西村幸生

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西村 幸生
Statue of Yukio Nishimura @ Ise.jpg
「西村幸生投手之像」(三重県伊勢市)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 三重県宇治山田市(現:伊勢市
生年月日 (1910-11-10) 1910年11月10日
没年月日 (1945-04-03) 1945年4月3日(34歳没)
身長
体重
167 cm
64 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1937年
初出場 1937年
最終出場 1939年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
野球殿堂(日本)
Empty Star.svg Empty Star.svg Empty Star.svg 殿堂表彰者Empty Star.svg Empty Star.svg Empty Star.svg
選出年 1977年
選出方法 特別表彰

西村 幸生(にしむら ゆきお、1910年11月10日 - 1945年4月3日)は、1930年代の日本を代表する職業野球選手投手)。三重県宇治山田市世古町(現:伊勢市大世古町)出身。

主戦投手として、大学野球の関西大学職業野球大阪タイガースといった名門チームの黄金時代を築いた。現在では、「酒仙投手」と呼ばれることも多い。甥の西村隆明[1] は、伊勢市内で鰻料理店を営んでいる。

来歴[編集]

1917年に入学した宇治山田市立厚生小学校で野球を始め、1923年三重県立宇治山田中学校に進学して野球部に入部するとたちまちエースになり、その後主将を任された。当時の中学校は5年制だったが、1年留年したため、6年目の1928年にも夏の三重県大会に出場することになった。同大会では、2回戦でノーヒットノーランを達成するなどして優勝に貢献した。全国中等学校優勝野球大会(甲子園)への出場が期待されたが、各県大会を勝ちあがったチームが争う東海大会で破れ、本大会への出場はならなかった。

宇治山田中学校を1929年に卒業した後、名古屋の実業団だった愛知電気鉄道鳴海倶楽部を経て、1931年関西大学予科に入学し、その後同大法学部へ進学した。西村の入部によって関西大学野球部は黄金時代を迎え、1932年春から1936年秋にかけて、関西六大学野球リーグを一時的に脱退していた1934年を挟んで、8連覇を達成した。特に1932年には東京六大学野球リーグのうち東京大学を除く5大学と対戦し、全大学に勝利した。西村は、大学野球界屈指の強豪となった関西大学の主将兼エースとして名声を博した。また、1933年と1936年にはハワイに遠征し、ここでも好成績を収めた。

1937年に関西大学を卒業すると、前年に設立されたばかりの職業野球とアマチュア球界の双方で争奪戦が起こった。西村は、同じ宇治山田市出身で職業野球東京巨人軍のエースだった沢村栄治との対戦を望んで、職業野球の大阪タイガースに入団した。1937年春の対イーグルス2回戦で初登板し9対2の初勝利を収めると、次の対東京セネタース戦では早くも初完封を飾った。大学時代と比べて球速は落ちていたが、制球力で打者を手玉に取り、このシーズン9勝を挙げた。しかし、春のシーズンでは、タイガースの当時のライバルチームであった巨人と阪急軍の2チームからは1勝もできなかった。

1937年秋、巨人との開幕戦でリリーフして勝利投手となると、9月8日から10月4日までのタイガース14連勝の間には5勝を挙げるなどして、チーム独走の象徴的存在となり、エースピッチャーの座を掴んだ。11月14日、本拠地甲子園球場での2位巨人との試合で5対3の完投勝利を挙げ、優勝を決めた。このシーズン、最高殊勲選手賞(MVP)こそイーグルスの捕手バッキー・ハリスに譲ったものの、15勝3敗・防御率1.48で最多勝利最優秀防御率の二冠となり、特に巨人に対しては4勝無敗の成績を収めて、職業野球を代表する投手となった。1937年12月1日から12月7日にかけて春優勝チームの巨人との間で行われた4勝先取の年度選手権決定試合では、登板した3試合全てで完投勝利し、年度優勝の立役者となった。特に、第1戦と最終戦の第6戦では、巨人のエース沢村栄治との投げ合いを制し、シーズン優勝に続いて、ここでも現在でいう胴上げ投手になった。

1938年春にもタイガースは独走で優勝し、前年秋からの連覇を果たした。西村は、このシーズンも主戦投手として活躍し、優勝が決まった7月13日のダブルヘッダーでは、1試合目の勝利投手となった。シーズンを通して安定した投球を続け、前シーズンに続いて最優秀防御率のタイトルを獲得した。しかし、最高殊勲選手賞はセネタースの苅田久徳が獲得した。1938年秋は優勝を巨人に譲ったため、同年11月26日から12月2日に再び巨人との間で年度選手権決定試合を行った。第1戦では、先発して延長10回表までを2失点に抑える好投をみせ、その裏に代打を出されたが、2死満塁から藤井勇がサヨナラ四球を選んだため、勝利投手となった。初戦の投手戦をサヨナラ勝ちで制したタイガースは、4連勝で2年連続の年度優勝を決めた。

1939年になると、肩の故障のために度々打ち込まれるようになり、最後の公式戦登板となった11月12日の対巨人戦では、6失点で降板した。同年末、3年連続となる東西対抗試合出場を終えると契約切れで退団した。1940年には満州新京の実業団であった新京電電でプレーしたが、同年限りで引退した。

1944年3月に応召し、翌1945年4月3日にフィリピンバタンガスで戦死した(ルソン島の戦い#南部の戦闘Battle of Batangas)。1977年、野球界に対する貢献が認められ、特別表彰での野球殿堂入りが決まった。

人物[編集]

都度々取っ組み合いの喧嘩をするなど仲の悪かった石本秀一(在籍当時のタイガース監督)は「数え切れない大投手を見てきたが、コントロールは稲尾和久と西村が双璧だった」と述べている。また、試合に勝利して得た賞金で酒を飲むことを好んだことから、野球評論家の大和球士は主戦投手をもじって「酒仙投手」と名付けた。そのため、酒好きという印象が実際よりも強く、練習も人前ではあまりしなかったために、不真面目な選手と思われていた時期もあった。しかし、タイガースの同僚であった若林忠志松木謙治郎らは酒好きといっても酒豪というほどではないということや、一人で人一倍走り込みなどをしていたということを証言した。松木は、西村が宿舎の旅館では禁酒の規則を守っていたと記している[2]

鈴木龍二は回顧録で以下のような話を紹介している。甲子園駅近くのガード下の酒場で飲んでいると、西村が景浦將ライオン軍水谷則一と連れだってかなり酔った姿で現れ、「ぼくも飲んでますが、ご心配いりません、大丈夫です、いくら酔っても、投げることはきちんと投げますから」と口にした。鈴木が先に宿に戻ってから警察から三人が暴れているという電話があり、鈴木は警官に謝って連れ帰った。翌日の試合に先発した西村はすばらしいピッチングで勝ちを収めたという。鈴木は西村のことを「決して憎めない快男児であった」と記している。

豪放に見えたが英会話が得意で、妻(日系二世)は関西大学のハワイ遠征の際に知り合った。妻の話だと、家では子煩悩(4女がいた)な父親だったという。戦後はハワイに帰国した。

巨人の沢村栄治と同郷であったことから、伊勢市倉田山公園野球場には両者の胸像が向かい合わせに建てられている。また、東京ドーム敷地内にある鎮魂の碑にはその名前が刻まれている。

詳細情報[編集]

年度別投手成績[編集]





















































W
H
I
P
1937 大阪 19 18 6 1 0 9 3 -- -- .750 445 116.2 101 1 51 -- 3 79 0 0 40 29 2.24 1.30
1937秋 25 17 14 3 0 15 3 -- -- .833 643 182.1 131 2 76 -- 3 103 1 0 46 30 1.48 1.14
1938 19 16 11 3 0 11 4 -- -- .733 483 129.1 111 2 66 -- 1 65 3 1 41 22 1.53 1.37
1938秋 20 15 9 0 0 9 2 -- -- .818 510 137.2 115 4 72 -- 5 58 6 1 49 38 2.48 1.36
1939 29 20 11 2 1 11 9 -- -- .550 624 167.1 139 4 72 -- 1 89 1 2 60 45 2.42 1.26
通算:3年 112 86 51 9 1 55 21 -- -- .724 2705 733.1 597 13 337 -- 13 394 11 4 236 164 2.01 1.27
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル[編集]

表彰[編集]

背番号[編集]

  • 19 (1937年 - 1939年)

参考文献[編集]

  • 中村博男 『初代巨人キラー : 阪神の名投手西村幸生の生涯(ISBN 4-905606-16-0)』 かのう書房、1995年。
  • 日本野球機構IBM・BISデータ本部編著 『The official baseball encyclopedia : 1936-1990(ISBN 4-9900152-0-7)』 日本野球機構、1991年。
  • 鈴木龍二 『プロ野球と共に五十年(上) 私のプロ野球回顧録(ISBN 4-7704-0593-6))』恒文社、1984年。

脚注[編集]

  1. ^ 2014年3月10日に伊勢市倉田山公園野球場で開催された巨人×阪神のオープン戦で、沢村栄治の長女とともに始球式を行なった。
  2. ^ 松木謙治郎『タイガースの生いたち』恒文社、1973年、P155。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]