川村丈夫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
川村 丈夫
神奈川フューチャードリームス 監督 #16
2024年4月21日
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 神奈川県大和市
生年月日 (1972-04-30) 1972年4月30日(51歳)
身長
体重
182 cm
80 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1996年 ドラフト1位(逆指名)
初出場 1997年4月6日
最終出場 2008年10月5日(引退試合)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴
国際大会
代表チーム 日本の旗 日本
五輪 1996年
オリンピック
男子 野球
1996 野球

川村 丈夫(かわむら たけお、1972年4月30日 - )は、神奈川県大和市出身の元プロ野球選手投手、右投右打)、コーチ

現役時代は横浜ベイスターズ(現:横浜DeNAベイスターズ)にて先発・中継ぎ投手として活躍し、1998年シーズンには先発投手として同球団の38年ぶりセントラル・リーグ(セ・リーグ)優勝と日本一に貢献した。2022年シーズンからはDeNA在籍のまま神奈川フューチャードリームスの監督を務める。アトランタオリンピック野球競技の銀メダリスト。

経歴[編集]

プロ入り前[編集]

1990年神奈川県立厚木高等学校3年生の時に、神奈川県高等学校野球春季大会でベスト4進出。全国高等学校野球選手権神奈川大会には第1シードで臨み、強豪私立ぞろいの厳しい状況下でエースとしてチームをベスト8まで導く大黒柱となった。準々決勝では川崎北高河原純一と延長16回の投手戦を演じるが敗退。立教大学へ一般入試で現役合格[1]。大学時代は腰痛に悩まされたが[2]、東京六大学リーグ通算63試合登板、21勝27敗、防御率2.65、317奪三振1993年アジア選手権・日米大学野球の両野球日本代表に選出。大学卒業後は日本石油(現:ENEOS)に入社し、日本石油硬式野球部時代の1995年には第66回都市対抗野球大会で優勝。

1996年にはアトランタオリンピック野球日本代表に選出され、日本代表の銀メダル獲得に貢献した[3]。準決勝のアメリカ戦では先発の杉浦正則リリーフし3回1/3イニングを無失点に抑えた。また、第67回都市対抗野球大会でも2勝を挙げて日本石油硬式野球部のベスト4入りを果たし、同年の社会人ベストナインに選出された[3]プロ野球ドラフト会議を前に、地元球団の横浜ベイスターズ[2]が早くから1位指名に名乗りを上げた一方、中日ドラゴンズ日本ハムファイターズ[注 1]も金銭的な条件を提示[2]。横浜・日本ハムは1位指名選手として、井口忠仁青山学院大学硬式野球部)の1位指名を狙っていた中日も2位指名を狙っていたが、本人は在京球団を希望しており、横浜を逆指名[2]。同球団から1位指名を受け、入団[3]。同年11月26日には同じく横浜を逆指名し、ドラフト2位指名を受けた森中聖雄東海大学硬式野球部)とともに契約金1億円+出来高払い5,000万円・年俸1,300万円(金額は推定)で契約を結んだ[4]

プロ入り後[編集]

1997年は球速140 km/h直球と高い制球力から即戦力として期待され[3]先発投手が著しく不足する中、シーズン開幕当初から先発ローテーションの一角を担い10勝7敗・147奪三振。防御率3.32の好成績を挙げる。しかし、新人王は12勝を挙げた広島東洋カープ澤崎俊和に軍配が上がった。同年のシーズンオフには年俸3,300万円[5](前年比2,000万円増額)となった。

1998年開幕投手に抜擢される。監督就任1年目の権藤博はインタビューで川村について「高校は進学校、大学も一般入試で現役合格し、自分の力で掴み取っている、あいつのインテリジェンスに賭けたから」と語っている。結果、史上3人目の1安打完封勝利を挙げる。前半戦では7月18日の広島戦までに8勝を挙げ[6]オールスターゲームにも選出されたが、後半戦は0勝に終わった。しかし、日本シリーズでは最終戦(第6戦)で先発し、日本一に貢献[6]。同年のシーズンオフには年俸5,000万円で契約を更改[6]した。

1999年は新たに習得したチェンジアップを駆使し、自己最多の17勝を挙げた[注 2]。勝利数は上原浩治(巨人)の20勝、野口茂樹(中日)の19勝[8]に次ぐリーグ3位で[9]、防御率3.00も規定投球回到達者では上原(2.09)・野口(2.65)・山本昌(中日 / 2.96)に次ぐリーグ4位だった[8]。6月には5戦全勝し、月間MVPを獲得、2年連続オールスターゲームにも選出された。同年のシーズンオフには年俸が1億円(前年比5,000万円増額)に到達したが、プロ4年目での年俸1億円到達は当時、球界最速タイ記録だった[10]

2000年は年間を通じて調子があまり良くなかったものの、先発としてシーズンを通して登板し続けた結果、リーグ最多敗戦(12敗)を記録。最終的に26試合に登板して7勝12敗、防御率5.06に終わり、同年のシーズンオフには年俸8,200万円(前年比1,800万円減額)で契約を更改した[11]

2001年は序盤に2試合続けて中継ぎで大量失点し、二軍の湘南シーレックス[注 3]イースタン・リーグ)に降格する。6月に先発として一軍に復帰するものの9月以降は再び中継ぎに回ることになる。

2002年は故障により、わずか3試合の登板で未勝利に終わり、10月には背中の滑液胞炎の摘出手術を受ける。

2003年5月6日の広島戦(横浜スタジアム)で593日ぶりの勝利を挙げたが、5勝にとどまる。

2004年はスタミナ面を考慮し、中継ぎに転向。4月は大車輪の活躍でチームを首位に押し上げた。しかし、登板過多による疲労から精彩を欠き、7月1日には一軍登録を抹消。後半戦からは復帰し、58試合に登板して防御率こそ3.07をマークしたが、複数イニングに登板すると打たれることが多く、8敗を喫した。

2005年は1イニング限定の登板起用がこれまた当たり、56試合に登板して防御率は2.31を記録。しかも夏場までは防御率0点台であった。木塚敦志と共に、抑えのマーク・クルーンに繋ぐセットアッパーとしてチームの躍進に貢献し、阪神JFKに匹敵する活躍を見せた。

2006年二段モーション禁止によるフォーム改造の影響により、シーズン序盤は打ち込まれ、防御率も2桁の時期が続き、セットアッパーの役目も加藤武治に譲ることになった。それでも5月以降は持ち直して川村-加藤-クルーンの勝利リレーを確立。この年は木塚、加藤、クルーンと形成した救援投手陣はクアトロKと呼称された。シーズン終盤にクルーンが故障で登録抹消されると抑えの役目を任され、プロ10年目でプロ入り初セーブを挙げた。最終的に57試合に登板して防御率こそ3点台(3.86)を確保したが、この年優勝した中日を相手に大量失点するシーンが目立ち、数字以上に打たれるイメージを与えることになった。

2007年は中継ぎでの3年間にわたる登板過多気味の状況や先発投手が不足しているチーム事情を考慮し、大矢明彦新監督の意向で先発に配置転換された。しかしキャンプ中に故障し、調整不足のままシーズンを迎えることになる。何とか先発ローテーションの6番手に名を連ねたが5回未満で降板することが多く、開幕から約1ヶ月で中継ぎに戻る。中継ぎとしてはまずまずの投球内容ではあったが、オールスター明けに調子を崩し、8月・9月と二軍落ちした。

2008年はシーズンの大半を二軍で過ごし、9月28日に同年のシーズン限りで現役引退と一部で報道され、10月1日に球団より公式に現役引退が発表された。引退の理由について本人は「投げるのが怖くなるときがあり、精神的に厳しいものがあった」と語っている。10月5日の広島23回戦(横浜)で先発登板し、先頭打者の東出輝裕を3球三振に打ち取り降板。試合後には引退セレモニーが執り行われた。

引退後[編集]

2011年3月19日 横須賀スタジアム

2009年シーズンは1年間、湘南シーレックス[注 3]の投手コーチを務め、山口俊の育成に貢献。2010年シーズンも1年間、スコアラーを務めた後、2011年から2012年までは2度目の二軍投手コーチ、2013年シーズンは一軍投手コーチ(ブルペン)、2014年シーズンから2015年シーズンまでは一軍投手コーチ(ベンチ)を5年間務めた。

2016年シーズンからは2年間勤務した球団職員(野球振興担当)として少年たちの野球指導を担当し[12][13]2017年シーズンは横浜DeNAベイスターズジュニアチームの監督を務めた[14]

2018年シーズンより3年ぶりにコーチへ現場復帰[注 4]、二軍投手コーチを務める[16]2020年シーズンからは一軍投手コーチに異動。

2021年シーズン終了後の11月7日、DeNAの投手コーチを退任し、DeNA在籍のまま、2022年シーズンからベースボール・チャレンジ・リーグ(ルートインBCリーグ)の神奈川フューチャードリームスに監督として派遣されることが発表された[17][18]

選手としての特徴・人物[編集]

投球フォームはオーバースロー[19]。エースとして活躍した1999年はキレのあるストレートチェンジアップフォークを得意とし、カーブも投げていた[19]

  • 20th Century長野博とは小学生時代からの同級生。長野とは同じチームに1年間在籍した。
  • 球持ちの非常によい投手であり、140キロ弱のストレートでも打者はタイミングをあわせるのに苦労した。
  • クアトロKを構成していた木塚・加藤とは仲がよく、年明けの合同自主トレも厚木大山で共に行っていた。なお、川村は以前から野村弘樹秋元宏作とこの地で自主トレを行っていた。
  • 被本塁打が多いことで知られており、引退試合後のセレモニーでも自身でネタにした。また、投手からも3本打たれている。1999年8月13日の横浜スタジアムでの巨人戦ではバルビーノ・ガルベスに満塁場外本塁打を打たれ、2001年7月31日広島市民球場での広島戦では自身通算100本目の被本塁打を高橋建に打たれた。

詳細情報[編集]

年度別投手成績[編集]





















































W
H
I
P
1997 横浜 26 26 2 2 0 10 7 0 -- .588 614 151.2 113 27 49 1 4 147 3 0 56 56 3.32 1.07
1998 26 24 1 1 0 8 6 0 -- .571 610 146.1 139 23 46 0 2 97 3 0 60 54 3.32 1.26
1999 26 26 5 3 2 17 6 0 -- .739 743 183.0 169 21 43 1 1 131 1 0 65 61 3.00 1.16
2000 26 26 1 0 1 7 12 0 -- .368 614 147.2 160 23 35 2 0 85 7 0 84 83 5.06 1.32
2001 27 15 0 0 0 6 6 0 -- .500 379 90.1 94 8 29 3 0 49 2 0 43 42 4.18 1.36
2002 3 3 0 0 0 0 1 0 -- .000 50 10.1 15 2 5 1 1 6 0 0 8 8 6.97 1.94
2003 19 19 0 0 0 5 7 0 -- .417 487 116.2 124 20 20 0 4 66 0 0 63 62 4.78 1.23
2004 58 0 0 0 0 4 8 0 -- .333 335 82.0 67 8 25 4 3 80 2 0 33 28 3.07 1.12
2005 56 0 0 0 0 6 6 0 30 .500 285 70.0 62 6 17 3 0 63 0 0 21 18 2.31 1.13
2006 57 0 0 0 0 4 4 3 22 .500 249 56.0 59 3 22 5 2 34 1 0 25 24 3.86 1.45
2007 35 5 0 0 0 3 1 0 7 .750 238 55.0 55 3 23 0 2 53 1 0 22 22 3.60 1.42
2008 9 1 0 0 0 1 0 1 1 1.000 26 6.1 6 0 1 0 0 4 0 0 3 3 4.26 1.11
通算:12年 368 145 9 6 3 71 64 4 *60 .526 4630 1115.1 1063 144 315 20 19 815 20 0 483 461 3.72 1.24
  • データ出典 - 日本野球機構(NPB)[20]、ただし、WHIPは除く。
  • 各年度の太字はリーグ最高
  • 「-」は記録なし
  • 通算成績の「*数字」は不明年度がある事を示す

表彰[編集]

記録[編集]

初記録
投手記録
打撃記録
  • 初安打:1997年4月29日、対ヤクルトスワローズ4回戦(横浜スタジアム)、2回裏にテリー・ブロスから
  • 初打点:1997年8月3日、対広島東洋カープ20回戦(広島市民球場)、1回表に大野豊から右翼線へ適時二塁打
節目の記録
その他記録

背番号[編集]

  • 16(1997年 - 2008年、2022年 - )
  • 83(2009年)
  • 75(2011年 - 2015年)
  • 72(2018年 - 2021年)

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 日本ハムは上田利治監督の司令を受けて獲得に名乗りを上げた[2]
  2. ^ ベイスターズの投手で15勝以上を記録した選手は同年の川村以来、24年後の2023年東克樹が達成するまで現れなかった[7]
  3. ^ a b 2000年から2010年までは、二軍の球団名を「湘南シーレックス」としていた。その後は、一軍と同様の球団名に戻す。
  4. ^ 2017年10月2日に球団より発表[15]

出典[編集]

  1. ^ ベイ快進撃の陰に川村投手コーチ 権藤氏が「知性ある」と評価」『日刊ゲンダイ講談社、2015年5月23日。2020年11月5日閲覧。オリジナルの2020年11月5日時点におけるアーカイブ。
  2. ^ a b c d e 中日スポーツ』1996年10月31日第5版5頁「中日ガックリ 川村、横浜を逆指名」(中日新聞社
  3. ^ a b c d 「'97プロ野球 12球団全選手百科名鑑」『ホームラン』第21巻第4号(通算:第225号 / 1997年3月号)、日本スポーツ出版社、1997年3月31日、81頁。 
  4. ^ 中日新聞』1996年11月27日朝刊第一運動スポーツ面29頁「ドラフトだより(金額は推定) 【横浜】川村、森中が契約」(中日新聞社
  5. ^ 「'98プロ野球 12球団全選手百科名鑑」『ホームラン』第22巻第4号(通算:第236号 / 1998年3月号)、日本スポーツ出版社、1998年3月31日、38頁。 
  6. ^ a b c 「'99プロ野球 12球団全選手百科名鑑」『ホームラン』第23巻第3号(通算:第246号 / 1999年3月号)、日本スポーツ出版社、1999年3月31日、25頁。 
  7. ^ 【DeNA】東克樹が11連勝で球団24年ぶりの15勝目「本当にうれしい。残り試合も勝てるように」」『スポーツ報知』報知新聞社、2023年9月20日。2023年9月20日閲覧。オリジナルの2023年9月20日時点におけるアーカイブ。
  8. ^ a b ホームラン 2000, p. 224.
  9. ^ 『プロ野球選手名鑑2000 公式戦全日程 プロ野球記録集』(第1版第1刷)ベースボール・マガジン社(編集・発行)、2000年3月10日、71頁。ISBN 978-4583036304 
  10. ^ 『2000年 プロ野球選手写真名鑑』日刊スポーツ出版社〈日刊スポーツグラフ〉、2000年4月17日、99頁。ISBN 978-4817250797 
  11. ^ 「完全保存版 プロ野球セ・パ両リーグ 12球団全選手カラー百科名鑑2001」『ホームラン』第25巻第2号(通算:第258号 / 2001年3月号増刊)、日本スポーツ出版社、2001年3月31日、61頁。 
  12. ^ 横浜DeNAベイスターズベースボールスクール
  13. ^ 講師紹介 横浜DeNAベイスターズ
  14. ^ “DeNAがジュニアチームのセレクションを7月下旬に開催!”. BASEBALL KING. (2017年6月14日). https://baseballking.jp/ns/120620 2017年12月3日閲覧。 
  15. ^ 2018年度 コーチ契約について”. 選手・チームのニュース. 横浜DeNAベイスターズ (2017年10月2日). 2017年12月3日閲覧。
  16. ^ 2018年シーズン 横浜DeNAベイスターズコーチングスタッフ・コーチ契約について”. 選手・チームのニュース. 横浜DeNAベイスターズ (2017年11月6日). 2017年12月3日閲覧。
  17. ^ “DeNA、川村コーチをBC神奈川の監督に派遣 地元出身「発展に貢献できれば」”. BASEBALLKING. (2021年11月7日). https://baseballking.jp/ns/303623 2021年11月7日閲覧。 
  18. ^ 川村丈夫氏 監督就任のお知らせ - 神奈川フューチャードリームス(2021年11月7日)2021年11月7日閲覧。
  19. ^ a b 大矢明彦(横浜コメント担当解説者)フジテレビ『プロ野球ニュース』『プロ野球ニュース イヤーブック 選手名鑑2000』(第1刷発行)ザ・マサダ、2000年4月1日、54頁。ISBN 978-4883970148 
  20. ^ 個人年度別成績 【川村丈夫 (横浜ベイスターズ)】 - 日本野球機構(NPB)
  21. ^ 大和市市民栄誉賞”. 大和市. 2019年4月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年11月5日閲覧。

参考文献[編集]

  • 「完全保存版 プロ野球セ・パ両リーグ 12球団全選手カラー百科名鑑2000」『ホームラン』第24巻第3号(通算:第252号 / 2000年3月号増刊)、日本スポーツ出版社、2000年3月31日。 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]