前田幸長

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前田 幸長
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 福岡県筑紫郡那珂川町
生年月日 (1970-08-26) 1970年8月26日(47歳)
身長
体重
179 cm
70 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 投手
プロ入り 1988年 ドラフト1位
初出場 1989年4月15日
最終出場 2007年9月12日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

前田 幸長(まえだ ゆきなが、1970年8月26日 - )は、福岡県出身の元プロ野球選手投手)。シンクバンク→FLAME OF SINCERITY(フレイムオブシンセリティ)所属。ナックルボールにスライダー系の回転を加える等の変化をつけ、オリジナルとして確立していた(後述参照)。

現役引退後、2009年より日本経済大学にて准教授を務めていた。2012年に退任。現在は野球評論家としてアール・エフ・ラジオ日本九州朝日放送KBCラジオ)の中継、J SPORTSメジャーリーグ中継に出演している。

また、「人生タイミングとターニングポイント」の講演題目で全国各地で講演や野球教室の開催などの活動をしている。都筑中央ボーイズを主宰し、会長として指導も行っている。愛称は「チョコ」。

経歴[編集]

プロ入り前[編集]

福岡第一高等学校時代に稲垣人司から厳しい指導を受け投手として力を付けた[1][2]1988年福岡第一高等学校のエースとして、山之内健一らとともに春夏連続甲子園出場。同年夏の大会では決勝戦で広島商業に敗れ準優勝に終わるも、甘いマスクと戦国武将を思わせる名前で人気を集めた。

同年のプロ野球ドラフト会議では、地元に誕生した福岡ダイエーホークスが2位指名すると宣言したが、本人は大学進学の意思を表明し同志社大学のセレクションを受ける。ところが実は裏で西武ライオンズとの間で「1位指名する」との密約が進められていたという[3]。しかしドラフト会議で西武は指名を回避(この時に西武が1位・2位に指名したのは共にプロ入り拒否を表明していた渡辺智男石井丈裕である)し、結局ロッテオリオンズからの1位指名を受け、ロッテに入団。「チョコ」のニックネームは入団直後のバレンタインデーで大量のチョコレートが贈られた事が由来で本人によれば「約1500個」[4]だという。

ロッテ時代[編集]

高卒新人ながら1年目の1989年から一軍で17試合に登板し、先発では7試合に登板。安定感を欠いたがプロ初勝利を含む2勝を挙げ、園川一美小宮山悟伊良部秀輝らと1990年からはロッテの先発ローテーション投手として活躍し、西武ライオンズの主砲・清原和博と幾度となく名勝負を演じた。なお清原とは後々同僚となる。

だがチームの低迷もあり、年間8-9勝の勝ち星に対し12-14敗の負け星といった成績で、5年連続二桁黒星を記録し、9勝が二度あっても二ケタ勝利がない。一方で人気・実力ともに村田兆治引退後のロッテの顔であった。

引退後に本人が明らかにした話として、実は入団1年目の春季キャンプで左肩を痛めてしまったという。しかも本人は「肩を痛めていることを球団に知られたら二軍に落とされてしまう」ことを危惧し、左肩痛のことをトレーナーに報告せず隠し通してしまった。このため適切な処置を受けられなかった左肩痛はその後慢性化し、引退まで長きに渡って苦しめられた[4]

1990年は中継ぎでの登板もあったことから、33試合と登板数は多かったが8勝13敗2セーブ、防御率3.99の成績を残した。また8完投を記録し、規定投球回到達を果たした。

1991年も前年と同等の起用法がなされ、登板数は30試合に達した。8勝11敗2セーブ、防御率3.86と前年とそれほど変化は見られなかったが、完投数は10に達した。

1992年からチームの本拠地が千葉マリンスタジアムへ移転。この年は1992年のオールスターゲームに出場し、第1戦(千葉マリンスタジアム)に先発した。同年はプロ入り最多の9勝を挙げ、2年連続で10完投を記録したが負け数も14だった。

1993年も9勝を挙げたが、防御率4点台と悪化した。

1994年は調子を落とし、23試合に登板したものの先発での登板は18試合に留まった。最終的に4勝10敗、防御率6.20と不本意な成績でシーズンを終えた。

1995年には新監督にボビー・バレンタインが就任。しかし、調子が上向くことなく17試合で3勝6敗、防御率5.10の成績でシーズンを終えた。チームは2位と躍進したものの、自身はほとんど貢献できなかった。オフに仁村徹酒井忠晴山本保司との3対3の大型トレード平沼定晴樋口一紀とともに星野仙一が監督復帰した中日ドラゴンズへ移籍。

中日時代[編集]

1996年は足の故障で途中離脱したが先発ローテーションの一角としてプロ初の勝ち越しを記録した。最終成績は7勝4敗、防御率4.21だった。

1997年はチームの本拠地がナゴヤドームへ移転。この年は開幕からローテーションに加わったものの2勝13敗と大幅に負け越しを記録してしまった。

1998年は自身の希望もあり中継ぎ投手へ転向[5]。これが見事にハマり[6]、36試合に登板し、初の防御率2点台を記録した。

1999年にはチーム事情から2年ぶりの先発を任されることもあったが、25試合に登板し、この年も防御率2.63と安定感ある投球を見せ、リーグ優勝に貢献した。福岡ダイエーホークスとの日本シリーズでは第3戦の1試合に登板した。

2000年9月24日の対読売ジャイアンツ戦(東京ドーム)に先発。この試合に中日が負けると巨人がリーグ優勝をしてしまう試合であったが、上原浩治槙原寛己木村龍治平松一宏と投げ合い8回まで被安打5・無四球無失点と生涯最高のピッチングを展開。しかし9回裏に先頭・元木大介高橋由伸と二者連続でライト前ヒットを浴び降板。リリーフしたエディ・ギャラード松井秀喜にもライト前ヒット、江藤智に同点満塁弾、更に二岡智宏にサヨナラホームランを浴び、巨人に4年ぶりのリーグ優勝を決められた。同年は41試合に登板したが、先発登板も12試合あった。5勝4敗、防御率3.78と若干調子を落とした。

2001年は前半戦まで先発投手を任されていたが不調により後半戦から再び中継ぎ投手に転向した。最終的に36試合の登板で4勝10敗、防御率3.41と今一つの成績でシーズンを終えた。なお星野はこの年限りで監督を辞任した。一方、前田は山田久志投手コーチとはソリが合わず[7]、オフにその山田が翌年中日の監督になることからFA宣言し、読売ジャイアンツへ移籍。この際、人的補償として平松一宏が巨人から中日へ移籍した。

中日も慰留に必死だったが、提示した条件は金銭面でも巨人にかなわなかったこともあり、慰留はならなかった。

巨人時代[編集]

セットアッパーとして固定されると、移籍1年目の2002年から中日時代と全く変わらぬ活躍で安定した力を発揮し、同年は自己最多の53試合に登板し、防御率2.74の成績を残し、チームのリーグ優勝と日本一に貢献した。リーグ優勝はあっても日本一を経験したのはこれが初。

2003年は抑えの河原純一が前年の活躍から一転して絶不調に陥り、リリーフ陣は駒不足となり、投手陣が崩壊することとなったが、その中でも投壊に巻き込まれることなく、50試合に登板し、一時的に抑えで登板したこともあり3セーブを挙げ、防御率3.15と一定の成績を残した。

2004年9月26日に通算500試合登板を達成し、勝利投手にもなった。この年もチームのリリーフ陣は壊滅状態で抑えも固定できない状況だったが44試合に登板し、防御率2.38と安定感を見せた。

2005年には史上11人目となる1イニング4奪三振を記録。この年は50試合に登板したが、勝敗とセーブが一つも付かない珍しいシーズンとなった。なお防御率4点台と移籍4年目で初めて安定感を欠くシーズンとなり、チームも1997年以来8年ぶりのBクラスでシーズンを終え、5位と不本意なシーズンとなった。

2006年は更に調子を落とし28試合の登板に留まり、防御率7.23と大きく安定感を欠いた。

2007年は同じ左腕で育成枠から支配下登録された山口鉄也の積極起用もあり、15試合の登板に終わり、防御率5.06と不調のままシーズンを終えた。それでも左のワンポイント要員や、敗戦処理投手としてチームの泥を被り、陰から5年ぶりのリーグ優勝に貢献した。10月30日、国内でやり残した事はないとの理由のもと、メジャーリーグ挑戦のため球団へ退団を申し入れると了承され、11月30日に自由契約公示された。

MLB時代[編集]

11月12日にSFXベースボールジャパン社と代理人契約を結ぶと、1月26日渡米、28日に10球団を招いて合同トライアウトを実施している。

2008年テキサス・レンジャーズとマイナー契約。3Aオクラホマでは36試合登板、5勝3敗、防御率4.55の成績を記録したが、メジャー昇格は果たせなかった。そして、12月3日に現役引退を表明した。

引退後[編集]

現在は九州朝日放送野球解説者タレントをはじめとして、企業主催の講演会や母校・福岡第一高校の系列大学である日本経済大学で教壇に立つなど幅広い活動を展開している。2011年8月から10月にかけて東京スポーツ紙上で集中連載「流浪の左腕 前田幸長 細く長く」を執筆し、自らの半生を振り返っている。また、少年野球チーム・都筑ジャイアンツボーイズ(中学生)と都筑中央ボーイズ(小学生)を設立し会長を務めている。

プライベート[編集]

21歳の時に高校時代の同級生と結婚。卒業式当日、取材対応していた間も「一緒に帰りたい」と彼女はずっと待っていたという。それを知って「この子と結婚しよう」と心に決めた。現在4児の父。

選手としての特徴[編集]

プロ野球選手と思えないほどの細身であるが、連日の登板をものともしないタフネス左腕。140km/h台の速球とナックルボールを使いこなす。山なりの軌道を描いて激しく揺れながら落ちる変化ではなく、微妙に回転がかかっており、直球と同じ軌道からランダムに沈む変化を描く。フォークボールの代替として高校の先輩に教わったものだという。

クイックモーションの速さは投球動作開始から捕手のミットに収まるまでが0.99秒と史上最速。自ずと周囲から「スーパークイック」と絶賛された。中日移籍後、星野監督から「いつまでもロッテの野球(当時のパリーグの主流であった力と力のぶつかり合い、若い時の勢いだけの投球)をやってんじゃねぇ」と一喝され、どうすればいいか考えた末に身につけた。その結果、走者が一塁に居ても気にしなくなり、打者との勝負に集中出来るようになったという。また、やがて走者がいなくてもクイックを織り交ぜて投げタイミングを外す投球で打者を抑える術も身につけた。[8]

NPBでの最後のシーズンとなった2007年の春期キャンプでは起死回生を目指し、サイドスローへの転向に挑み、従来の無駄のないスリー・クォーターから一転、変則サイドスローでの投球となった。村田真一バッテリーコーチからは「ジェフ・ウィリアムスのようになってほしい」と期待を寄せられていたが、2008年度は上手投げを基本線に、時折横手を交えて投げていた。

詳細情報[編集]

年度別投手成績[編集]





















































W
H
I
P
1989 ロッテ 17 7 0 0 0 2 3 0 -- .400 165 36.1 43 7 22 0 1 31 3 2 29 28 6.94 1.79
1990 33 20 8 1 1 8 13 2 -- .381 697 167.0 162 19 51 3 4 130 12 0 79 74 3.99 1.28
1991 30 22 10 1 1 8 11 2 -- .421 699 163.1 145 30 72 4 5 130 10 0 79 70 3.86 1.33
1992 28 26 10 2 0 9 14 0 -- .391 751 173.0 151 20 86 2 1 158 12 0 82 76 3.95 1.37
1993 27 26 6 0 1 9 12 0 -- .429 736 171.1 176 21 68 0 2 100 6 0 85 79 4.15 1.42
1994 23 18 0 0 0 4 10 0 -- .286 467 103.0 114 14 55 1 3 59 9 0 76 71 6.20 1.64
1995 17 9 0 0 0 3 6 0 -- .333 265 60.0 61 11 24 2 0 49 6 0 34 34 5.10 1.42
1996 中日 17 13 1 0 0 7 4 0 -- .636 328 77.0 73 9 22 2 0 55 4 0 44 36 4.21 1.23
1997 25 18 0 0 0 2 13 0 -- .133 448 101.1 112 11 37 4 3 91 2 0 59 57 5.06 1.47
1998 36 0 0 0 0 4 2 0 -- .667 176 42.1 43 2 11 1 0 34 1 1 11 11 2.34 1.28
1999 25 4 0 0 0 2 0 1 -- 1.000 145 37.2 26 5 10 3 1 34 2 0 12 11 2.63 0.96
2000 41 12 0 0 0 5 4 0 -- .556 392 97.2 82 10 18 1 2 71 2 0 46 41 3.78 1.02
2001 36 13 1 0 0 4 10 0 -- .286 430 103.0 98 10 26 4 0 81 6 0 39 39 3.41 1.20
2002 巨人 53 0 0 0 0 4 4 1 -- .500 188 46.0 47 4 6 3 2 43 2 0 17 14 2.74 1.15
2003 50 0 0 0 0 5 2 3 -- .714 236 60.0 49 4 7 2 1 49 3 0 22 21 3.15 0.93
2004 44 0 0 0 0 2 1 0 -- .667 170 41.2 43 3 2 0 2 48 1 0 13 11 2.38 1.08
2005 50 0 0 0 0 0 0 0 9 ---- 269 62.0 67 9 18 6 1 58 2 0 35 32 4.65 1.37
2006 28 0 0 0 0 0 0 0 2 ---- 100 23.2 32 4 3 0 0 15 1 0 19 19 7.23 1.48
2007 15 0 0 0 0 0 1 0 1 .000 51 10.2 20 2 1 0 0 5 0 0 6 6 5.06 1.97
通算:19年 595 188 36 4 3 78 110 9 12 .415 6713 1577.0 1544 195 539 38 28 1241 84 3 787 730 4.17 1.32
  • 各年度の太字はリーグ最高

表彰[編集]

記録[編集]

初記録
節目の記録
その他の記録

背番号[編集]

  • 11 (1989年 - 1995年)
  • 31 (1996年 - 1997年)
  • 18 (1998年)
  • 29 (1999年 - 2007年)

関連情報[編集]

出演番組[編集]

KBCテレビ
KBCラジオ
  • KBCホークスナイター/KBCダイナミックホークス - 解説(主に関東・東北地方のビジターゲーム担当だが、過去には福岡に出張してのホームゲーム担当もあった)
ニッポン放送
文化放送
  • ニッポン放送との契約の関係上、2015年度以降文化放送ホームランナイターなどの本番カードへの出演は無い。ソフトバンクの関東圏でのビジターゲーム(対ロッテ戦中心)や東京ドームでの主催ゲームなどで、KBCへの裏送りかつ文化放送の本番への昇格する可能性がない中継(東京ドームの対日本ハム戦で「STVファイターズLIVE」、対楽天戦で「TBCパワフルベースボール」にネットされる場合はあり)に限定して出演
ラジオ日本
  • 前田幸長のサンデースポーツマガジン - メインパーソナリティ
  • ラジオ日本ジャイアンツナイター - 2014年までゲスト解説
  • 准教授、前田幸長のチョコゼミ - メインパーソナリティー
TOKYO MX
J SPORTS
フジテレビONE

脚注[編集]

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  1. ^ 東京スポーツ・2011年8月16日付「細く長く」〈連載9〉
  2. ^ “前田 幸長 - ヒーローインタビュー”. 中高生部活応援マガジン ヒーローインタビュー (株式会社HIEROPHANT). (2005年). オリジナル2017年5月9日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20170509033014/http://herointerview.jp/athlete/6153 2017年5月9日閲覧。 
  3. ^ 東京スポーツ・2011年8月25日付「細く長く」
  4. ^ a b 東京スポーツ・2011年8月30日付「細く長く」
  5. ^ 1998年日刊スポーツ発行プロ野球選手写真名鑑
  6. ^ 1999年日刊スポーツ発行プロ野球選手写真名鑑
  7. ^ 東京スポーツ・2011年9月23日付「細く長く」
  8. ^ NHKBS12016年11月12日放送「球辞苑」・クイックモーション

関連項目[編集]

外部リンク[編集]