藤本博史 (内野手)

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藤本 博史
福岡ソフトバンクホークス三軍監督時代
(2019年4月13日 川之江野球場
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 大阪府泉北郡忠岡町
生年月日 (1963-11-08) 1963年11月8日(60歳)
身長
体重
182 cm
100 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 一塁手三塁手二塁手
プロ入り 1981年 ドラフト4位
初出場 1985年4月14日
最終出場 1998年7月18日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴
  • 福岡ソフトバンクホークス (2011 - 2023)

藤本 博史(ふじもと ひろし、1963年11月8日 - )は、大阪府泉北郡忠岡町出身[1]の元プロ野球選手内野手、右投右打)、野球解説者

2011年から福岡ソフトバンクホークス打撃コーチ三軍監督、二軍監督を歴任し、2022年シーズンから2年間一軍監督を務めていた。2024年シーズンからはソフトバンクの特別アドバイザーに就任する[2]

経歴[編集]

プロ入りまで[編集]

天理高校では1980年、2年夏の第62回全国高校野球選手権に4番打者、三塁手として出場。藤本と同じ2年生で左右の両腕でもある川本和宏小山昌男の好投もあり準決勝まで進むが、エースの愛甲猛らを擁する横浜高にまさかの逆転負けを喫した[3]。その後は秋にチームで起きた不祥事のため、丸1年の対外公式試合禁止の処分を受け、3年時の甲子園行きのチャンスを棒に振ることになった。

現役時代[編集]

南海、ダイエーホークス時代[編集]

甲子園での実績や素質を見込まれ、1982年ドラフト4位で川本とともに当時の南海ホークスに入団する[4]

1988年には一軍に定着、主に三塁手として88試合に先発出場。1992年には初の規定打席(28位、打率.253)に達する。南海時代の藤本は7、8番といった下位打順が多かったが、球団が南海電気鉄道からダイエーに売却され、福岡県へ移転した後はクリーンナップを任されるようになった。

プロ野球選手では珍しく柔道の有段者でもあり[5]、黒帯の腕前でもある[6]。そのため、体格が良く門田博光に続く和製大砲が育たず、得点力の弱かった1980年代の南海ホークスでは岸川勝也と共に将来の4番候補として期待されていた。なお、藤本はパワーヒッターというイメージが強いが、年間最多本塁打1992年の20本と、どちらかというと中距離打者であった。藤本は元々、状況に応じて逆方向へのバッティングも出来る器用さが持ち味の選手だったが、慢性的なチームの得点力不足や、ダイエーホークス2年目に監督に就任した田淵幸一による指導もあってか、長打を狙っての大振りが目立ち打率も.250前後と伸び悩んだ。1990年7月7日の対日本ハム戦ではサイクル安打を達成している[4]。一方で打率の割に出塁率は非常に高く、1992年は打率ランキング28位であったが、出塁率は藤本の同僚でその年の首位打者だった佐々木誠の成績をも上回るほどであった。

だが、一塁に新外国人のブライアン・トラックスラー、好守好打の三塁手である松永浩美がホークスに加入した1994年にはレギュラーの座を追われた。藤本も当初、控えの座に甘んじていたが、その藤本の打撃技術を高く評価していた当時の打撃コーチである大田卓司の進言により打撃不振だった二塁手湯上谷竑志に代わり藤本の起用を監督に進言し起用され奮闘、不安視されていた守備面でも活躍する。同じく口ヒゲをたくわえていたトラックスラーとの一・二塁間は、この年の名物となった。翌1995年石毛宏典が西武ライオンズからホークスへ移籍すると、藤本も再びレギュラー落ちの危機にあったがまたもコーチの大田の進言により西武戦との開幕戦(西武球場)では石毛に代わって一塁手として先発で起用され、9回表に潮崎哲也から豪快な本塁打を放った。その後も藤本はここ一番での勝負強いバッティングを見せ、この年の得点圏打率はパ・リーグトップの.391を記録した。しかし、翌年以降は若手の台頭や自身の成績不振が出始め1997年には一軍定着後としては初の本塁打0本に終わった。

オリックス・ブルーウェーブ時代[編集]

1998年シーズン序盤に金銭トレードオリックス・ブルーウェーブへ移籍[4]。同年4月28日の対千葉ロッテマリーンズ戦に出場したが、オリックスへ移籍した直後の試合であったためユニフォーム作成が間に合わず、過去オリックスに在籍したタイ・ゲイニーのユニフォームを着用していた。同年、打撃不振が改善できずこの年限りで現役を引退した。

現役引退後[編集]

現役引退後の1999年から2010年までTVQ九州放送J SPORTS野球解説者、西日本スポーツ野球評論家を務めた[7]。藤本はコーチに就任する2010年まで福岡市中央区居酒屋「藤もと亭」を経営し[8]、福岡出身の芸能人やホークス選手が藤本のもとを多く訪れていた。

解説者としては現役時代の藤本のエピソードを交えたスタイルが多く、1999年にホークスが福岡移転後初優勝の快挙を成し遂げた際には解説席から当時、ダイエーの監督だった王貞治が胴上げされるのを見て「自分も輪の中に入りたい」と藤本は語っていた。

2011年より福岡ソフトバンクホークスの打撃コーチに就任し、2011年[9]2012年2015年2016年は二軍、2013年[10]2014年2017年[11]2018年は一軍を担当。柳田悠岐[12]中村晃栗原陵矢を育てた[13]2019年2020年は三軍監督、2021年は二軍監督[14]を歴任。

2021年10月29日、同学年でもある工藤公康の後任として藤本の一軍監督就任が発表された[15][16]。なお、ホークスの生え抜き選手だった人物が監督になるのは前身球団も含めると現役終盤の移籍があるため完全でないが、1989年まで指揮を執った杉浦忠以来33年ぶりだった。

2022年4月1日、球団として1955年以来67年ぶりとなる開幕戦からの7連勝を果たすと、同時に与那嶺要中日1972年)、梶本隆夫阪急1979年)の持つ新人監督の開幕連勝記録6を越え日本プロ野球新記録を樹立[17]、同月5日の勝利で連勝記録を8まで伸ばした。最終的に優勝は逃したものの、リーグ戦順位は2位であった。

采配は悪く言えば左右病の傾向があり、藤本本人もそのように評されていることを自覚している[18]

2023年、シーズンに突入すると、開幕5連勝を飾るなど好スタートを切り、7月6日時点で首位に立つ。しかし、翌7日から球団54年ぶりとなる12連敗を喫し3位に転落[19]。その後はロッテ、楽天とAクラス争いを展開するも、最終的に首位オリックスから15.5ゲーム差の3位に終わった[20]CSファーストステージでは、2位の千葉ロッテマリーンズと戦った。1勝1敗で迎えた第3戦の延長10回に3点を勝ち越すがその裏、リリーフ投手が打たれて逆転サヨナラ負けを喫しシリーズ敗退となった[20]。その直後、ソフトバンク球団は藤本が同シーズン限りで監督を退任することを発表した[20]

2024年からTVQ九州放送テレビ東京の野球解説者を務める。

選手としての特徴・人物[編集]

  • 勝負強さと高い出塁率が魅力の中距離打者[21][22]
  • ホークスがダイエーに売却され、福岡に移転した1989年から藤本はヒゲを生やし始めた。これは当時、藤本の祖父が目を悪くし「テレビで見ても、ユニフォームを着ていたら岸川とどっちがどっちかわからんわ」と言われ、「じゃあ目印をつけたろう」と、すぐに見つけやすいようにという配慮から始まったものである[23][24]。 引退した現在でも藤本のトレードマークになっている。
  • 後に右打ちの達人として知られた大道典嘉は、現役時代の藤本のバッティングを参考に自身のスタイルを築き上げたといわれる。
  • 「ここまで飛ばせ、ホームラン」のヒッティング・マーチは、藤本の引退後も左の好打者であった若井基安のテーマと並び、チャンスの際にしばしば使用されている[25]。なお、デビッド・ホステトラー(1986年 - 1987年)の流用でもある。
  • 元投手の下柳剛は藤本の性格について、「ダイエー在籍時には本当にお世話になりました」と述べている[26]。一方、守備面に関しては下柳の自身の公式YouTubeチャンネルの動画で「最悪のセカンド」と即答する形で、藤本のお粗末なプレーを酷評している[27]
  • 選手時代にオリックスに移籍した際、当時、阪神にいた新庄剛志と同じマンションに住んでいた。「いつも出る時間一緒で、僕が出るのを待ってくれてた。礼儀正しい子ですよ」と当時を回顧している[28]

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1985 南海
ダイエー
8 11 9 1 1 0 0 1 4 2 0 0 1 0 1 0 0 3 0 .111 .200 .444 .644
1986 1 3 3 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000 .000 .000 .000
1987 26 48 41 2 10 6 0 0 16 3 0 0 1 0 6 0 0 8 0 .244 .340 .390 .731
1988 108 329 278 27 56 9 0 7 86 28 1 2 9 1 38 0 3 71 5 .201 .303 .309 .612
1989 77 284 237 30 60 12 0 13 111 50 1 2 10 0 37 0 0 62 6 .253 .354 .468 .822
1990 112 388 332 26 70 16 3 12 128 61 2 1 15 1 37 1 3 84 11 .211 .295 .386 .680
1991 101 299 256 29 68 13 1 11 116 30 1 0 1 0 41 1 1 46 4 .266 .369 .453 .822
1992 130 454 368 48 93 15 2 20 172 56 2 0 8 2 76 0 0 89 14 .253 .379 .467 .846
1993 129 512 456 44 109 16 3 13 170 53 1 3 2 0 53 4 1 87 16 .239 .320 .373 .692
1994 121 398 333 30 81 15 0 11 129 52 2 2 1 3 59 1 2 72 3 .243 .358 .387 .745
1995 119 456 383 36 101 17 1 11 153 58 0 4 2 3 68 2 0 88 10 .264 .372 .399 .772
1996 101 309 266 24 56 11 0 6 85 23 0 3 3 3 36 1 1 63 9 .211 .304 .320 .623
1997 28 39 31 2 2 0 0 0 2 0 0 1 2 0 6 0 0 7 1 .065 .216 .065 .281
1998 オリックス 42 52 46 3 8 2 0 0 10 3 0 0 0 0 6 0 0 17 3 .174 .269 .217 .487
通算:14年 1103 3582 3039 302 715 132 10 105 1182 419 10 18 55 13 464 10 11 697 82 .235 .337 .389 .726
  • 各年度の太字はリーグ最高
  • 南海(南海ホークス)は、1989年にダイエー(福岡ダイエーホークス)に球団名を変更

年度別監督成績[編集]




























2022 令和4年 ソフトバンク 2位 143 76 65 2 .539 0.0 108 .255 3.07 59歳
2023 令和5年 3位 143 71 69 3 .507 15.5 104 .248 3.27 60歳
通算:2年 285 147 134 5 .525 Aクラス2回、Bクラス0回

※1 2023年4月4日、対バファローズ戦1回戦(京セラドーム大阪)を私用により欠場。監督代行は森浩之一軍ヘッドコーチ(1勝)[29]。通算成績に含まない

記録[編集]

背番号[編集]

  • 39(1982年 - 1989年)
  • 5(1990年 - 1998年途中)
  • 1(1998年途中 - 同年終了)
  • 76(2011年 - 2021年)
  • 81(2022年 - 2023年)

関連情報[編集]

出演[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

出典[編集]

  1. ^ 藤本監督就任 高らかに祝う」『読売新聞』読売新聞グループ本社、2021年12月21日。2022年11月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年11月19日閲覧
  2. ^ 【ソフトバンク】藤本博史前監督が特別アドバイザー就任へ 解説者と並行で小久保ホークス支える」『日刊スポーツ』2023年12月12日。2023年12月12日閲覧
  3. ^ 鈴木康友第28回「天理の後輩・藤本博史新監督へのエールと日本シリーズ」」二宮清純 Sports communications、2021年11月25日。2022年11月19日閲覧
  4. ^ a b c ソフトバンク藤本博史新監督が就任会見「日本一に向かって」2軍監督から昇格」『日刊スポーツ』日刊スポーツ新聞社、2021年10月29日。2022年11月19日閲覧
  5. ^ 新庄監督や立浪監督と比べてシブい人選だが… 藤本博史監督57歳が「ホークスの伝統」を継ぐ適任者なワケ《若き柳田悠岐らを育成》(広尾晃)」『Number Web』2021年11月2日。2021年11月13日閲覧
  6. ^ 日刊スポーツ新聞社発行 98プロ野球選手写真名鑑 126ページ
  7. ^ 2分でわかる?ホークス新監督・藤本博史氏を大紹介」『西日本スポーツ』西日本新聞社、2021年11月10日。2022年11月19日閲覧[リンク切れ]
  8. ^ 【番記者スコープ】ソフトバンク・藤本監督 対話重視のチーム作りの原点は居酒屋「藤もと亭」経営」『サンケイスポーツ』産業経済新聞社、2022年3月29日。2022年11月19日閲覧
  9. ^ 2011年コーチングスタッフおよび3軍制導入について」福岡ソフトバンクホークス株式会社、2010年10月30日。2021年10月24日閲覧
  10. ^ 2013年 コーチングスタッフについて」福岡ソフトバンクホークス、2012年10月29日。2012年10月29日閲覧
  11. ^ 2017年 コーチングスタッフについて」福岡ソフトバンクホークス オフィシャルサイト、2016年10月28日。2021年10月24日閲覧
  12. ^ ソフトバンク次期監督に藤本博史2軍監督の昇格有力 柳田育成の手腕に期待」『日刊スポーツ online』2021年10月23日。2021年11月7日閲覧
  13. ^ 鷲田康、野球の言葉学、藤本博史、福岡ソフトバンクホークス監督、週刊文春2021年11月11日号、122頁
  14. ^ 2021年 コーチングスタッフについて」『福岡ソフトバンクホークス オフィシャルサイト』2020年12月3日。2020年12月3日閲覧
  15. ^ 藤本博史2軍監督の1軍監督就任について」『福岡ソフトバンクホークス』(日本語)、2021年10月29日。2021年10月30日閲覧
  16. ^ ソフトバンク、藤本新監督を発表」『デイリースポーツ online』2021年10月29日。2021年10月29日閲覧
  17. ^ 球団67年ぶり開幕7連勝!柳田が今季1号&エース千賀が今季初勝利!藤本監督は新記録樹立」『西日本スポーツ』2022年4月1日。2022年4月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月5日閲覧
  18. ^ ソフトバンク藤本監督「左と右で変わってくる。左右病って書かれるかもしれないけど」1番三森大貴ー2番柳町達の「ミモヤナギ」は固定せずか」西日本スポーツ、2023年8月8日。2024年1月22日閲覧
  19. ^ 【ソフトバンク】12連敗「七夕の悲劇」トレンド入り「ジョニーが打たれた七夕の悲劇思い出す」」日刊スポーツ、2023年7月24日。2024年1月22日閲覧
  20. ^ a b c 藤本博史監督の今季限り退任発表、後任は小久保裕紀2軍監督 コーチ陣も刷新」『日刊スポーツ』2023年10月16日。2023年10月17日閲覧
  21. ^ ソフトバンク、藤本博史2軍監督の新監督就任を発表「チーム一丸となって優勝へ」」『Full-Count』2021年10月29日。2021年11月13日閲覧
  22. ^ ホークスの藤本博史新監督は「指導者育成」の賜物。常勝軍団は“新たなフェーズの象徴”をなぜ招聘したのか<SLUGGER>」『THE DIGEST』2021年10月28日。2021年11月13日閲覧
  23. ^ 池田哲雄 編『週刊プロ野球データファイル070号』ベースボール・マガジン社、2012年9月5日、24頁。
  24. ^ 【ソフトバンク】藤本博史監督が公約 日本一でトレードマークの「ひげをそる」」『スポーツ報知』2021年11月13日。2021年11月13日閲覧
  25. ^ 選手の士気アップ、球場の空気も一変 「チャンステーマ」の不思議な魅力」Full-Count、2018年1月7日。2022年11月19日閲覧
  26. ^ ソフトB・藤本コーチの思い出「その節はありがとうございました」」スポーツニッポン、2015年4月6日。2021年10月24日閲覧
  27. ^ 【名ショートBEST3 !!】 下柳が選ぶ“消えた天才”「最悪のセカンドならすぐ言える」 柳に風【下柳剛公式チャンネル】2022/03/11 (2022年3月21日閲覧)
  28. ^ ソフトバンク藤本監督「マンション一緒やったんです」日本ハム新庄監督と縁」『日刊スポーツ』 日刊スポーツ新聞社、2021年11月4日。2023年7月7日閲覧
  29. ^ 【ソフトバンク】父死去で試合欠場の藤本監督に代わり森浩之ヘッドが代行「監督に白星届けたい」」日刊スポーツ、2023年4月4日。2023年12月29日閲覧

関連項目[編集]

外部リンク[編集]