)
  • 54(2009年 - 2010年)
  • 16(2011年)
  • 88(2013年 - 2015年)

脚注[編集]

  1. ^ a b c 『プロ野球カラー名鑑 2008』 ベースボール・マガジン社2008年、13頁。ISBN 978-4-583-61526-4
  2. ^ a b c d e 流れ流れて日韓米7球団、メジャー球団との契約直前 巨人原監督からの電話でFA決断、2017年5月16日、日刊ゲンダイ
  3. ^ a b c d e f g h i j 『週刊プロ野球データファイル』2011年30号、ベースボール・マガジン社、P25-P26
  4. ^ a b 門倉健、流れ流れて日韓米7球団、相手にぶつけても謝ってはいけない…闘将流“鉄の掟”2017年5月23日、日刊ゲンダイ
  5. ^ 近鉄時代のチームメイトでもある。
  6. ^ 韓国プロ野球で蘇った門倉健、15年目の絶頂”. Number Web (2010年11月12日). 2012年4月17日閲覧。
  7. ^ 日本ハムが門倉を入団テスト、楽天は不合格”. サンケイスポーツ (2012年2月6日). 2012年2月6日閲覧。
  8. ^ 門倉は不合格=プロ野球・日本ハム”. 時事通信 (2012年2月9日). 2012年2月9日閲覧。
  9. ^ 元巨人の門倉が北海道のクラブチーム入り”. サンケイスポーツ (2012年4月17日). 2012年4月17日閲覧。
  10. ^ 元NPB所属のアマ野球選手はチームに所属して2シーズンプレーしていなければプロ復帰できないため、そもそもこの時点で門倉にはNPB復帰の資格自体がなかった。このため、何を意図してこれに参加したのかは不明である。
  11. ^ ソフトバンクのバンデンハークが初登板先発で初勝利 6イニング2失点中日スポーツ、2015年6月15日

関連項目[編集]

外部リンク[編集]