武田久

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武田 久
北海道日本ハムファイターズ #21
NF-Hisashi-Takeda20130309.jpg
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 徳島県徳島市
生年月日 (1978-10-14) 1978年10月14日(38歳)
身長
体重
170 cm
73 kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 投手
プロ入り 2002年 ドラフト4巡目
初出場 2003年4月27日
年俸 1,500万円+出来高(2017年)[1]
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

武田 久(たけだ ひさし、1978年10月14日 - )は、北海道日本ハムファイターズに所属するプロ野球選手投手)。

2000年代後半から2010年代前半にかけて、日本ハムの中継ぎエース、抑えのクローザーとして活躍し、チームの黄金時代を支えた。

経歴[編集]

プロ入り前[編集]

生光学園中学校2年までは主に内野手を務め、投手として活躍し始めたのは3年生になってからだった。軟球でスライダーやカーブを投げられ、四国大会での優勝に貢献するなど活躍したが、投手にはこだわりをもっておらず誘いを受けていた強豪高へ進学し野手転向を考えていた。しかし、本人が留守中に生光学園高等学校の野球部長と監督が家を訪れ、父親を説得して同校への進学が決まってしまった。周囲に説得され、投手を継続した[2]

卒業後駒澤大学に進学。1年生春から登板し、1年生秋には防御率1位で優勝に貢献し最高殊勲選手に選ばれた。東都大学[要曖昧さ回避]通算63試合に登板し、駒澤大学の投手の通算勝利数としては、新井富夫(日本通運の先輩にもあたる)の30勝、橋本時男の26勝に次ぎ、河原純一の23勝と並ぶ3位タイの23勝18敗、防御率2.27、232奪三振。

社会人時代は日本通運に所属し、配送業務を担当していた。2001年第72回都市対抗野球大会で2勝を挙げて若獅子賞を受賞した。準々決勝・JT戦では史上6人目の毎回奪三振を達成した。2002年秋のプロ野球ドラフト会議において日本ハムファイターズから4巡目に指名され入団。背番号は43に内定していたが、入団が予定されていたエンジェル・エチェバリアに譲るため54に変更された。

プロ入り後[編集]

新人年の2003年は2軍でスタートするも4月に1軍昇格。中継ぎの一角に入り6月にはプロ初勝利を挙げたが、その後故障で離脱し13試合の登板にとどまった。この年は眼鏡をかけてプレーしていた。

2004年には背番号を、かつて西崎幸広が使用していた「21」に変更する。しかし、7試合の登板に終わった。

2005年も夏場までは2軍だったが、中盤に1軍に昇格し、球宴以降は閉幕まで15試合・22イニング連続無失点を記録し、勝ちパターンの継投に名前を連ねた。これ以降、シーズン登板数が大幅に増加する。

2006年マイケル中村岡島秀樹らとともにリリーフで重用され、1968年森安敏明が記録した67試合を塗り替える球団記録となる75試合に登板。共にリーグ新記録の40ホールド、45ホールドポイントで最優秀中継ぎ投手となり、チームのリーグ優勝・日本シリーズ優勝に大きく貢献した。

2007年には、登板数・ホールドポイントともにリーグ2位の記録を残した。8月頃に調子を落とし一時は防御率が3点台まで落ち込んだが、終盤に盛り返している。オフの契約更改では年俸が大台の1億円に到達した。

2008年前半は安定していたが8月以降に疲労の蓄積で不調に陥り、終盤には建山義紀が代役を務めた。2008年の7敗は自己最悪であるが、そのうちの4敗を優勝した埼玉西武ライオンズ戦で喫し、対戦防御率は9.00。2位のオリックス・バファローズにも防御率5.87と打ち込まれた。この年からのオフの契約更改では、『行列のできる法律相談所』に出演している弁護士の北村晴男を代理人として立てて話題になった[3]

2009年には、退団したマイケルに替わり抑えを任され、レギュラーシーズンを無敗で終えるとともに最多セーブ投手となり、パシフィック・リーグの投手としては最優秀中継ぎ投手と最多セーブ投手の両タイトルを獲得した初の選手となった。日本シリーズでは第2戦でシリーズ初セーブを記録するも、第5戦で1点リードの9回に登板した際、先頭打者亀井義行への初球に同点ソロ本塁打を浴び、続く谷佳知は1球で右飛に打ち取ったが、次の阿部慎之助に2球目でサヨナラソロ本塁打を打たれ、わずか4球で敗れている[注 1]。契約更改では1億9,000万円(推定)にまで年俸が上がった。

2010年は初登板での被本塁打を皮切りに、3試合連続で救援に失敗するという最悪のスタートを切る。これによって、一時的に抑えから中継ぎへと配置転換となり、6月18日のオリックス・バファローズ戦まで、セーブがつかなかった。その後抑えとして登板を続けるも好調と不調を繰り返し最終的に5年連続50試合登板を記録するも防御率、セーブ数は前年よりも遥かに悪化した。

2011年は前年度とは違い守護神として復活。6年連続50試合登板、パ・リーグ初の通算100ホールドと100セーブ同時達成、2度目のセーブ王のタイトルを獲得した。西武とのCSファーストステージ第1戦で、1点リードした9回に登板したが、追いつかれてしまった。レギュラーシーズンでは防御率は1.03、WHIPは0.78と、ともにキャリアハイの成績を残し、被本塁打はゼロであった。オフには自身初の2億円台となる2億3,000万円(推定)で契約更改した。

2012年は開幕直後に不調に陥り、5月には膝の故障で戦線を離脱した。しかし復帰後は抑えの座を守り抜き、9月にはパ・リーグ新記録の月間11セーブを挙げる活躍で優勝に貢献。 初の月間MVPに輝いた。最終的には2年連続3度目のセーブ王のタイトルも獲得した。オフに自己最高の2億4,000万円(推定)で契約を結び、チームの最高年俸者となった。

2013年は通算150セーブを達成したものの、4月に腹直筋の炎症で、6月に右肘の張りで登録抹消されたこともあり、連続50試合登板が途切れた。また、救援失敗は少なかったが例年以上にランナーを溜める場面が多く見られ、一時期はWHIPが防御率を上回っていた。最終的にはWHIP1.75、被打率3割超でありながらリーグ2位の31セーブを記録。3年連続4度目の30セーブを達成した。オフには現状維持の2億4,000万円(推定)で契約更改し、2年連続でチーム最高年俸者となった。

2014年は3月28日のオリックスとの開幕戦で1点リードを守り切れず救援失敗。4月2日の福岡ソフトバンクホークス戦で2人ランナーを出しながらも後続を抑え、シーズン初セーブを記録したものの、翌4月3日の福岡ソフトバンクホークス戦で1点リードを守り切れずにまたしても救援失敗、4月8日にインフルエンザで登録抹消となる。4月29日に再び昇格するも、精彩を欠く投球が続き、わずか2試合の登板で5月2日に自らの志願で2度目の登録抹消となる。その後、7月1日に代役で守護神を務めていた増井浩俊と入れ違いで再度昇格するも、7月2日の埼玉西武ライオンズ戦では、3連打を浴びるなど3点のリードを守り切れずまたしても救援失敗、7月8日の東北楽天ゴールデンイーグルス戦でビハインドの場面で登場するも2失点を喫し、翌7月9日にシーズン3度目の登録抹消となる。その後は復帰した増井やマイケル・クロッタが活躍し、レギュラーシーズン、クライマックスシリーズでも出番は無く、最終的にはわずか9試合の登板、WHIP2.74、被打率.371、防御率は自己ワーストとなる8.22に終わった。この年のオフは球団史上最大の減俸となる1億6000万円ダウンの8,000万円(推定)で契約更改した。

2015年は、3月に左膝、8月に右膝を手術した影響で、プロ入り後初めて1軍未登板のシーズンとなり、契約更改では1,800万円まで年俸が下がり、僅か2年で13分の1にまで減俸した[4]

2016年も怪我のリハビリでキャンプから二軍での調整が続いていたが、7月22日に一軍に昇格。実に二年ぶりの一軍登録となった[5]。そして、7月27日の西武戦(西武プリンス)の9回に、750日ぶりの1軍登板を果たす。先頭の渡辺直人を打ち取るが、その後4連打を浴び2失点を喫し降板したが、栗山英樹監督からは「ボールは悪くなかった。久の姿を感動して見ていた」と復帰を喜ばれた。

選手としての特徴[編集]

低身長かつ膝が地面に着くほど沈み込む低い重心から投げるフォーム[6]から投げる平均球速約140km/h[7]、最速147km/hのストレートスライダーシュートフォークボールカーブを投げる。独特の低いリリースポイントから放たれるストレートは打者から浮き上がるように見えるという[6]

通算与四球率2.04の高い制球力を持ち味とし、被本塁打も少なく、2006年と2009年にはそれぞれシーズン被本塁打1という記録を残している。しかし2010年は58試合登板ながら16与四球、5与死球、5被本塁打と四球、死球、被本塁打とともに多かった。

人物[編集]

オートレースの熱心なファンとして知られ、オフ中には川口オートレース場に随時来場している。近時、スーパースター王座決定戦中継に毎年ゲスト出演している。

詳細情報[編集]

年度別投手成績[編集]





















































W
H
I
P
2003 日本ハム 13 0 0 0 0 1 0 0 -- 1.000 66 17.2 10 0 4 0 1 15 0 0 6 6 3.06 0.79
2004 7 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 39 7.1 7 0 11 1 0 3 0 0 6 5 6.14 2.45
2005 23 0 0 0 0 2 0 2 5 1.000 124 34.1 23 1 4 1 1 21 0 0 3 3 0.79 0.79
2006 75 0 0 0 0 5 3 3 40 .625 321 81.2 71 1 8 2 4 61 0 0 20 19 2.09 0.97
2007 64 0 0 0 0 7 6 2 28 .538 302 74.1 68 2 16 2 6 53 1 0 20 20 2.42 1.13
2008 62 0 0 0 0 4 7 6 21 .364 269 61.1 68 9 19 1 1 40 0 0 31 30 4.40 1.42
2009 55 0 0 0 0 3 0 34 4 1.000 243 60.0 54 1 14 0 0 38 0 0 10 8 1.20 1.13
2010 58 0 0 0 0 1 5 19 4 .167 241 56.1 63 5 16 3 5 37 2 0 28 24 3.83 1.40
2011 53 0 0 0 0 2 2 37 1 .500 191 52.1 32 0 9 4 1 28 0 0 6 6 1.03 0.78
2012 56 0 0 0 0 4 4 32 3 .500 230 54.1 56 2 19 3 0 34 2 0 14 14 2.32 1.38
2013 47 0 0 0 0 2 2 31 1 .500 227 47.1 64 3 16 3 3 28 3 0 13 12 2.28 1.75
2014 9 0 0 0 0 0 1 1 0 .000 48 7.2 16 0 5 0 0 7 1 0 10 7 8.22 2.74
2016 5 0 0 0 0 0 0 0 0 .--- 27 4.1 11 0 1 0 2 0 0 0 7 7 14.54 2.77
通算:13年 527 0 0 0 0 31 30 167 107 .508 2328 559.0 543 24 142 20 24 365 9 0 174 161 2.59 1.23
  • 2016年度シーズン終了時
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル[編集]

表彰[編集]

  • 月間MVP:1回 (投手部門:2012年9月)

記録[編集]

初記録
  • 初登板:2003年4月27日、対大阪近鉄バファローズ5回戦(東京ドーム)、7回表無死に3番手で救援登板、1回無失点
  • 初奪三振:同上、7回表無死に川口憲史から
  • 初勝利:2003年6月2日、対大阪近鉄バファローズ9回戦(東京ドーム)、4回表に2番手で救援登板、3回無失点
  • 初ホールド:2005年8月19日、対オリックス・バファローズ12回戦(スカイマークスタジアム)、7回裏1死に3番手で救援登板、1回2/3を無失点
  • 初セーブ:2005年9月22日、対オリックス・バファローズ17回戦(スカイマークスタジアム)、9回裏に2番手で救援登板・完了、1回無失点
節目の記録
その他の記録
  • 12回延長継投ノーヒットノーラン:2006年4月15日、対福岡ソフトバンクホークス4回戦(福岡Yahoo! JAPANドーム)、八木智哉(1~10回裏)・武田(11回裏)・マイケル中村(12回裏)で達成 ※史上初(継投による同記録は65年ぶり)
  • 3投手の継投によるノーヒットノーラン:同上 ※史上初
  • 延長戦の継投によるノーヒットノーラン:同上 ※史上初
  • 7年連続50試合登板:(2006年 - 2012年) ※史上6人目
  • 月間セーブ:11(2012年9月) ※パ・リーグタイ記録
  • オールスターゲーム出場:6回 (2006年 - 2009年、2011年、2012年)

背番号[編集]

  • 54 (2003年)
  • 21 (2004年 - )

登場曲[編集]

  • 『Juke box』 ベント・ファブリック( - 2012年)
  • Shine家入レオ(2013年 - )

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ レギュラーシーズン、ポストシーズン通じて公式戦初黒星。この年のオールスターゲーム第1戦でも東京ヤクルトスワローズ青木宣親に逆転2ラン本塁打を打たれるなど3失点で敗戦投手になっている。
  2. ^ a b 最優秀中継ぎ投手と最多セーブ投手の両タイトルを獲得したのは、パシフィック・リーグ初。セントラル・リーグでは藤川球児が最優秀中継ぎ投手を2005年と2006年、最多セーブ投手を2007年に獲得している。

出典[編集]

  1. ^ 日ハム武田久は300万円減の1500万円プラス出来高 3年で計2億2500万円減”. Full-count (2016年11月29日). 2016年11月29日閲覧。
  2. ^ 雑誌「週刊ベースボール」(ベースボールマガジン社刊)2008年7月21日号35-39ページ「白球入魂 苦しみの果てにつかんだ自分の居場所 武田久」
  3. ^ 日本ハム・武田久の代理人で北村弁護士デビュー (2/2ページ) - 野球 - SANSPO.COM
  4. ^ “日本ハム武田久また大減俸 1800万円でサインへ”. 日刊スポーツ. (2015年11月21日). http://www.nikkansports.com/baseball/news/1568889.html 2015年11月21日閲覧。 
  5. ^ “武田久2年ぶり1軍昇格 リリーフ陣てこ入れ、精神的支柱”. どうしんウェブ. (2016年7月22日). http://dd.hokkaido-np.co.jp/sports/baseball/fighters/1-0295511.html 
  6. ^ a b 『週刊プロ野球データファイル』2011年26号、ベースボール・マガジン社、雑誌27742-10/12、9-10頁。
  7. ^ 『2012プロ野球オール写真選手名鑑』 日本スポーツ企画出版社、2012年、25頁。ISBN 978-4-905411-04-8

関連項目[編集]

外部リンク[編集]