石本秀一

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石本 秀一
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 広島県広島市段原(現:南区的場町)
生年月日 1897年11月1日
没年月日 (1982-11-10) 1982年11月10日(85歳没)
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴
野球殿堂(日本)
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選出年 1972年
選出方法 競技者表彰

石本 秀一(いしもと しゅういち[1]1897年11月1日 - 1982年11月10日)は、日本のアマチュア野球指導者、プロ野球監督広島県広島市段原(現:南区的場町[2])の生まれ[3]

中等野球黎明期からプロ野球黎明期、戦前、戦後と長きにわたり指導を続け、計プロ6球団の監督[4] を務めるなど、プロアマを通じ日本野球史を代表する指導者の一人である[5][6][7]

経歴[編集]

現役時代[編集]

実家は石妻組という土木請負業[6]。段原尋常小学校時代からエースとして活躍し、旧制広島商業学校では二年生でエースとなる。野球熱の盛んな広島で二年でエースを張る石本は有名人だったという[6]1916年第2回1917年第3回全国中等学校優勝野球大会(現全国高等学校野球選手権大会)連続出場(1916年、準々決勝敗退4-6、対和歌山中1917年、初戦敗退3-6、対関西学院)。

1918年に旧制関西学院高等部商科に進むが中退。満州に渡り、大連三井物産保険部に勤務しながら大連実業団で野球を続けた[8]1923年に帰国し、大阪毎日新聞広島支局の記者となる[6]

広島商業学校[編集]

低迷していた母校広島商業の試合を久しぶりに見た石本は、あまりの不甲斐なさに激怒[9]。自ら志願して26歳で監督に就任すると野球の鬼と化した石本は、練習が終わると誰も立ち上がれない程の超スパルタ式練習を課した[6]。さらに有名な日本刀の刃渡りなどで鍛えた精神野球と[10][11] 機動力またバントを駆使して取った1点を堅い守備で守り切る、そつの無い野球で1924年広島県勢、また近畿以西として、また実業学校として初優勝。及び「甲子園」初代王者[9]。一旦辞めたが復帰し1929年1930年1931年灰山元治鶴岡一人らを率いて計4度の全国制覇を成し遂げた(1929・1930年は夏連覇、1930・1931年は史上初の夏春連覇)[9]。春夏6回の全国大会出場で4度の全国制覇[6][12][13]。4度の優勝は他に先駆けた偉業であった[10]。バントや足技で相手の意表を突く「広商野球」[14]、全国に古豪は数あれど、校名がそのまま野球スタイルになっているのは広島商だけである[15]。その「広商野球」を築き上げたのが石本である[6][7]。高校野球の世界では、わずか10年にも満たない石本の監督歴だが、後世に残した足跡は計り知れない[6]。戦前の夏の甲子園、最高の監督との評価もされる[16]

大阪[編集]

その後新聞記者を続け、甲子園大会にも毎日の運動記者として鋭い戦評を書き[17][18]、その名が知られていたが1936年プロ野球開幕年大阪タイガースの二代目監督に就任すると[19]、広島商業お家芸の“千本ノック”などの猛練習で[20][21][22] 荒ぶる猛虎軍団を束ね1939年までの在任中、阪神初優勝を含む2度の優勝(いずれも東京巨人軍を年度優勝決定戦で下す)を果たす[23][24][25][26]。タイガースを人気チームにして[27] タイガース第1期黄金時代を築き上げた[8][10][28]。打倒巨人・打倒沢村を掲げて[29]、爆発的な攻撃力をチームカラーとすることに成功し[10]ダイナマイト打線」を形成[18][20][30][31]。プロ野球草創期、藤本定義率いる東京巨人軍との毎年の優勝争いが「伝統の一戦」の始まりである[23][32]。「伝統の一戦」を確立させた功績は極めて大きい[25]。親会社は打倒阪急を叫んでいた[21][33]。石本の動くところ常に猛打あり優勝ありで[31]、豪気、かつ小さな事にこだわらない男性的な性格、闘志剥き出しで選手を鍛え、相手チームに挑みかかる“猛虎”の最初のイメージは、石本によるところが大きいともいわれる[34]藤村富美男も闘志を表に出してプレーすることの大切さを教えられるなど、石本に少なからぬ影響を受けたという。スポーツニッポンで2011年11月~2012年1月に連載された「内田雅也の猛虎人国記」では、その第1回に広島県が取り上げられ、「阪神タイガースの人国記を始めるにあたって、冒頭に広島県を持ってきたのには理由がある。いわゆる“猛虎魂”を形作ったのは広島県出身の野球人だからである」と講じられ、藤村富美男、門前真佐人とともに"スパルタ訓練で“猛虎魂”の形作った"として石本を紹介している[26]。竹中半平は1978年の著書『背番号への愛着』の中で、石本を「大タイガース育ての親」と評しており[31]、一般的に反目しあったといわれる「景浦將の猛打も石本によって完成されたものであり、二点取られれば三点、四点取られれば五点奪い返す、見る人の反感をさえ唆る一番から九番までの穴のない打線も、石本の苦心の結晶であった。石本の烈々たる闘志は、その後長くタイガースの精神として残り、直接石本の息はかからずとも、その雰囲気の中から旺盛な戦闘意識が生れでた。戦後有名な阪神の"ダイナマイト打線"は、実は石本の残した大きな遺産であった」と論じている[31]デイリースポーツから出版された政岡基則著「猛虎の群像 そして星野」(2003年)では、阪神監督として歴史に名を残しているのは“鬼の石本秀一”、“猛虎魂のルーツ”といわれる松木謙治郎"、そして“名伯楽の藤本定義”の三人にしぼって間違いあるまい、と書いている[35]。阪神監督として通算307試合、226勝78敗3引分け、勝率.743で、初就任時からの通算100勝到達131試合(28敗3分け)、200勝到達272試合(67敗5分け)は、いずれもプロ野球最短記録[36][37]1937年11月に甲子園球場を会場に行われた現在のオールスターゲームの前身となる職業野球東西対抗戦第1回大会の西軍の監督を務める(東軍監督・藤本定義[38]。高校野球監督からプロ野球監督に転身した例は石本と田丸仁のみ[39]

大洋・西鉄軍[編集]

1939年、V3を逸した責任を取りタイガースを退団[8]。翌1940年には名古屋金鯱軍の監督に就任。選手層が薄く大きく負け越しチームは解散、1941年翼軍と日本プロ野球史初の対等合併で大洋軍を結成。石本は総監督となり元翼軍監督の苅田久徳との二頭体制となる[40]。しかし、チーム内のゴタゴタで苅田が孤立したため1942年に監督に就任しチームを指揮[40][41]スライダーを教えたエース野口二郎の40勝もあり2位と健闘[42]。同年5月24日の対名古屋戦で、トップリーグにおける空前絶後の世界最長試合・延長28回の指揮も執った[43]

1943年、チームは福岡の鉄道会社西日本鉄道に譲渡され西鉄軍となる(本拠地は九州だったが、当時はフランチャイズ制執行以前であったため、九州での試合はなかった)[44]。そのまま監督を続け近藤貞雄を育てるなどしたが、8チーム中5位で終わりこのチームも同年解散した。戦況が悪化したこの年の末、広島に戻り妻子を連れて高田郡有保村(現:安芸高田市向原町)に疎開。農業に勤しむ。しかし広島市内に残った父、母、弟、妹は原爆で亡くした。

国民野球連盟[編集]

戦後1946年、新リーグ結成の動きがあり(のち国民野球連盟)、グリーンバーグなる新球団の監督要請を受ける。戦後の混乱期で断ろうと思ったが濃人渉門前眞佐人らチームの大半が広島出身者だったため(力士も数人含まれていた)、やむなく受諾。広島で練習を積み広島を本拠地にするつもりだった。翌1947年、グリーンバーグの親会社「日本産業自動車」が国税局の査察を受け操業を中止し経営が悪化。同年春、国民野球連盟の結成披露会が行われたが、東京までの汽車賃が工面できず上京出来なくなった。しかし責任感の強い石本は、何とか工面し丸2日かけて選手を連れて上京。顔じゅう煤だらけにしながら疲れも見せず、石本の毅然とした態度は出迎えの者を感激させたという。2日後の国民リーグのお披露目試合(千葉県銚子球場)には間に合った。この年夏の国民リーグ本格開始を前に、連盟内でチームとしての体裁を整えていたのはグリーンバーグと宇高レッドソックスだけだったため、この2チームでこの後夏まで全国巡業を行った。しかしグリーンバーグの経営がさらに悪化したため、解散だけは避けたい石本と主将・濃人は新たなスポンサーを探し回った。石本は何とか茨城県結城郡結城町の建設資材販売で儲けていた広商の後輩、土手潔を見つけてグリーンバーグは土手をオーナーとし、茨城県結城に本拠地をおく結城ブレーブスとして再スタートを切った[45]。しかし国民リーグは、所属チームが4チームしかなく観客は徐々に減少。更に大食漢の選手の食費、給料が月に50万円(現在の物価に換算すると数千万円)かかり親会社を倒産に追いこむ。また他チームも興行師の上がりの持ち逃げや、国税局の査察、またのちセ・リーグ会長になる鈴木龍二の二枚舌もあり国民リーグは1年で崩壊した。

金星、大陽[編集]

国民リーグでプレーした60余名の選手のうち、金星スターズに8名のみ引き取られ残りの選手は職を失った。1948年、石本もこのチームに移籍、選手過剰で結成された、金星リトル・スターズと名付けられた実質二軍チームの監督を引き受けた[46]後述)。ここで小林常夫らを育てた[47]

1リーグ最後の年1949年大陽ロビンスの監督(8チーム中、最下位)。

広島[編集]

1950年、郷土に広島カープが創設されると初代監督に就任[3]。就任の経緯は広島カープ初代代表・河口豪に「郷里の球団で最後の花を咲かせたい」と石本の方から売り込みがあったためである[13]。広島県民は"郷土の英雄"の監督就任を双手をあげて歓迎した。既に54歳「金はいらない。野球人生の最後を故郷広島の復興のために」と勇んで挑んだものの、開幕3か月前に選手が1人も決まっていない、と知らされる。スタッフは全員、野球はズブの素人のため、自らの人脈をフルに活用しての選手獲得を試みたが、2リーグ分裂による選手不足等あり、名前の通った選手は志を同じくした白石勝巳だけであった。手塩にかけた大陽の二軍選手をごっそり連れてこようとしたが、大陽・松竹の合併でオジャンとなり、数選手のみを譲り受け、広商の後輩、浜崎真二の好意で阪急から内藤幸三武智修らをもらった[48]。入団テストでは使えそうな若者がいると親に反対させぬよう監禁してハンコを押すまで帰さなかった。その中で長谷川良平等を獲得した[49]。公式戦が始まると試合はともかく財政が火の車となり、練習は白石助監督に任せてここでも金策に奔走[48][50]市役所前で演説、後援会の結成、試合後、夜選手を連れて講演会をやって金を集めたり、企業に協賛金のお願いに回った[51][52]。試合が始まると塀を乗り越えてタダ見するお客を見張った。選手側も給料の遅配は当然で生活が苦しく、キャバレーのステージに立って歌をうたい生活費を稼ぐ者もいたといわれる[13]。初年度はプロ経験者は1人、あとは各地の鉄道局から寄せ集めた、ほぼノンプロ国鉄スワローズにも抜かれて最下位となった。なお、前年まで石本が指揮を執った松竹ロビンスは大量補強により、同年セ・リーグの記念すべき初代チャンピオンに輝いた(しかしこのチームは大洋ホエールズと合併したため現存しない)。1951年3月14日NHKラジオが夜のニュースで「広島解散、大洋に吸収合併」と報じた[50]。石本は後援会の結成を発案し、同年3月16日中国新聞紙上で「いまこのカープをつぶせば日本に二度とこのような郷土チームの姿を見ることは出来ぬだろう、私も大いに頑張る、県民もこのさい大いに協力してカープを育ててほしい」と訴えた[53][54]。この後も選手層が薄く好成績を残すことはなかったが、崩壊寸前の球団を立て直し、球団存続のために奔走した[50][51][55][56]。自ら樽募金を行うなどこれらの逸話はNHKプロジェクトX〜挑戦者たち〜」でも取り上げられた[6][57]。5年間・合計191本が放送された同番組で、プロ野球の逸話が取り上げられたのは本作1本のみである。

1953年小鶴誠金山次郎ら、赤嶺派の広島入りも石本の情熱溢れる説得によるもの[13][51][58]。この時、赤嶺昌志も広島球団代表として広島移籍を画策するが、これが中国新聞のスクープですっぱ抜かれると頓挫した。結果として選手が移籍しただけで終わったが、鈴木龍二が「石本君に赤嶺を代表にすることは絶対にいかんととめた。それで赤嶺君の広島代表はとまった」と話しており[51]、中国新聞のスクープは石本からのリンクかも知れない(赤嶺旋風)。この年で広島カープを退団。石本と後援会が力を持ち過ぎ、会社側重役の退陣を要求。これが否定されたのが退任の切っ掛けといわれている。

西鉄[編集]

1954年には三原脩が監督の西鉄ライオンズで投手コーチとなり[44]河村久文西村貞朗ら若返った投手陣を束ね西鉄初優勝に貢献[59][60]。同年秋には素人スカウトだった竹井潔に頼まれ稲尾和久をテスト。「足腰の強さは前代未聞」と獲得を進言した[61] 他、島原幸雄らを育てのちの西鉄黄金時代にも貢献。1961年には門下の濃人が中日の監督に就任するとヘッドコーチとして濃人を支え、巨人と激烈な優勝争いを演じた。

その後[編集]

その後1966年長谷川良平が監督に就任した広島で、再びヘッドコーチを務めた。

1972年野球殿堂入り。1975年、広島初優勝の時は初代監督として感無量だったという[62]。広島の初優勝、初の日本一(1979年)、巨人以外ではリーグ初となる連続日本一(1980年)を見届けた後、1982年11月10日に86歳で没した。合計プロ6球団の監督を務め、阪神以外の球団が弱小チームでしかも経営危機という、生涯苦労の連続であったが、非常に人望があり選手を育てるのがうまい、特に投手作りの名人・名将として知られた。これだけ幅広いジャンルで野球に関わり続け、しかも中学野球とプロ野球の両方で監督として優勝した経験を持つ野球人は珍しい[6]。自ら、そして門下を含めると日本野球史のほぼすべてに関与する事となった。

人物・逸話[編集]

  • 日本刀の刃渡りがあまりにも有名だが[10][11](ただし、実際に行ったのは1930年の一度だけと言われている)[6]、中学生に真剣の刃の上を歩かせるという衝撃的な練習は、当時の広島商の実力の根幹をなすものだとして喧伝された[6]。このため精神野球重視の指導と思われがちだが、実際この人ほど対戦相手に対し研究・分析を徹底的にして、練習の時から取り組んでいた人はいない、と言われている。近代野球の基本を早くから実践していた。広島商業監督時代、最大のライバルである広陵中(現:広陵高校)の方が戦力は上でも、大事な試合では必ず広陵を倒した。のちに阪神や広島で一緒になった広陵出身の選手が皆、納得したそうである。この勝負強い広商と勝負弱い広陵の伝統は今も引き継がれ、近年の実績は広陵が遥かに上だが、広島の高校野球ファンは今でも広商派の方が多い。
  • 広陵出身の濃人渉は、子どものときから広陵の先輩に石本をカタキのようにいわれ、何の根拠もなく石本を毛嫌いしていた。ところが一緒になってやっているうち、自分の間違いだということに気づいた。石本の教え方を見ていて、ころっと参った。そして尊敬したという。濃人は後に日鉄二瀬で江藤愼一古葉竹識などを育てたことでも知られるが「指導法は石本から教わったもの。石本式です。石本さんの野球です」と述べている[63]
  • 2006年夏、早稲田実業斎藤佑樹の活躍で青いハンカチが大人気となったが、中等野球時代のファンは広島商業監督時の石本のタオルに惹かれた。炎天下のグランドに石本が登場し白いタオルを首に巻くと、それは全国優勝への猛ノック開始の予告のようで胸が踊った[64]
  • タイガースは1936年8月に、夏のシーズンの不手際を理由に初代監督の森茂雄を解任し、石本を二代目監督に据えた[65]。電鉄本社は当初、成績の振るわない森の上に石本を総監督に置き、試合経験の乏しい中学出の選手を二、三年石本に鍛えてもらい、一人前になったら森にすべての指揮権を返したらよい、ぐらいに考えていた[28]。球団は、森の母校・早大の野球部OB界組織である稲門野球倶楽部に了解を求めたが、これに佐伯達夫らが反発、球団への不信感もあって森が退団し、自動的に石本の監督就任が決まった[28]。この時、佐伯も森の後任として名乗りを挙げたが、石本に敗れたために、それ以来プロ野球ぎらいになったといわれる[28][62][66]
  • 東京六大学リーグ全盛の時代に、石本は関西学院大学出。加えて早稲田大学出の前任者・森茂雄解任に対する同情が、タイガース内に石本への反目の空気を醸しだした。悪口をあからさまに口に出す選手もいたが、豪気の石本は、このような風潮にもビクともせず[26]。森時代に比べて遥かに厳しい練習、厳しいルールを選手たちに課した。サムライ揃いの選手たちが、この憤慨をグラウンドに向けた。石本の負けじ魂が、選手たちに乗り移り、全ナインの闘志をかきたて、タイガース第1期黄金時代を築き上げた[8][26]
  • 野球に学歴はいらない。要は力のあるなしが問題だ。序列は力を基準にしてつける。力があれば過去の野球歴を無視して使っていく。この考え方は石本が広島商業の監督時代から一貫して抱き続けた信念である[8]。創設間もない大阪タイガース時代には、一つのポジションを複数の選手で争わせれば、お互いが励みあって技術の向上が期待できると、この競争の原理をチームの柱にして、新しいチームづくりを行った。
  • タイガースが創設された1936年は、勿論広島カープが創設されていなかった事も有り、広島出身の野球人は主にタイガースに集結した[26][67]。初年度1936年は、監督・石本の他、藤村富美男門前真佐人小川年安平桝敏男岡田宗芳と、選手19人のうち、5人。2年目の1937年は、これに広田修三塚本博睦原一朗上田正奈良友夫が加わり(小川は1年で退団)、全26人中9人と出身県別で最多を数えた[26]。広島出身者なしではチームが結成できない程で[68][69][70]、その後も石本、藤村、門前らの中学の後輩がタイガース入りした。さらに出目を広島に持つ若林忠志田中義雄堀尾文人も合わせると阪神創設期の主力は広島出身者、関係者が多かった。
  • 速球投手対策に、他の投手をマウンド1歩手前から投げさせる練習は一般的に行われる練習だが、これを初めてやったのは、リーグ創設2年目、1937年の阪神キャンプでの石本と言われる[26][28][31][62][71]。松木主将の助言を受け[20] 前年、完璧にやられた沢村栄治を打倒すべく、この年2月の甲子園キャンプで、球場の門を閉め新聞記者をシャットアウトして秘密練習をした。この時の石本の執念は凄まじく、寒い甲子園で速球の連投を課した若手有望投手を二人潰したという[29]。この年の阪神の対・沢村の結果だが、沢村は24勝4敗、防御率0.81でこの年から制定された“最高殊勲選手(MVP)”第1号になっており、阪神もノーヒットノーランを許すなど攻略出来たとは言えなかった。しかし年度優勝決定戦では、3度先発した沢村を打ち込み、初めて阪神の年度優勝のタイトルを手にしている。
  • 沢村と対決した1937年の阪神の主力投手が、沢村の終生のライバルといわれた西村幸生であったが、前述のように1937年の年度優勝決定戦で西村の3勝がモノをいい打倒沢村、打倒巨人を果たした後、沢村が軍隊にとられ目標を失った為か、腕が落ちた西村は1939年には度々打ち込まれ、石本との鬱積した確執が表面化した(元々西村は練習嫌いの大酒飲みで、練習命の石本とはそりが合わなかった)。ノックアウトされベンチに戻ってきた西村に石本が「なんであんとな中学生みたいな球、あがいなとこに投げるんなら!(なぜあんな中学生みたいな緩い球を、あんな甘いコースに投げるんだ!)」と激怒。すると西村は「誰が中学生なら! 文句があるんやったらワレが投げんかい!(誰が中学生だ。文句があるんだったらあんたが投げろ!)」と反発。両者は険悪な空気となり、西村は夜ごと飲みに出て門限を破った。これを石本が注意したことに西村は逆襲を企てる。石本も門限を過ぎても若い選手と麻雀をしていた。「今晩、門限を1分でも過ぎたらやっつけてやる」 案の定、その夜門限を過ぎると監督の部屋から激しい振動が始まった。主将・松木謙治郎若林忠志が、真っ暗い部屋に飛び込むと、一人が馬乗りになって殴ろうとしている。「やめろ、西村!」と怒鳴ると「おれだ!おれだ!」と声がする。馬乗りになっていたのは41歳の石本の方だった[72][73]。石本は柔道高段者でもあった[22]。しかし一夜明けた翌日の巨人戦に石本は何食わぬ顔で西村を先発させた。西村も何食わぬ顔で先発し自責点1で完投勝利した[23]。別に顔さえあわせば牙を剥いたわけではなく、エースのプライドから、石本に「いけるか?」と言われれば「俺は監督が勝てと言うのなら必ず勝つ」と返事をして石本を感激させることもあったという[74]。西村はこのシーズン終了後、自主的に阪神を退団し、1945年フィリピンで戦死している。
  • 東京セネタースの主力選手だった苅田久徳は、自著に「セネタースが内紛でごたごたし始めた頃、タイガースの若林忠志から内々に入団歓誘を受けた。当時のタイガースは石本が監督のもと、びしびし若手を鍛え、チーム内に情熱がほとばしり、それが生き生きとした強さにもなっていた。プロ野球チームは、かくあるべし。そんな魅力がいっぱいだった」と記述している。当時は、現在のような野球協約もなく、球団の選手への拘束権もあいまいで、苅田は大いに心を動かされ「行こう」と若林だけに意思表示し、半金として5000円を受け取っていたという。しかし苅田はこの後、監督の横沢三郎に対するアンチ勢力のリーダーに担ぎ上げられ、セネタースの選手兼任監督に昇格したため、タイガース入りは実現しなかった[75]
  • 戦前の大投手・野口二郎の著書『私の昭和激動の日々』にも石本の件が出ている。1942年秋に明治大学から中上英雄(藤本英雄)が巨人入りし大活躍した。これに対抗するため当時大洋軍の監督だった石本が、フォークボールのような握りのボールを教えてくれた。このボールのお陰で最多勝40勝出来た、とある[42]。人さし指と親指の間に挟んで、フォークを投げるように投げる、フォークより投げやすく、ひねりをかければカーブになり、真っ直ぐ投げればスーッと沈む。しかもフォークよりコントロールしやすく、バッターからは握りがボールを放す瞬間まで分からない、という利点がある、初めて見る投げ方だった、とある。1979年に野口が二度目の近鉄コーチとなり、フロリダパイレーツキャンプに行った時、そのパイレーツのピッチングコーチが、石本に教えてもらったボールと同じ握り、投げ方のボールは、自分がメジャーリーグで初めて投げた投手だ、と言った。よくよく聞いてみるとこのコーチが投げた年より、自分が石本に教わった時の方が早かった。石本はどこでこのボールを知ったのか改めて思った、とある。なお野口もコーチ時代に若い投手にこのボールを勧めたが、取り組む選手はいなかったとの事[42]
  • 石本のあだ名は「とっつぁん小僧」といった。これはズングリしていて、スタイルはアカ抜けない、しかし向こう気が強くて審判に抗議のため、ベンチを飛び出して行く時、チョコチョコと走る姿に特徴があって付けられた。猛抗議で審判の判定が覆る事がよくあったという[76]
  • 選手の捻挫や筋肉痛に対して、エントウ水なる、水に何か粉末を溶かしただけの湿布薬を信頼して使っていた。試合中に捻挫でもすると、このエントウ水を毎回ベンチに帰ってくるたびにかけ、スパイクの中をグシャグシャにしながら投げた。その他、ニンニク按摩を勧めたり、入隊で選手が次第に少なくなっていく中、選手の故障に気を配っていた[77]
  • どこでも煙草の灰をまき散らし、ユニフォームに下はいつも同じ毛糸の上下、ストッキングを表裏逆に履く等、身なりはまったく気にせず、顔は渋紙色で年季の入った漁師といった風情で、色の黒さは垢だと噂された。稀代の風呂嫌いで、ごく稀に風呂には入ったとしても石鹸とタオルは使わず。湯船に入ると体を湯船に押し当てて擦り、その後さっと出て入浴を済ませた。典型的なバンカラで、これらは数々の文献で取り上げられている[8][41][78]
  • 広島市に原爆の投下された1945年8月6日は、広島市から北に30km、向原町に疎開中で、当日朝は畑で耕作中のため無傷で済んだ。
  • 戦後は金策に奔走した石本だが、戦前のセネタースの頃はお金が有ったようで、試合で活躍した選手に賞金を出していたそうである。大きながま口を、ひもで首にかけ試合が終わるとすぐ、「〇〇君、はい」と名前を呼んで渡した。ヒット1本2円(当時コーヒー1杯15銭)、タイムリーヒットは1円プラス、という具合で、金の出どころは分からなかったが励みになった。こういうことは石本が初めてだろう、と前述の野口二郎の著書にも書かれている[41]。白石勝巳の著書の中には、広島カープで監督・助監督の関係になって遠征先の旅館で相部屋になると、寝る前にソロバンをパチパチやり始めたのを見たとある。株の計算だった。三原脩からも株の話を聞いた事があったそうだが、この頃の選手はみなその日暮らしで1950年頃、株をやっていた野球人は石本くらいじゃなかったろうか、という(星野仙一中日監督時代の1990年代に、名古屋財界のパトロンからの軍資金で選手に賞金を出して有名だった他、監督からの金一封はよく見られる)。
  • 国民リーグ結城ブレーブスの監督だった1947年夏、関東での日程を消化した後、国民リーグ他の3チームと帯同し広島から下関九州地方の興行に出た。ところが契約していた広島の興行師が20日間全試合の興行収入を持って逃げてしまった。旅館の支払いも出来なくなって石本ら結城と大塚の二チームは以後3日間、別府の旅館で罐づめとなり送金を待った。旅館の足どめは徹底し“逃亡の恐れあり”と全員一歩も外出を許さなかった。このためみんな海を眺めたり、麻雀花札をして時間を潰した。選手の一人が退屈しのぎに窓から屋根に這い出した。すると「向こうの部屋で男と女が〇〇〇〇をやってるぞ!」と誰かがいうと全員が色めき立ち、パンツやステテコ姿で総勢30名のほとんどが屋根に這い出し、固唾を呑んで一同は見物した。大男が30人もひしめいたため屋根が妙な音を立てた。番頭が外へ飛び出し「こらあ!おまえらなにばしようると!!」と怒鳴ると屋根を揺るがして一同は部屋へ逃げ帰った。代表者の横沢三郎が呼び出され油を絞られた。「ばかやろうどもが。国民リーグの名折れじゃないか!」「それで謹厳な石本さんがみんなを怒鳴りつけたんだろう?」と横沢が選手の一人に訊くと「そりゃ出来ないですよ。石本さんも屋根の上にいたんだから」と答えたという[79]
  • 国民リーグの解散後、石本は金星リトル・スターズの監督になったとされるが、鈴木武樹著「批判的・日本プロ野球史」(1971年)の中に、東急フライヤーズ大映球団と合併して≪急映フライヤーズ≫になったほか、同じく経営難に陥っていた金星スターズも国民リーグに加盟していた大塚アスレチックスと合併している。急映、金星の2球団は、2チームの併合で一躍、大世帯になったため、連盟はこの年から≪準登録制度≫を設け、25名の登録選手以外の余剰選手を15名以内に限り、準登録選手として認めることにした。その結果、金星と急映は、それぞれ真野春美、石本秀一を監督に第二チーム≪金星リトル・スターズ≫と≪急映チック・フライヤーズ≫をそれぞれ編成し、帯同して地方巡業を行うことになった、とある[80]。金星リトル・スターズは急映・阪急の混成二軍チームと帯同して地方を巡業したとされ、これは二軍チームが一軍と別に興業を行った初めてのケースともいわれる。
  • カープ初代監督時代は、試合中でも作戦そっちのけで金策の作戦を考えていたといい[13]、チームの強化は白石まかせだった。カープといえば「市民球団」のイメージが持たれるが、白石の話では公費が使われたのは創立の時だけ。カープの母体は広島県内の五つか六つの市で、それらの市が球団の資金を出すという約束のもとに発足したが、市議会やなんかからガンガン突き上げられ、その約束は果たされなかったという[51]。そこで資金を集るため石本が発案したのが後援会の結成だった[50][53][54]。後援会のイメージは今はさほど重いものでは無いが、石本は後援会による球団運営を考えていた。一時は後援会員が4万人ぐらいになり、会費一人年200円で、当時のお金で数千万円を集めて、創立3年目には小鶴誠金山次郎三村勲というスター選手獲得を始め、絶大な力を持ち創成期のチームを支えた[51]。三年半は死にもの狂いで金策に駆けずりまわり、ほっと一息ついたのは1953年ごろだったという[13]。これらは監督でもGMでもなく社長か営業部長のような仕事である。この頃の逸話は多いが、小鶴らの後、銭村兄弟ら日系人選手を呼ぶのに「毛唐を呼ぶには金が要ります」と連呼したという。毛唐ではなく日系二世であり、外人と呼ぶにも問題のある今では考えられない話である。この銭村兄弟ら二世選手が到着した時の歓迎の人波は天皇行幸の時をしのぐほどであったという[13]
  • 高松一高中西太に惚れ込み、中西の元へせっせと通い、広島が地理的に近いこともあって広島入り決定寸前までいったといわれたが、高松刑務所看守をしていた中西の長兄を口説くという作戦が功を奏した宇高勲三原脩コンビに逆転された[81]
  • 西鉄ライオンズ三原脩を三顧の礼で監督に迎えたにもかかわらず、優勝候補だった3年目の1953年も優勝出来ずBクラスに沈んだ。古手の選手を整理しても優勝させられない三原に地元ファンや福岡財界も激しく怒り、三原の「クビ」を迫った。西鉄首脳も「反・三原」を打ち出し「三原監督がバッテリーの経験がないため投手起用を失敗した」と専任のバッテリー・コーチとして石本が招聘された。さらにチームの指揮権を三原から奪い、三原を含む幹部の話し合いで試合の運営を進めるという「合議制」の導入を三原に突き付けた。この条件を飲まなければ解雇されかねない状況まで三原は追い込まれていた。しかし三原解任の動きに「三原さんを辞めさせちゃ、イカン」「三原さんを辞めさせるぐらいなら、俺も辞める」と球団社長に進言したのは発言力のあった石本だったと西村貞朗は話している[82]。また石本コーチ就任2年目の1955年に西鉄球団は、監督の最も重要な仕事というべき投手起用・運営を石本に全権委任させようとまでしたという[83][84]1952年までは日本にコーチ制度はなく、同年に巨人が初めてコーチ制度を設け[84]、それにヒントを得た西鉄が、アメリカ流の専門コーチを置くことを考え1953年に石本を招いた[84]
  • 石本のコーチ就任を聞いた西鉄ナインは石本の話題で持ち切り。「阪神の監督時代、巨人に勝つためスパルタ訓練で選手をしごきあげたらしい」「一人の投手を育て上げるのに、逆に何人ものピッチャーを潰したそうだ」と、特に投手陣は戦々恐々。ところが聞くと見るのとでは大違い。小柄で短い足をせかせかと動かす。とてもプロ野球の監督を以前務めた人には見えない。どう見ても山奥にある分校用務員のような風情。ところが指導は猛烈、「石本のおじいちゃん」とあだ名を付けられてもまるでびくともせず。年をとっても気迫は全然衰えず、密着指導でツバキを大量に飛ばし唾液の雨あられ。最初はみんな悪いと思い拭くのを遠慮していたが、あまりの凄さにタオル持参で汗を拭くふりをして凌いだ[85]
  • 指導も細かく特にボールの離し方をやかましく指摘。「あんたぁ、ボールをもう一寸(3.3 cm)前で離せ」「指先から離すとき、もっと力を入れにゃあ」と繰り返す(セリフは河村英文の著書原文のまま)。しかし教えられた通りに出来ない投手陣に業を煮やした石本は、ある日驚くべき手段に出た。大学ノートを持参しキャッチャーの後方に立ち、1球ごとに何かを記入。あれ程口数が多かったのに一週間無言でただノートに書き込むだけ。「ミーティングでボロクソに言うつもりだろう」「あのノートを三原さんに見せるつもりかも知れない」と、それぞれ勝手な解釈をした投手陣は自分から努力するようになった。ある日、河村英文は石本の部屋に呼ばれリリーフ転向を頼まれた。リリーフ投手の難しさを長くレクチャーされた後、石本がトイレに立った。すると部屋の床の間にあの大学ノートが。悪いとは思ったが一度見てみたかった大学ノートをめくると何と全部白紙。「ちくしょう、騙された。クソじじめが」とノートを床の間にたたきつけた。そこへ石本が入って来て「あんた、そのノート見たろう?」「このことはだれにも喋っちゃいけんで。あんたが黙っておってくれたら、悪いようにはせんからのう。頼むぞ」。悪知恵の働く河村は「わかっております」と意味ありげに笑って見せた。この事件以来、河村は石本のことを"私の後援会長"と呼び何かと石本に目をかけてもらい、人よりたくさん起用され、じゃんじゃん稼がせてもらったという[86]
  • 1954年の西鉄初優勝に貢献したが、日本シリーズでは中日杉下茂の快投に敗れた。この年秋、西鉄に入団した和田博実は、三原の指示ですぐ広島に赴いた[87]。石本は広島の自宅に鵜狩道夫有吉洋雅らを泊めて指導。和田は石本の家の前の道路でキャッチャーをし職業人としてのスタートを切った[88]
  • 判定の辛い二出川延明とはソリが合わず、ついに怒りを爆発させ「おどりゃカバチたれるな。お前が日本で一番下手クソじゃ」「あんたには抗議権がない。ぼくがボールと言ったらボールなんです」と怒鳴りあい。これをきっかけに西鉄の痛烈な“審判いびり”が始まった。形勢が不利なときのベンチのムードは暗く、もっとファイトを出せと言われても、何かきっかけがないとなかなか出来にくい。こうしたとき、先頭に立ってやじるのが石本のご老体。石本のユーモラスな広島弁のやじに、選手は気分がほぐされ「石本さんに続け」とばかりベンチはハチの巣をつついたような大騒ぎ。凄い活気でチームは沸き乗りまくり一致団結を見せた[89]
  • 島原幸雄はノーコンで、おまけに西鉄で一番気が弱く石本はしびれを切らし「わしが2年間教えてきたが、あんたは何も覚えとらん。野球やめて田舎へ帰って百姓でもせんかのう。なんぼ投げても一緒、キャッチャーがかわいそうじゃ」と怒りを爆発。これには島原も本気で怒り「くそッ」と、いつもならオーバースローなのにヤケクソでアンダースローで投げると素晴らしいボールが外角低めに見事に決まり「あんたぁ、あの球じゃ。いまからアンダースローで投げんさい。げんに(本当に)ええボールよのう」と石本は褒め島原はアンダースローに変えた。このやりとりを河村英文は横で全て見たという。この1955年で石本は三原との意見の食い違いが大きくなったこともあって退団するが、翌1956年に島原は大化け。まったくの計算外の島原の台頭、ルーキー・稲尾和久の活躍で、河村、西村貞朗らで組むピッチングスタッフは投手大国の幕開けと言われ、同年から日本シリーズ3連覇の原動力となった。西鉄黄金時代は稲尾以外は、強力打線で語られることが多いが、投手大国を築いたのは石本なのである[90]
  • 監督やコーチをしない年と指導者引退後は、小西得郎松木謙治郎らとNHK野球解説者として活躍。二塁の事を「セコンド」と言い、“セコンドの石本”と言われた。広島の監督になっても、石本のもとに濃人渉、藤村富美男、鶴岡一人ら他球団の主力選手や首脳陣がよく自宅を訪問し指導を乞うた。また、石本は弱小球団であった広島と強豪の南海とのオープン戦をよく組んだ。南海監督の鶴岡は広島商業の後輩であったので、先輩の指示に従ったのであるが、広島の選手たちは、石本の人脈の凄さに感心するばかりであった。
  • NHK広島放送局製作のドキュメンタリードラマ『シリーズ被爆70年 ヒロシマ 復興を支えた市民たち 第1回「鯉昇れ、焦土の空へ」』(2015年2月7日放送)では、イッセー尾形が石本役を演じている[3]

詳細情報[編集]

通算監督成績[編集]

  • 1115試合 525勝 553敗 34分 勝率.487

表彰[編集]

背番号[編集]

  • 30(1936年 - 1943年、1947年 - 1953年、1961年 - 1962年)
  • 55(1954年 - 1955年)
  • 60(1966年)

演じた俳優[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 石本秀一|殿堂入りリスト 公益財団法人野球殿堂博物館 2015年4月25日閲覧。
  2. ^ 石本の生家は当時は段原大畑町であったが、現在の住所では的場町二丁目となる。
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  4. ^ NPB(正式登録上の)監督としての在籍球団数5は、藤本定義三原脩と並ぶ最多タイ記録。
  5. ^ 甲子園高校野球人名事典、東京堂出版、2004年、P19
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  10. ^ a b c d e 『体育人名辞典』、東京体育科学研究会・編著者他、逍遥書院、1970年、16頁
  11. ^ a b 【タイガース血風録 猛虎水滸伝】まるで高校生、吉田虎 秋季C3カ条
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  14. ^ 夏の甲子園優勝回数が多いチームはどこ? - BaseBall KING
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  16. ^ 「週刊甲子園の夏 19号」、2008年10月12日、P38、40
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  91. ^ “太賀さん主演『1942年のプレイボール』制作開始!”. NHKドラマトピックス (NHKオンライン). (2017年5月29日). http://www.nhk.or.jp/dramatopics-blog/6000/271676.html 2017年6月27日閲覧。 

著書・参考文献[編集]

  • 広商黄金時代、自著、1931年、大阪毎日新聞社広島支局
  • 広商野球部百年史、2000年11月、広商野球部百年史編集委員会
  • 甲子園高校野球人名事典、2004年7月、東京堂出版
  • 大井廣介 『1949年版 日本野球の全貌』 有樂出版社、1949年
  • 大阪タイガース球団史 1992年度版、松木謙治郎、奥井成一著、ベースボール・マガジン社
  • 阪神タイガース 昭和のあゆみ、1991年、株式会社阪神タイガース
  • 真説 日本野球史、大和球士著、1977年11月、ベースボール・マガジン社
  • 野球殿堂物語、神田順治著 1992年9月、ベースボール・マガジン社
  • 背番号8は逆シングル、白石勝巳著、1989年8月、ベースボール・マガジン社
  • 広島東洋カープ球団史、1976年、中国新聞社
  • 広島カープ球団史 燃える赤ヘル球団、関三穂著 1979年 恒文社
  • カープ30年、冨沢佐一著、1980年、中国新聞社
  • 球心、津田一男著、1981年、中国新聞中国会
  • カープ50年 夢を追って、1999年、中国新聞社
  • 焦土の野球連盟、阿部牧郎著、1987年2月、サンケイ出版
  • 広島スポーツ100年、金枡晴海、1979年、中国新聞社
  • 白球の星を追え!、戸部良也著、講談社、1978年11月
  • 野球小僧、2008年4月号、白夜書房
  • 週刊甲子園の夏 11号、13号、19号、朝日新聞出版
  • 猛虎の群像 そして星野、政岡基則著、デイリースポーツ、2003年3月
  • サンケイスポーツ、連載「タイガース血風録 猛虎水滸伝」、水本義政、2009年3月ー7月継続中

関連項目[編集]

外部リンク[編集]