ドン・ブラッシンゲーム

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ドン・ブラッシンゲーム
Don Blasingame
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 ミシシッピ州コリンス
生年月日 (1932-03-16) 1932年3月16日
没年月日 (2005-04-13) 2005年4月13日(73歳没)
身長
体重
177 cm
76 kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 内野手
プロ入り 1953年 アマチュアFA
初出場 MLB / 1955年9月20日
NPB / 1967年4月8日
最終出場 MLB / 1966年8月27日
NPB / 1969年9月28日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴

ドン・リー・ブラッシンゲームDon Lee Blasingame, 1932年3月16日 - 2005年4月13日)は、アメリカ合衆国ミシシッピ州コリンス出身の元プロ野球選手コーチ監督ブレイザー(Blazer)の愛称でも知られ、NPBでの登録名でもあった。

義理の父であるウォーカー・クーパー英語版メジャーリーグで活躍した元プロ野球選手。夫人はミス・カリフォルニア[1]

経歴[編集]

選手時代[編集]

コリンス高等学校からリプスコム大学を経て、1953年セントルイス・カージナルスへ入団。1955年9月20日のカブス戦(ブッシュ)でメジャー初出場する。1956年からレギュラー二塁手として定着し、1958年MLBオールスターゲームに出場。1959年に来日して南海ホークス大毎オリオンズ連合チームと大阪スタヂアムで戦ったが、広瀬叔功を走者に置いて、榎本喜八のセンターへ抜けようかという当たりを逆シングルで好捕して6-4-3のダブルプレーを記録。当時全盛期だった広瀬もなぜ自分がアウトになったのか分からず二塁ベース上で呆然とした[2]。この際にブレイザーの練習と試合を観察していた広岡達朗が大きく影響を受ける。1960年サンフランシスコ・ジャイアンツ1961年シーズン途中にシンシナティ・レッズへ移籍。同年のナショナル・リーグ優勝に貢献し、ワールドシリーズにも出場[1]1963年に故障で戦列を離れると、後にメジャー歴代最多安打記録保持者となるピート・ローズが正二塁手の座に定着。1963年シーズン途中にワシントン・セネタースへ移籍して復活するが、1966年シーズン途中にカンザスシティ・アスレチックスへ移籍。同年退団。前述のプレーもあって、1967年に南海へ入団。本名の「ブラッシンゲーム」ではスコアボードに書ききれないため、愛称の「ブレイザー」が日本での呼称となった。併殺時の素早い足の運びや正確な送球など質の高いプレーで格の違いを示し[3]、打撃でも献身的な動きを遂行[3]。勝負強いバッティングと堅守でチームに貢献し[1]、1967年・1968年と2年連続でベストナインを受賞。1969年引退。

ブレイザーが南海に来た時、野村克也はしょっちゅう食事に連れ出し、どうしてその体でメジャーで生き残れたのかを聞いたところ、ある日ブレイザーから「君が打者の時にヒットエンドランのサインが出たらどう対処する」と聞かれ、野村は「フライと空振りはダメ。どうにか打球を転がす」と答えた。ブレイザーは「それだけか、まだあるぞ、走者がいるということは必ずセカンドかショートが二塁ベースカバーに入るのだから、セカンドが入れば一二塁間、ショートが入ったら三遊間方向に打球を転がすんだ」とさらりと答え野村を感服させた。バントの正確さにも定評があった[1]。セーフティーでは三塁線のラインぎりぎりに転がすことが多く[1]、切れそうで切れないゴロは芸術的だった[1]。捕球、スローイングと基本的な技術の確実性が高かった。派手さはないが、捕ってからの送球までの流れが速く、ミスも少ない[1]。南海の投手陣は「困ったらドンの方向に」が合言葉だった[1]。以上のことから野村は、「自分のID野球の源流はブレイザーにある」と常々語っている。

広岡達朗は日米野球で来日したブレイザーが黙々と守備の基本動作を繰り返しているさまを見て感化され、「体の正面で捕る」重要さを思い知ったという[4]

監督・コーチ時代[編集]

1970年からは選手兼任監督に就任した野村の要請もあり、南海のヘッドコーチに就任[5][6]1973年のリーグ優勝に貢献したが、1977年に野村の解任に伴って退任。野村は「ブレイザーは私に考える野球を教えてくれた恩人」と著書で記している[7]。野村によると、ブレイザーは最初のミーティングでそれまで南海の選手が見たことも聞いたこともなかった野球理論や知識を伝授し、シンキングベースボールの奥深さを教えた[7]。緻密な野球を組み立て、日本球界に革命をもたらした[1]。当時南海の選手だった江本孟紀は「日本流の単純な根性論とは180度異なる野球観だった。相手のクセや性格を緻密に分析し、ゲームの状況に応じて戦略を臨機応変に切り替えるという、極めて頭脳的なスポーツの世界である。野村監督の試合前の想定問答はブレイザー直伝である。」と記している[8]1978年古葉竹識監督の招聘で広島東洋カープ一軍守備兼ヘッドコーチを務め、家族を大阪に残して単身赴任という形でチームを指導。古葉は「ブレイザーの野球を見て本当に勉強になった」と述べた[1]1979年阪神タイガース監督に就任。江本はブレイザーの監督就任を歓迎した[9]。「考える野球(シンキング・ベースボール)」の仕組を取り入れた采配が期待された。就任1年目の同年は最終的に4位に終わったが、前年の1978年に比べれば持ち直し、夏のロード明けまで首位争いに加わり、前年より20勝も増やした。前年オフにブレイザーが敢行した西武ライオンズとの大型トレード(田淵幸一古沢憲司真弓明信若菜嘉晴らを交換した)や小林繁の獲得などで前年に比べて戦力がアップされたこともあったが、ブレイザーの手腕によるものも大きかった。当時遊撃手の真弓に「つま先は常にホーム方向へ」と指示し、遊撃の守備位置や動きで投手の球種を悟らせない「考える守備」を提唱した。1980年は当時新人の岡田彰布の起用法を巡ってフロントと対立した。岡田はブレイザーとの初対面で通訳兼任コーチの市原稔を介して「いくら力のあるルーキーでも、メジャーリーグでは最初からいきなり試合起用することはない」と告げられ、「そんなの関係ないやろう」という反骨心が芽生えたと後に著書に記している[10]。 結局、ブレイザーを新聞、マスコミ、ファンも批判し「岡田使え」のコールが大きくなった[11]。ブレイザーがヤクルトスワローズから獲得したデーブ・ヒルトンを成績・特に打撃が不振にもかかわらず守備面を評価して起用し続けたこともそうした声に拍車をかけることになった。ブレイザーは岡田のポジションセカンドには榊原良行という名手がいたため、「これなら1軍でずっと活躍できると確信を持てるようになるまで岡田を安易には使わない」と宣言していた[12]。結局、ファンから自宅にカミソリ入りの手紙を送りつけられ[12]、夫人が「こんな野蛮な国はイヤ」と帰国を懇請したこと、また球団フロントがヒルトンを退団(これについてはブレイザーも了承していたが[13])させた後、ブルース・ボウクレアを獲得したことを「フロントの現場への介入」と見たこともあって、シーズン途中の5月14日で退任。ブレイザーは江本に通訳を交えて「これだけ岡田を育てようとしているのにわかってくれない。小津社長も岡田を使えとプレッシャーをかけてくる。だが、それは私の信念に反する。できないことだ。」と訴えた[12]。ブレイザー退任後は一軍ヘッド兼打撃コーチの中西太が後任の監督となったが、5位に終わっている。江本は因縁があった中西の監督就任等もあり1981年で退団、引退となった[12]。阪神退団後は複数球団から誘われたが、1981年に古巣・南海の監督に就任[1]。一年目は5位、二年目は最下位と低迷。持病の心臓病に痛風が重なるなど健康上の問題もあって辞任。帰国後は南海の駐米スカウトを経て、カージナルス及びフィラデルフィア・フィリーズのコーチを務めた[14]。フィリーズではアドバイザーも務めた。息子のケントは日本球界の情報に詳しく、しばしば父に情報を伝えていたが、岡田の監督就任は伝えなかったという(出典:読売新聞『追悼抄』)。

2005年4月13日、アリゾナ州で死去。満73歳没。

ケントはコロラド・ロッキーズの環太平洋スカウトを経て、2010年5月22日からソフトバンクの駐米スカウトに就任[15]

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1955 STL 5 23 16 4 6 1 0 0 7 0 1 1 1 0 6 1 0 0 0 .375 .545 .438 .983
1956 150 665 587 94 153 22 7 0 189 27 8 8 2 1 72 0 3 52 3 .261 .344 .322 .666
1957 154 728 650 108 176 25 7 8 239 58 21 9 5 1 71 4 1 49 4 .271 .343 .368 .711
1958 143 608 547 71 150 19 10 2 195 36 20 5 2 1 57 2 1 47 14 .274 .343 .356 .700
1959 150 691 615 90 178 26 7 1 221 24 15 15 7 0 67 2 2 42 3 .289 .361 .359 .720
1960 SF 136 583 523 72 123 12 8 2 157 31 14 2 7 2 49 1 2 53 4 .235 .302 .300 .602
1961 3 3 1 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 2 0 0 1 0 .000 .667 .000 .667
CIN 123 502 450 59 100 18 4 1 129 21 4 3 9 2 39 0 2 38 7 .222 .286 .287 .573
'61計 126 505 451 60 100 18 4 1 129 21 4 3 9 2 41 0 2 39 7 .222 .288 .286 .574
1962 141 570 494 77 139 9 7 2 168 35 4 3 9 2 63 2 2 44 4 .281 .364 .340 .704
1963 18 38 31 4 5 2 0 0 7 0 0 1 0 0 7 0 0 5 0 .161 .316 .226 .542
WS3 69 278 254 29 65 10 2 2 85 12 3 2 0 0 24 1 0 18 1 .256 .320 .335 .655
'63計 87 316 285 33 70 12 2 2 92 12 3 3 0 0 31 1 0 23 1 .246 .320 .323 .642
1964 143 556 506 56 135 17 2 1 159 34 8 5 9 1 40 1 0 44 1 .267 .320 .314 .634
1965 129 450 403 47 90 8 8 1 117 18 5 4 7 3 35 1 2 45 2 .223 .287 .290 .577
1966 68 222 200 18 43 9 0 1 55 11 2 1 4 0 18 0 0 21 0 .215 .280 .275 .555
KCA 12 21 19 1 3 0 0 0 3 1 0 1 0 0 2 0 0 3 0 .158 .238 .158 .396
'66計 80 243 219 19 46 9 0 1 58 12 2 2 4 0 20 0 0 24 0 .210 .276 .265 .541
1967 南海 128 527 478 61 128 18 6 5 173 28 5 9 6 3 38 2 2 38 4 .268 .322 .362 .684
1968 134 565 513 64 141 13 7 4 180 39 3 5 13 2 37 2 0 31 6 .275 .322 .351 .672
1969 104 409 365 46 102 10 1 6 132 19 5 2 14 1 27 0 2 35 5 .279 .332 .362 .693
MLB:12年 1444 5938 5296 731 1366 178 62 21 1731 308 105 60 62 13 552 15 15 462 43 .258 .329 .327 .656
NPB:3年 366 1501 1356 171 371 41 14 15 485 86 13 16 33 6 102 4 4 104 15 .274 .325 .358 .683
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別監督成績[編集]

年度 球団 順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 チーム
本塁打
チーム
打率
チーム
防御率
年齢
1979年 阪神 4位 130 61 60 9 .504 8.0 172 .268 4.15 47歳
1980年 5位 26 13 12 1 .520 -- -- -- -- 48歳
1981年 南海 5位 130 53 65 12 .449 5位・6位 128 .273 4.37 49歳
1982年 6位 130 53 71 6 .427 5位・6位 90 .255 4.05 50歳
通算:4年 416 180 208 28 .464 Bクラス4回
  • 順位はシーズン最終順位
※1 1979年から1996年までは130試合制
※2 1973年から1982年までパ・リーグは前後期制
※3 1980年、5月15日に監督を辞任

表彰[編集]

NPB

記録[編集]

MLB
NPB初記録
NPBその他の記録

背番号[編集]

  • 3 (1955年 - 1958年)
  • 11 (1959年)
  • 10 (1960年 - 1961年途中)
  • 19 (1961年途中 - 1963年途中)
  • 12 (1963年途中 - 同年終了)
  • 1 (1964年 - 1966年途中、1967年 - 1969年)
  • 8 (1966年途中 - 同年終了)
  • 50 (1970年 - 1977年)
  • 78 (1978年)
  • 80 (1979年 - 1980年)
  • 70 (1981年 - 1982年)

関連情報[編集]

著書[編集]

  • ブレイザーのシンキング・ベースボール―野球を激しく、考えてやろう - 藤江清志との共著、講談社、1979年

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k 『週刊プロ野球データファイル』2012年65号、ベースボール・マガジン社、P23-P24
  2. ^ 南海ホークス『南海ホークス四十年史』294ページ
  3. ^ a b 野球小僧remix プロ野球[外国人選手]大事典、白夜書房、2011年、P24
  4. ^ 【ありがとう八十年(53)】広岡達朗、捕球&送球の基本練習
  5. ^ [完全保存版] 草創期から支え続けた147人の監督列伝 日本プロ野球昭和の名将、ベースボール・マガジン社、2012年、P46
  6. ^ なんばパークスの「南海ホークスメモリアルギャラリー」での展示では、1970年の出来事として、ブレイザーのヘッドコーチ就任と、主に作戦面での采配を行ったことについての記述がある。これは、同時に監督に就任した野村克也についての記載や展示が野村沙知代から一切認められなかったための措置だった。
  7. ^ a b 野村克也著、弱者の兵法―野村流必勝の人材育成論・組織論、アスペクト文庫、2011年、P144-P145
  8. ^ 江本孟紀著、野球バカは死なず、文藝春秋、2018年、P134
  9. ^ 野球バカは死なず、P181-P182
  10. ^ 『頑固力』(角川SSC新書、2008年)P89。ただし、同書では後年ブレイザーの知人を介して「憎くて使わなかったのではなく、期待されて入団してきたルーキーだから余分な力みを生まない楽なところから使ってやりたかった。だから時期がずれた」というコメントを伝えられ、「今となればこのメッセージはある程度、理解できるようになった。ブレイザーもかなり悩んだのだろうし、考えたのだろう。自分も監督になり、そのことはよくわかった」とも記している。
  11. ^ 江本孟紀「『ベンチがアホやから』事件の真相と引退を決めたもう一つの理由」エモヤンのわが野球人生(4),AERA
  12. ^ a b c d 野球バカは死なず、P187-P189
  13. ^ 出典:ベースボールマガジン(ベースボール・マガジン社)
  14. ^ 野球小僧remix プロ野球[外国人選手]大事典、白夜書房、2011年、P127
  15. ^ 駐米スカウト契約のお知らせ - 2010年5月22日

関連項目[編集]

外部リンク[編集]