吉井理人

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吉井 理人
北海道日本ハムファイターズ コーチ #81
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 和歌山県有田郡吉備町(現:有田川町
生年月日 1965年4月20日(51歳)
身長
体重
188 cm
95 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1983年 ドラフト2位
初出場 NPB / 1985年9月16日
MLB / 1998年4月5日
最終出場 NPB / 2007年9月21日
MLB / 2002年9月11日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴

吉井 理人(よしい まさと、1965年4月20日 - )は、和歌山県有田郡吉備町(現:有田川町)出身の元プロ野球選手投手)。

現役時代は、近鉄バファローズを皮切りに、NPB4球団・メジャーリーグ3球団でプレー。2007年千葉ロッテマリーンズで現役を引退してからは、野球解説者としての活動期間(2013年2014年[1][2]をはさみながら、北海道日本ハムファイターズ福岡ソフトバンクホークスコーチを務めている。

また、2014年度以降は、筑波大学大学院の人間総合科学研究科修士課程・スポーツ健康システムマネジメント専攻の学生として野球のコーチング理論を研究(詳細後述)。2016年には、日本ハムの一軍投手コーチへ復帰する一方で、プロ野球シーズンの前に同課程から修士運動学)の学位を授与されている[3]

経歴[編集]

プロ入り前[編集]

高校までを和歌山県で過ごす。東尾修(元西武ライオンズ監督)とは卒業した小学校・中学校・高校が同じで、吉井は東尾と同じ背番号21を希望するファンなどが多かった。

県立箕島高校では2年生の時、1982年春の選抜に控え投手として出場。準々決勝では上野山辰行投手(同志社大)をリリーフして甲子園初登板を果たすが、エース榎田健一郎を擁するPL学園に0-1で惜敗。1年上のチームメートに住吉義則畑山俊二がいた。翌年にはエースとして夏の甲子園に駒を進める。この大会では3回戦に進出するが、津野浩のいた高知商に敗退。高校同期に山下徳人がいる。1983年秋のプロ野球ドラフト会議近鉄バファローズから2位指名を受け入団。

近鉄時代[編集]

1年目は二軍で過ごし、2年目の1985年に一軍初登板、4年目に初勝利を挙げた。

5年目の1988年抑え投手として活躍し、10勝24セーブ最優秀救援投手のタイトルを獲得、「10.19」でも登板した。

1989年にも5勝20セーブの好成績を残した。

1989年の日本シリーズでは、第2戦、第3戦、第5戦~第7戦に登板した。第2戦、第3戦、第6戦はいずれも無失点で、特に、第2戦、第3戦の試合終了に際しては、相手の巨人打線について、加藤哲郎らとともに(加藤については加藤哲郎 (野球)参照)「打たれる気がしない」[4]、「気の抜ける打線」[5]などと、広言していた。第5戦では、二死一、三塁の場面から、仰木彬監督の指示でウォーレン・クロマティを敬遠して原辰徳と勝負して満塁本塁打を打たれ、シリーズの流れを大きく巨人に傾けさせることとなり、試合終了後の談話では、満塁として投げにくかったという趣旨のこと[6]、あの球ではいくら不調の原でも打つという趣旨のこと[7]など、ショックを感じさせず、他人事のように「独演会」状態で話し続けたという[8]。第7戦では、登板を告げられ、走ってマウンドに行くというパフォーマンスをやったが、中畑清に「引退の花道」となる本塁打を打たれるなどし、走って疲れたという趣旨のコメントをした[9]

1990年も抑えとして一定の成績を収めた。

しかし、1991年からは不振に陥り、1993年からは先発投手に転向した。この時期には、一軍監督・鈴木啓示との間で確執があったことが報じられている。

ヤクルト時代[編集]

1995年西村龍次とのトレードヤクルトスワローズへ移籍。ヤクルトでは先発陣の一角として活躍し、先発だけでの初の二桁勝利を挙げ初めて規定投球回にも到達、リーグ優勝・日本一に貢献した。

同年8月6日の広島東洋カープ戦(明治神宮野球場)では、試合開始早々に天候が悪化し、雷鳴が轟き稲妻が走り始めた。すると突然吉井の制球が乱れ始めて四球を連発。結局3回途中8失点でノックアウト、試合も4-15で大敗した。このシーズン、吉井はそれまでセ・リーグで最も与四死球が少ない投手だった。試合後野村克也監督は「(吉井は)雷が怖いって言うんだよ」と報道陣に語っている。また野村はマネージャーに「今度から吉井の登板する日は雷注意報が出ているか俺に報告しろ」と言ったという説もある。

1996年、チームが低迷する中、先発ローテーションを守り二年連続二桁勝利を達成。

1997年、8月5日の読売ジャイアンツ戦の3回裏に、バックネット裏にいたと思われる観客がレーザーポインターによると思われる光線を登板中の吉井の顔面に照射した[10]。眼に光線を受けた吉井はすぐさまマウンドを下りバックネット裏を指して抗議。犯人・狙った意図は未だ不明である。シーズンでは終盤まで最優秀防御率のタイトル争いに加わりハイレベルな戦いをしていたが最終戦で結果を残せずリーグ3位の防御率に終わるが3年連続で二桁勝利となる自己最高の12勝を記録しリーグ優勝・日本一に貢献した。

1997年オフにFA権を行使。団野村を代理人とし、中日ドラゴンズ読売ジャイアンツ西武ライオンズなど国内の球団からの誘いを断りニューヨーク・メッツと1年20万ドル+出来高で契約。(日本人がFA権を行使してメジャー移籍したのは史上初[11]。)

メッツ時代[編集]

1998年4月5日のピッツバーグ・パイレーツ戦でメジャー初登板初先発を果たし、7回を3安打無失点でメジャー初勝利を挙げる。5月21日のシンシナティ・レッズ戦では9安打3四球ながら1失点に抑え、野茂英雄に次ぎ日本人メジャーリーガー史上2人目の完投勝利を挙げ、前半戦を16試合の先発で4勝4敗、防御率3.42、WHIP1.29の成績で折り返す。8月には背番号を日本時代と同じ21に変更。6日のサンフランシスコ・ジャイアンツ戦では捕手のマイク・ピアッツァと配球を巡って口論になったが、その後は一緒に食事に出かけるほどに仲が良くなった[12]。しかし後半戦は13試合の先発で2勝4敗、防御率4.52、WHIP1.25の成績を喫した。11月12日には2年500万ドルでメッツと再契約。

1999年は右ひざ痛にも悩まされ、前半戦は17試合の登板で6勝7敗、防御率5.02、WHIP1.40の成績を喫する。しかし8月には2勝1敗。防御率2.51、WHIP0.80と好投しチームの月間最優秀投手に選ばれ、9月5日のコロラド・ロッキーズ戦では10勝目をマーク。8月以降は2試合のリリーフ登板を含む11試合に登板し5勝1敗、防御率2.31、WHIP0.96と復調し、アリゾナ・ダイヤモンドバックスとのディビジョンシリーズ第1戦では日本人メジャーリーガー初のポストシーズン開幕投手となりランディ・ジョンソンと投げ合う。アトランタ・ブレーブスとのリーグチャンピオンシップシリーズ第1戦でも先発しグレッグ・マダックスと投げ合った。

ロッキーズ時代[編集]

2000年1月14日にトレードでコロラド・ロッキーズへ移籍。4月26日のパイレーツ戦で日本人メジャーリーガー史上2人目の本塁打を放つ。日本人選手として初の盗塁も記録している。6月には3連勝も記録したが、前半戦は17試合の登板で4勝9敗、防御率5.55、WHIP1.47の成績を喫する。9月3日のミルウォーキー・ブルワーズ戦で日本人メジャーリーガー史上2人目の通算500投球回に到達したが、結局後半戦も12試合の登板で2勝6敗、防御率6.32、WHIP1.58と調子を取り戻せず28日に右腕上腕の手術を受けシーズンを終了。

エクスポズ時代[編集]

2001年スプリングトレーニングで解雇され、4月13日にモントリオール・エクスポズと1年30万ドルで契約。先発とロングリリーフを兼任し、4月16日のメッツ戦では新庄剛志と対戦し遊ゴロに仕留め、この試合以降16回2/3連続無失点と好調を続けた。6月8日のメッツ戦では故障した伊良部秀輝に代わって先発し6回0/3を2失点に抑えたが打線の援護がなく敗戦。8月8日のヒューストン・アストロズ戦では延長10回から登板し2ヶ月ぶりの勝利となる日米通算100勝を挙げた。先発では11試合の登板で2勝7敗、防御率5.56、WHIP1.56。リリーフでは31試合の登板で2勝0敗、防御率4.03、WHIP1.15の成績を残した。12月21日には1年30万ドルでエクスポズと再契約。

2002年のスプリングトレーニングでは最速92mph(約148km/h)を計時するなど好調を見せ開幕から先発として起用される。4月16日のシカゴ・カブス戦で5回3安打1失点の投球で日本人メジャーリーグ史上3人目の通算30勝に到達。しかし21日のメッツ戦で3回2/3を7安打3失点と打ち込まれ先発ローテーションから外れる。6月11日のデトロイト・タイガース戦で先発に復帰したが、4回にランドール・サイモンの打球が右頬に直撃し降板。検査では異常は見られず、20日のカンザスシティ・ロイヤルズ戦に先発し5回7安打無失点の投球を見せ、8月6日のセントルイス・カージナルス戦では3年ぶりの完投勝利を挙げる。9月に左肩を痛めオフに手術を受ける。12月5日にノンテンダーFAとなった。

オリックス時代[編集]

2003年1月7日にオリックスブルーウェーブと契約。この年のチームの開幕3連戦は古巣の近鉄との対戦で初の開幕投手を務めたが勝てなかった。同年は投手陣が崩壊し、自身も8月に左足首を手術するなどして2勝にとどまった。

2004年は3試合の登板に留まり、戦力外通告を受ける。他球団との交渉はまとまらなかったが、ブルーウェーブが大阪近鉄バファローズとの球団合併により『オリックス・バファローズ』となったことに伴い、監督に就任した仰木彬が「彼(吉井)を必ず残せ」と球団に進言。合格すれば再契約という条件で2005年2月にオリックスのキャンプにテスト参加。仰木から高評価を得て再入団した。

2005年は開幕6連勝を果たした。しかし、同年8月13日のロッテ14回戦(当時のスカイマークスタジアムでのゲーム)、雷の鳴る試合で2回持たずに5失点でノックアウト。敗戦投手となる。この試合で、雷に弱いことが改めて証明された。6連勝後は5連敗してシーズンを終了し、合併球団1年目は6勝5敗、防御率4.03の成績だった。完全復活というほどの成績ではなかったが、自身を拾ってくれた仰木監督の期待に若干ではあるが応えた。なお仰木は監督就任前から肺癌を患っており、シーズン中にも過労で居眠りや西武ドームの階段を上がれなくなるなど体調が悪化していたこともあり、この年限りで監督を辞任した。その後12月15日に死去した。

2006年先発ローテーションの一角として活躍。3月29日の東北楽天ゴールデンイーグルス戦(フルキャストスタジアム宮城)において吉井がマウンドに違和感を覚え、球場関係者が調べたところ、マウンドの中からクレイベース煉瓦状のクレイの塊。明治神宮野球場などのマウンドにも埋まっている)が露出し、補修のため試合が数十分間中断した。1997年以来9年ぶりにオールスターゲームにも出場。第1戦でヤクルト時代の本拠地である神宮球場での凱旋登板を果たした。最終的に19試合の登板ではあったが、日本復帰後最多の7勝を挙げた。

2007年4月25日の楽天戦では5回1失点の好投で勝利投手となり、相手先発のルーキーの田中将大に投げ勝った。しかし、その後は不調が続き、テリー・コリンズ監督から中継ぎ降格を命じられた。しかし、先発へのこだわりを持っている吉井は応じず、他球団への移籍を求めた。

ロッテ時代[編集]

2007年6月28日に、平下晃司との交換トレードで千葉ロッテマリーンズへ移籍した。移籍後は、一軍公式戦4試合に先発。しかし、1勝もできずに、防御率も13点台にとどまった。この結果、シーズン終了後の10月27日に、球団から戦力外通告を受けた。

通告直後の吉井は、アメリカ、台湾、韓国でのプレーも視野に入れるほど、現役続行に強い意欲を示していた。やがて、「現役を続けると家族に迷惑がかかる」と考えるようになったことから、現役引退を決めた。

現役引退後[編集]

北海道日本ハムファイターズでは、ロッテから戦力外通告を受けたばかりの吉井に、投手コーチへの就任を要請した。吉井自身は、当初は一切興味を示さなかったが、やがて要請を受諾した。受諾の決め手になったのは、近鉄時代にバッテリーを組んでいた一軍監督の梨田昌孝が、コーチとしての吉井の素質を高く評価していることを聞いたことによる。

2008年に、日本ハムの一軍投手コーチへ就任。その一方で、ロッテ球団は3月11日に、日本ハムとのオープン戦千葉マリンスタジアム)を吉井の引退試合として開催した。これは、メッツおよびロッテ在籍時の恩師であるボビー・バレンタイン監督の計らいで実現したものであり、打席にもバレンタインが立った。吉井が投手コーチになった時描いた理想像が「仰木さん、野村さん、バレンタイン、権藤さん。この4名。そしてもう一人、メッツの投手コーチボブ・アポダカからも大きな影響を受けています。彼は最初に会った時「自分の事を一番知っているのは自分自身だから、君の事を俺に教えてくれ」と[13]。「日本でそういうことを言われたことがなかったので衝撃でした、この言葉がコーチ人生で一番の礎になっているかもしれません。」と語っている[13]

日本ハムでは、2009年まで一軍投手コーチ、2010年に二軍投手コーチ、2011年から2012年まで再び一軍投手コーチを務めた。2012年のシーズン終了当初は、2013年も一軍で投手コーチを続けることを予定していた。しかし、11月4日に、コーチ契約を更新せずに退団することが球団から発表[14]。吉井は、退団へ至った背景に、2012年から一軍監督に就任した栗山英樹との間で投手の起用をめぐって確執があったことを明言[15]。自身は投手主導の野球を実践したかったものの、栗山が野手を尊重する方針を打ち出したため、試合を壊さないために継投のタイミングを早めるようになったことを挙げている[16]

2013年から2014年までは、北海道放送や「FOX SPORTS」(FOX SPORTS ジャパンが当時日本国内で運営していたBSのスポーツ専門チャンネル)の野球解説者として活動。FOX SPORTSでは主に、『BASEBALL CENTER』(FOX bs238でプロ野球中継の前後に放送する解説番組)でメインアナリストを務めた[17]。その一方で、北海道放送と同じJRN加盟局で、地元・関西のラジオ局でもあるMBSラジオのプロ野球中継(『MBSタイガースライブ』)やスポーツ情報番組にも不定期で登場。2014年には、NHK BS1でも、メジャーリーグ中継の解説を務めた。

筑波大学大学院への在学中[編集]

2014年4月には、自身と同じ元プロ野球選手の工藤公康仁志敏久と共に、筑波大学大学院の人間総合科学研究科修士課程・スポーツ健康システムマネジメント専攻へ入学。日本ハムコーチ時代の指導に対する反省から、「自分の経験を理論で理解したうえで、言葉で説明できるようになりたい」として、野球コーチング論研究室で野球の指導に関する理論などを研究するようになった[18]。しかし、工藤が11月1日福岡ソフトバンクホークスの一軍監督へ就任したことを受けて、工藤から一軍投手コーチへの就任を打診。同月20日には、コーチへの就任が球団から発表された[19]

2015年には、工藤と共に筑波大学の大学院へ引き続き在籍しながら[20]、ソフトバンクの投手コーチとして主に一軍のブルペンを担当。工藤による監督就任1年目でのパシフィック・リーグ優勝・日本シリーズ制覇に貢献した[21]。その一方で、投手への指導と並行しながら、大学院での研究活動の一環としてクイックモーションの速い投手に関する調査を実施している(詳細後述[22]。 なお、球団はシリーズ終了後に、三軍コーチへの異動を打診。しかし、吉井が大学院へ提出する修士論文の執筆を理由に打診を辞退したため、球団は11月3日に吉井の退団を発表した[23]

吉井のソフトバンク退団を受けて、日本ハムでは、吉井に対して一軍投手コーチへの復帰を打診。その結果、「(復帰に際して球団・吉井)双方の障壁がなくなった」という結論に達した[24]ため、2015年11月29日に吉井の一軍投手コーチ復帰を発表した[25]。日本ハムへは4年ぶりの復帰で、背番号は前回の在籍期間中と同じく81。コーチ復帰の記者会見では、「『(筑波大学の大学院で)研究の道に進もうか』と思った時に、(日本ハムから)熱心に誘ってもらった。今の自分の年齢(50歳)では『まだ現場で指導できる』と思っているので、(誘いを)断る理由も見付からなかった」と述べた[26]。なお、復帰が決まってからは、年末年始を返上しながら修士論文を仕上げた[27]

2016年には、日本ハムの一軍投手コーチとして、アメリカのアリゾナ州で実施された春季一軍キャンプに帯同。キャンプ開始前の1月上旬に修士論文を筑波大学へ提出できたため、口述試験の結果、修士号の取得が決まった[3]

選手としての特徴・人物[編集]

趣味はギター競馬。野茂英雄に競馬を教えた見返りにフォークボールを教わった[28] (メジャーリーグ在籍中に記者会見で「僕のフォークボールは野茂直伝のものです」と語っている)。

極度の嫌煙家である。

それまで直球で奪三振を取っていた吉井だが、当時主に投げていた変化球もシュートだったためストッパーとしては奪三振数が少なかった。しかしフォーク習得後は先発で奪三振を取るのが増え、1996年には145奪三振を獲っている。また、ラモン・マルティネス直伝という「メキシカン・カーブ」なる変化球を操る(親指ではなく、人差し指に力を入れて投げるタイプのカーブの一種)。90年代中盤-後半ごろは野茂と一緒にオフシーズンにバラエティ番組に出ることもあった。

大阪近鉄バファローズの最後の試合には対戦相手のオリックスの選手として参加していたが、試合後に行われた梨田昌孝監督の胴上げにベンチから猛スピードで駆け寄り参加した(当時オリックスに在籍していた元近鉄の大島公一ユウキも同様に参加していた)。

公式ブログでは、選手達を独特なニックネームで表現。また、記事の最後には、「ほな、また」(「それじゃ、また」という意味の関西弁)という言葉を必ず用いている。

2013年11月25日、ブログによるとJRA(日本中央競馬会)の馬主登録申請が認められたこと報告した[29]

筑波大学の大学院では、野球のコーチング理論のほかに、プロ野球選手のクイックモーションを研究。ソフトバンクの投手コーチ時代には、「クイックモーションの速い投手」という五十嵐亮太二保旭に対して、指導の合間に聞き取り調査や投球フォームの撮影を実施していた。吉井によれば、この調査や撮影で得られたデータを、修士論文に反映させたという[22]。その結果、日本ハムの投手コーチへ復帰した2016年に、修士号を取得した。ちなみに吉井は、修士論文の口述試験に合格したことを伝える公式ブログ内の記事に、「これで終わりじゃないので,これからももっと勉強していいコーチになりたいと思う」という抱負を記している[3]

仰木彬との関係[編集]

1988年から近鉄監督に就任した仰木彬は、投手起用の不規則さなどから、投手コーチの権藤や一部の投手との確執があった。

吉井については、同年10.19のダブルヘッダーでリリーフ登板した第1試合、9回終了前に阿波野に交替させられ、ロッカーのドアを蹴り上げていたという。

1989年、近鉄は、マジックナンバー1で迎えた10月14日福岡ダイエーホークス戦(藤井寺球場)で、仰木監督は、そのシーズンも通して抑え投手を務めていた吉井ではなく、阿波野を優勝決定の場面で投げさせた。吉井は、グラウンドでの胴上げをよそに、室内練習場で用具に当たり散らして、権藤投手コーチが懸命に慰めた。シーズン終了後、権藤はまだ契約年が残っていたにもかかわらず退団した[30](仰木と権藤の確執については、権藤博を参照)。

仰木著『燃えて勝つ』[31]では、10.19や1989年の優勝決定などに関する記述で吉井への言及がほとんどない。しかし、2005年、#日本球界復帰後のとおり、オリックスの監督に就任した仰木が吉井をオリックスに再入団させた。

上記のように仰木の厳しい起用法に反発心を抱いた事もあったが、根本的には後述のように仰木に感謝と尊敬の気持ちも抱いていた。プロ4年目の夏当時ヘッドコーチだった仰木から「吉井、来年はお前を良い場面で使うからな」と言われ[13]、もちろん仰木が監督になるとは聞かされておらず『「この人、何言っているんや」って。でも、その年のオフは何か暗示にかけられるように、大活躍するイメージができていました。この言葉に支えられ、練習に取り組み、キャンプ、オープン戦でも充実した日々を過ごすことができ、その年実際に活躍し、やっとプロ野球選手になれたと思えました[13]。 仰木さんは、試合では厳しい使い方をするんですが、打たれた後などに球場内を走っていると、いきなり一緒に走ってきて並走しながら「どや、疲れたか?へこたれるなよ!」と言ったりしてくれるなんです。だからこの人のために頑張ろうと思わせてくれる方でしたね。』と語っている[13]

その後吉井は、日本ハム投手コーチであった2011年に、指導者の立場になって「あの頃の仰木さんや権藤さんが行っていたことが初めてわかったような気がする。」と語った[30]

詳細情報[編集]

年度別投手成績[編集]





















































W
H
I
P
1985 近鉄 2 1 0 0 0 0 1 0 -- .000 20 3.0 6 1 3 0 0 1 0 0 9 7 21.00 3.00
1986 2 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 18 2.1 10 1 2 0 0 2 0 0 7 6 23.14 5.14
1987 13 2 1 0 0 2 1 0 -- .667 157 36.0 45 3 12 1 0 23 2 0 21 19 4.75 1.58
1988 50 0 0 0 0 10 2 24 -- .833 344 80.1 76 3 27 2 6 44 0 0 27 24 2.69 1.28
1989 47 0 0 0 0 5 5 20 -- .500 358 84.1 77 8 37 7 3 44 2 0 28 28 2.99 1.35
1990 45 2 0 0 0 8 9 15 -- .471 330 74.1 80 4 30 4 4 55 5 0 29 28 3.39 1.48
1991 21 0 0 0 0 2 1 2 -- .667 108 26.1 30 0 6 2 1 13 0 0 11 10 3.42 1.37
1992 9 0 0 0 0 1 0 0 -- 1.000 45 11.2 10 1 2 0 0 4 1 0 3 3 2.31 1.03
1993 22 13 2 1 0 5 5 0 -- .500 423 104.2 100 7 25 1 2 66 2 1 38 31 2.67 1.19
1994 21 19 2 0 1 7 7 0 -- .500 436 97.0 118 16 37 0 1 42 4 0 69 59 5.47 1.60
1995 ヤクルト 25 22 7 2 2 10 7 0 -- .588 589 147.1 127 14 39 2 3 91 8 1 53 51 3.12 1.13
1996 25 24 9 1 2 10 7 0 -- .588 749 180.1 177 20 47 3 4 145 4 0 69 65 3.24 1.24
1997 28 26 6 2 2 13 6 0 -- .684 702 174.1 149 15 48 6 6 104 4 0 61 58 2.99 1.13
1998 NYM 29 29 1 0 0 6 8 0 -- .429 724 171.2 166 22 53 5 6 117 5 1 79 75 3.93 1.28
1999 31 29 1 0 0 12 8 0 0 .600 723 174.0 168 25 58 3 6 105 1 0 86 85 4.40 1.30
2000 COL 29 29 0 0 0 6 15 0 0 .286 726 167.1 201 32 53 5 2 88 2 1 112 109 5.86 1.52
2001 MON 42 11 0 0 0 4 7 0 0 .364 493 113.0 127 18 26 2 5 63 4 0 65 60 4.78 1.35
2002 31 20 1 0 1 4 9 0 1 .308 553 131.1 143 15 32 2 4 74 5 0 66 60 4.11 1.33
2003 オリックス 24 12 1 1 0 2 7 1 -- .222 350 76.0 103 14 20 1 3 43 0 0 58 55 6.51 1.62
2004 3 1 0 0 0 0 1 0 -- .000 25 3.2 9 2 4 0 0 2 1 0 9 7 17.18 3.55
2005 15 15 0 0 0 6 5 0 0 .545 303 73.2 80 10 9 0 1 33 0 0 35 33 4.03 1.21
2006 19 19 0 0 0 7 9 0 0 .438 420 101.2 109 10 22 0 2 33 1 0 47 43 3.81 1.29
2007 10 10 0 0 0 1 6 0 0 .143 190 40.2 51 5 14 1 4 14 0 0 39 26 5.75 1.60
ロッテ 4 4 0 0 0 0 3 0 0 .000 73 12.1 30 1 6 1 2 4 1 0 19 18 13.14 2.92
'07計 14 14 0 0 0 1 9 0 0 .100 263 53.0 81 6 20 2 6 18 1 0 58 44 7.47 1.91
NPB:18年 385 170 28 7 7 89 82 62 0 .520 5640 1330.0 1387 135 390 32 42 763 34 2 632 571 3.86 1.34
MLB:5年 162 118 3 0 1 32 47 0 1 .405 3219 757.1 805 112 222 17 23 447 17 2 408 389 4.62 1.36

タイトル[編集]

NPB

表彰[編集]

NPB
MLB
  • グッドガイ賞:1回(1999年)※全米野球記者協会(BBWAA)のニューヨーク支部が取材対象である選手の人柄を評価する賞[32]
  • ジョン・J・マーフィー賞(1998年)※ニューヨーク・メッツ担当記者の投票による球団のオープン戦新人賞[33]

記録[編集]

NPB初記録
NPBその他記録
MLB記録

背番号[編集]

  • 36 (1984年 - 1988年)
  • 11 (1989年)
  • 21 (1990年 - 1994年、1996年 - 1997年、1998年途中 - 2000年、2006年 - 2007年途中)
  • 24 (1995年、2007年途中 - 同年終了)
  • 29 (1998年 - 同年途中)
  • 55 (2001年 - 2004年)
  • 77 (2005年、2015年)
  • 81 (2008年 - 2012年、2016年 - )

関連情報[編集]

書籍[編集]

  • 『最新最強のピッチング・メカニクス』(2010年7月、永岡書店) - 伊良部秀輝と共著
  • 『投手論』(2013年3月、PHP新書
  • 『プロ野球VSメジャーリーグ:戦いの作法』(2014年4月、PHP新書、ISBN 456981798X

脚注[編集]

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  1. ^ お知らせがあります”. 吉井理人オフィシャルブログ (2013年1月31日). 2013年2月25日閲覧。
  2. ^ 産まれましたlpublisher=吉井理人オフィシャルブログ” (2014年3月17日). 2014年3月23日閲覧。
  3. ^ a b c 修士の学位”. 吉井理人オフィシャルブログ (2016年1月26日). 2016年2月15日閲覧。
  4. ^ 1989年10月23日 日刊スポーツ2頁
  5. ^ 1989年10月23日スポーツニッポン 2頁
  6. ^ 1989年10月27日朝日新聞22頁
  7. ^ 1989年10月27日 朝日新聞26頁 - 27頁
  8. ^ 1989年10月27日日刊スポーツ5頁
  9. ^ 1989年10月30日 朝日新聞24頁 - 25頁、吉井が跪いて中畑に花束をささげるという漫画を掲載(画 : 針すなお
  10. ^ 【8月5日】1997年(平9) 吉井理人災難!日米でレーザービームにたたられた”. スポーツニッポン (2007年8月5日). 2013年5月8日閲覧。
  11. ^ FAの歴史を振り返る。最初にFA権を行使したのは誰?”. Sportiva (2013年12月20日). 2013年12月31日閲覧。
  12. ^ 99シーズンにかける日本人メジャーリーガー『月刊スラッガー』1999年5月号、日本スポーツ企画出版社、雑誌05456-3、9頁。
  13. ^ a b c d e 、週刊ベースボール、2013年5月20日号、P20-P23
  14. ^ コーチ退団のお知らせ”. 北海道日本ハムファイターズ (2012年11月4日). 2012年11月4日閲覧。
  15. ^ “日ハム吉井コーチ退団の真相”. 東京スポーツ. (2012年11月8日). http://www.tokyo-sports.co.jp/sports/52773/ 2015年11月30日閲覧。 
  16. ^ 【プロ野球】吉井理人「斎藤佑樹は二軍に落とすべきではなかった」 - スポルティーバ(2012年11月25日)
  17. ^ 2013年3月28日(木) FOX SPORTS 遂に本格始動! プロ野球プレゲームショー & ポストゲームショー FOX bs238で生放送スタート!”. msn産経ニュース (2013年1月31日). 2013年2月25日閲覧。
  18. ^ “野茂英雄より早いメジャー志向、「もっと野球のことを知りたい」と筑波大大学院へ…元大リーガー・吉井理人(上)”. 産経WEST (産経新聞). (2014年4月20日). http://www.sankei.com/west/news/140420/wst1404200021-n1.html 2015年11月30日閲覧。 
  19. ^ 吉井コーチが会見「工藤監督から学校でお話を」ソフトバンク球団公式サイト2014年11月20日配信
  20. ^ [hhttp://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2014/11/20/kiji/K20141120009317660.html “吉井氏“二刀流”大学院生コーチに…クイック革命で連覇貢献を”]. Sponichi Annex (スポーツニッポン). (2015年11月20日). hhttp://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2014/11/20/kiji/K20141120009317660.html 2015年11月30日閲覧。 
  21. ^ “ホークス工藤監督、投手目線の采配ズバリ 「明るく真剣に」そして“嫌らしく””. SportsNavi. (2015年6月22日). http://sports.yahoo.co.jp/sports/baseball/npb/2015/columndtl/201506220008-spnavi?page=2 2015年11月30日閲覧。 
  22. ^ a b ソフトバンク二保のクイックが修士論文になる”. 日刊スポーツ (2015年7月9日). 2015年11月30日閲覧。
  23. ^ ソフトB吉井コーチ、退団し大学院復学”. デイリースポーツ (2015年11月3日). 2015年11月3日閲覧。
  24. ^ ソフトバンク退団の吉井氏 4年ぶり日本ハム復帰、一軍投手コーチに”. スポーツニッポン (2015年11月28日). 2015年11月30日閲覧。
  25. ^ 吉井投手コーチが就任会見 北海道日本ハムファイターズ公式サイト(2015年11月29日)
  26. ^ ソフトバンク退団の吉井氏 4年ぶり日本ハム復帰、一軍投手コーチに”. 日刊スポーツ (2015年11月29日). 2015年11月30日閲覧。
  27. ^ 修士論文”. 吉井理人オフィシャルブログ (2016年1月8日). 2016年1月16日閲覧。
  28. ^ 週刊ベースボール2012年7月23日号 P8
  29. ^ 馬主になりました” (2013年11月25日). 2013年11月25日閲覧。
  30. ^ a b Sports Graphic Number 790 35頁-39頁
  31. ^ 仰木彬『燃えて勝つ』学習研究社、1990年3月、241ページ、ISBN 978-4051045821
  32. ^ 「グッドガイ賞」に松井 日本人では吉井以来2人目,47NEWS(2003年11月6日付),2009年9月12日閲覧
  33. ^ A Real Award for Fake GamesFaith and Fear in Flushing,2015年9月6日閲覧
  34. ^ 但し、達成時点で存在する全球団からの勝利であり、かつて自身が在籍した大阪近鉄バファローズからは勝利を挙げていない。
  35. ^ 1996年10月9日の金森隆浩中日ドラゴンズ)以来の記録。但し、失点する前に2死でグレッグ・ラロッカ三塁手の失策があったため、自責点は0。後に2010年6月20日に阿南徹2013年8月22日大石達也が記録。
  36. ^ 42歳以上で勝利投手となったのは、浜崎真二阪急ブレーブス)、若林忠志毎日オリオンズ)、佐藤義則(オリックス)、大野豊広島東洋カープ)、工藤公康横浜ベイスターズ)に次いで6人目(当時)。なお、相手の先発投手は18歳の田中将大だった。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]