三澤興一

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三澤 興一
読売ジャイアンツ ファーム投手コーチ #73
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 埼玉県入間郡大井町(現:ふじみ野市
生年月日 (1974-06-08) 1974年6月8日(44歳)
身長
体重
177 cm
84 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1996年 ドラフト3位
初出場 1997年4月29日
最終出場 2005年10月8日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
  • 読売ジャイアンツ (2017 - )
国際大会
代表チーム 日本の旗日本
五輪 1996年
オリンピック
男子 野球
1996 野球

三澤 興一(みさわ こういち、1974年6月8日 - )は、埼玉県入間郡大井町(現:ふじみ野市)出身の元プロ野球選手投手)。

2017年より読売ジャイアンツの二軍投手コーチを務める。

経歴[編集]

プロ入り前[編集]

帝京高校では1991年春夏、1992年春夏の4期連続甲子園出場を果たす。高校通算29本塁打を記録するなど3年時はエースで4番だった。

1992年の第64回選抜大会では4連投の末、決勝戦で東海大相模高校を3-2で破り、優勝を果たす。同年の第74回全国選手権では1回戦で尽誠学園高校に0-1で敗れ、春夏連覇の夢を絶たれる。

早稲田大学では1年生の春から登板し、織田淳哉の後を継いでエースとして活躍する。リーグ通算65試合登板31勝16敗、防御率2.10、402奪三振。1995年春季と1996年春季の2回ベストナインに選ばれる。東京六大学野球での奪三振数は、和田毅江川卓に次いで第3位を誇る。

1996年アトランタオリンピックでは日本代表に選ばれ、大学生にもかかわらず、初戦のオランダ戦に先発し勝利を挙げるなど3試合に先発、1試合リリーフの合計4試合登板し、銀メダル獲得に貢献する。

1996年度ドラフト会議にて読売ジャイアンツから3位指名を受けて入団。

プロ入り後[編集]

一年目から先発・中継ぎ・抑えと全てのポジションを担う便利屋的な働きをしながら、2000年には巨人の日本一に貢献している。2001年途中、玉峰伸典と共に田畑一也真木将樹との交換トレード大阪近鉄バファローズへ移籍。移籍してからは主にビハインドの場面で登板、ゲームを立て直して打線の奮起を促し逆転を呼び込むことが多く、7連勝する活躍でこの年の近鉄のリーグ優勝に大きく貢献する。その後も中継ぎの一角として活躍。

2004年に当時の堀内恒夫新監督たっての希望により、根市寛貴+金銭のトレードで巨人に復帰する。3勝したものの怪我もあり15試合の登板にとどまり、オフに戦力外通告を受ける。

その後のトライアウトヤクルトスワローズに合格したが、2005年シーズン前のオフに右ふくらはぎ肉離れに見舞われ大きく出遅れ、10月にずれ込んだシーズン一軍初登板では1回6失点など過去最低の成績に終わる。2006年は一軍登板がなく、再び戦力外通告を受け退団。2度のトライアウトを経て中日ドラゴンズに合格する。2007年も一軍登板はなく、10月に3度目の戦力外通告を受ける。その直後のトライアウトには2回共参加しなかった。

2008年からは、メジャーリーグに挑戦するため、アメリカで活動した。入団テストを兼ねシカゴ・ホワイトソックスのマイナー・キャンプに参加した[1]ものの、キャンプ途中で解雇された。その後、同年6月にアメリカ独立リーグノーザンリーグゲーリー・サウスショア・レイルキャッツと契約。29試合に登板し7勝1敗6セーブ、防御率1.69、54奪三振の成績で、チームはプレーオフに進出し、プレーオフでも救援で好投し実力を十分に発揮した。冬期も、ドミニカベネズエラウィンターリーグにも出場して投球を続け、1年間を通じて故障もなくプレーした[2]

その後、アメリカロサンゼルス郊外のコンプトン市内の大学内に、無料で野球育成プログラムを提供する施設アーバン・ユース・アカデミーでメジャー球団との契約を目指して自主トレを続けていた。竹岡和宏とは共に自主トレをしていた[2]2009年5月19日にアメリカ独立リーグゴールデンベースボールリーグのロングビーチ・アーマダと契約。伊良部秀輝と同僚となった[3]

現役引退後[編集]

2010年4月に現役を引退。同年6月には巨人のスコアラーになった[4]。2016年10月26日、巨人の二軍投手コーチに就任した[5]2017年11月25日から台湾で開催される2017アジアウインターベースボールリーグにおいて、NPBイースタン選抜の投手コーチを務める[6]

人物[編集]

松井秀喜と親友で、高校時代はいたる所で会っていたという。2年時の明治神宮大会決勝戦で松井の星稜と戦った際には、松井相手に4四球(内2つは敬遠)をするも、他の打者に打たれたため8-13で敗れて準優勝となる。3年時の第74回選手権大会では『対戦するなら決勝でやりたいね』とお互い語り合っていたという。自分たちの夢は叶わなかったが、3年後の第77回選手権大会にてお互いの母校が決勝で対戦することになった。

日曜日の朝の情報系番組『ザ・サンデー』において、質実剛健キャラの石井浩郎川上憲伸に対抗し、ゆるキャラの「前略・三沢興一です」のコーナーがあった(そのテーマ曲も「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」をコミカルにアレンジした曲だった)。このコーナーは近鉄移籍初期まで放送された。

詳細情報[編集]

年度別投手成績[編集]





















































W
H
I
P
1997 巨人 35 0 0 0 0 3 4 2 -- .429 253 57.1 53 7 32 0 3 46 2 0 31 29 4.55 1.48
1998 43 7 0 0 0 3 5 3 -- .375 358 82.0 87 7 37 3 2 53 2 0 43 35 3.84 1.51
1999 36 8 0 0 0 5 3 0 -- .625 334 79.1 79 10 20 1 4 56 2 0 37 35 3.97 1.25
2000 41 2 0 0 0 1 1 1 -- .500 268 65.2 64 6 14 3 3 38 3 0 17 17 2.33 1.19
2001 2 1 0 0 0 0 1 0 -- .000 20 3.0 9 0 2 0 1 1 0 0 6 6 18.00 3.67
近鉄 21 0 0 0 0 7 0 0 -- 1.000 143 33.2 31 4 9 0 0 25 0 0 17 15 4.01 1.19
'01計 23 1 0 0 0 7 1 0 -- .875 163 36.2 40 4 11 0 1 26 0 0 23 21 5.15 1.39
2002 53 0 0 0 0 4 2 0 -- .667 251 59.2 62 7 14 2 2 43 0 0 29 28 4.22 1.27
2003 48 0 0 0 0 2 2 0 -- .500 186 42.2 44 8 18 2 0 26 2 0 20 16 3.38 1.45
2004 巨人 15 0 0 0 0 3 0 0 -- 1.000 80 19.2 22 3 4 1 1 17 0 0 10 10 4.58 1.32
2005 ヤクルト 2 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- 14 2.0 8 1 0 0 0 1 0 0 6 6 27.00 4.00
NPB:9年 296 18 0 0 0 28 18 6 *0 .609 1907 445.0 459 53 150 12 16 306 11 0 216 197 3.98 1.37
  • 「-」は記録なし
  • 通算成績の「*数字」は不明年度がある事を示す

記録[編集]

  • 初登板:1997年4月29日、対阪神タイガース5回戦(東京ドーム)、9回表に5番手として救援登板・完了、1回無失点
  • 初奪三振:1997年4月30日、対阪神タイガース6回戦(東京ドーム)、4回表にフィル・ハイアットから
  • 初セーブ:1997年5月27日、対広島東洋カープ7回戦(福岡ドーム)、8回表2死に3番手として救援登板・完了、1回1/3を無失点
  • 初勝利:1997年6月15日、対広島東洋カープ13回戦(東京ドーム)、6回表に2番手として救援登板、3回2失点
  • 初先発・初先発勝利:1998年8月16日、対阪神タイガース20回戦(東京ドーム)、6回2失点

背番号[編集]

  • 31 (1997年 - 2001年途中)
  • 26 (2001年途中 - 2003年)
  • 25 (2004年)
  • 12 (2005年)
  • 38 (2006年)
  • 70 (2007年)
  • 73 (2017年 - )

代表歴[編集]

脚注[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]