武田一浩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
武田 一浩
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 東京都世田谷区
生年月日 (1965-06-22) 1965年6月22日(51歳)
身長
体重
171 cm
80 kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 投手
プロ入り 1987年 ドラフト1位
初出場 1988年6月8日
最終出場 2002年10月10日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

武田 一浩(たけだ かずひろ、1965年6月22日 - )は、東京都世田谷区出身の元プロ野球選手投手)。現在はNHK野球解説者

来歴・人物[ソースを編集]

プロ入り前[ソースを編集]

調布リトルから明大中野中(軟式)を経て、明大中野高に進む。高校3年の夏の甲子園の出場に当たって、5月には前年の夏の選手権及び次の春の選抜大会で夏春連覇した徳島県立池田高に練習試合で勝利し、甲子園への出場が期待されていた。しかし、西東京大会準決勝で小野和義を擁する創価高に敗れ甲子園の出場はならなかった。なお、高校の同級生にプロモーターの金平桂一郎がいる。

その後は明治大学へ進学。東京六大学リーグ通算56試合登板、20勝8敗、防御率2.40、208奪三振。3年生秋のリーグでは7勝無敗の活躍でベストナインに選ばれた。日本ハムファイターズ南海ホークス(後のダイエー→ソフトバンク)、中日ドラゴンズ読売ジャイアンツ(巨人)の4球団(いずれも武田が後に在籍することとなる)からプロ入りの誘いを受け[1]1987年ドラフト1位で日本ハムに入団(阪急ブレーブスに入団した伊藤敦規の外れ)。

現役時代[ソースを編集]

プロでは1年目から一軍で登板した。二年目には規定投球回をクリアするなど主軸に成長。1990年から1991年リリーフエースとして活躍し、1991年最優秀救援投手のタイトルを獲得。しかし、球団からのリリーフエースとしての評価が低く不服と感じ先発に再転向、先発再転向2年目の1993年には初の二桁10勝を挙げチームリーグ2位に貢献した。

1年目に大阪球場での南海ホークス戦でトニー・バナザードと対戦した際、バナザードが空振りしたバットがすっぽ抜け、マウンド上の武田の後ろまで飛んで行った。この時バナザードは、なぜか武田をにらみつけながらマウンド方向へ歩き、自らバットを拾いに行った(ほとんどの場合は攻撃側チームのベースコーチが拾いに行く)。この場面は、テレビ報道用の映像上では、まるで接近するバナザードに対して武田が激しく動揺しているかのように写っているために非常にユーモアを誘うものとなり、特に『プロ野球珍プレー・好プレー大賞』で広く知られることとなって、武田は同番組の「珍プレー大賞」を受賞した。

1995年、この年就任した上田利治監督と衝突し一軍ではわずか2試合にしか登板できずプロ入り初の未勝利に終わる。同年オフに下柳剛安田秀之とのトレードで松田慎司とともに福岡ダイエーホークスへ移籍(当初は星野仙一が救いの手を差し伸べるような形で監督を務める中日ドラゴンズがトレードによる獲得を打診したが、ダイエーが下柳をトレード要員に提示したことにより中日とのトレード話は反故にされた。これに激怒した武田はトレードを拒否しようとしたが、「それだと任意引退になるだけだ」と告げられ渋々ながらもこれを受け入れたという)[1][2]

ダイエー移籍1年目の1996年、「監督、コーチが見ているときと、そうでないときに練習態度が違うヤツがいる」と吠え、案の定首脳陣と衝突した[1]。日本ハムを追われたのも、「思ったことをすぐ口に出す」ためであり、いわば"制裁放出"のようなものであった[1]。しかしこの年はチームが最下位と低迷する中、先発投手としてチーム最多、リーグ3位自己最多の15勝を挙げた。

1997年開幕投手を務めたが、好投しながら勝ち星に恵まれない試合が多く、4勝9敗で終わった。

1998年黒木知宏西口文也と並んで自己2番目の13勝を挙げて最多勝利のタイトルを獲得した。同年オフにFA権を行使して中日へ移籍(ダイエーへの残留が前提のFA宣言であったが、同じく明治大学出身で3年前にも武田の獲得を希望していた星野が監督を務める中日が突如獲得に名乗りを上げたことにより一転して移籍を決断した)[1]

1999年、移籍初登板を完封勝利で飾り先発ローテーションの一員として活躍したが、シーズン後半試合中[いつ?]足に打球を受け亀裂骨折してしまう。しかし戦線離脱せず、薬で痛みを散らしながらシーズン最後までエースの野口茂樹、明治大学の後輩である川上憲伸、そして山本昌とともにローテーションを守り、先発陣では野口の19勝に次ぐ9勝を挙げ、川上とともに右のエース格としてリーグ優勝に貢献した。優勝決定後の10月6日に最後の先発機会を与えられ、勝てばセ・リーグ移籍後初の2ケタ勝利となるところであったが敗戦投手となり、チーム3人目の2ケタ勝利(結果的に2ケタ勝利を挙げたのは野口とルーキーの岩瀬仁紀の2人)はならなかった。同年10月27日、古巣であるダイエー相手の日本シリーズ第4戦に先発するも前年までの同僚たちに打ち込まれ敗戦投手となる。このシーズンの怪我と、翌2000年に右を手術したことがきっかけでが原因で下半身の粘りがなくなった[3]ことから、翌年以降は2年連続で3勝6敗と精彩を欠いてしまう。

2001年オフに星野の辞任とともに自身の不振もありチームから戦力外通告を受ける。この年一度は引退を決断するが、同時に中日を去った星野から「おまえなら、やれるだろう。まだ二ケタ勝てるだろう」という言葉を受け現役続行を決意[3]、同年オフに読売ジャイアンツが獲得を表明し移籍。2002年5月7日に一軍登録されて対中日戦(ナゴヤドーム)で即先発し、6回4安打2失点で勝利投手となり[3]、史上3人目の全球団勝利を達成[4][5]。武田はウィニングボールを大事そうに握ると「長かったよ、おととしぐらいから。本当は明日投げるはずだったのに…」とジョークを交えてコメントし、ウィニングボールをそっとバッグにしまった[3]。同年限りで現役を引退。なお、日本プロ野球史上最多勝利と最優秀救援投手の両方を獲得した投手は、武田以外では江夏豊金城基泰村田兆治山沖之彦(このうち村田のみ、獲得したのは厳密には最優秀救援ではなく最多セーブ)のみである。

中日時代には明治大学の後輩である川上をことあるごとに呼びつけては細かく指導しており、今中慎二は「自分が知る限りでは武田さんが在籍していた1999年から2001年までの期間が一番いいボールを投げていたという印象を持っている」と語っている[6]。また、ダイエー時代の同僚である城島健司からは当時の左のエース工藤公康と共に徹底指導され師と仰がれている[7]

日本プロ野球にカットボールを広めたのは武田であると言われている。日本ハム時代にチームメイトだったマット・ウインタースからカットボールの存在を聞き習得し、武田の中日移籍後に川上がこれを習得、日本屈指のカットボーラーとなった[8]

引退後[ソースを編集]

2006年にはWBC日本代表の投手コーチに選ばれた。また、2010年の秋季キャンプでは福岡ソフトバンクホークスの臨時投手コーチを務め[9]2011年の春季キャンプでもソフトバンクの臨時投手コーチを務めた。

現在はNHKプロ野球メジャーリーグ中継で解説者を務めている。また、競馬番組にゲストとして出演することがある。

2011年のドラフト会議で、ソフトバンクに1位指名され入団した同姓の武田翔太は、その同姓にあやかって「ホークスの武田二世」とも呼ばれる事がある。

詳細情報[ソースを編集]

年度別投手成績[ソースを編集]





















































W
H
I
P
1988 日本ハム 20 2 0 0 0 1 2 0 -- .333 159 37.1 37 2 14 1 2 23 0 0 16 14 3.38 1.37
1989 36 18 5 2 0 6 8 0 -- .429 610 143.0 128 22 56 5 3 108 4 0 72 67 4.22 1.29
1990 37 2 0 0 0 10 5 13 -- .667 329 81.2 63 8 17 2 1 73 2 0 37 27 2.98 0.98
1991 41 0 0 0 0 4 8 18 -- .333 272 64.2 69 11 14 3 1 45 2 0 31 29 4.04 1.28
1992 22 10 3 1 0 4 9 0 -- .308 413 97.2 102 10 29 3 1 63 63 2 0 42 3.87 1.34
1993 27 25 9 1 3 10 8 0 -- .556 721 170.1 181 16 53 2 1 125 2 0 65 63 3.33 1.37
1994 18 17 2 0 0 5 9 0 -- .357 390 84.1 102 8 37 0 4 56 4 0 63 56 5.98 1.65
1995 2 1 0 0 0 0 0 0 -- ---- 24 5.1 8 0 1 0 0 4 0 0 3 3 5.06 1.69
1996 ダイエー 26 26 6 4 0 15 8 0 -- .652 722 171.0 167 16 56 1 4 114 6 0 77 73 3.84 1.30
1997 26 26 3 2 0 4 9 0 -- .308 699 163.2 177 17 39 2 3 102 3 0 85 70 3.85 1.32
1998 28 28 4 0 0 13 10 0 -- .565 751 176.1 173 16 68 3 2 103 3 2 82 71 3.62 1.37
1999 中日 25 25 5 3 1 9 10 0 -- .474 679 162.0 166 17 43 2 4 92 1 1 65 63 3.50 1.29
2000 15 15 1 0 0 3 6 0 -- .333 370 85.0 96 12 23 2 1 48 2 0 45 44 4.66 1.40
2001 11 11 0 0 0 3 6 0 -- .333 231 54.0 60 2 14 0 1 36 3 0 32 29 4.83 1.37
2002 巨人 7 4 0 0 0 2 1 0 -- .667 91 21.1 26 3 3 2 0 16 2 1 12 10 4.22 1.36
通算:15年 341 210 38 13 3 89 99 31 -- .473 6461 1517.2 1555 160 467 28 28 1008 36 4 727 661 3.92 1.33
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル[ソースを編集]

表彰[ソースを編集]

記録[ソースを編集]

初記録
節目の記録

背番号[ソースを編集]

  • 15 (1988年 - 1991年)
  • 4 (1992年 - 1995年)
  • 17 (1996年 - 1998年)
  • 18 (1999年)
  • 17 (2000年 - 2001年)
  • 30 (2002年)
  • 84(2006年)

関連情報[ソースを編集]

出演番組[ソースを編集]

連載[ソースを編集]

武田一浩の投手心理分析 (週刊ベースボール2014年4月14日号 - 現在)

脚注[ソースを編集]

[ヘルプ]
  1. ^ a b c d e プロ野球 FA宣言「天国と地獄」 p.44(洋泉社MOOK、2009年11月24日発売、ISBN 978-4862484888)
  2. ^ この時日本ハムの要望は山本昌だったが、中日からのトレード要員は井手元健一朗を提示し、日本ハム側が与田剛を追加で要望したが中日側の事情により年内までは与田が放出できなかった為結局折合いが付かなかった。(与田は翌年のシーズン中にロッテにトレードされ、97年オフに戦力外になった後テスト入団で日本ハムに入団した。)
  3. ^ a b c d おめでとう原ジャイアンツ―2002セ・リーグ優勝速報 (日刊スポーツ出版社発行 2002年9月発行、ISBN 978-4817251671) p.48
  4. ^ セ・パ交流戦開始前では最後の達成者となる。
  5. ^ 記録メモ(個人投手編)パリーグ公式サイト
  6. ^ 今中慎二「中日ドラゴンズ論」(ベストセラーズ2010年10月26日発売、ISBN 978-4584123041)p.78 - 79より。ただし、当時の川上の成績は3年連続1ケタ勝利と、決して芳しいものではなかった。
  7. ^ ホークス九州20年史―1989-2008 飛翔!若鷹軍団、ベースボール・マガジン社、2008年、P43
  8. ^ 名古屋テレビ 光る!スポーツ研究所2006年8月12日放送分バックナンバー
  9. ^ ソフトバンク 武田氏が臨時投手コーチに

関連項目[ソースを編集]

外部リンク[ソースを編集]