木佐貫洋
|
オリックス時代 (2012年3月16日、明治神宮野球場にて) | |
| 基本情報 | |
|---|---|
| 国籍 |
|
| 出身地 | 鹿児島県川内市(現:薩摩川内市) |
| 生年月日 | 1980年5月17日(46歳) |
| 身長 体重 |
188 cm 84 kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投右打 |
| ポジション | 投手 |
| プロ入り | 2002年 自由獲得枠[1] |
| 初出場 | 2003年3月30日 |
| 最終出場 | 2015年9月30日(引退試合) |
| 経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
|
選手歴 | |
| |
|
派遣歴 | |
| |
|
コーチ歴 | |
| |
| 国際大会 | |
| 代表チーム |
|
| 五輪 | 2003年(アジア予選) |
この表について
| |
木佐貫 洋(きさぬき ひろし、1980年5月17日[1] - )は、鹿児島県川内市(現:薩摩川内市)出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。現役時代は読売ジャイアンツ、オリックス・バファローズ、北海道日本ハムファイターズで活躍し[2]、現在は読売ジャイアンツのスカウトを務める[2]。
鹿児島県立川内高等学校、亜細亜大学を経て[2]、2002年のドラフト会議の自由獲得枠で読売ジャイアンツに入団[2]。1年目の2003年に10勝を挙げてセントラル・リーグ最優秀新人(新人王)を受賞し[2]、2007年には自己最多となる12勝を記録した[2]。
2009年オフに高木康成との交換トレードでオリックス・バファローズへ移籍[2]。移籍1年目の2010年に10勝を挙げて月間MVPを獲得し、翌2011年には自身初の開幕投手を務めた。2013年1月には糸井嘉男らとの大型トレードで北海道日本ハムファイターズへ移籍[3]。同年5月にはNPB史上12人目となる「NPB全12球団からの勝利」を達成し、2015年限りで現役を引退[2]。プロ通算13年間で215試合に登板し、62勝72敗10セーブ、防御率3.76の成績を残した[2][4]。
引退後は巨人のアマチュアスカウトやファーム投手コーチを歴任[2][5]。スカウトとして担当・発掘した船迫大雅が2024年に新人王を獲得したことで、「選手(2003年)とスカウト(2024年)の両方で新人王獲得に関わる」という稀有な功績を達成した[5]。
人物面では非常に真面目で謙虚な性格として知られ、ファンサービスとして通し番号入りの自作直筆サインカードを配るなど誠実な対応で親しまれた[4]。また、「乗り鉄」(鉄道ファン)としても有名である[6][7]。
経歴
[編集]プロ入り前
[編集]1980年5月17日に鹿児島県川内市(現:薩摩川内市)にて生まれる[2]。川内市川内南中学校では軟式野球部に所属。川内高校では3年時の1998年、鹿児島県高等学校春季野球大会にて杉内俊哉を擁する鹿児島実業を破り優勝。夏の全国高等学校野球選手権鹿児島大会決勝では鹿児島実業に1-3で惜敗。甲子園出場を逃した[8]。卒業後は亜細亜大学に進学。2年時にはリーグ戦未勝利ながら大学選手権準決勝でドラフト有力候補だった山村路直(九州共立大)と延長10回を投げ合って完封勝利。決勝でも先発し3回1失点で交代するも優勝に貢献した[9]。東都大学リーグ通算31試合登板、12勝8敗、防御率1.80、225奪三振。4年生時は大学選手権で全試合に登板し、準決勝では九州共立大・新垣渚と投げ合って完封勝利、決勝では和田毅(早大)との投手戦を9回6安打無自責点完投で制し、チームを2年ぶり4度目の日本一へ導いて最高殊勲選手賞(MVP)を受賞した[10]。続く明治神宮大会では右腕の痛みもあって決勝のみ救援登板して胴上げ投手[11]。2季連続で最高殊勲選手、最優秀投手、ベストナインの三冠受賞を果たした。第1回世界大学野球選手権日本代表にも選出された[1]。
2002年度ドラフト会議にて読売ジャイアンツから自由獲得枠指名を受けて入団した[1][2]。
巨人時代(2003年 - 2009年)
[編集]2003年はオープン戦で防御率0点台と好投。原辰徳監督から開幕ローテーションに抜擢され[12]、開幕カード3戦目にあたる3月30日の中日ドラゴンズ戦でプロ初登板初先発を果たすが、1回3/1を5失点KOされ敗戦投手になる[12]。しかしその後に巻き返し、同期で広島東洋カープの永川勝浩と新人王争いを展開。リーグ最多タイの2完封を含む10勝(7敗)、防御率3.34の成績を挙げ、セントラル・リーグ最優秀新人(新人王)を受賞した[2]。10勝目を前に足踏みしていた際、先輩の上原浩治から「二桁勝ったらスーツ買ってやるぞ」と励まされ、達成後にスーツをプレゼントされた[13]。シーズン終了後は翌年のアテネ五輪予選を兼ねたアジア野球選手権大会の日本代表にも選出された。
2004年は先発としては不調であり、シーズン途中から抑えへ転向[12]。最終的には7勝8敗5セーブ、防御率5.03の成績だった。
2005年は14試合の登板にとどまり0勝1敗5セーブ、防御率3.95の成績で、シーズン途中の7月に右肩甲骨下の手術を受けた[2]。
2006年1月に二岡智宏とともに奄美大島での小久保裕紀・斉藤和巳の自主トレに同行。6月19日のオリックス・バファローズ戦で約1年ぶりに一軍登録、即先発するも、3失点で敗戦投手になる。合計3度先発のチャンスを与えられるが、いずれも序盤にKOされ0勝3敗でシーズンを終え、2年連続未勝利という結果に終わった。
2007年は主力投手であった上原浩治・ジェレミー・パウエルが故障で出遅れたため開幕一軍入りを果たし、自己最高となる12勝(9敗)・防御率3.09を記録[2]。内海哲也・高橋尚成とともに一年を通してローテーションを守った。
2008年は、開幕から低迷するチームの中で好投し、4月で3勝(1敗)をあげ、敗戦による「8イニング完投」ながら2004年以来となる完投も記録した。しかし5月7日の阪神タイガース戦(東京ドーム)で、3回裏に金本知憲の頭部に死球を与え、危険球で退場処分を受けてしまう[14][15]。この衝撃から「また当ててしまったらどうしよう」という恐れや感覚のズレが生じ、イップスのような状態に陥る[16]。復調を目指す木佐貫は以前の感覚を取り戻すために試行錯誤を繰り返し、母校である亜細亜大学のグラウンドを訪れるなど試行錯誤を重ねた[16][17]。シーズンオフには本人の希望でドミニカ共和国のウィンターリーグへ派遣された。
2009年は、開幕先発ローテーション枠争いに敗れ、二軍スタート。8月のローテーションの谷間でようやくシーズン初登板・初先発のチャンスを得たが、3回途中3失点でKOされ二軍へ降格[17]。その後は一軍登板機会が得られぬまま、シーズンを終えた。一方で二軍においては先発の軸として活躍し、リーグ最多勝(9勝)、最多奪三振(94個)の二冠を獲得した。シーズン終了後の12月4日、高木康成との交換トレードでオリックス・バファローズへ移籍する事が発表された[17][18][19]。ドラフト自由獲得枠で入団した選手のトレード移籍は当時としては異例の出来事だった[17][20]。トレードの経緯としては、当時の巨人は山口鉄也への負担軽減のために左のリリーフ投手の獲得が急務で[19]、また当時一軍で伸び悩んでいた木佐貫の環境を変える方針も同時に立てられた事が大きな要因のだった[19]。また木佐貫自身も年俸交渉の席で清武英利球団代表に自らトレード検討を直訴していた事もトレードが成立するきっかけの一つとなった[17][20]。
オリックス時代(2010年 - 2012年)
[編集]2010年はチームの指揮官に就任した岡田彰布新監督の元で「もう後がない」と発憤[20]。オープン戦で好投し、開幕ローテーション入りを果たす。3月28日の福岡ソフトバンクホークス戦で移籍後初登板、8回途中1失点で2008年7月27日以来となる609日ぶりの勝利投手となり、移籍後初勝利を挙げる。その後は夏場の6月に4勝0敗で月間MVPを獲得するなど[20]、最終的に10勝12敗の成績で3年ぶりの二桁勝利と復活を果たした[2][20]。
2011年は、東日本大震災の影響で延期されて実施の4月12日に大阪ドームでの開幕戦で自身初の開幕投手を務め、02年全日本大学野球選手権大会決勝や2003年のオールスターゲーム第1戦同様に早稲田大学野球部出身のホークスの大黒柱和田毅と投げ合い9回0/3を自責点1。だが、12球団の開幕投手で唯一勝利がなく5月4日に登録抹消となった。その後、5月14日に一軍登録され、その日の北海道日本ハムファイターズ戦(函館市千代台公園野球場)に先発したが、2回1死から本塁打と連打で8失点で降板。セ・パ交流戦の阪急ブレーブスユニフォーム復刻試合の5月20日の対広島東洋カープ戦で7回1失点で相手の7番指名打者今村猛の犠牲バントも無難に処理しシーズン初白星を挙げたが、その後は先発で結果を残せず、7月11日の対埼玉西武ライオンズ戦で4回9安打6失点で二軍へ降格。二軍降格を通告され、帰阪する道中の新横浜駅で偶然にも巨人時代のコーチである鹿取義隆と遭遇し、「ツーシームやチェンジアップを覚えたら?」と助言を受け、ツーシームを習得する[21]。その後昇格し、閉幕間際の10月15日の対日本ハム戦で、6回無失点の好投で漸く2勝目をあげた。シーズンを通しては、2勝7敗、防御率4.60と不本意な成績に終わった。
2012年はシーズン初登板となった4月8日の対楽天戦で4安打完封勝利をあげると、4月15日は一昨年かなり苦手にしていた西武相手に7回途中1失点の好投で、連勝スタートとなった。ところが、4月22日の対日本ハム戦で9回1失点の完投負けを喫したのを皮切りに打線の援護に恵まれず白星から遠ざかる。6月6日の対ヤクルト戦で一塁ベースカバーに入った際に、左太もも裏肉離れを発症して翌日一軍登録を抹消。リハビリに努めていたある日、娘に「パパはどうして、昼間から家にいるの?」と尋ねられて戸惑い、その時に同僚の寺原隼人が「僕らは好きな野球をやっていればそれでいいかもしれないけれど、娘たちには肩身の狭い思いをさせられない」と発言したのを思い出して発奮し[22]、7月13日に再登録されると、3試合の救援登板を経て、オールスター明けに2試合連続完投勝利をあげる。その後も先発投手としてシーズン終了までローテーションを守り抜き、防御率2.60、QS率66.7%と先発投手としての責務を果たしたものの、力投しても味方打線の援護に乏しい試合が多く、5勝9敗に終わった。契約更改では、規定投球回をクリアした中では自己最高の2.60だった防御率が評価され1200万円増の6200万円で更改した。
日本ハム時代(2013年 - 2015年)
[編集]2013年1月25日、糸井嘉男・八木智哉との交換トレードで赤田将吾・大引啓次と共に北海道日本ハムファイターズへ移籍[23][24]。木佐貫はキャンプ用の荷物を車に積んだ直後にトレードを告げられ、その場で配送伝票を書き換えて日本ハムのキャンプ地へ送ったという[24]。また、ドラフト1位で日本ハムに入団したルーキーの大谷翔平とは「同期入団」となった[20][25]。同年5月20日の巨人戦では7回を1失点で勝利投手となり、史上12人目の全球団(近鉄を除く12球団)からの勝利を達成した[26]。なお、この試合では高校時代に投げ合った巨人先発の杉内に投げ勝ち、1998年夏の全国高等学校野球選手権鹿児島大会の決勝で投げ負けて以来、約15年ぶりの投げ合いを制している[25][27][28]。同年はシーズン終了まで先発ローテーションの一角を担い、二桁勝利には届かなかったものの、最終的にはブライアン・ウルフと並んでチームトップタイとなる9勝8敗の成績をマークした。
2014年は、春季キャンプ中にインフルエンザへ感染。一軍公式戦には、大谷翔平や上沢直之ら若手投手の台頭で5試合しか登板できず、1勝3敗でシーズンを終えた。
2015年は、シーズン終盤まで一軍での登板機会がなく、イースタン・リーグ公式戦でも16試合の登板で0勝6敗、防御率7.67という成績に終わった[29]。9月18日に、翌年の戦力構想から外れていることが判明。他球団での現役続行の可能性などを熟慮した[30] 結果、同月29日にこの年限りで現役を引退することを表明した[31]。翌30日には、この年初めての出場選手登録[32] を経て、対千葉ロッテ戦(札幌ドーム)の5回表に1イニング限定で登板。2奪三振を含む三者凡退という内容で、現役生活を締めくくった。通算成績は215試合登板、62勝72敗10セーブ、防御率3.76[4]。11月27日付で、日本野球機構(NPB)から任意引退選手として公示[33]。
現役引退後(2016年 -)
[編集]退団報告時、日本ハムの球団幹部から手渡されたメモの電話番号(当時の巨人GMを務めていた堤辰佳の電話番号)に連絡したことで、読売ジャイアンツの職員(スカウト)としての復帰を打診された[25][34]。セカンドキャリアのスタートにあたり、自らパソコン教室に通って準備を整え[5]、2016年からスカウトとして巨人に復帰[35]。2019年からはファームの投手コーチに就任[36]して2020年までコーチを務めた後、2021年からは再びスカウトの役職に戻った[37]。スカウトとしては直江大輔、船迫大雅、森田駿哉を発掘。特に船迫は2024年に新人王を獲得しており、木佐貫は「選手(2003年)とスカウト(2024年)の双方で新人王獲得に関わる」という稀有な功績を達成した人物となった[5][34]。
プレースタイル
[編集]人物
[編集]この選手の人物像に関する文献や情報源が必要です。 (2011年12月) |
人柄・生真面目さ
[編集]非常に誠実かつ生真面目な性格で知られ、取材に対しても常に直立不動で応じる姿勢が有名である[39]。座右の銘は母からの教えである「実るほど頭を垂れる稲穂かな」[39]。
初対面のインタビュアーに対しても名刺を両手で丁寧に受け取り、私服姿であっても丁寧に名刺交換や自己紹介を行う[4][39]。現役引退を決意していながら立場上事前に明かせなかった取材に対して、後日「黙っていてすみませんでした」と直接謝罪した逸話がある[4]。
スカウト転身後も、2003年の10勝達成時に上原浩治から買ってもらったスーツと、引退時に亜細亜大学の後輩である野球部員から贈られた紫色のネクタイを大切に身につけている[12]。
金本知憲への危険球死球と謝罪
[編集]2008年5月7日の阪神戦で頭部死球を与えてしまった翌日、試合前の練習中に金本のもとへ自ら駆け寄って深々と頭を下げて謝罪した[16]。金本からは「前に俺の頭に当てたピッチャーはそこから調子を崩したと聞くが、お前はそうなるなよ。次にオレと対戦するときはまたインコースに投げてこい」と笑顔で温かく励まされ、その器の大きさに深い感銘を受けた[16]。
ファンサービス
[編集]巨人時代から移動中などで直接サインが書けない状況に備え、自腹で購入した自身のベースボールカードに直筆サインと通し番号(シリアルナンバー)を書き、100円ショップの小袋に封入したものを常時持参してファンや関係者に手渡すファンサービスを行っており[4][39]、2012年は年間で約4000枚を配ったという[40]。
鉄道ファン
[編集]プロ野球界随一の鉄道ファン[41]。本人曰く、鉄道ファンの分野としては、乗り鉄であり、球場への移動に電車を利用することもある[42]。なお、鉄道路線図を眺めるのも好きとのこと[42]。また、阪急電鉄の車両の座席の高級感や手ざわりを気に入っているとも言う[43]。
2011年3月に全線開通した九州新幹線の宣伝活動にも意欲を燃やしていた[44][45]。因みに、2004年の部分開通時には出身地・川内駅で一日駅長を務めた。
日本ハム時代には、2013年に北海道テレビ放送「FFFFF」にて札幌市電を貸し切ってのインタビュー収録を行い[46][47]、また同年の年末スペシャルでは翌年廃線予定だったJR北海道江差線でのロケ企画を行っており引退会見でも江差線ロケを現役時代の思い出の一つとして挙げた[48]。
大谷翔平との「同期入団」エピソード
[編集]2013年に日本ハムへ移籍した際、ドラフト1位ルーキーの大谷翔平と「同期入団」となった[25]。大谷から「ファミスタでお兄ちゃんが木佐貫さんを使ってました」と話しかけられたり、バイクを漕いでいる最中にフォークボールの握りについて質問されたりした[25]。
熊本での自主トレ土産に贈った「くまモン」のマスコットを大谷が移動用リュックにつけて愛用していた逸話がある[25]。引退後も野球教室等で「大谷翔平くんと同期でした」と話すことで子供たちの心を掴んでいる[25]。
趣味・その他のエピソード
[編集]趣味は地図を持ちながらの街歩き。外出先のオープンテラスからラジオに電話出演したことがある[49]。シーズン中に遠征する際には、趣味と実用を兼ねて、必ず遠征先の地図を自前で持参するという[50]。
高木康成との交換トレードが成立した際に、かねてから親交の深かった岡田彰布と原辰徳の間柄で成立した友情トレードであり、岡田を信頼した上でのトレードであったと言われた。また、清武英利は幹部候補生として修業に出す気持ちと語っており、将来的には巨人に復帰することも示唆していた[51]。
同じシーズンオフにオリックスへ移籍、後に木佐貫と同時に日本ハムへ移籍した赤田将吾とは同郷(鹿児島県出身)同学年で、中学校時代に対戦している(結果は、当時投手だった赤田の1安打完封勝ち)。
オリックスと日本ハムでの現役時代には、『亀山つとむのかめ友 Sports Man Day』(オリックスの地元局・毎日放送が当時ラジオで放送していたスポーツ情報番組)にゲストで随時出演。番組グッズとしてリスナーなどに提供していた鍵庄(兵庫県明石市)製の海苔製品シリーズには、木佐貫の似顔絵を、オリックス時代から代々の番組オリジナルラベルに添えていた。第2代グッズの明石海苔まではオリックス時代のラベルを貼り付けていたが、日本ハム移籍後の2013年5月にNPB全12球団から一軍公式戦で勝利を挙げたことを記念して、翌6月の提供分からラベルを日本ハムバージョンに新調。2014年5月のグッズリニューアルでは、オリックス時代にプライベートで実食したことがある同社製の「明石海苔ふりかけ」を新グッズ候補に推薦したところ、実際にグッズへ採用された。
詳細情報
[編集]年度別投手成績
[編集]| 年 度 | 球 団 | 登 板 | 先 発 | 完 投 | 完 封 | 無 四 球 | 勝 利 | 敗 戦 | セ 丨 ブ | ホ 丨 ル ド | 勝 率 | 打 者 | 投 球 回 | 被 安 打 | 被 本 塁 打 | 与 四 球 | 敬 遠 | 与 死 球 | 奪 三 振 | 暴 投 | ボ 丨 ク | 失 点 | 自 責 点 | 防 御 率 | W H I P |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 2003 | 巨人 | 25 | 25 | 7 | 2 | 3 | 10 | 7 | 0 | -- | .588 | 736 | 175.0 | 168 | 18 | 44 | 3 | 7 | 180 | 6 | 1 | 74 | 65 | 3.34 | 1.21 |
| 2004 | 31 | 21 | 2 | 0 | 0 | 7 | 8 | 5 | -- | .467 | 643 | 139.2 | 168 | 20 | 50 | 3 | 11 | 154 | 1 | 0 | 92 | 78 | 5.03 | 1.56 | |
| 2005 | 14 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 5 | 0 | .000 | 56 | 13.2 | 13 | 1 | 3 | 0 | 0 | 17 | 0 | 0 | 6 | 6 | 3.95 | 1.17 | |
| 2006 | 3 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 | 0 | .000 | 54 | 10.1 | 24 | 3 | 2 | 0 | 0 | 7 | 0 | 0 | 11 | 11 | 9.58 | 2.52 | |
| 2007 | 26 | 25 | 0 | 0 | 0 | 12 | 9 | 0 | 0 | .571 | 613 | 148.2 | 144 | 17 | 35 | 3 | 0 | 131 | 1 | 0 | 60 | 51 | 3.09 | 1.20 | |
| 2008 | 14 | 14 | 1 | 0 | 0 | 6 | 5 | 0 | 0 | .545 | 318 | 74.0 | 87 | 15 | 19 | 0 | 1 | 53 | 3 | 0 | 36 | 34 | 4.14 | 1.43 | |
| 2009 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | ---- | 12 | 2.2 | 4 | 2 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 3 | 3 | 10.13 | 1.50 | |
| 2010 | オリックス | 28 | 28 | 4 | 1 | 0 | 10 | 12 | 0 | 0 | .455 | 767 | 174.1 | 174 | 9 | 71 | 0 | 13 | 140 | 11 | 1 | 85 | 77 | 3.98 | 1.41 |
| 2011 | 19 | 12 | 0 | 0 | 0 | 2 | 7 | 0 | 0 | .222 | 322 | 72.1 | 86 | 5 | 22 | 1 | 2 | 60 | 4 | 0 | 42 | 37 | 4.60 | 1.49 | |
| 2012 | 24 | 21 | 5 | 1 | 1 | 5 | 9 | 0 | 0 | .357 | 628 | 152.1 | 138 | 8 | 42 | 1 | 3 | 96 | 5 | 0 | 47 | 44 | 2.60 | 1.18 | |
| 2013 | 日本ハム | 24 | 24 | 2 | 1 | 1 | 9 | 8 | 0 | 0 | .529 | 620 | 145.0 | 141 | 10 | 50 | 1 | 5 | 95 | 8 | 0 | 64 | 59 | 3.66 | 1.32 |
| 2014 | 5 | 5 | 0 | 0 | 0 | 1 | 3 | 0 | 0 | .250 | 115 | 26.0 | 29 | 1 | 7 | 0 | 0 | 21 | 1 | 0 | 12 | 9 | 3.12 | 1.38 | |
| 2015 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | .000 | 3 | 1.0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0.00 | 0.00 | |
| 通算:13年 | 215 | 179 | 21 | 5 | 5 | 62 | 72 | 10 | 0 | .463 | 4887 | 1135.0 | 1176 | 109 | 345 | 12 | 42 | 958 | 40 | 2 | 532 | 474 | 3.76 | 1.34 | |
- 各年度の太字はリーグ最高
表彰
[編集]記録
[編集]この選手の記録に関する文献や情報源が必要です。 (2013年6月) |
- 投手記録
- 初登板・初先発:2003年3月30日、対中日ドラゴンズ3回戦(東京ドーム)、2回5失点で敗戦投手
- 初奪三振:同上、1回表に福留孝介から空振り三振
- 初勝利・初先発勝利:2003年4月25日、対横浜ベイスターズ3回戦(横浜スタジアム)、7回3失点
- 初完投勝利:2003年5月10日、対中日ドラゴンズ8回戦(東京ドーム)、9回2失点
- 初完封勝利:2003年7月29日、対中日ドラゴンズ18回戦(東京ドーム)
- 初セーブ:2004年7月4日、対広島東洋カープ18回戦(広島市民球場)、7回裏に4番手で救援登板・完了、3回2失点
- 1000投球回数:2013年5月8日、対東北楽天ゴールデンイーグルス7回戦(札幌ドーム)、5回表2死目にケイシー・マギーを左飛で打ち取り達成 ※史上332人目
- 打撃記録
- 初安打:2003年4月25日、対横浜ベイスターズ3回戦(横浜スタジアム)、3回表にクリス・ホルトから右前安打
- 初打点:2004年7月8日、対横浜ベイスターズ16回戦(東京ドーム)、3回裏に吉川輝昭から右越適時二塁打
- その他の記録
背番号
[編集]- 21 (2003年 - 2006年)
- 41 (2007年 - 2009年)
- 12 (2010年 - 2012年)
- 29 (2013年 - 2015年)
- 78 (2019年 - 2020年)
脚注
[編集]- 1 2 3 4 5 6 7 『プロ野球カラー名鑑 2008』ベースボール・マガジン社、2008年、16頁。ISBN 978-4-583-61526-4。
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 “木佐貫洋”. 週刊ベースボールONLINE. 2026年9月29日閲覧。
- ↑ “「木佐貫くん、トレードです」巨人の新人王右腕がなぜ? 電撃移籍の舞台裏…オリックス→日本ハムでは大谷翔平と“同期”に「今は僕が助けられて…」(佐藤春佳)”. Number Web - ナンバー. 2026年9月29日閲覧。
- 1 2 3 4 5 6 “自称“人畜無害”木佐貫洋のいい人伝説 普通の感覚を忘れなかったプロ13年間”. スポーツナビ (2026年9月27日). 2026年9月29日閲覧。
- 1 2 3 4 “選手でも新人王、スカウトでも新人王“発掘”したスカウト 巨人・木佐貫洋氏が講演”. Full-Count(フルカウント) ― 野球ニュース・速報・コラム ― (2024年12月4日). 2026年9月29日閲覧。
- ↑ “元巨人・木佐貫洋のいま「路線図を眺める幸せ」野球界イチの“乗り鉄”右腕はスカウト転身「単線で視察に行ったことも」鉄道もフル活用して活躍中(佐藤春佳)”. Number Web - ナンバー. 2026年9月29日閲覧。
- ↑ 株式会社財界さっぽろ. “木佐貫洋選手 | 北海道日本ハムファイターズ | アスリートインタビュー | 財界さっぽろ”. 財界さっぽろ ONLINE. 2026年9月29日閲覧。
- ↑ 鹿児島県大会はこの年まで準々決勝と準決勝の間に休養日がなく、日程の関係上、杉内は準決勝と決勝の2連投だったが、木佐貫は準々決勝から3日連続登板。準決勝は雨によりナイターゲームとなった為、翌日の決勝に疲労を残していた。鹿児島実業は1日の休養が有った。これを受けて県大会の日程に問題有りとされ、後に日程が見直される発端となった。
- ↑ 週刊ベースボール増刊 大学野球2000秋季リーグ戦展望号 ベースボールマガジン社
- ↑ “第51回全日本大学野球選手権大会”. www.jubf.net. 2026年9月29日閲覧。
- ↑ 週刊ベースボール増刊 大学野球2003春季リーグ戦展望号 ベースボールマガジン社
- 1 2 3 4 “「大人って怖いなと(笑)」自由獲得枠で巨人入団の右腕も驚いた「右を見ても左を見ても大スター」清原、桑田…ジャイアンツ若手生活の“リアル”(佐藤春佳)”. Number Web - ナンバー. 2026年9月29日閲覧。
- ↑ “「大人って怖いなと(笑)」自由獲得枠で巨人入団の右腕も驚いた「右を見ても左を見ても大スター」清原、桑田…ジャイアンツ若手生活の“リアル”(佐藤春佳)”. Number Web - ナンバー. 2026年9月29日閲覧。
- ↑ “「大人って怖いなと(笑)」自由獲得枠で巨人入団の右腕も驚いた「右を見ても左を見ても大スター」清原、桑田…ジャイアンツ若手生活の“リアル”(佐藤春佳)”. Number Web - ナンバー. 2026年9月29日閲覧。
- ↑ “「ヘルメット破壊で場内騒然」フルイニング出場中の阪神・金本知憲に頭部死球…巨人・木佐貫洋に“鉄人”が放った仰天の一言「次にオレと対戦する時は…」(佐藤春佳)”. Number Web - ナンバー. 2026年9月29日閲覧。
- 1 2 3 4 “「ヘルメット破壊で場内騒然」フルイニング出場中の阪神・金本知憲に頭部死球…巨人・木佐貫洋に“鉄人”が放った仰天の一言「次にオレと対戦する時は…」(佐藤春佳)”. Number Web - ナンバー. 2026年9月29日閲覧。
- 1 2 3 4 5 “「ヘルメット破壊で場内騒然」フルイニング出場中の阪神・金本知憲に頭部死球…巨人・木佐貫洋に“鉄人”が放った仰天の一言「次にオレと対戦する時は…」(佐藤春佳)”. Number Web - ナンバー. 2026年9月29日閲覧。
- ↑ 「トレード成立のお知らせ|オリックス・バファローズ」『オリックス・バファローズ オフィシャルサイト』。オリジナルの2021年11月27日時点におけるアーカイブ。2026年9月29日閲覧。
- 1 2 3 “元巨人プロスカウトが明かす木佐貫洋のトレードの舞台裏 交換要員を伝えられた原監督は「高木? 誰?」”. 集英社 スポルティーバ 公式サイト web Sportiva (2023年12月7日). 2026年9月29日閲覧。
- 1 2 3 4 5 6 “「木佐貫くん、トレードです」巨人の新人王右腕がなぜ? 電撃移籍の舞台裏…オリックス→日本ハムでは大谷翔平と“同期”に「今は僕が助けられて…」(佐藤春佳)”. Number Web - ナンバー. 2026年9月29日閲覧。
- ↑ “木佐貫 鹿取氏とばったり 新横浜駅での立ち話が復調のきっかけ - スポニチ Sponichi Annex 野球”. スポニチ Sponichi Annex. 2026年9月29日閲覧。
- ↑ “オリックス逆襲のキーマン、木佐貫洋を変えた“一言”。~寺原がくれた、復調のきっかけ~”. NUMBER Web. 2012年8月17日. 2012年10月10日閲覧.
- ↑ “トレード(2012年度シーズン終了後 ~ )” (2013年1月25日). 2013年1月30日閲覧。
- 1 2 “「木佐貫くん、トレードです」巨人の新人王右腕がなぜ? 電撃移籍の舞台裏…オリックス→日本ハムでは大谷翔平と“同期”に「今は僕が助けられて…」(佐藤春佳)”. Number Web - ナンバー. 2026年9月29日閲覧。
- 1 2 3 4 5 6 7 “「木佐貫くん、トレードです」巨人の新人王右腕がなぜ? 電撃移籍の舞台裏…オリックス→日本ハムでは大谷翔平と“同期”に「今は僕が助けられて…」(佐藤春佳)”. Number Web - ナンバー. 2026年9月29日閲覧。
- ↑ 「【日本ハム】木佐貫、史上12人目の全12球団勝利」『スポーツ報知』。オリジナルの2013年5月20日時点におけるアーカイブ。2026年9月29日閲覧。
- ↑ “同じ年、同じ鹿児島の高校出身…木佐貫 杉内に16年越しリベンジ - スポニチ Sponichi Annex 野球”. スポニチ Sponichi Annex. 2026年9月29日閲覧。
- ↑ 「杉内に勝った!木佐貫“青春のリベンジ”」『東スポWeb - 東京スポーツ新聞社』。オリジナルの2013年6月14日時点におけるアーカイブ。2026年9月29日閲覧。
- ↑ “日本ハム木佐貫引退発表「お立ち台の景色忘れない」 - 野球 : 日刊スポーツ”. nikkansports.com. 2026年9月29日閲覧。
- ↑ “日本ハム木佐貫来季構想外、1軍登板なし引退も視野 - 野球 : 日刊スポーツ”. nikkansports.com. 2026年9月29日閲覧。
- ↑ “木佐貫投手が現役引退を表明 | 北海道日本ハムファイターズ”. 2016年3月4日時点のオリジナルよりアーカイブ. 2026年9月29日閲覧.
- ↑ “日本ハムが木佐貫、矢野、高浜を登録 - 公示 : 日刊スポーツ”. nikkansports.com. 2026年9月29日閲覧。
- ↑ 一般社団法人日本野球機構. “任意引退選手 | 2015年度公示”. NPB.jp 日本野球機構. 2026年9月29日閲覧。
- 1 2 “元巨人・木佐貫洋のいま「路線図を眺める幸せ」野球界イチの“乗り鉄”右腕はスカウト転身「単線で視察に行ったことも」鉄道もフル活用して活躍中(佐藤春佳)”. Number Web - ナンバー. 2026年9月29日閲覧。
- ↑ “【巨人】木佐貫、引退即スカウト転身!由伸監督支える”. スポーツ報知 (2015年12月12日). 2015年12月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年3月23日閲覧。
- ↑ “【巨人】木佐貫スカウト、ドラ3直江「育てます」”. スポーツ報知 (2018年11月3日). 2019年3月23日閲覧。
- ↑ “12球団編成&スカウト布陣一覧&2021補強ポイント【セ・リーグ編】”. 週刊ベースボール (2021年1月24日). 2021年8月11日閲覧。
- ↑ “将市:進化する新人”. 文化放送ホームランナイター. 2003年6月18日. 2015年12月23日閲覧.
- 1 2 3 4 株式会社財界さっぽろ. “木佐貫洋選手 | 北海道日本ハムファイターズ | アスリートインタビュー | 財界さっぽろ”. 財界さっぽろ ONLINE. 2026年9月29日閲覧。
- ↑ “移籍初白星 ハム木佐貫の深イイ話とは… - プロ野球ニュース”. nikkansports.com. 2026年9月29日閲覧。
- ↑ “15勝を目指す鉄道マニア”. 週刊ベースボールONLINE. 週刊ベースボール. 2014年12月12日閲覧。
- 1 2 “「乗り鉄」日本ハム木佐貫の新連載開始”. 日刊スポーツ. 2013年7月5日. 2014年12月12日閲覧.
- ↑ デイリースポーツ 2010年12月13日付記事「木佐貫、公認「九州新幹線宣伝マン」に」
- ↑ デイリースポーツ社. “木佐貫、九州新幹線“投げる宣伝マン”だ/野球/デイリースポーツonline”. www.daily.co.jp. 2026年9月29日閲覧。
- ↑ 株式会社スポーツニッポン新聞社マルチメディア事業本部. “Bs木佐貫「1日駅長でも」神戸-鹿児島が来年開通 ― スポニチ Sponichi Annex 大阪”. www.sponichi.co.jp. 2026年9月29日閲覧。
- ↑ “GAORA出演情報”. 北海道日本ハムファイターズ. 2026年9月29日閲覧。
- ↑ FFFFF これまでの放送 第305回7/13の放送 - 北海道テレビ放送(Archive.today)
- ↑ “鉄道マニアの日ハム木佐貫 野球人生を列車に例え「一本道で走ってきた」”. Full-Count(フルカウント) ― 野球ニュース・速報・コラム ― (2015年10月1日). 2026年9月29日閲覧。
- ↑ 8月2日放送 お電話のゲストに木佐貫洋投手にご出演頂きました!
- ↑ 前述『MBSたびぐみ』に出演した際の発言より
- ↑ 株式会社スポーツニッポン新聞社マルチメディア事業本部. “Bs木佐貫、誕生!球団待望の「右先発投手」獲得 ― スポニチ Sponichi Annex 大阪”. www.sponichi.co.jp. 2026年9月29日閲覧。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 個人年度別成績 木佐貫洋 - NPB.jp 日本野球機構
- 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)、The Baseball Cube