近藤昭仁

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近藤 昭仁
Akihito Kondo 1961.jpg
1961年
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 香川県高松市
生年月日 (1938-04-01) 1938年4月1日
没年月日 (2019-03-27) 2019年3月27日(80歳没)
身長
体重
168 cm
65 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 二塁手
プロ入り 1960年
初出場 1960年4月2日
最終出場 1973年10月24日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴

近藤 昭仁(こんどう あきひと、1938年4月1日 - 2019年3月27日)は、香川県高松市出身の元プロ野球選手内野手)・コーチ監督解説者評論家

妻は元女優北沢典子[1]。一男二女の子がおり、次女は女優の近藤典子。プロレスラーの中西学は次女の元夫で、長女が結婚した際にはタモリ夫妻が媒酌人を務めた[2]

経歴[編集]

プロ入りまで[編集]

近藤の登録上の誕生日は1938年4月1日であるが、実際は4月10日が誕生日である。10日の違いがあるのは父親が「1年得するから」という理由で誕生日を繰り上げて役所に届け出たためである[2]

近所の遊び友達に4歳年上の中西太がおり、中学卒業後は1953年に中西と同じ高松一高へ進学。3年次の1955年には春季四国大会に進むが、準決勝となった1回戦で鳴門高に敗れる。同年夏は北四国大会出場を賭けた県予選で準決勝に進出するが、坂出商に敗退し甲子園には届かなかった。

高校卒業後は1956年早稲田大学第二商学部へ進学し、同級生には後に首相となる森喜朗、同じく1年後輩に元Jリーグチェアマンで日本サッカー協会会長の川淵三郎がいる。在学中は東京六大学リーグで2度優勝を経験し、4年次の1959年春季では金沢宏(大昭和製紙)・安藤元博らの投手陣を擁して4連覇中の立大に競り勝ち、3年振りの優勝に貢献。同年の大学全日本選手権でも決勝で再試合の末に関学を降して優勝し、二塁手としてベストナインに2度選ばれている。リーグ通算75試合出場、285打数72安打0本塁打、23打点、打率.253。大学同期には木次文夫一塁手がいた。

現役時代[編集]

大学卒業後の1960年大洋ホエールズへ入団。背番号1[3]に決まったが、この1という背番号に非常にこだわりを持ち、大学・プロでも「背番号は絶対1番」だと頑として譲らなかった。

1月には元読売ジャイアンツ(巨人)の馬場正平が大洋の入団テストを受けた際、宿舎の風呂場で転倒し腕に裂傷を負ったが、この事故の第一発見者が新人の近藤であった[4]。馬場はこの事故が原因でプロ野球選手を引退するものの、プロレスラーに転身し「ジャイアント馬場」として活躍することとなった。

入団時には同郷・同学の先輩でもある三原脩監督[5]から「お前は期待できん。小さいからプロは諦めた方がいい」と言われたことを、後に大洋の先輩であった土井淳が証言しているが[6]、三原は小柄ながら非常に気が強い近藤の性格を逆に利用し、近藤を散々にけなし闘争心を煽りたてる事によって能力を引き出していった。近藤も新人ながら5月には二塁手に定着し、終盤戦には1番打者として奮闘して球団史上初のリーグ優勝に貢献。大毎との日本シリーズでは10月14日の第3戦(後楽園)で、5-5の同点であった9回表に中西勝己から勝ち越し本塁打、翌15日の第4戦(後楽園)では5回表に小野正一から先制適時打を放つ。チームは4連勝で初の日本一を飾り、シリーズ2勝の秋山登を抑えてMVPを受賞。その後も正二塁手として活躍し、小技を得意としたいぶし銀の活躍を見せた。

バントの名手として知られ、通算239犠打は球団記録として残る。1965年には自己最高の打率.285でリーグ7位にランクインしたほか、同年の41犠打は1942年猪子利男南海)がマークした33犠打を23年ぶりに塗り替え、1982年平野謙中日)が51犠打を達成するまで日本記録であった。1962年と1965年にはオールスターゲームに出場したが、1972年ジョン・シピンが入団すると出場機会が減り、三塁手外野手としても起用される。同年オフには自費で渡米し、メジャーリーグの視察を敢行。その時に同行したのは大洋→横浜の球団職員で外国人獲得のプロと言われた牛込惟浩であった[2]1973年にコーチ兼任となり、同年限りで現役を引退した。

現役引退後[編集]

引退後は大洋→横浜(1974年 - 1977年一軍守備コーチ, 1978年二軍守備・走塁コーチ, 1993年 - 1995年監督)、ヤクルトスワローズ1979年 - 1981年一軍守備・走塁コーチ)、西武ライオンズ1982年 - 1986年一軍守備・走塁コーチ)、巨人(1989年 - 1991年2006年ヘッドコーチ, 2007年統括ディレクター)、千葉ロッテマリーンズ1997年 - 1998年監督)で監督・コーチを歴任。ヤクルト・西武では早大の先輩でもある監督の広岡達朗に師事し[7]、西武では2連覇を含む4度のリーグ優勝と3度の日本一に貢献。ヤクルトコーチ時代は青木実ユマキャンプから低い姿勢でダッシュし、スライディングは最後の瞬間で足を思い切り伸ばす練習を取り組ませた[8]藤田元司監督の招聘で就任した巨人コーチ1期目には、グアムキャンプでの打撃練習の際に一、二塁間にロープを張って「ここから下にゴロを転がせ」と選手を指導[9]。リーグ2連覇と1989年の日本一に貢献し、1989年の日本シリーズでは第4戦まで無安打と大不振に陥っていた原辰徳を陰で激励。不振脱却のヒントを与えると、第5戦で原は勝負を決める満塁本塁打を放ち、ダイヤモンドを一周した際に三塁コーチの近藤に思わず抱きついた[10]。実況していた吉田填一郎(当時・日本テレビアナウンサー)は興奮して、「今、三塁ベースを回って、牧野ヘッドと抱き合い[11]」と実況してしまった。その縁で原は監督2期目に復帰した2006年、ヘッドコーチとして再び巨人に招聘。1年で退任した後は1年だけ統括ディレクターを務め、松本哲也の育成枠登録などを助言した。横浜・ロッテ監督はいずれも早大→大洋の後輩である江尻亮から引き継ぎ、横浜ベイスターズ(1993年 - 2011年)の初代監督でもあった[5]。指導者生活の合間を縫って、TBSテレビTBSラジオ解説者スポーツ報知評論家1987年 - 1988年, 1992年, 1996年, 1999年 - 2005年[12])を務めた。

晩年はパーキンソン病により療養生活を送り、2019年2月に誤嚥性肺炎を発症して入院し[5]、同年3月27日敗血症性ショックのため川崎市の病院にて80歳で死去[5][13]。戒名は「巧覺院英球昭光居士」(こうがくいんえいきゅうしょうこうこじ)[14]

監督時代の手腕[編集]

横浜監督時代 (1993 - 1995)[編集]

1992年オフ(10月14日)にかつての古巣・横浜大洋ホエールズ(1978年から本拠地を横浜スタジアムへ移転したため「大洋ホエールズ」から改称)の監督に就任したが[15]、大洋球団はその直後(11月11日)に球団名を「横浜ベイスターズ」へ改称したため[16]、近藤は「ベイスターズ」初代監督を務めることとなった。横浜監督1年目の1993年は、ダブルストッパーの1人の盛田幸希が自主トレ中にアキレス腱断裂の大怪我でいきなり戦力のつまづきがあったものの、最多勝の野村弘樹、打点王のロバート・ローズ、盗塁王の石井琢朗と3人のタイトルホルダーを輩出。夏前には一時2位まで上昇するも、後半戦に入るとグレン・ブラッグス佐々木主浩など主軸に故障者が続出し、優勝したヤクルトにも大きく負け越して5位に終わる。同年は石井・畠山をレギュラーに抜擢し、オフにはFAとなった駒田徳広の獲得を進め、生え抜きでベテランの高木豊屋鋪要山崎賢一市川和正大門和彦松本豊を大量解雇。

監督2年目の1994年はダブルストッパーの佐々木がキャンプ中に故障し、肘を手術するトラブルで2年続けていきなりつまづく。更に先発投手陣が総崩れとなり、2桁勝利を挙げた投手は皆無であった。石井琢朗鈴木尚典ら後のマシンガン打線の中心となる若手野手を積極的に起用していったが[5]10月9日の最終戦で同率5位に並ぶヤクルトに敗れて最下位に沈む。同年の横浜は総得点が総失点を上回ったにも拘らず最下位に沈んだ日本プロ野球 (NPB) 史上初のチームで、かつ勝利数も最下位チームとしてはNPB史上最多となる61勝(1998年のロッテと同数)を記録しており[17]、優勝した巨人とは9ゲーム差しか離れていなかった。

監督3年目の1995年は盛田・佐々木のダブルストッパーが2人揃って大活躍し、打線もブラックス・畠山準が不調であったものの波留・鈴木の台頭等があり穴を埋めたが、先発陣が不調。チームとして16年ぶりのシーズン勝ち越しと12年ぶりの勝率5割越えを記録したが、任期満了を理由に球団から契約延長はされなかった。近藤は退任後、横浜監督時代について「谷繁・石井・鈴木・斎藤ら若手選手たちを育成して3年目にようやく66勝したが、それでも4位だった。Aクラス入りできていれば留任できたかもしれないが、契約切れで大矢明彦に交代した」と述べている[18]

横浜在任中は投手では斎藤隆有働克也三浦大輔島田直也五十嵐英樹など若手の台頭はあったものの、盛田・佐々木といったリーグ屈指のリリーフ投手が後ろに控えていた為か、小刻みな継投を好む傾向があり、好機であれば責任投球回数未満であっても先発投手の打順に代打を送ることが多かった。そのことから、好調であった1993年の野村・1994年の斎藤を除いて先発投手を完投させることは少なかった。更にこの作戦でリリーフに勝ちが転がりやすくなり、主に2番手投手として投げた島田は1994年に9勝、1995年に10勝といずれもチーム最多勝を挙げたが、リリーフ投手で同じ選手が2年連続チーム最多勝という珍事が起きた[注 1]

作戦面では、自らの現役時代の得意技であったバントやエンドラン、スクイズを多用する「緻密な野球」を標榜したが、特にスクイズは相手バッテリーに見破られることも多かった。捕手に対しても代打を起用することが多く、ベンチ入りの捕手を使いきった状況で代打を送ってしまったこともある[19]。また、巨人戦によく野村や斎藤などの主戦級投手をぶつけたため、この時期は巨人に対して互角もしくはそれ以上の成績を残した一方、1993年は優勝のヤクルトに4勝22敗、1994年は4位の阪神に7勝19敗と特定の球団に大きく負け越して順位を大きく下げる要因となった。

横浜監督時代、開幕投手は「相手がエース級だから勝てる確率が低い」とみて、先発ローテーションの3番手・4番手投手を開幕投手にする傾向があった[注 2]。1993年・1994年は2年連続で有働が投げ、1995年は前年絶不調の野村が投げた。特に1994年の有働は、先発で唯一勝ち越して規定投球回数もクリアした。

ロッテ監督時代 (1997 - 1998)[編集]

1996年オフに藤田元司の推薦でロッテ監督に就任[20]。しかし当時のロッテは前年(1996年)の低迷に加え、小宮山悟に並ぶエース格であった伊良部秀輝エリック・ヒルマンが退団しており、戦力的にはかなり厳しい状態であった。その中で小坂誠福浦和也といった新戦力を見出だして台頭させたが、1年目(1997年)はチームの防御率3点台に対して打線が振るわず最下位に終わる。同年8月24日近鉄戦(大阪ドーム)で延長12回10点差からの逆転サヨナラ負け[注 3]を喫した。

勝っていれば最下位脱出できるところであったが、2年目(1998年)は6月13日のオリックス・ブルーウェーブ戦で逆転負けを喫したことをきっかけに[13]、7月8日まで1引き分けを挟んで[5]NPB史上最長記録となる一軍公式戦18連敗を記録[21]。16連敗中に迎えた7月7日のオリックス戦では先発したエース・黒木知宏が力投し、連敗ストップまであと1アウトまで迫ったところで同点本塁打を被弾し、3番手投手・近藤芳久サヨナラ満塁本塁打を被弾したため、NPB新記録となる17連敗を記録した(「七夕の悲劇」)[13]。同年もパ・リーグ最下位に沈んだが、同年のチーム得点数は581と失点数(563点)を上回っており、得失点差プラスの最下位チームはNPBでは同じく近藤が指揮した1994年の横浜以来2度目で、パ・リーグでは初だった[17]。また勝利数も最下位チームとしては1994年の横浜と並んで最多となる61勝で、チーム打率はパ・リーグ1位の.271を記録したが、チーム打率リーグ1位で最下位に沈んだチームはセ・パ両リーグを通じて3球団目[注 4]だった[17]。一方、セ・パ両リーグで最下位を経験した監督は当時、NPB史上4人目[注 5]だった[22]

1998年10月1日に2年連続最下位が決定したことを受け、契約期間を1年残して球団に引責辞任を申し入れ、ロッテ球団の重光武雄オーナーも7日に辞任を了承したため、翌日(10月8日)に監督退任が発表された[23]。なお、皮肉にも3年前まで近藤が率いていた横浜は同日、権藤博監督の下で38年ぶり(近藤が現役選手として在籍していた1960年・大洋ホエールズ時代以来)・2度目となるセ・リーグ優勝を決めており[24][25]、近藤は「38年前のV戦士」として秋山登土井淳とともに祝辞を述べていた[26]

1998年10月12日の最終戦(対西武戦)後、退団会見で「監督は孤独な職業だが、何度もやりたい職業。次は弱いチームじゃなくて、強いチームで(監督をやりたい)」と発言した[17]。この「もっと強いチームで監督をやりたかった」という発言はロッテファンから批判を浴びたが[27]、近藤自身は退任後に『日経ビジネス』(日経BP)の取材に対し、ロッテ監督時代の2年間を回顧して「完成していないチームを勝てるチームに育てるためには5年ほど時間が掛かる。1年目は伊良部・ヒルマンが抜けていたために1から若手を育成する必要があり、2年目の今年になってやっと選手の基礎的な技術が向上したが、チームプレーなどの状況判断が未熟だったことで最下位に低迷した。そのような戦術眼がついてきた後半戦には成績が良くなっていったが、2年連続で最下位に沈んだ以上は『来年も続ける』とは言えなかった。横浜は自身の退任後、大矢が昨年(1997年)に2位までチームを上昇させ、今年になって権藤の下で優勝した。そのような意味では本当に権藤が羨ましい」と述べている[18]。また18連敗中も温かく声援を送り続けたロッテファンには感謝し、応援団長と会食している[28]。また、鷲田康は近藤の発言の真意について「近藤の人一倍強い勝負に対する厳しさ・負けん気の表れだろう。監督時代の近藤にとって不運だったのは、巨人コーチ時代に藤田元司監督を支えた近藤自身のような名参謀がいなかったことだ」と述べている[29]

ロッテ在任中はダブルストッパーであった成本年秀河本育之が故障で離脱するなどリリーフが揃わず、指名打者制であったこともあってか、先発投手を早々と交代させることが多かった横浜監督時とは違い、先発投手陣を軒並み引っ張る傾向が強かった。特に伊良部とヒルマンが抜け、1997年以降、小宮山と共にチームのエースとなった黒木は1997年にはリーグ最多となる240.2イニング[注 6]、1998年も197イニング投げるなど明らかな負担を強いた。小宮山も1998年はリーグ最多となる201イニングを投げた。18連敗中は成本、河本不在のため終盤に逆転される試合が多く、急遽黒木を抑えに配置転換せざるを得なかったが、その黒木が打ち込まれる悪循環であったと後年振り返っている[30]2001年の黒木の故障はこの頃の酷使が原因である意見も存在し、2004年に9年ぶりに監督に復帰したボビー・バレンタインは、当時長期離脱中であった黒木について「自分がいたらこんな無用な怪我はさせていない」と語っている。これはバレンタイン解任後の1997年以降、黒木が敗戦試合にも意味なく長いイニングを投げたことを意味すると思われる。一方で黒木本人は近藤の訃報を聞いて「苦しい状況でも我慢することを教えていただき、野球人黒木知宏を育てていただいた近藤監督のことは、一生忘れることはありません」と感謝を述べている[31]

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1960 大洋 117 425 389 38 88 17 5 4 127 40 17 7 10 1 25 2 0 82 6 .226 .272 .326 .598
1961 125 484 436 44 98 12 3 6 134 19 15 14 11 0 36 2 1 96 5 .225 .285 .307 .592
1962 131 509 462 45 111 21 7 4 158 27 11 5 15 0 29 1 3 79 5 .240 .289 .342 .631
1963 115 267 226 20 36 4 2 1 47 12 8 2 16 2 22 1 1 32 9 .159 .235 .208 .443
1964 134 401 353 41 94 9 2 4 119 28 20 4 32 1 15 0 0 23 8 .266 .295 .337 .632
1965 135 531 466 47 133 22 1 7 178 40 25 7 41 1 19 0 4 35 9 .285 .318 .382 .700
1966 127 416 381 38 96 20 4 6 142 27 16 7 17 3 14 0 1 38 9 .252 .278 .373 .651
1967 128 438 398 38 99 19 1 7 141 27 8 9 20 1 19 1 0 52 8 .249 .282 .354 .636
1968 117 412 376 35 97 15 4 6 138 32 8 5 8 2 25 0 1 35 9 .258 .304 .367 .671
1969 130 489 432 51 109 15 4 7 153 32 9 11 13 4 40 1 0 55 5 .252 .313 .354 .667
1970 124 404 360 25 93 16 2 4 125 36 2 7 21 2 21 2 0 48 5 .258 .298 .347 .645
1971 123 421 363 28 79 6 1 7 108 22 6 8 20 3 33 2 2 46 10 .218 .284 .298 .582
1972 81 211 175 19 41 4 0 2 51 16 2 1 9 1 26 0 0 24 4 .234 .332 .291 .623
1973 32 54 45 4 9 0 0 0 9 2 1 0 6 0 3 0 0 4 1 .200 .250 .200 .450
通算:14年 1619 5462 4862 473 1183 180 36 65 1630 360 148 87 239 21 327 12 13 649 93 .243 .292 .335 .627
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別監督成績[編集]




























1993 横浜 5位 130 57 73 0 .438 23 87 .249 3.83 55歳
1994 6位 130 61 69 0 .469 9 107 .261 3.76 56歳
1995 4位 130 66 64 0 .508 16 114 .261 4.37 57歳
1997 ロッテ 6位 135 57 76 2 .429 19.5 75 .249 3.84 59歳
1998 6位 135 61 71 3 .462 9.5 102 .271 3.70 60歳
通算:5年 660 302 353 5 .461 Bクラス5回
※1 1993年から1996年までは130試合制
※2 1997年から2000年までは135試合制

表彰[編集]

記録[編集]

初記録
節目の記録
  • 1000試合出場:1967年10月5日、対中日ドラゴンズ24回戦(中日スタヂアム)、1番・二塁手で先発出場 ※史上128人目
  • 1000安打:1970年6月30日、対阪神タイガース11回戦(川崎球場)、4回裏に上田二郎から中前安打 ※史上73人目
  • 1500試合出場:1971年9月22日、対読売ジャイアンツ25回戦(川崎球場)、6番・二塁手で先発出場 ※史上41人目
その他の記録

背番号[編集]

  • 1 (1960年 - 1974年)
  • 72 (1975年 - 1978年、1989年 - 1991年)
  • 75 (1979年 - 1981年)
  • 83 (1982年 - 1986年)
  • 60 (1993年 - 1995年)
  • 81 (1997年 - 1998年)
  • 80 (2006年)

関連情報[編集]

出演番組[編集]

脚注[編集]

[脚注の使い方]

注釈[編集]

  1. ^ 1994年の先発最多勝は斎藤隆の9勝12敗、1995年の先発最多は斎藤隆が8勝9敗、三浦が8勝8敗。
  2. ^ ロッテ時代の2年間は共に開幕戦にエース格の小宮山悟が投げている。
  3. ^ 2リーグ制導入後(1950年以降)では通算3回目。
  4. ^ 1963年広島東洋カープ1976年太平洋クラブライオンズ以来[17]
  5. ^ 飯田徳治別当薫根本陸夫に次ぐ。
  6. ^ この年以降、2001年の松坂大輔が240.1イニングを投げたものの、現在に至るまでこの年の黒木の投球イニングを超えた投手はNPBでは現れていない。

出典[編集]

  1. ^ [1]
  2. ^ a b c “【評伝】近藤昭仁さん「最後は原のヘッドコーチで終わりたいな」現役時代にメジャー視察、先見性の人”. スポーツ報知. 報知新聞社. (2019年3月28日). https://hochi.news/articles/20190328-OHT1T50001.html 2019年3月28日閲覧。 
  3. ^ 近藤の背番号1は後に山下大輔谷繁元信進藤達哉波留敏夫金城龍彦に引き継がれている。
  4. ^ 加藤弘士 (2019年3月28日). “風呂場で転倒した馬場の第一発見者…近藤昭仁さんはプロレス界の「歴史の証人」でもあった”. スポーツ報知. https://hochi.news/articles/20190327-OHT1T50294.html 2019年3月28日閲覧。 
  5. ^ a b c d e f 横浜、ロッテ元監督の近藤昭仁氏が死去 80歳」『日刊スポーツ』日刊スポーツ新聞社、2019年3月28日。2020年8月13日閲覧。オリジナルの2020年8月13日時点におけるアーカイブ。
  6. ^ “黒木知宏氏 恩師の訃報に「育てていただいた」”. Sponichi ANNEX. スポーツニッポン新聞社. (2019年3月28日). https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2019/03/28/kiji/20190327s00001173596000c.html 2019年3月28日閲覧。 
  7. ^ スポーツニッポン連載『我が道 近藤昭仁』第18回 - 第20回(2011年12月19 - 21日)
  8. ^ 【10月5日】1981年(昭56) 代走・青木実 ライバルの前で盗塁王ほぼ確定
  9. ^ 新米記者の私を指導してくれた近藤昭仁さん
  10. ^ 近藤昭仁さん 亡くなる直前まで原監督が復帰した巨人を気に懸けていた
  11. ^ 監督は2期目の藤田、近藤の背番号は「72」と、牧野がヘッドコーチを務めていた当時の状況と被るところが多かったが故の混同とみられる。
  12. ^ 『TBS50年史』資料編P234に掲載されたプロ野球解説者のリストより、1987年~1988年、1992年、1996年、1999年~2001年現在まで、TBSテレビ・TBSラジオのプロ野球解説者を務めていたことが明記されている。
  13. ^ a b c 近藤昭仁氏死去 大洋の内野手として活躍 ロッテ監督時に「七夕の悲劇」」『Sponichi Aneex』スポーツニッポン新聞社、2019年3月27日。2020年8月13日閲覧。オリジナルの2020年8月13日時点におけるアーカイブ。
  14. ^ 中西太氏、天国の近藤昭仁さんへ「見守って」葬儀・告別式に200人参列」『スポーツ報知報知新聞社、2019年4月2日。2020年8月13日閲覧。オリジナルの2020年8月13日時点におけるアーカイブ。
  15. ^ 読売新聞』1992年10月15日東京朝刊21頁「"古巣"強化へ全力 近鉄・鈴木、大洋・近藤監督が就任」(読売新聞東京本社
  16. ^ 『読売新聞』1992年11月12日東京朝刊19頁「『横浜ベイスターズ』誕生」(読売新聞東京本社)
  17. ^ a b c d e 日刊スポーツ』1998年10月13日付紙面3頁「西武-ロッテ(27)近藤監督 ラスト采配を白星で飾り「監督再就職」に意欲」(日刊スポーツ新聞社)
  18. ^ a b 敗軍の将、兵を語る 人物~近藤 昭仁氏[千葉ロッテマリーンズ前監督]」『日経ビジネス』第965号、日経BP、1998年11月9日、 143-146頁。
  19. ^ このとき代打に送られた宮里太が捕手経験者であったためそのまま守備についている。
  20. ^ 【あの時】98年ロッテあぁ18連敗〈4〉「倒れるまで、やらせて下さい」…近藤昭仁さん追悼」『スポーツ報知報知新聞社、2019年3月27日。2020年8月10日閲覧。オリジナルの2020年8月10日時点におけるアーカイブ。
  21. ^ 【あの時】98年ロッテあぁ18連敗 〈1〉「みんな負けるところを見に来ている」…近藤昭仁さん追悼」『スポーツ報知報知新聞社、2019年3月27日。2020年8月10日閲覧。オリジナルの2020年8月10日時点におけるアーカイブ。
  22. ^ 「創刊60年の騒然男女」スポーツ界「波乱のウラ舞台」<野球篇/悔恨インタビュー・近藤昭仁>元ロッテ監督が回顧する「18連敗の真実」」『週刊アサヒ芸能』、徳間書店、2016年10月16日、2020年8月10日閲覧。
  23. ^ 朝日新聞』1998年10月9日東京朝刊第14版第二運動面24頁「近藤監督が今季で辞任 ロッテ、契約1年残し」(朝日新聞東京本社
  24. ^ 中日新聞』1998年10月9日朝刊第12版一面1頁「セ・リーグ 横浜38年ぶりV」(中日新聞社
  25. ^ 『朝日新聞』1998年10月9日東京朝刊第14版第一総合面1頁「セ・リーグ 横浜優勝 38年ぶり」(朝日新聞東京本社)
  26. ^ 『中日新聞』1998年10月9日朝刊第12版第一スポーツ面33頁「38年前のV戦士の話」(中日新聞社)
  27. ^ 立ち込める暗黒感…ダメダメだった「平成ワースト監督」は?<パ・リーグ編>」『AERA dot.朝日新聞出版、2019年4月27日、3面。2020年8月10日閲覧。オリジナルの2020年8月10日時点におけるアーカイブ。
  28. ^ 【あの時】98年ロッテあぁ18連敗〈5〉泥沼から生まれたファンとの絆…近藤昭仁さん追悼」『スポーツ報知』報知新聞社、2019年3月27日。2020年8月10日閲覧。オリジナルの2020年8月10日時点におけるアーカイブ。
  29. ^ 鷲田康「【悼む 鷲田康氏】近藤昭仁さん、ロッテ監督退任会見で「もっと強いチームでやりたい」は負けん気の表れ」『SANSPO.COM産業経済新聞社、2019年3月28日。2020年8月10日閲覧。オリジナルの2020年8月10日時点におけるアーカイブ。
  30. ^ 18連敗ロッテ監督の言葉をきけ!巨人軍、戦犯さがしはまだ早い
  31. ^ “黒木知宏氏 恩師の訃報に「育てていただいた」”. Sponichi ANNEX. スポーツニッポン新聞社. (2019年3月28日). https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2019/03/28/kiji/20190327s00001173596000c.html 2019年3月28日閲覧。 

参考資料[編集]

関連項目[編集]

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