モアイ


モアイ(Moai)は、チリ領イースター島にある人面を模したとされる石像。島の海に面したアフと呼ばれる高台に、多くの場合海に背を向けて、正確にはかつての12ほどあった集落を取り囲むように多数建てられている。
大きさは平均4 メートル、重量10トン[1]。しかし、背が高いモアイはパロ(Paro)と名付けられ、重さ74トン、高さ9.8メートルに達する[2]。建造中に放置されたものも含め約1,000体あるが[3]、2023年にも干上がった湖底から発見されているため、さらに発見される可能性もある[4][5]。
島で産出されるモアイは、ほとんどが凝灰岩製で風化が懸念され[6]、ユネスコによる強化処置と撥水処置や火災からの保全などが行われている[7][8]。凝灰岩以外の石材はまれで、13体が玄武岩、22体が粗面岩、17体がスコリア製である[9]。
製造年代は、1100から1600年頃に作られたとされる[6]。約1,000体のうち、アフと呼ばれる台座に立っているのは200体である[6]。現在アフに立っている約30体は、すべて近代以降に復元されたものである。
造られた時代によって様式は変化し、初期の物とされるものの多くは、高さ3メートル程度と小型だが、時代が下るにつれ中期には平均5m、後期には10mほどになるなど大型化していった[1]。ラノ・ラナクという石切場には、さらに大きい像が未完成のまま残され、最大のものは21mに達する[1]。アフに建てられたことのあるものには頭と胴体があり、後期の、とくに大きなものにはプカオと呼ばれる赤い石が頭上に乗せられ一部は目と思しき造作もされている。モアイ像の顔は似通った特徴を持つが、イースター島へ渡って来た航海の指導者を模したものだという言い伝えもあったという[1]。
これらの像の設置目的・用途については「祭祀目的で立てられた」、祖先崇拝と結びついた巨石文化であり集落を向いているから守護神として建てられた等と推測されているが、実際の祭祀形態については諸説あり、定説は未だにない。「イースター島」の項目も参照のこと。
建設方法
[編集]材料となった石材は凝灰岩であり、採石の中心は「ラノ・ララク」と呼ばれる直径約550メートルの噴火口跡である[10]。現在でも完成前のあらゆる段階の石像が散乱する彫る道具とともに残されている。この噴火口から火口縁の低い部分に切り込まれた溝を通過して下降するようになっており、そこから北と南と西の三方向へ放射状に道が伸び、最も長いものは島の岸まで約15キロメートル続いている[11]。
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ラノ・ララクにある製作途中のモアイ像
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未完成のモアイ像で最大の大きさのテ・トカンガ(推定高さ:約21メートル、推定重量:約270トン)[10]
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ラノ・ララク採石場とモアイ像
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イースター島とモアイ像の台座(アフ)がある位置。
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最も背が高いparoの像
考古学者のヘイエルダールが現地住人の協力を得て行った実験では、横倒しにした像を木の「ころ」に乗せ、大勢が縄で引っ張り設置場所まで移送させ、木の棒と大小の石を積むことで立たせるという方法で、当時の人口・技術力でも運搬が可能であったことを証明している。詳細には、像を立たせる試みと、運ぶ試みは別々に行われた。
最初に像を立てる試みが行われた。これは実験ではなく、現地に伝承されていた技術に基づいたもので、設置には12人で18日掛かったとされ、同島アナケナ・ビーチ近くの丘に残されており、倒れた像を、木の棒と、地面と像の隙間に入れていく大小の石を使って近くのアフに立たせた[12]。過去、島に巨大な像を作って動かす技術や知識がなく、南米からやって来た人々の力で建てられたという説があったが、実際に島民の遺骨のDNAなどを調べた結果、南米を起源とする遺伝物質が見つかっていない。最近の研究により島民が自力で建設し、移動させたことがわかっている[13]。当時の人口や環境に関する考古学的な部分はイースター島の歴史を参照。
運ぶ方法について、直接ではないが伝承では石垣にする大きな石を運ぶ時に使ったミロ・マンガ・エルアというY字形の分かれた木の幹でつくった石づちがあったという。またハウ・ハウの木の皮で太い綱を作ったという。
だが、その後の研究では、完成後すぐに立てられ、立った状態で縄で目的地まで運搬された、という方法も示されており、この方法では横倒しにして運搬するよりも人数が少なくてもすむ上、効率も良い事が確認されている。また、「モアイは自分で歩いた」という現地の伝説の根拠にもなっている。
イースター島の火口湖でボーリングを行い堆積物に含まれている花粉を調査した結果、5世紀ごろの土の中からヤシの花粉が大量に発見されており、当時はヤシの森に覆われ木材は豊富であったと考えられる。また、1722年の西洋人として最初に到着したヤコブ・ロッヘフェーンは、3メートルに満たない低木が少ないながら存在していることを記録している。現在見るような低木すらまばらな状態になったのは1888年にチリが併合した後、島全体が牧羊場とされて牧草を食べさせたことが要因となって土壌浸食が起こり、残っていた自生植物の殆どが1934年頃までに姿を消したためである[11]。
復元・修復
[編集]1722年に西洋人として最初にヤコブ・ロッヘフェーンがイースター島にたどり着いた時には、すでに部族間抗争によって多くが倒されていた。1774年に島を訪れたジェームズ・クックは、まだ無事に立っていた像と同じくらい打ち倒された像を目にしたと記録している。西洋人により立っている像が最後に記録されたのは1838年で、1868年の記録には立っている像はなくなっていた。口承では1840年頃にすべての像が倒されてしまったという[11]。この倒された像の一部は、20世紀以降に考古学者や地元の人の手によって起こされた。現在はおよそ40体の像が復元されている。
香川県高松市に本社を置く株式会社タダノが、1992年からクレーンなどをイースター島に持ち込んで、島南部のアフ・トンガリキにある15体の像の復元・修復などを行い、使用後のクレーンなどをイースター島に寄贈している。これはTBSの『日立 世界・ふしぎ発見!』で1988年の秋にイースター島を特集した際、「クレーンがあれば、モアイを元通りにできるのに」という知事の声を放送したところ、解答者である黒柳徹子が「日本の企業が助けてあげればいいのに」という内容の発言をし、それをタダノの社員が見ており、社長が話に乗ったのがきっかけである[14]。クレーンの運搬にはチリ海軍の協力を得ている。費用も全額タダノが出費している。
文明崩壊の原因説
[編集]ジャレド・ダイアモンド『文明崩壊』など、イースター島民はモアイの作り過ぎで文明が崩壊し自滅したとする説がある。この説では、かつて島民は木材を燃料やカヌーや家屋といったインフラに使い、耕地を広げるためにも森を切り開き、さらに部族の権威を高めるために祭祀に使うモアイを盛んに立てたことも森林が減少、土地の浸食などの環境悪化を招いたため、食糧や耕地などの資源を巡って部族間の緊張・対立が激化した結果、ますます競って像を立て、森林も狭まるという悪循環に陥っていったことが推測されている(調査では、クック到来以前に気候寒冷化に伴う乾燥化により島の森林はほとんど無くなっていたという)。島の周囲から孤立した人口1万人の小さな島に1,000体もの像が乱立した結果、最終的に森林が消滅し、人口も激減し、像が作られることもなくなり、当初は立っていた像は部族間の抗争で倒されてしまったとする[11]。このことから、地球全体をラパ・ヌイに、現在の世界各地のビルを同像にたとえ、地球温暖化や森林伐採に警鐘を鳴らす人々もいる。現在イースター島(ラパ・ヌイ)には大規模な森は存在せず、前述のように地質学的調査によると、作られた当時はヤシの木が生い茂っていたとされる。
しかし、この説には疑問が出ている。従来説では木の橇と軌条を作り、その上を滑らせるという大量の木材を必要とする方法であったが、2012年に、モアイを立てた状態で、縄で左右に揺らしながら、歩かせるように前に進める方法でも可能である事が、実験で確かめられている。この様子は、島に伝わる「モアイは自分で歩いた」との伝説にも合致する[15]。
部族同士の争いがあったかどうかについても論争がある。というのも、部族の争いがあったにしては、人を殺すことを目的としたような殺傷能力のある「武器」が島内からほとんど発掘されていないためである。島で使われていた「マタア」と呼ばれる石器は、人を刺し殺すような作業には適しておらず、島内から発掘された469個の頭骨を調べたところ、マタアによるものと思われる切り傷の痕が見つかったのは、そのうちわずか2個だけだった。西洋人による侵略時にも、現地人は投石で戦ったとされる。この事から、口伝にあるような激しい戦闘があったのかどうか疑問視する専門家もいる[16]。
争いが起こったとされる時から数百年も後になってから、収集された口承だけを頼りにすることは、研究者の間で論争となっている[16]。部族間抗争の存在については、研究が進むにつれて否定されつつある。イースター島民の人口が減ったのは、ヨーロッパ人による奴隷狩りが原因である可能性が高まっている。苛烈な奴隷狩りにより、島民の人口は100人前後まで減り、やがて疫病の流行が原因で絶滅したとされる[13]。
焼失
[編集]2022年10月にはイースター島で日照りによる大規模な火災が発生し、複数のモアイが焼ける被害が出た[17]。この被災によって、島に点在する約1000体のモアイのうち数百体が修復不能のダメージを受けたとされている[18]。
犯罪
[編集]他の世界的観光資源同様、観光客による落書きや破壊行為が絶えない。損壊した者には最高5年の禁錮刑または最高1万9,000米ドルの罰金が課せられる。地元警察署は同島の岩であっても傷付けることは犯罪であるとしている。
2003年1月に日本人観光客が、倒れているモアイ像をただの岩と思い込んで落書きを彫り、地元のチリ警察に逮捕される事態となった。これに関して同月、日本の外務省は「海外安全ホームページ」内などで旅行者に対し、海外の文化財を含む旅行先の物品に落書きをしないよう呼びかけると共に、像を傷つけた場合は前述の刑罰が課せられる可能性があると警告している[19]。
イースター島から持ち出されたモアイ
[編集]大英博物館で展示されているホア・ハカナナイア(現地の言葉で「盗まれた友」、「隠された友」を意味する。)と小さなモアイ像ハヴァは、1868年11月2日にイギリス海軍の艦船HMSトパーズに回収された。1869年にイギリス海軍がヴィクトリア女王へ寄贈され、1869年10月6日に大英博物館へ寄贈された[20][21]。2017年12月にチリ政府から自らの遺産の保護・保存の権利が移譲されたイースター島(ラパ・ヌイ)の先住民は返還を求めている[22][21]。
返還されたモアイ
[編集]2006年、80年以上持ち出されていたアルゼンチンのレコレータ文化センターに収蔵されていたモアイが返還された[23]。
2022年、150年以上持ち出されていたサンティアゴにあるチリ国立自然史博物館に収蔵されていたモアイが返還された[24]。
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パリのケ・ブランリ美術館に持ち込まれたモアイ
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ベルギー王立美術歴史博物館のモアイ。
レプリカ等
[編集]以下にあげるものは正確には同像ではなく、すべて「レプリカ」もしくは「同像の意匠を採用した像」などと呼ぶべきものである。
- チリで作られた像
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- 1960年に発生したチリ地震の津波で甚大な被害を受けた宮城県志津川町(現・南三陸町)では、チリ地震津波災害30周年の折、同じ被災国であるチリとの友好のシンボルとしてレプリカを輸入した(設置は1991年7月)。これは、チリで産出した黒色輝緑岩(凝灰岩)を用いて現地の技術者が制作し、船で46日かけて運ばれたもので、志津川湾に面した公園(チリプラザ)に設置されていたが、2011年に東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)の津波で被災し損壊した。そのため2013年、チリから新たにイースター島の石で制作された像が寄贈された[25]。
- ラ・セレナ市と交流のある奈良県天理市では、市役所北側の入り口付近に設置されている。
- その他
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d 2025-11-26NHK Eテレ放送「3か月でマスターする古代文明(9)」「オセアニア 海を渡った人類と謎の巨石文明」
- ^ Tallest standing moai ギネス記録
- ^ Callaway, Ewen (2012-10-23). “Easter Island statues 'walked' out of quarry” (英語). Nature. doi:10.1038/nature.2012.11613. ISSN 1476-4687.
- ^ “干上がった湖の底からモアイ像 イースター島”. www.afpbb.com (2023年3月2日). 2025年11月28日閲覧。
- ^ 「イースター島で新たなモアイ像発見、高さ1.5メートルと小ぶり(字幕・2日)」『Reuters』2023年3月2日。2025年11月28日閲覧。
- ^ a b c “Is this the end for Easter Island's moai statues?” (英語). www.bbc.com (2025年7月3日). 2025年11月28日閲覧。
- ^ “https://www.unesco.org/en/articles/unesco-diagnosis-identifies-conservation-state-rapa-nui-heritage-resources-and-proposes-suggestions”. www.unesco.org. 2025年11月28日閲覧。
- ^ イースター島モアイ石像の 保存科学的研究 サイト:奈良文化財研究所
- ^ Van Tilburg, Jo Anne (1994). Easter Island: Archaeology, Ecology and Culture. Washington, DC: Smithsonian Institution Press. p. 24. ISBN 978-0-7141-2504-6 2025年11月28日閲覧。
- ^ a b “未完成のモアイ像で最大となる「テ・トカンガ」。完成時の重量は約270トンと想定される - CNN.co.jp”. www.cnn.co.jp. 2025年11月28日閲覧。
- ^ a b c d ジャレド・ダイヤモンド『文明崩壊 滅亡と存続の命運を分けるもの』2005年 159-242頁 第2章 イースター島に黄昏が訪れるとき
- ^ ヘイエルダール「アク・アク」
- ^ a b Trevor Nace (2017年11月25日). “謎の巨石文化、イースター島のモアイ像を作った人々のルーツ”. Forbes 2019年10月12日閲覧。
- ^ 株式会社タダノ モアイ修復プロジェクト、ニッポン人脈記 世界遺産に生きる(1) モアイ救出 イチかバチか 朝日新聞2010年4月16日付夕刊。
- ^ “モアイ像、ロープで揺らして移動?”. ナショナルジオグラフィック. (2012年6月25日) 2020年11月21日閲覧。
{{cite news}}: CS1メンテナンス: 先頭の0を省略したymd形式の日付 (カテゴリ) - ^ a b “イースター島、人殺しの武器を作らなかったと新説”. ナショナルジオグラフィック. (2016年2月25日) 2017年3月11日閲覧。
{{cite news}}: CS1メンテナンス: 先頭の0を省略したymd形式の日付 (カテゴリ) - ^ 南米チリ イースター島で山火事 モアイ像にも被害か。NHK、2022年10月8日 14時25分付。2022年10月21日閲覧。
- ^ モアイ数百体が火事で被災、「修復不可能なダメージ」。ナショナルジオグラフィック、2022年10月21日付。2022年10月21日閲覧。
- ^ 海外邦人事件簿|Vol.06外務省
- ^ “Moai” (英語). The British Museum 2025年11月28日閲覧。
- ^ a b “「モアイ像を返せ」キャンペーンで大英博物館のインスタが大炎上。専門家も「事実上の検閲」と批判 | ARTnews JAPAN(アートニュースジャパン)”. ARTnews JAPAN. 2025年11月28日閲覧。
- ^ “大英博物館収蔵のモアイ像、イースター島の先住民が返還求める動き”. www.afpbb.com (2018年8月8日). 2025年11月28日閲覧。
- ^ Aires, Buenos (2006年4月18日). “Easter Island statue heads home” (英語). The Age. 2025年11月28日閲覧。
- ^ Reuters (2022年2月22日). “Easter Island Moai statue begins journey home, 150 years after removal to Santiago” (英語). The Guardian. ISSN 0261-3077 2025年11月28日閲覧。
{{cite news}}:|last=に無意味な名前が入力されています。 (説明)⚠ - ^ 災害に負けぬモアイの誓い 宮城・南三陸で贈呈式 - 『河北新報』(2013年05月26日)
- ^ “一日一言=2025.11.25|四国新聞WEB朝刊”. 四国新聞WEB朝刊. 2025年11月28日閲覧。
- ^ “【海のある風景】女木島にモアイ像”. 日本海事新聞 電子版. 2025年11月28日閲覧。
- ^ ナショナル ジオグラフィック日本版より
参考文献
[編集]- ジャレド・ダイアモンド、『文明崩壊-滅亡と存続の命運を分けるもの(上巻)』、楡井浩一訳、草思社、2005年。 ISBN 4-7942-1464-2
関連項目
[編集]- ラパ・ヌイ国立公園
- モアイ・カバカバ - 木彫りのあばら骨が浮き出た男性の人形。moai paepae(モアイ・パエパエ)という女性像もあり、収穫や豊穣の儀式に用いられたとされ、各家で樹皮に包まれて安置されていた。
- 巨石から作られた建造物の一覧