豊田清

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豊田 清
読売ジャイアンツ コーチ #77
Giants toyoda 77.jpg
豊田清(2012年)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 三重県亀山市
生年月日 1971年2月2日(44歳)
身長
体重
180 cm
85 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1992年 ドラフト3位
初出場 1995年9月15日
最終出場 2011年9月29日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
  • 読売ジャイアンツ (2012 - )

豊田 清(とよだ きよし、1971年2月2日[1] - )は、三重県亀山市出身の元プロ野球選手投手)、プロ野球コーチ。2012年から読売ジャイアンツの二軍投手コーチ、2015年から一軍投手コーチを務める。

経歴[編集]

プロ入り前[編集]

鈴鹿高等学校から同朋大学へ進学。1990年愛知大学野球連盟秋季2部リーグ戦では最優秀選手に選ばれる活躍でチーム初の1部リーグ昇格に貢献した。愛知大学野球1部リーグ戦通算9勝16敗。1992年のドラフト会議において西武ライオンズから3位指名を受け、入団[2]

西武時代[編集]

1993年1994年の2年間は1軍登板はできなかった。

1995年9月15日の対近鉄バファローズ戦(藤井寺球場)で1軍初登板を果たす。同年は4試合に登板し1点しか取られなかった。

1996年から本格的に先発投手として登板し、7月14日の対福岡ダイエーホークス戦(札幌市円山球場)で初勝利。最終的に15試合に登板し、5勝5敗、防御率3.08の成績を残した。

1997年は自身初の二桁勝利を挙げブレイク、5月7日の対福岡ダイエーホークス戦(福岡ドーム)では、味方打線が当時のプロ野球記録となる1試合29安打を放って、毎回得点を達成した中での完封勝利(21-0)を挙げている[2]。しかし優勝争い真っ只中の9月に肘痛により登録抹消、手術を行ったため優勝の輪に加われなかった。

1998年は前年の肘手術によりシーズンの大半を棒に振ったが9月に復帰を果たし、念願の優勝を味わう。横浜ベイスターズとの日本シリーズでは第2戦に先発したが、石井琢朗にホームランを浴びるなど敗戦投手となった。

1999年は6月まで不調に喘ぐが7月以降に完全復活、規定投球回不足ながらも2年ぶりの二桁勝利を挙げた。

2000年も先発を任されるたが僅か5勝に終わってしまう。10月8日の対日本ハムファイターズ戦(西武ドーム)ではプロ初セーブを挙げた。

2001年は4月上旬に森慎二の不調・東尾修からの説得もあって抑え投手に転向[2]。8月に3本のサヨナラ本塁打を浴びるなど安定感を欠くこともあった[3]。最終成績は47試合に登板し、5勝3敗28セーブ、防御率2.83と安定感のある投球内容だった。

翌年2002年はさらに安定感を増し、6勝1敗38セーブ[4]で防御率は驚異の0.78でチーム4年ぶりのリーグ優勝に貢献した。しかし、後に移籍することとなる読売ジャイアンツとの日本シリーズではチームが3連敗を喫した後の第4戦の4点ビハインドの9回に登板し1回を無失点に抑えたが、チームはこの試合でも敗れストレートの4連敗で日本一を逃した。結局このシリーズでの自身の登板はこの1試合だけだった。

2003年引き続き守護神として2年連続で最優秀救援投手に輝くなど、日本を代表する抑え投手になった[2]。同年8月29日にはプロ野球史上15人目の通算100セーブを挙げる。最終的に2勝3敗38セーブ、防御率1.24の成績だった。

2004年は故障で長期離脱もあり、34試合の登板で5勝1敗11セーブに終わるも防御率は0.98と安定感は抜群だった。日本ハムとのプレーオフ第1ステージでは第3戦に木元邦之に同点2ラン本塁打、第2ステージでのダイエー戦では第5戦のリーグ優勝目前の9回に同点打を打たれ、その後2死2、3塁のピンチを招いてランナーを返してしまえば、リーグ優勝が目前で消え、ダイエーの逆転サヨナラリーグ優勝を許してしまう場面だったが、不振の松中信彦を打ち取り最大のピンチを脱した。最終的にチームは延長10回に勝ち越し、リーグ優勝を果たした。このように豊田はプレーオフでは勝ち抜け目前の試合では安定感を欠いたが、日本シリーズでは第1戦に日本シリーズ初セーブを挙げるなど計3セーブを挙げるなど活躍し、第7戦では9回に2失点と日本一目前での失点を喫したが、5点のリードがあったため、影響はなく、最後の打者を打ち取り胴上げ投手になり、チーム12年ぶりの日本一に貢献した。

2005年は過去の疲労から精彩を欠いた投球が続いた。故障で離脱したこともあり、35試合の登板にとどまった。そして3勝1敗19セーブ、防御率3.97の成績で終わった。その年のオフにFA権を取得し権利を行使[2]11月27日読売ジャイアンツと2年契約を結んだ。

巨人時代[編集]

2006年は開幕3戦目で移籍後初セーブを挙げる。その後も好調を維持していたが、5月20日の東北楽天ゴールデンイーグルス戦(フルキャストスタジアム宮城)で9回にホセ・フェルナンデスに逆転サヨナラ3ラン本塁打を浴びて移籍後初めて救援に失敗する。その後も抑えで登板するがチームは6月中旬から7月中旬にかけて8連敗、9連敗、10連敗と3度の大型連敗を喫するなど大きく下降線を辿ることとなった。5月28日の千葉ロッテマリーンズ戦(東京ドーム)では2点ビハインドの9回から登板したが、堀幸一にソロ本塁打を浴びる等、3失点を喫し、チームの反撃ムードに水を差してしまった。大型連敗期間に入った6月24日の中日ドラゴンズ戦(ナゴヤドーム)、7月9日の広島カープ戦(広島市民球場)でも敗戦投手となり、7月14日の東京ヤクルトスワローズ戦では1点リードの9回に登板するもサヨナラ打を浴び、この試合でも敗戦投手となりチームは9連敗となってしまった。この大型連敗期間では自身は3敗を喫してしまった。翌日15日には右肩痛で登録抹消となる。自身の登録抹消以後は先発だった高橋尚成が抑えに回った。その後8月15日に一軍登録された。その後は中継ぎになった。復帰後はそれなりの投球を見せたが、チームは球団史上初の2年連続Bクラスとなり、自身の不振も響き38試合の登板で1勝4敗13セーブ、防御率3.32と期待された成績を残すことはできなかった。

2007年も開幕当初は抑えを務め、4月11日の対広島戦(広島市民球場)でプロ野球史上5人目の通算150セーブを達成。しかし、4月20日の阪神タイガース戦では延長12回にチームが3点を勝ち越した後に登板するも、伏兵の狩野恵輔にサヨナラ適時打を打たれ敗戦投手になった。抑えに失敗することが多く、上原浩治が抑えに回って以降は中継ぎを務めるといった、前年と同様の場面が見られた[2]。同年も前年と防御率はそれほど変わらなかったが上原に繋ぐセットアッパーとして巨人での新境地を開拓した。47試合に登板して2勝5敗4セーブ20ホールドをマークした。クライマックスシリーズでは2、3戦目に登板して対戦打者6人全てから三振を奪うなどCS敗退したチームにおいて奮闘した。

2008年は開幕当初からマーク・クルーンへ繋ぐ中継ぎとなり、50試合に登板。チームトップの26ホールドを挙げ、チームのリーグ優勝、球団初のCS制覇で日本シリーズ進出に貢献した。移籍後初の日本シリーズは古巣の西武と対戦し、自身は第4、5、7戦に登板した。いずれも無失点で、特に第7戦は逆転を許し1点ビハインドとなった8回途中からの登板でこのピンチを脱する。9回は先頭の赤田将吾にあわやホームランというフェンス直撃の3塁打を打たれるが、後続を抑え得点を許さなかった。チームは敗れ日本一を逃したが、ベテランの意地を見せた。

2009年は開幕から10試合連続で無失点。クルーンが故障離脱した際は代役で抑えを務め、2年ぶりにセーブを挙げた。7月に腰痛で登録抹消されるが、9月以降は全て無失点で抑え、46試合に登板して2勝2敗5セーブ、防御率1.99だった。この年もリーグ優勝し、日本一にも貢献し、豊田にとって初めて巨人での日本一を経験した。

2010年は3月31日の横浜ベイスターズ戦で8回にホセ・カスティーヨに同点ソロホームラン、4月13日の阪神タイガース戦でも8回に桜井広大に逆転3ランを打たれ、チームの負けにも繋がるなど、精彩を欠き、二軍落ちした。その後復帰しても思うような投球はできず、わずか16試合の登板で1勝1敗・防御率4.40と不振に終わり、11月6日に戦力外通告を受けた。その後、11月16日に安定感のある中継ぎ投手を求めていた広島東洋カープが獲得を発表した[5]。11月22日にマツダスタジアムで入団会見が行われ[6]、背番号は33に決定した。

広島時代[編集]

2011年は32試合に登板し、防御率3.08であった。10月15日には球団から来季の条件提示を受けるなど、翌シーズンも戦力として期待されていた[7]が、10月24日に球団へ現役引退を申し入れ、了承されたことが発表された[8]

引退後[編集]

2012年からは読売ジャイアンツの二軍投手コーチを務める。

人物・エピソード[編集]

  • 非名門校出身から入団した自負があり、「仁志敏久のような経歴なら野球エリートと言われるが、自分はそれとは正反対で現役一番だという自信がある」という。「高校や大学の同窓生の結びつきがプロの世界でもあるのがうらやましい」とも言い、いつか母校からプロ野球選手が誕生するのを期待しているという。
  • 登板時のBGMは西武時代から巨人移籍後の2006年シーズンまではアース・ウィンド・アンド・ファイアーの『Let's Groove』を使用していたが、2007年シーズンからはエイジアの『ヒート・オブ・ザ・モーメント』に変更している。
  • 2001年、森慎二の不調を受けて抑えに転向した理由について、当時の監督である東尾修は、一球一球に手を抜くことが出来ない豊田の性格を挙げている。
  • かなりの激情家である。抑え1年目に連続サヨナラ負けを繰り返し、バケツに当り散らした。さらに失点後、手を思い切りクーラーボックスに打ちつけて裂傷を負い、五輪代表の座を失ったこともある。
  • 2001年夏に立て続けて救援に失敗した際、悔しさの余りにグラブを叩き付けたり、ベンチやごみ箱を叩いたり蹴ったりするなど、時に感情を見境なく出し過ぎて怪我を負うことがしばしばあり、メンタル面の弱さを問題視された。これを受け、翌年から登板時に決まったパフォーマンスを行うようになった。
    • 中堅を守っていた大友進への感謝の気持ちを表したのが始まりで、投球練習後にバックスクリーン方向を向いて胸に手を当て、言葉を唱えた後に胸元を軽く叩き、外野の各選手に帽子のつばを摘みながら一礼する。この一連の動作はファンから「守護神降臨のポーズ」と呼ばれて親しまれ、巨人移籍後も続けている。その後、自身の救援失敗と二軍調整により封印した時期もあったが、後年には若干抑え気味ながら復活させた。
  • 最優秀救援投手賞を獲得した2002年、2003年シーズンはWHIPの低さからも分かる通り、9回に当板して3者凡退で試合を締めくくることが非常に多く、『皆殺しの豊田』という異名を取った。
  • 読売ジャイアンツに移籍した際、原辰徳は豊田に「あの集中力。マウンドに上がるときの、あの独特の間合い。朝青龍の土俵入りの雰囲気を豊田にも感じる」という言葉を贈っている。
    • この移籍によって、人的補償で江藤智が移籍した。その後、豊田は2010年オフに江藤の古巣である広島に移籍したが、背番号は奇しくも江藤が広島在籍時に付けていた33だった。
  • 巨人の抑えは2003年の河原純一が崩れて以降は固定できなかった。2005年は林昌範が18セーブをマークしたが、実績が乏しかったこともあり、絶対的な守護神として白羽の矢が立ったのがその年のオフにFAを宣言した豊田だった。移籍1年目は開幕から抑えとして順調にセーブを重ねたが夏場に失敗を繰り返し、後半は故障離脱もあり、中継ぎでの登板がほとんどだった。2007年は序盤で抑えから外れたが、この際原辰徳監督から「ストッパーとしてダメだから中継ぎに降ろすわけじゃない。中継ぎはストッパー以上に難しい仕事。上原に抑えの経験を積ませるために今、このジャイアンツで中継ぎを安心して任せられるのはお前しかいないんだ。お前はパリーグですごい成績を残してきたピッチャーじゃないか。自信を持って投げてくれ」の言葉とコーチ陣の粘り強い指導に発奮し、全盛期には及ばないまでも強い球威とコントロールを取り戻し、セットアッパーとして2007年の巨人のリーグ優勝に貢献した。2008年からはクルーンが加入したこともあり、セットアッパー専任となった。結果的に抑え不在を解消する存在にはなり得なかったがプライドを捨ててでもチームに貢献したことで巨人は2007年から2009年までリーグ3連覇を達成し、2009年は日本一に輝いた。2009年は故障離脱したクルーンの代役で抑えでも登板し、セーブを挙げるなど、ここぞというとこで活躍した。最終的に2010年まで巨人でプレーを続けた。

詳細情報[編集]

年度別投手成績[編集]





















































W
H
I
P
1995 西武 4 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 21 6.0 3 1 0 0 0 4 0 0 1 1 1.50 0.50
1996 18 14 3 1 0 5 5 0 -- .500 441 108.0 101 17 25 3 3 88 2 0 40 37 3.08 1.17
1997 23 23 6 3 1 10 6 0 -- .625 616 150.2 128 14 54 1 2 86 2 0 54 49 2.93 1.21
1998 7 7 0 0 0 4 2 0 -- .667 158 39.1 34 4 9 0 0 31 1 0 19 19 4.35 1.09
1999 20 20 4 2 2 10 4 0 -- .714 490 122.2 111 12 16 0 3 91 1 2 57 53 3.89 1.04
2000 26 18 1 0 0 5 9 1 -- .357 500 118.1 130 12 27 4 2 90 3 2 52 50 3.80 1.33
2001 47 0 0 0 0 5 3 28 -- .625 196 47.2 42 7 12 1 1 58 1 2 15 15 2.83 1.13
2002 57 0 0 0 0 6 1 38 -- .857 204 57.1 32 1 3 1 1 66 1 1 5 5 0.78 0.61
2003 58 0 0 0 0 2 3 38 -- .400 215 58.0 37 2 9 3 1 54 1 1 8 8 1.24 0.79
2004 34 0 0 0 0 5 1 11 -- .833 142 36.2 26 1 5 2 0 39 1 0 5 4 0.98 0.85
2005 35 0 0 0 0 3 1 19 3 .750 150 34.0 42 4 6 0 0 31 0 0 17 15 3.97 1.41
2006 巨人 38 0 0 0 0 1 4 13 7 .200 159 38.0 39 2 6 3 0 46 0 0 14 14 3.32 1.18
2007 47 0 0 0 0 2 5 4 20 .286 195 48.0 46 2 8 5 2 56 1 0 18 18 3.38 1.13
2008 50 0 0 0 0 3 2 0 26 .600 186 46.1 45 4 5 1 1 49 2 0 17 17 3.30 1.08
2009 46 0 0 0 0 2 2 5 15 .500 172 40.2 35 3 15 5 1 32 1 0 13 9 1.99 1.23
2010 16 0 0 0 0 1 1 0 3 .500 70 14.1 22 3 6 0 0 18 0 0 7 7 4.40 1.96
2011 広島 32 0 0 0 0 2 1 0 7 .667 104 26.1 27 3 1 0 0 20 0 0 9 9 3.08 1.06
通算:17年 558 82 14 6 3 66 50 157 81 .569 4019 992.1 900 92 207 29 17 859 17 8 351 330 2.99 1.12
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル[編集]

表彰[編集]

記録[編集]

初記録
節目の記録
その他の記録

背番号[編集]

  • 39 (1993年 - 1994年)
  • 38 (1995年 - 1997年)
  • 20 (1998年 - 2010年)
  • 33 (2011年)
  • 77 (2012年 - )

脚注[編集]

  1. ^ a b c 『プロ野球カラー名鑑 2008』 ベースボール・マガジン社2008年、12頁。ISBN 978-4-583-61526-4
  2. ^ a b c d e f 惜別球人 豊田清『週刊ベースボール』2011年12月19日号、ベースボール・マガジン社、2011年、雑誌20442-12/19, 49-52頁。
  3. ^ 【8月28日】2001年 初のサヨナラ被弾月に3発!守護神・豊田、晩夏に号泣”. SPORTS NIPPON NEWSPAPERS. 2011年10月28日閲覧。
  4. ^ リーグ歴代1位記録は、2006年にマイケル中村(日本ハム)が39セーブで更新。
  5. ^ 豊田清投手 入団のお知らせ”. 広島東洋カープ公式サイト (2010年11月16日). 2010年11月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年11月17日閲覧。
  6. ^ “巨人を自由契約の豊田が広島入団会見”. デイリースポーツ. (2010年11月22日). オリジナル2010年11月25日時点によるアーカイブ。. http://web.archive.org/web/20101125092523/http://www.daily.co.jp/newsflash/2010/11/22/0003626433.shtml 2011年2月15日閲覧。 
  7. ^ さらば豊田…電撃引退「大満足」”. デイリースポーツ (2011年10月24日). 2011年10月25日閲覧。
  8. ^ 広島の豊田投手が引退 02、03年のセーブ王”. デイリースポーツ (2011年10月24日). 2011年10月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年10月24日閲覧。

関連項目[編集]