土井正博

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土井 正博
Doi masahiro.jpg
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 大阪府柏原市
生年月日 (1943-12-08) 1943年12月8日(78歳)
身長
体重
181 cm
81 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 外野手一塁手
プロ入り 1961年
初出場 1962年4月8日
最終出場 1981年10月4日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴

土井 正博(どい まさひろ、1943年12月8日 - )は、大阪府柏原市出身(大阪市港区生まれ)の元プロ野球選手外野手一塁手)・コーチ解説者評論家

経歴[編集]

アマチュア時代[編集]

幼少の頃に父親が戦死。産まれは大阪市港区だが、終戦間もなく、母と姉と共に藤井寺球場近くの柏原市に転居した。実家は本屋を営んでいたというが、土井が本塁打王を争っていた年に近隣の貰い火で焼失した(その事実は、シーズン後まで伏せられていたと言う)。大鉄高校では1年次の1959年から打線の中心として活躍するが、当時の大鉄高は、土井の1年上に伊藤幸男小野坂清、同期に中井悦雄と後にプロに進む3人が強力投手陣を形成していた。同年の秋季近畿大会府予選準決勝で、八尾高校久野剛司から本塁打を放ち注目を浴びる。近畿大会でも準決勝に進み、海南高校木原義隆に抑えられ敗退するが、2年次の1960年には春の選抜への出場権を得る。甲子園では1回戦で東邦高校に逆転負けを喫した[1]

同校の野球部は藤井寺球場で練習を行うことがあり、そこで当時近鉄バファローのスカウトを務めていた根本陸夫の誘いを受け、1961年に高校を2年で中退して近鉄に入団した。母子家庭で、親孝行を考えてのプロ入りであった。

近鉄時代[編集]

近鉄は1958年から1962年まで5年連続でパシフィック・リーグ(パ・リーグ)最下位に低迷しており、特に土井が入団した1961年には日本プロ野球 (NPB) 記録となるシーズン103敗を喫するなど、「パ・リーグのお荷物」とすら言われる有様だった。土井は「一軍の監督だった千葉茂さんは、コツコツ当てるタイプの打者を好むんですよ。「ピストル打線」なんて言われていて、右方向に流して打つことが求められた。でも僕はホームランを打てる打者だと思っていたから、強く振ることにこだわっていたんです。そうしたら、シーズンが終わった後に球団から解雇を通告されました。」[2]と述べている。同年オフに千葉が監督を退任し、後任として別当薫が新監督に就任。同時にチーム名も「近鉄バファロー」に改称されたが、別当はプロ入り1年目にして整理対象となっていた土井の長距離打者としての才能を見出し、翌1962年オープン戦で4番打者に起用[3][4]。「18歳の4番打者」と売り出されたが[3]、レギュラーシーズンでは4番打者として起用されることはなく[5]、129試合に出場し、打率.231・5本塁打・43打点にとどまった[3]。土井自身も重圧に耐えかねて出場メンバーから外すように願い出たこともあったが、別当は「打てないお前より、使っている俺のほうが苦しい。近鉄が強くなるためにはお前の力が必要になる。だから、数年先のためにお前は外さない」と拒否し、起用を続けた[6][7]1963年には全150試合に出場、打率.276(リーグ12位)と成長がみられ、外野守備でも20補殺とチームに貢献した。

1964年に3割30本100打点には僅かに届かなかったものの、リーグ最多安打を記録し、野村克也南海ホークス)に次ぐ98打点を記録するなどさらに成長する。その後も近鉄の中心打者として長らく活躍し、これらの経緯から、土井は別当を師匠と仰ぎ、別当は結婚式の際には父親のいない土井の父親役を務め、仲人は根本陸夫夫妻[2]1964年の28本塁打以降6年連続で20本塁打を記録し、オールスターでは1967年1968年の2年連続で・パ両リーグ合わせて、ファン投票1位になる[2]1967年オールスターゲームでは第1戦で2本塁打を放ち6打点、第2戦で3点本塁打の長池徳二、第3戦で満塁本塁打の大杉勝男と共にMVPを獲得。新時代の「実力のパ・リーグ」を見せつけた。しかし同年は打率.323を記録するものの張本勲に次ぐ2位、93打点も野村に次ぐ2位に終わりタイトルを逃す。また1967年から2年連続でベストナインに選出される。

1970年には賭博容疑(黒い霧事件)で書類送検され1か月の出場停止処分を受ける。

1971年は打率.309で大杉と1本差の2位の40本塁打、113打点と自己最高の成績を残した。なお、近鉄在籍時代に記録した通算打点960は近鉄球団最多記録となった[8]

太平洋・クラウン・西武時代[編集]

1974年オフにはに衰えがあり外野守備に不安があったため、太平洋クラブライオンズ柳田豊芝池博明とのトレードで移籍。

1975年には一塁手を兼ね、34本塁打を放ち本塁打王の初タイトルを獲得した。このトレードに関して、当時の近鉄監督であった西本幸雄2003年のインタビューにて、トレードを決めた1週間後にパ・リーグが翌年からの指名打者制導入を決定したため「土井は守らなくてよくなった。大失敗だと思った」と後悔したことを語っていた[9][10]

1977年、7月5日の対ロッテオリオンズ戦で村田兆治から安打を放ち、2000安打達成。1978年には打率.303、26本塁打を記録し、指名打者としてベストナインに選出される。同年オフに球団が国土計画に売却された後も、若い選手が多い西武の精神的支柱として野村・山崎裕之田淵幸一らと共にチームを支えた。チームが平和台野球場福岡県福岡市)から西武ライオンズ球場埼玉県所沢市)に本拠地を移転する際には東尾修竹之内雅史ら主力選手[注 1]のほとんどが反対していた。土井も当初は「聞いた瞬間、野球をやめようかと思った。九州で骨を埋めるつもりで来たし、もう転々としてゲームやるのもおっくうになってきた。出来るなら九州でやりたい。だめなら実家のある大阪の球団へ移りたい気持ちだ。同時に野球をやめて事業に打ち込みたい考えもある。とにかく正式な話を聞きたい」と発言していたが[11]、「俺はどこででもやる」とすぐに気持ちを切り替え、反対していた選手も徐々に納得していったという。

1981年には怪我のため出場試合数が減るが、シーズン中に「西武・長嶋茂雄監督招へい」と報道が出て、付き合いもあった長嶋の下でもうひと踏ん張り、と思っていた。しかし、根本に呼ばれ「次期監督は広岡に決まったようだから、お前は引退しろ」と言われた。管理野球の広岡とは合わないだろうという根本の考えであり[12]、当時の同僚であった大田卓司によると「広岡さんが監督になるとき、土井さんを『いらない』って言った。だから土井さんは根本さんに『もう引退しろ』と言われて、引退させられた。」と述べている[13]。根本の監督退任に伴うチームの若返り策にも理解を示し、現役を引退。

引退後[編集]

引退後はテレビ埼玉ライオンズアワー&ヒットナイター」・日本短波放送たんぱストレートナイター解説者1982年 - 1984年)を務める。最初は地元の大阪に帰郷するつもりでいたが、根本のはからいによりテレビ埼玉専属となり、根本からは「西武の試合だけ見とけ!」と厳命された。1984年にはTBS金曜ドラマくれない族の反乱」に南部史郎役で出演。由紀さおり演じる河村律子の亭主で、事故で野球選手を引退、妻と別れ、15歳の娘は非行に走るという役柄であった。視聴率20%超えの人気ドラマに出演したが、視聴者からの問い合わせは全く無かった[14]

1985年には約束通り西武に二軍打撃コーチとして復帰し、1986年には一軍打撃コーチに昇格。同年から自身と同じ「18歳の四番打者」の境遇にあった清原和博を指導し、在任中は3年連続リーグ優勝と2年連続日本一に貢献。1988年からは二軍打撃コーチに戻るが、1989年シーズン中の5月に麻雀賭博に絡んでいたことが発覚し、強制捜査で現行犯逮捕されて解任された[15]

解任後は2度目のテレビ埼玉解説者(1990年 - 1991年)を経て、1992年には韓国KBO三星ライオンズ打撃コーチを1年だけ務めたが、日本人の元プロ野球選手をコーチとしてKBOリーグに派遣するという日本プロ野球界の慣習の始まりとなった。

帰国後は西武一軍打撃コーチ(1996年 - 1999年)に復帰し、1997年1998年のリーグ2連覇に貢献。3度目のテレビ埼玉解説者(2000年 - 2003年)を挟み、西武の一軍ヘッド兼打撃コーチ(2004年)→ヘッドコーチ(2005年 - 2007年)を務め、2004年のリーグ優勝・日本一に貢献。

2008年10月1日に行われた清原の引退試合では観戦に訪れ、2009年から2010年までサンケイスポーツ(関西版)評論家、2010年3月1日から3ヶ月間は阪神大学リーグ2部に所属する追手門学院大学特別コーチを務めた。

2011年から4年ぶりに西武一軍ヘッド兼打撃コーチを務めたが、2012年10月15日付で退団。

2013年からはサンケイスポーツ評論家に復帰し、2014年までは文化放送ライオンズナイター」解説者も務めた。ただし関西在住のため、「ライオンズナイター」での中継出演は主に関西で行われるオリックス・バファローズ阪神タイガース主管の西武戦の中継が主となる。「ホームランナイター」は原則としてABCラジオからのネット受けとなるため、聴取率調査期間や西武の優勝がかかった試合といった自社制作時を除いて出演はなかった[注 2]

2014年10月9日からは中日ドラゴンズ特別コーチに就任し、2015年の春季キャンプまで打撃指導をすることが発表された[16]。また、2015年の秋季キャンプでも中日の特別臨時コーチを務め、高橋周平らを指導[17]

2016年10月25日に中日の一軍打撃コーチに就任することが発表され、監督の森繁和によると「土井さんは最後の仕事ということで引き受けてくれた」と話した[18]。伸び悩んでいた平田良介を開花させ、ダヤン・ビシエドソイロ・アルモンテにも熱心に指導。キャンプ前には「高橋周平を一人前にすることが、私の球界への最後のご奉公」と話し、その言葉通り高橋はプロ入り7年目の2018年にレギュラーに定着し、初めて規定打席に到達した。中日退団にあたっては、サンケイスポーツの取材に対して「もともと2年契約だった。今年、チームを目標だったCSに出場させることができなかった責任を、コーチとして痛感している」と明かし[19]、10月18日付で退団した[20]

2019年からはサンケイスポーツ評論家として復帰する。

選手としての特徴[編集]

典型的なプルヒッターで、通算465本の本塁打のうち、ライト方向へ飛んだのは3本だけだった。一方ミートについては、引っ張り一辺倒のバッティングでありながら本人によればバットを折った記憶がほとんどなく、このことを誇りに感じているという。また、選球眼が良く、通算四球数は三振数よりも195個上回っており、かつ三振数の打数に対する割合が.089と1割を切っている。この「三振率1割未満」は400本塁打以上を打った15人の中では張本勲長嶋茂雄と土井の3人のみである。

打撃フォームは上半身を捻った独特なものであった。最初はカッコだけで始めたものだったが、これが意外にも余分な力が抜け、また成績も上昇したため定着させていった。晩年は、全盛時と比べると捻りはおとなしいものになった。水島新司の漫画「あぶさん」の主人公・景浦安武のモデルの1人であり[21]、作中にて「土井さんは俺のフォームの師匠だ」と語っている。

現役時代はチームの優勝に縁がなく、日本シリーズ出場経験はない[注 3]。通算2452安打は、日本シリーズを経験していない選手の中では史上最多である。

現役時代には、「18歳の4番打者」や、高い成績を残しながら1975年に本塁打王のタイトルを獲得するまでタイトル獲得に恵まれなかったことから「無冠の帝王」と呼ばれていた[22]

特筆[編集]

人物[編集]

  • クラウン時代の1978年には35歳で19歳の伴侶を得て話題になり、その後は一男一女に恵まれている。
  • コーチを解任された後に清原の技術が停滞し、1990年代以降死球禍などに苦しんだことについては、「清原に一軍で勝つための技術しか身に付けさせられなかった」としている。清原に死球の避け方を教えることができず、賭博によりコーチをやめることになってしまったことを後悔していた。そのため、1996年のコーチ復帰の際には、松井稼頭央などに死球の避け方をまず教えたという[23]
  • 50代あたりから総白髪になった。その理由として、1度目の西武打撃コーチ時代に清原を指導するにあたり、どのように指導したら良いか経験したことのない重圧を感じた為、瞬く間に髪の毛が白くなったと語っている[24]
  • 2001年秋、韓国プロ野球LGツインズの監督だった金星根から『誰かピッチングコーチできるのいるか?』と聞かれた土井は加藤初[注 4]を推薦し、加藤は2001年秋季キャンプでLGの投手インストラクターに就任し、金はSKワイバーンズの監督に就任した際も加藤を投手コーチで招いている[25]
  • 2010年夏に行われたライオンズクラシックにOBとして参加した際、仙人のように立派な髭を蓄えており、トークショーで同席した当時のチームメイト、特に東尾を驚かせた。この髭は2009年に行われたライオンズクラシックでは蓄えていなかったので、その後伸ばし始めたと考えられる。2011年よりヘッドコーチに就任した際も伸ばし続けていたが、チームの不振の影響もあり、5月5日の時点で綺麗に剃られていた。その甲斐もあってかチームの連敗は止まった。
  • コーチとして「松井稼頭央、中島宏之中村剛也栗山巧浅村栄斗、高橋周平…。振り返ってみると、私は高卒の選手の方が教えやすかったというか、相性が良かったような気がします。」[26]と述べている。

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1962 近鉄 129 500 477 33 110 21 1 5 148 43 16 8 3 2 16 0 2 60 15 .231 .259 .310 .569
1963 150 600 566 59 156 33 2 13 232 74 6 7 3 5 24 1 2 74 15 .276 .307 .410 .717
1964 147 616 567 75 168 29 4 28 289 98 4 6 4 5 38 1 2 52 12 .296 .342 .510 .852
1965 133 539 499 62 135 15 0 24 222 61 3 5 1 2 28 1 9 50 14 .271 .321 .445 .766
1966 130 515 469 58 129 27 0 21 219 58 3 6 0 4 40 3 2 48 10 .275 .335 .467 .802
1967 125 510 455 62 147 23 2 28 258 93 3 4 0 5 46 12 4 41 5 .323 .390 .567 .957
1968 131 542 456 54 141 23 0 20 224 80 7 7 0 7 75 27 4 35 7 .309 .411 .491 .902
1969 129 534 463 76 139 22 0 27 242 72 6 5 0 6 59 7 6 31 12 .300 .386 .523 .909
1970 73 296 264 29 74 5 0 11 112 41 2 4 0 0 28 5 4 22 7 .280 .486 .424 .910
1971 127 520 443 72 137 10 0 40 267 113 2 10 1 8 65 15 3 45 11 .309 .401 .603 1.004
1972 118 496 426 66 128 18 0 30 236 84 5 1 0 3 64 6 3 34 16 .300 .396 .554 .950
1973 122 492 414 60 131 15 0 29 233 76 2 2 0 4 66 10 8 24 15 .316 .420 .563 .983
1974 130 516 429 60 119 8 0 29 214 67 5 2 0 4 74 3 9 35 18 .277 .406 .517 .923
1975 太平洋
クラウン
西武
130 554 481 74 125 9 0 34 236 82 2 0 0 3 64 4 6 45 13 .260 .354 .491 .845
1976 121 491 429 53 111 7 0 25 193 73 3 4 0 6 51 1 5 38 10 .259 .344 .445 .789
1977 123 495 428 45 106 8 0 24 186 67 3 4 1 4 57 4 5 35 10 .248 .343 .436 .779
1978 126 497 433 54 131 13 0 26 222 75 2 5 0 6 53 5 5 35 8 .303 .385 .513 .898
1979 128 540 470 56 127 12 1 27 222 70 2 5 1 2 61 0 6 42 15 .270 .361 .472 .833
1980 116 455 395 48 112 8 1 23 191 65 1 1 0 2 51 1 7 22 14 .284 .375 .484 .859
1981 61 145 130 9 26 3 0 1 32 8 1 1 0 0 12 0 3 9 8 .200 .283 .246 .529
NPB:20年 2449 9853 8694 1105 2452 309 11 465 4178 1400 78 87 14 78 972 106 95 777 235 .282 .358 .481 .838
  • 各年度の太字はリーグ最高
  • 太平洋(太平洋クラブライオンズ)は、1977年にクラウン(クラウンライターライオンズ)に、1979年に西武(西武ライオンズ)に球団名を変更

タイトル[編集]

  • 本塁打王:1回 (1975年)
  • 最多安打(当時連盟表彰なし):2回 (1964年、1967年) ※1994年より表彰

表彰[編集]

記録[編集]

初記録
節目の記録
  • 100本塁打:1967年5月28日、対南海ホークス4回戦(大阪スタヂアム)、9回表に三浦清弘からソロ ※史上48人目
  • 150本塁打:1969年8月7日、対西鉄ライオンズ16回戦(平和台球場)、2回表に池永正明から左越ソロ ※史上27人目
  • 1000安打:1969年5月1日、対阪急ブレーブス5回戦(阪急西宮球場)、7回表に足立光宏から ※史上70人目
  • 1000試合出場:1969年7月6日、対阪急ブレーブス12回戦(阪急西宮球場)、4番・左翼手で先発出場 ※史上139人目
  • 200本塁打:1971年7月29日、対ロッテオリオンズ19回戦(東京スタジアム)、8回表に横山小次郎から左越ソロ ※史上17人目
  • 250本塁打:1973年4月22日、対日拓ホームフライヤーズ前期3回戦(日生球場)、2回裏に小坂敏彦から満塁本塁打 ※史上9人目
  • 1500安打:1973年5月23日、対ロッテオリオンズ前期9回戦(宮城球場)、3回表に村田兆治から中前安打 ※史上28人目
  • 1500試合出場:1973年9月29日、対南海ホークス後期10回戦(日生球場)、4番・左翼手で先発出場 ※史上45人目
  • 300本塁打:1974年8月16日、対日本ハムファイターズ後期6回戦(日生球場)、6回裏に新美敏から ※史上7人目
  • 3000塁打:1975年6月1日、対ロッテオリオンズ前期13回戦(川崎球場)、4回表に成田文男から左越ソロ ※史上11人目
  • 1000打点:1975年7月17日、対近鉄バファローズ前期3回戦(平和台野球場)、9回裏に柳田豊から左越逆転サヨナラ2ラン ※史上10人目
  • 350本塁打:1976年6月3日、対日本ハムファイターズ前期9回戦(後楽園球場)、5回表に渋谷幸春から2ラン ※史上7人目
  • 2000安打:1977年7月5日、対ロッテオリオンズ後期1回戦(宮城球場)、9回表に村田兆治から中前安打 ※史上10人目
  • 2000試合出場:1977年8月31日、対日本ハムファイターズ後期10回戦(平和台球場)、4番・左翼手で先発出場 ※史上11人目
  • 3500塁打:1977年9月30日、対阪急ブレーブス後期13回戦(平和台球場)、2回裏に足立光宏から左越3ラン ※史上8人目
  • 400本塁打:1978年6月6日、対阪急ブレーブス9回戦(阪急西宮球場)、4回表に山田久志から左中間へソロ ※史上5人目
  • 1000得点:1979年4月29日、対日本ハムファイターズ前期6回戦(後楽園球場)、9回表に宇田東植から左越3ランを放ち達成 ※史上12人目
  • 4000塁打:1980年6月1日、対阪急ブレーブス前期8回戦(西武ライオンズ球場)、5回裏に山田久志から左前安打 ※史上6人目
  • 450本塁打:1980年7月1日、対ロッテオリオンズ前期13回戦(西武ライオンズ球場)、8回裏に仁科時成から左越3ラン ※史上4人目
その他の記録
  • 6試合連続本塁打 (1978年5月14日 - 5月22日)
  • 5試合連続本塁打 (1973年7月29日 - 8月3日)
  • 25試合連続安打 (1967年9月7日 - 10月17日)
  • オールスターゲーム出場:15回 (1963年 - 1969年、1971年、1973 - 1976年、1978年 - 1980年)

背番号[編集]

  • 51 (1961年 - 1967年)
  • 3 (1968年 - 1981年)
  • 87 (1985年 - 1989年)
  • 71 (1996年 - 1999年、2004年 - 2007年、2011年 - 2012年)
  • 90 (2017年 - 2018年)

関連情報[編集]

出演番組[編集]

  • TVSライオンズアワー
  • TVSヒットナイター
  • たんぱストレートナイター(日本短波放送=現:ラジオNIKKEI)
  • 文化放送ライオンズナイター
  • くれない族の反乱(TBS系金曜ドラマ:1984年):南部史郎役

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 伊原春樹については、坂井保之は「埼玉県なんて聞いたこともない」とまで発言して売却・移転反対を訴えていたと自著『波瀾興亡の球譜:失われたライオンズ史を求めて』で記述しているが、伊原本人は2022年に出版された『俺たちのパシフィック・リーグ クラウンライター・ライオンズ』(ベースボール・マガジン社)掲載のインタビューで「芝浦工業大学のグラウンドと合宿所が埼玉県大宮市〈現:さいたま市大宮区〉にあり、埼玉県にいれば西武がどういう会社かわかる」と埼玉県への在住経験があったことや、「巨人時代に改築前の西武園球場で二軍戦を経験した」「あの西武が球団を持ってくれる嬉しさの方が大きかった」との証言をし、坂井の記述を否定している。
  2. ^ 「ホームランナイター」については2013年4月20日のオリックス対ソフトバンクの自社制作時に出演事例あり。
  3. ^ 近鉄は土井の移籍から5年後(1979年)、西武は土井の引退した翌年(1982年)に、それぞれ(西武は球団買収後)初めてリーグ制覇を達成した。
  4. ^ 土井がサムスン打撃コーチ時の監督が金で、加藤とは選手時代は太平洋、コーチ時代西武で同僚だった。

出典[編集]

  1. ^ 「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年
  2. ^ a b c 「18歳の4番打者」が辿り着いたバッティングの極意【土井正博】”. 公研. 2021年8月28日閲覧。
  3. ^ a b c 【根本陸夫伝】高校を中退させて「18歳の4番打者」を作った男”. ライブドアニュース (2014年6月10日). 2021年8月28日閲覧。
  4. ^ わざと振り遅れてホームラン。「プロ最年少の四番打者」が考えた極意”. web Sportiva. p. 2 (2020年11月8日). 2021年8月28日閲覧。
  5. ^ わざと振り遅れてホームラン。「プロ最年少の四番打者」が考えた極意”. web Sportiva. p. 4 (2020年11月8日). 2021年8月28日閲覧。
  6. ^ 土井正博 「教えられなかった死球の避け方」”. Number Web (2009年1月16日). 2021年8月28日閲覧。
  7. ^ わざと振り遅れてホームラン。「プロ最年少の四番打者」が考えた極意”. web Sportiva. p. 5 (2020年11月8日). 2021年8月28日閲覧。
  8. ^ 週刊ベースボール 2012年5月28日号 27ページ
  9. ^ 【追悼・西本幸雄さん】(上)「もう時効だから」と明かしたあの時の真相”. msn 産経ニュース. p. 3 (2011年12月10日). 2011年12月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年8月28日閲覧。
  10. ^ 【追悼・西本幸雄さん】(上)「もう時効だから」と明かしたあの時の真相”. msn 産経ニュース. p. 4 (2011年12月10日). 2011年12月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年8月28日閲覧。
  11. ^ 西日本新聞、1978年10月13日付。
  12. ^ サンケイスポーツ 2010年1月5日 6面
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関連項目[編集]

外部リンク[編集]