野村沙知代

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のむら さちよ
野村 沙知代
別名義 伊東 芳枝(出生名)
生年月日 (1932-03-26) 1932年3月26日
没年月日 (2017-12-08) 2017年12月8日(85歳没)
出生地 福島県西白河郡西郷村
死没地 日本の旗 日本 東京都目黒区
血液型 B型
職業 タレント
配偶者 アルヴィン・エンゲル (1957年 - 1976年
野村克也1978年 - 2017年
著名な家族 ダン野村(長男)
ケニー野村(次男)
野村克則(三男)
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野村 沙知代(のむら さちよ、1932年昭和7年)3月26日 - 2017年平成29年)12月8日)は、日本タレント。夫(後夫)は元プロ野球選手プロ野球監督野村克也。出生名は伊東 芳枝(いとう よしえ)であり、沙知代に改名したのは1976年だが、本記事では便宜上、改名前の事項についても「沙知代」と表記する。

愛称は「サッチー」。これは『森田一義アワー 笑っていいとも!』で中居正広と共演した際に中居から「サッチー」と名付けられたという。所属事務所は株式会社エフエンタープライズ(東京都千駄ヶ谷[1]血液型はB型。

経歴[編集]

生い立ち[編集]

1932年3月26日、福島県西白河郡西郷村で伊東巳之吉の長女として生まれる。父の巳之吉は都営バス運転手で、一家は東京都荒川区南千住に住んでおり、沙知代も南千住で幼少期を過ごした[2]1944年に第二瑞光国民学校初等科(現:荒川区立第二瑞光小学校)を修了したが、1945年2月25日の空襲で自宅が焼失したため、一家は東京を離れて西郷村の隣の白河町(現:白河市)に移り住み、終戦後も白河で生活した[3]

白河第一国民学校高等科を卒業後、電電公社に電話交換手として就職。しかし、この仕事をしていた時にミスコンに出場し、「ミス白河」に抜擢され優勝した事をきっかけに地元新聞に写真入りで紹介されているという。これを機に電話交換手の職を退職し、東京へと舞い戻り、しばらくは実家と音信不通の日々を送るようになる。その後しばらくしてから、家族に手紙を送ったり、妹や弟を第一ホテルに呼び寄せては米兵からもらったチョコレートコーラを与えたり、学費の援助もしていた。東京での住まいや生活の子細などは家族に明かさなかったというが、弟の信義によれば、沙知代の服装や化粧、持ち物、更にその収入を見ればパンパンをしていることは明らかであり、米兵に肩を抱かれてホテルの周りを闊歩する沙知代に遭遇することもあったという。

1957年4月、米軍将校として来日していた東欧ユダヤ系アメリカ人のアルヴィン・エンゲルと結婚し、同年5月に長男・ダン(野村克晃)、1959年2月に次男・ケニー(野村克彦)を産んだ。

野村克也との出会い[編集]

1970年8月、南海ホークスの選手兼監督であった野村克也は、18日から20日に後楽園球場で開催される対東映フライヤーズ戦のために上京。宿泊先の原宿のホテルに程近い行きつけの高級中華料理店を訪れた際に、沙知代と相席になり一緒に食事を取りながら談笑した。これが二人の出会いであるという[4]。それからしばらくして沙知代は克也と愛人関係になり、1972年頃には克也は本妻と別居状態になった。後に沙知代は衆議院議員に立候補した際に自身の経歴について虚偽の内容を公表していたとして東京地方検察庁に告発されたが、その際の調査では克也との「事実婚」の状態が1972年には既に認められるとされた。この時点では克也の婚姻関係のみならず、沙知代自身のアルヴィンとの婚姻関係も解消されていなかったことから、両者はダブル不倫の状態であった。

克也はこの当時の状況について、本妻はお嬢様育ちで家事をまともにやらず、そのうえ浪費癖も酷く、さらには本妻の方が既に他の男と不倫関係にあったので、沙知代と知り合う以前の1968年の時点で本妻に対して離婚を要求し別居しており、また沙知代との関係についても、沙知代を囲い始めた頃に球団オーナーの川勝傳に報告し、「プライバシーやから何もいわん」との返答を得て関係を承認されていたと主張しているが[5][6][7]、これに対して克也の長男(本妻との間の子)は、父の克也が突然自宅に帰ってこなくなったのは1973年頃であり、母(本妻)は大人しく家庭的な人で料理等の家事もきちんとこなしていたと証言しており[8]、沙知代の実弟・信義もこの長男の証言内容を全面的に認めている[9]

克也が自宅へ戻らなくなった頃、克也のチームメイトであり親友でもあった広瀬叔功が忠告したが、克也は広瀬の忠告を聞き入れず、逆にこれ以降広瀬を疎んじるようになった。広瀬は自著で沙知代について「球場へ出入りするなどしたことも私は快く思っていなかった。以心伝心というものか、彼女も私が嫌いだったのだろう。用兵にまで口出したかどうかは知らないが、73年頃から私の出番は確実に減っていった」と述べている[10]

南海球団との争い[編集]

1973年7月23日には、克也との間に男児(克則)が誕生したが、克也は当初、克則を認知しなかったため、沙知代は克則を実父・巳之吉の養子にしようとしたという[11](翌1974年6月に克也は克則を認知)。この頃から、後の沙知代は、愛人という立場から克也が監督を務めるプロ野球球団・南海ホークスのチーム運営に口を出すなどの行為が目立つようになり、選手たちからは不満が渦巻くようになった[12]門田博光には「野村の方針に文句を言うな。文句を言うなら試合で使わないわよ」と電話で言ったという[13]

1975年秋、ついに我慢の限界に達した選手たちは沙知代の排除を計画し、中百舌鳥球場で行われた秋季合宿の場で克也が選手に意見を求めた際に、門田博光、江本孟紀西岡三四郎の3人が「"カゲ"の監督がいるせいで選手が気持ちよくプレーできない雰囲気になっている」という旨の発言をして現状の是正を求め[14]、11月には江本、西岡、藤原満の3人がチームを代表して大阪市内のホテルで克也に「公私混同を止めてください」と直訴した[15][16]

一方、球団フロント・職員の間にも沙知代に対する不快感が広がっており、長嶋茂雄新監督の初年度が最下位に終わった巨人が投手補強のため南海にトレードを申し込んで来た際に、南海の球団幹部が「野村が巨人へ行きたがっている」という情報を流した。巨人のフロントはこの情報に興味を示し、佐伯文雄常務と張江五広報が窓口となって克也の獲得交渉を進め、選手兼任ヘッドコーチとして克也を巨人に移籍させることで条件がまとまり、克也本人も巨人への移籍を喜んで承諾していたが、結局不成立に終わった。現場監督の長嶋が反対したためであるという[17][18]

留任が決まった克也は反沙知代派の粛清に乗り出し、首謀者と見なされた西岡は12月に中日ドラゴンズへ、江本は翌年1月に島野育夫らと共に阪神タイガースへと、それぞれ交換トレードで放出された。沙知代はこの時、門田をも他球団へ放出させようと画策したが、川勝オーナーが克也に「門田だけは出すこと相成らん」と釘を刺したため、門田の放出は阻止された[19]

1976年5月にアルヴィンとの離婚が成立。8月には「芳枝」から「沙知代」へと改名した。沙知代は監督室に出入りしたり、コーチ会議に口をはさんだり、選手の夫人たちに対して沙知代が私的に作った「南海を優勝させる会」という集まりへの参加を強要した[20]。そのため選手たちは1977年に再び沙知代の排除を計画し、選手たちの訴えを聴いた森本昌孝球団代表は8月中旬に克也を呼び出して最終警告を発した。克也が後見人である天台宗の高僧・葉上照澄を訪ねて相談したところ、葉上は克也に「女(沙知代)を捨てなさい。でなければ、野球ができなくなる。女を取るか、野球を取るか、道は二つに一つしかない」と懇々と説諭した[21]。ところが、外に控えていた沙知代がその場に闖入し、葉上から直ちに退去するよう命じられると、沙知代は葉上を激しく罵倒した。この時の事を克也は「私は溜飲がさがる思いだった」と述懐している[22]

しかし、この一件でついに川勝も克也を庇いきれなくなり、9月13日に行われた川勝オーナー、森本球団代表、葉上大阿闍梨と飯田新一球団後援会長(高島屋社長)の四者会談で、克也の公私混同は甚だしく、沙知代を排除するためには克也の解任も止むを得ないとの結論に達した。球団側は温情措置として克也に対し自主的な辞任を促したが、克也が勧告を拒否したため、克也は9月25日にシーズン終了を待たず2試合を残して解任された[23]

記者会見の後、克也は『週刊文春』に「独占手記」と題する文章を発表した。その中で克也は、沙知代が監督室に入り込み、選手に電話をして野球の事に口出しをするなどの現場介入を繰り返しているなどという話は全くのデマであると主張し、本妻と広瀬夫妻、杉浦忠小池兼司らを激しく非難するとともに、その背後には南海ホークスの「元老」である鶴岡一人の存在があると主張した。克也は、鶴岡が自らの権勢を維持するため、克也を排除して自分に忠実な広瀬を監督にしようと画策し、鶴岡の意を受けた広瀬と小池がデマを流して自分の足を引っ張り、チームの統制を乱していたと主張した。また克也は、1965年蔭山和夫監督就任直後に急死した一件の真相は、鶴岡一派に嫌がらせをされて精神的に追い詰められたことによる自殺であると主張し、今回の解任劇も沙知代に濡れ衣を着せることで球団改革を進めていた自分を抹殺しようとする鶴岡一派が仕組んだ陰謀であり、1975年の門田と江本の「造反」もそうした陰謀の一環であったと主張した[5]

克也はその後も一貫して、沙知代が現場介入をしたなどという話は全くの事実無根であり、鶴岡一派が自分と沙知代を陥れるために流したデマであると主張し続けていたが[24]、沙知代の死後になって「結婚したら采配に口出して来て、私がいない間にコーチや結果を残せない選手にしっかりしなさいと言っていたみたい。私も止められなかった」と、沙知代の現場介入が事実であったことを認めた[25]

表舞台への登場[編集]

1978年1月に克也と本妻の離婚が成立すると、同年4月19日に克也と再婚。ダンとケニーの二人も沙知代と共に克也の籍に入り、野村姓を名乗るようになった。克也は1980年に現役を引退すると、野球評論家として解説業の傍ら主として野球に関する著作を次々と発表した。沙知代もまた文筆活動に興味を持ち、1985年に潮出版社が主催した第4回潮賞のノンフィクション部門に「きのう雨降り 今日は曇り あした晴れるか」と題した作品で応募して特別賞を受賞した。

受賞者が発表された『潮』1985年8月号にはノンフィクション部門の選考委員3人(本田靖春筑紫哲也柳田邦男)による鼎談形式の選評が掲載され、その中で本田靖春は、沙知代の作品を「私はプロ野球にはあまり関心のない人間の一人なんですが、その私にして野村克也という人柄とか、人となりを、非常に身近なところから再確認できたんじゃないかと、そういう感じがします。話題性も十分だし、これまた活字になるべき価値を持った作品だと思いますね」と講評し、沙知代の南海追放に関する主張は「あくどいジャーナリズムに対する反論」であるとして、沙知代を「この人はまちがいなく教養人だと思う」と評した[26]

この時、受賞者の紹介欄に、沙知代の経歴は「D&K社社長、コロンビア大学精神心理学部卒、昭和47年野村克也氏と結婚」と記載された[27]。また、この作品は同年に潮出版社から単行本化されたが、単行本の奥付にも「昭和7年東京生まれ、コロンビア大学精神心理学部卒業、昭和47年野村克也氏と結婚、株式会社D&K社長」という経歴が記載された[28]

克也と南海時代から師弟関係にあった高畠康真は、1990年に克也のヤクルト監督就任に伴ってコーチに就任したが、1年で辞任し、「相変わらず夫人の介入もありましたし」と語っていた[29]。また、古田敦也について「(夫が)ヤクルトの監督を辞める時、古田くんは『お世話になりました』の一言だけ。(略)古田くんを夫は愛弟子のように育てていましたが、息子(カツノリ)は育てられないのかと非常に不満でした。やっぱり古田くんは殺してやりたい[30]」と発言したり、1998年1月には、ハワイで神田うの(以前に石井一久と交際していた)を殴打する騒動を起こすなど[31]、ヤクルト時代も沙知代の行状は改まらなかった。

衆院選立候補と詐称容疑[編集]

1996年平成8年)、沙知代は第41回衆院選に、新進党公認候補として、東京5区比例東京ブロックから重複立候補した。

選挙結果は落選(小選挙区で次々点、比例で次点)であったが、選挙後の1999年(平成11年)7月、選挙公報などに虚偽の経歴を公表していたとして、沙知代について公職選挙法違反(虚偽事実公表罪)で、計7件の告発が東京地方検察庁にされた。虚偽とされた内容は、「コロンビア大学留学」、「1972年に野村克也と結婚」などの記載で、告発者は女優・浅香光代らであった。検察若狭勝検事と捜査員が、現地コロンビア大学で調査したところ、大学の事務当局には当時の留学生の学籍原簿や単位認定記録等自体が残っておらず、経歴詐称の証拠は得られなかった。また、婚姻歴については、息子・克則の誕生日から逆算し、1972年当時には克也と事実婚の状態であったと認定された。これらの事実を受け、本件は全件7件のすべてが、嫌疑不十分により不起訴とされた[32]。しかしながら沙知代はその後、選挙結果に伴って生じていた繰上げ当選の権利を辞退する意向を示した。

この学歴詐称の疑いについては先に、テレビ番組 『ザ・ワイド』(日本テレビ・読売テレビ)が取材し、同大学の同窓会による卒業生名簿に、該当する名前がないことが判明していた。また、週刊誌の取材を受けた沙知代は、「読売読売ジャイアンツ)の陰謀」、「コロンビア大学ではなく、コロラド大学に留学した。間違えたのは編集部のミス」などと答えるなど[33]、曖昧で非合理な対応に終始していた。英語を流暢に喋る沙知代に克也が「どこで英語覚えたの?」と質問すると「コロンビア大学」と答え、親は社長をしていると発言していたが克也によると実家は農家で両親を克也に一度も合わせなかった[34]

サッチー騒動[編集]

1999年(平成11年)、共演した舞台における確執に始まる女優浅香光代とのバトル、批判合戦が、長期に渡ってワイドショーなどで繰り広げられた。これには、「アンチ野村沙知代派」、「野村沙知代擁護派」などとして、複数の芸能人、著名人らが連日の舌戦に参加、マスメディアは格好のネタを提供することとなった。

脱税事件[編集]

2000年頃から、沙知代の脱税疑惑が取沙汰されるようになった。この脱税事件の発覚に大きな役割を果たしたのは次男のケニーであった。ケニーは沙知代から自分にかかってきた本件についての口止めの電話の録音テープなどを捜査当局やマスメディアに提供し[35]2001年3月12日から15日にかけて東京国税局が阪神球団に立入調査を行う事態となった[36]

7月30日、この年で3年契約が満了する克也は、久万俊二郎オーナーら阪神球団上層部と面談し、沙知代が逮捕された場合には直ちに辞任するという条件で久万から続投を許され、阪神球団は8月2日に克也との契約を更新して翌シーズン以降も野村体制で臨むと発表した[37]

10月8日、阪神は2001年の公式戦全日程を終了したが、この頃にはもはや沙知代の逮捕は不可避と見られており、阪神球団は11月29日に沙知代が逮捕された場合には直ちに克也に辞任を命じることを改めて確認した[38]

12月5日、沙知代は約5億6800万円の所得を隠し、法人税所得税あわせて2億1300万円を脱税したとして、法人税法違反(脱税)などの疑いで東京地検特捜部に逮捕され、同日深夜に克也も阪神の監督を辞任した[39]。克也は「嫁の問題で監督を2度もクビになっているのは世界中探しても私ぐらいだろう」と述べている[40]

沙知代の勾留期間は起訴される後までの23日間に及び、翌2002年3月19日に東京地方裁判所で開かれた初公判で沙知代が起訴事実を全面的に認めたため、即日結審して5月1日に有罪判決が下り、沙知代本人に対しては懲役2年・執行猶予4年、罰金2100万円(求刑は懲役2年、罰金2600万円)、沙知代が経営していた「D&K」と「ノムラ」の2社に対しては、罰金3200万円(求刑は罰金3900万円)が科された。

少年野球チーム[編集]

沙知代はかつて、少年野球チームリトルシニア)「港東ムース」(後に解散)のオーナーを務めていた[41]。このチームにはG.G.佐藤、ごく短い期間だが井端弘和が在籍していた。佐藤について沙知代は「日本一になったときのメンバーですから、そりゃあもう、かわいがりましたよ。張り飛ばして、ぶっ飛ばして育てたんですから」と語っている[42]

ケニーは、後に自身の妻となった女性の息子がかつて同チームを退団し、その後の野球人生を沙知代に潰されたことを自著で明らかにしており[43]、これはその後の親子絶縁の一因ともなった。また、2001年(平成13年)に発覚した脱税事件では、沙知代が親らから集めた金を所得申告していなかったことも指摘されている[35]

晩年[編集]

脱税事件の公判中には「今後、芸能活動はしない」と言っていた沙知代であったが、ほとぼりがさめたと見るや芸能界復帰へと動き出し、有罪判決翌年の2003年1月に『サンデージャポン新春SP』(TBS)で、テレビ出演に復帰した。翌年11月には、『クイズ!ヘキサゴン』(フジテレビ)に出演、また、『世界絶叫グランプリ』(同)では、全米の超恐怖と言われる4大マシーンを、表情変えずに完全制覇する姿が放送された。

週刊新潮』は2010年6月、同年の大相撲夏場所4日目に、沙知代が「砂かぶり」席で暴力団組長の妻と談笑しながら観戦していたことを報じた。これに対して沙知代は「隣にいた女性は全く見知らぬ人であり、記事は暴力団と密接な関係にあるとのイメージを与え著しく名誉を傷付けた」として、同誌の発行元である新潮社を相手取って、3300万円の損害賠償請求訴訟東京地方裁判所に提訴した[44][45]

その後、体力の衰えや話す内容がまとまらなくなるなど徐々に老化が始まり、2011年以降沙知代は死去するまで公の場に姿を現すことはなかった。晩年まで沙知代の介護をしていたのは克則の妻・有紀子で、「日本一勇気ある嫁」と揶揄されたものの沙知代と共著2冊を出すなど関係は良かったという[46]

2017年12月8日、沙知代はこの日朝食を一口しか食べなかった。その後、夫・克也の呼びかけにも反応しなくなり、14時30分頃に心肺停止の状態で目黒区内の病院に緊急搬送されたが、同日16時9分に虚血性心不全のため死去した。克也によると、死去前日の12月7日には東京都内のホテルに出掛け、夫婦で夕食を共にしていたという[47]。85歳だった[48][49][50]。 戒名は「惠光院愛絆咲沙大姉」[51]

没後[編集]

2018年1月25日王貞治高須克弥らを発起人として都内のホテルでお別れの会が開かれ、克也のかつての部下である古田敦也をはじめとする球界関係者の他、萩本欽一中村玉緒など著名人およそ1000人が参列した[52]。克也の悲しみは深く[53]、報道陣の前で涙を見せる様子もあったが、多くの参列者が集まったことに感謝の意を示した[54]

克也は同年2月16日放送のTBSテレビ情報バラエティ番組爆報! THE フライデー」に出演し、沙知代死去直前の様子などを語った[55]。その中で克也は、沙知代が自分に語った過去の経歴や家庭環境などの「履歴は100%、全部ウソでした」と告白[56][57]、沙知代が自分に全部嘘を言っていたと語った。克也はまた「ウソをついてでも自分と結婚したかったのだろう。愛情の変換でそうなったんじゃないのかな、と取った」と語った。克也のこの発言により、沙知代の経歴に関する騒動は決着した。

2019年3月、克也は手記『ありがとうを言えなくて』を発表し、沙知代が死去した時の様子や沙知代への思いなどを明かした[58][59]。克也は同書において沙知代が自分に言っていた生い立ちや経歴はすべて嘘であったと認めた。また沙知代の最後の言葉はいつもの強気な口調で「大丈夫よ」であったという。同年5月28日にはNHK総合テレビの情報バラエティ番組「ごごナマ」に出演し[60]2010年に夫妻で出演したNHK衛星第2テレビジョンNHK衛星ハイビジョンのバラエティ番組「ザ☆スター」の映像を交えながら沙知代との日々を語った。

家族[編集]

前夫との間にもうけたダンケニーは、1978年に後夫の克也と再婚した際に沙知代の子供として共に克也の戸籍に入ったものの、両名共に沙知代と確執があり一時絶縁関係となった(ただし、義父の野村克也とは絶縁していない)。前夫のアルヴィンは1979年自殺した[61]。父の巳之吉はアルヴィンの為に戒名をもらってその位牌を自家の仏壇に安置し、日々供養を欠かさなかったという[62]

次男のケニーは2001年(平成13年)、母・沙知代との決別の書たる暴露本を著したが[43]、2005年に克也立会いのもとで和解した[63]

ダン、ケニー、克則の3人はその後結婚して子供も授かったため、沙知代には孫が数人いる。このうち、ケニーの娘である野村沙亜也は職業として野球界に携わっており、ロサンゼルス・エンゼルス・オブ・アナハイムに球団職員として勤めている[64]

著作[編集]

  • 『きのう雨降り 今日は曇り あした晴れるか』 (潮出版社1985年
  • 『叱ってしつける ほめて育てる - 野村沙知代の親子塾』 (海竜社1991年
  • 『女は賢く妻は可愛く』 (海竜社、1993年
  • 『猛母猛妻』 (扶桑社1996年
  • 『あなた、男の鑑定できますか - チェックポイントは、この17カ所』 (クレスト社、1997年
  • 『夫婦をみがく33の秘訣 - 夫婦のあり方、この組み合わせの妙』 (成美文庫1999年
  • 写真集 『Stay Young Forever - 野村沙知代』 (ナイタイ2000年)プロデュースは高須基仁。高須曰く「返品率が9割を超え、今まで412冊の写真集を作ったがワーストワン。私の人生最大の汚点と言ってもいい」[65]
  • 『I am サッチー - 挑発~沈黙の200日』 (バウハウス、2000年)
  • 『どうすれば、言いたいことが言える自分になれるか?』(アスキー2001年)※テリー伊藤との共著
  • 『サッチーの母親学 - 母稚園』 (ぴいぷる社、2001年)
  • 『悪妻こそ、良妻』 (廣済堂出版、2001年)※野村有紀子(克則の妻)との共著
  • 『日本一勇気ある嫁』 (モッツ出版、2001年)※野村有紀子との共著
  • 『あなたに伝えたい - 眞由ちゃんは見ていた』 (北水、2001年)※絵:ほんままさえ
  • 『NORA - 老犬は去り行くべきか…野良たちの選択』 (東邦出版2004年)※絵:優亞
  • 『野村セオリー - 絆』 (海竜社、2006年)※野村克也との共著
  • 『老疼の雫』 (文藝春秋2008年
  • 『新・冠婚葬祭入門』 (祥伝社新書、2009年
  • 『夫の転がし方』 (角川書店2011年
  • 『女が人生を前向きに生きるための「明日じたく」』(大和書房2014年

メディア出演[編集]

テレビ番組[編集]

その他ゲスト出演多数。

CM[編集]

過去に出演したのも含む。

  • 高須クリニック - 沙知代逝去後の2017年12月末には、彼女の出演していたCM映像の最後に「野村沙知代さんのご冥福をお祈りいたします」という追悼テロップが挿入されたCMが放送された
  • KINCHO「タンスにゴン」
  • 永谷園あさげ
  • としまえん(水着姿を披露して話題になった)
ほか多数。

映画[編集]

オリジナルビデオ[編集]

参考文献[編集]

脚注[編集]

  1. ^ http://fenterprise.jp/company.html
  2. ^ 『姉野村沙知代』29頁
  3. ^ 『姉野村沙知代』33-34頁
  4. ^ 『プロ野球「毎日が名勝負」読本』(彩流社)
  5. ^ a b 『週刊文春』1977年10月13日号、154-161頁
  6. ^ 『女房はドーベルマン』73-75頁
  7. ^ 『ありがとうを言えなくて』61-63頁
  8. ^ 『週刊文春』1999年6月3日号、26-30頁
  9. ^ 『姉野村沙知代』153-155頁
  10. ^ 『南海ホークス ナンバ栄光と哀しみの故郷』73-74頁
  11. ^ 『姉野村沙知代』142頁
  12. ^ 偉大なる月見草・野村克也の人生 - 圧倒的な才覚で野球と向き合った波乱の54年 『週刊ベースボール・タイムズ』 株式会社スクワッド Vol.033 2008年12月3日/10日合併号 p40
  13. ^ 実の息子からも恨み節、写真集は“返本率9割” 「野村沙知代さん」猛女伝説,週刊新潮 2017年12月21日号掲載
  14. ^ 『門田博光の本塁打一閃』118-120頁
  15. ^ 『野球バカは死なず』156-158頁
  16. ^ 週刊文春』2018年6月28日号「阿川佐和子のこの人に会いたい」第1216回、プロ野球解説者、江本孟紀、138頁
  17. ^ 『監督たちの戦い 決定版 下』16頁
  18. ^ 【清水満のSPORTSマインド】“野村色”に染まる巨人+(1/2ページ) - MSN産経ニュース 2012年2月14日
  19. ^ 『門田博光の本塁打一閃』121頁
  20. ^ 『姉野村沙知代』169頁
  21. ^ 『女房はドーベルマン』78頁
  22. ^ 『ありがとうを言えなくて』79-80頁
  23. ^ 波乱万丈 野村克也【4】監督解任、南海を去る時事通信
  24. ^ 『女房はドーベルマン』76-77頁
  25. ^ 週刊現代2019年4月13日号、169頁「野村克也、亡き妻の墓前にて-最愛のサッチーを忘れられず…」
  26. ^ 『潮』1985年8月号、96頁
  27. ^ 『潮』1985年8月号、86頁
  28. ^ 『きのう雨降り 今日は曇り あした晴れるか』203頁
  29. ^ 門田隆将著、甲子園への遺言 伝説の打撃コーチ高畠導宏の生涯 (講談社文庫)、2008年、P304
  30. ^ 経歴詐称の野村沙知代「古田を殺してやりたい」との暴言も,90チョベリー,2016年3月24日
  31. ^ 野村沙知代さん急死 98年には「うのビンタ騒動」デイリースポーツ、2017.12.09.
  32. ^ 平成11年10月1日
  33. ^ 週刊誌『フォーカス』の取材
  34. ^ 週刊現代2018年11月10日号、140頁、野村克也「沙知代よ、君がいない毎日はつまらなくて」
  35. ^ a b Sachiyo Nomura arrested in tax probe Japan Times Online Dec-6-2001, Retrieved on Aug-27-2010
  36. ^ 『ダメ虎を変えた!』80頁
  37. ^ 『ダメ虎を変えた!』82頁
  38. ^ 『ダメ虎を変えた!』87頁
  39. ^ 『ダメ虎を変えた!』88-89頁
  40. ^ 週刊ベースボール 2017年12月25日号、P96
  41. ^ 赤坂、恩師・野村監督との再会に気持ち新た 中日スポーツ 2009年6月23日
  42. ^ スポーツ報知、2008年8月24日
  43. ^ a b ケニー野村 『グッバイ・マミー - 母・野村沙知代の真実』 新潮社 2001年
  44. ^ 『「極道」&「極道の妻」と砂かぶりで相撲を観戦した参院候補「エモヤン」と昔の衆院候補「野村サッチー」』 週刊新潮 2010年6月10日号
  45. ^ 野村沙知代さん、週刊新潮を提訴 名誉棄損で 共同通信 2010年6月11日[リンク切れ]
  46. ^ フライデー2018年4月27日号ノムさんボヤいた、野村克則日テレ美人ディレクターとバンキシャ!不倫、23頁
  47. ^ 野村沙知代さん、病院検査で心臓の強さに太鼓判押された翌月の心不全急逝だった2018年2月16日 スポーツ報知
  48. ^ 野村沙知代さんの死因は「虚血性心不全」家族で密葬へ、後日に「お別れ会」 - デイリースポーツonline 2017年12月9日
  49. ^ サッチー急死 ノムさん焦燥「俺の方が先に逝くだろうと…」 - スポーツニッポン 2017年12月9日
  50. ^ 野村沙知代さんが死去 昼過ぎに意識不明で病院搬送 ホウドウキョク(フジテレビ)2017年12月8日
  51. ^ 野村沙知代さん 25日にお別れの会 王貞治さん、高須院長らが発起人デイリースポーツ
  52. ^ ノムさん涙のボヤキ サッチーお別れの会に1000人「俺が死んだらこんなに集まるかな」スポーツニッポン
  53. ^ 野村克也「話し相手がいない」発言に“球界復帰”希望する声2018年02月28日 WEB女性自身 克也は2018年2月8日に放送されたフジテレビ系トークバラエティ番組「アウト×デラックス」、同年2月16日放送のTBSテレビ情報バラエティ番組爆報! THE フライデー」、同年2月28日放送のフジテレビ系生活情報番組「ノンストップ!」に立て続けに出演し、気持ちの整理がつかない日々を語っている。
  54. ^ 野村克也氏「うちの宝」 妻・沙知代さん思い涙…「残された人生どうなるのかな」2018年1月25日 ORICON NEWS
  55. ^ 野村沙知代さん、病院検査で心臓の強さに太鼓判押された翌月の心不全急逝だった2018年2月16日 スポーツ報知
  56. ^ 野村克也氏 沙知代さんが語った「履歴は100%、全部ウソでした」2018年2月16日 スポーツニッポン
  57. ^ ノムさん、沙知代さんの経歴「100%全部嘘でした。俺に全部嘘を言っていた」2018年2月16日 スポーツ報知
  58. ^ 野村克也さんがいま明かす「沙知代さんが亡くなった瞬間のこと」(1)(2)(3)(現代ビジネス編集部、2019年4月28日、講談社)
  59. ^ 丸山あかね「野村克也氏が語る妻・沙知代と生きた人生」(1)(2)(3)(4)(論座、2019年5月2日、朝日新聞社)
  60. ^ ごごナマ「野村克也」2019年5月28日 goo テレビ番組
  61. ^ 『グッバイ・マミー』57頁
  62. ^ 『姉野村沙知代』174-175頁
  63. ^ 次男ケニー氏が2週間前振り返り「元気だった」日刊スポーツ 2017年12月9日
  64. ^ エンゼルス、野村沙知代さん孫の沙亜也さんを表彰 - 日刊スポーツ。2018年9月29日12時53分発信、同年11月1日閲覧
  65. ^ 週刊新潮2017年12月21日号、32頁

外部リンク[編集]