馬原孝浩

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馬原 孝浩
Takahiro Mahara 2010.jpg
ソフトバンク時代
(2010年9月20日、福岡Yahoo!JAPANドーム)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 熊本県熊本市中央区
生年月日 (1981-12-08) 1981年12月8日(36歳)
身長
体重
181 cm
80 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 2003年 自由獲得枠
初出場 2004年3月30日
最終出場 2015年5月1日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
国際大会
代表チーム 日本の旗 日本
WBC 2006年2009年
獲得メダル
日本の旗 日本
ワールド・ベースボール・クラシック
2006 野球
2009 野球

馬原 孝浩(まはら たかひろ、1981年12月8日 - )は、熊本県熊本市出身の元プロ野球選手投手)。

経歴[編集]

プロ入り前[編集]

小学校時代には、熊本市の選抜チームのエースとして同市の姉妹都市であるサンアントニオ市(アメリカ合衆国テキサス州)の選抜チームと試合をした経験がある。熊本市水前寺野球場で行われた県大会の決勝戦にて、当時男子に交じって少年野球をやっていた元プロゴルファーの古閑美保にライトオーバーの本塁打を打たれたことがあり、馬原自身も当時のことを鮮明に覚えていると『ジャンクSPORTS』などで語っている。

九州共立大学では1学年年上の新垣渚と共にエースとして活躍。福岡六大学リーグ通算46試合登板、30勝4敗、防御率1.10。最優秀選手2回、最優秀投手1回、ベストナイン4回受賞する。日米大学野球選手権大会2002年2003年)、世界大学野球選手権大会(第1回:2002年イタリアで開催、日本は銅メダル獲得)の代表にも選ばれ、2003年のドラフト自由獲得枠で福岡ダイエーホークスに入団。プロ入り前に、大学は、中退をするつもりであるという趣旨の発言をスポーツ記者にしている。

ダイエー・ソフトバンク時代[編集]

1年目の2004年は新人王有力候補と期待され開幕一軍入りし、開幕4戦目の西武戦で初先発初勝利を挙げたが、その後は体調を崩しわずか3勝。フレッシュオールスターゲームでは敗戦投手になった。

2005年には開幕3戦目で初完投勝利を挙げたが、その後3連敗して二軍落ちした。しかし交流戦からリリーフとして一軍に復帰すると、三瀬幸司の不調により抑えに定着した。42試合に登板してリーグ2位タイの22セーブを記録し、王貞治監督に翌年のクローザーに指名された。

2006年石井弘寿の故障のため、2次リーグから2006 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表に選出されたが、代表に選出された選手では久保田智之とともに出場機会がなかった。シーズンでは初めて年間通して抑えを務め、51試合で防御率1.65で29セーブの数字を残した。8月23日のオリックス戦では自己最速の156km/hを計測。被本塁打は9月2日の楽天戦でホセ・フェルナンデスに打たれた1本のみだった。シーズンオフには日米野球の抑え投手部門にファン投票1位で選出され、第2戦、第5戦に登板し計3イニングを無失点。第5戦では4試合で4本塁打していたライアン・ハワードに全球ストレートで勝負し、空振り三振に仕留めた。

2007年は前半から好調で、オールスター以前の自責点は2で防御率0点台の快投を見せた。オールスターゲームでは前年に続き敗戦投手となった。後半疲れからか3敗を喫したが、2年連続の防御率1点台に球団記録となるシーズン38セーブを記録し、初の最多セーブ投手のタイトルを獲得。またその活躍により「2007 ヤナセ・福岡ソフトバンクホークス MVP賞」を受賞。メルセデスベンツA200 TURBO AVANTGARDEが贈られた。ほっともっとフィールド神戸が苦手であるとされ、2007年は5度の登板で3度セーブに失敗。またシーズン14失点のうち7点を同球場で失っている。2007年に元テレビ西日本のアナウンサーであった畑野優理子と結婚(入籍12月3日、挙式12月16日)。両者の間には2009年12月28日に女児、2012年5月9日に男児が誕生している。

2008年は開幕直前に右肩炎症を発症し長期離脱。7月25日に一軍登録され、翌26日の対ロッテ戦でシーズン初セーブを挙げた。しかし、9月7日ロッテ戦では4点リードの9回に登板するも満塁のピンチを招くと橋本将に同点満塁本塁打を打たれてしまい、1死を取っただけで降板し、チームも延長12回に勝ち越され敗れてしまった。チームは9月に調子を落としていった。10月6日の楽天戦で日本人選手では最速となる178試合目での通算100セーブを達成したが、翌日7日の楽天戦は最終戦で監督を勇退する王貞治が指揮を執る最後の試合でもあったが両チームの投手陣が1点も与えず、0-0のまま延長12回入った。馬原は延長11回途中から登板するも12回に山崎武司にサヨナラ適時打を打たれてしまい、チームの最下位が決定してしまった上、王監督最後の試合を勝利で飾れず、王政権最後の敗戦投手となってしまった。最終的に21試合で2敗11セーブ、防御率2.79の成績しか残せず、チームにとっても自身にとっても不本意なシーズンとなってしまった。

2009年第2回WBC日本代表に選出され5試合に登板した。5月25日の対ヤクルト戦でシーズン中での自己最速となる157km/hを計測し、7月21日の対楽天戦では球団新記録となる通算118セーブを達成。リーグ2位となる29セーブを記録した。

2010年7月28日の楽天戦において登板267試合目で日本人最速で通算150セーブを達成した[1]。シーズンでは前年と同数の53に登板し、リーグ2位の32セーブ、防御率1.63、被本塁打は1本に抑えた。

2011年はキャンプの時期から病気の母親の看病と並行していたが、母親は癌性髄膜炎の為開幕直前の4月10日に他界した。このため開幕戦に帯同しなかった[2]。帯同後は抑えとして登板するも、4月23日までにセーブ失敗を2度記録するなど登板した全試合で失点を喫した。結局、5試合で1勝1敗(1勝はセーブがつく場面で登板して追いつかれ、その裏にサヨナラ勝ちしたためについたもの)、防御率13.50と不振を極め、1セーブも挙げられないまま4月24日に二軍降格となった。二軍での再調整を経て5月23日に一軍登録されると、25日の対巨人戦で1点リードの最終回に登板し、3者凡退で抑えシーズン初セーブを記録した。しかし7月18日の登板後に右肩の違和感を訴えて、翌日に右肩関節の大円筋付着部の筋挫傷と判明して登録抹消。出場予定だったオールスター戦も辞退した。9月11日に1軍復帰した。クライマックスシリーズ日本シリーズでも抑えの役割として登板するも、日本シリーズ1・2戦共に延長戦で決勝打を打たれて2試合連続で敗戦投手となった。その後第5戦と第6戦の登板では無失点に抑えたが、第7戦はセーブ機会で9回を迎えたが、登板することはなかった。しかし、チームは8年ぶりに日本一に輝いた。

2012年2月28日に右肩を手術し、復帰予定は6ヶ月後となる見込み[3]とされたが、結局この年は1度もブルペンにも立つ事ができず、一・二軍共に登板なしに終わった。2013年1月12日、寺原隼人FA移籍に伴う人的補償で、オリックスに移籍する事がソフトバンク、オリックス両球団から発表された[4][5]。球団フロントは馬原が右肩の故障明けで年俸が1億3500万と高額だったことや、同年FA権を取得することもあり、28人のプロテクト枠から除外していた。ホークスで監督代理を務めたこともある新任の森脇浩司監督は迷わず馬原を選択。寺原のホークス復帰を最も喜んでいた[6]ため皮肉な結果となったが、寺原には「全然気にしなくていい」と伝えた。

オリックス時代[編集]

2013年クローザー候補として期待されながら、3月5日にヤクルトとのオープン戦で右腕の脱力感を訴えて降板。神戸市内の病院で精密検査を受けた結果、右鎖骨下の「腕神経叢の炎症」と診断されたため、シーズンの大半を患部の治療に費やした。シーズンの終盤には一軍へ復帰。9月28日の日本ハム戦で自身711日振りの一軍戦登板を果たすと、1イニングを無失点に抑えた。だが、長期離脱が響き一軍では3試合の登板に留まった。

2014年はシーズンを通じてセットアッパーに起用された。自身のキャリアでは初めてのポジションながら、8回を担う佐藤達也へ繋ぐ役目を任されたため、公式戦では7回に登板することが多かった。その結果、一軍では自己最多の55試合に登板。33ホールドポイントを記録するなど、救援陣の屋台骨を支えるとともに、チームのシーズン2位とクライマックスシリーズへの進出に貢献した。

2015年も前年に続いて開幕からセットアッパーで起用された。しかし、一軍の救援陣を担う投手(佐藤やクローザーの平野佳寿など)が相次いで戦列を離れた4月上旬からは、移籍後初めてクローザーを任された[7]。4月20日の対西武戦(ほっともっとフィールド神戸)では自身4年振りのセーブ[8]、翌21日の対千葉ロッテ戦(QVCマリンフィールド)ではこの年唯一の勝利を記録[9]。その一方で、登板した9試合の通算防御率が7.56に達したり、複数の試合で救援に失敗したりするなど投球内容に精彩を欠いた。5月2日に出場選手登録を抹消された[10]後は、ウエスタン・リーグ公式戦での登板中に左膝を痛めたことから、一軍への復帰を果たせなかった。さらに9月には、翌年の契約に関して、日本プロフェッショナル野球協約(野球協約)上の減額制限を超える大幅な減俸を球団から提示。馬原がこの提示に同意しないまま、アメリカ球界への挑戦を視野に球団側へ自由契約を申し入れた[11]ため、球団では10月1日に馬原の退団を発表した[12]。12月2日付で、日本野球機構(NPB)から自由契約選手として公示[13]。しかし、「自分にとってのベストパフォーマンスができなくなった」という理由で、同月14日に現役引退を表明した[14]

現役引退後[編集]

福岡での生活を再開するとともに、「体のケアについてもう一度、一から勉強したい」との希望から、球団スタッフや野球解説者としてのオファーを辞退し[15]柔道整復師鍼灸師を目指して北九州の小倉にある九州医療スポーツ専門学校へ入学した[16][17]

2016年、古巣である福岡ソフトバンクホークスの福岡ソフトバンクホークスJr.チームの監督に就任した[18]2017年は学業との両立が難しくホークスJr.チームの監督を新垣渚に譲る[19]

選手としての特徴[編集]

スリークォーターから最速157km/h[20]で2010年には両リーグの日本人投手トップの平均球速150.2km/hをマークした速球[21]、落差の大きなフォーク(スプリットと言われることもある[22])、カットボールを武器とする。変化球は他にもカーブや2種類のスライダーも投球割合の数パーセントを占める。先発時代にはチェンジアップも用いていた。

人物[編集]

趣味は釣り、買い物。またキャンプでは本を数冊持参するなど読書家でもある。

国立療養所菊池恵楓園国立ハンセン病療養所熊本県合志市)を入団以来毎年訪問し、交流を続けている。入団壮行会の激励金の一部を同園に寄付し、園内グラウンドでトレーニングをした。

ダイエー・ソフトバンク時代のチームメイトで数少ない同学年の川﨑宗則とは、「まーくん」「ムネ」と呼ぶ間柄で、独身時代は寮の部屋を行き来したり、運転の得意でない川崎の代わりに車庫入れを手伝わされていた[23]

詳細情報[編集]

年度別投手成績[編集]





















































W
H
I
P
2004 ダイエー
ソフトバンク
11 8 0 0 0 3 3 0 -- .500 238 50.0 66 7 22 0 4 37 2 0 36 35 6.30 1.76
2005 42 6 1 0 0 6 6 22 2 .500 332 76.0 70 4 33 3 4 68 3 0 31 26 3.08 1.36
2006 51 0 0 0 0 0 4 29 1 .000 223 54.2 47 1 14 8 0 62 3 1 13 10 1.65 1.12
2007 54 0 0 0 0 2 4 38 1 .333 271 67.1 50 4 18 5 2 68 3 0 14 11 1.47 1.01
2008 21 0 0 0 0 0 2 11 2 .000 80 19.1 14 1 6 0 0 23 3 0 6 6 2.79 1.03
2009 53 0 0 0 0 4 3 29 4 .571 253 58.1 58 5 19 0 2 67 5 0 21 14 2.16 1.32
2010 53 0 0 0 0 5 2 32 2 .714 246 60.2 54 1 12 0 1 49 3 0 12 11 1.63 1.09
2011 33 0 0 0 0 1 2 19 2 .333 133 32.1 29 2 8 1 0 33 1 0 11 11 3.06 1.15
2013 オリックス 3 0 0 0 0 0 0 0 1 ---- 10 3.0 0 0 1 0 0 4 0 0 0 0 0.00 0.33
2014 55 0 0 0 0 1 4 0 32 .200 212 50.2 45 2 20 0 2 42 0 0 21 20 3.55 1.28
2015 9 0 0 0 0 1 1 2 0 .500 43 8.1 14 3 4 0 0 2 0 0 7 7 7.56 2.16
通算:11年 385 14 1 0 0 23 31 182 47 .426 2041 480.2 447 30 157 17 15 455 23 1 172 151 2.83 1.26
  • 各年度の太字はリーグ最高
  • ダイエー(福岡ダイエーホークス)は、2005年にソフトバンク(福岡ソフトバンクホークス)に球団名を変更

タイトル[編集]

表彰[編集]

記録[編集]

投手記録
打撃記録
その他記録

背番号[編集]

  • 14 (2004年 - 2012年)
  • 20 (2013年 - 2015年)

登場曲[編集]

代表歴[編集]

脚註[編集]

  1. ^ 全体ではマーク・クルーンの250試合に次ぐ歴代2位。
  2. ^ 秋山ホークス今こそひとつ 馬原のために勝つ 12日セパ開幕西日本新聞 2011年4月12日。
  3. ^ 福岡ソフトバンクホークス『週刊ベースボール』2012年3月19日号、ベースボール・マガジン社、2012年、雑誌20443-3/19, 36頁
  4. ^ 移籍についてのお知らせソフトバンク球団公式サイト
  5. ^ 馬原孝浩選手 獲得のお知らせオリックス球団公式サイト
  6. ^ Sports Graphic Number』 2013年2月7日号
  7. ^ “オリ佐藤達腰痛で抹消 リフレッシュの狙いも”. 日刊スポーツ. (2015年4月15日). http://www.nikkansports.com/baseball/news/1461887.html 2015年10月2日閲覧。 
  8. ^ “オリ今季初3連勝 バリントン退場、中島負傷負けじ”. 日刊スポーツ. (2015年4月20日). http://www.nikkansports.com/baseball/news/1464249.html 2015年10月2日閲覧。 
  9. ^ “オリ・マエストリが4年目初セーブ「知らなかった」”. 日刊スポーツ. (2015年4月22日). http://www.nikkansports.com/baseball/news/1465255.html 2015年10月2日閲覧。 
  10. ^ “オリックス 馬原が登録外れる「メンタルも含めて一回リフレッシュ」”. スポーツニッポン. (2015年5月2日). http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2015/05/02/kiji/K20150502010279770.html 2015年10月2日閲覧。 
  11. ^ “馬原、今季限りで退団へ…減額制限超の条件提示受け決断”. スポーツニッポン. (2015年9月23日). http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2015/09/23/kiji/K20150923011188090.html 2015年10月2日閲覧。 
  12. ^ “オリックス馬原&坂口が退団、大幅ダウン同意せず”. 日刊スポーツ. (2015年10月1日). http://www.nikkansports.com/baseball/news/1546724.html 2015年10月2日閲覧。 
  13. ^ 2015年度 自由契約選手 - 2015年12月2日閲覧
  14. ^ “オリックス馬原引退 納得パフォーマンスできない…”. 日刊スポーツ. (2015年12月14日). http://www.nikkansports.com/baseball/news/1579299.html 2015年12月14日閲覧。 
  15. ^ 選手の体ケアで“再登板” 元ホークス・クローザーの馬原さん 資格取得目指し猛勉強中 - 毎日新聞、2016年8月29日。
  16. ^ 九州医療スポーツ専門学校twitter2016年3月25日閲覧
  17. ^ スポニチアネックス2016年9月15日閲覧
  18. ^ 馬原氏 休みゼロでも「やりがい」 ホークスJr.監督 -西日本新聞 2016年10月24日掲載。
  19. ^ ホークスJr.渚監督始動 「目指すは日本一」”. 西日本スポーツ (2016年7月25日). 2017年9月29日閲覧。
  20. ^ “ソフトB馬原 復活手応え160キロだ”. 日刊スポーツ. (2012年12月10日). http://www.nikkansports.com/baseball/news/p-bb-tp0-20121210-1058015.html 2016年12月26日閲覧。 
  21. ^ 『2011プロ野球オール写真選手名鑑』 日本スポーツ企画出版社、2011年、184頁。ISBN 978-4-930942-98-2
  22. ^ 週刊ベースボール 2010年6月14日号、ベースボール・マガジン社、雑誌20442-6/14、19項。
  23. ^ 川﨑&馬原トークショー「ALL THAT'S HAWKS」
  24. ^ “熊本県が日本代表2人表彰/松中と馬原”. SHIKOKU NEWS (四国新聞社). (2006年3月27日). http://www.shikoku-np.co.jp/national/life_topic/20060327000422 2017年9月8日閲覧。 
  25. ^ 大関魁皇関に対する県民栄誉賞贈呈について (PDF)”. 福岡県新社会推進部県民文化スポーツ課. 2017年9月8日閲覧。
  26. ^ 福岡市スポーツ栄誉賞”. 福岡市 健康づくり・スポーツサイト. 福岡市. 2017年9月8日閲覧。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]