根本陸夫

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根本 陸夫
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 茨城県那珂郡石神村(現・東海村
生年月日 (1926-11-20) 1926年11月20日
没年月日 (1999-04-30) 1999年4月30日(72歳没)
身長
体重
171 cm
64 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 捕手
プロ入り 1952年
初出場 1952年
最終出場 1957年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴
野球殿堂(日本)
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選出年 2001年
選出方法 競技者表彰

根本 陸夫(ねもと りくお、1926年11月20日 - 1999年4月30日)は、茨城県水戸市生まれ、那珂郡東海村出身[1]プロ野球選手捕手)・監督・経営者(実業家)、野球解説者

西武ライオンズ編成・管理部長、元福岡ダイエーホークス代表取締役専務、代表取締役社長。

ニックネームは「球界の寝業師」。ドラフト会議トレードで辣腕を振るい、その仕事ぶりは「根本マジック」(後述)と呼ばれた。肩書きこそ違ったが、事実上のゼネラルマネージャーとしてその敏腕ぶりを発揮した。本人は「私はつなぎ監督なので」と話していた通り、監督としては目立った成績を残せず、在任期間も短かったものの、広島・西武・ダイエーの初優勝の土台を築き上げた。

横浜大洋ホエールズヤクルトスワローズの監督を歴任した関根潤三とは日大三中時代からの親友で、選手・コーチ(途中スカウト)を通じて近鉄パールス→近鉄バファロー→近鉄バファローズに在籍した。なお、大正生まれとしては最後のプロ野球監督経験者である(同年の12月25日から年号が昭和に変わったため)。

人物・経歴[編集]

茨城県水戸市の資産家に生まれ、石神村に育つ。父・時之助は水戸で商売を営んでいたが、根本が生まれてからは祖父の事業を継承するために石神村に転居。石神村の村長となり、隣接する村松村と合併しても村長を二期務め、在任中に日本原子力研究所の誘致を決めた。根本は祖父から「いずれ根本家を支える人物」として目をかけられ正教幼児洗礼を受けた。さらに祖父は学問好きだったので根本にも勉強家になることを期待し、石神村内の小学校から将来を考え、水戸市立三の丸小学校に転校させて若手弁護士を家庭教師としてあてがうが、それが根本と野球を結びつけることとなる。この弁護士が大変な野球好きで、二人で城跡でキャッチボールをしたり、中等野球や東京六大学野球の話をよく根本に聞かせた。また、帰宅後根本は当時地方では珍しかったコンクリート二階建ての実家の壁にボールをぶつけて一人でも楽しんだ。このことにより病弱だった根本が頑健な青年となった。小学校卒業後は旧制茨城中学校に進学するも、放校処分となって旧制日大三中に移籍。恩師・藤田省三監督に出会い、関根とともに指導を受けた。終戦後は日本大学予科で野球を再開し、田宮謙次郎とバッテリーを組む。東都大学リーグでは首位打者を獲得するなど活躍したが、一時立教大学にも「入っていた」ことが発覚して出場停止処分が下された。この「入っていた」というのが立教に入学してプレーしたのか、単に野球部のセレクションを受けた程度だったのか真相は不明。この出場停止処分中に母校・日大三中の監督を務めた。その後は法政大学の監督に就任していた藤田に引き取られて法大へと進み[2]、関根と再びバッテリーを組むこととなった。この時期は硬派学生として暴れまわり、後に安藤組を興す安藤昇と知り合う。大学卒業後は川崎コロムビアを経て、1952年近鉄パールズへ入団。関根を筆頭に投手を気分良く投げさせる捕手として評判であったほか[3]、抜群の記憶力は投手陣にも首脳陣にも頼りにされた。一軍出場の無かった1955年から1956年にかけては、プロ野球経験のない芥田武夫監督をサポートし、主に根本が投手のローテーションを決めていたという[3]1957年引退。

引退後も近鉄に残ってスカウト、二軍マネージャー[3]、二軍コーチ(1962年 - 1966年)を歴任。現役時代に小玉明利が入団テストを受けた際、根本は芥田に「ぜひ採用すべきだ」と進言したがところが芥田は朝日新聞運動部長から前年途中に監督になったばかりで「高校中退させるには・・・」と躊躇した[4]。だが根本は「3年まで待つと他球団に取られる。」として強引に口説いた[4]。スカウトとして徳久利明土井正博を担当した[3]別当薫監督と共に「18歳の4番打者」土井正博を育て上げた。土井は「別当さんと根本さん、僕はふたりに育ててもらったんですよ。」、「自分がスカウトして入団してきた選手が迷わないように道をつけてくれました。大学や社会人出身の選手は、ある程度、プロとはどういう世界かわかりますけど、高校から入ってきた選手は右も左もわからないでしょ。そこで迷わないようにしてくれたのが根本さん」と述べている[5]。退団後は近鉄の佐伯勇オーナーから今後について尋ねられ、スカウト時代から友人を通じて顧問格になっていた鉄鋼を扱う会社に転職しようと告げていた。しかし、前述の日大野球部での停止処分中に母校日大三中で監督を務めたが、その教え子の中に後にヤクルト球団参与を務める村上宏がいた。村上の父は閣僚経験者でもある村上勇であり、その勇に見込まれた根本は産経新聞社長の水野成夫と親交を結んだ。さらに水野の友人である東洋工業松田恒次に紹介された。この松田は根本の恩師・藤田の幼馴染であり、藤田の推薦と先述の各財界人の後押しによって1967年広島カープ長谷川良平が監督を務める同球団コーチに就任[6]上田利治は当時の同僚コーチ。1968年、チームは「広島東洋カープ」として運営形態が変更されることになり、根本はその新体制で監督に就任。オーナーの松田恒次から「シーズン全敗でもかまわないからチームの基礎作りを」と要望される。根本はコーチに小森光生を招聘、阪神タイガースから山内一弘を獲得し、選手には猛練習を課した[7]。また食事面でも制限を加える措置をとる等で同年、68勝62敗の3位となりカープ球団創設以来初のAクラスに導く。

1969年には最下位に転落するが、1970年、ヘッドコーチとして関根潤三、内野守備コーチとして広岡達朗を招聘。両者はいずれも指導者キャリアのスタートとなるが、同年と翌1971年は勝率5割以上の4位と健闘し、この間衣笠祥雄山本浩二水谷実雄三村敏之らを育成、後の赤ヘル黄金時代の礎を築いた。しかし、1972年、開幕から不振が続いてシーズン途中で休養、そのまま退団した。退団後もチームづくりで広島の球団オーナーの相談に乗っている[8]。その後は大阪の朝日放送(ABC)で野球解説者を務めた。

クラウン・西武時代[編集]

広島退団後は、鉄鋼業を友人と営むかたわら朝日放送で解説者を務めていたが、1977年オフ、俳優に転向していた安藤昇から「クラウンライターライオンズの仕事を手伝ってくれ」という電話が入った。球団関係者ではなく友人の安藤からの要請に根本は戸惑ったが、「球団から正式に要請がきたら受諾してほしい」とクラウンライターの幹部と親しい安藤が根回しをしてきたと根本は理解し1978年、球団社長の坂井保之に招聘されクラウンライター・ライオンズの監督に就任する。ここでも就任直後から選手に猛練習を課し低迷するチームの建て直しを図ろうとし[9]、就任期間中には真弓明信立花義家がレギュラーに定着した[10]。2年連続最下位のチームを率いたが5位に終わっている。同年シーズン終了後に国土計画堤義明社長が球団を買収し球団名が西武ライオンズに変更される。根本はそのまま監督として球団に残留、新生西武ライオンズ初代監督となる。

西武監督時代は管理部長も兼任してフロントの責任職に就任し、球団代表の坂井、スカウト部長の浦田直治らと共にチーム作りを急速に進めていった。新生西武の1978年のドラフト会議で森繁和を1位に指名。巨人とドラフト外で松沼博久雅之の松沼兄弟の争奪戦を制して獲得に成功。そして阪神タイガースから田淵幸一古沢憲司を、ロッテから山崎裕之をトレードで獲得。さらにロッテを自由契約となった野村克也も獲得。1979年の春季キャンプはアメリカフロリダで2か月近くにわたって実施する。上記の戦力補強ぶりから戦前の西武の評価はまずまずだったが、開幕から12連敗を記録し、結局1979年は最下位に終わる。飯田徳治、別当に次いで史上3人目の両リーグ最下位監督となった。

しかし、補強の成果は着実に現れており、翌1980年の後期ペナントレースでは近鉄、ロッテオリオンズ日本ハムファイターズと優勝争いを演じ話題を起こす。1980年のドラフト会議で石毛宏典岡村隆則杉本正安部理の4名を指名し獲得。ドラフト外で秋山幸二を巨人等との争奪戦の末に獲得に成功。そして、当時熊本工業高校の定時制に通学していた伊東勤所沢高等学校に転校させ、西武の練習生とした。翌年のドラフト会議で西武は伊東を1位指名した他、プロ入りを拒否して社会人野球・熊谷組への入社が内定していた名古屋電気高工藤公康を6位で指名し、説得の末入団にこぎつけた。

根本は1981年限りで監督を退任して管理部長に専任。そして後任監督として、かつて広島での仲間だった広岡を招聘する。またヘッドコーチとして森祇晶も招聘する。こうして根本は、オーナーの堤に「私は何も現場のことは分からないから全部根本さんに任せてある」と言わしめるほどの実質的なGM職として西武黄金時代を築いていくこととなる。

広岡は1982年1983年と連続日本一に輝く。特に1983年の巨人と日本シリーズは「球界の盟主の座を賭けた決戦」と喧伝され、巨人を4勝3敗で破った。こうして西武ライオンズの快進撃は全国的に有名となるが、根本は監督の広岡とチームの補強方針を巡って対立をするようになる。そして夕刊紙などに広岡のチーム批判とも取れるコメントが掲載されるようになり、両者の溝が深くなっていった。1984年は3位に終わるが、翌1985年は再びリーグ優勝する。しかし日本シリーズは阪神に2勝4敗で敗れた。シリーズ終了後、広岡は健康面での不安を理由に辞任する。

広岡の後任には、オーナーの堤は後任監督に田淵を望んでいたが根本が「今の西武は人気監督を据えるより、半永久的に優勝争いができるしっかりとした球団作りが大事。勝てる野球ができる人で加えて西武の流れを熟知している人。それでいて広岡野球の次の段階に進めることのできる人」という理由で1984年にコーチを辞任していた森が監督に就任した[11]。1985年のドラフト会議では最大の目玉だった清原和博を根本自身がくじを引き当て1位指名に成功[12] 。清原はこの後4番打者として活躍。森は、1986年から1994年までの間でリーグ優勝を逃したのが1989年のみ、6度の日本一に輝くなど西武ライオンズの黄金時代を築いていった。1989年シーズン途中でコーチの土井正博が麻雀賭博で逮捕され、球団代表の坂井が解任される。坂井は翌年福岡ダイエーホークスの球団代表に就任する。

ダイエー時代[編集]

1993年中内功から招聘され西武を退団し、福岡ダイエーホークスの代表取締役専務兼監督に就任。チームは南海時代の1978年からずっとBクラスを低迷しており、根本は西武ライオンズに似た方法でチーム再建を進めていった。現場復帰となった1993年は最下位に終わるが、吉永幸一郎の成長や下柳剛木村恵二らリリーフ陣が台頭した[13]。下柳は根本の事を恩人と述べている[14]。シーズン終了後は秋山幸二渡辺智男内山智之佐々木誠村田勝喜橋本武広の交換トレード「世紀のトレード」を敢行。また同年から実施されたフリーエージェント制度(FA)で阪神から松永浩美を、同じく同年から実施された逆指名制度でのドラフト会議で小久保裕紀渡辺秀一を獲得。

4位に終わったものの17年ぶりに勝率5割を超えた[15]1994年限りで監督を退任して専務に専念。後任監督として王貞治を招聘した。ドラフトでは駒澤大学進学が内定していた城島健司を獲得し、西武のエース投手であった工藤をFAで獲得。西武監督就任が確実視されていた石毛も獲得するなど、ダイエーでも「寝業師」ぶりを存分に発揮した。

12年ぶりの現場返り咲きとなったダイエー監督時代は往年の若親分と呼ばれた熱血ぶりは影をひそめ、風貌も寝業師の異名にそぐわない雰囲気で、マウンドに行く途中に足がもつれてつまづくシーンが、プロ野球珍プレー・好プレー大賞などで放映されるなどしていたが、それでもときたま激しく抗議し退場処分を受けたこともあった。また西武時代は、広岡や森といった管理野球の信奉者を監督に据えていたにもかかわらずダイエーでは2番にカズ山本を起用したり、藤本博史をセカンドで起用するなど大胆な采配を時として行い、秋山幸二によるとダイエー監督時代はあまり細かいサインは出さなかったという[16]

ダイエー在任期間、吉武真太郎小久保裕紀渡辺秀一城島健司藤井将雄斉藤和巳佐久本昌広井口忠仁松中信彦柴原洋倉野信次永井智浩篠原貴行星野順治などをドラフトで獲得し、ダイエー初優勝および現在に至る地元人気の土台を築いた。また、松永浩美廣田浩章武田一浩田村藤夫長冨浩志西村龍次山崎慎太郎など他球団で活躍したベテラン選手を補強している。また、西武時代同様ケビン・ライマーケビン・ミッチェルなどの現役大リーガー選手の獲得に尽力した。

だが、ダイエーでは根本入団以前にチーム編成を主導していて、上田利治の招聘に動いていた中内正オーナー代行に疎んじられていた。[17] 青山学院大学出身である小久保や井口らの獲得は同大学の先輩にあたる正のチーム内での影響力を示すものにもなり、「全てを任せる」と言われていた西武時代程の手腕を発揮出来ず、王に監督をバトンタッチした後のチーム低迷の一因にもなった。

1999年1月に球団社長に就任するが3か月後の4月30日に急性心筋梗塞のため72歳で死去した。その年、ホークスは大阪市から福岡市への本拠地移転11年目にしての初優勝を飾った。同年のシーズン中には根本の遺影がダイエーのベンチに掲げられ、優勝時の胴上げでは選手が代わる代わる遺影を掲げた。根本は日本ハリストス正教会キリスト教正教会)信徒であったため、遺骨は同教会本部のある東京・神田ニコライ堂に安置されている。

2001年野球殿堂入りした。

監督・球団経営者として[編集]

  • 11シーズン監督を務めたが、2年目以降は全てBクラスであった。しかしチームの基礎を作り上げる手腕への評価が高く、広島、西武、ダイエー全てにおいて、根本が監督を退いたあと数年以内に黄金時代を築いている。監督としてただチームの采配を振るだけでなく、自ら球団経営・チーム編成にも関わり、西武時代からは編成の最高責任者として活躍した。現在でいうGM(ゼネラルマネージャー)の存在で球史にその名を刻んだ。
  • 引退した選手の面倒をよくみていた。大半の選手は人生で野球しかしてこなかった人間であり、引退後、球団に指導者やスカウト・スコアラーとして残ったり、解説者に就任出来るのはほんの一握りであり、野球選手は人生の大半を野球のみに費やしていることもあって一般社会への再就職するのは困難である。根本は積極的に西武・ダイエーにおいて再就職を世話し、それが無理ならグループ企業に引き取ってもらったこともあった。恩義に感じていた元選手から根本へ、地方の素質のある無名の選手の情報提供もあったという。西武時代は辞めた選手全員に毎年西武球場がフリーパスとなる「家族証」を送った。
  • 上記のように人脈が幅広く「根本人脈」は5000人とも、1万人ともいわれた。近藤唯之はシンガポールに講演に行った際、「私は根本の知り合いなんです」という人物が異国のシンガポールにもおり、その人脈の広さにびっくりしたという。
  • 西武時代はほとんど人前には姿を現さず、その行動が水面下に潜り把握できないことから特殊潜航艇とも呼ばれた[18]。また、人前に出てきてもほとんど抽象的な話しかしなかったので[19]「根本管理部長の通訳が要る」と言われることもあった。これは根本のかなり慎重な性格なせいでもあり、根本を生前取材していた浜田昭八は、ペンと紙を目の前に出すと本音を言わないので、いつも根本がいないところで思い出しながら取材メモを取ったという。ダイエー時代は西武時代とは違って取材にも積極的に応じたが、話術が抽象的なのは相変わらずだったので[20]、地元マスコミからは「言語大量、意味不明」と揶揄されていた。
  • 王監督に対して「世界の王」として一歩引いた眼で見ていた選手達に対し、球団社長就任直後の1999年キャンプイン直前、必勝祈願に訪れた福岡市の筥崎宮で、「お前たちは何を構えているんだ。世界の王と言わる監督も昔はラーメン店の息子。お前たちとなんら変わりはないんだぞ」と発言、選手の呪縛を解いたという[21]
  • 大道典良は「根本さんは一軍に固定してくれた恩人」と著書に記している[22]
  • 伊原春樹は「根本さんは親分肌で人心掌握において有能な方で、指導者のなんたるかを教えていただきました」と著書に記している[23]。まず、「選手を指導しなくてもいいから、しっかり見ておけ」ということ[23]。「選手はいいものを持ってプロに入ってきたのだから、最初はむやみに構うな。特に新人に関しては、じっくり観察することから始める。」これは伊原が後に読んだ様々な書物の中でも同様の指導法が記してあり、「なるほど」と思わされた事の一つだったと著書に記している[23]
  • 八木沢荘六は「送りバントなどをほとんどしなかったですし、例えば打撃の調子が上がらなかった立花義家も辛抱強く中軸で使い続けていました。投手起用もそう。勝利にこだわって何人もつぎ込むことはせず、打たれても簡単には交代させない。根本さんにその意図を聞いたところ、まずはチームとしての地盤を作り、その上で、勝てる監督を後任にしたいのだと。勉強になるなあと感心しました」と語っている[24]
  • 盟友の関根潤三は著書の中で「あいつの真価が発揮されたのは監督を辞めた後のチーム作りだよねぇ。編成のトップとして、西武の黄金時代を築き、福岡ダイエーの土台を作った。大胆な補強と他球団の裏をかくドラフト戦略でそれまで巨人中心の球界の勢力図を塗り替えちゃったんだから[25]。僕はプロで監督をやるとは思いもしなかった。根本もそうだった思う。でも二人とも監督として成功したとは言えないな。チームを優勝に導いた経験がないんだから。僕と根本はある部分似ている。監督には勝つために野球をするタイプと選手を育てるタイプがいるけど僕らは明らかに後者。これは僕らの恩師である藤田さんの影響だろうね。藤田さんは勝つことより育てることを最優先した指導者だった。根本は選手として非常に不器用で一つの技術を身につけるのに人の何倍も時間がかかった。だからだろうね、自分が指導者になっても選手の気持ちがよくわかった。情が深い。育てられなかったら、それは自分の責任だと考えていた。おまけにその選手の引退後の世話までしてたんだから。あいつと話してて、選手の悪口聞いたことなかったね」と記している[26]
  • 根本がクラウンライターの監督だった時平和台での近鉄戦で近鉄から太平洋に移籍した土井正博佐々木恭介に「おい、恭介、なんで試合に出ないんや。監督(根本)がウチに来ないかと言ってるぞ。」[27]、その後根本は近鉄の監督西本幸雄にトレードを申し込んだ[27]。その後佐々木はすぐにスタメンで使われるようになって、その年首位打者を獲得[27]。根本は死ぬまで佐々木に「恭介、お前俺のおかげやからな」って佐々木に言ったという[27]
  • 落合博満が引退の翌年、解説者としてダイエーのキャンプに取材に行った際、根本は「落合、現役終わって次は監督、コーチになるなあ」と話しかけた。「いやあ、そんな物好きはいませんよ」と言う落合に根本は「いや、必ずそういう時代がくる。実績残しているし、そういうのを求める人は必ずあらわれるから、そうしたらお前、がんばれよ」と告げ、コーチに森繁和を使うと面白いと落合にアドバイスした[28]。落合は2004年に中日監督に就任した際に森を投手コーチとして招聘し、その後森はバッテリーチーフコーチ、ヘッドコーチを歴任し、2004年の開幕投手に川崎憲次郎を指名した以外、落合は森に投手起用を一任した[29]
  • 森は2016年9月29日の中日監督就任会見で理想の監督として根本の名前を挙げた[30]
  • 清原和博が西武時代唯一厳しく恐れていた人物で、根本が1993年ダイエー移籍以降清原に対して注意できる人がいなくなったという[31]

交友関係[編集]

  • 旧制日大三中・法大・近鉄で同窓となった永年の戦友(お互いに「ジュンちゃん」と「ネモやん」と呼び合っていた)である関根潤三は、世間では温厚なイメージが非常に強いが、『関根は本当は絶対怒らせてはいけない奴、あの末恐ろしさは“インテリヤクザ”だよ』と評していた。その根本も上記通り、大学時代の同級生だった安藤昇と渋谷でつるんだり銀座で大暴れした事もあると言われており、根本が球界の寝技師と呼ばれる大胆な行動を取ることが出来たのは安藤との付き合いによる裏社会の人脈・情報網が影響しているとまで言われた。漫画『あぶさん』の中にも血気盛んだった学生時代の根本が描かれている。しかしながら、根本が決定的な悪人になれなかったのは地方資産家で跡取りとして生まれ育ち、恩師・藤田省三の「人の道にそれるな」という教えがブレーキとなった。藤田のことは生涯尊敬していた。

根本マジック[編集]

  • 西武・ダイエー時代における相次ぐ大型トレード成立や新人選手獲得において球界の内外を驚かせる事が非常に多かった。西武時代はドラフト外制度や関連グループによる囲い込みを最大限に活用、ダイエー時代には逆指名制度を最大限に活用し巨人など他球団との争奪戦を制し、戦力補強を相次いで成功させていた。意表をついた内容の多さから「根本マジック」と呼ばれた。

西武時代[編集]

  • 田淵幸一真弓明信の交換を中心とするトレードを阪神との間で実行(阪神・小津正次郎社長との密室トレード)。
  • 松沼博久・雅之兄弟に契約金として2人合わせて1億2000万円[32] を提示した巨人に対し、2人合わせて1億5000万円を提示、逆転で兄弟の獲得に成功した。[33] 戦力補強に加えて、選手の争奪戦で巨人に勝ったという大きな意義を持つ一件となった。
    • 松沼兄弟の争奪戦後、しばらくの間読売系列の新聞・雑誌から西武グループの広告が締め出され、また西武線各駅の売店では読売系列の新聞・雑誌を取り扱わないという、親会社を巻き込んだ遺恨騒動が勃発した(これは松沼兄弟以外に江川事件の影響も大きい)。
    • 巨人はその後も、戦力補強において幾度も根本率いる西武・ダイエーの後塵を拝することになる。
  • 石毛宏典をはじめとする、社会人野球(主としてグループ企業のプリンスホテル硬式野球部)を駆使した囲い込み。
  • 巨人を始め4球団争奪戦となっていた秋山幸二を、大学進学の噂を流させた上でドラフト外で獲得。
  • 伊東勤熊本県立熊本工業高等学校定時制から埼玉県立所沢高等学校に転校させ、かつ球団職員として採用し「囲い込み」。翌年ドラフト1位で指名。
  • 熊谷組への就職を発表していた工藤公康をドラフト下位で強行指名。説得の末入団させる。これは長年、当事者である工藤自身含めて、すべて根本が積極的に進めたものとして信じられた話であったが、工藤が当時の西武監督だった広岡達朗から2011年に聞いた話として、根本は工藤指名には反対の立場で、積極的に指名しようとしていたのは広岡だったとのことである[34]。広岡自身も、2009年のライオンズ・クラシックのイベントで、工藤のドラフト指名を進言したのは自分であると述べている。
  • 広島の小林誠二をトレードで獲得。西武では1982年のパ・リーグ初制覇に貢献し、その翌年の1983年にも一軍で活躍するが、同年オフに高橋俊春とのトレードで再び広島へ移籍させる[35]
  • 清原和博を1位指名する一方で、大学進学を希望していた桑田真澄がドラフト1位で指名されなければ外れ1位又は2位で指名する計画があった。巨人が桑田を単独1位指名したため阻止された。
  • 長嶋一茂獲得の噂を流させ、間隙を突いて鈴木健をドラフト1位で指名(一茂はヤクルトが指名)。
  • 渡辺智男石井丈裕に怪我の噂を流させ、間隙を突いて両者をドラフト上位で指名。
  • 中日の主力選手であった田尾安志平野謙をトレードで獲得。一方で、西武が囲い込みに失敗した小島弘務を中日がドラフト1位で指名するなど、星野仙一とのパイプを築く。
  • 台湾球界のエースであった郭泰源を獲得。
  • 和歌山県立日高高等学校中津分校垣内哲也はプロ野球史上初めての分校出身者で、分校まで網羅した根本の情報網が注目された。その後も同校出身の選手が数名西武に入団している。
  • 駒澤大学を中退し、住友金属に入社して活動していた小島弘務1989年ドラフト外入団として獲得する。しかし、この入団方法に疑問が呈された結果、大学中退者でありながら、在学期間が短い関係上高卒扱いで登録されていたため、「高卒の社会人野球選手は3年間プロ入りできない」という野球協約違反で契約無効になってしまい(在学期間が長い大学中退及び大卒の社会人野球選手は2年間)、同時に西武球団は制裁金50万円と以後新人及び移籍扱いで小島を獲得する事が禁止されるペナルティーが科せられた[36]。しかし根本は小島を見捨てず、翌年3月から3ヶ月にわたり自宅で小島の面倒を見て、野球指導を行い、「プロに入るためではなく一軍で活躍するために練習しろ」と数多くのアドバイスを送った[37]。その後、小島は西武の担当スカウト宅や地元・京都で自主トレを行い、その年のドラフト中日ドラゴンズから指名を受け入団した。

ダイエー時代[編集]

  • 秋山幸二・佐々木誠を中心とする6人トレードを西武との間で実行[38]
  • 自分の後継の監督に王貞治を指名、「巨人を家に例えれば、長嶋さんが長男で王さんは二男。通常、二男は家を継げないのでは」と説得して監督就任を承諾させる[39]
  • 西武のエース投手であった工藤公康や、将来の監督候補として期待されていた石毛宏典をFA移籍させる。
  • ダイエーと相思相愛にあった城島健司を、他球団には駒澤大学進学のように見せかけてドラフト1位で指名。
    • 駒大にも内密でことを進めたため、駒大野球部監督・太田誠は「今後ダイエーに選手を入団させない」と激怒した。揉めることを考慮し、当初スカウトからの指名リストに入っていなかった駒大の本間満も併せて指名(同ドラフトは巨人と同大学の河原純一争奪戦になっていた)。
  • 小久保裕紀井口忠仁松中信彦などを、親会社をも動かし、逆指名制度を最大限に駆使してドラフト指名。
  • 中日がギリギリまで上位指名(井口獲得が絶望的になった際には1位指名候補にまで浮上した)で獲得を目指した九州共立大学柴原洋は、「ダイエー以外ならばローソン(当時ローソンはダイエーグループ。現在野球部は廃部)に入る」と西武・プリンスホテルの関係と同様の方法で囲い込みを図り、井口・松中に次ぐ3位で指名を実現する[40]
  • その一方で地元九州のノンプロである九州共立大学三菱重工長崎などとの親交を深め、将来のドラフトに備えた。根本はダイエーでのドラフト戦略において「実力・評価が同じクラスならなるべく九州の選手を優先的に指名する」と指針を示し、選手編成についても地元密着を考えていた。
  • 1999年のダイエー初優勝の際、その年の4月に根本はこの世を去っていたが、優勝した日の翌日中内功オーナーと王貞治監督から直筆の感謝の手紙が妻のもとに送られてきたという。

根本マジックの影響と評価[編集]

  • 根本の手法は他球団も真似るようになった。球団職員としての囲い込みは1989年のドラフトで中日が大豊泰昭(2位指名)で、阪神が中込伸(1位指名)で実施した。特に星野仙一第一次政権時代の中日(1987年〜1991年)では、進学を表明していた選手の相次ぐ強行指名と翻意の実現や、落合の獲得に代表される積極的なトレードなどで西武とともにシーズンオフにおいて多くの話題を提供した。
  • 根本マジックに対する巨人のダメージは小さくなく、西武には松沼兄弟、秋山、郭泰源等の争奪戦に敗れ、ダイエーには巨人に有利な制度とされた逆指名制度で小久保・井口などの選手を奪われるなど、選手獲得において根本がいる球団に煮え湯を飲まされ続けた。
  • 根本の選手獲得策はプロ野球の制度にも影響を及ぼし、1991年いっぱいで支配下選手枠を70名に設定の上で練習生としての契約を禁止、同年秋のドラフト会議以降はドラフト外の選手獲得ができないようになった。
  • 2007年3月に発覚した西武球団によるアマチュア選手への金銭供与問題においては、根本がチーム作りに注力した1978年より金銭供与が続いていたことが明らかになった。そのため金銭供与問題は根本のチーム強化策による負の遺産として扱われることもある。

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1952 近鉄 46 92 85 9 16 3 0 2 25 8 1 0 1 -- 5 -- 1 13 1 .188 .242 .294 .536
1953 110 284 257 12 53 4 1 0 59 15 3 2 12 -- 14 -- 1 37 4 .206 .250 .230 .480
1954 10 13 11 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 2 -- 0 2 0 .000 .154 .000 .154
1957 20 17 17 0 1 0 0 0 1 0 0 0 0 0 0 0 0 4 0 .059 .059 .059 .118
通算:4年 186 406 370 21 70 7 1 2 85 23 4 2 13 0 21 0 2 56 5 .189 .237 .230 .467

年度別監督成績[編集]

年度 チーム 順位 試合数 勝利 敗戦 引分 勝率 チーム
本塁打
チーム
打率
チーム
防御率
年齢
1968年 昭和43年 広島 3位 134 68 62 4 .523 112 .224 2.91 42歳
1969年 昭和44年 6位 130 56 70 4 .444 121 .221 3.24 43歳
1970年 昭和45年 4位 130 62 60 8 .508 108 .226 3.00 44歳
1971年 昭和46年 4位 130 63 61 6 .508 89 .233 3.11 45歳
1972年 昭和47年 6位 47 16 29 2 .356 117 .250 3.57 46歳
1978年 昭和53年 クラウン
西武
5位 130 51 67 12 .432 109 .268 3.75 52歳
1979年 昭和54年 6位 130 45 73 12 .381 140 .259 4.60 53歳
1980年 昭和55年 4位 130 62 64 4 .496 219 .267 4.43 54歳
1981年 昭和56年 4位 130 61 61 8 .500 143 .267 3.62 55歳
1993年 平成5年 ダイエー 6位 130 45 80 5 .360 75 .246 4.22 67歳
1994年 平成6年 4位 130 69 60 1 .534 132 .275 4.10 68歳
通算:11年 1351 598 687 66 .465 Aクラス1回、Bクラス10回
※1968年から1996年までは130試合制
※1972年は、開幕から6月15日まで

表彰[編集]

背番号[編集]

  • 8 (1952年 - 1957年)
  • 40 (1962年)
  • 60 (1963年 - 1966年)
  • 68 (1967年 - 1972年、1978年)
  • 81 (1979年 - 1981年、1993年 - 1994年)

関連情報[編集]

出演番組[編集]

関連書籍[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ 浜田昭八・田坂貢二『球界地図を変えた男・根本陸夫』日本経済新聞社、2001年、15p
  2. ^ この大学間移籍に関しても終戦直後なのでルール上出来たのか、藤田の親心によってリーグが許可したのかは不明
  3. ^ a b c d 【根本陸夫伝】高校を中退させて「18歳の4番打者」を作った男[リンク切れ]
  4. ^ a b ベースボールマガジン、2012年7月号、P66
  5. ^ 【根本陸夫伝】高校を中退させて「18歳の4番打者」を作った男、根本は「18歳の4番打者」として土井を売り込んだ
  6. ^ 浜田・田坂(2001)p48
  7. ^ 浜田・田坂(2001)p52
  8. ^ 広島、西武そしてホークスを 根本陸夫のチームづくりとは
  9. ^ 坂井保之『波瀾興亡の球譜 失われたライオンズ史を求めて』ベースボールマガジン社、1995年、p219
  10. ^ 九州ライオンズ激闘史―1950ー1978 (B・B MOOK 1123)、ベースボール・マガジン社、2014年、P109
  11. ^ 【田淵幸一物語・第4部(11)】ダイエーの「救世主」に指名された産経新聞
  12. ^ 【11月20日】1985年(昭60) ドラフト会場騒然!「読売 桑田真澄」”. スポーツニッポン (2007年11月20日). 2013年8月31日閲覧。
  13. ^ ホークス75年史―南海、ダイエー、ソフトバンクー継承される栄光の歴史、ベースボールマガジン社、2013年、P86
  14. ^ “親父”根本さんの思い出…本当にいろんなことを学ばせてもらった スポーツニッポン、2014年9月29日閲覧
  15. ^ HAWKS the 70th―ホークス栄光の軌跡、ベースボール・マガジン社、2008年、P124
  16. ^ 秋山幸二著、卒業、西日本新聞社、2003年,P145
  17. ^ [1]
  18. ^ 【11月16日】1993年(平5)“特殊潜航艇”根本、久々の大型トレードで秋山ゲット”. スポーツニッポン (2007年11月16日). 2013年9月6日閲覧。
  19. ^ 文化放送ライオンズナイターのレポーターを長年にわたって務めた中川充四郎は、根本を「番組で何度インタビューしても全く具体的な話をしない人だった」と評している。
  20. ^ ダイエー監督時代にズームイン!!朝!にビデオ出演した際には、戦力補強に対してxとyの未知数を持ち出して延々と自身の持論を展開したため、司会の福留功男が「(話が)あまりにも哲学的すぎる」と嘆き、地元キャスターの古賀ゆきひとも「私も(根本監督が)何が言いたいのか全然分からないんです」と困惑していた。
  21. ^ “【ダイエーホークス創世記(5)】球団オーナーごとき…若き総帥の決断、「再び」「初の」日本一(2/3ページ)”. 産経WEST. (2015年1月5日). http://www.sankei.com/west/news/150105/wst1501050005-n2.html 2017年5月21日閲覧。 
  22. ^ 大道典嘉著、仕事人 バット短く、息長く、中央公論新社、2011年、P34
  23. ^ a b c 伊原春樹著、二流選手から一流指導者へ―三塁コーチの視点-誰も書かなかった「勝利の方程式」、ベースボール・マガジン社、2011年、P93-P95
  24. ^ 埼玉西武ライオンズ黄金投手陣の軌跡、2013年、ベースボール・マガジン社、P90
  25. ^ 関根潤三著、いいかげんがちょうどいい―85歳、野球で知った人生で大切なこと、ベースボール・マガジン社、2012年、P74-75
  26. ^ いいかげんがちょうどいい―85歳、野球で知った人生で大切なこと、P82-83
  27. ^ a b c d 近鉄バファローズ球団史1950-2004、ベースボール・マガジン社、2012年、P51
  28. ^ 森繁和著、参謀―落合監督を支えた右腕の「見守る力」、講談社、2012年、P46-47
  29. ^ [プロ野球]森繁和×二宮清純<前編>「今だから話せるオレ竜の真実」 - 2012年4月26日
  30. ^ http://www.sanspo.com/baseball/news/20160930/dra16093005040004-n3.html 強竜復活へすべて俺がやる!中日新監督に森監督代行が昇格 ] サンケイスポーツ2016.9.30 05:04
  31. ^ 週刊文春2016年2月18日号
  32. ^ 当時としてはドラフト1位に匹敵する破格の金額
  33. ^ 松沼兄弟獲得にあたりどちらかが継ぐ予定だった実家の建設会社を西武関連会社の西武建設に買収したことも大きい。
  34. ^ 週刊文春2012年5月3、10日号「今だから話せる」において工藤自身が文春のインタビューに答えたものである
  35. ^ 事実上のレンタル移籍だった可能性がある
  36. ^ B.B.MOOK156 スポーツ伝説シリーズ18「プロ野球ドラフト読本2000」51P、ドラフトミニ事件史、ベースボール・マガジン社、2001年、ISBN 978-4583611174
  37. ^ 『中日ドラゴンズ ドラフト1位のその後』(別冊宝島編集部、2014年)94頁
  38. ^ 両球団のオーナー(中内功堤義明)もこの件を知らず、特に中内はその日の昼食時、ダイエー本社の社員食堂で流れていたNHKニュースのトップでこの発表を知り仰天した。
  39. ^ 日刊スポーツ 1999年10月29日付復刻記事
  40. ^ 待遇は逆指名の2名と同様の契約金、年俸であった

関連項目[編集]

外部リンク[編集]