藤本博史 (内野手)

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藤本 博史
福岡ソフトバンクホークス コーチ #76
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 大阪府泉北郡忠岡町
生年月日 (1963-11-08) 1963年11月8日(54歳)
身長
体重
184 cm
98 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 三塁手一塁手二塁手
プロ入り 1981年 ドラフト4位
初出場 1985年4月14日
最終出場 1998年7月18日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴

藤本 博史(ふじもと ひろし、1963年11月8日 - )は、大阪府泉北郡忠岡町出身の元プロ野球選手内野手)、プロ野球コーチ2011年から福岡ソフトバンクホークスの打撃コーチを務め、現在は一軍打撃コーチを担当。

来歴[編集]

天理高校では1980年、2年夏の第62回全国高校野球選手権に四番打者、三塁手として出場。同じ2年生で左右の両腕である川本和宏小山昌男の好投もあり準決勝まで進むが、エース愛甲猛を擁する横浜高に逆転負け。その後は秋にチームで起きた不祥事のため丸1年の対外公式試合禁止の処分を受け、3年時の甲子園行きのチャンスを棒に振ることになる。しかし甲子園での実績や素質を見込まれ、1982年に川本とともに南海ホークスに入団。

1988年には一軍に定着、主に三塁手として88試合に先発出場。1992年には初の規定打席(28位、打率.253)に達する。南海時代は七、八番といった下位打順が多かったが、球団がダイエーに売却され福岡へ移転した後はクリーンナップを任されるようになった。

柔道をしていた為に体格が良く、門田博光に続く和製大砲が育たず得点力の弱かった80年代の南海ホークスでは岸川勝也と共に将来の4番候補として期待されていた。パワーヒッターというイメージが強いが、年間最多本塁打1992年の20本と、どちらかというと中距離打者であった。状況に応じて逆方向へのバッティングも出来る器用さが持ち味の選手だったが、慢性的なチームの得点力不足やダイエーホークス2年目に監督として就任した田淵幸一による指導もあってか長打を狙っての大振りが目立ち、打率は.250前後と伸び悩んだ。打率と反比例して出塁率は高く、じっくりとボールを見極め際どいボールをカットする事によって相手投手に球数を投げさせるタイプの打者でもあった。

好打好守の三塁手である松永浩美がホークスに加入した1994年にはレギュラーの座を追われた。当初は控えの座に甘んじていたが、藤本の打撃技術を高く評価していた当時の打撃コーチ大田卓司の進言により二塁手として起用され奮闘、不安視されていた守備面でも活躍。同じく口ヒゲをたくわえていたブライアン・トラックスラーとの一・二塁間はこの年の名物となった。翌1995年石毛宏典が西武ライオンズからホークスへ移籍。再びレギュラー落ちの危機にあったが、またも大田の進言により西武との開幕戦(西武球場)では石毛に代わって一塁手として先発起用され、9回表に潮崎哲也から豪快な本塁打を放った。その後もここ一番での勝負強いバッティングを見せ、この年の得点圏打率はパ・リーグトップの.391を記録した。

1998年シーズン序盤にオリックス・ブルーウェーブへ移籍。同年4月28日の対千葉ロッテマリーンズ戦に出場したが、オリックスへ移籍した直後の試合であったため、ユニフォーム作成が間に合わず、過去オリックスに在籍したタイ・ゲイニーのユニフォームを着用していた。

同年限りで引退し、その後は1999年から2010年までTVQ九州放送J SPORTS野球解説者、西日本スポーツ野球評論家を務めた。解説者としては現役時代のエピソードを交えたスタイルが多く、1999年にホークスが福岡移転後初優勝の快挙を成し遂げた際には、解説席から監督の王貞治胴上げされるのを見て「輪の中に入りたい」と語っていた。

また、引退後は長らく福岡市中央区で、居酒屋「藤もと亭」を経営しており(2010年閉店)、福岡出身の芸能人やホークス選手も多く訪れていた。現役時代の彼のイメージを象徴する口髭と恰幅のよさは現在でも健在である。

2011年から2012年まで福岡ソフトバンクホークスの二軍打撃コーチ[1]2013年からは一軍打撃コーチを務め[2]2015年からは再び二軍打撃コーチとなる。2017年からは再び一軍打撃コーチ[3]

人物[編集]

  • プロ野球選手でも珍しい柔道の有段者でもある。
  • ホークスがダイエーに売却され、福岡に移転された直後から藤本はヒゲをはやした。このヒゲが藤本のトレードマークであったが、これは当時彼の祖父が目を悪くしテレビ中継を見ても誰だか分からない状態だったため、チーム内にヒゲをはやした選手がいなかったことからすぐに見つけやすいようにという配慮から始まったものである。
  • 現役時代、体格の良さを揶揄されることもあった。西武ライオンズとの試合終了後、藤本が店で飲んでいると、西武ライオンズの伊原春樹コーチが入ってきて 「おうヒロシ。相変わらず太ってるんだな。野球選手にデブはいらねえんだよ」「うちにはお前みたいなのはいない」と言われ憤慨した。翌日の試合で勝ち越しタイムリーヒットを打ち、晴らした形となった。
  • 後に右打ちの達人として知られた大道典嘉は、現役時代の藤本のバッティングを参考に自身のスタイルを築き上げた。
  • 「ここまで飛ばせ、ホームラン」のヒッティング・マーチは、藤本引退後も左の好打者であった若井基安のテーマと並びチャンスの際にしばしば使用されている。また、デビッド・ホステトラー(1986年~1987年)の流用でもある。
  • 下柳剛は「ダイエー在籍時に、本当にお世話になった」と述べている[4]

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1985 南海
ダイエー
8 11 9 1 1 0 0 1 4 2 0 0 1 0 1 0 0 3 0 .111 .200 .444 .644
1986 1 3 3 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000 .000 .000 .000
1987 26 48 41 2 10 6 0 0 16 3 0 0 1 0 6 0 0 8 0 .244 .340 .390 .731
1988 108 329 278 27 56 9 0 7 86 28 1 2 9 1 38 0 3 71 5 .201 .303 .309 .612
1989 77 284 237 30 60 12 0 13 111 50 1 2 10 0 37 0 0 62 6 .253 .354 .468 .822
1990 112 388 332 26 70 16 3 12 128 61 2 1 15 1 37 1 3 84 11 .211 .295 .386 .680
1991 101 299 256 29 68 13 1 11 116 30 1 0 1 0 41 1 1 46 4 .266 .369 .453 .822
1992 130 454 368 48 93 15 2 20 172 56 2 0 8 2 76 0 0 89 14 .253 .379 .467 .846
1993 129 512 456 44 109 16 3 13 170 53 1 3 2 0 53 4 1 87 16 .239 .320 .373 .692
1994 121 398 333 30 81 15 0 11 129 52 2 2 1 3 59 1 2 72 3 .243 .358 .387 .745
1995 119 456 383 36 101 17 1 11 153 58 0 4 2 3 68 2 0 88 10 .264 .372 .399 .772
1996 101 309 266 24 56 11 0 6 85 23 0 3 3 3 36 1 1 63 9 .211 .304 .320 .623
1997 28 39 31 2 2 0 0 0 2 0 0 1 2 0 6 0 0 7 1 .065 .216 .065 .281
1998 オリックス 42 52 46 3 8 2 0 0 10 3 0 0 0 0 6 0 0 17 3 .174 .269 .217 .487
通算:14年 1103 3582 3039 302 715 132 10 105 1182 419 10 18 55 13 464 10 11 697 82 .235 .337 .389 .726
  • 各年度の太字はリーグ最高
  • 南海(南海ホークス)は、1989年にダイエー(福岡ダイエーホークス)に球団名を変更

記録[編集]

背番号[編集]

  • 39 (1982年 - 1989年)
  • 5 (1990年 - 1997年)
  • 1 (1998年)
  • 76 (2011年 - )

関連情報[編集]

出演[編集]

脚注[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]