福盛和男
![]() |
基本情報 | |
---|---|
国籍 |
![]() |
出身地 | 宮崎県北諸県郡高崎町(現:都城市) |
生年月日 | 1976年8月4日(46歳) |
身長 体重 |
182 cm 82 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1994年 ドラフト3位 |
初出場 |
NPB / 1995年10月3日 MLB / 2008年3月31日 |
最終出場 |
NPB / 2010年3月27日 MLB / 2008年4月24日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
| |
この表について
|
福盛 和男(ふくもり かずお、1976年8月4日 - )は、宮崎県北諸県郡高崎町(現:都城市)出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。妻は元フジテレビアナウンサーの福元英恵。
経歴[編集]
プロ入り前[編集]
小学4年生のときに野球を始める[1]。巨人のキャンプ地である宮崎県出身のため、子供の頃から巨人ファンだった[1]。 都城高等学校時代は全国大会に縁がなく、宮崎大会は3年連続で決勝戦で敗退したが(3年時の対戦相手は草野大輔を擁する延岡学園高校)、この年のドラフトでは九州ナンバーワン右腕と評価されていた[1]。
1994年のドラフト会議で横浜ベイスターズから3位指名を受け、入団。当時横浜の監督だった近藤昭仁は1位の紀田彰一を競合で獲得できなかった場合、福盛を1位指名する予定でいた[1]。
横浜時代[編集]
1995年は高卒新人ながらシーズン終了間近に一軍に昇格し、10月3日の対ヤクルトスワローズ戦でプロ初登板。10月7日対中日ドラゴンズ26回戦でプロ初先発マウンドに立った。しかし翌年は一軍では中継ぎ登板1試合に終わる。
1997年はチーム方針変更で実績よりその時好調な選手を起用することになり6月26日に通算2度目の先発マウンドに上がる。7月3日の中日ドラゴンズ戦でプロ初勝利を記録。その後も先発ローテーション投手としてチームの2位躍進に貢献した。
1998年は怪我によりシーズンの大半を棒に振ったが優勝間近に迫った9月に復帰して3試合に登板。西武との日本シリーズでもマウンドに上がった。
1999年は開幕当初は中継ぎであったが4月にリリーフで3勝を挙げる。5月から先発に回り、規定投球回には届かなかったが自己最多の9勝を記録した。
2000年はメジャー移籍した佐々木主浩の後釜として期待されたラファエル・ベタンコートが抑えに定着できなかったことから、前半戦の抑えを務めるも首脳陣の信頼を得るに至らず、後半戦からルーキーの木塚敦志にその座を奪われ8月からは先発として登板すると8月こそ勝ち星は得れなかったが9月10月で4勝1敗の成績を記録した。
2001年には登録名を「和男」から「福盛 一夫」へ変更。開幕ローテーションに加わったがわずか1か月で故障で離脱し、そのままシーズンを終えてしまい1勝に終わる。
2002年は、先発中継ぎ抑えと満遍なく登板したが便利屋的な立場だった。
2003年は登録名を「和男」へ戻す。自己最高の62試合に登板したが防御率は一軍定着後ワーストだった。オフに門倉健・宇高伸次との交換トレードで矢野英司と大阪近鉄バファローズへ移籍。
近鉄時代[編集]
2004年1月にフジテレビアナウンサー(当時)の福元英恵と結婚(2005年6月には長男が誕生している)。開幕当初抑えとして期待されたヘクター・カラスコが絶不調だったことからシーズン途中から抑え投手に指名されるが不安定で完全には定着できず、43試合で10セーブを挙げながらも防御率は5点台だった。オフに球団合併による選手分配ドラフトで近鉄から新規参入の東北楽天ゴールデンイーグルスへ移籍。
楽天時代[編集]
2005年は初代クローザーに任命され4月13日の対福岡ソフトバンクホークス戦で球団初のセーブを記録し、その後もチームが大きく低迷する中で49試合に登板し、11セーブを記録した。
2006年も開幕当初は中継ぎだったが開幕時に抑えを務めた小山伸一郎が不調に陥り、代わってシーズン途中から抑えに回る。前半は26回連続無失点を記録するなど好調でオールスターゲームに初出場した。しかし後半に調子を落としセーブ失敗が続いたため中継ぎへ再転向した。徐々に調子が上向き9月22日西武戦で8回・9回を無失点に抑え久々のセーブを記録し、その後も2試合連続のリリーフ成功で見事に復活した。最終的にプロ入りでは2番目に多い50試合に登板して3敗10ホールド21セーブ・防御率2.17とキャリア最高成績を残した。オフにシーズン中から扁桃炎に悩まされていたため扁桃除去手術を受けている。
2007年は開幕から抑え投手として4・5月期のチームの好調を支えたが、6月に入り不安定な投球が続き交流戦ではリリーフ失敗が相次いだ。それでもオールスターゲームに選出され、本拠地・フルキャストスタジアム宮城での第2戦の9回に登板する予定だったが雨のため8回コールドとなり、投手陣では唯一登板なしに終わった[2]。7月24日の西武ライオンズ戦で抑えに失敗するとその後遊離軟骨の除去手術とリハビリのためにまもなくチームを離脱した。これ以降は一度も昇格できず、34試合の登板に留まり4勝2敗17セーブでありながら防御率は4点台後半と安定感を欠いたシーズンとなった。この年「ベストファーザーin東北 スポーツ部門」受賞。なお、チームを離脱していたころから翌年の海外移籍も視野に入れていたことからアラン・ニーロを代理人として11月7日にFA権を行使[3]。
12月13日にテキサス・レンジャーズと2年400万ドルの契約を結び、翌日本拠地レンジャーズ・ボールパーク・イン・アーリントンで入団会見が行われた[4]。福盛が楽天球団最初のメジャーリーグ移籍選手となった。
レンジャーズ時代[編集]
2008年3月31日の対シアトル・マリナーズ戦でメジャーデビューを果たすが1/3回2安打2四球3失点という成績に終わり、4月13日にマイナーへ降格した。再びメジャーに昇格するものの1試合登板して再びマイナーへ降格、5月11日にメジャー契約を解除された。マイナーでも1勝6敗2S防御率5.48で10月に椎間板ヘルニアの手術を受けた。
2009年は故障者リスト入りしたままマイナーでキャンプを迎え、6月に福盛自身が日本でのプレーを希望したため解雇された。MLB通算4試合登板 0勝0敗 防御率20.25。
楽天復帰[編集]
2009年6月19日に古巣・楽天の入団テストを受け、合格[5]。球団側の慰留を断ってメジャーリーグに挑戦したことから、監督の野村克也は福盛の獲得には消極的だったが、福盛が野村の宿泊するホテルに出向いて入団を直談判した。6月後半からの戦列復帰になったがクローザーとして、7勝1敗10S 防御率2.18の成績を挙げチームの2位躍進に貢献し、特にレギュラーシーズンに於けるセーブ失敗は僅か1回(その試合も最後まで投げて勝利投手になった)で、7勝のうち6勝は同点かビハインドの場面で登板し味方が勝ち越して白星が付いている(唯一の敗戦は同点時での登板)。しかし10月21日のクライマックスシリーズ第2ステージ北海道日本ハムファイターズとの初戦では、楽天が4点リードした9回裏に登板するがターメル・スレッジの逆転サヨナラ満塁本塁打も含め1/3回5失点と打ち込まれ責務を果たせなかった。
2010年は開幕から不調で2戦連続救援に失敗し3月28日に右肘違和感を訴え登録抹消[6]。5月に右肘の手術を受けたが経過が思わしくなく、9月に現役引退を表明した[7]。引退後はプロ野球界から身を引き都内で会社を経営する叔父の下で経営者の道を歩んでいる[8]。
引退後[編集]
引退後はしばらく叔父の経営する携帯電話の販売・修理会社で、取締役を務め[9]、2011年にはマスターズ甲子園2011に都城高校OBチームで出場した。県予選決勝では本塁打を放つ活躍もみせた[10]、その後、害虫駆除会社を経て宮崎に帰郷。2014年10月より2016年6月まで宮崎放送にてラジオ番組『福盛和男の目指せ!アスリート』を担当していた。2015年よりテレビ宮崎の報道スタッフとして勤務(契約社員扱い)。構成、記者、ディレクターもこなす報道リポーターとして活動する[11]。
詳細情報[編集]
年度別投手成績[編集]
年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1995 | 横浜 | 2 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 23 | 5.0 | 5 | 0 | 3 | 0 | 0 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0.00 | 1.60 |
1996 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 4 | 1.0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0.00 | 2.00 | |
1997 | 25 | 10 | 0 | 0 | 0 | 4 | 4 | 0 | -- | .500 | 296 | 71.1 | 58 | 7 | 28 | 0 | 4 | 42 | 2 | 1 | 26 | 23 | 2.90 | 1.21 | |
1998 | 3 | 3 | 0 | 0 | 0 | 1 | 2 | 0 | -- | .333 | 82 | 18.2 | 20 | 1 | 6 | 0 | 1 | 13 | 3 | 0 | 8 | 6 | 2.89 | 1.39 | |
1999 | 30 | 19 | 1 | 0 | 1 | 9 | 9 | 0 | -- | .500 | 576 | 132.2 | 151 | 15 | 45 | 2 | 3 | 96 | 8 | 0 | 65 | 63 | 4.27 | 1.48 | |
2000 | 40 | 8 | 0 | 0 | 0 | 6 | 6 | 10 | -- | .500 | 380 | 88.0 | 92 | 7 | 27 | 1 | 2 | 49 | 9 | 1 | 40 | 35 | 3.58 | 1.35 | |
2001 | 5 | 5 | 0 | 0 | 0 | 1 | 2 | 0 | -- | .333 | 120 | 31.0 | 20 | 5 | 10 | 0 | 0 | 23 | 0 | 0 | 12 | 12 | 3.48 | 0.97 | |
2002 | 33 | 2 | 0 | 0 | 0 | 2 | 3 | 2 | -- | .400 | 211 | 48.2 | 45 | 2 | 15 | 1 | 3 | 47 | 1 | 0 | 21 | 16 | 2.96 | 1.23 | |
2003 | 62 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 3 | 1 | -- | .250 | 255 | 60.0 | 55 | 6 | 17 | 2 | 4 | 34 | 3 | 0 | 32 | 30 | 4.50 | 1.20 | |
2004 | 近鉄 | 43 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 5 | 10 | -- | .286 | 218 | 48.2 | 53 | 5 | 24 | 4 | 3 | 27 | 0 | 0 | 29 | 28 | 5.18 | 1.58 |
2005 | 楽天 | 49 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4 | 3 | 11 | 3 | .571 | 286 | 63.0 | 75 | 5 | 24 | 7 | 2 | 36 | 4 | 0 | 26 | 25 | 3.57 | 1.57 |
2006 | 50 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 21 | 10 | .000 | 253 | 58.0 | 50 | 2 | 27 | 4 | 3 | 55 | 7 | 0 | 18 | 14 | 2.17 | 1.33 | |
2007 | 34 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4 | 2 | 17 | 0 | .667 | 167 | 36.0 | 44 | 1 | 17 | 2 | 2 | 33 | 1 | 0 | 20 | 19 | 4.75 | 1.69 | |
2008 | TEX | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | ---- | 26 | 4.0 | 11 | 2 | 4 | 1 | 0 | 1 | 2 | 0 | 9 | 9 | 20.25 | 3.75 |
2009 | 楽天 | 35 | 0 | 0 | 0 | 0 | 7 | 1 | 10 | 4 | .875 | 187 | 45.1 | 42 | 2 | 13 | 2 | 1 | 34 | 3 | 0 | 11 | 11 | 2.18 | 1.21 |
2010 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | .000 | 10 | 1.0 | 6 | 1 | 1 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 5 | 5 | 45.00 | 4.00 | |
NPB:15年 | 414 | 48 | 1 | 0 | 1 | 41 | 45 | 82 | 17 | .477 | 3068 | 708.1 | 718 | 59 | 257 | 25 | 28 | 495 | 41 | 2 | 313 | 287 | 3.65 | 1.38 | |
MLB:1年 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | ---- | 26 | 4.0 | 11 | 2 | 4 | 1 | 0 | 1 | 2 | 0 | 9 | 9 | 20.25 | 3.75 |
表彰[編集]
- ベスト・ファーザー in 東北(2007年)[12]
記録[編集]
- 初記録
- 初登板:1995年10月3日、対ヤクルトスワローズ25回戦(横浜スタジアム)、4回表に3番手で救援登板、2回無失点
- 初奪三振:同上、4回表にトーマス・オマリーから
- 初先発:1995年10月7日、対中日ドラゴンズ26回戦(ナゴヤ球場)、3回無失点
- 初勝利・初先発勝利:1997年7月3日、対中日ドラゴンズ14回戦(ナゴヤドーム)、6回無失点
- 初完投勝利:1999年5月2日、対ヤクルトスワローズ6回戦(明治神宮野球場)、9回2失点
- 初セーブ:2000年4月23日、対中日ドラゴンズ5回戦(ナゴヤドーム)、8回裏二死に3番手で救援登板・完了、1回1/3を無失点
- 初ホールド:2005年4月8日、対オリックス・バファローズ1回戦(大阪ドーム)、5回裏二死に3番手で救援登板、1/3回無失点
- その他の記録
- オールスターゲーム出場2回(2006年、2007年)
背番号[編集]
- 34(1995年 - 2000年)
- 37(2001年 - 2002年)
- 24(2003年)
- 15(2004年 - 2007年)
- 14(2008年)
- 62(2009年)
- 11(2010年)
出演情報[編集]
現在[編集]
- UMKスーパーニュース(テレビ宮崎)(2015年6月 - 2021年6月)※スポーツキャスター
- Bunnyのナツウタ(エフエム宮崎)※コーナー「福盛和男のてげてげスポーツ」を担当。
脚注・出典[編集]
- ^ a b c d 『月刊ベイスターズ 1995年2月号』横浜ベイスターズ、1995年、14頁頁。
- ^ 野手では早川大輔(オリックス・バファローズ)が前半戦で指を負傷したため、選出されながらも出場はしなかった。オールスターゲームは出場を辞退すると規定により後半戦開始から10試合選手登録ができなくなるため、離脱を防ぐためにベンチ入りさせたとも言える。福盛は前年も選出され出場していたため、前年がオールスター最後の出場となった。
- ^ 福盛のメジャー移籍に関して当時監督だった野村克也は「福盛はストレートとフォークしかないからメジャーでは通用しない。福盛が通用するようだったらメジャーは終わってる」と期待すらされていなかったがそれは現実のものとなった。
- ^ “元楽天・福盛和男さん 害虫駆除会社を経て宮崎で第2の人生|あの人は今こうしている”. 日刊ゲンダイDIGITAL (2018年10月9日). 2020年4月9日閲覧。
- ^ 福盛和男選手との契約合意について、東北楽天ゴールデンイーグルス、2009年06月19日。
- ^ 福盛を登録抹消 楽天、47NEWS、河北新報、2010年03月29日。
- ^ 福盛引退を発表=プロ野球・楽天、時事ドットコム、2010年09月24日。
- ^ 楽天 引退右腕の新たな夢 叔父の会社「一部上場させたい」、スポニチ、2010年12月15日。
- ^ 特別読み物 サラリーマンにもなれない!? はじめての「就活」元プロスポーツ選手 現実は厳しい
- ^ マスターズ甲子園2011ガイドブック
- ^ “元楽天・福盛和男さん 害虫駆除会社を経て宮崎で第2の人生|あの人は今こうしている”. 日刊ゲンダイDIGITAL (2018年10月9日). 2020年4月9日閲覧。
- ^ “これまでの受賞者一覧”. ベスト・プラウド・ファーザー賞 in 関西. 一般社団法人 日本生活文化推進協議会(JLCA). 2018年1月1日閲覧。
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 個人年度別成績 福盛和男 - NPB.jp 日本野球機構
- 選手の通算成績と情報 MLB、ESPN、Baseball-Reference、Fangraphs、The Baseball Cube、Baseball-Reference (Register)