金森隆浩
基本情報 | |
---|---|
国籍 |
![]() |
出身地 | 和歌山県有田郡湯浅町 |
生年月日 | 1972年8月12日(50歳) |
身長 体重 |
181 cm 78 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1994年 ドラフト1位 |
初出場 |
NPB / 1996年10月2日[1] CPBL / 1998年3月8日[2] |
最終出場 |
NPB / 1996年10月9日 CPBL / 1998年10月27日[2] |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
この表について
|
金森 隆浩(かなもり たかひろ、1972年8月12日 - )は、和歌山県有田郡湯浅町出身の元プロ野球選手(投手・右投右打)[5][6]。
立命館大学(関西学生野球リーグ)時代は速球派投手として注目され、1994年のドラフト会議で中日ドラゴンズ(セントラル・リーグ)から1位指名を受けて入団した[5][6]が、NPBの一軍公式戦では未勝利(登板試合数は通算2試合)に終わり[7]、1999年限りで現役を引退した。
来歴・人物[編集]
プロ入り前[編集]
湯浅町立湯浅小学校・湯浅町立湯浅中学校出身[3]。小学校1年生の時に軟式野球を始め、和歌山県立耐久高等学校では1年秋からエースとなる[5]。高校時代は甲子園への出場経験はなく、3年夏も県大会3回戦止まりだったが[5]、速球派投手としてプロ球界から勧誘を受けていた[5][6]。
卒業後は立命館大学(経済学部)[5]へ進学して大学硬式野球部に所属。1993年(第22回)[注 1]・1994年(第23回)と2年連続で日米大学野球の代表に選出され、1993年には2勝を挙げた[6]。大学3年次には最高球速147 km/hを記録し[3]、同年春のリーグ戦では防御率0.89を記録した。中日ドラゴンズ(当時の監督:高木守道)は1994年4月時点で金森を同年のドラフト会議における1位指名候補に予定していたが、3年のオフに腰を痛めたことで投球フォームを崩し[注 2][5]、4年次は球速140 km/hさえ程遠くなっていたが[3]、春季リーグ戦で最優秀投手賞を受賞した。リーグ戦の通算成績は12勝15敗・防御率1.91[5]。
ドラフト会議直前には西口文也とともに、中日が紀田彰一の抽選を外した場合の外れ1位候補としてリストアップしていた[8]。そして会議当日(11月18日)、中日は横浜ベイスターズとともに紀田を1位指名したが、抽選により横浜が交渉権を獲得したため、金森は中日から紀田の外れ1位として指名された[5]。指名後からは調子が上向き、球速140 km/hをコンスタントに出せるようになった[3]。入団時の年俸は1,000万円・契約金は8,000万円で[6]、「球速150 km/hの球を投げたい。力で相手打者のバットをへし折りたい」と目標を掲げていた[注 3][3]。また、金森について担当スカウト・中田宗男[注 4]は「完調なら150 km/hは投げられる投手」と[5]、前中日投手コーチ・水谷寿伸(野球評論家)も「試合経験が少ないので打者との駆け引きはいまいちだが、潜在能力は河原純一(巨人1位指名)に負けぬものを持っている」とそれぞれ評価していた[9]。
プロ入り後[編集]
ドラフト当時、補強ポイントの1つとされていた右の先発投手候補として期待されていた[5]が、プロ入り1年目の1995年は故障で出遅れて一軍では登板できなかった[10]。同年7月15日に二軍(ウエスタン・リーグ)戦で初登板したが、14試合(投球イニング:60回)を投げて2勝4敗・防御率4.35の成績にとどまった[10]。同年オフの契約更改では新人選手としては異例の年俸大幅ダウン(前年比20%減)となる[11]年俸800万円で更改したが[10]、秋季キャンプでは速球の球速などに手応えを掴んでいた[11]。
2年目の1996年シーズンは二軍ウ・リーグで23試合(投球イニング:104回1/3)に登板して11勝4敗・防御率3.57(リーグ投手順位は16人中9位)の成績を残し、香田勲男(近鉄)と並んで最多勝利のタイトルを獲得した[12]。シーズン終盤に一軍昇格を果たし[13]、10月2日の対広島東洋カープ24回戦(広島市民球場)で大量リード中の[14]9回に救援としてプロ初登板[1]。先頭打者の前田智徳を一塁ゴロ、続くルイス・ロペスを二塁ゴロに打ち取り[14]、最後は野村謙二郎を143 km/hの直球で空振り三振に討ち取って3人で抑えた[1]。10月9日の対阪神タイガース最終戦(阪神甲子園球場・第26回戦)[15]でプロ初先発登板を果たしたが[13]、初回に2被安打・1失策により無死満塁となり[15]、4番打者・新庄剛志から(新庄にとって通算3本目の)満塁本塁打を被弾[16]。その後も6番・桧山進次郎を三振に打ち取っただけで、2被安打・1四球により再び満塁のピンチを招くと[17]、代打・塩谷和彦[注 6]から1イニング2本目の満塁本塁打を被弾した[16]。これにより1イニング8失点[注 7]を喫した。1イニング2満塁被弾はこれがNPB初記録[注 8]で[15][17]、これ以降には以下の記録が出ている。
- 1999年8月20日・日本ハムファイターズ - 史上2度目(パ・リーグでは初)[19]。対福岡ダイエーホークス戦(福岡ドーム)の2回裏、無死満塁で先発投手の山原和敏が秋山幸二から被弾。その後、一死満塁で2番手投手の今井圭吾が小久保裕紀からランニング本塁打を被弾[20]。
- 2007年4月1日・吉井理人(オリックス・バファローズ) - 史上3度目。対東北楽天ゴールデンイーグルス戦(フルキャストスタジアム宮城)で3回裏、ホセ・フェルナンデスと山﨑武司から被弾[21]。ただし失策絡みのため、吉井の自責点は0。
- 2010年6月20日・阿南徹(オリックス) - 史上4度目。対北海道日本ハムファイターズ戦(京セラドーム大阪)で8回表、小谷野栄一と金子誠から被弾[22]。吉井とは異なり阿南は失策が絡んでいないため、阿南の自責点は失点と同数の8。
- 2013年8月22日・大石達也(埼玉西武ライオンズ) - 史上5度目。対千葉ロッテマリーンズ戦(QVCマリンフィールド)で3回裏、井口資仁と鈴木大地から被弾[23]。
1997年シーズン(年俸900万円)[13]終了後の11月29日、契約更改交渉の際に「武者修行の意味で台湾に行ってもらうかもしれない」と打診され[注 9]、これを「違うところでやるのも自分のためになる」と了承[24]。12月15日、過去に郭源治・松永幸男と中日選手を受け入れた実績のある統一ライオンズ(台湾プロ野球)へ1年契約で移籍することが決まり[24]、同日付で中日を自由契約となった[25]。翌1998年は台湾・統一で22試合に登板(先発10試合・救援12試合)し、3勝2敗・防御率3.09の成績を残した[4]。
1998年オフに台湾での活躍を認められ、2年ぶりに中日復帰を果たした(背番号63・年俸800万円)[26]。この時は投球フォームが前に突っ込まないようになったことでコントロールが安定するようになっており[27]、金森自身も「(台湾での1年間で)1人で考えていろいろなことが試せた。投手のレベルが1年で上がっていて驚いた」と手応えを感じていたが[28]、1999年は一軍に昇格できず、同年オフに中日から再び戦力外通告を受ける。その後オリックス・ブルーウェーブの入団テストを受けるが不合格となり、現役を引退。
2000年は中日の打撃投手を務めていた[29]が、同年限りで退団した[注 10]。2020年2月7日には日本学生野球協会から「学生野球資格回復」の適性認定を受けた[31]。
選手としての特徴[編集]
ドラフト当時、水谷寿伸は「調子の良い時は145 km/h以上のストレート、カーブも大きく、決め球のフォークも落差はある」と評価していた[9]。
詳細情報[編集]
年度別投手成績[編集]
年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1996 | 中日 | 2 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | -- | .000 | 18 | 3.0 | 7 | 2 | 2 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 8 | 7 | 21.00 | 3.00 |
1998 | 統一 | 22 | 10 | 0 | 0 | 0 | 3 | 2 | 0 | -- | .600 | 312 | 70 | 76 | 2 | 33 | 1 | 7 | 36 | 4 | 0 | 34 | 24 | 3.09 | 1.56 |
NPB:1年 | 2 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | -- | .000 | 18 | 3.0 | 7 | 2 | 2 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 8 | 7 | 21.00 | 3.00 | |
CPBL:1年 | 22 | 10 | 0 | 0 | 0 | 3 | 2 | 0 | -- | .600 | 312 | 70 | 76 | 2 | 33 | 1 | 7 | 36 | 4 | 0 | 34 | 24 | 3.09 | 1.56 |
記録[編集]
- NPB
- 初登板:1996年10月2日、対広島東洋カープ24回戦(広島市民球場)、9回裏に救援登板・完了、1回無失点
- 初奪三振:同上、9回裏に野村謙二郎から
- 初先発登板:1996年10月9日、対阪神タイガース26回戦(阪神甲子園球場)、2回8失点(自責点7)で敗戦投手
背番号[編集]
- 12 (1995年 - 1997年)
- 11 (1998年)
- 63 (1999年)
- 113 (2000年)
脚注[編集]
注釈[編集]
- ^ 同大会代表には金森と同学年の河原純一(駒澤大学硬式野球部)らも選出されている。
- ^ 当時の野球部監督・中尾卓一は「本人は3年のころからプロを意識して焦り、キャッチボールの時から左膝が早く開く悪い癖が出た」と述べている[5]。
- ^ プロ入り時には目標とする投手として、チームの先輩である今中慎二を挙げていた[5]。
- ^ 中田は高校時代から金森に着目していた[9]。
- ^ 中西は既にこの時点で阪神退団が決まっており、同日が最終試合[16]。他球団での現役続行を目指したが[15]、その後引退。
- ^ 先発投手・中西清起[注 5]の代打[15]。塩谷はこれがプロ初本塁打だった[18]。
- ^ ただしエラーが絡んでおり、金森本人の自責点は7[15]。同試合の投球成績は2イニング58球・打者15人(7被安打・1奪三振・2四死球)・8失点(自責点7)で、防御率は31.50[15]。
- ^ 同一チームが1試合で2本の満塁本塁打を記録したのは当時、NPB史上14回目[15]。
- ^ 当初は金森だけでなく、平田洋ら若手投手も台湾行きの候補に上がっていたが、児玉光雄球団代表補佐は「統一側からのお願いもあった。金森なら向こう(統一)でも使ってもらえるだろうし、勉強になると判断した」と説明した[24]。
- ^ 2000年度の『ホームラン』(日本スポーツ出版社)選手名鑑には金森が中日の打撃投手として掲載されている[29]が、2001年度の選手名鑑には掲載されていない[30]。
出典[編集]
- ^ a b c 『中日スポーツ』1996年10月3日第5版3頁「Dパトロール 金森ピシャリ初登板」(中日新聞社)
- ^ a b “PLAYER 球員個人紀錄 金森隆浩 0 球隊:統一7-ELEVEn > 逐場成績表” (中国語). 中華職棒大聯盟全球資訊網 The Official Site of CPBL. 中華職業棒球大聯盟. 2020年11月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年11月18日閲覧。
- ^ a b c d e f g 『中日ドラゴンズ '95ファンブック』中日ドラゴンズ(発行)・中日新聞本社(発売)〈中日ドラゴンズファンブック〉、1995年3月11日、10頁。ISBN 978-4806202912。
- ^ a b “PLAYER 球員個人紀錄 金森隆浩 0 球隊:統一7-ELEVEn > 個人成績表” (中国語). 中華職棒大聯盟全球資訊網 The Official Site of CPBL. 中華職業棒球大聯盟. 2020年11月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年11月18日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m 『中日スポーツ』1994年11月19日第5版1頁「ドラフト1位 金森(立命館大) はばたけ147キロ右腕 早くも心は竜の一員 無念!紀田は横浜」(中日新聞社)
- ^ a b c d e 「'95プロ野球 12球団全選手百科名鑑」『ホームラン』第19巻第3号(通算:第202号 / 1995年3月号増刊)、日本スポーツ出版社、1995年3月15日、38頁。
- ^ “金森 隆浩(中日ドラゴンズ) | 個人年度別成績”. NPB.jp 日本野球機構. 日本野球機構. 2021年3月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年3月26日閲覧。
- ^ 『中日スポーツ』1994年11月18日第5版1頁「紀田(横浜高)中日1位 横浜とクジ勝負 確率5割、高木監督が引き当てる 外れれば金森(立命大)らが候補に」(中日新聞社)
- ^ a b c 『中日スポーツ』1994年11月19日第5版1頁「ドラフト1位 金森(立命館大) 水谷寿伸の目 駆け引き覚えれば金森いける」(中日新聞社)
- ^ a b c 「'96プロ野球 12球団全選手百科名鑑」『ホームラン』第20巻第4号(通算:第213号 / 1996年3月号増刊)、日本スポーツ出版社、1996年3月31日、91頁。
- ^ a b 『中日ドラゴンズ '96ファンブック』中日ドラゴンズ(発行)・中日新聞本社(発売)〈中日ドラゴンズファンブック〉、1996年3月13日、63頁。ISBN 978-4806203131。
- ^ ホームラン 1997, p. 215.
- ^ a b c ホームラン 1997, p. 38.
- ^ a b 『中日スポーツ』1996年10月3日第5版2頁「24 中日18-5広島」(中日新聞社)
- ^ a b c d e f g h 『中日スポーツ』1996年10月10日第5版3頁「26 阪神11-1中日」(中日新聞社)
- ^ a b c 『中日スポーツ』1996年10月10日第5版2頁「阪神快勝も単独最下位 プロ野球史上初1イニング満塁弾2発」(中日新聞社)
- ^ a b 『中日スポーツ』1996年10月10日第5版3頁「Dパトロール 金森プロ初先発も…」(中日新聞社)
- ^ ホームラン 1997, p. 100.
- ^ 「ソフトバンク上林ランニング弾 99年小久保は満塁で記録」『西日本スポーツ』西日本新聞社、2019年6月29日。2021年8月23日閲覧。オリジナルの2021年8月23日時点におけるアーカイブ。
- ^ 広尾晃「直近は小久保、イチローも達成? 激レアなランニング満塁ホームラン。」『Number Web』文藝春秋、2017年9月28日、3面。2021年8月23日閲覧。オリジナルの2021年8月23日時点におけるアーカイブ。
- ^ 春川英樹「あなたの思い出のグランドスラムは?」『Sponichi Annex』スポーツニッポン新聞社、2021年8月22日。2021年8月23日閲覧。オリジナルの2021年8月23日時点におけるアーカイブ。
- ^ 「プロ野球4度目 ハム1イニング2満塁弾」『Sponichi Annex』スポーツニッポン新聞社、2010年6月20日。2021年8月23日閲覧。オリジナルの2021年8月23日時点におけるアーカイブ。
- ^ 「ロッテ ついに2.5差!井口だ鈴木だ1イニング満弾2発」『Sponichi Annex』スポーツニッポン新聞社、2013年8月23日。2021年8月23日閲覧。オリジナルの2021年8月23日時点におけるアーカイブ。
- ^ a b c 『中日スポーツ』1997年12月16日朝刊第5版3頁「金森 台湾行き決まる」(中日新聞社 記者:加藤)
- ^ 『中日スポーツ』1997年12月16日朝刊第5版2頁「コミッショナー公示(15日)【自由契約選手】中日 金森隆浩投手」(中日新聞社)
- ^ 「'99プロ野球 12球団全選手百科名鑑」『ホームラン』第23巻第4号(通算:第246号 / 1999年3月号増刊)、日本スポーツ出版社、1999年3月31日、48頁。
- ^ 『1999年度 プロ野球選手名鑑 決定版』(第1版第1刷)ベースボール・マガジン社(編集・発行)、1999年3月10日、47頁。ISBN 978-4583045610。
- ^ 『中日ドラゴンズ '99ファンブック』中日ドラゴンズ(発行)・中日新聞本社(発売)〈中日ドラゴンズファンブック〉、1999年3月17日、83頁。ISBN 978-4806203834。
- ^ a b 「完全保存版 プロ野球セ・パ両リーグ 12球団全選手カラー百科名鑑2000」『ホームラン』第24巻第3号(通算:第252号 / 2000年3月号増刊)、日本スポーツ出版社、2000年3月31日、43頁。
- ^ 「完全保存版 プロ野球セ・パ両リーグ 12球団全選手カラー百科名鑑2001」『ホームラン』第25巻第2号(通算:第258号 / 2001年3月号増刊)、日本スポーツ出版社、2001年3月31日、57頁。
- ^ 「日本学生野球協会がイチロー氏の学生野球資格回復を認定 今回の認定者94人一覧」『スポーツ報知』報知新聞社、2020年2月7日。2020年4月23日閲覧。オリジナルの2020年4月23日時点におけるアーカイブ。
参考文献[編集]
- 「'97プロ野球 12球団全選手百科名鑑」『ホームラン』第21巻第4号(通算:第225号 / 1997年3月号増刊)、日本スポーツ出版社、1997年3月31日、38,215。
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 個人年度別成績 金森隆浩 - NPB.jp 日本野球機構
- 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)、CPBL
![]() |
---|