野村沙知代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
のむら さちよ
野村 沙知代
別名義 伊東 芳枝(出生名)
生年月日 (1932-03-26) 1932年3月26日
没年月日 (2017-12-08) 2017年12月8日(85歳没)
出生地 日本の旗 日本 福島県西白河郡西郷村
死没地 日本の旗 日本 東京都目黒区
血液型 B型
職業 タレント
配偶者 野村克也 (1978年 - 2017年)
著名な家族 ダン野村(長男)
ケニー野村(次男)
野村克則(三男)

野村 沙知代(のむら さちよ、1932年昭和7年)3月26日 - 2017年平成29年)12月8日)は、日本タレント。夫は元プロ野球選手プロ野球監督野村克也

愛称は「サッチー」。これは『森田一義アワー 笑っていいとも!』で当時はSMAP中居正広と共演した際に中居から「サッチー」と名付けられたという。出生名は伊東 芳枝(いとう よしえ)。所属事務所は株式会社エフエンタープライズ(東京都千駄ヶ谷[1]。血液型はB型。

人物[編集]

経歴[編集]

生い立ち[編集]

1932年(昭和7年)、現在の福島県西白河郡西郷村生まれ[2]、しばらくすると東京都荒川区に転居した。父親は都営バス運転手だったが太平洋戦争大東亜戦争)の激化に伴う疎開として再び故郷の福島に戻った[2]

この生い立ちについて沙知代本人は、「東京の田園調布出身で、皇族の出である」「伊藤博文の家系」[3]などと自称し、周囲に言いふらしまわっていたこともある。しかし、実弟の伊東信義によれば、幼少時から虚言癖があったという。また、万引きの常習犯でもあり度々警察沙汰を起こしていたと語っている。

沙知代の学歴は東京都荒川区立第二瑞光国民学校(現在の荒川区立第二瑞光小学校)で修了し、その後は旧制福島県立白河高等女学校(現在の福島県立白河旭高等学校)に入学しようとするも、進学を断念し白河市の電電公社に電話交換手として就職。しかし、この仕事をしていた時にミスコンに伊東芳枝名義で出場し、「ミス白河」に抜擢され優勝した事をきっかけに地元新聞に写真入りで紹介されているという。これを機に電話交換手の職を退職し、東京へと舞い戻り、しばらくは実家と音信不通の日々を送るようになる。

終戦後の数年間には、東京・新橋第一ホテルで皿洗いのアルバイトなどをしつつ、進駐アメリカ人兵士相手の「パンパン」として身を立てていたという[4]。一方この時期、沙知代の自著によれば、沙知代はニューヨーク市にあるコロンビア大学"精神心理学部"を卒業し、同時通訳者になっていたとされている[5]

その後しばらくしてから、家族に手紙を送ったり、妹や信義を第一ホテルに呼び寄せては米兵からもらったチョコレートコーラを与えたり、後には妹や信義の学費の援助もするなど、家族関係は悪くなかった。東京での住まいや生活の子細、パンパンをしていることなどは家族に明かさなかったというが、信義によれば、沙知代の服装や化粧、持ち物、更にその収入を見ればパンパンをしていることは明らかであり、米兵に肩を抱かれてホテルの周りを闊歩する沙知代に遭遇することもあったという。

結婚[編集]

1957年(昭和32年)、アメリカ軍将校として来日していた東欧ユダヤ系アメリカ人であるアルヴィン・エンゲルとの間に、息子・ダン (後の野村克晃(団野村))、翌々年にはケニー (同・野村克彦)をもうけた。

野村克也との出会い[編集]

1970年8月[6]、プロ野球選手兼監督・野村克也の属している南海チームは後楽園球場で行われる東映フライヤーズとの三連戦のために上京し、原宿のホテルに宿泊していた。克也はホテルから程近く、行きつけにしてある高級中華料理店を訪れたが、その際に沙知代と相席になったことがきっかけで、一緒に食事を取りながら談笑した。これがふたりの出会いとなった。

その後、1972年(昭和47年)頃には、沙知代は当時すでに既婚者だった克也と愛人関係になっている[7]。自身の婚姻関係も解消されていなかったことから、ダブル不倫の状態であった。1973年(昭和48年)には、克也との間に男児、克則が誕生したが、非嫡出子である同児は実父・伊東巳之吉との養子縁組が画策されたという[8]。その後、克也は克則を自身の子として認知している。

この頃から、後の沙知代は、愛人という立場から克也が監督を務めるプロ野球球団・南海ホークスのチーム運営に口を出すなどの行為が目立つようになり、選手たちからは不満が渦巻くようになった[9]。監督室に出入りしたり、コーチ会議に口をはさんだり、自らがつくった私的な会に選手夫人の参加を強要したりするなどし、克也は公私混同を理由に解任された[10]広瀬叔功は、「球場へ出入りするなどしたことも私は快く思っていなかった。以心伝心というものか彼女も私が嫌いだったのだろう。用兵にまで口出したかどうかは知らないが、73年頃から私の出番は確実に減っていった」と著書に記している[11]。また、この頃までには既に、自身の名前を「芳枝」から「沙知代」へと改名していたという[2]

1978年(昭和53年)4月、前妻との離婚が成立した克也と結婚。ダンとケニーの二人も克也の子となった。克也と南海時代から師弟関係にあった高畠康真は、後に克也のヤクルト監督就任に伴ってコーチに就任したが、1年で辞任し、「相変わらず夫人の介入もありましたし」と語っていた[12]。克也とヤクルト時代に監督・選手の関係だった古田敦也に対して「(夫が)ヤクルトの監督を辞める時、古田くんは『お世話になりました』の一言だけ。(略)古田くんを夫は愛弟子のように育てていましたが、息子(カツノリ)は育てられないのかと非常に不満でした。やっぱり古田くんは殺してやりたい」と発言した[13]

衆院選立候補と詐称容疑[編集]

1996年平成8年)、沙知代は第41回衆院選に、新進党公認候補として、東京5区比例東京ブロックから重複立候補した。

選挙結果は落選(小選挙区で次々点、比例で次点)であったが、選挙後の1999年(平成11年)7月、選挙公報などに虚偽の経歴を公表していたとして、沙知代について公職選挙法違反(虚偽事実公表罪)で、計7件の告発が東京地方検察庁にされた。虚偽とされた内容は、「コロンビア大学留学」、「1972年に野村克也と結婚」などの記載で、告発者は女優・浅香光代らであった。検察若狭勝検事と捜査員が、現地コロンビア大学で調査したところ、大学の事務当局には当時の留学生の学籍原簿や単位認定記録等自体が残っておらず、経歴詐称の証拠は得られなかった。また、婚姻歴については、息子・克則の誕生日から逆算し、1972年当時には克也と事実婚の状態であったと認定された。これらの事実を受け、本件は全件7件のすべてが、嫌疑不十分により不起訴とされた[14]。しかしながら沙知代はその後、選挙結果に伴って生じていた繰上げ当選の権利を辞退する意向を示した。

この学歴詐称の疑いについては先に、テレビ番組 『ザ・ワイド』(日本テレビ・読売テレビ)が取材し、同大学の同窓会による卒業生名簿に、該当する名前がないことが判明していた。また、週刊誌の取材を受けた沙知代は、「読売読売ジャイアンツ)の陰謀」、「コロンビア大学ではなく、コロラド大学に留学した。間違えたのは編集部のミス」などと答えるなど[15]、曖昧で非合理な対応に終始していた。

サッチー騒動[編集]

1999年(平成11年)、共演した舞台における確執に始まる女優浅香光代とのバトル、批判合戦が、長期に渡ってワイドショーなどで繰り広げられた。これには、「アンチ野村沙知代派」、「野村沙知代擁護派」などとして、複数の芸能人、著名人らが連日の舌戦に参加、マスメディアは格好のネタを提供することとなった。

脱税事件[編集]

沙知代は2001年(平成13年)12月、約5億6800万円の所得を隠し、法人税所得税、合計 2億1300万円を脱税したとして、法人税法違反(脱税)などの疑いで東京地検特捜部に逮捕された[16]。沙知代の拘留期間は、起訴される後までの23日間に及んだ。当時プロ野球・阪神タイガースの監督を務めていた夫・克也は翌シーズンも続投が決まっていたが、この事件の発生を受けて妻の逮捕直後に監督を辞任した[17][18]。また、沙知代のこの逮捕を受け、先述の「ミッチー・サッチー騒動」は世間的には浅香側の勝利という形で収束した。

翌年3月に行われた初公判で、沙知代は起訴事実を全面的に認め[19]、沙知代本人に対しては懲役2年・執行猶予4年、罰金2100万円(求刑・懲役2年、罰金2600万円)、経営していたノムラとデイーアンドケイーの2社に対しては、罰金3200万円(求刑・罰金3900万円)(罰金総計5300万円)の、それぞれ有罪判決が出された[20]

この公判の中で沙知代は「今後、芸能活動はしない」と語ったが、その後芸能界復帰を果たしている。

この事件の発覚には、前夫とのあいだの二男ケニー(克彦)が大きな役割を演じていた。母親の逮捕・起訴前にケニーは、本件について母親から自分にかかってきた口止めを求める電話の録音テープなどを捜査当局やマスメディアに提供、これが事件の立件に繋がったのである[21]。母親の有罪判決を受けてケニーは、自分の執筆した告発本[22]が母(野村沙知代)を追いつめたことに寄与したとして、「正義が勝った」との感想を述べた[23]

少年野球チーム[編集]

沙知代はかつて、少年野球チームリトルシニア)「港東ムース」(後に解散)のオーナーを務めていた[24]。このチームにはG.G.佐藤、ごく短い期間だが井端弘和が在籍していた。佐藤について沙知代は「日本一になったときのメンバーですから、そりゃあもう、かわいがりましたよ。張り飛ばして、ぶっ飛ばして育てたんですから」と語っている[25]

ケニーは、後に自身の妻となった女性の息子がかつて同チームを退団し、その後の野球人生を沙知代に潰されたことを自著で明らかにしており[22]、これはその後の親子絶縁の一因ともなった。また、2001年(平成13年)に発覚した脱税事件では、沙知代が親らから集めた金を所得申告していなかったことも指摘されている[21]

晩年[編集]

有罪判決の翌年となる2003年(平成15年)1月、それまでメディア出演が無くなっていた沙知代は、『サンデージャポン新春SP』(TBS)で、テレビ出演に復帰した。翌年11月には、『クイズ!ヘキサゴン』(フジテレビ)に出演、また、『世界絶叫グランプリ』(同)では、全米の超恐怖と言われる4大マシーンを、表情変えずに完全制覇する姿が放送された。

2005年(平成17年)8月3日、20歳若返り美容整形手術を、同年10月末に行うとの記者会見を開いた。

週刊新潮』は2010年(平成22年)6月、同年の大相撲夏場所4日目に、沙知代が「砂かぶり」席で暴力団組長の妻と談笑しながら観戦していたことを報じた。これに対して沙知代は「隣にいた女性は全く見知らぬ人であり、記事は暴力団と密接な関係にあるとのイメージを与え著しく名誉を傷付けた」として、同誌の発行元である新潮社を相手取って、3300万円の損害賠償請求訴訟東京地方裁判所に提訴した[26][27]

その後、体力の衰えや話す内容がまとまらなくなるなど徐々に老化が始まり、2011年(平成23年)以降沙知代は死去するまで公の場に姿を現すことはなかった。しかし、高須克弥2017年(平成29年)8月3日に投稿したインスタグラムでは、高須とともに笑顔で写真におさまる姿が公開されていた。

突然の死[編集]

2017年12月8日、沙知代はこの日朝食を一口しか食べず、その後は夫の呼びかけにも反応しなくなった。14時30分頃に心肺停止の状態で目黒区内の病院に緊急搬送されたが、同日16時9分に虚血性心不全のため死去した。85歳没[28][29][30]

家族[編集]

ユダヤ系アメリカ人である前夫との間にもうけたダンケニーは、1978年(昭和53年)に後夫の克也と再婚した際にも子供として戸籍に入ったものの、確執を経てそれぞれ絶縁関係となった[31]。前夫はその後ハワイで自殺した。

次男のケニーは2001年(平成13年)、母・沙知代との決別の書たる暴露本を著したが[22]、2005年に克也立会いのもとで和解した[32]

また沙知代の実弟である伊東信義1999年(平成11年)に暴露本を出版し、沙知代に係わる嘘の数々を告発している[2]

著作[編集]

  • 『きのう雨降り今日は曇りあした晴れるか』 (潮出版社、1985年
  • 『叱ってしつける ほめて育てる - 野村沙知代の親子塾』 (海竜社、1991年
  • 『女は賢く妻は可愛く』 (海竜社、1993年
  • 『猛母猛妻』 (扶桑社、1996年
  • 『あなた、男の鑑定できますか - チェックポイントは、この17カ所』 (クレスト社、1997年
  • 『夫婦をみがく33の秘訣 - 夫婦のあり方、この組み合わせの妙』 (成美文庫、1999年
  • 写真集 『Stay Young Forever - 野村沙知代』 (ナイタイ、2000年
  • 『I am サッチー - 挑発~沈黙の200日』 (バウハウス、2000年)
  • 『どうすれば、言いたいことが言える自分になれるか?』(アスキー、2001年)※テリー伊藤との共著
  • 『サッチーの母親学 - 母稚園』 (ぴいぷる社、2001年)
  • 『悪妻こそ、良妻』 (廣済堂出版、2001年)※野村有紀子との共著
  • 『日本一勇気ある嫁』 (モッツ出版、2001年)※野村有紀子との共著
  • 『あなたに伝えたい - 眞由ちゃんは見ていた』 (北水、2001年)※絵:ほんままさえ
  • 『NORA - 老犬は去り行くべきか…野良たちの選択』 (東邦出版、2004年)※絵:優亞
  • 『野村セオリー - 絆』 (海竜社、2006年)※野村克也との共著
  • 『老疼の雫』 (文藝春秋、2008年
  • 『新・冠婚葬祭入門』 (祥伝社新書、2009年
  • 『夫の転がし方 』 (角川書店、2011年
  • 『女が人生を前向きに生きるための「明日じたく」』(大和書房、2014年

参考文献[編集]

  • 伊東信義 『姉 野村沙知代』 1999年ラインブックス
  • ケニー野村『グッバイ・マミー 母・野村沙知代の真実』2001年新潮社 

メディア出演[編集]

テレビ番組[編集]

その他ゲスト出演多数。

CM[編集]

過去に出演したのも含む。

ほか多数。

映画[編集]

オリジナルビデオ[編集]

  • 喰いしん坊!3 大喰い敵対篇(2008年8月25日、オールインエンタテインメント
  • 喰いしん坊!4 大喰い激闘篇(2008年12月25日、オールインエンタテインメント)

脚注[編集]

  1. ^ http://fenterprise.jp/company.html
  2. ^ a b c d 伊東信義 『姉野村沙知代』 ラインブックス 1999年
  3. ^ 漢字表記が違うので、言うまでもなく全くの他人である。
  4. ^ "芳枝は大学どころか高校も出ていない。コロンビア大学に留学していたと主張している53年から57年の期間に芳枝がやってたのは、当時『パンパン』って呼ばれてた職業だ。皿洗いのアルバイトをしながら、ホテルの回りにいる米兵相手に商売してたんだ" 『姉野村沙知代』 伊東信義
  5. ^ 野村沙知代 『きのう雨降り今日は曇りあした晴れるか』潮出版社、1985年。
  6. ^ 『プロ野球「毎日が名勝負」読本』(彩流社)
  7. ^ 1999年平成11年)、沙知代は1996年(平成8年)の衆議院議員立候補の際に自身の経歴に付いて虚偽事実を公表していたとして東京地方検察庁に告発され、その後の調査では克也との「事実婚」の状態が、1972年昭和47年)には既に認められるとされた
  8. ^ 伊東信義「妹 野村沙知代」ラインブックス、1999年。
  9. ^ 偉大なる月見草・野村克也の人生 - 圧倒的な才覚で野球と向き合った波乱の54年 『週刊ベースボール・タイムズ』 株式会社スクワッド Vol.033 2008年12月3日/10日合併号 p40
  10. ^ 波乱万丈 野村克也【4】監督解任、南海を去る 時事通信
  11. ^ 広瀬叔功著、南海ホークス ナンバ栄光と哀しみの故郷 (追憶の球団)、ベースボールマガジン社、2014年、P73-P74
  12. ^ 門田隆将著、甲子園への遺言 伝説の打撃コーチ高畠導宏の生涯 (講談社文庫)、2008年、P304
  13. ^ http://www.excite.co.jp/News/90s/20160324/E1456822530076.html
  14. ^ 平成11年10月1日
  15. ^ 週刊誌『フォーカス』の取材
  16. ^ 平成13年12月5日 逮捕
  17. ^ 野崎勝義著、ダメ虎を変えた! ぬるま湯組織に挑んだ、反骨の11年、朝日新聞出版、2011年、P88
  18. ^ 2014年3月29日スポーツニッポン広澤克実の我が道29」より
  19. ^ 東京地方裁判所 平成14年3月19日 即日結審
  20. ^ 東京地方裁判所 平成14年5月1日
  21. ^ a b Sachiyo Nomura arrested in tax probe Japan Times Online Dec-6-2001, Retrieved on Aug-27-2010
  22. ^ a b c ケニー野村 『グッバイ・マミー - 母・野村沙知代の真実』 新潮社 2001年
  23. ^ スーパーJチャンネル』 テレビ朝日 報道
  24. ^ 赤坂、恩師・野村監督との再会に気持ち新た 中日スポーツ 2009年6月23日
  25. ^ スポーツ報知、2008年8月24日
  26. ^ 『「極道」&「極道の妻」と砂かぶりで相撲を観戦した参院候補「エモヤン」と昔の衆院候補「野村サッチー」』 週刊新潮 2010年6月10日号
  27. ^ 野村沙知代さん、週刊新潮を提訴 名誉棄損で 共同通信 2010年6月11日[リンク切れ]
  28. ^ 野村沙知代さんの死因は「虚血性心不全」家族で密葬へ、後日に「お別れ会」 - デイリースポーツonline 2017年12月9日
  29. ^ サッチー急死 ノムさん焦燥「俺の方が先に逝くだろうと…」 - スポーツニッポン 2017年12月9日
  30. ^ 野村沙知代さんが死去 昼過ぎに意識不明で病院搬送 ホウドウキョク(フジテレビ)2017年12月8日
  31. ^ 但し、両名共に夫の野村克也とは絶縁していない
  32. ^ 次男ケニー氏が2週間前振り返り「元気だった」日刊スポーツ 2017年12月9日

外部リンク[編集]