銚子市
ちょうしし ![]() 銚子市 | |||||
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国 |
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地方 | 関東地方 | ||||
都道府県 | 千葉県 | ||||
市町村コード | 12202-5 | ||||
法人番号 | 6000020122025 | ||||
面積 |
84.20km2 | ||||
総人口 |
55,467人 [編集] (推計人口、2023年1月1日) | ||||
人口密度 | 659人/km2 | ||||
隣接自治体 |
旭市 香取郡:東庄町 茨城県:神栖市 | ||||
市の木 | サザンカ | ||||
市の花 | オオマツヨイグサ | ||||
市の魚 | イワシ | ||||
銚子市役所 | |||||
市長 | 越川信一 | ||||
所在地 |
〒288-8601 千葉県銚子市若宮町1-1 北緯35度44分05秒 東経140度49分36秒 / 北緯35.73464度 東経140.82678度座標: 北緯35度44分05秒 東経140度49分36秒 / 北緯35.73464度 東経140.82678度 | ||||
外部リンク | 公式ウェブサイト | ||||
ウィキプロジェクト |
銚子市(ちょうしし)は、千葉県北東部の市。関東地方の東端に位置し、日本列島で最も早く初日の出が昇る[注 1]。水揚数量が全国1位である[1]銚子漁港を擁し、国内有数の規模と機能を有する水産都市として重要な役割を果たしている。江戸時代元和年間より続く醤油の銘醸地でもあり、市内には醤油製造工場が集積する。香取・海匝地域最大の人口集中地区を有し[2]、同地域の中心都市である。
概要[編集]
太平洋に突出し三方を水域に囲まれており、日本列島で最も早く初日の出が昇る街である[注 2]。沖合は黒潮と親潮が交わる好漁場で、国指定の特定第3種漁港である銚子漁港は、北海道から沖縄まで全国から漁船が入港する水産物流通基地の役割を担っており、水揚数量は28万トンを超え全国1位[1]を誇る。利根川河口沿岸には大規模な埋立地が造成され、第1から第3までの卸売市場を中心として水産加工場、水産物冷凍冷蔵庫、製氷工場、関連運送業者、鉄工所、造船所等が集積し、巨大な冷蔵能力及び冷凍能力を有しており、全国の消費地と直結可能な地理的優位性もあって[3]、名実ともに日本随一の水産都市として発展している。銚子市沖で漁獲される「銚子つりきんめ」は、千葉ブランド水産物第1号に認定された高級魚である[4]。江戸の食文化を生んだ関東風濃口醤油が発祥した醤油の銘醸地でもあり[5]、街の中心部には国内トップクラスの大手醤油製造会社であるヤマサ醤油(業界2位[6])、ヒゲタ醤油(業界4位[6])の主力工場が立地し、国内における醤油の一大生産拠点となっている。各社では蓄積されたバイオテクノロジー技術を応用し、核酸関連物質を利用した医薬品・化成品等の研究開発を進めている[7]。
国や県の出先機関の他、企業、金融機関等が集中し、香取・海匝地域における政治・経済・金融・交通・教育・マスメディア・観光等の中心都市となっており、DID(人口集中地区)人口は同地域最大である[2]。県庁所在地以外で県単位の地方気象台が設置されている全国4都市の一つである[注 3]。
銚子半島に人間が暮らし始めたのは約1万5千年から2万3千年前の旧石器時代であり、市内の粟島台遺跡や余山貝塚からは多くの縄文土器や骨角器が出土している。平安時代には千葉氏の支族である東氏・海上氏がこの地を領有するようになり、建久年間に千葉常衡が船木郷に海上氏の本拠地として中島城を築城している[8]。
江戸時代に入ると東廻り海運と利根川水運が確立したことで、海運関連業を中心に上方から伝わった鰯漁や醤油醸造、各種商工業が盛んとなり、東国屈指の港湾都市として発展した。坂東三十三観音第二十七番札所である飯沼観音の門前町として諸国から巡礼者や納経者も集まった。幕末には豊漁を祝い、銚子大漁節が作られて川口神社に奉納され[9]、銚子を代表する民謡となった。明治以降は犬吠埼灯台の点灯、日本初の無線電信局である銚子無線電信局の開局、総武本線・成田線の開通、銚子遊覧鉄道の敷設、近代的漁港の建設等が進み、文化娯楽施設も発達して、モダンな地域性が形成された。1933年(昭和8年)には市制を施行し、千葉市に次ぐ千葉県第2の市として銚子市が発足した[10]。
第二次世界大戦末期の銚子空襲で市中心部は壊滅状態となり、戦後の戦災復興都市計画により幹線道路・公園等が整備されて銚子市の都市基盤が形成された。高度経済成長期以降は銚子大橋の開通、銚子漁港の大型基地化、名洗港臨海工業地域の造成、これらに伴う食品製造業の発展、海岸地域の観光開発、百貨店の進出、豊里ニュータウンの建設、上下水道の整備等が進んだ。平成に入ってからは千葉県の房総リゾート地域整備構想における重点整備地区として[11]、観光施設や道路交通網の整備が実施された。名洗港内にはクルーザー等1000隻を収容する銚子マリーナ、海浜緑地公園、人工海浜等が整備され、サーフィンやイルカウォッチング、シーカヤック等のマリンレジャーの基地となると共に、太平洋岸のクルージング・ネットワークの拠点機能を果たしている[12]。2010年(平成22年)には郊外に大型SCがオープンしている。
銚子半島の海岸部は国定公園に指定されており、関東地方最東端の岬である犬吠埼や東洋のドーバーと称される[13]断崖絶壁が続く屏風ヶ浦、日本の渚百選に選定された君ヶ浜、北総最高峰の愛宕山等、数多くの景勝地を有する観光都市であり、東京・銚子間には特急列車「しおさい」が運転されている。犬吠埼には化石海水の源泉が湧出し、ホテルや旅館が立ち並んで犬吠埼温泉郷を形成している[14]。毎年8月には銚子の夏の風物詩である「銚子みなとまつり」が開催され、利根川河畔に約6000発の花火が打ち上げられる花火大会、約1000人の担ぎ手による神輿巡行が行われて銚子の街は祭り一色となる[15]。
横浜・北米間を航行する貿易船の安全確保のため、英国技師リチャード・ブラントンのもと明治初期に建設された犬吠埼灯台は、国産煉瓦を使用した最古の西洋式灯台として歴史的文化財的価値が高く、国の重要文化財、近代化産業遺産、海上保安庁のAランク保存灯台に指定されている[16]。世界灯台100選に選定されており、参観可能な灯台としては日本最多の参観者数となっている[17]。
千葉県唯一の日本ジオパークである銚子半島は日本の地質体を大きく二分する「東北日本」「西南日本」の境界付近に位置し、東関東で唯一中生代ジュラ紀から白亜紀の基盤岩が露出しており、アンモナイト、トリゴニア等の化石や琥珀が多産する[18]。犬吠埼は1億2000万年前に形成され、この時代の浅い海の海底の痕跡を数多くみることができる学術的に貴重な地層であり、「白亜紀浅海堆積物」として国の天然記念物に指定されている[19]。
変化に富んだ独特の自然景観から、江戸時代には数々の文人墨客や浮世絵師が東国三社参詣とあわせて銚子の磯巡りに訪れ、文学作品や絵画の題材となった[20]。明治時代からは避暑や海水浴に訪れる人も多くなり、犬吠埼周辺には伏見宮貞愛親王別邸瑞鶴荘をはじめ、多くの著名人の別荘が構えられた[21]。作家・国木田独歩出生の地であり[22]、海岸には銚子ゆかりの文人墨客の歌碑、詩碑が多く立っている[23]。
古くから野球が盛んであり、木樽正明や篠塚和典ら、数多くのプロ野球選手を輩出している。1900年(明治33年)創立の千葉県立銚子商業高等学校は春8回、夏12回という千葉県最多の甲子園出場記録を保持しており[24]、1965年(昭和40年)に準優勝、1974年(昭和49年)に全国優勝を果たしている[25]。
年間平均気温は15度で、最高気温と最低気温の差は6度前後と夏涼しく冬暖かい気候である。銚子市の夏は関東平野部の中では最も涼しく、また冬の最低気温は県内で最も高く、避暑・避寒に適している。気候を生かした農業も盛んであり、生産量が全国1位の春キャベツ[26]をはじめ、ダイコン、トマト、メロン、スイカ、イチゴ等が栽培されている[26]。
銚子市沖は遠浅の地形が続き、年間を通して風が強いことから、国の「再エネ海域利用法」に基づく洋上風力発電の促進区域である[27]。今後、三菱商事を中心とする千葉銚子オフィシャルウィンドが洋上風力発電施設31基を建設し、2028年(令和10年)9月に運転を開始する見込みであり、銚子市は漁業や環境との調和のもと、市内企業のメンテナンス関連産業参画のための基盤整備や名洗港への金属加工業等の企業集積支援、地域循環型スマートコミュニティ構築による自然災害に対するレジリエンス強化、メンテナンス人材の育成、更には新たな景観資源としての活用による交流人口・関係人口増加等に取り組み、次世代エネルギー産業の先端都市としての発展を目指している[28][29]。
地理[編集]
銚子市は千葉県北東部に位置し、県庁所在地である千葉市から約65キロメートル、成田国際空港から約40キロメートルの距離である。東京都心から90 - 100キロメートル圏内である。
銚子市の地形は台地と低地に分類され、更に台地は東側の半島部と西側の本土部に分けられる。半島部の西の端は名洗の谷と呼ばれ[30]、幅が狭く、くびれて低い谷部に連なり、谷は更に延びて本土部とのつねぎとなっている。この東の半島部と西の本土部を併せたのが銚子市で、その幅は東西南北の最長部でそれぞれ16.2キロメートル、12.8キロメートルであり、市域の北部は利根川を経て茨城県と相対し、東と南側は太平洋、南西側は九十九里平野に続いている[30]。
本土部の三角形の北辺の利根川に沿ったJR総武本線までの幅約1.5キロメートルにわたる沖積地一帯は標高10メートル以下の平坦な低地帯で、銚子駅・飯沼観音・銚子漁港を中心として、官公庁・企業・金融機関・商店街・ホテル・マンション等の主要な都市機能が集積して市街地が形成され、銚子市の中枢地帯となっている。2020年(令和2年)国勢調査による人口集中地区はほぼこれにあたり、面積9.6平方キロメートル、人口31947人(総人口の約50パーセント)、人口密度1平方キロメートル当たり3338.2人となっている。市南部の外川漁港を中心とした地区にも人口が集中している。この2地区を連絡する主要道路・鉄道の沿線には、市街地の周辺部及び高神地区等の集落があり、国道356号沿いとその南側の台地の一部には、海上・船木・椎柴・豊里の各地区の集落が形成されている。また国道126号沿いには市街地の周辺部を経て豊里地区の集落がある。
商業地は市街地内に住居地と混在しているほか、郊外の国道126号沿いに大型ショッピングセンターが立地している。工業地は醤油製造等の工場が内陸部に、造船・機械製造修理・缶詰製造・水産加工等の工場が利根川沿岸及び銚子漁港周辺に立地しているほか、名洗港臨海工業地域、銚子漁港域内の水産物産地流通加工センター及び小浜工業団地等がある。高度経済成長期以降、市街地、特に利根川沿岸の中心市街地が世帯の細分化、産業活動の進展、地価の高騰等を背景に、主に国道126号、国道356号、千葉県道254号銚子公園線、千葉県道244号外川港線及び銚子電気鉄道線沿線等に沿って拡大している。農業地は、利根川沿岸の平地水田地帯と東部及び南西部の丘陵性台地畑地帯からなり、その面積は2540ヘクタールで、市域面積の約30パーセントを占めている。このうち農振法に基づく農業振興地域は6868ヘクタール、農用地区域は2109ヘクタールである。
半島部は東西3.5キロメートル、南北6キロメートルの平坦な台地状で、その中央南寄りに銚子半島の基盤をなす海抜73.6メートルと北総最高峰の愛宕山があり、続いて35メートル級の丘陵となり、その稜線から緩やかな斜面となって太平洋にくだっている。海岸は荒波に侵食されて断崖をなし、また岩礁の多い磯や砂浜となり、変化に満ちた対置海岸線の好例である。半島部の犬若から名洗を経て本土部に続く海岸線は高さ40メートルから58メートルの屏風ヶ浦の絶壁で、太平洋の波浪の海蝕作用により海岸線が大きく後退したものである[30]。
銚子市においては、「自然公園法」に基づいて、川口町から犬吠埼を経て、屏風ヶ浦に至る太平洋沿岸部の陸域・海域一帯と四日市場町から上流の利根川沿いの陸域・水域一帯が水郷筑波国定公園の第二種特別地域第三種特別地域として指定されている。「千葉県立自然公園条例」に基づく屏風ヶ浦一帯と七ツ池を含む内陸丘陵部は県立九十九里自然公園普通地域に、猿田神社周辺の森は千葉県郷土環境保存地域に指定されている。愛宕山頂附近は「銚子市地球の丸く見える丘景観条例」に基づく景観形成地区である。いずれの区域についても法・条例に基づき、すぐれた自然環境の保全・活用を図るために各種開発行為が制限されている[31]。
- 山岳:愛宕山
- 河川:利根川、滑川、清水川、八幡川、高田川、小畑川
- 湖沼:小畑池、七ツ池、白石貯水池
- 岬:犬吠埼、長崎鼻
- 浜:海鹿島海岸、君ヶ浜(日本の渚百選)、長崎海岸
- 磯:黒生海岸、酉明浦
- 島:一ノ島、三ノ島、海鹿島、千騎ヶ岩、沖ノ海老島、茅刈島
- 崖:屏風ヶ浦
地質[編集]
銚子市は地質研究の宝庫と呼ばれる[32]ほど、各時代の地層が市内随所に見られる。銚子市は愛宕山を中心に局所的に隆起しており、東関東で唯一、古生界の基盤岩が露出している。また日本の地質体を大きく二分する「東北日本」「西南日本」の境界付近に位置し、この境界の東端はまだ確定していないため銚子市の地層がその解明を担うものとして学術的に注目されている[33]。太平洋に突き出た半島状の独特の地形、そして犬吠埼や屏風ヶ浦等の地質資産を核として大地の成り立ちが比較的容易に、そして安全に学べる場所であることから、2012年(平成24年)に日本ジオパークに認定され、市域全体を活動のエリアとして「銚子ジオパーク」活動を推進している[33]。
愛宕山や犬岩、千騎ヶ岩は愛宕山層群と呼ばれ、約2億年前に形成された付加体である。愛宕山(標高73.6メートル)は北総台地最高峰となっており、硬く侵食されにくいため海に突出するような高台が形成されている。東海岸に露出する白亜系の銚子層群は礫岩、砂岩、泥岩からなる約1億年前の地層であり、アンモナイト等の化石を多産している。犬吠埼付近は浅い海の堆積構造や生痕化石がよく観察できるため「犬吠埼の白亜紀浅海堆積物」として国の天然記念物に指定されている。この銚子層群の砂岩は「銚子石」と呼ばれ、古くから建材などに利用されてきた。銚子市の中新統は火山礫凝灰岩からなる安山岩の溶岩流を含む千人塚層と海成シルト岩からなる夫婦ケ鼻層に二分される。いずれも日本海が形成された時代の地層である。千人塚層の安山岩は利根川河口の川口、黒生、長崎に露出しており、銚子漁港整備に伴い取り除かれた安山岩はその一部が古銅輝石安山岩公園に保存展示されている。また、かつて夫婦ヶ鼻層は銚子市の北東端の夫婦ヶ鼻から海岸沿いに黒生付近まで連続して露出していたが、銚子漁港外港建設により銚子ポートタワー下にわずか6メートル程度が露出するのみとなっている[33]。
下総台地の平坦面はかつての海岸近くの海底面で、隆起と汎世界的な海水準変動の結果、基本的に4段面の後期更新統の海成段丘が分布する形となった。この台地には谷がいくつも刻まれており平坦面は農業や畜産業に利用されている。銚子市の南の海岸線は、犬若から緩やかに湾曲し、屏風ヶ浦と呼ばれる海食崖が広がっている。この崖は下総台地の東端にあたり、常に波浪によって侵食が続いている。屏風ヶ浦では下総台地の地下断面が観察でき、地層は下位から犬吠層群、香取層、関東ローム層の3つに区分することができる。屏風ヶ浦は江戸時代後期以降、景勝地として著名となり、国指定名勝および天然記念物として指定された[33]。
市域[編集]
- 広袤(こうぼう):東西16.2キロメートル、南北12.8キロメートル、面積84.20平方キロメートル
気候[編集]
太平洋に突き出ている形の銚子市は三方を海に囲まれている。銚子市沖は黒潮と親潮が交わる寒暖流の交錯地点であることにより、年間平均気温は15度で、最高気温と最低気温の差は6度前後と夏涼しく冬暖かい住みよい気候である[30]。湿度は年平均75パーセント前後と高く、年間降水量は1700ミリメートル以上あり、千葉県内でも雨が多く、雨と黒潮の影響により濃霧の発生する日が多い地域である。この気候が良質の醤油を生んだ素因であり、また、寒暖流の交錯地点である沖合は全国屈指の好漁場となっている[30]。
銚子市の夏は関東平野部の中では最も涼しく、日中でも30度を超えることは少なく、35度を超えることはめったにない[注 4]。熱帯夜になることもほとんど無く、関東屈指の避暑地である。一方、冬は南九州並みに温暖であり、冬の最低気温は千葉県内で最も高い。気温が氷点下になることは少なく、冬季の南岸低気圧通過時に暖気を巻き込むことが多いため、積雪は非常に珍しい[注 5]。
年間を通して比較的風が強く、夏期は南南西、冬期は北北西の風が吹き、市内では風力発電所の風車が34基稼働している。沖合では洋上風力発電の計画が発表されている[34]。
銚子市川口町(銚子地方気象台、標高20m)の気候 | |||||||||||||
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月 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 年 |
最高気温記録 °C (°F) | 23.6 (74.5) |
24.0 (75.2) |
23.0 (73.4) |
25.9 (78.6) |
29.5 (85.1) |
30.9 (87.6) |
34.8 (94.6) |
35.3 (95.5) |
33.7 (92.7) |
30.6 (87.1) |
24.8 (76.6) |
23.4 (74.1) |
35.3 (95.5) |
平均最高気温 °C (°F) | 10.1 (50.2) |
10.3 (50.5) |
12.8 (55) |
17.0 (62.6) |
20.5 (68.9) |
23.0 (73.4) |
26.6 (79.9) |
28.6 (83.5) |
25.9 (78.6) |
21.5 (70.7) |
17.3 (63.1) |
12.7 (54.9) |
18.9 (66) |
日平均気温 °C (°F) | 6.6 (43.9) |
6.9 (44.4) |
9.7 (49.5) |
13.8 (56.8) |
17.4 (63.3) |
20.2 (68.4) |
23.5 (74.3) |
25.5 (77.9) |
23.4 (74.1) |
19.2 (66.6) |
14.4 (57.9) |
9.3 (48.7) |
15.8 (60.4) |
平均最低気温 °C (°F) | 2.9 (37.2) |
3.3 (37.9) |
6.4 (43.5) |
10.7 (51.3) |
14.8 (58.6) |
17.9 (64.2) |
21.2 (70.2) |
23.3 (73.9) |
21.3 (70.3) |
16.8 (62.2) |
11.1 (52) |
5.7 (42.3) |
13.0 (55.4) |
最低気温記録 °C (°F) | −6.2 (20.8) |
−7.3 (18.9) |
−4.3 (24.3) |
−0.2 (31.6) |
4.3 (39.7) |
10.2 (50.4) |
13.0 (55.4) |
15.9 (60.6) |
11.2 (52.2) |
4.5 (40.1) |
−1.3 (29.7) |
−4.6 (23.7) |
−7.3 (18.9) |
降水量 mm (inch) | 105.5 (4.154) |
90.5 (3.563) |
149.1 (5.87) |
127.3 (5.012) |
135.8 (5.346) |
166.2 (6.543) |
128.3 (5.051) |
94.9 (3.736) |
216.3 (8.516) |
272.5 (10.728) |
133.2 (5.244) |
92.9 (3.657) |
1,712.4 (67.417) |
降雪量 cm (inch) | 0 (0) |
0 (0) |
0 (0) |
0 (0) |
0 (0) |
0 (0) |
0 (0) |
0 (0) |
0 (0) |
0 (0) |
0 (0) |
0 (0) |
0 (0) |
平均降水日数 (≥0.5 mm) | 8.2 | 9.1 | 13.0 | 12.3 | 11.3 | 12.3 | 10.4 | 7.4 | 11.8 | 13.3 | 10.6 | 8.7 | 128.4 |
平均降雪日数 | 4.5 | 6.0 | 1.7 | 0.0 | 0.0 | 0.0 | 0.0 | 0.0 | 0.0 | 0.0 | 0.0 | 0.9 | 13.1 |
% 湿度 | 62 | 64 | 68 | 74 | 82 | 88 | 90 | 87 | 84 | 77 | 72 | 66 | 76 |
平均月間日照時間 | 179.8 | 159.0 | 168.9 | 183.0 | 188.9 | 142.3 | 174.0 | 221.3 | 159.0 | 137.9 | 140.1 | 163.7 | 2,017.8 |
出典:気象庁 (平均値:1991年-2020年、極値:1887年-現在)[35][36] |
植生[編集]
銚子市は海岸一帯を中心に国定公園や千葉県立自然公園、風致地区に指定され、各種法令により開発行為が制限されている。このため比較的多くの自然が残り、貴重な植生や環境に適した変化を遂げた植物を見ることができる[33]。銚子の森は照葉樹林で一年中緑豊かな土地であり[33]、人の手が加わっていない環境の中形成された極相状態にある森林の中で最も広く見られるのは、スダジイやタブノキが茂った照葉樹林で、古い寺社の社叢林や丘陵の傾斜地でみることができる[33]。
社叢林のうち「渡海神社の極相林」と「猿田神社の森」が千葉県指定の天然記念物である。南向きの乾きやすい斜面や急な尾根の潮風の影響がやや強い場所はスダジイの林で、林の中にサカキやヤブニッケイなど常緑の低木があり、地表にはヤブコウジ・ベニシダ等の草本類が生えている。やや北向きの斜面や深い谷、沢沿いの湿った環境にはタブノキが多く、林の下はアオキが、地表はイノデが主体である。遠望すると青みがかったタブノキの密な樹冠が特徴的である。海岸線の植生も特徴的で、「外洋性海岸砂丘地」の君ヶ浜一帯は、コウボウムギ、ネコノシタ、ハマゴウ、オオマツヨイグサ等を見ることができる。「犬吠埼崖地植生群落」や「犬若海岸崖地植生群落」では、海岸崖地の厳しい環境下で生育するイソギク、タイトゴメ、ハチジョウススキ、ヒゲスゲ等の植物群落がある。このような「崖地植生」は屏風ヶ浦に面する海食崖付近でも確認できる[33]。
利根川の河川敷にはヨシ原が広がり、マコモ、ガマ類、オギ、イソギクカサズゲ等が観察できる。ヨシ原に混じって見られたタチヤナギ群集は、河川改修が進む過程で断片的なものとなっている。利根川沿岸の浜堤上に形成された東光寺には千葉県の県木であるイヌマキがまとまって生育しており、銚子市指定天然記念物である。この地域では、利根川方向から吹く「筑波おろし」の北風を防ぐためにイヌマキを屋敷林として利用する家が数多く見られる[33]。
生態系[編集]
銚子市には約150種の鳥類が生息している。利根川河口から長崎鼻までの沿岸部は県内有数の渡り鳥の渡来地で、2012年(平成24年)度から千葉県の「銚子鳥獣保護区」に指定されている[33]。
利根川河口では冬になると多くの種類のカモメ、ウミネコ、ウミウ、海洋性のカモ等が飛来する。最も多いのはウミネコやセグロカモメで、外洋性のミツユビカモメも時折見ることができ、銚子市は日本及び世界でも有数のカモメ探鳥地となっている[33]。黒生海岸や屏風ヶ浦等では、イソヒヨドリやハクセキレイ等が周年生息していることが確認され、屏風ヶ浦の上をハヤブサやチョウゲンボウ等の猛禽類が飛行している姿が確認されている[33]。
春になると黒潮の流れにのって小笠原諸島や伊豆諸島からイルカ等が北上し、1年を通じて20種類以上の野生のイルカ・クジラ類を見ることができ、イルカ・ホエールウォッチングツアーを提供している観光船が運航している[33]。
また、千葉県レッドデータブックに掲載されているアカキツネ(重要保護生物)やニホンアナグマ(要保護生物)、カヤネズミ、ニホンジネズミ(一般保護生物)等の貴重な野生哺乳類が生息していることが確認されている[33]。
人口[編集]
市人口は、1950年代以降横這いから減少方向に進んでいる。地域における人口は自然増減と社会増減の結果として増減を生じるが、銚子市においては自然増減が1990年(平成2年)以降減少し、社会増減が1950年(昭和25年)以降減少している[31]。このため銚子市では、18歳までの子どもに対する医療費助成や「銚子市子ども未来基金」を活用した学校給食費の保護者負担軽減、子育てコンシェルジュによる情報・サービスの提供等を行い子育て環境を整備すると共に、「銚子市空き家バンク事業」や「住宅リフォーム助成事業」等の推進による移住・定住の促進を図っている[37][38]。
2020年(令和2年)に策定された「第2期銚子市しごと・ひと・まち創生総合戦略」は、2040年(令和22年)に合計特殊出生率を1.8まで引き上げると共に転出超過を0人に抑制し、2050年(令和32年)に200人の転入超過、2060年(令和42年)には500人の転入超過とすることにより、2060年(令和42年)における市人口を社人研推計と比較して1.6万人増加させることを目指しており、取組にあたっては銚子市総合戦略検証委員会を設置して効果検証を行っている[39]。
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銚子市と全国の年齢別人口分布(2005年) | 銚子市の年齢・男女別人口分布(2005年) |
■紫色 ― 銚子市
■緑色 ― 日本全国 |
■青色 ― 男性
■赤色 ― 女性 |
銚子市(に相当する地域)の人口の推移 | |
総務省統計局 国勢調査より |
隣接自治体[編集]
歴史[編集]
地名の由来[編集]
銚子は酒をその中に入れる口と、そこからつぐ口が別になった酒器である[注 6]。銚子の本体は表面積の広い容器で、酒を入れるときは直接本体に注ぎ入れ、杯に酒をつぐときは本体に付いている小さなつぎ口からつぐ。利根川は内部の川幅が非常に広いにも関わらず、河口付近が極端に狭く、特異な形状である。そこでその狭い河口から河水が外洋に流れ出ている状態が、酒器の銚子の口から酒がつがれる状態に似ているということで、銚子の地名が起こったのである。
古代の銚子は「三前」あるいは「三崎」と呼ばれていた。和語の「みさき」は陸地が海中に突き出したところを意味する。中世になると飯沼・荒野・本城・垣根・野尻・笹本等の地名が史料の上に現れてくる。「銚子」という文字が古文書の類に登場するのは1644年(正保元年)に製作が始まり、1648年(慶安元年)に刊行された「正保日本図」であり、現存史料としては最古のものである。これは徳川幕府が諸大名に命じて領内の図を献上させて編集したものである。常陸の府中付近の霞ヶ浦湖面に「銚子口廿里」とあり、また土浦付近にも「是ヨリ銚子口廿一里十四丁」と記されている。銚子という地名が発生したのは慶長から正保(1596年〜1647年)に至るおよそ半世紀の間と見られているが[31]、これより早い時期から海運用船舶は太平洋沿岸を航行しており、銚子湊に入港していた。これらの船舶の乗組員や海運業者の間に「銚子口」の名が起こったのである。この時期の「銚子口」という名称は利根川河口の名称に過ぎず、「銚子湊」も利根川の内水面の呼称にとどまっていた。
その後正保・寛文期に入ると、銚子は海運の発達に伴って農村から港湾都市へと大きく発展していった。それまで銚子湊沿岸地域には飯沼村・新生村・荒野村・今宮村の4村があったが、船員にとってはそれぞれ固有の村名で呼ぶよりも一括して捉えた方が簡単で都合が良い場合が多く、単に湊や水域名であった銚子という地名は沿岸の陸地名として定着していった。そして江戸との交通が頻繁になるにつれて銚子の呼称は江戸を中心に各地に伝播し、やがて海運に関係のない者も、この地域を銚子として認識するようになったのである。銚子とは銚子湊沿岸の港湾機能あるいは産業都市的機能を有する地域の名であり、前記4村に隣接する諸村もこの機能の一部を担っていたから、垣根・松岸村あたりから東の半島部が銚子の範囲として認識されていた。
この汎称が初めて行政区画名となったのは、1889年(明治22年)4月1日に市制町村制が施行されてからである。すなわち、本銚子町・銚子町・西銚子町の3町である。そして1933年(昭和8年)にこれら3銚子町と豊浦村が合併して銚子市が誕生し、銚子の名は発生以来およそ3世紀を経て近代の単一都市名に到達したのである。
原始・古代[編集]
旧石器時代[編集]
約2千200万年前(新第三紀・中新世)、銚子半島付近は海底約200メートルの位置にあった。 その後、温暖化と海進による洪積層の堆積で海面下にあった銚子地方は小島となり、火山活動により火山灰が積もったことから小島は更に隆起して陸地面積が多くなっていった。約13万年前(新生代第四紀更新世後期)には、銚子から房総にかけては矩形の天然堤防(バリアー島)となっていた。銚子半島に人間が暮らし始めたのは、約2万8千年前の旧石器時代であり、屏風ヶ浦を眼下に望む標高約60メートルの下総台地上に位置する三崎3丁目遺跡からは約7500点の石器や石核が出土している。出土した石器の石材は黒生海岸周辺で確保できる銚子産のチャートを使用したものが圧倒的に多く、石材産地に近い遺跡として重要な意味を持つ。伊豆諸島の神津島から搬入された黒曜石、北関東や東北地方から持ち込まれた硬質頁岩を材料とする石器も見つかっており、他地域との交易を示している。
縄文時代[編集]
約2万年前のヴュルム氷期には火山活動が多発したため周辺の多くの部分が陸地化し、台地から流れ出た水は古東京川となって太平洋に流れ込んだ。縄文時代前期に気温が上昇すると、縄文海進により海水面が上昇し、銚子半島の北部と君ケ浜方向から海水が侵入し古高神湾が形成され、北側の古笠上台地が半島から分断されて孤島となった。その後は縄文海退により古高神湾の君ヶ浜方向の東湾が砂州で塞がれ、北部の開口部も閉じ、沼沢化して泥炭層ができ湿地化していった。半島の北部は霞ケ浦から利根川下流域の印旛沼を取り込んだ、非常に広い古鬼怒湾が形成された。
古高神湾に面する標高約7メートルの微高地上に縄文時代前期から中期の粟島台遺跡があり、漆塗りの縄文土器や椰子の実容器、琥珀製の玉類等が出土している。漆塗りについては、漆を栽培するための土地の確保、樹木の管理、樹液の保管等、組織的・人為的な技術が備わっていた。利根川河口から約5キロメートルにある縄文時代後期から晩期の余山貝塚は、古鬼怒湾に近い標高約7メートルの浜堤上に位置し、外洋に近い環境であった。遺物には土器、土製耳飾り、ベンケイガイの貝製腕輪、釣針やモリ、ヤス等の骨角器等の他、「みみずく土偶」と呼ばれる土偶を出土している。これらの遺跡は水域や下総台地に近く、温暖な気候と海産物に恵まれ、数千年もの長い間狩猟と漁労を中心とした生活が営まれていた。
弥生時代[編集]
標高約50メートルの下総台地上に位置する野尻遺跡からは炭化米が出土し、弥生時代に銚子で稲作が行われたことが明らかになっている。この野尻遺跡や屏風ヶ浦を望む佐野原遺跡からは竪穴住居跡が検出しており、下総台地上には比較的まとまった集落があった。弥生時代の交易を示す資料としては椎柴小学校遺跡から出土した弥生土器があり、胎土分析の結果からその一部に東海地域から持ち込まれた搬入品の可能性がある土器片が含まれている。佐野原遺跡から出土した「佐野原式土器」は、北関東地方と南関東地方の弥生土器に見られる特徴を持ち、銚子地域が両文化圏の境界上にあり、2つの文化の波及による影響を受けていることを示している。
古墳時代[編集]
古墳時代の銚子周辺は、香取の海と呼ばれる内海が広がり、「古事記」等に記されている下海上国造の支配下で海上郡に属していた。当地域を治める支配者は、香取の海を眼下に望む沿岸に多数の古墳を造営した。市内で把握されている最も規模が大きな古墳は、全長約35メートル、高さ約4メートルを測る前方後円墳の野尻1号墳で、この古墳を含む野尻古墳群には前方後円墳1基、円墳8基、方墳3基が確認されている。この地区には野尻1号墳の他全長30メートル、高さ5メートルの前方後円墳の弁財天1号墳等比較的規模が大きい古墳が所在しており、円墳9基と方墳2基で構成されている西栗古墳群をはじめ、長塚見晴台周辺も古墳がまとまって分布している。この他にも墳丘が消滅した古墳が多数存在し、この古墳群を含めた野尻遺跡からは直刀、石器、琥珀性棗玉、硝子玉、炭化米等を出土している。
古墳時代の集落も下総台地及び利根川沿いの低地に形成されている。大宮戸遺跡は下総台地上に位置し、出土した古墳時代前期の土器の中には、非常に丁寧な作りで赤彩が施されている土器(坩)が複数出土していることから、何らかの祭祀的な行為がなされていたことがわかっている。椎柴小学校遺跡から出土した石製模造品に用いられた緑色凝灰岩は北関東方面から持ち込まれたものである。
飛鳥・奈良・平安時代[編集]
「古語拾遺」によれば、西暦1世紀余には房総の開発は相当に進み、135年には印波、武社、上菟上、下菟上、安房等の10国に分けられている。銚子は下総国の下海上国に属し、国造が置かれ、下って大化の改新に際し銚子地方には「海上郡司」が置かれた。我が国最初の分類体の漢和辞書「和名類聚抄」によると銚子市は下総国海上郡内の三前郷、三宅郷、船木郷を中心に一部橘川郷や横根郷に広がっていた。奈良朝の残存戸籍に基づいて当時の人口を推測すると、銚子付近3郷の人口は約3900人である。「三宅」は律令下の屯倉が設置されていた場所であり、「船木」は船木部が置かれ、造船用材を扱う地であった。当時不穏な情勢にあった陸奥や出羽国等への備えの基地として船木郷をはじめ当地域は重要視されており、また交通は陸路によるより水路による運送往還の方が便利であったため、大量の運送や時日を急ぐ場合には、銚子の舟運は大いに利用された。この時期の遺跡は低地上や下総台地上の全域に確認でき、新農遺跡や西町西遺跡の発掘調査では住居跡が確認されている。平安時代後半には荘園や国衙領等の荘園公領制の中で耕地開発が進み、銚子地域は平安時代末に九条家領の三崎庄となり、海上庄とも号して、市域を含めた広域の荘園であった。
奈良時代以降、銚子では賢徳寺や観行院、円福寺が開創し、渡海神社や銚港神社も創建された。市内で最も古い仏像は、東光寺の平安時代後期(11世紀半ば〜後半頃)に製作された木造阿弥陀如来立像である。
中世[編集]
鎌倉時代[編集]
939年(天慶2年)の平将門の乱や 1028年(長元元年)の平忠常の乱によって荒廃した房総半島では、その後耕地の再開発が進められ開発領主が生まれた。下総国では桓武平氏良文流の豪族千葉氏が勢力を伸ばした。源頼朝が鎌倉に幕府を開くと、挙兵以来大功のあった千葉常胤は下総国守護に命じられ、陸奥・九州にも所領を得て勢力を伸ばしていった。片岡常春が所領していた三崎庄を与えられて以降、当地域は常胤の六男である胤頼が領有し、その後胤頼の孫胤方が海上次郎として海上氏を名乗り、船木郷に支配拠点として中島城を築城した。胤方は子孫に本庄、船木、辺田、高上、松本の地を分け与え、それぞれに統治させた。
室町時代[編集]
飯沼観音の名で親しまれている円福寺は、728年(神亀5年)に漁夫が海中から引き揚げた十一面観音像を安置したのが始まりであり、1250年(建長2年)に坂東三十三観音のうちの第二十七番札所に指定された。巡礼者や納経者が諸国から集まるようになると次第に門前町は活況を呈し、室町時代末期になると旅籠や茶屋、遊女屋等が立ち並ぶようになり、銚子の都市的起源となった。円福寺は菩提寺として海上氏一族の信仰の要となっており、寺の別当職は一族の本庄盛胤の子の飯沼氏が継承した。
当時、香取・海上・匝瑳各郡家からは銚子(野尻)への陸路、常陸国板来(潮来)への水路があり、香取の海一帯ではその西に位置する香取神宮と東に位置する鹿島神宮が大きな役割を担っていた。香取神宮の催事と漁獲物を記す文書によって、香取の海での漁業がかなり盛んであったことが分っており、1207年(建永2年)の神宮御下文によると「かいしき鮫、鮭の鳥羽盛り、鯖のすいり、筋子、肴大根」等が年90回以上の祭事に献上されている。1374年(応安7年)の「海夫注文」(香取文書)には、香取の海の南に位置した飯沼・荒野・垣根・野尻・森戸・笹本の津が書上げられている。津には地頭の支配下に海夫が居住し、魚介を供菜物として香取神宮に納めていた。また津は商品の積み下ろし地でもあり、1560年(永禄3年)には野尻の宿商人中に対して船木・野尻宿に九十九里方面からの塩荷を下ろすことが命じられている。
近世[編集]
安土桃山時代[編集]
室町時代以降、関東では新興勢力の後北条氏が覇を唱えるようになり、鎌倉時代の守護大名千葉氏もこれに服属するに至った。そして安土桃山時代、後北条氏は天下統一を志す豊臣秀吉によって小田原城に滅亡したが、千葉氏一門も共に滅亡し、下総の旧支配勢力はここにその歴史を閉じた。
江戸時代[編集]
1590年(天正18年)、徳川家康は発祥地の三河から後北条氏旧領の関東に移封され、8月1日本拠を江戸に定めて入国した。家康は直ちに家臣団の知行割を行い、家臣を関東各地に配置した。このとき飯沼2000石を与えられて銚子地方を知行するようになったのは松平伊昌である。知行高2000石であるから大名ではなくいわゆる旗本であるが、伊昌は三河以来の譜代の家臣であった。その後上野高崎藩領となり、幕府直轄地を経て幕末まで高崎藩領が続き、郡奉行らが務めた陣屋が置かれた。
家康の関東入国は、西と東の経済的交流を大幅に促進した。銚子にも諸国から人々が入り込むようになり、次第に植民地的発展を示し始めた。銚子地方の発展に貢献した主要勢力の一つが紀州漁民である。諸国からの移住者の中では関西人が多かったが、その中でも紀州漁民が多かった。漁業の新天地を求めていた彼らは、新漁法を携えてこの地に来、半農半漁的な地元漁業を開拓し、漁業を銚子の主要産業にまで成長させた。元和・寛永(1615年〜1644年)の頃から集団的に来銚し、鰹等の釣漁や鰯漁をするようになった。始めは季節的な出稼ぎであったが、やがて定住するようになり、あるいはまた漁業から商工業に転ずる者もあって、銚子の商工業の発展に寄与することとなった。1652年(承応元年)には飯貝根(銚子市東部)に多数の商店ができ、寛文・延宝(1661年〜1680年)の頃には既に鰹船が50艘を超えた。1656年(明暦2年)に来銚した崎山次郎右衛門は銚子外海の漁業開発に力を尽くし、築港や碁盤目状の街区整備、「紀州堀」といわれる大井戸掘削、干鰯場開発等を実施し、僅か20年で「外川千軒大繁盛」といわれるほどの繁栄を築いた[31]。
徳川家康は三国山脈に発し、関東平野の中央部から南流して江戸湾に流れ込む利根川を、銚子から太平洋に注ぐように、河道付け替えの大土木工事を施した。目的は治水・利水・水運・新田開発・軍事等様々にいわれており[31]、1594年(文禄3年)に着工され、1635年(寛永12年)に竣工、1654年(承応3年)に完成した。この工事により利根川が銚子に流れるようになり、また途中関宿付近で江戸川ともつながり、銚子と江戸は初めて水路で結ばれ、内川廻りすなわち利根川水運が可能になった。内川廻りは従来の外海回りよりも安全で迅速であったため、銚子湊は東北地方と江戸を結ぶ東廻り海運と利根川水運との中継港として、日本の海運に重要な機能を果たすようになった。初期の頃には千石積み、後には河口の水深の関係から次第に大型船の航行は困難になり、最終的には150石積み以下になったが、元船と呼ばれる外洋航行の船舶が常時多数入港停泊して賑わっていた。これらの元船が積載してきた荷は、川船、主として高瀬舟に積み替えられて江戸へ輸送された。荷は大別して東北諸藩及び天領の回米・海産物・米殻・大豆・木材等であり、一部は銚子で売りさばかれた。元船は帰路江戸や常総の産物を積んで戻った。このため海運に関係して、従来半農半漁の農村であった銚子に穀宿・廻船問屋・仲買・船宿・引船・川船等各種の商業が成立するようになった。更にこれらの周辺には各種の関連業種が成立した。荷主である諸藩自体も蔵屋敷を設置し、幕末期には仙台、米沢、笠間等各藩の米蔵が7棟利根川河岸に建ち並ぶまでになり、仙台河岸と称された。利根川を上下する高瀬舟は飯沼49、高田38、野尻41の128隻を数え、飯沼村の廻船問屋は10軒余に及んだ。
この頃、いわし八手網漁業による干鰯生産を中心とした漁業が発展し始めた。いわしは肥料にするのが主目的であって、食用は微々たるものでしかなかった。肥料としては、そのまま乾燥させた干鰯、煮て圧搾した〆粕へと加工された。干鰯は近世農業における最高の金肥であり、関西地方で栽培される綿花の肥料として需要が増大して、当時の成長産業となっていた。〆粕製造過程では灯火用の魚油がとれた。これらの流通の過程では仲買・問屋が生まれ、漁業生産に必要な漁船・漁具・漁網等に関する商工業も盛んとなった。
元禄期になると、海運・漁業と並ぶ大きな産業として醤油醸造が発展した。1616年(元和2年)に銚子の豪農で干鰯生産に携わっていた3代田中玄蕃が西宮の海産物問屋である真宜九郎右衛門から醤油醸造の技術を伝授され、銚子の地で醤油醸造を開始し、ヒゲタ醤油の発祥となった。また、1645年(正保2年)には紀州広村出身の濱口儀兵衛がヤマサ醤油の前身である広屋を創業している。温暖湿潤な気候であり、原料の大豆・麦・塩の生産地が近く、更に大消費地である江戸と利根川水運により結びついたこと等、好条件に恵まれた銚子の醤油は「地廻り醤油」と呼ばれ、味も江戸庶民の嗜好に合わせた関東風の濃口醤油へと改良したことで需要を高めた。醤油醸造業者はいずれも富裕で豪商というべき者も多く、文政年間には20軒があった。幕末期の1864年(元治元年)には銚子のヤマサ、山十、ヒゲタ、ジガミサを含む関東醤油7印が江戸幕府から最上醤油として認められた[40]。田中玄蕃家の記録である「先代集」は、松平伊昌が入部した天正・文禄期の飯沼村の百姓数を27軒とし、それが1720年(享保5年)には飯沼村家数1492軒、人数6819人と記しており、この頃城下でもない地方の村で、7000人近い人口を有するところは、関東では他になかった[31]。
文化・文政期にはその他商工業も盛んになり、都市化が進展した。文政年代の銚子の人口は飯沼・新生・荒野・今宮の4村だけで1万3千余を擁し、一般の農村の人口とは1桁違っていた。これらの4村は点在していたのではなく、利根川の沿岸に連続した市街地を形成して殷賑を極めていた。1841年(天保12年)、銚子に遊んだ漢学者安川柳渓は今宮付近から飯沼観音に至る道筋を「市中の賑ひ、あきびとの見世棚、すき間もなくうちつづき、十まちばかりも来つらんが」と描写している。戦前の旧市域でみれば優に2万人を超える人々が生活していたと思われ[31]、これらの人々の衣食住や健康・娯楽あるいは教養・文化を支える様々な業種もあった。医療について見ると、1752年(宝暦2年)の飯沼村の医師数は13人で、医師1人当たりの人口は570人である。1956年(昭和31年)の全国統計では人口834人に対して医師1人の割合であるから、当時の銚子における都市化の進展を示している。江戸末期の銚子の人口は江戸、水戸に次いで関東3位であり、下総・上総を合わせた中では第1位であった。
経済力を蓄えた銚子の有力商人は、利根川を通じた江戸との商いの中で江戸に支店を構え頻繁に江戸と銚子を往来し、文化人と交流した。海産物問屋・御殻宿として巨富を成した行方屋の大里庄治郎は自ら俳諧に親しんで俳号を桂丸とし、夏目成美や小林一茶を銚子の自邸に招いて句会を開いた。江戸日本橋の豪商古帳庵は銚子を訪れ「ほととぎす銚子は国のとっぱずれ」という有名な句を残している。このような交流の中で次第に銚子は江戸で流布していき、更に旅行案内書も出版されたことで文化・文政期には江戸からの身近な旅行先として多くの学者や文人墨客、江戸庶民が物見遊山に訪れた。木下河岸から出航する木下茶船は東国三社詣の遊覧船として人気を博し、乗客は東国三社詣の後利根川を下り、銚子の磯巡りと称して飯沼観音をはじめとした寺社や海岸の奇岩、断崖、白砂、青松、怒涛等変化に富んだ明媚な風光を賞で清遊した。利根川河畔の松岸、本城、田中は花街として盛況を極めた。歌川広重作「六十余州名所図会」には「下総銚子の濱 外浦」と題して名洗濱が富士見の名所として描かれている。来銚した人々と在郷の知識人や経済人との交流によって銚子への江戸文化の流入と地域文化の醸成がもたらされ、銚子では宮内嘉長開創の「守学塾」等、幕末から明治にかけて私塾が相次いで立った。各村には寺子屋も開かれ、市内には筆子塚が見られる。
近代[編集]
明治・大正[編集]
1869年(明治2年)、銚子は宮谷県の管轄となり、県庁は大網白里に置かれ、飯沼陣屋に支庁が置かれた。1872年(明治5年)に新治県に編入されたが、1875年(明治8年)に廃され千葉県となった。1889年(明治22年)に近代的な地方制度を定めた「市制町村制」が施行され、この時江戸時代の村は単独もしくは合併して近代町村に生まれ変わった。銚子では本銚子町・銚子町・西銚子町・高神村・豊浦村・海上村の3町3村になり、初めて銚子の名は行政区画名になった。
明治政府は横浜・北米航路間の貿易船に対して必要な箇所として、犬吠埼の断崖に西洋型第1等灯台を建設することを決定し、1872年(明治5年)に着工、1874年(明治7年)に初点灯した(犬吠埼灯台)。設計者は英国技師のリチャード・ブラントンで、国産煉瓦を使用した最古の西洋式灯台である。郵便・電信では、1872年(明治5年)に銚子荒野郵便局が設置され、1885年(明治18年)に銚子電信分局が開局した。1886年(明治19年)には銚子町有志が私立測候所を開設した。更に 1908年(明治41年)、逓信省が我が国最初の無線交信局である銚子無線電信局を開局した。1907年(明治40年)には千葉に次いで県下2番目に電話が開通し、翌年には銚子荒野郵便局から改称した銚子郵便局において、千葉県最初の電話交換業務が開始された。
明治維新によって幕藩体制が崩壊すると、従来の藩を中心にした物資の流通に大きな変化が起こって東北地方と江戸を結ぶ海運は急速に衰退、東北諸藩からの廻船やそれに関係する物資船舶の往来は途絶した。利根川水運は明治以降も残り、高瀬船に代わって蒸気船がいち早く導入され、利根川水運の一層の利便化が図られた。1881年(明治14年)には銚子汽船株式会社が設立され、蒸気船による銚子・東京間の定期航路が開かれ、銚子丸を始めとする7隻の外輪船が利根川を上下するようになった。1897年(明治30年)には総武鉄道により佐倉・銚子間に総武本線が敷設されて東京の本所と結ばれた。1900年(明治33年)には銚子駅東側に新生駅が新設された。成田線は1895年(明治28年)に下総鉄道が設立されて敷設工事が始まり、1933年(昭和8年)に笹川・松岸間が開通して全通した。鉄道の発達に伴って河川を利用していた運輸は次第に衰え、昭和初期までに銚子港の商港機能は全く失われることとなった。1926年(大正15年)には民間飛行場である大利根飛行場が三軒町に開設した。海軍払い下げの水上飛行機を7機保有し、銚子・佐原間の旅客輸送や犬吠・佐原・潮来上空の遊覧飛行を行った。
1913年(大正2年)には濱口吉兵衛、13代田中玄蕃、小野田周斎ら地元財界人により銚子遊覧鉄道株式会社が設立され、同年12月に銚子・犬吠間が開業したが、1917年(大正6年)に廃止された。その後、1921年(大正10年)に旧遊覧鉄道発起人により再度銚子鉄道の敷設願いが提出され、1922年(大正11年)に免許を取得、1923年(大正12年)に外川まで延伸、開通した。銚子鉄道の路線のうち銚子・犬吠間は遊覧鉄道の旧路線をそのまま使用し、犬吠・外川間は新たに延長したものである。1925年(大正14年)には電化開業している。
鉄道の整備は消費市場の飛躍的な拡大をもたらした。明治末期には漁船の動力化が始まり、その後大型化や漁具・漁船等の改善も加わり、日本の漁業が沿岸漁業から沖合漁業への発展期にある中で、銚子港は全面的にその根拠地として大きく機能するようになった。銚子の漁業はまき網・さし網・底びき・はえ縄・手釣等種類が多く、漁船の大きさや経営の規模等も様々であった。まき網漁業はいわしを対象とし、その他の漁業はかつお・まぐろ・ひらめ・たい・ほうぼう等を対象とした。いわしは回遊魚であるため漁の変動が激しく、またほとんど全てが肥料及び加工食品の原料に回され、同時に魚油も生産された。そのため加工と流通過程で生産される付加価値はその他の漁業よりもはるかに大きく、地域経済に対する波及効果もまた大きかった。いわしの豊漁が続くと銚子の町は活気に溢れ、漁さえあれば不景気知らずと言われた[31]。
水産加工業を除く工業としては、醤油製造業・製網業・澱粉製造業・焼き瓦製造業・籐製品製造業・蠣殻工業・造船業・鉄工業等が発展した。醤油製造業においては、1893年(明治26年)にヤマサ醤油10代目当主濱口梧洞が国内初の醤油研究所を開設し、手工業的な要素が強かった製造方法の近代化に取り組んだ。ヒゲタ醤油は1914年(大正3年)に濱口家・田中家・深井家と合同して「銚子醤油合資会社」となり、1918年(大正7年)に株式会社化し、濱口吉兵衛が初代社長となった。1910年(明治43年)には地元有志により銚子電燈株式会社が設立されて、銚子には千葉に次いで県下2番目に電燈がともるようになり、1913年(大正2年)には銚子瓦斯株式会社が設立されて銚子で都市ガスが供給されるようになった。需要家数は同社の供給区域である本銚子町と銚子町を合わせて600戸程度であった。銚子町には天明年間創業の豊田菓子工場があり、水戸屋の屋号は広く銚子一帯に知られていた。1936年(昭和11年)には、千葉県で最初の商工会議所として銚子商工会議所が設立された。
こうした産業の発展に伴って大手銀行支店の進出、地元銀行の設立等、金融機関の開設も多くなり、1914年(大正3年)には8行を数えるに至った。1910年(明治43年)には地元商工業者を対象とする金融機関として、銚子信用組合が創立されている。国や県の出先諸官庁も設置され、銚子は千葉県北東部における政治・経済の中心都市としての機能を備えていった。
この頃、銚子ではその将来を左右する一大公共事業が歩一歩と進められていた。銚子漁港修築工事いわゆる銚子築港であり、この事業を軸に銚子は近代的な水産都市へと大きく発展しようとしていた。江戸時代の銚子港は主として商港として興り商港として発展したもので、漁業根拠地たることは二次的なものでしかなかった。大正期に入っても銚子港の形態はほとんど天然のままの河口港であり、僅かに沿岸の海岸のところどころに防波用の合掌枠や桟橋が設けられていた程度であった。港口の出入りには危険が伴い、漁船の遭難が繰り返されていた。そのうえ港といっても接岸できる岸壁はなく、漁船は岸を離れた深みに停泊し、陸とは伝馬船で連絡する状態であった。その陸上にも漁港施設はあまりなかった。そこで近代的な漁港を建設して航行の危険を除くとともに、施設の整備により地元船ばかりでなく廻船を誘致し、銚子の新たな発展の基盤にしようという機運が高まっていった。
築港事業は漁業関係者の一致した認識となり、1919年(大正8年)には具体的な実現運動に発展した。その結果政府も銚子港の重要性を認め、我が国水産業の発展という大局的な見地から一大整備を行うこととなった。銚子醤油株式会社社長の濱口吉兵衛[41]は、代議士の立場から築港の促進を図るため衆議院議員選挙に立候補して当選し、在任中、政党を動かして議会や政府に働きかけた。工事は1923年(大正12年)度から10か年継続とし、総工事費1千万円を千葉県の他に将来銚子漁港を利用する各府県で分担することとなった。しかし各府県の財政事情によりこの案は廃され、国庫補助金等を合わせて、千葉県単独で実施することとなった。これに至るまでには、銚子町選出の県会議員小野田周斎の努力があった。
しかし、内務省は利根川河口の沿岸を埋め立てたり、河中に堤防等を構築することは治水上重大な影響を及ぼすとして、農商務省の設計による築港工事を認めようとせず、起債と工事施行の認可は容易に下りようとしなかった。銚子はその将来に関わる重大な問題であるだけに、衆議院議員選挙に再出馬し当選した濱口吉兵衛や香取郡から再選された今井健彦を動かし、内務省や農商務省に働きかけた。その労が実り、1925年(大正14年)、部分的に第二漁船渠の工事が認可され、飯沼魚市場において盛大に起工式が挙行された。1932年(昭和7年)には第二漁船渠後背地に東洋一を誇る[31]新魚市場が完成し、1934年(昭和9年)度からは埋立地を貫通する延長5500メートルに及ぶ臨港道路の建設が開始された。
昭和前期[編集]
市制施行は県都千葉市が発足して間もない1923年(大正12年)頃から有識者間で度々話題になっていた。昭和に入り築港工事を控えて、銚子では各町村が大同団結して大銚子市を建設し、もって地域の発展を図ろうとする機運が高まり、1年の準備期間を経て1933年(昭和8年)2月11日、銚子町・本銚子町・西銚子町・豊浦村の3町1村が合併して銚子市が発足した。千葉県で2番目、全国では116番目の市であった。3月14日に第1回市会が開かれ、初代市長に銚子醤油株式会社社長濱口吉兵衛を推挙したが受諾を得られず、銚子市長職務管掌として市制施行準備を指導した千葉県地方課長の川村芳次を推挙し、5月14日に川村が初代市長に就任した。1937年(昭和12年)には高神村・海上村が合併し、近世以来銚子という文化圏を形成していた地域はようやく一つの行政区画となった。1936年(昭和11年)には市内全域を給水区域とした上水道の建設工事が開始され、1939年(昭和14年)に完成した。
この時期から銚子市に軍事施設が設置されるようになり、1936年(昭和11年)、銚子市初の軍事基地である下志津陸軍飛行学校銚子分教場が春日台に設置された。1941年(昭和16年)の太平洋戦争開戦後は愛宕山に陸海軍のレーダー部隊が配置された。これに続いて1943年(昭和18年)には三崎町に陸軍千葉防空学校銚子分校が開校した。1944年(昭和19年)には戦時下において東京への鮮魚輸送を担う、新生駅から銚子漁港魚市場に至る臨港線が敷設された。1945年(昭和20年)に入ってから、軍部は本土決戦の準備に本格的に取り組み始め、銚子市には陸海軍部隊が派遣されて不動山と妙見町方面に陸軍の防御陣地が築かれ、弥生町・幸町と外川には海軍の特攻基地が建設された。末期には銚子半島の防護を担う陸軍決戦部隊が移駐した。
1944年(昭和19年)以降、関東地区には米軍の大型戦略爆撃機B29が飛来し、銚子市上空はB29の関東地区侵入口あるいは退出路となった。1945年(昭和20年)2月には銚子市に初めて米軍艦載機が侵入し、下志津陸軍飛行場銚子分教場が攻撃を受けた。3月9日深夜には5機のB29が銚子市に侵入し、照明弾を投下しながら栄町・陣屋町・新生・興野・本通り方面に大量の焼夷弾を投下した。この地域は市役所を中心とする市の最も中心部であり、北北東の風に煽られて市中心部は火の海となり、陣屋町・南町・前宿町にまで延焼した。この空爆は千葉県に行われた最初のもので、死者47人、負傷者163人、焼失戸数は1000戸余であった。この空襲により銚子駅前一帯は何一つない焼け野原となり、駅頭から利根川まで見通せる状態となった。
そして7月19日の深夜、銚子市は3月の空襲を遥かに上回る2度目の大空襲を受けて、市街地のほとんどが全滅した(銚子空襲)。この夜、91機という多数のB29が来襲し、市街地に大量の焼夷弾・爆弾を投下し、低空で機銃掃射を行った。死者278人、負傷者は808人で、総焼失戸数は3950戸と銚子市全戸数の30パーセント強が焼失し、多数の建物が灰塵に帰した。焼失前は建物に遮られて市街地からはほとんど見えなかった御前鬼山という小さな丘がどこからでも見えるほど、銚子の街は見渡す限り焼け野原になったと伝えられる[31]。銚子市のような地方小都市が狙われたのは、銚子市が水産業と醤油製造業の中心で、また当時は千葉県第2の都市でもあり、空襲が成功すれば東京の主要食糧供給基地の一つを破壊できると考えられたためである。
現代[編集]
昭和後期[編集]
終戦後、銚子市には米軍が駐屯するようになり、ヤマサ醤油本社ビルを接収して関東各地の旧日本軍の砲弾・弾薬の海中投棄作業を指揮した。銚子駅から臨港線によって銚子漁港に集積された爆弾・砲弾は銚子・波崎・片貝方面の漁船によって銚子沖に投棄された。バラック建築は終戦直後から始まり、どこからでも御前鬼山が見えた焼け跡にも次第に家が立ち並び、1946年(昭和21年)中には町らしくなり、大通りに面した家々では商売らしいものも始めるようになった。闇商売も横行したが、それはやがて銚子市の地域経済を活発にし、戦災復興の原動力となった一面もあった。焼失した学校や諸官公庁もだいたい1950年(昭和25年)までには再建された。
戦災によって国内の主要市街地の多くが焦土と化し、その復興が急務とされていた終戦直後、銚子市の最大の課題は市街地の復興であった。1946年(昭和21年)に戦災復興都市計画事業が決定され、県が土地区画整理事業を施行することとなった。計画の立案・設計に当たっては、漁業・農業、更にそれらに関連する諸工業を併せもつ首都外廓の産業・観光都市であることに重点をおき、文化的な近代都市を建設することが目標とされた。5か年計画事業として区画整理事業、街路事業、水道事業、ガス事業、公園事業等の工事が開始され、当初計画の修正を経て、1960年(昭和35年)に終了した。事業によって銚子市の景観は一変し、市街地は広い幹線道路とその間を結ぶ区画街路によって整然と区画され、古い港町の面影は全く払拭された。市街地の寺院や墓地の移転、駅前広場・商店街アーケードの完成、都市公園の配置、街路樹の植栽等も進み、銚子市は近代都市へと変貌を遂げた。戦災復興事業終了に引き続き飯沼都市改造区画整理事業が実施されて1969年(昭和44年)に終了し、空襲で焼失した銚子市の市街地は一体的に整備された。
1953年(昭和28年)、国は国と地方の行政事務の再配分と合理化のため「町村合併促進法」を、1956年(昭和31年)に「新市町村建設促進法」を公布し、市町村合併を推進した。このような背景の中で、銚子市は1954年(昭和29年)4月1日に海上郡船木村・椎柴村を合併し、1955年(昭和30年)2月11日には香取郡豊里村を、1956年(昭和31年)4月10日には海上郡豊岡村を編入合併した。
1960年代に入ると日本経済は池田勇人内閣の「国民所得倍増計画」による高度経済成長期に入り、各地で拠点開発方式の経済産業発展政策が強力に推し進められた。京葉地帯の工業開発や成田空港建設等に伴い、首都近郊50キロ圏への産業・人口・都市機能の集中が進み、銚子市を取り巻く環境が大きく変化する中で、銚子市においては、1961年(昭和36年)実施の「市勢振興調査」が既存産業の一層の発展とあわせて大工業化、新産業創設を提起し、これを受けて「銚子市長期計画」が策定された。その後「地方自治法」の改正にあわせて、1973年(昭和48年)6月に銚子市基本構想を定めて以後、地域振興策を盛り込んだ基本構想の策定が進められた。
日本道路公団は1959年(昭和34年)に銚子市と波崎町を結ぶ利根川架橋の架設工事を決定し、1960年(昭和35年)に起工した。橋脚工事には当時の最新技術であった潜函工法が用いられた。工事は1962年(昭和37年)11月に完成し、12月10日、全長1450メートルと当時国内最大級を誇った[42]銚子大橋が開通した。この日銚子市内は祝賀一色となり、銚子大橋付近や主要な街頭は空前の人出で終日賑わった[31]。開通後の銚子大橋の車両通行量は本格的な自家用自動車の普及によって予測を遥かに上回るものとなり、1974年(昭和49年)に無料化された。1953年(昭和28年)には政令第96号をもって2級国道千葉銚子線が指定され、のちに一般国道126号となった。1974年(昭和49年)には政令第364号をもって一般国道356号が指定された。
銚子漁港は1960年(昭和35年)に政令第255号をもって水産業の振興上特に重要な漁港を表す特定第3種漁港に指定され、1963年(昭和38年)に成立した第三次漁港整備計画による抜本的改修が実現することとなった。工事は1963年(昭和38年)に起工され、続く第四次整備計画では1971年(昭和46年)に利根川を航行しない新航路が開通し、これ以後利根川河口付近における漁船の遭難は後を絶った。1973年(昭和48年)成立の第五次漁港整備計画においては、夫婦ヶ鼻から黒生漁港に至る間の外港工事が実施され、漁港整備にあわせた沿岸漁業等の水揚げ拠点基地として、水産物流通加工機能の整備も進んだ。これらの工事によって銚子の東海岸の約3分の1が漁港化され、銚子漁港は太平洋に臨む広大な外港とこれに続く内港とによって、近代的漁港として歴史的変貌を遂げた。
銚子半島南岸の犬若・名洗海岸は、強風時における船舶の避難碇泊に適する地形であったため古くから犬若泊地として知られていたが、戦後、避難港として整備されることとなり、1951年(昭和26年)に政令により避難港の指定を受けて、1952年(昭和27年)に運輸省直轄の避難港工事が開始された。1953年(昭和28年)、名洗港は千葉県が港湾管理者となる地方港湾として5月に漁港区域指定の千葉県告示がなされた。避難港工事は1965年(昭和40年)度に完了し、1966年(昭和41年)度からは千葉県が国の「港湾整備計画」による整備を開始した。名洗港の整備と並行して、銚子市は港湾施設用地の確保と企業誘致による市産業の高度化を目的とする名洗港臨海工業用地の造成を行った。1969年(昭和44年)に名洗港は地方港湾として供用開始となった。
銚子漁港・名洗港の整備とあわせ、冷蔵庫の普及・発達、原料魚の移入増加による原料供給の安定による年間操業化、機械の導入による省力化等に伴い、銚子市の水産・食品加工業は大きく発展した。戦後の水産加工業の特色は、その主力がいわし搾粕から養殖の飼料用の冷凍いわしへと替わったことであり、設備の近代化により生産額は大幅に増大した。醤油製造業では、ヤマサ醤油が1961年(昭和36年)にイノシン酸とグルタミン酸を複合させた化学調味料「フレーブ」を発売して日本の化学調味料界に一大革命をもたらし、1970年(昭和45年)には医薬品製造免許を取得して、医薬品開発メーカーへと発展する契機となった。銚子市では戦前から澱粉原料用の甘薯と麦類の輸作が畑作の主体となっていたが、1960年代から、より採算性の高いキャベツが基幹作物となっていった。1962年(昭和37年)には「灯台印」のブランド化により他産地との差別化に成功し、銚子市は春系キャベツの一大供給基地となった。
1959年(昭和34年)に銚子市の海岸一帯が国定公園に指定されて以降、その中心となる犬吠埼では観光ホテルの建設、土産物店の開設、遊歩道の完成等の観光開発が進んだ。観光道路についても千葉県道254号銚子公園線の犬吠埼・長崎間が完成して海岸一周が可能となり、1973年(昭和48年)には愛宕山から屏風ヶ浦の台地を通って三崎町に至る観光有料道路・千葉県道286号愛宕山公園線が開通し、自家用自動車時代に対応する観光道路網が整えられた。鉄道ではローカル線としては比較的早い時期に電化が実現し、蒸気機関車は1969年(昭和44年)に姿を消すこととなった。電化に伴って列車本数も増え、急行列車や特急列車が運転されるようになった。1975年(昭和50年)には、銚子・東京間に特急列車「しおさい」の運転が開始された。途中停車駅は旭・八日市場・成東又は八街・千葉・錦糸町であり、こだま型の車両を改良した最新の183系が導入された。1970年(昭和45年)からは、新たな観光行事として毎年8月に花火大会及び神輿巡幸を柱とする「銚子みなとまつり」が行われるようになった。
1960年代には技術革新と大衆消費革命が進み、銚子市においても商業は競争の時代を迎え、1960年(昭和35年)には、外来資本である株式会社十字屋が新生町に進出した他、1970年代に入ると市内各地区に中小のスーパーマーケットが開店した。1963年(昭和38年)に銚子銀座に開店した「ミヤスズ」は市内各所及び市外にも店舗を増設して、食料品を中心とするスーパーとしては最大手に成長した。1972年(昭和47年)には、銚子銀座の衣料品店「クリハシ」が銚子市初の百貨店となった。1976年(昭和51年)の株式会社十字屋による百貨店開店、1979年(昭和54年)の株式会社銚子ショッピングセンター(シティオ)開店を機に、銚子駅前にはブティック・レストラン等が集積するようになり、銚子銀座と並ぶ商業集積地区となった。戦前においては市内、近隣農村、波崎町を合わせた地域とみられていた銚子市商圏は、自家用自動車の普及と銚子大橋建設等の状況から、1960年代に入ってから拡大し、1968年(昭和43年)の「千葉県商圏調査」結果では、市内及び旭市・海上町・飯岡町・干潟町・野栄町・小見川町・茨城県波崎町・神栖町までを含めた人口約22万人の地域とされた。1970年代以降は各地域の商業力向上に伴って佐原市、茨城県側、更に旭・八日市場方面を含め商圏の競争が生じるようになった。
1970年代からは、民間企業によって銚子市の西部地域に豊里団地と呼ばれる大規模住宅団地の造成が行われた。笹本町台地の主要地方道多古笹本線東側の山林部70ヘクタールを宅地造成して、2800世帯、1万2600人が入居するニュータウンを建設しようとする計画であり、1971年(昭和46年)から用地買収が開始され、1974年(昭和49年)から工事開始となった。当初目的は鹿島臨海工業地帯に進出する企業の社宅用であったが、その後の経済情勢の変化によってこれは見直され、一般住宅向け分譲団地となった。1970年(昭和45年)には、財団法人銚子市開発協会と千葉県開発公社の共同事業により、小浜町に18万1500平方メートルの工業団地が造成された。
千葉県立銚子商業高等学校野球部では銚子市立第一中学校から斉藤一之監督を招聘して以後、続けて千葉県代表として甲子園に出場して千葉県下の高校野球に銚商時代を現出し、その豪快な打線は「黒潮打線」として知られた[24]。1965年(昭和40年)の第47回大会においては決勝戦まで進出して準優勝し、更に1974年(昭和49年)の第56回大会においては全国優勝を果たした。1979年(昭和54年)には銚子市立銚子高等学校が、1981年(昭和56年)には銚子市立銚子西高等学校がそれぞれ千葉県予選で優勝し、甲子園に出場した。
平成・令和[編集]
1985年(昭和60年)、銚子を舞台にしたNHK連続テレビ小説「澪つくし」が大ヒット作品となり、それまで160万人から180万人台であった年間観光客入込数は220万人を超えた。銚子市はこの年を銚子観光元年と銘打ち、観光宣伝はもとより観光レクリエーション拠点の整備を一層推進し、21世紀に向けた新たな都市づくりの主要なステップとする方針を定め、「銚子市観光振興基本計画」を策定した。この計画において、愛宕山展望館の改築、銚子漁港地区水産ポートセンターの整備、インフォメーションセンター、観光案内標識の設置、PR・イベントの実施の他、海浜レクリエーション基地、マリンスポーツ基地、海岸遊歩道・サイクリング道路、銚子駅前の整備等が掲げられた。
銚子市は社団法人日本港湾協会の「名洗港整備調査報告書」の提言を受け、整備方針について検討を進めていた名洗港を規模及び質において我が国第一級のマリーナを中心とするマリンリゾート拠点として整備し、これを核とする外洋性リゾート都市を形成することを決定した。その整備構想は、名洗港にクルーザー等1000隻の収容能力を持つマリーナを新設し、既存埋立地にリゾート施設を、マリーナ西側に海水浴場を、既存堤防基部に5000トン級船舶が接岸可能な岸壁を新設するというものであった。1987年(昭和62年)の国・県・市による「名洗港マリンタウンプロジェクト調査」委託、1989年(平成元年)の「総合保養地域整備法」に基づく千葉県の「房総リゾート地域整備構想」における重点整備地区としての「銚子マリン・リゾート」指定、1990年(平成2年)の「名洗港港湾計画」策定、翌年の「漁業補償契約書」調印、名洗港の「海洋性レクリエーション拠点港湾」指定といった状況推移の中で、マリーナの管理運営に当たる第三セクターの設立、マリーナ後背地開発の事業主体となる民間企業の選定、マリンリゾートにふさわしい港湾環境の整備が進められた。
1988年(昭和63年)の「地球の丸く見える丘展望館」開館、1991年(平成3年)の「水産ポートセンター」開設、1992年(平成4年)の「君ヶ浜しおさい公園」開園等、観光・レクリエーション施設の整備も進展した。また、銚子駅前通りシンボルロード・本通りマイロード・銚子銀座通りココロードの整備、主要地方道銚子海上線の拡幅、銚子公園線長崎周遊道路の建設等も進み、リゾート都市としての交通体系が整備されていった。1990年(平成2年)には千葉県の「新5か年計画」に銚子大橋の慢性的な渋滞の解消を目的とした新大橋建設が位置づけされ、国の銚子新大橋有料道路新設の認可を得て、1995年(平成7年)に起工、2000年(平成12年)に開通した。新橋の名称は「利根かもめ大橋」と決められた。銚子電気鉄道では1990年(平成2年)以降、観光資源でもある電車の環境整備として、観音駅・君ヶ浜駅・犬吠駅の各駅及び銚子駅構内発着場のヨーロッパ風の改築、電車の塗装変更、沿線のアジサイ植栽による車窓風景の美化等が実施された他、夏期限定で遊覧用オープン客車の「澪つくし号」が運行された。1995年(平成7年)には、銚子名産のぬれ煎餅を地元企業の指導協力を得て犬吠駅売店で売り出している。1997年(平成9年)と2000年(平成12年)には、犬吠埼に2つの民間ホテルが続いて温泉掘削に成功して、銚子海岸観光のベストロケーションに天然温泉という関係者の長年の夢が実現した。周辺のホテル・旅館もこの源泉から分湯を受け共同利用することとなり、犬吠埼温泉郷が形成され、銚子観光のイメージアップと集客力強化に大きな役割を果たすこととなった。
マリーナの名称は「銚子マリーナ」と定められ、当初計画の見直しを経て港湾改修、埋立土地造成事業、係留桟橋、船揚場ボートヤード、クラブハウス、修理庫、上下架施設、駐車場等のマリーナ施設の整備が進められて1999年(平成11年)に供用開始となり、同年7月18日に銚子マリーナ完成記念式典が挙行された。マリーナ泊地の北側には多目的広場、親水護岸、休憩所等を備えた名洗港海浜公園が整備され、また屏風ヶ浦の景勝を活かし、マリーナと一体となった海洋性レクリエーション拠点づくりのための海岸環境整備として、人工海浜が造成された。マリーナ後背地には2004年(平成16年)に千葉科学大学が開学し、2005年(平成17年)には学部棟・図書館棟・講義棟・厚生棟・体育館・グラウンドからなるマリーナキャンパスが完成して、市内においては学生の生活基盤となるマンション・アパート等の建設が進んだ。
銚子市では21世紀を迎えるにあたり、「21世紀と最初に出会うまち 銚子」として、1999年(平成11年)、2000年(平成12年)、2001年(平成13年)と3年間にわたって「世紀越え事業」を展開した。この事業は、行政と市民が一体となった「協働のまちづくり」の一環として、日本列島沿岸で初日の出が最も早く見られる地の利を活かし、広く情報発信して銚子をアピールすること、市内外の幅広い交流を促進すること、銚子の自然環境・産業・文化・歴史的遺産等の財産を再認識して21世紀につなげること等を目的とするものであった。初日の出にあわせた多様なイベント開催や記念商品の開発が市内の各種団体、企業、市民の協力によって行われ、テレビや雑誌等に大きく取り上げられた他、まちおこし・まちづくりの先駆的事業として千葉県から市町村表彰を受けた。
1994年(平成6年)、県内主要都市から千葉市まで1時間で到達可能とすることを目標とした「県都1時間構想」に基づき、首都圏中央連絡自動車道と銚子方面の連携を強化するための延長30キロメートル(松尾町〜銚子市間)の銚子連絡道路が地域高規格道路として計画路線に指定され、1997年(平成9年)に着工、2006年(平成18年)に一期区間が開通し、続く二期・三期区間の建設事業が進められている。2005年(平成17年)からは、交通量の増大、車両の大型化、塩害等を受けて銚子大橋の架替事業が進められ、2013年(平成25年)に全線開通した。
2010年(平成22年)には、イオン株式会社が三崎町に「イオン銚子ショッピングセンター」をオープンした。「ジャスコ銚子店」を核店舗、「イオンシネマ銚子」(シネマコンプレックス)を準核店舗に、100の専門店・飲食店で構成する地上2階建ての大型SCであり、オーシャンビューのフードコートや地元名産品を扱う「銚子活菜横丁 鮮の市」、銚子市行政サービスコーナー「銚子しおさいプラザ」等も設けられた。銚子市は「犬吠WAON」カードを媒体とする地域通貨「すきくるスター」を導入し、地域づくりプラットフォーム「銚子円卓会議」を設立して、域内消費喚起の寄与による持続可能なコミュニティデザインサービス事業を推進している[43]。2011年(平成23年)には核店舗の屋号がジャスコからイオンに、SC名称がイオンモール銚子に変更された。
銚子漁港は2002年(平成14年)度から、漁港漁場整備法により大消費地首都圏を控えた全国有数の沖合・沿岸漁業の水揚拠点港として水産物を安定供給する総合漁業基地の確立を目指し、広域漁港整備事業計画が進められた。2015年(平成27年)には市場食堂、女性部活動拠点等を併設した国内初の高度衛生管理型の第一卸売市場が整備された。今後は漁港漁場整備法に基づく特定漁港漁場整備事業計画として、漁船の大型化や黒生・川口外港の両港口からの出入港を可能とする二港口化を図ると共に、高度衛生管理に対応した第三卸売市場、大水深岸壁等の整備を行い、漁獲物の品質や付加価値の向上と輸出拡大を図るとしている。
2012年(平成24年)の千葉県唯一となる日本ジオパーク指定、2016年(平成28年)の日本遺産「北総四都市江戸紀行・江戸を感じる北総の町並み」登録等を機に、銚子市では銚子資産を活かした地域づくりが持続可能戦略として推進され、2017年(平成29年)には国が推奨する日本版DMO(Destination Management /Marketing Organization)を参考に、銚子の特性、地域性を生かした地域の稼ぐ力を引き出す観光地域づくりの舵取り役となる組織「銚子版DMO」構築を進めるDMO準備室が設立された。スポーツツーリズムへの積極的な取り組みもみられ、NPO法人銚子スポーツコミュニティーによるスポーツ合宿施設が2018年(平成30年)にオープンし、スポーツタウンを目指す先駆けとなっている。2018年(平成30年)にはJR銚子駅新駅舎が開業し、2019年(平成31年)には犬吠埼にカフェやベーカリーからなる複合商業施設「犬吠テラステラス」がオープンした。
2001年(平成13年)以降、市内では風力発電施設の建設が相次ぎ、34基の風力発電施設が稼働している。2011年(平成23年)に発生した東日本大震災と福島第一原子力発電所事故後、日本国内のエネルギーをめぐる状況は大きく変化した。2013年(平成25年)、国立研究開発法人新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)と東京電力の共同事業により、銚子市沖に日本初の洋上風力発電施設が設置されて実証研究が行われ、この海域は風況が良好であることや遠浅の地形が続くこと等、着床式洋上風力発電に対するポテンシャルが非常に高いことが判明した。2020年(令和2年)、銚子市沖が「再エネ海域利用法」に基づく洋上風力発電事業促進区域に指定され、2021年(令和3年)12月には促進区域における洋上風力発電事業者として「千葉銚子オフショアウィンド」が選定された。事業は促進区域内に洋上風力発電施設31基を建設し、2028年(令和10年)9月から20年間以上操業するものであり、今後環境や漁業への影響調査等を経て、2025年(令和7年)から約56キロメートルの送電線敷設等の陸上工事に、2027年(令和9年)から風車設置等の洋上工事に着工する計画であり、銚子市は「ゼロカーボンシティ銚子」の実現等、次世代エネルギー産業の先端都市としての発展を目指している。
沿革[編集]
海上郡銚子町 | C | 銚子市 | ||||||||||||
海上郡本銚子町 | ||||||||||||||
海上郡伊豆原村 | B | 海上郡西銚子町 | ||||||||||||
海上郡豊浦村 | ||||||||||||||
海上郡高神村 | D | |||||||||||||
海上郡海上村 | ||||||||||||||
海上郡船木村 | E | |||||||||||||
海上郡椎芝村 | A | 海上郡椎柴村 | ||||||||||||
香取郡豊里村 | F | |||||||||||||
海上郡豊岡村 | G | |||||||||||||
市制施行前[編集]
- 1868年(明治2年)2月9日 - 宮谷県の管轄に入る。
- 1871年(明治4年)12月25日 - 新治県の管轄に入る。
- 1872年(明治5年)
- 5月 - 荒野屯所設置(警察署前身)。
- 7月 - 郵便局設置(野尻、荒野)。
- 1874年(明治7年)11月 - 犬吠埼灯台点灯。
- 1875年(明治8年)5月7日 - 千葉県の管轄に入る。
- 1877年(明治10年)2月 - 銚子警察署設置。
- 1881年(明治14年)2月 - 銚子汽船株式会社創立。
- 1885年(明治18年)
- 2月 - 暁雞館創立。
- 9月 - 銚子電信分室設置。
- 1886年(明治19年)9月 - 私立銚子測候所開設。
- 1887年(明治20年)2月 - 千葉地方法務局銚子出張所開設。
- 1888年(明治21年)11月 - 八日市場区裁判所銚子出張所開設。
- 1889年(明治22年)
- 1893年(明治26年)7月 - 川崎銀行銚子支店開業(金融機関進出)。
- 1896年(明治29年)11月 - 銚子税務署設置。
- 1897年(明治30年)6月1日 - 総武鉄道、銚子・成東間開業(本所・銚子間全通)。
- 1898年(明治31年) - 醤油研究所設立。(ヒゲタ、ヤマサ、山十)
- 1899年(明治32年)4月 - 株式会社銚子銀行設立。
- 1900年(明治33年)3月28日 - 新生駅開業。
- 1901年(明治34年) - 籐表製造始まる。
- 1902年(明治35年) - 水産缶詰製造始まる。
- 1908年(明治41年)
- 1910年(明治43年)2月 - 銚子電燈会社設立。
- 1913年(大正2年)
- 7月 - 銚子瓦斯株式会社設立。
- 12月28日 - 銚子遊覧鉄道株式会社、銚子・犬吠間開業。
- 1914年(大正3年) 9月 - 銚子醤油合資会社創立(現ヒゲタ醤油株式会社)。
- 1922年(大正11年)11月18日 - 銚子漁港修築案を千葉県会可決する。
- 1923年(大正12年)7月5日 - 銚子鉄道株式会社、銚子・外川間開業。
- 1925年(大正14年)
- 4月 - 財団法人公正会設立。図書館併設。
- 12月 - 銚子漁港修築工事着工。
- 1926年(大正15年) - 公正学院設立。
- 1930年(昭和5年) - 大利根飛行場創設。
- 1932年(昭和7年) - 銚子漁港魚市場完成。
市制施行後[編集]
- 1933年(昭和8年)
- 1934年(昭和9年)11月 - 銚子市塵芥焼却場新設。
- 1935年(昭和10年)8月 - 銚子市火葬場業務開始。
- 1936年(昭和11年)
- 1937年(昭和12年)2月11日 - 海上郡高神村、海上村を編入。
- 1938年(昭和13年)
- 1943年(昭和18年)4月1日 - 千葉県立銚子水産学校開校。
- 1945年(昭和20年)
- 1946年(昭和21年)
- 1947年(昭和22年)
- 1948年(昭和23年)
- 3月1日 - 財団法人公正会から市に公正会館を寄贈。
- 4月1日 - 銚子市立銚子高等学校、 銚子市立銚子女子高等学校開校。
- 1949年(昭和24年)4月1日 - 市庁舎再建。
- 1950年(昭和25年)
- 1952年(昭和27年)6月27日 - 名洗避難港工事開始。
- 1953年(昭和28年)
- 1954年(昭和29年)
- 1955年(昭和30年)
- 1956年(昭和31年)4月10日 - 海上郡豊岡村を編入。
- 1957年(昭和32年)
- 1958年(昭和33年)
- 1959年(昭和34年)
- 1960年(昭和35年)
- 1961年(昭和36年)10月12日 - ヤマサから化学調味料「フレーブ」発売。
- 1962年(昭和37年)
- 1963年(昭和38年)
- 1964年(昭和39年)6月1日 - 犬吠埼に京成ホテル開館。
- 1965年(昭和40年)
- 8月13日 - 銚子市体育館開館。
- 8月22日 - 千葉県立銚子商業高等学校、第47回全国高校野球選手権大会で準優勝。
- 1966年(昭和41年)
- 1967年(昭和42年)
- 1968年(昭和43年)6月26日 - 銚子市学校給食共同調理場開設。
- 1969年(昭和44年)
- 1970年(昭和45年)
- 4月1日 - 銚子市民憲章を制定。
- 6月 - 名洗港臨海工業用地造成事業完了。
- 8月3日 - 「銚子みなとまつり」始まる。
- 1971年(昭和46年)
- 1972年(昭和47年)
- 4月1日 - 銚子市公共下水道工事着工。
- 銚子市初の百貨店として、クリハシ百貨店誕生。
- 1973年(昭和48年)
- 1974年(昭和49年)
- 1975年(昭和50年)
- 1976年(昭和51年)
- 4月1日 - 銚子市立銚子西高等学校開設。
- 10月22日 - 株式会社銚子十字屋、末広町1丁目に新店舗開店。
- 1978年(昭和53年)7月16日 - 銚子市民の家かたしなオープン。
- 1979年(昭和54年)
- 4月1日 - 銚子市小児言語指導センター開設。
- 8月8日 - 銚子市立銚子高等学校、第61回全国高校野球選手権大会に初出場。
- 10月6日 - 株式会社銚子ショッピングセンター(シティオ)開店。
- 1980年(昭和55年)
- 1981年(昭和56年)
- 8月8日 - 銚子市立銚子西高等学校、第63回全国高校野球選手権大会に初出場。
- 11月12日 - 第一回首長・議長合同協議会(東総サミット)開催。
- 1982年(昭和57年)
- 1983年(昭和58年)
- 1984年(昭和59年)
- 1985年(昭和60年)
- 1986年(昭和61年)
- 1987年(昭和62年)
- 4月1日 - 東部地区コミュニティセンター開設。
- 5月2日 - 銚子漁港第三卸売市場完成。
- 1988年(昭和63年)
- 1989年(平成元年)
- 1990年(平成2年)
- 1991年(平成3年)
- 1992年(平成4年)
- 1993年(平成5年)
- 1994年(平成6年)
- 1995年(平成7年)
- 1996年(平成8年)4月22日 - 芦崎高齢者いこいセンター開設。
- 1997年(平成9年)
- 1998年(平成10年)10月19日 - 銚子郵便局新局舎完成。
- 1999年(平成11年)
- 4月1日 - 銚子マリーナ開業。海浜緑地公園や人工海浜と合わせたマリンリゾート拠点となる。
- 12月31日 - 「ミレニアムイベントin銚子」開催。
- 2000年(平成12年)
- 2001年(平成13年)
- 2002年(平成14年)
- 3月20日 - 犬吠埼灯台資料展示館オープン。
- 5月22日 - 東総台地地区広域営農団地農道供用開始。
- 2003年(平成15年)
- 2004年(平成16年)
- 2005年(平成17年)
- 2月18日 - 銚子大橋架換事業着工。
- 4月1日 - 千葉科学大学マリーナキャンパス供用開始。
- 2006年(平成18年)
- 3月25日 - 銚子連絡道路一期区間が開通。
- 4月1日 - 銚子市保健福祉センターすこやかなまなびの城開館。
- 4月1日 - 銚子市立双葉小学校開校。
- 2007年(平成19年)
- 2008年(平成20年)4月1日 - 銚子市立銚子高等学校開校。
- 2010年(平成22年)
- 4月1日 - イオン銚子ショッピングセンターオープン。
- 5月6日 - 銚子市立病院診療再開。
- 9月26日 - 第65回国民体育大会の会場となる。
- 10月22日 - スパ&リゾート犬吠埼太陽の里オープン。
- 2011年(平成23年)
- 3月11日 - 東北地方太平洋沖地震発生。銚子市では、震度5強の揺れと最大波2.5メートルの津波を観測。
- 5月6日 - 河岸公園全面供用開始。
- 2012年(平成24年)
- 2013年(平成25年)
- 2015年(平成27年)
- 3月29日 - 銚子漁港第一卸売市場が国内初の高度衛生管理型市場として竣工。
- 10月 - 第1期「銚子市しごと・ひと・まち創生総合戦略」策定。
- 2016年 (平成28年)4月19日 - 銚子市を含む4都市が「北総四都市江戸紀行・江戸を感じる北総の町並み」として日本遺産に認定される。
- 2017年(平成29年)1月24日 - 新消防庁舎完成。
- 2018年 (平成30年)
- 2019年(平成31年)
- 1月1日 - 犬吠埼に複合商業施設「犬吠テラステラス」オープン。
- 3月 - 銚子市総合計画策定。
- 4月1日 - 地域交流センター・銚子芸術村供用開始。
- 11月10日 - さるだ学集館オープン。
- 2020年(令和2年)
- 2021年(令和3年)
- 4月1日 - 銚子市立銚子西中学校開校。
- 4月1日 - 東総地区クリーンセンター稼働開始。
- 7月1日 - 東総地区最終処分場稼働開始。
- 2022年(令和4年)
行政区域変遷[編集]
- 変遷の年表
銚子市市域の変遷(年表) | ||
---|---|---|
年 | 月日 | 現銚子市町域に関連する行政区域変遷 |
1889年(明治22年) | 4月1日 | 町村制施行に伴い、以下の町村がそれぞれ発足[45]。 |
1891年(明治24年) | 1月26日 | 椎芝村は改称し椎柴村になる。 |
8月14日 | 伊豆原村は町制施行・改称し西銚子町になる。 | |
1933年(昭和8年) | 2月11日 | 銚子町・本銚子町・西銚子町・豊浦村が合併し銚子市が発足。 |
1937年(昭和12年) | 2月11日 | 高神村・海上村は銚子市に編入。 |
1954年(昭和29年) | 3月31日 | 豊岡村の一部(塙と八木の一部)が飯岡町と三川村と合併し、飯岡町が発足。 |
4月1日 | 船木村・椎柴村は銚子市に編入。 | |
1955年(昭和30年) | 2月11日 | 香取郡豊里村は銚子市に編入。 |
1956年(昭和31年) | 4月10日[46] | 豊岡村は銚子市に編入。 |
1958年(昭和33年) | 飯岡町の一部(三川の一部)は銚子市に編入。 |
- 変遷表
銚子市市域の変遷表(※細かな境界の変遷は省略) | |||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|
1868年 以前 |
明治22年 4月1日 |
明治22年 - 昭和64年 | 平成元年 - 現在 | 現在 | |||
海上郡 | 新生村 | 銚子町 | 銚子町 | 昭和8年2月11日 銚子市 |
銚子市 | 銚子市 | |
荒野村 | |||||||
今宮村 | |||||||
飯沼村 | 本銚子町 | 本銚子町 | |||||
松本村 | 伊豆原村 | 明治24年8月14日 西銚子町に 町制改称 | |||||
本城村 | |||||||
長塚村 | |||||||
小川戸村 | 豊浦村 | 豊浦村 | |||||
辺田村 | |||||||
三崎村 | |||||||
高神村 | 高神村 | 高神村 | 昭和12年2月11日 銚子市に編入 | ||||
松岸村 | 海上村 | 海上村 | |||||
垣根村 | |||||||
四日市場村 | |||||||
余山村 | |||||||
柴崎村 | |||||||
高野村 | |||||||
三宅村 | |||||||
赤塚村 | |||||||
高田村 | 船木村 | 船木村 | 昭和29年4月1日 銚子市に編入 | ||||
芦崎村 | |||||||
岡野台村 | |||||||
船木台村 | |||||||
三門村 | |||||||
中島村 | |||||||
正明寺村 | |||||||
野尻村 | 椎芝村 | 明治24年1月26日 椎柴村に改称 | |||||
小船木村 | |||||||
塚本村 | |||||||
忍村 | |||||||
猿田村 | |||||||
小浜村 | 豊岡村 の一部 |
豊岡村の一部 | 昭和31年7月1日 銚子市に編入 | ||||
親田村 | |||||||
常世田村 | |||||||
八木村の一部 | |||||||
香取郡 | 下桜井村 | 豊里村 | 豊里村 | 昭和30年2月11日 銚子市に編入 | |||
富川村 | |||||||
下森戸村 | |||||||
諸持村 | |||||||
宮原村 | |||||||
東笹本村 |
政治[編集]
政策[編集]
次世代エネルギー産業[編集]
銚子市は2021年(令和3年)2月16日に「ゼロカーボンシティ銚子」を宣言し、銚子電力・銚子市・Looopの協働による官民連携で再生可能エネルギーの地産地消を推進し、2050年までに温室効果ガス排出実質ゼロを目指すことを表明した[47]。
銚子市では2021年(令和3年)に開校した銚子市立銚子西中学校への「銚子ウィンドファーム」を主とする実質再生可能エネルギー100パーセント電力の供給を行っており、今後の計画として、地域循環型スマートコミュニティ構築による自然災害に対するレジリエンス強化や2035年(令和17年)までの市内全公共施設の二酸化炭素排出係数ゼロ化等が挙げられている[28]。
銚子市沖は再エネ海域利用法に基づき国が大規模な洋上風力発電開発を認めた促進区域であり、2021年(令和3年)12月には三菱商事を中心とする「千葉銚子オフィシャルウィンド」が事業者に決定し、環境や漁業への影響調査等を経て、2025年(令和7年)から約56キロメートルの送電線敷設等の陸上工事に、2027年(令和9年)から風車設置等の洋上工事に着工し、2028年(令和10年)9月に39キロワットに及ぶ設備が稼働を開始する見込みとなっている。促進地域に最も近い名洗港は千葉県がメンテナンス拠点港湾としての活用を目指して、係留施設建設や埠頭用地造成等、機能強化に向けた整備を開始している[48]。
銚子市は銚子商工会議所・銚子市漁業協同組合と共同出資でメンテナンス会社である「銚子協同事業オフショアウインドサービス」を設立しており、市内企業のメンテナンス関連産業参画のための基盤整備や名洗港への金属加工業等の企業集積支援、メンテナンス人材の育成、更には新たな景観資源としての活用による交流人口・関係人口増加等に取り組み、次世代エネルギー産業の先端都市としての発展を目指している[49][50]。
ワーケーション[編集]
銚子市は2016年(平成28年)度から全国10自治体を対象とした総務省「お試しサテライトオフィスモデル事業」に取り組み、企業・起業家の誘致による地域経済の活性化を図るため、主に都市部のベンチャー企業・IT企業を対象に豊富な地域資源、地場産業と都心からのアクセス利便性を活用したサテライトオフィス環境の整備を行った。市街地だけでなく観光地における施設を活用した無料コワーキングスペースを提供し、開発合宿体験事業や観光体験事業等も併せて実施した。同年には銚子市企業立地等促進事業補助金を創設している[51]。
独自性の高い地域資源とそれを運営管理する地元団体を巻き込んでお試し勤務の誘引を行ったこと、企業誘致活動及び当該活動で培った行政と都市部企業の個別ネットワーク等を最大限に活用したこと、SNSを駆使してお試し勤務の状況をリアルタイムに配信する他、地元事業者とUJIターン者のマッチングを促す特設サイトを構築する等、デジタル的なアプローチを充実させたことから順調に勤務企業数を伸ばし、2社のサテライトオフィス進出企業を確保している[51]。
市役所[編集]
- 銚子市役所:〒288-0047 銚子市若宮町1-1
銚子市役所庁舎は1972年(昭和47年)の銚子市庁舎建設審議会の答申を受け、市街地ほぼ中央の銚子醤油工場跡地を買収して1973年(昭和48年)に着工、1975年(昭和50年)に開庁した。設計整理は山下設計、施工は清水建設及び熊谷組共同企業体が担当した[31]。
新庁舎の建設に当たっては、市民の利益を本位とする市民サービスセンターとして、市民から親しみをもって利用されることが建設の重点に置かれた。新庁舎は鉄筋コンクリート造地上8階地下1階建で、庁舎棟、議会棟、付属棟から構成され、特に庁舎棟下層階への市民窓口の集中と模写電送装置・コンピュータの導入により、事務処理の合理化とスピード化が図られた。庁舎棟1階には各種相談の窓口として市民相談センターが設置され、議会棟1階には市民との対話の場として約200人を収容する市民ホール、展示ホールが設けられた。最上階の8階には市民の憩いの場としてスカイラウンジ(喫茶スペース)が設けられた。市議会議場を始め議会関係の室は議会棟の2・3階に配置され、傍聴席の他に市民ホールにモニターテレビを設置して市議会の傍聴者が多数の場合の便宜を図っている[31]。
情報通信技術の飛躍的発展に対応して、1998年(平成10年)度には「銚子市行政情報化推進計画」が定められ、2000年(平成12年)度には第二次計画が策定されて、職員1人パソコン1台の配備、庁内LAN及びインターネット接続等による通信ネットワークの整備、情報システムの整備、庁内情報データベースの整備、行政情報や各種申請等様式の電子的手段による提供等が進められた。対外的には1997年(平成9年)からインターネット上に銚子市ホームページを開設している[31]。
出張所[編集]
出張所は、市町村がその権限に属する事務を分掌させるため、必要な地に設ける出先機関であり、銚子市においては2か所の出張所が設けられている。
- 銚子市役所豊里出張所
1955年(昭和30年)の豊里村合併に際して旧豊里村役場に設置された。1984年(昭和59年)からは同跡地に新設された豊里地区コミュニティセンター内で執務することとなった。
- 銚子市役所豊岡出張所
1956年(昭和31年)の豊岡村合併に際して旧豊岡村役場に設置された。1985年(昭和60年)に同跡地に新設された豊岡農村婦人の家において執務を開始し、その後2019年(平成31年)に銚子市地域交流センター(現・銚子市ジオパーク・芸術センター)内に移転した。
行政計画[編集]
銚子市では1966年(昭和41年)に初の自主的・総合的な行政計画として「銚子市長期計画」を策定した。1969年(昭和44年)に地方自治法の改正により市町村における基本構想の策定が制度化され、銚子市では1973年(昭和48年)に、市民福祉の増進を目的に、東総地域における近代的な中核都市として「住みよい豊かな文化・産業都市」を将来像とした初の基本構想を策定した。以後、銚子市は将来を見通した行政運営のため、基本構想を策定し、これをもとに5ヶ年の基本計画を決定し、3ヶ年の実施計画を毎年見直し補正するローリング方式により、予算編成との整合を図って政策的事業の総合的・計画的推進を期している[31]。
- 銚子市長期計画(1966年3月策定)
- 銚子市基本構想(1973年6月策定)
- 銚子市基本計画(1973年6月策定)
- 銚子市第2次基本計画(1978年3月策定)
- 銚子市総合計画基本構想(1985年6月策定)
- 銚子市新総合計画基本計画(1986年2月策定)
- 銚子市新総合計画第2次基本計画(1990年3月策定)
- 銚子市新総合計画第3次基本計画(1995年2月策定)
- 銚子市総合計画基本構想「銚子ルネッサンス2025」(2000年12月策定)
- 銚子市総合計画「銚子ルネッサンス2025」第1次基本計画(2001年3月策定)
- 銚子市総合計画「銚子ルネッサンス2025」第2次基本計画(2007年11月策定)
- 銚子市総合計画基本構想・基本計画(2019年3月策定)
市長[編集]
市長は1933年(昭和8年)2月11日の市制施行後1943年(昭和18年)までは、市制に基づいて市会において選挙することになっていたが、同年同法の改正が行われて、市会が内務大臣に候補者を推薦し、内務大臣が勅裁を経てこれを選任することに改められた。次いで1946年(昭和21年)に更に市制の改正が行われて、選挙民が直接選挙する公選制となった。第1回の公選が行われたのは1947年(昭和22年)である。市長公選制はその後地方自治法に受け継がれている[31]。
- 歴代市長
市制施行以来の歴代市長は以下の通りである。
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行政組織[編集]
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財政[編集]
銚子市では、七次にわたる「銚子市行政改革大綱」を策定し、経常的経費の圧縮節減を行政改革の重点項目として推進している。2013年(平成25年)からは銚子市行財政改革審議会を新たに設けて歳出削減策を加速させ、公債費償還が増大していた市財政の健全化を図った。一方で投資的経費に充てるための歳入確保が困難であったことから、普通建設事業費の抑制傾向が続いた。
- 銚子市の財政状況(令和2年度)
- 会計別予算額
- 一般会計 276億2800万円
- 公営企業会計(3会計) 69億3100万円
- 特別会計(3会計) 144億6600万円
- 一般会計当初予算
銚子市の財政力指数は0.62であり、香取・海匝地域で最も高い[55]。
広域行政[編集]
海匝地域では、銚子市・旭市・匝瑳市の3市が広域市町村圏として東総地域広域市町村圏が設定され、同広域市町村圏事務組合が設けられている。この事務組合では、1971年(昭和46年)7月の設立以来、三次にわたる広域市町村圏計画(基本構想・基本計画・実施計画)を策定し、職員の統一共同採用試験・共同研修の実施、首長・議長合同協議会(東総サミット)の開催等が進められた。1990年(平成2年)9月には地域の自立的発展が見込まれる圏域として県内では唯一、ふるさと市町村圏のモデル地域に指定されたのを受け、ソフト事業を中心とした地域振興事業を実施し、圏域の一体的発展を図っている[31]。銚子市は広域行政面での取り組みには実績が少なかったが、地方分権とあわせて広域連合等の活用による広域行政の積極的な推進が求められる中で、銚子連絡道路をはじめとする広域道路網の建設促進、広域ごみ処理施設整備及び運営事業等の取り組みがなされている。
1989年(平成元年)5月には、利根川下流域市町の共同課題の解決と一体的な地域振興を図るため、利根川下流域首長会議(利根川サミット)が結成され、県境を越えた流域圏として、利根川新橋の建設促進をはじめ、広域道路網の整備、観光ルートの設定、河川敷の有効活用、利根川の水質浄化等の課題への取り組みが進められ、2000年(平成12年)には同圏内を結ぶ銚子新大橋有料道路開通が実現した[31]。
名誉市民[編集]
銚子市名誉市民は、1956年(昭和31年)1月12日施行の「銚子市名誉市民条例」に基づき、本市の市民又は本市の関係者で広く社会文化の興隆に功績が卓絶であった者の功績をたたえるとともに市民の社会文化興隆に対する意欲の高揚を図るための顕賞制度である。名誉市民は市長が市議会の同意を得て推挙し、推挙された者には銚子市名誉市民の称号を贈られ、その事績を市広報に登載し、名誉市民台帳に登録して終身その名誉を保有せしめ、名誉市民章を贈る。この他、市の公の式典への参列、死亡の際における相当の礼をもってする弔慰等の待遇がある[31]。
- 濱口梧洞(ヤマサ醤油株式会社社長・会長)
- 今井健彦(衆議院議員8期、農林参与官、商工政務次官等を歴任)
- 嶋田隆(銚子市長連続7期在任)
- 赤桐操(参議院議員連続4期、同院地方行政委員会委員、懲罰委員会委員長、参議院副議長等を歴任)
- 安藤勇(千葉県議会議員連続7期、千葉県議会議長等を歴任)
- 西川照幸(民生委員児童委員、保護司、人権擁護委員、調停委員、司法委員、社会福祉協議会会長等を歴任)
- 弦哲也(作曲家、公益社団法人日本作曲家協会会長、一般社団法人日本音楽著作権協会会長)
銚子市民憲章[編集]
1970年(昭和45年)3月市議会定例会において、市民から募集した草案98点からの入賞作品を基に作成した「銚子市民憲章」が市長から提案された。この議案は満場一致をもって可決され、同年4月1日からの施行となった。提案理由は、銚子市民であることの誇りと自覚を持ち、銚子市将来の目標をかかげ、これを実践し、健康で明るい文化都市を築くため、というものであった[31]。
- 銚子市民憲章
- 洋々とした大海原、雄大な流れの利根川。漁業の町として、祖先のたゆまぬ努力によって栄えてきたわが銚子市は、あらたに近代都市として、力強くはばたこうとしています。わたくしたちは、この美しい郷土を守り育て、市民として誇りをもって生活できるようにするために、わたくしたちの願いをこめて、この憲章を定めます。
- 1 仕事をたいせつにし、明るく元気に働きます。
- 1 老人やこどもをいたわり、人に親切にします。
- 1 自然を愛し、町をきれいにします。
- 1 教養を高め、心を豊かにします。
- 1 力を合わせ、交通安全につとめます。
都市宣言[編集]
都市宣言は、我が国の高度経済成長に伴って生じてきた様々な問題を提起し、目標を掲げて、行政と市民の連携と力の結集によって対処しようとするものであり、銚子市においては1962年(昭和37年)以降、7つの都市宣言を行っている。
- 交通安全都市宣言(1962年1月9日)
- 精神衛生都市宣言(1963年2月25日)
- 公害追放都市宣言(1970年9月22日)
- 青色申告都市宣言(1976年12月25日)
- 非核・平和都市宣言(1984年9月14日)
- 産業廃棄物最終処分場設置反対・不法投棄しないさせない都市宣言(1995年6月29日)
- 健康スポーツ文化都市宣言(2006年12月21日)
銚子市紋章[編集]
銚子市紋章は市制施行を記念して、紋章図案を懸賞募集し、応募総数1127点の中から最終決定し、1934年(昭和9年)1月15日に市会の議決を経て、同日告示された。制定にあたっては、銚子市は本邦東端に位置し、旭日仰ぐは最も早く、即ち市の発展性は旭日と共に力強く、その増大を意味して紋章は之を象徴することとし、旭日を中心にその周囲を丁四(銚子)にて輪郭図案化せるものなり、とされた[31]。
銚子市歌[編集]
銚子市歌は懸賞募集し応募総数267点の中から三軒町山崎晋道作詞を一等として採用し、1936年(昭和11年)1月27日に市会議決のうえ、同日告示第2号をもって告示された[31]。
- 銚子市歌
- 1 阪東太郎洋々と 太平洋にそそぐところ 四季に絶えせぬ海の幸 市民の意気はさかんなり 銚子、銚子、吾等の銚子
- 2 潮花咲く磯つづき 観光の美に富めるところ 犬吠埼の灯台は 文化の光世を照らす 銚子、銚子、吾等の銚子
- 3 遠く元和の昔より 醤油の香の匂ふところ 水産業の発展は 伸びゆく力世に示す 銚子、銚子、吾等の銚子
銚子市の木・花・魚[編集]
銚子市の木は「サザンカ」、銚子市の花は「おおまつよいぐさ」、銚子市の魚は「イワシ」である。いずれも市制施行を記念し、銚子市の風土に適し、市のシンボルにふさわしく、市民に愛される木・花・魚として市民投票を経て選ばれたものである。
- サザンカ(1983年2月11日指定)- 花木として庭園に多く植えられ、品種は多種で一重・八重、色も淡紅・濃紅・白等がある。塩害に強く、花は晩秋から初冬にかけて咲き、市民に親しみ深い木である。
- おおまつよいぐさ(1983年2月11日指定)- 鮮やかな黄色の花が夕方に開き、銚子では夏の海辺の風物詩である。竹久夢二の「宵待草」の詩のゆかりもあって、市民投票で最も人気が高まった花である。
- イワシ(2003年2月11日指定)- 全国屈指の水揚量を誇り、銚子で水揚げされる魚の約半数を占めている。小さくてもみんなで力を合わせて生きているというイメージから、銚子のシンボルにふさわしい魚として指定された。
マスコットキャラクター[編集]
- 銚子100年マスコットキャラクター「超Cちゃん」
「銚子」の「銚」と、「超越」の「超」をかけ、様々な問題を跳び「超えて」発展する銚子のイメージと、キャラクターの形から名付けられた。デザインに関しては、銚子の「C」、初日の出をモチーフに、太平洋の波・白亜の犬吠埼灯台を組み合わせ、海と自然いっぱいの街づくりをイメージしている、とされた[56]。
議会[編集]
銚子市議会[編集]
市町村議会の選挙区は、その市町村の区域であり、銚子市では全市1選挙区である。
- 定数:18名
- 2019年(令和元年)5月1日〜2023年(令和5年)4月30日
- 議長:地下誠幸(ぢげまさゆき)市民クラブ、3期
- 副議長:石神嘉明(いしがみよしあき)新和会、1期
会派名 | 議席数 | 議員名(◎は代表) |
---|---|---|
市民クラブ | 5 | ◎石上允康、岩井文男、地下誠幸、鎌倉金、大野正義 |
新和会 | 4 | ◎野平仁人、石神嘉明、宮崎光子、桶谷範幸 |
新風 | 2 | ◎石上友寛、池田健一 |
みらい | 2 | ◎釜谷藤男、広野恭代 |
公明党 | 2 | ◎桜井隆、加瀬栄子 |
リベラル | 1 | ◎加瀬庫藏 |
日本共産党 | 1 | ◎笠原幸子 |
緑の会 | 1 | 工藤忠男 |
※2021年6月1日現在
千葉県議会[編集]
都道府県議会の議員の選挙区は郡市の区域によって定められているが、銚子市は香取郡東庄町と共に1つの選挙区をなしており、その定員は2人である。
- 選挙区:銚子市・香取郡東庄町で一つの選挙区をなす。
- 定数:2名
- 任期:2019年(平成30年)4月30日 - 2023年(令和5年)4月29日
- 2015年、2019年と無投票。
- 2021年7月より、信田光保県議、千葉県議会議長
氏名 | 会派名 |
---|---|
信田光保 | 自由民主党千葉県議会議員会
当選回数 5期 |
宮川太 | 自由民主党千葉県議会議員会
当選回数 1期 |
※2020年10月1日現在
国会[編集]
衆議院議員は、小選挙区選出議員と比例代表選出議員に分かれている。小選挙区については、銚子市は、香取市、成田市、旭市、匝瑳市、香取郡、山武郡横芝光町(旧匝瑳郡光町域)の各郡市と共に5市4町で構成される千葉県第10区に属し、定員は1人である。比例代表制については千葉県・神奈川県・山梨県の3県で南関東ブロックとなっており、定員は22人である。
参議院議員は比例代表選出議員と選挙区選出議員とに分けられ、前者は全都道府県の区域すなわち全国1区で、後者は1県1区の各選挙区において選挙する。千葉県選挙区の定員は6人である。
- 衆議院
- 任期:2021年(令和3年)10月31日 - 2025年(令和7年)10月30日(「第49回衆議院議員総選挙」参照)
議員名 | 党派名 | 当選回数 | 備考 |
---|---|---|---|
林幹雄 | 自由民主党 | 11 | 選挙区 |
谷田川元 | 立憲民主党 | 3 | 比例復活 |
国家機関[編集]
国家機関[編集]
県政機関[編集]
- 千葉県海匝健康福祉センター(海匝保健所)
- 千葉県銚子児童相談所
- 千葉県銚子土木事務所
- 千葉県銚子水産事務所
- 千葉県銚子漁港事務所
- 千葉県水産総合研究センター銚子分室
- 千葉県北総教育事務所東総研修所
- 千葉県旭県税事務所銚子支所
経済[編集]
銚子市は水揚数量が全国1位の銚子漁港を擁し、漁業・農業の生産力とあわせて水産関連・醤油その他各種製造業の立地・集積が進み、国内有数の食品産業都市となっている[31]。各産業の性質上景気の影響を直ちに受ける度合いは少なく、安定した経済基盤を有している[31]。観光資源も豊富で、年間約250万人が訪れる観光都市となっており、観光もまた産業の一部門として銚子市経済の一端を支えている。2018年(平成30年)度の産業別就業者では、第一次産業に10.7パーセント、第二次産業に28.5パーセント、第三次産業に58.4パーセントが従事している[57]。
企業[編集]
銚子市に本社・本店を置く主な企業[編集]
漁業[編集]
漁業は銚子市の経済を根本的に支える基幹産業である。銚子市沖には水深200メートルの大陸棚が広がり、北からの親潮(寒流)、南からの黒潮(暖流)が交錯し、また利根川からの有機物を含んだ真水の流入等により、全国屈指の好漁場が形成され、我が国三大漁場の一つである。漁業種類も網漁業・延縄漁業・釣り漁業と多種類で、銚子漁港は水産物の一大物流加工拠点である総合漁業基地として大きく飛躍してきた。銚子漁港に所属する在籍船数は大小合わせ300数隻程おり、代表的漁業は、まき網漁業をはじめ、沖合底曳、カツオ・マグロ延縄漁業、大目流網、小型底曳、一本釣り延縄等であり、銚子市沖合を主漁場として沿岸・沖合漁業が周年操業されている[31]。
銚子漁港の2021年(令和3年)度の水揚高は、数量約28万トン(全国1位)、金額272億円(全国4位)である。主要な魚種はサバ、マイワシ、サンマといった多獲性魚の他に、カツオ、マグロ等の回遊魚、キンメダイやヒラメ、カレイ等の底魚等であり、200種類に及ぶ近海の魚介類が水揚げされる。水揚数量の約91パーセントはマイワシ(58.0パーセント)、サバ(32.7パーセント)が占め、水揚金額においてもこの2魚種が全体の約65パーセントを占める。銚子漁港に水揚げされる全てのマグロは冷凍ではなく生マグロという大きな特徴がある。また5〜7月のマイワシは「入梅イワシ」と呼ばれ、特に太って丸みがあり1年の中で最も脂の乗りがよいことが知られている。この他、小延縄型船による立縄漁業で漁獲しているキンメダイは「銚子つりきんめ」として千葉ブランド水産物第1号に認定されており、ブランド力の向上と資源管理を図っている[58]。
水揚数量の約90パーセントが大中型の旋網漁業によるもので、これらの漁船の多くは地元以外の廻船であり、地元漁船は底曳網漁業等が中心である。廻船による銚子漁港の水揚げは銚子市経済にとって重要な位置を占めており、銚子市漁業協同組合は市から補助を受けて、廻船誘致対策事業として船籍漁協訪問、新規漁船の入港誘致、入港漁船や廻船乗組員へのサービス提供等を行っている[31]。
- イワシ - 2002年(平成14年)度水揚量全国1位
- サバ - 2002年(平成14年)度水揚量全国1位
- サメ - 2002年(平成14年)度水揚量全国3位
- アジ類 - 2002年(平成14年)度水揚量全国4位
- サンマ - 2002年(平成14年)度水揚量全国4位
- メヌケ - 2002年(平成14年)度水揚量全国5位
- マグロ - 2002年(平成14年)度水揚量全国6位
- その他、カツオ、ヒラメ、ホウボウ、キンメダイ等。
海面漁業[編集]
銚子市の漁業種類は、海域で行われる海面漁業と河川・湖沼で行われる内水面漁業とに大別されるが、銚子市の漁業は海面漁業が主である。2018年(平成30年)の漁業センサスでは、海面漁業経営体が106経営体で、うち個人で営んで いるものが97経営体、会社が営んでいるものが8経営体、漁業生産組合で営んでいるものが1経営体で、漁業種類別経営体では、沖合底曳網漁業が2経営体、小型底曳網漁業が6経営体、大中型旋網漁業が6経営体、刺し網漁業3経営体、サンマ棒受網漁業4経営体、延縄漁業13経営体、釣り漁業70経営体、採貝・採藻4経営体、その他の漁業9経営体である[58]。
内水面漁業[編集]
銚子市における内水面漁業は主に利根川における漁業である。養殖用ウナギの稚魚であるシラスウナギ漁(12月〜4月漁期)を中心に行われており、全国有数の水揚げ量となっている[58]。
漁港[編集]
銚子漁港は近世において東廻り海運と利根川水運の中継港として発展した銚子港すなわち商港がその始まりであった。明治期に入り、商港の機能が失われて漁港へと転換していったものである。この利根川の河口港を近代的な漁港として整備し、銚子発展の基盤とするため、銚子漁港修築促進運動が台頭したのは大正期であった。全町を挙げての運動が奏功して、1925年(大正14年)に第一期の漁港修築工事が開始された。以来、戦後の第三次漁港整備計画からは毎年継続して銚子漁港整備事業が実施され、我が国有数の規模と機能を有する特定第3種漁港として、太平洋に臨む外港とそれに続く内港を具備する巨大漁港となっている。川口・黒生地区には漁港の機能施設として公共施設用地が埋立造成され、計画的に水産物産地流通加工関係施設が建設されている[31]。
外川漁港は、江戸時代明暦年間に銚子に移住した紀州人崎山次郎右衛門によって開発された。大正時代に至るまでこの漁港は外川地区の漁業基地として大きな役割を果たしてきたが、漁船が動力化し大型化してきたことから、1922年(大正11年)以後、高神村が、後に銚子市が漁港改修を進めた。しかし外洋に直面して漂砂堆積が著しかったため、漁業協同組合、地元住民等が県営移管と国の漁港整備による改修促進運動を進めた結果、1969年(昭和44年)に県営移管と第四次漁港整備計画への組み入れが実現し、以後漁港修築事業が進められた[31]。
ブランド[編集]
- 銚子つりきんめ
2006年(平成18年)に「千葉ブランド水産物認定制度」第1号に認定されている銚子つりきんめの漁場は、銚子市沖合約50キロの太平洋で、日本近海のキンメダイの生息地の北限である[58]。魚体を傷めないため、底立て縄と呼ばれる手釣りで漁獲され、周年脂ののりの良いことが特徴である[58]。2018年(平成30年)開催の「第6回Fish-1グランプリ」のプライドフィッシュ料理コンテストでは、銚子つりきんめ煮炙り丼がグランプリを受賞した[58]。
銚子市漁業協同組合[編集]
漁業協同組合は、市町村やその内の一定地区を単位とする一般通常の組合を地区漁業協同組合と称し、銚子市では1996年(平成8年)9月に銚子地区6漁協と呼ばれた銚子市・銚子市黒生・銚子市外川・銚子市西・銚子市川口・千葉県小型機船底が合併して、銚子市漁業協同組合が設立された。漁業協同組合が行う主な事業は、組合員への資金貸付、貯金等の受入、物資の供給、共同利用施設の経営、漁獲物の運搬・加工・保管・販売等である。漁業権の管理も主要な漁業協同組合の事業であり、知事の許可を受けた漁業権行使規則又は入漁権行使規則によってその管理を行う[31]。
水産ポートセンター[編集]
水産ポートセンターは、千葉県はもとより我が国を代表する水産都市銚子にふさわしい水産と観光を結びつけた新施設として、1991年(平成3年)6月23日にオープンした。千葉県の「ふるさと千葉5カ年計画」に基づいて、県が事業主体となる銚子ポートタワーと水産関係公共施設、第三セクターによる水産物即売センターウォッセ21の3種の施設が銚子漁港を展望する高台に建設された[31]。
水産関係機関[編集]
- 千葉県水難救済会銚子市救難所
- 千葉県銚子水産事務所
- 千葉県銚子漁港事務所
- 千葉県水産総合研究センター銚子分室
農業[編集]
銚子市は肥沃な土壌と夏涼しく冬暖かい海洋性気候、東京から100キロメートル圏内という地理的な利便性を生かし、千葉県内有数の農業都市となっている[59]。
春キャベツと春ダイコンの作付面積は全国1位を誇り[59]、京浜地帯や京葉地帯等、首都東京を中心とする周辺都市への生鮮野菜の供給基地に位置づけられている[31]。銚子市の総耕地面積は2540ヘクタールで、うち水田面積は545ヘクタール、畑地面積は1990ヘクタールと約80パーセント近くが畑地であり、畑作中心の営農が展開されている[59]。
土地改良事業により畑が増加傾向にある反面、水田が減少し、また灌漑排水事業により施設園芸が増加し、安定した農業経営の条件が整ってきている[31]。販売農家戸数は1007戸で、うち専業農家が560戸、第1種兼業農家が300戸、第2種兼業農家が147戸となっており、専業農家率は55.6パーセントで千葉県平均の30.6パーセントを大きく上回り、千葉県内トップである。農業産出額は千葉県内トップクラスの268億円で、その内訳は野菜が152億円で全体の57パーセントを占め、次いで畜産が110億円、米が4億円となっている[59]。
産出額の高い主な品目はキャベツ、鶏、卵、ダイコン、ブタ等である。その他、メロン、スイカ、イチゴ、ニンジン、枝豆等多品目の野菜が栽培され、夏秋期の収入確保に青パパイヤの産地化へ向けた取組もなされている。6次産業化による付加価値生産事業者は少なく、今後期待される食品加工産業分野である[59]。
農家1戸当たりの経営耕地面積は230ヘクタールで、経営耕地面積別経営体数では300戸以上の農家が全体の24パーセントに相当する245戸を占める。1戸あたりの栽培面積が増加し農地の集約化が進んだことで、最近20年で3ヘクタール以上の農家数が約2.5倍と大幅に増加していることから、経営規模拡大に対応した農業経営の効率化、労働力の確保、ICTの活用等による農業振興が目指されている[59]。
主要農産物[編集]
- キャベツ - 作付面積1908ヘクタール(2016年)
- ダイコン - 作付面積974ヘクタール(2016年)
- 水稲 - 作付面積471ヘクタール(2016年)
- ジャガイモ - 作付面積51ヘクタール(2015年)
- トマト - 作付面積51ヘクタール(2016年)
- メロン - 作付面積50ヘクタール(2015年)
- ニンジン - 作付面積26ヘクタール(2015年)
- スイカ - 作付面積22ヘクタール(2015年)
- イチゴ - 作付面積12ヘクタール(2015年)
- 落花生 - 作付面積7ヘクタール(2017年)
野菜指定産地[編集]
農林水産省による野菜生産出荷安定法および本法に基づき銚子市が指定された野菜[60]。
- キャベツ - 春キャベツと冬キャベツが指定されている。
- ダイコン - 春ダイコン・秋冬ダイコンが指定されている。
- トマト - 夏秋トマト・冬春トマトが指定されている。
農業団体[編集]
- ちばみどり農業協同組合銚子支店
- 銚子市農業委員会
工業[編集]
銚子市の製造業の中で最も市の経済を支える重要な位置を占めるのは、水産加工業と醤油製造業を双璧とする食品製造業である。2014年(平成26年)においては、事業所数の60パーセント、従業員数の80.76パーセント、製造品出荷額の90.02パーセントと大きな比率を占め[59]、国内有数の機能集積力を有する食品工業都市となっている。
製造品出荷額からみた食品製造業に続く業種は、飲料・飼料製造業、輸送用機械器具製造業、金属製品製造業、繊維工業、印刷・同関連業である。近年は発電業も盛んである。この他に、銚子市としての特色をもった伝統的な地場産業として、造船業、製網業、籐製品製造業等がある[31]。銚子市内では、内陸部の国道126号沿いの小浜工業団地18.2ヘクタール、名洗港内の臨海工業用地28.2ヘクタールが造成されているほか、銚子漁港外港部の川口・黒生地区に造成された埋立地には水産物産地流通加工センターが形成されている。
醤油製造業[編集]
銚子市の醤油製造は江戸時代初期に始まる古い歴史を有し、銚子市における主要産業の一つである。銚子市の醤油製造業の全国シェアは業界2位のヤマサ醤油と4位のヒゲタ醤油の大手2社を主に16パーセントを占め、銚子市内における企業としては別格の地位にある[31]。1980年代には製造品出荷額は400億円台であったが、1992年(平成4年)からは500億円を超え、2019年(令和元年)においては800億円台となっている。2019年(令和元年)度において、市内の171の製造事業所による出荷額等の約44パーセントが主に醤油を製造している3事業所によって生産されており、市内全出荷額等の約40パーセントを占める水産加工関係工業と共に銚子市工業の基幹である[61]。
関連加工品が多い醤油製造業では、つゆ・たれ等の醤油加工調味料の開発・改良が進められるとともに、うま味調味料やだし類も製造されている。つゆ・たれ類には、希釈用の濃縮つゆ、ストレートつゆ、めん類用つゆ、なべ物用つゆ・たれ、魚調理用つゆ・たれ、どんぶり物用たれ、めん類用スープ等がある。国民の食品嗜好や需要の変化に対応して、醤油製造業から発展して関連企業を独立させ、主につゆ・たれ類や水産物佃煮(瓶詰・パック詰)等を製造販売している[31]。
醤油の付加価値商品化も図られており、多種多様な製品が生産されている。銚子市内で生産される醤油は、主として濃口醤油と薄口醤油であるが、その種類は多岐に渡り、特に濃口醤油は家庭用に限ってみてもヤマサ醤油、ヒゲタ醤油の2社の商品は20種類を超えている。ヤマサ醤油は1992年(平成4年)、アメリカ合衆国オレゴン州に関連会社を設立し、工場を建設してアメリカ、カナダ、メキシコ等に製品出荷も行っている。この他、醤油製造会社では、蓄積された研究開発技術により核酸関連物質を利用した医薬品原料、食品添加物、化粧品原料、医薬品合成原料、研究用試薬、体外診断用医薬品、また、動物医薬用ワクチン、抗がん活性物質、抗ウイルス性物質、臨床検査薬、動物薬等の研究開発が進められている[31]。
水産加工業[編集]
銚子市における水産加工業は、全市の製造業のうち最も主要な位置を占めて、醤油製造業と共に銚子市工業の基幹をなしている。銚子市の水産加工品としては水産缶詰・瓶詰、海藻加工品、水産練製品、冷凍水産物、冷凍水産食品、その他の水産食料品、配合・単体飼料、有機質肥料等がある。冷凍水産物とは、水産物を原料として前処理をせずに凍結設備を使用して採ったままの姿で冷凍したものをいう。また、冷凍水産食品とは、水産物を原料として前処理を施したものや切身、開き、三枚おろし、すり身等に加工した後に冷凍し、凍結状態のまま包装したものを指す[31]。
戦後の水産加工業の特色は、その主力が肥料用のイワシ搾粕から養殖飼料用の冷凍イワシに替わったことであった。また、サンマ・サバ漁の発展に伴って、食用の一般加工品の原料が、イワシからサンマ、サバ、アジへと推移した。冷凍・冷蔵施設の普及・発展によって市外・県外・国外からの移入・輸入による原料の長期保存が年間均等操業を可能とし、更に最適時期の出荷までの製品の保存を可能にした。そしてこのことが水産加工業者による原料売買という新しい流通形態を生じさせ、製造業経営における商業的要素が大きくなった。原料の安定供給による年間均等操業と経営規模拡大とあわせ、機械導入による省力化が進み、コンベア、フォークリフト、自動選別機、自動軽量機、自動割裁機等が導入された[31]。
1970年代から水産加工機器の発達は著しく、大型加工場が多かった銚子市では冷凍・冷蔵施設の大型化が競って進められた。施設整備、経営近代化と原料の移入・輸入等により、水産加工機器の集積度では日本有数である。1980年代からは水産加工の原料魚を諸外国からの輸入によるようになり、原料として輸入魚のウエイトが高まる中で、1990年(平成2年)には銚子市の保税上屋許可が得られて、原料の入手流通の合理化が更に進められた[31]。国民の健康志向が高まる中で、食生活における水産物そのもの、また、家庭用の調理水産食品や外食用加工水産食品の需要の増加が見込まれており、銚子市では日本有数の機能集積力を活かし、水産加工業の更なる発展を目指すため、HACCP認証加工設備やISO対応工場を建設し、欧米の市場も視野に入れた販路拡大を目指している[59]。
2018年(平成30年)における銚子市の水産加工品の生産状況をみると、マイワシの水揚数量の36パーセントが生鮮、練製品、すり身、缶詰等の食用として、残り64パーセントが飼肥料として使用されている。サバは文化干し、フィレ、開干し、青切りが関東を中心に販売され、塩蔵サバは名古屋、大阪、京都、神戸等の関西方面の大都市への販売が多い。サバはタイ、ベトナム等の東南アジアやエジプト等のアフリカ地域に輸出されている[58]。
冷凍冷蔵業・製氷業[編集]
銚子市における戦後の冷凍冷蔵能力は、1947年 (昭和22年)に11工場であったが、1956年(昭和31年)に28工場へと増加し、その能力も製氷生産133.5トン、冷蔵6832トン、貯氷4006トンとなった。以後も水産加工業者による冷蔵庫の増設が進み、1980年代には冷蔵庫保有業者数は150業者、冷蔵能力は約15万トンとなり、飛躍的な普及拡大を遂げた[31]。
この中で新しい営業形態としての冷蔵業が盛んとなった。専業業者はなく、一般加工業者による兼業業務として行われている。主としてイワシ・サバ・サンマを加工原料・飼料用に自家の冷凍冷蔵庫に保存し、そのままの形で冷凍加工原料魚、冷凍飼料として出荷する。自家で冷凍するもののみではなく、他業者の冷蔵庫を利用する場合、既に冷凍済みのものを移入する場合は、市内の他業者が冷凍したもの等を買入れる場合がある。出荷先は、加工原料についてが市内業者で、市外でも銚子市近隣地であり、飼料については県外の養殖業者である[31]。2018年(平成30年)においては、冷凍冷蔵工場は69工場で全国3位、一日あたりの凍結能力は3402トンで全国15位となっている[58]。
氷は船積み用・鮮魚出荷用その他、水産業における必需品であり、製氷業は冷凍冷蔵業務とは別に専門業者、漁業協同組合、水産業者の製氷工場で行われている[31]。2018年(平成30年)の銚子市の製氷工場数は7工場、製氷能力日産778トン、貯氷能力8150トンである。銚子市漁業協同組合は、2001年(平成13年)度と2017年(平成29年)度に製氷工場を新設している[58]。
缶詰製造業[編集]
銚子市における缶詰製造の歴史は、1879年(明治12年)に行われたイワシ油漬缶詰の試験製造に始まったとされるが、企業としての缶詰生産は明治後期に本格化した。1906年(明治39年)のクジラの豊漁に刺激されたクジラ大和煮缶詰製造、その後、大正期にかけてクジラ以外の水産缶詰製造業定着を経て、昭和初期のイワシ豊漁に伴うイワシの大和煮・トマト煮、油漬製造の増加によって、銚子の缶詰事業は急激な発展を遂げた[31]。
戦後はサンマ、サバの大量水揚げと冷凍冷蔵設備の整備によって、主に国内向けのサンマ、サバ缶詰製造が盛んになった。1980年代半ばまでは、それまでのサバの豊漁と国内他地からの移入増加、イワシ水揚量の増加によって、輸出向けのサバ缶詰と多種多様な国内向け缶詰の生産が進んだ。しかし、この時期を過ぎると次第に円高傾向が強まって、輸出向けから国内向けへと販路の転換を迫られることとなり、水産缶詰製造業者は国内向け缶詰重視、他種兼業等の経営多角化を目指した結果、全体の約70パーセントが国内向け缶詰となった[31]。近年は再び輸出量が増加し、2013年(平成25年)には国内約50パーセント、 輸出約50パーセントとなっている。缶詰の製品としてはサバ、イワシ、サンマ、サケ等であり、原料魚は主に海外や他港からの移入によっている[58]。
肥飼料製造業[編集]
戦前の銚子市の主な水産加工品であった肥料イワシ、搾粕の生産は1950年代までに終わり、魚を中心とする飼料生産が行われるようになった。飼料製品は魚粕である。魚体全部又は缶詰・一般加工品製造の際の残滓を蒸煮し、圧搾して水分を除き、乾燥して魚粕を製造する。魚粕は魚粉(ミール)、更に配合飼料の原料となる[31]。
練製品製造業[編集]
銚子市の練製品製造業は明治中期から始まったとされる。昭和初期には業者数も増え、新製品開発も行われたが、終戦直後は統制経済と食糧事情の悪化により練製品需要が高まったため、さつま揚げを主にその生産は急増した。練製品とは、魚肉をすり身にして蒸したり焼いたり、油で揚げたりした食料品で、スケトウダラ等を原料とする。種類としては半片、蒲鉾、鳴門、小魚を使った揚蒲鉾、イワシ・サバ等を原料とするつみれ等である[31]。これら練製品は大部分が静岡以北の関東・東北各地へと出荷されており、大手デパートやコンビニエンスストアに卸売りされる[62]。おでん種としての利用が多いため、冬期の生産量が増加する[58]。
その他の加工業[編集]
- ふかひれ
ふかひれはサメの鰭を煮干しにしたものであり、市内に製造業者がある[31]。
- 佃煮類
佃煮類は銚子市では水産加工業者の範疇に入らない食料品製造業者によって製造されている。カツオ、サンマ、イワシ、マグロ、昆布等の佃煮が造られている[31]。
鉄工業[編集]
銚子の鉄工業は室町時代末期か江戸時代の鍛冶屋に源流があり、これが産業として近代化したのは明治以降の漁船の機械化、発動機船の普及を受けてのことであり[63]、漁船用内燃機関である焼玉エンジンの製造が盛んとなった。戦前は漁船用内燃機関の他、澱粉製造機械、醤油工場関係の機械及び農機具等が製作されており、北海道・東北から東海地方まで供給されていた。漁船エンジンのディーゼル化後は、市内の鉄工場の多くが大手機械メーカーに系列化に入り、その下請工場となった。1969年(昭和44年)には市街地から離れた小浜町に工業団地が造成され、鉄工場が進出して小浜工業団地を形成している[31]。
造船業[編集]
造船業は銚子市の特色ある地場産業の一つである。香取の海(利根川下流一帯)に面して船木部の故地であった銚子は、上代に造船の歴史をもつ関東最古の地である。周辺各所からは独木船が発掘されており、三方を海に囲まれた銚子地方の舟造りの技術は、起源は遠く石器時代に遡る。江戸時代から明治初年までは、10トン未満の手漕ぎ漁船が盛んに造られ、多くの船大工がいた。その多くは関西出身者、特に紀州や伊勢の船大工によって占められていた。このため造船所は全て小規模な個人企業であった[63]。
明治中期には機械船と称された大型船(20トン〜100トン)の建造が盛んになり、全国各地に造船業が興った。銚子では1911年(明治44年)に植松町の金田新治郎が大型漁船の建造に着手しており、これが銚子市における造船産業化の先駆をなしている。造船所は市内各所にあり、ちょき船や伝馬船のような小舟を除いては川岸や海岸の野天の砂浜にあった。東部地区では川口町・内浜町・飯沼町に多く、外川町・長崎町・黒生町にもあった。これらはいずれも漁船を造っていた。川船の造船所は西部地区にあり、中心地は野尻町であった。銚子では造船用の木材には、漁船・川船共に杉と欅が使われた。杉は船体の側面その他に、欅は骨組み等の構造材に使われていた。これらの木材は、戦前は香取郡や山武郡あたりで産出したものであり、船大工の間では、下総木は上総木よりも良いといわれていた。1960年代からはアラスカ産の輸入材が使われるようになった。1970年代には鋼船の造船所ができている。外川町の田村造船所では銚子市で最初の強化プラスチック船を建造した。強化プラスチック船が普及し始めると、鋼船以外の新船は強化プラスチックで造られるようになり、従来の木船の造船所は鋼船・強化プラスチック船に転換した[31]。
製網業[編集]
全国有数の漁港を擁する銚子には、それに附帯して漁労用の綱や網の製造が行われている。江戸時代には漁法も小規模であったので、その需要は女性の手編で間に合う程度であった。1884年(明治17年)、鎌倉長松によって漁業の副業として産業化されて、大正・昭和に至って急速に発展を遂げ、近県をはじめ遠く北海道・九州方面の需要にまで応じるようになった。最盛期の大正年代には大小の製網業社が設立された。戦後は規模や設備の近代化が進められている[63]。
発電業[編集]
銚子市で風力発電が開始されたのは2001年(平成13年)9月であり、銚子屏風ヶ浦風力開発株式会社が小浜町において風力発電機の運転を開始した。日本風力開発の関連会社により市内には34基の風力発電施設が稼働しており、その多くは1000キロワット以上の大型風車で、総出力は53560キロワットである。銚子市で風力発電が進められるようになったのは、地域における平均風速や風向等の風況が風力発電に適していること、台地上には工作物建築の規制が強い自然公園区域指定がないこと、既存の送・配電線との系統連系がよいこと等によるものとされている[31]。
2021年(令和3年)12月には銚子市沖が洋上風力発電の促進区域に指定され、三菱商事エナジーソリューションズ、三菱商事、シーテックを構成員とするコンソーシアム「千葉銚子オフショアウィンド」による31基の洋上風力発電機の建設計画が示されている。
- 銚子屏風ヶ浦風力開発
- 銚子屏風ヶ浦風力発電所 1,500キロワット機(1基)
- 銚子小浜風力発電所 1,500キロワット機(1基)
- 銚子風力開発
- 銚子風力発電所 1,500キロワット機(9基)
- 八木風力発電所 1,500キロワット機(6基)
その他の風力発電所は以下の通り。
- くろしお風力発電
- 銚子高田町風力発電所 1,990キロワット機(1基)
- 椎柴風力発電所 1,990キロワット機(5基)
- エムウインズ
- 銚子しおさい風力発電所 1,500キロワット機(2基)
- 堀江商店
- 銚子新町風力発電所 1,980キロワット機(1基)
- 台町自然環境エネルギー研究所
- 台町風力発電事業 640キロワット機(1基)
- 銚子ウィンドファーム
- 銚子ウィンドファーム 1,500キロワット機(7基)
商業[編集]
銚子市は香取・海匝地域最大の商業都市であり、銚子商圏を形成する単独商圏都市である[64]。銚子市の商業は、銚子漁港魚市場の仲買人による鮮魚の市外出荷すなわち卸売りを除けば、ほとんどが市民を中心とする一般消費者を対象とした小売業である[31]。卸売業はこれらの小売業に対する卸売り、あるいは市内の業者に業務用の原材料を売る卸売りであり、市外の小売業をも対象とする卸売業は醤油その他の食料品についてごく少数である。銚子市の商業の特徴の一つは人口に比較して商店数が多いことで、人口1000人あたりの銚子市の小売店数は県内1位、飲食店数は県内3位である[65]。このため総体的に商業の経営規模は小規模であり、零細な規模の商店が多いこともまた銚子市の商業の特徴となっている[31]。
銚子市は、江戸時代から利根川沿岸の商港を核とした流通拠点、飯沼観音の門前町として商業機能が集積し、戦後は銚子銀座、田中町、銚子駅前(双葉町含む)の3地区に小売店・飲食店が一体的に集積して繁華街が形成されてきた[31]。近年は郊外にロードサイド店舗が進出している。2010年(平成22年)にオープンしたイオンモール銚子は外房(海匝・山武・長生・夷隅地域)最大規模の大型ショッピングセンターであり、イオン銚子店を中心に、100の専門店や飲食店、映画館(シネマコンプレックス)等のアミューズメント施設を備えている。
商店街[編集]
- 銚子駅前通りシンボルロード
銚子駅前通り610メートルは、戦災復興土地区画整理事業によって建設され、地方都市としては例の少ない36メートルの広幅員道路として整備された。この道路をリゾート都市銚子の玄関口として、海・黒潮・港をイメージした「シンボルロード」に再整備することとなり、1988年(昭和63年)に銚子市が事業主体となって事業認可を得て、1989年(平成元年)度から1993年(平成5年)度まで、国庫補助事業として駅前・ポケット広場の整備、歩道の自然石舗装、電線類の地中化、濃青の黒潮カラーのストリートファーニチャーの設置、モニュメントの設置等を進めた。1997年(平成9年)にはアーチ型の商店街アーケードが新設された。銚子駅前商店街振興組合では、シンボルロードを利用したフリーマーケットを1994年(平成6年)以来定期的に開催している。また、銚子商工会議所青年部では、1999年(平成11年)から銚子駅前にツリー状のイルミネーションを設置し、毎年クリスマスから成人式までの時期に点灯している[31]。
- 銚子銀座通りココロード
銚子銀座通りは、漁港近く飯沼観音の門前町として古くから銚子市の中心的な商業地を形成しており、戦災後も都市計画道路本通馬場町線として整備されていた。しかし、市内の商業環境条件の変化に対応して、街路形態の改善と環境の整備により商店街の近代化と振興を図りたいとする要望が高まり、1990年(平成2年)度からの2か年継続で、銚子銀座商店街振興組合が事業主体となって、県・市の補助によるふれあい商店街近代化事業を進め、老朽化したアーケードの撤去、各店ごとのシェード設置、歩道の磁気性タイル舗装、電線類の地中化、モニュメント・植栽の設置、パーキングスペース10か所の設置等を実施した。通りの愛称は市民から募集して「ココロード銚子」と決められた[31]。商店街を取り巻く環境が厳しさを増している中で、銚子銀座商店街振興組合では、坂東三十三観音札所の門前町の賑わいを復活させるため、2011年(平成23年)から毎月第4日曜日に軽トラ市を開催している。
- 本通りマイロード
市道本通馬場町線のうち、既に完成したココロードとシンボルロードの中間にあたる中央町付近について、銚子市街の中心エリアを貫く交通軸としての道路整備が企図され、銚子市がマイロード事業認可を受けて1992年(平成4年)度に工事着手した。国庫補助を受けて、歩道の擬石平板・自然石舗装、車道舗装、街路灯・信号機の設置、植栽、電線類の地中化等を進め、1997年(平成9年)に完了した。この道路一帯はかつて利根川水運の港で飯沼観音に通じ、銚子みなとまつりの神輿巡幸の巡路となることから、みなと銚子のお祭り通りとして、特性を活かした個性ある道路整備に配慮がなされた。マイロードの完成によって、銚子駅前通り、本通り、銚子銀座通りが連結し、新しい銚子市の都市景観が整えられた[31]。
銚子商工会議所[編集]
法に基づく地域的な総合経済団体としての銚子商工会議所は、千葉県で最初の商工会議所として1936年(昭和11年)に設立認可されたが、戦時中の「商工経済会法」によって銚子商工会議所は解散して千葉県商工経済会が設立され、銚子市には県下で唯一の支部が置かれた。戦後に商工経済会は解散となり、1946年(昭和21年)に民法法人である社団法人銚子商工会議所が設立され、1953年(昭和28年)の新「商工会議所法」施行により翌年に同法に基づく法人として組織を改めている[31]。
商工会議所法は、地域内における商工業の総合的な改善発達を図り、兼ねて社会一般の福祉の増進に資することを商工会議所の目的とし、そのために行う事業を定めている。商工会議所事業のうち経営改善普及事業は最も重要なものであり、特に1950年(昭和25年)設置の中小企業相談所は、金融、経営等についての相談に応じて指導を行っている[31]。また、銚子商工会議所は地域総合経済団体として市経済の活性化と市勢発展のために重点目標を掲げて地域開発促進を図っており、2022年(令和4年)度においては、洋上風力発電の誘致による地方創生プランの調査研究及び提言、広域幹線道路の整備促進、中心市街地活性化の推進、地場産業の結集(農・漁・商・工・観連携)による6次産業化の推進、観光都市づくりの推進等を重点目標として諸事業への取り組みに当たった。
金融機関[編集]
銚子市には金融機関は地元信用金庫本店・6支店、地元信用組合本店・6支店、地方銀行支店4店、労働金庫1店の計18店があり、千葉県北東部における金融の中心都市となっている。また、ちばみどり農業協同組合及び東日本信用漁業協同組合連合会も金融機関として大きな役割を果たしている。
- 銚子信用金庫(本店・外川支店・本城支店・橋本支店・松岸支店・船木椎柴支店・清川町支店)
- 銚子商工信用組合(本店・新生支店・三崎支店・川口支店・愛宕支店・松岸支店・椎柴支店)
- 千葉銀行銚子支店
- 常陽銀行銚子支店
- 千葉興業銀行銚子支店
- 京葉銀行銚子支店
- 中央労働金庫銚子支店
- ちばみどり農業協同組合(銚子支店・海上支店・椎柴支店・豊岡支店・船木出張所・豊里出張所)
- 東日本信用漁業協同組合連合会銚子営業所
対外関係[編集]
姉妹都市・提携都市[編集]
クース・ベイ市(Coos Bay, Oregon, アメリカ合衆国オレゴン州)
クース・ベイ市はオレゴン州岸における人口集中地区で、温暖な気候と豊かな自然環境に恵まれている。産業面では農業、林業、水産業、商業及び観光が盛んであり、教育文化面でも短期大学の他図書館、美術館等を有し、全体的に調和のとれた都市である。1982年(昭和57年)10月に銚子市長が港湾施設等視察のため渡米した際にクース・ベイ市を訪問したことが契機となり、同年12月に市長から同市議会が姉妹都市協定締結の申し入れを決定した旨の書簡を受けた。クース・ベイ市の基幹産業が農業、水産業であり、漁港、港湾を有する等銚子市との類似点が多いことから、銚子市としても姉妹都市協定の締結を希望する旨を回答し、翌1983年(昭和58年)1月市議会臨時会で姉妹都市締結について提案し、満場一致の賛同を得た。同年2月10日、銚子市制施行50周年記念式典の席上、クース・ベイ市代表者の出席を得て、姉妹都市協定締結の調印式を行った。
レガスピー市(Legazpi City, フィリピン共和国アルバイ州)
レガスピー市はアルバイ州の州都で、人口15万人を超える港湾都市である。周辺地域特産のアバガ、ココヤシ製品がレガスピー港から世界中へ輸出されており、マニラ富士とも呼ばれる秀麗なマヨン山をはじめ、海浜、丘陵、河川等に恵まれた風光明媚な観光地としても有名である。1976年(昭和51年)2月、両市のロータリークラブの間で姉妹クラブ契約が締結され、交流が重ねられていく中で両市間での姉妹都市提携の機運が高まり、1985年(昭和60年)3月にレガスピー市議会が銚子市との姉妹都市提携を議決し、レガスピー市長から姉妹都市協定締結の申し入れがあった。両市の都市規模、産業形態が類似していることや、世界の平和を祈念して銚子市に建立された「日比友愛の碑」の斜塔がレガスピー市のマヨン山を指していること等から、同年6月27日市議会の議決を得て提携が成立した。
その他[編集]
1993年(平成5年)に結成された銚子ぽるとがる友好協会は、ユーラシア大陸西端のポルトガル共和国シントラ市のロカ岬とほぼ同緯度にある犬吠埼を姉妹岬として友好親善を深めることを深めることを目的に、銚子市制60周年と日本ポルトガル友好450周年を記念して、犬吠埼に犬吠埼・ロカ岬記念碑を建立し、その除幕式を1993年(平成5年)9月12日に行った。
また、銚子市は世界女子ソフトボール選手権大会における台湾チームの強化合宿をはじめ、東京オリンピック・パラリンピック競技大会における台湾のホストタウン登録、台湾野柳地質公園と銚子ジオパークとの観光交流・学術交流に関する協定締結、桃園市との友好交流協定締結等、多方面において台湾との交流を深めている。
施設[編集]
警察[編集]
銚子警察署は1878年(明治11年)に八日市場警察署銚子分室から銚子警察署として独立し設置された。1947年(昭和22年)11月には銚子市警察として発足し、翌年から機構・施設等が整備されたが、1954年(昭和29年)6月をもって廃止され、千葉県警察に移管となった。同年7月施行の新「警察法」により千葉県銚子警察署が発足し、1973年(昭和48年)4月には春日町の新庁舎に移転した。管轄区域は銚子市全域で、職員数は約100人である[31]。
銚子市の犯罪発生率は1.101パーセントで、千葉県内59自治体のうち48位であり、銚子市の治安は比較的良好である[66]。
警察署[編集]
- 銚子警察署(銚子市全域を管轄)
交番・駐在所[編集]
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消防[編集]
銚子市消防本部は1949年(昭和24年)1月施行の「銚子市消防組織条例」に基づいて銚子市役所内に設置された。その後、消防本部組織の拡充、消防職員の階級の改正・細分化、係制から課制への移行等が進められた。2017年(平成29年)には新庁舎が唐子町に完成し、消防本部・消防署を同所に移転した[31]。
常備消防は消防本部と消防署(分署含む)に大別され、職員113人、20台の消防車両をもって消防事務にあたる。消防本部は消防総務課及び予防課の2課15名で構成され、主に予算、人事、施設管理等の総務事務に加え、消防団事務や救急業務高度化推進に係る警防事務、並びに消防関係法令に基づく危険物規制事務や消防設備事務をはじめ専門的な事務を担当する。消防署は本署に消防隊、救助隊、救急隊を配置し、常備14人から17人の人員を確保して災害対応の中枢的な役割を担う。また、出先機関として2箇所の分署を設置している。消防団は最高責任者である消防団長の下、11分団、人員510人、ポンプ自動車等車両39台を配備している[59]。
本部[編集]
- 銚子市消防本部(銚子市全域を管轄)
消防署[編集]
- 銚子市消防署
- 東部分署
- 西部分署
消防団[編集]
- 第一分団 旧高神村及び潮見町地区
- 第二分団 旧本銚子町地区
- 第三分団 旧銚子町、旧豊浦村及び大橋町地区
- 第五分団 旧西銚子町地区
- 第六分団 旧海上村地区
- 第七分団 旧船木村地区
- 第八分団 旧椎柴村地区
- 第九分団 旧豊里村地区
- 第十分団 旧豊岡村地区
- 第十一分団 銚子市全域
医療[編集]
銚子市には開業医が多く、医師会員は約40名で、4つの病院と36箇所の診療所を経営している[67]。銚子市の休日当番医に参加している医療機関は約20で、その他夜間小児急病診療所や特定健診、その他の委員会等で活動しており、市における医療保健活動の中心的存在となっている[67]。役割としては、診療所では外来を中心とする初期診療や在宅診療を、病院は急性期病院の他、リハビリや療養を担うケアミックス病院、また老人保健等の介護事業を担っている[67]。
二次医療圏(二次保健医療圏)は香取海匝医療圏(管轄区域:香取地域・海匝地域)であり[68]、三次医療圏は千葉県医療圏(管轄区域:千葉県全域)である。
緊急告示病院[編集]
- 島田総合病院
- たむら記念病院
その他の病院[編集]
1951年(昭和26年)に銚子市立診療所が銚子市立病院と改められ、1984年(昭和59年)に新館が竣工し、銚子市立総合病院と改称された[31]。2008年(平成20年)に運営休止し、2010年(平成22年)に銚子市立病院として診療を再開した。指定管理者は一般財団法人銚子市医療公社である。
- 内田病院
- 兒玉病院
郵便局[編集]
直営郵便局[編集]
1872年(明治5年)7月、海上郡荒野村に荒野郵便取扱所として開設され、電信局と合併後1903年(明治36年)に銚子郵便局と改称し、特定三等郵便局、二等郵便局を経て1941年(昭和16年)から2007年(平成19年)の郵政民営化まで普通郵便局であった。1998年(平成10年)には新局舎が開局している[31]。
- 本通郵便局
- 銚子南町郵便局
- 銚子本町郵便局
- 銚子植松郵便局
- 銚子愛宕郵便局
- 外川郵便局
- 銚子本城郵便局
簡易郵便局[編集]
- 銚子余山簡易郵便局
- 銚子小浜簡易郵便局
図書館[編集]
- 銚子市公正図書館
銚子市公正図書館の前身は、1924年(大正14年)4月設立の財団法人公正会の活動拠点であった公正会館内に開設されていた図書館であった。この公正会館が1948年(昭和23年)3月に銚子市に寄贈された後、その1階にあった書庫・閲覧室の図書館部分が「銚子市公正図書館」として開館した。1983年(昭和58年)には市制施行50周年記念事業の一環として新築開館した[31]。2022年(令和4年)1月には、「銚子市電子図書館」がサービス開始となった[69]。
- 千葉科学大学図書館
2005年(平成17年)4月に開館した千葉科学大学の図書館新館。学生及び教職員の他、一般銚子市民も利用可能である[70]。
博物館[編集]
- 犬吠埼灯台資料展示館
犬吠埼灯台敷地内の灯台資料展示館。犬吠埼灯台の初代レンズ(フランス製・フレネル式第1等8面閃光レンズ)、同灯台設計建設指揮者のリチャード・ブラントンの資料、灯台の歴史、航路標識事業の紹介資料等を展示。
- ヤマサ醤油しょうゆ味わい体験館
ヤマサ醤油工場見学施設。醤油醸造の歴史・道具を展示する他、売店や体験コーナーが併設されている。ツアーでは原料サイロ、麹室、仕込蔵等の見学や醤油醸造過程のバーチャル体験ができる。
- ヒゲタ醤油史料館
ヒゲタ醤油工場内の史料館。醤油醸造の設備・道具・容器・博覧会受賞メダル、会社年表、製品200点を展示。醸造蔵内に描かれたフレスコ画の大壁画「天地人」が見学できる。
- 外川ミニ郷土資料館
銚子市外川の歴史、方言、民話資料の他、昔の漁師が使用した漁具、銚子で発掘された化石、万祝、絵葉書等を展示。
- 新国立劇場舞台美術センター
新国立劇場で主催公演したオペラ・バレエ・現代舞踊・演劇等の舞台模型、舞台衣装、小道具等の舞台関係・映像資料等の展示を行う。展示ホールでは新国立劇場の主催公演にあわせ、3か月ごとに舞台衣装の展示替えをし、また年に1回の企画展を行っている。
- 濱口陽三・渡辺学常設展示室
銚子にゆかりの深いメゾチント版画家濱口陽三の16点の版画作品と銚子出身の日本画家渡邉學の作品12点を市民センターに常設展示する。
文化施設[編集]
- 銚子市青少年文化会館 - 都市青年の家、児童文化センター及び市民会館という3機能の総合施設として1971年(昭和46年)に開館した。市民会館としての主要施設は、劇場としての本格的な設備を持つ大ホールである。青少年のための社会教育施設であると共に、一般市民利用のための貸会場の性格もあわせ持つ文化会館であり、銚子市における芸術文化の中心施設となっている。
- 市民会館 - 地域の芸術文化の向上を目的とし、各種舞台芸術の鑑賞並びに音楽、演劇、舞踊等の発表の場として、また市民の集会の場としても活用できる施設である。
- 児童文化センター - 少年に対し科学知識の普及、実験実習の場の提供、情操の涵養、生活指導等を行い、健全な自発的活動の促進を図るための施設で、ホール・科学展示室・展示室・工作室・郷土資料室・天文台・プラネタリウム室等の設備がある。
- 都市青年の家 - 都市の青少年の日常生活に即した交友と研鑽の場を提供し、青年の研修・団体活動の助長を図るための施設で、会議室・談話室・学習室・実験実習室・視聴覚ライブラリー室・調理室・和室・プリント室等の設備がある。
- 銚子市市民センター
2001年(平成13年)に公民館機能を中心に生涯学習や地域コミュニティ活動の拠点として開設し、会議室、和室、調理実習室、企画展示室、常設展示室、プレイルームの他、約300人収容の多目的ホール、防音の音楽広場、スタジオ、マルチメディアスペース、陶芸等を行う創作棟を備える。
- 銚子市ジオパーク・芸術センター
2019年(平成31年)に銚子市地域交流センターとして開設。銚子の自然・産業・歴史・考古学・ジオパーク関係の資料、粟島台・余山遺跡出土品を展示する。企画ギャラリー、市民ギャラリー、市民アトリエ等も備える。
交流施設[編集]
- 銚子市勤労コミュニティセンター
市役所敷地内に所在し、市内一円の勤労者の福祉とあわせて近隣住民の利便に供する共同施設として1982年(昭和57年)に設置された。
- 地区コミュニティセンター - 銚子市には地区コミュニティセンター4館が整備されており、会議室、集会室、多目的ホール、調理室、和室等を備え、地域住民の自主的な学習や地域活動の拠点として利用しやすいように、地元に管理の一部を委託している。
- 銚子市中央地区コミュニティセンター
- 銚子市東部地区コミュニティセンター
- 銚子市海上地区コミュニティセンター
- 銚子市豊里地区コミュニティセンター
- 銚子市森戸農村広場やすらぎの家
- 銚子市親田農村広場やすらぎの家
- 青年館 - 銚子市は26館の青年館を有し、その全てについて管理の一部を地元町内会等に委託して円滑・有効な運営を図っている。いずれの青年館についても、地域における青少年健全育成や町内会、老人会、婦人会といった住民共同利用等、町内単位のコミュニティ活動の場として利用されている。
- 銚子市南町⻘年館
- 銚子市植松町⻘年館
- 銚子市本城町⻘年館
- 銚子市黒生町⻘年館
- 銚子市余山町⻘年館
- 銚子市春日町⻘年館
- 銚子市⻑塚町⻘年館
- 銚子市高神⻘年館
- 銚子市上野町⻘年館
- 銚子市三崎団地⻘年館
- 銚子市和田町⻘年館
- 銚子市海鹿島町⻘年館
- 銚子市浜町・田中町⻘年館
- 銚子市茶畑町⻘年館
- 銚子市三宅町⻘年館
- 銚子市大橋町⻘年館
- 銚子市三崎町⻘年館
- 銚子市常世田町⻘年館
- 銚子市海鹿島町⻄⻘年館
- 銚子市海鹿島町南⻘年館
- 銚子市東町・飯沼町⻘年館
- 銚子市柴崎町⻘年館
- 銚子市前宿町⻘年館
- 銚子市明神町⻘年館
- 銚子市犬若⻘年館
- 銚子市岡野台町⻘年館
- 集会所
- 栄町町内会集会所
- 後飯町町内会集会所
- ⻄部集会所
スポーツ施設[編集]
- 銚子市スポーツコミュニティセンター
- 銚子市体育館
- 銚子市野球場
- 銚子市庭球場
- 豊里台多目的スポーツ広場
公園[編集]
銚子市において、都市計画公園13園、都市公園12園、公園等施設11園である。都市計画公園は、戦災復興都市計画による街区公園8園及び近隣公園3園並びにその後都市計画決定された運動公園2園である。都市公園は、豊里台第一公園をはじめ街区公園9園、近隣公園1園、都市緑地1園及び風致公園1園で、都市計画決定しなかった公園である。また、その他の公園施設としては、1ヘクタール未満の小規模公園・広場8ヶ所、児童遊園3ヶ所、長塚町運動広場、夫婦ヶ鼻公園及び君ヶ浜しおさい公園がある[31]。
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保健・福祉施設[編集]
保健施設[編集]
- 銚子市保健福祉センターすこやかな学びの城
銚子市における各種健康診査・検診・保健指導等の保健福祉事業を実施する総合的・一体的な施設として整備され、2006年(平成18年)に開館した。
児童福祉施設[編集]
- 保育園・保育所
- 銚子市第二保育所
- 銚子市第三保育所
- 銚子市第四保育所
- 銚子市海鹿島保育所
- 銚子保育園
- 外川保育園
- 松岸保育園
- 銚子中央保育園
- 聖母保育園
- 東光保育園
- 萌保育園
- 地域子育て支援センター
- マンマ子育て支援センター
- ひまわり子育て支援センター
- えがお子育て支援センター
- 聖母マリア子育て支援センター
- その他
- 銚子市児童発達支援センターわかば
1959年(昭和34年)に精神薄弱児通園施設として銚子市立わかば学園が設置された。知的障害児童を毎日保護者のもとから通わせて保護すると共に、独立自活に必要な知識技術を与えることを目的とする。この施設の開設は、当時市立、都道府県立、国立を通じて全国で13番目であった[31]。1971年(昭和46年)に新園舎が完成した。2012年(平成24年)から児童発達支援センターとなり、2018年(平成30年)に銚子市児童発達支援センターわかばと改称した。2022年(令和4年)から指定管理者による運営に移行している。
障害者福祉施設[編集]
- 障害者就労継続支援B型事業所しおさい春日
- 障害者就労継続支援B型事業所しおさい三崎
- あおぞら三崎
- 猿田の丘なでしこ
高齢者福祉施設[編集]
- 銚子市老人憩の家・地域福祉センターこも浦荘
- 銚子市芦崎高齢者いこいセンター
- 特別養護老人ホーム松籟の丘
- 特別養護老人ホームさざんか園
- 特別養護老人ホームシオン
- 軽費老人ホームケアハウスマリンピア銚子
- 軽費老人ホームケアハウスかすが苑
- 軽費老人ホームケアハウス第2かすが苑
- 小規模多機能老人ホームかすが苑
- 介護老人保健施設なぎさ
- 介護老人保健施設とよさと
- マーク・ガーデン犬吠埼
その他[編集]
- 千葉県生涯大学校東総学園
高齢者に社会環境の変化に順応できる能力を再開発し、社会活動への参加を通じて生きがいに満ちた充実した生活が営めるよう、地域における高齢者福祉の増進を図るために千葉県が設置している。1978年(昭和53年)に北総学園として開校し、1991年(平成3年)に陶芸家教室が竣工、1993年(平成5年)からは校名が千葉県生涯大学校と、1995年(平成7年)には東総学園と改められた[31]。
教育[編集]
大学[編集]
- 国立
- 千葉大学海洋バイオシステム研究センター銚子実験場
- 私立
高等学校[編集]
- 県立
- 市立
- 私立
- 千葉科学大学附属高等学校
中学校[編集]
- 銚子市立第一中学校
- 銚子市立第二中学校
- 銚子市立第三中学校
- 銚子市立銚子中学校[71]
- 銚子市立銚子西中学校
小学校[編集]
- 銚子市立飯沼小学校
- 銚子市立海上小学校
- 銚子市立春日小学校
- 銚子市立椎柴小学校
- 銚子市立清水小学校
- 銚子市立高神小学校
- 銚子市立豊里小学校
- 銚子市立双葉小学校
- 銚子市立船木小学校
- 銚子市立本城小学校
- 銚子市立明神小学校
幼稚園[編集]
- 銚子市立本城幼稚園
- 銚子幼稚園
- 飯沼幼稚園
専門学校[編集]
- 銚子文化服装専門学校
特別支援学校[編集]
- 千葉県立銚子特別支援学校
情報・通信[編集]
マスメディア[編集]
新聞[編集]
銚子市内に通信部・支局を置く日刊の全国紙等は4紙、市内に本社のある日刊の地元新聞は1紙、また地元の月間新聞1紙がある。
放送局[編集]
1990年(平成2年)開局の民間テレビ会社。多チャンネルの情報・テレビ番組の再送信と自主番組・広告の送出を業務としている。銚子市はケーブルテレビが高度情報化社会に対応した地域の情報化を進めるうえで有効なメディアであり、今後この活用を図っていく必要があるとして、公共・公益性を確保するために、設立及び増資に際して財政支援を行っている[31]。
生活基盤[編集]
ライフライン[編集]
電力[編集]
銚子市の最初の電灯会社は1910年(明治43年)に設立された銚子電燈株式会社である。同社は電灯、電力の供給及び付随事業を目的としていた。同社は大正年代に東京の帝国電燈株式会社に吸収され、この会社も東京電燈株式会社と合併した。1942年(昭和17年)に関東配電株式会社となり、戦後東京電力株式会社となった。1960年代には経済成長と家庭用電気機器等の普及に伴う電力需要の増加に対応し、銚子変電所の増設、犬吠変電所の新設、明神変電所の新設等によって出力の強化が図られた[31]。東京電力株式会社は2016年(平成28年)に会社分割となり、東京電力パワーグリッドが発足した。
2018年(平成30年)には官民共同出資の地域新電力会社である銚子電力株式会社が設立され、2019年(令和元年)に家庭向け電力供給を開始した。
- 東京電力パワーグリッド
- 銚子変電所
- 犬吠変電所
- 明神変電所
- 銚子電力
電力の地産地消や収益の地域還元を目的に、銚子市や地元金融機関が出資して設立され、電力サービス「チョウシeデンキ」や「太陽光発電システム」の提供を行う。
都市ガス[編集]
- 銚子瓦斯銚子営業所
銚子市における都市ガスは、1913年(大正2年)設立の銚子瓦斯株式会社による石炭ガスの供給をもってその始まりとする。供給区域は銚子町と本銚子町の区域内で、当初は灯火用、昭和に入ってから燃料用が主となった。太平洋戦争末期から戦後にかけての事業休止の後、1956年(昭和31年)に事業が再開された。戦後は石油系のガスに代わり、1980年代に公共下水道建設との関連や漁港後背地への区域拡張等にあわせて新規の菅布設や交換が進められ、需要戸数が増加した。供給区域は川口町から市内中心部、清川町、台町、春日町の一部までの市街地で、ガス管の総延長は本支菅合わせて約49キロメートルである[31]。
上下水道[編集]
銚子市は1933年(昭和8年)の市制施行と同時に、保健・産業・防火上等の観点から近代都市として発展するためには水道が必須条件であることを認め、銚子一円を給水地域として水道創設事業を開始し、1937年(昭和12年)に起工、翌年供給を開始し、以後市民の生活水準向上と産業の発展に伴う水需要の増大を受けて、6次にわたる拡張事業を進めてきた。1973年(昭和48年)には2市4町からなる東総広域水道企業団が設立され、銚子市は西部地区に同企業団からの受水を開始した[31]。
下水道においては、1969年(昭和44年)度から公共下水道事業計画を作成し、1971年(昭和46年)度の終末処理場の先行取得に始まり、翌年度に幹線管渠築造工事に着手した。公共下水道は1984年(昭和59年)に供用開始となり、以後も拡張が続けられた[31]。
- 下水道
- 認可区域 894.9ヘクタール
- 下水道の普及状況
- 整備面積 732.76ヘクタール
- 処理区域内人口(普及率) 30404人(47.61パーセント)
- 水洗化人口(水洗化率) 23726人(78.04パーセント)
- 雨水整備面積 60.3ヘクタール
- 終末処理場
- 芦崎終末処理場 - 公共下水道の終末処理場として1984年(昭和59年)から供用開始した。
- コミュニティプラント
- 銚子市豊里住宅団地下水道終末処理場 - 1985年(昭和60年)に星和住宅株式会社から銚子市に移管され、「銚子市下水道条例」により、公共下水道とあわせて銚子市水道局が維持管理している。
- ポンプ施設
- 唐子ポンプ場 - 公共下水道の中継ポンプ場として1984年(昭和59年)の供用開始と共に仮稼働し、1993年(平成5年)度から本稼働を開始した。
- 銚子市大谷津住宅団地ポンプ所 - 特定環境保全公共下水道として処理開始後、大谷津ポンプ所として稼働している。
電話[編集]
銚子での電話開通は1907年(明治40年)で、千葉に次いで県下2番目であった。銚子郵便局内に電話機を設置して、公衆に利用させる電話通信業務を開始した。翌年には千葉県初の電話交換業務が開始された。1952年(昭和27年)に日本電信電話公社が発足し、国内の電気通信事業は同社が行うこととなったが、1985年(昭和60年)には民営化となった[31]。
- 市外局番
市外局番は市内全域で0479(銚子MA)である。銚子市の他に銚子MAが使用されるのは、千葉県旭市・匝瑳市・山武市松尾町・香取郡多古町・山武郡芝山町・横芝光町・茨城県神栖市 (太田・太田新町・須田・砂山・土合北・土合中央・土合西・土合東・土合本町・土合南・波崎・波崎新港・矢田部・柳川・柳川中央・若松中央)である。
交通[編集]
鉄道路線[編集]
銚子市と市外を結ぶ鉄道は東日本旅客鉄道(JR東日本)の総武本線と成田線であり、銚子市を終点として市内に5駅設けられている。このうち総武本線には銚子発・東京駅直行の特急列車「しおさい」が運転されている。銚子運輸区は東日本旅客鉄道千葉支社の運転士・車掌が所属する乗務員基地である。銚子駅からは私鉄の銚子電気鉄道線が外川駅まで通じている。
中心となる駅:銚子駅
- 東日本旅客鉄道(JR東日本)
総武本線は1894年(明治27年)7月に民営の総武鉄道株式会社が市川・佐倉間を開業したのに始まり、1897年(明治30年)5月に本所(現錦糸町)・銚子間が開通し、その後両国橋(現両国)・錦糸町間が開通した[31]。
成田線は1897年(明治30年)1月に民営の成田鉄道株式会社が佐倉・成田間の営業を開始し、1933年(昭和8年)3月に笹川・松岸間が開業して、銚子から佐原・成田回りで両国までの鉄道利用が可能となった[31]。
- 銚子電気鉄道(銚子電鉄)
1923年(大正12年)に銚子鉄道株式会社として設立開業した。戦後、企業再建整備法により、新旧勘定合併のため銚子電気鉄道株式会社と改称し、設立登記を行っている[31]。営業キロ数は銚子駅構内から外川駅まで6.4キロメートルである。
バス路線[編集]
民間2社が国道・県道を中心に、銚子駅を発着点として、8系統の路線バスを市内各地区及び周辺地区で運行しており、海匝地域におけるバス交通の拠点となっている。鉄道を除く東京までの交通手段として東京駅の高速バスが3ルートあり、1日43往復86本運行している。
高速バス[編集]
大阪 - 銚子線は夜行、その他は昼行。
- 大阪 - 銚子線
- ユニバーサル・スタジオ・ジャパン - 湊町バスターミナル(OCAT) - 南海なんば高速バスターミナル - 大阪駅前(桜橋口アルビ前) - 高速京田辺 - 京都駅八条口 - 秋葉原駅 - 四街道駅 - 富里バスターミナル - 京成成田駅 - 成田空港(第2ターミナル→第1ターミナル) - 発酵の里こうざき - 佐原駅北口 - 小見川 - 東庄 - 銚子駅(南海バス、千葉交通)
- 利根ライナー(佐原ルート)
- バスターミナル東京八重洲 - 酒々井プレミアム・アウトレット(一部の便) - 発酵の里こうざき - 佐原駅北口 - 高速香取市役所前 - 高速一の分 - 小見川駅 - 小見川 - 東庄 - 橘 - 豊里 - 高速松岸 - 銚子駅(千葉交通)
- 利根ライナー(小見川ルート)
- バスターミナル東京八重洲 - 酒々井プレミアム・アウトレット(一部の便) - 佐原香取(香取IC) - 高速小見川工業団地 - 小見川支所 - 小見川 - 東庄 - 橘 - 豊里 - 高速松岸 - 銚子駅 - 東芝町 - 陣屋町(千葉交通)
- 犬吠号(旭ルート)
- バスターミナル東京八重洲 - 大栄 - 栗源 - 山田 - 干潟 - 旭 - 旭中央病院東 - 海上 - 飯岡 - イオン銚子ショッピングセンター - 銚子駅 - 東芝町 - 陣屋町 - 犬吠埼 - 犬吠埼太陽の里(千葉交通、京成バス)
- 横芝光・旭ルート
- バスターミナル東京八重洲 - 横芝光IC - 八日市場駅 - 匝瑳市役所 - 干潟駅 - 旭 - 旭中央病院東 - 海上 - 飯岡 - イオン銚子ショッピングセンター - 銚子駅(千葉交通、京成バス)
路線バス[編集]
- 千葉交通(千葉交通銚子営業所)
- 市立高校・春日台線(銚子駅 - 農協前 - 清川町 - 春日町 - 市立高校前 - 市立高校坂上 - 春日台)
- 市立高校・春日台線(銚子駅 - 農協前 - 清川町 - 春日町 - 銚子警察署前 - 三崎団地 - 三崎 - 上野町南 - 上野町 - 本城団地入口 - 上野町東 - 春日台)
- 豊里ニュータウン線(銚子駅 - 農協前 - 銚子中学校 - 松本一丁目 - 大込 - 本城小学校 - 本城三丁目 - 長塚宮前 - 長塚町 - 五中前 - 教習所前 - 松岸駅前 - 柴崎十字路 - 四日市場町 - 余山仲町 - 余山 - 芦埼新田 - 中島通り - 芦埼 - 船木農協 - 富士正食品 - 西部支所 - 椎柴駅 - 滑川薬局 - 野尻 - 椎柴小入口 - 塚本町 - 忍町 - 東富川町 - 西森戸 - 森戸 - 豊里駅入口 - 七中前 - 豊里ニュータウン第一 - 舞台美術センター - 豊里ニュータウン第二 - 豊里台緑ケ丘公園 - 豊里台スポーツ広場 - 豊里ニュータウン第三 - 豊里ニュータウン第四)
- 旭銚子線(銚子駅 - 農協前 - 清川町 - 春日町 - 銚子警察署前 - 三崎団地 - 三崎 - 三崎新田 - 田村記念病院 - イオンモール銚子 - 特別支援学校入口 - 三崎三丁目 - 小浜新田 - 小浜 - 親田 - 常世田薬師 - 八木町 - 豊岡小学校 - 旧第八中学校 - 飯岡灯台入口 - 下永井 - 西部支所 - 東町 - 玉崎神社 - 野尻 - 飯岡農協 - 八軒町 - 平松 - 旭駅 - 飯岡観光センター - 飯岡支所入口 - 食彩の宿いいおか入口 - 田宿 - 三川曽根 - 三川目那 - 三川犬林 - 八畝田 - 横大道 - 網戸下宿 - 網戸中宿 - 網戸上宿 - 旭中央病院 - 旭中央病院入口 - 旭農高 - 旭駅入口 - 旭銀座)
- 名洗・千葉科学大学線(銚子駅 - 双葉小学校 - 妙見橋 - 西小川町北 - 西小川町中央 - 西小川町南 - 名洗入口 - 名洗 - 千葉科学大学マリーナ前 - 千葉科学大学本部前)
- ちばこうバス(京成タクシー成田)
- 川口線(銚子駅 - 双葉町 - 公民館 - 新生 - 陣屋町 - 銚子観音 - 浜町 - 田中町 - 和田町 - 橋本町 - 通町 - 川口一丁目 - 川口二丁目 - 明神下 - 川口千人塚 - 川口 - 夫婦ケ鼻 - 黒生住宅 - ポートセンター)
- 長崎線(銚子駅 - 駅前十字路 - 市役所前 - 本通一丁目 - NTT前 - 新生 - 銚子銀座 - 銚子観音 - 圓福寺前 - 文化会館入口 - 市立病院入口 - 前宿町東 - 市立病院 - 前宿町東 - 高神原 - 小畑入口 - 高神坂上 - 高神札場 - 高神西町 - 渡海神社 - 犬若 - 外川四丁目 - 外川漁業会 - 外川一丁目 - 老人憩いの家・こもうら荘 - 長崎西口 - 長崎国民宿舎)
- 海鹿島線(銚子駅 - 双葉町 - 公民館 - 新生 - 陣屋町 - 島田病院 - 後飯町 - 清水坂下 - 清水坂上 - 笠上駅 - 西海鹿島 - 金杉前 - 池の端 - 独歩碑前 - 海鹿島坂上 - 海鹿島)
- 海鹿島線(銚子駅 - 双葉町 - 公民館 - 新生 - 陣屋町 - 島田病院 - 後飯町 - 清水坂下 - 清水坂上 - 笠上駅 - 明神一丁目 - 黒生住宅入口 - 笠上入口 - 黒生 - とんび岩 - 伊勢路ケ浦 - 海鹿島)
- 外川線(銚子駅 - 双葉町 - 公民館 - 新生 - 陣屋町 - 島田病院 - 後飯町 - 浅間台 - 愛宕町四丁目 - 榊町 - 市民センター前 - 小畑 - 君ケ浜入口 - 池の端 - 宮内内科 - 犬吠 - ホテルニュー大新前 - 長崎入口 - 外川車庫)
- 関東鉄道(関東鉄道潮来営業所・波崎車庫)
- 鹿島神宮駅 - 鹿嶋宮中 - 住金鹿島 - セントラルホテル - 日川 - 土合中央 - 波崎営業所 - 銚子駅
- 矢田部公民館 - 土合中央 - 済生会土合クリニック前 - 波崎営業所 - 銚子駅
- 鹿島神宮駅 - 鹿嶋宮中 - 粟生 - セントラルホテル - 知手団地入口 - 土合北 - 波崎中央 - 銚子駅
- 知手団地南 - 知手団地入口 - ゆーぽーとはさき - 土合北 - 波崎中央 - 銚子駅
- 土合東電 - 土合北 - 銚子駅
- 銚子駅 - 波崎中央 - 仲町公園 - 波崎海水浴場
タクシー [編集]
- 銚子タクシー
- 大丸タクシー
- ミナトミタカタクシー
- 平和タクシー
- アステル交通
道路[編集]
銚子市は国道126号、国道356号、国道124号や広域農道が道路網の骨格で、域内は国道126号と国道356号をつなぐように県道や市道が整備されている。このうち最も主要な国道は千葉・銚子間を結ぶ国道126号であり、かつては銚子市と首都近郊を結ぶ唯一最大の道路であった。貨物輸送を始めその他の交通における大動脈としての役割は極めて大きい。銚子大橋前交差点は、国道126号とこれに次ぐ銚子市の動脈である国道356号及び水戸市に至る国道で、銚子市と茨城県を結ぶ最大の幹線道路である国道124号が集まる3国道の起点となっている[31]。
広域幹線道路では、国道356号銚子バイパス、国道126号飯岡バイパス、東総台地地区広域営農団地農道(東総広域農道)、東総有料道路、東関東自動車道成田線、九十九里有料道路等が整備されている[31]。2000年(平成12年)には銚子新大橋有料道路(利根かもめ大橋)が開通して茨城県側との更なるアクセス向上が図られると共に、交通量の増大、車両の大型化、塩害等に対応して銚子大橋架替事業が進められ、2013年(平成25年)に完了した。2006年(平成18年)度からは国道126号八木バイパスの建設事業が進められている。
高速道路(自動車専用道路)については、銚子市から山武地域を経て首都圏中央連絡自動車道、千葉東金道路等と千葉市を結ぶ延長約30キロメートルの銚子連絡道路(松尾町〜銚子市間)が計画路線に指定され、2006年(平成18年)に開通した一期区間(松尾横芝IC〜横芝光IC)に続き、二期区間が2023年(令和5年)度の開通を目指して建設が進められており、続く三期区間は2022年(令和4年)度に新規事業として採択された。三期区間以東については、国道126号八木バイパス・飯岡バイパスの活用等が計画されており、完成後は銚子市から千葉市まで約1時間で到達可能となる[73][31]。
市内の主要道路では、千葉県道244号外川港線が中心市街地と外川漁港を結び内陸部を南北に縦断し、千葉県道254号銚子公園線が中心部から海岸沿いを循環している。市の南西部には三崎町から屏風ヶ浦の台地を通って天王台に至る千葉県道286号愛宕山公園線が整備され、銚子公園線及び外川港線と結ばれている。平成以降は千葉県道73号銚子海上線の拡幅整備、銚子公園線長崎周遊道路の開通、銚子駅前シンボルロード・本通りマイロード・銚子銀座通りココロードの整備等により、観光都市としての交通体系の整備が進められてきた[31]。
- 銚子新大橋有料道路(利根かもめ大橋有料道路)
- 千葉県道198号銚子波崎線
- 千葉県道211号飯岡猿田停車場線
- 千葉県道216号飯岡松岸停車場線
- 千葉県道244号外川港線
- 千葉県道254号銚子公園線
- 千葉県道286号愛宕山公園線(銚子ドーバーライン)
空港[編集]
千葉県成田市の成田国際空港(成田空港)が最寄りとなり、約40キロメートルの距離に位置する。東京都大田区の東京国際空港(羽田空港)へは約95キロメートルの距離に位置する。
- 成田国際空港(成田国際空港へのアクセスも参照)
- 東京国際空港(東京国際空港へのアクセスを参照)
- バス:高速バスが銚子駅と東京駅を結ぶバスがある。
船舶[編集]
千葉県太平洋岸唯一の地方港湾であり、千葉県北東部の発展を図るための開発拠点港湾として、3000トン級船舶・小型船舶が接岸可能な岸壁、泊地、防波堤及び臨港道路等が整備された。房総リゾート地域整備構想における銚子マリン・リゾートの中核施設として、クルーザー等1000隻の収容能力を持つ銚子マリーナが1999年(平成11年)4月から供用されている。海岸事業では「ビーチ利用促進モデル地区」の指定を受け、離岸堤、突堤、遊歩道、人工海浜等の整備による屏風ヶ浦の観光資源性活用、隣接する銚子マリーナと一体となった快適な海岸環境の整備及び海岸防災を図っている。2020年(令和2年)7月には名洗港港湾区域の前面海域(約40キロ平方メートル)が再エネ海域利用法に基づく促進区域として国から指定を受けており、千葉県は2022年(令和4年)に港湾計画を改訂し、洋上風力発電事業の建設・維持管理拠点港湾として、防波堤や埠頭用地の整備、大規模な浚渫を実施することとしている。
観光[編集]
銚子市は夏涼しく冬暖かい海洋性気候であり、国定公園に指定されている犬吠埼や屏風ヶ浦といった景勝地の他、国内有数の漁港である銚子漁港を有し、市外・県外から年間約250万人の観光客が訪れる観光都市である。太平洋に突出した半島状の地形をなし、地質資産を核として大地の成り立ちが比較的容易・安全に学べる場所であることから、2012年(平成24年)に日本ジオパーク委員会により銚子市全域が「銚子ジオパーク」に指定されている[18]。また、江戸との交流の中で港町として発展した歴史を持ち、東京・成田空港に近く江戸情緒を体感できる町並みや風景が残ることから、2016年(平成28年)に「北総四都市江戸紀行・江戸を感じる北総の町並み」として文化庁から日本遺産に認定されている[74]。
2017年(平成29年)度からは、銚子市観光協会が中心となって銚子版DMO(Destination Management Organization)構築による観光まちづくり事業が持続可能戦略として推進されており、2022年(令和4年)に登録DMOとして観光庁の指定を受けた[75]。
観光名所[編集]
- 犬吠埼 - 関東地方最東端の岬。太平洋の怒涛と高くそそり立つ白亜の灯台は海岸美の極致[31]。日本列島沿岸で最も早く初日の出を見ることができる。東映オープニング映像「荒磯に波」は犬吠埼にて撮影された。
- 犬吠埼灯台 - 英国技師リチャード・ブラントンによって設計され、1874年(明治7年)に点灯した灯台。国産煉瓦を使用した最古の西洋式灯台で、煉瓦造り建築物としては日本で最も高い31.57メートル。国の重要文化財。
- 犬吠埼灯台資料展示館 - 犬吠埼灯台敷地内の灯台資料展示館。初代レンズ、リチャード・ブラントンの資料、灯台の歴史等の資料を展示。
- 犬吠埼遊歩道 - 灯台下の磯づたいに整備された遊歩道。国指定天然記念物の白亜紀浅海堆積物や太平洋の荒波が岩礁に砕けるさまを間近に見ることができる。
- 犬吠埼温泉郷 - 太平洋を眺望する関東地方最東端の温泉郷。中生代白亜紀の地層から湧出する温泉は化石海水と呼ばれ、海のミネラル分を多く含み、保温保湿効果が高い。
- 犬吠テラステラス - 2019年(平成31年)にオープンした複合商業施設。カフェ・ベーカリー・野菜マルシェ・地元名産品を扱うマーケット・ハンモックテラス・クラフトビール醸造所・体験ワークショップスペース等からなる。
- 君ヶ浜 - 犬吠埼北側約1キロメートルの白砂青松の海岸。古くから関東舞子の愛称で愛され、君ヶ浜しおさい公園として整備されている。日本の渚百選に選定。
- 愛宕山 - 北総最高峰の標高73.6メートル。山頂の地球の丸く見える丘展望館からは、北は鹿島灘から筑波山、東と南は太平洋の海原、西は屏風ヶ浦から九十九里浜までの360度のパノラマを望む。フィリピンマヨン山を指す日比友愛の碑が建つ。
- 屏風ヶ浦 - 銚子半島南側に延々10キロメートル続く海抜40〜50メートルの雄大な断崖絶壁。東洋のドーバーと呼ばれている[13]。国の名勝及び天然記念物。
- 銚子マリーナ - 名洗港内に整備された収容隻数1000隻を目指す本格的マリーナ。海浜緑地公園や人工海浜とあわせたマリンリゾート拠点であり、海上からのアクセス拠点機能も果たしている。夏季には様々なマリンスポーツ大会が開催される。
- イルカ・クジラウォッチング - 銚子の沿岸から沖合でのイルカ・クジラ類の乗船ウォッチング。
- 利根川河口 - 日本第2位の大河利根川が太平洋に注ぐ河口。古くは日本三大難所の一つであった。海難防止の運河が開通してから50年。近くの丘に遭難者の千人塚、海難漁民慰霊塔がある。
- 銚子漁港 - 黒潮と親潮が交錯する好漁場の銚子沖合を控えて、日本有数の規模の特定第3種漁港。水揚数量は全国1位であり[1]。広大な後背地に各種水産物流通加工施設が立地操業している。第1卸売市場は国内初の高度衛生管理型市場として2015年(平成27年)にリニューアルオープンし、見学者用の通路や銚子市漁業協同組合直営の食堂「万祝」が新設された。市場前には海鮮料理店が軒を連ねている。
- 銚子ポートタワー - 水産都市銚子のシンボルである高さ57.7メートルのツインタワー。海抜60メートルの展望室からは、市街地、銚子大橋、銚子漁港、利根川、太平洋を一望できる。
- 水産物即売センター「ウォッセ21」 - 銚子ポートタワー隣接の海鮮市場。地元業者が海の幸を多数取り揃え販売する。2階は和洋海鮮料理のシーフードレストランうおっせ。
- 外川漁港 - 江戸時代の紀州移民が開発した漁港を基に整備が進む沿岸・沖合漁業基地。釣船の基地ともなっている。
- 外川の町並み - 古き良き漁師町の面影を残す町並み。江戸時代初期、紀州移民の崎山治郎右衛門により漁港を中心に碁盤目状の街区が整備され、「外川千軒大繁盛」と称された。日本遺産に登録されている。
- 千騎ヶ岩 - 外川漁港内の標高17.4メートルの岩礁。源義経が兵千騎で立て籠った伝説の岩。千葉県最古の地質時代の硬質砂岩で、海岸植物自生地として千葉県指定天然記念物。
- 犬岩 - 名洗港南防波堤近くの海中の巨岩。奥州に逃れた源義経がここに残した愛犬が主人を慕って7日7晩鳴いて岩と化したとの伝説がある。
- ヤマサ醤油・ヒゲタ醤油工場 - 銚子の醤油醸造は、夏涼しく冬暖かく適度な湿度という気候風土、良質な水、利根川水運に支えられて400年の歴史と伝統を誇っている。
- ヤマサ醤油しょうゆ味わい体験館 - 2016年(平成28年)にオープンしたヤマサ醤油工場見学施設。醤油醸造の歴史・道具を展示する他、売店や体験コーナーが併設されている。ツアーでは原料サイロ、麹室、仕込蔵等の見学や醤油醸造過程のバーチャル体験ができる。
- ヒゲタ史料館 - ヒゲタ醤油工場内の史料館。醤油醸造の設備・道具・容器・博覧会受賞メダル、会社年表、製品200点を展示。醸造蔵内に描かれたフレスコ画の大壁画「天地人」が見学できる。
- 銚子電気鉄道線 - 銚子駅と外川駅を結ぶ1923年(大正12年)創業の私鉄6.4キロメートル。ノスタルジックな車両や駅舎が人気。
- 銚子大橋 - 1962年(昭和37年)に利根川対岸の茨城県と結んで開通した全長1500メートルの長大橋。2013年(平成25年)に架換事業が完了し、水面から主塔最上部まで60メートルの斜張橋となった。
- 河岸公園 - 利根川と新銚子大橋を眺望するビューポイントとして旧渡船場跡地に整備された街区公園。
- 利根かもめ大橋 - 2000年(平成12年)に銚子大橋上流約8キロメートルで茨城県と結んで開通。「人と自然にふれあう躍動感のある橋」をテーマにカモメの羽ばたきをイメージしたデザイン。
- ハーブガーデンポケット - ツリーハウス、グリーンショップ、ドッグランを併設した海のそばのハーブ園。
- レインボーヒルズカントリークラブ - 利根川を眼下に見下ろす林間コースのゴルフ場。27コース。
社寺[編集]
- 川口神社 - 利根川と鹿島灘を一望する丘上にあり、銚子港の守り神として漁業関係者の信仰が篤い。古くは安倍晴明と延命姫の伝説から白紙明神と称された[31]。
- 猿田神社 - 千葉県指定天然記念物の樹齢数百年の森に囲まれた本殿は千葉県指定文化財。毎年11月には七五三祝いの多数の参詣客がある。
- 渡海神社 - 外川の日和山から高神に移り、郷土の人々の篤い信仰を集めている。神社の森は陽樹林から陰樹林へと変わった極相林で千葉県指定天然記念物。
- 海上八幡宮 - 802年(延暦21年)に宇佐八幡を勧請。海上郡六十余郷の総鎮守として総社八幡と称された[31]。旧暦8月15日には神輿渡御後、流鏑馬が行われる。
- 銚港神社 - 創建は養老年間。旧称を龍蔵権現といい、主祭神は龍神の闇淤加美神である。
- 白幡神社 - 銚子の街の中心部にあり、江戸時代から銚子における流通業や醸造業の中心地として多くの商家に支えられた。
- 菅原大神 - 祭神は菅原道真。古来より桜井の鎮守として遠近の信仰が厚く、別名子宝神社と称される[31]。奉納されている子宝石を抱くと子宝に恵まれると伝えられる[31]。
- 飯沼観音 - 728年(神亀5年)開基の真言密教の古刹。坂東三十三観音第二十七番札所であり、ここを中心とした門前町として商店街が繁盛した。
- 妙福寺 - 1314年(正和3年)開基の日蓮宗の名刹。妙見様と称され[31]、境内の臥龍の藤の花すだれ鑑賞の来遊者が多い。
- 常燈寺 - 常世田薬師の名で深く信仰されている。木造薬師如来坐像は国の重要文化財。毎年1月8日に一般公開。本堂も千葉県指定文化財である。
- 満願寺 - 巡礼の歴史と伝統を受け継いで開創。本尊と西国・坂東・秩父霊場や四国八十八箇所の本尊を観請して奉安してある。
- 浄国寺 - 浄土宗第三祖然阿良忠上人によって1256年(建長7年)に創建。境内には樹齢百年の雌雄一対の大銀杏、松、梅等の古木があり、開花時期には多くの人が訪れる。
- 等覚寺 - 1390年(元中7年)頃、中島城主海上山城守が観音・薬師・地蔵の三尊像を安置したことが創始で、成就院と称された。
- 東光寺 - 徳川家康から寺領を寄進され真言密教の道場として発展。境内を取り囲むように樹齢150年以上のイヌマキの群落が形成されている。
史跡[編集]
- 粟島台遺跡 - 縄文時代前期から後期の遺跡。竪穴住居跡や土器、石器、琥珀装身具、漆塗土器や木製品が出土している。
- 余山貝塚 - 縄文時代後期から晩期を中心に、標高7メートルの微高地の集落により形成された貝塚。貝輪、釣針、モリ、ヤス等の骨角製の漁具や土偶が出土している。
- 野尻古墳群 - 利根川を望む台地上に残る前方後円墳一基、円墳八基、方墳三基からなる古墳群。古墳時代後期に築造。
- 中島城本丸跡 - 鎌倉時代から銚子地方を治めていた千葉氏一族の海上宗家の居城で、1590年(天正18年)に落城した。中島町の標高36メートルから43メートルの台地突端部に位置し、東西約500メートル、南北約400メートルの遺構が見られる。
- 千人塚 - 古くからの難所であった銚子沖・川口での遭難者供養のために築かれた塚。海難漁民慰霊塔は漁民等の浄財で1960年(昭和35年)に建立。
- 一里塚道標 - 高さ約90センチ、幅約18センチ、上部に仏像を配し、その下に「飯沼観音江一里」と書かれている。長塚町神明神社入口にあり、1783年(天明3年)の飢饉の際に建立された。このほか、高田町に二里塚、富川町に三里塚、宮原町に四里塚がある。
- 美加保丸遭難者墓碑 - 1868年(慶應4年)8月、榎本武揚率いる幕艦8隻中の1隻が暴風雨で黒生沖に座礁。死亡した美加保丸乗組員13人をいたむ墓碑が建立された。
- 飯沼陣屋跡 - 銚子地方が高崎藩領となった1802年(享保2年)に陣屋が設けられて郡奉行と代官が派遣常駐し、明治に至るまで存続した。陣屋町の地名が残り、児童公園入口に陣屋跡碑が建つ。
- 飯沼水準原標石 - 飯沼観音境内にある水準原標は1872年(明治5年)にオランダの土木技師リンドが設置した。河川工事のために高低測量の基点となるものであり、日本最初の水準原標となっている。
- 竜の井(玄蕃井戸) - 前宿町の玄蕃山北側にある竜の井、通称玄蕃井戸はヒゲタ醤油の醸造用水として用いられた湧水井戸で、龍神を祀っている場所である。水屋は煉瓦で囲われている。
- ヤマサ醤油煉瓦蔵 - ヤマサ醤油本社西側には1915年(大正4年)から1923年(大正12年)に増設された煉瓦造りの仕込み蔵が残っている。
- 義経伝説 - 銚子には悲劇の英雄である源義経にまつわる伝説が多く残る。奥州に落ちのびる義経一行が立て籠った千騎ヶ岩、海岸に残した愛犬が吠え続けて岩と化した犬岩、その声が届いた犬吠、九郎判官がなまって名付けられた大小2つの宝満の岩等が伝えられている。
文学碑[編集]
- 松尾芭蕉「枯枝に からすのとまりけり 秋の暮」
- 小林一茶「此臺の清風たゝちに心涼しく西方仏土もかくあらんと 本とゝす 爰をさること 遠からす」
- 古帳庵「ほととぎす銚子は国のとっぱずれ」
- 国木田独歩「なつかしき わが故郷は 何処ぞや 彼処にわれは 山林の児なりき」
- 竹久夢二「まてど暮らせど来ぬ人を宵待草のやるせなさ今宵は月も出ぬさうな」
- 小川芋銭「銚子灘朝暾 大海を 飛びいつる如と 初日の出」
- 尾崎咢堂「朝またき 彼方の岸は アメリカと 聞て瓜立つ おはしまのはし」(瑞鶴荘にて)
- 尾張穂草「わかれても故郷の海のあいいろが目にあり秋のさびしくあるかな」
- 高浜虚子「犬吠の 今宵の朧 待つとせん」
- 佐藤春夫「ここに来て をみなにならひ 名も知らぬ草花をつむ みづからの影踏むわれは 仰がねば 燈台の高さを 知らず 波のうねうね ふる里のそれには如かず ただ思ふ 荒磯に生ひて 松のいろ 錆びて 黝きを わが心 錆びて黝きを」
- 若山牧水「ひさしくも見ざりしかもと遠く来てけふ見る海は荒れすさびたり とほく来てこよひ宿れる海岸のぬくとき夜半を雨降りそそぐ まともなる海より昇る朝の日に机のちりのあらはなるかな」
- 源俊頼「磐はしる 外川の滝の むすぶ手も しばしはよどむ 淀むせもあれ」
海水浴場[編集]
- 海鹿島海水浴場 - 周りを岩礁に囲まれたプール状の海水浴場で、子供連れ、磯遊びに適している。
- 長崎海水浴場 - 沖合に岩礁を積んだ犬吠埼灯台を望む海水浴場。磯遊びも可能。
- 銚子マリーナ海水浴場 - 東洋のドーバーと言われる[13]屏風ヶ浦を背にした波静かな海水浴場。
宿泊施設[編集]
銚子市においては、主として犬吠埼地区にホテル・旅館、外川・犬若地区に民宿・ペンション、中央地区にビジネスホテルが立地している。
- 別邸 海と森
- スパ&リゾート犬吠埼太陽の里
- 絶景の宿 犬吠埼ホテル
- 犬吠埼観光ホテル
- ホテルニュー大新
- ホテルルートイン銚子駅西
- 銚子プラザホテル
- ホテルサンライズ銚子
- ビジネスホテルいずや
- ホテル近江屋
特産品・土産品[編集]
- イワシ料理 - 高タンパク、低カロリー、低脂肪の食品[31]。刺身、煮魚、焼き魚、さんが焼き、天ぷら、フライ等。
- 磯ガキ - 銚子付近の荒磯でとれる天然カキ。
- 海の幸 - 銚子漁港で水揚げされるタイ、ヒラメ、カツオ、マグロ、エビ、イカ、ウニ、貝類等の活魚料理。
- 銚子メロン - 日本農業賞を受賞した銚子メロンは、利尿作用、滋養強壮、動脈硬化防止等に働く成分が含まれる[31]。
- ほお刺し - 銚子漁港水揚量全国1位を誇るイワシの天日干し。カルシウムと栄養に富む[31]。
- 水産缶詰 - 煮魚、佃煮、魚を使ったカレー、つみれの入ったおでん汁等の缶詰。長期保存ができるため、常備食に適す[31]。
- ひしお - 天然醸造、無添加の固形の醤油。
- 佃煮 - とれたてのカツオ、イワシ、サンマ等を醤油で煮込んだ佃煮。
- ぬれ煎餅 - 焼きたてを醤油に浸した煎餅。
- 海藻こんにゃく - 海藻のコトジツノマタを煮溶かして固めた料理。ねぎやかつお節を薬味に用いて食す。
- のげのり - 銚子特産の乾燥海藻食品。味噌汁や吸い物等に使われる。
- 地酒 - 江戸時代末期から明治にかけて創業した2つの酒蔵が醸造する地酒。
- ピーナッツみそ - 千葉県特産のピーナッツを炒って味噌とハチミツと白ゴマで和えたもの。
- 木の葉パン - 卵やバターを加えて焼いた焼き菓子。
- カレーボール - 魚のすり身にカレー粉を混ぜて団子状にしたもの。
- 銚子縮 - 江戸の粋を今に伝える伝承織物。反物、暖簾、テーブルランナー等。
- 万祝式大漁旗 - 江戸時代からの技術を受け継いだ大漁旗染物。漁船進水、結婚、出産、新築等のお祝用。
- 籐製品 - 素材から製品まで一貫した手作り、手巻、手編みで作る椅子や小物類。
祭礼・行事[編集]
銚子市における観光行事としては、古くから夏の「大潮祭り」、「銚子みなとまつり」が中心であったが、市内の産業団体が連携協力して開催する産業まつりや古くから地域で行われてきた諸行事やスポーツ・レクリエーション行事等についても、市民のみならず多くの来遊者がある。
- 初日の出(1月1日) - 関東地方最東端の犬吠埼は、山頂・離島を除き日本列島沿岸で最も早く初日の出を見ることができる。
- 常燈寺初薬師(1月8日)
- 漕出式(1月上旬) - 年の初め、大漁を祈願し漁船が川口沖沿い(利根川河口付近)を航行する。「乗り初め」ともいう。
- 中学校対抗銚子半島一周駅伝(1月上旬) - 毎年1月第二日曜日に開催される新春の風物詩。千葉県内外の70以上の中学校が参加する、関東近県では最大規模の駅伝大会。
- 菅原大神祭礼(2月25日・11月25日) - 奉納された約90個の子産石(子宝石)を抱くと子宝に恵まれるという言い伝えがあり、春と秋の祭礼の時に限り石を抱くことができる。
- 飯沼観音八日まち(4月8日) - 坂東三十三観音第二十七番札所の飯沼観音で、釈迦の誕生を祝う。
- 妙福寺藤まつり(5月上旬) - 境内には茶店が立ち並び、日曜日には神輿が担ぎ出される。夜間にはライトアップが行われる。
- 大潮祭り(旧暦6月15日) - 大漁と航行安全を祈願する祭りで、旧暦6月15日にあたる日に漁業関係者に信仰の篤い川口神社や渡海神社の神輿が町中を練り歩く。
- 浅間神社例祭(7月第三土曜日)
- 海水浴場オープン(7月中旬) - 銚子マリーナ海水浴場、長崎海水浴場、海鹿島海水浴場の3つの海水浴場がオープンする。
- 銚子みなとまつり(8月上旬土・日曜日) - 毎年8月上旬の土・日曜日の2日間、銚子のまちは祭り一色となる。第1日目は利根川河畔の花火大会、第2日目は約1000人の担ぎ手による、銚子市役所前から銚子観音前までのみこしパレード。
- 海上八幡宮例祭(旧暦8月15日)
- 銚子農産まつり・銚子水産まつり(10月最終日曜日) - 川口外港とその周辺を会場として、銚子市内の農業・水産業の関係団体が一体となり、ダイコン・キャベツ等の新鮮野菜、銚子で水揚げされるキンメダイや生マグロ等の展示販売を行う。
- 銚子さんまマラソン(11月中旬) - 犬吠埼や君ヶ浜等がコースのマラソンイベント。メイン会場からは屏風ヶ浦を一望できる。
- 黒潮よさこい祭り(11月下旬) - 全国60チームが市内各所で演舞を行い優勝を競う、銚子市民主催のよさこい祭り。
- 銚子マルシェ(不定期開催) - グルメや地元野菜・雑貨販売の他、ワークショップ等が開催される。
文化[編集]
銚子市文化祭[編集]
銚子市文化祭は、1949年(昭和24年)11月に第1回を開催して以来、70年余の歴史のある市主催の恒例行事である。当初は銚子市公正市民館の2階講堂を会場として、11月3日の文化の日の前に文化団体の展覧会を、その後に芸能会を開催していたが、1972年(昭和47年)からは芸能会会場を青少年文化会館に移し、多くの市民の参加協力によって盛況をみている[31]。
財団法人公正会[編集]
公正会は1925年(大正14年)4月に、ヤマサ醤油株式会社の第10代目当主濱口儀兵衛(梧洞)が私財30万円を投じて設立した財団法人である。私事を捨て大衆を基とし、最も公平に正しく運営していくために公正の名称が用いられている、とされた。1926年(大正15年)4月には公正会の拠点となった公正会館が開館した。公正会の意図するところは、当時既に学校教育における人物養成の不完全性に目を注ぎ、人物養成のために社会教育事業を推進しようというものであり、その活動は図書館事業、勤労青少年を対象とする補修的な夜間学校である公正学院の経営及び公正会主催の各種事業の3つの柱から成っていた。このうち公正学院は働く青少年に中等学校程度の教育を施そうというもので、今日の定時制高校に相当した[31]。
公正会館は鉄筋コンクリート2階建ての瀟洒な建物で、低い石の柵に囲まれた植込みのある前庭が設けられており、銚子における文化の殿堂となった。1階は図書館・教室・事務室、2階は約500人収容のステージ付き大ホールになっており、会館では講堂と呼んだ[31]。図書館は閲覧室が3室あり、蔵書は開館時400冊であった。その他、開架式の閲覧方法や館外貸出しも利用者に大きな利便を提供した。専業の書店の無かった当時の銚子では図書館の利用価値は非常に高く、昭和前期の銚子の文化の向上に裨益するところが大であった[31]。
公正会主催の事業は講演会、講座、展覧会、映画会、音楽会、芸能会その他多様であったが、いずれも一般的には銚子では接することのできない行事であった。講演会には各界一流の人々が中央から招かれた。当時の講師の揮毫帖が保存されているが、作家でいえば巖谷小波・菊池寛等のクラスが来銚している。会場は常にほとんど満員であった。こうした催しの他に、公正文化会や公正母の会、あるいは子供会・読書会というような会員制グループ活動も推進していた。このような活動を創意し展開したのは、東京帝国大学出身の文学士であった初代館長兼学院長の小山文太郎である。1937年(昭和12年)に第3代館長になった堀秀彦は、戦後大学教授あるいは著述家として中央で活躍した[31]。
公正会の活動は終戦を境にして停頓状態となり、1948年(昭和23年)、公正会は施設一切を市に寄付して解散し、20年余にわたる歴史に終止符を打った。公正学院は1941年(昭和16年)4月から公正商業学校となったが、文部省の戦時教育体制の改革により、1947年(昭和22年)に廃校となった。寄付後の公正会館には銚子市公正市民館が開館し、1階の図書館部分は銚子市公正図書館として開館した。「公正」の名をとどめたのは、財団法人公正会とその創立者濱口梧桐を永く記念するためである。銚子市は1957年(昭和32年)に濱口梧洞の功を讃えて、公正市民館の前にその寿像を建立し、市制施行記念日である2月11日に除幕式が行われた[31]。
1946年(昭和21年)には銚子文化会が結成された。同会を結成し、あるいはまた会員としてこれに加わった者は、いわゆる知識人であった[31]。同会の目的は、まず会員自身の教養を高めることであったが、同時に銚子における文化運動のリーダー的役割を果たそうという意図もあった。このような役割は戦前公正会が担ってきたものであり、その流れを汲むものであった。この銚子文化会を核として、折から結成されつつあった各種の芸術団体、学芸団体、趣味団体等が集まり、銚子文化協会を結成した。銚子文化協会は1963年(昭和38年)に銚子市文化団体協議会と改称し、戦後の銚子市における文化運動の主要な推進力となっていった[31]。
その後、銚子市では蔵書の増加に対応し、市制施行50周年記念事業の一環として新図書館建設を進め、1983年(昭和58年)に開館した。銚子市公正市民館は2001年(平成13年)に銚子市中央地区コミュニティセンターと改称し、従来の公正市民館機能は小畑新町に整備された銚子市市民センターに移された[31]。
文化財[編集]
番号 | 指定・登録 | 類別 | 名称 | 所在地 | 所有者または管理者 | 指定年月日 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | 国指定 | 重要文化財(建造物) | 犬吠埼灯台(灯台、旧霧笛舎、旧倉庫) | 銚子市犬吠埼 | 国(海上保安庁)、公益社団法人燈光会 | 令和2年12月23日 | 1基、2棟 |
2 | 重要文化財(彫刻) | 木造薬師如来坐像 | 銚子市常世田53-1 | 常灯寺 | 昭和34年6月27日 | 1躯 | |
3 | 重要文化財(工芸品) | 鐃 | 奈良国立博物館 | 円福寺 | 昭和34年6月27日 | 1口 | |
4 | 記念物(名勝及び天然記念物) | 屏風ケ浦 | 銚子市春日町744-1他 | 銚子市・千葉県・国 | 平成28年3月1日 | ||
5 | 記念物(天然記念物) | 犬吠埼の白亜紀浅海堆積物 | 銚子市犬吠埼9578-10他 | 銚子市・国 | 平成14年3月19日 | ||
6 | 県指定 | 有形文化財(建造物) | 猿田神社本殿 | 銚子市猿田1677 | 猿田神社 | 昭和30年12月15日 | 1棟 |
7 | 常灯寺本堂 | 銚子市常世田町53-1 | 常灯寺 | 昭和54年3月2日 | 1棟 | ||
8 | 海上八幡宮本殿 | 銚子市柴崎1-17 | 海上八幡宮 | 平成2年3月16日 | 1棟 | ||
9 | 有形文化財(彫刻) | 木造薬師如来立像 | 銚子市岡野台町2-473 | 等覚寺 | 平成元年3月10日 | 1躯 | |
10 | 木造薬師如来立像 | 銚子市岡野台町2-473 | 等覚寺 | 平成元年3月10日 | 1躯 | ||
11 | 木造菩薩立像 | 銚子市岡野台町2-473 | 等覚寺 | 平成元年3月10日 | 1躯 | ||
12 | 有形文化財(工芸品) | 梵鐘(享徳十一年在銘) | 銚子市馬場町293-1 | 円福寺 | 昭和42年3月7日 | 1口 | |
13 | 釈迦涅槃図 | 銚子市馬場町293-1 | 円福寺 | 平成3年2月15日 | 1幅 | ||
14 | 有形文化財(古文書) | 天正検地帳 | 銚子市ほか | 銚子市ほか | 昭和57年4月6日 | 18件・71冊 | |
15 | 有形文化財(考古資料) | 金銅経筒(建長四年在銘) | 銚子市岡野台町2-473 | 等覚寺 | 昭和60年3月8日 | 1合 | |
16 | 無形文化財 | 銚子縮 | 銚子市松岸町 | 常世田眞壱郎 | 平成13年3月30日 | ||
17 | 記念物(天然記念物) | 渡海神社の極相林 | 銚子市高神西町2 | 渡海神社 | 昭和34年4月24日 | ||
18 | 猿田神社の森 | 銚子市猿田1675-21他 | 猿田神社 | 昭和49年3月19日 | |||
19 | 犬吠埼産出のアンモナイト | 銚子市前宿町1034 | 銚子市 | 平成18年3月14日 | 5標本6点 | ||
20 | 国登録 | 登録有形文化財(建造物) | 内野家住宅洋館 | 銚子市長山町2034 | 個人 | 平成11年7月8日 | 1件 |
21 | 磯角商店主屋 | 銚子市飯沼町186 | 個人 | 平成26年4月25日 | 1件 | ||
22 | 滑川家住宅主屋ほか | 銚子市野尻町27-1 | 個人 | 平成29年6月28日 | 2件 | ||
23 | 旧西廣家住宅(治郎吉)主家ほか | 銚子市川口町1-6271 | 株式会社ランス | 平成30年3月27日 | 5件 | ||
24 | 石上酒造米藏ほか | 銚子市田中町7-1 | 個人 | 平成30年3月27日 | 5件 |
海事史[編集]
利根川河口と千人塚[編集]
江戸時代の船乗仲間の間では、「阿波の鳴門か銚子の川口、伊良湖渡合が恐ろしや」とうたわれ、利根川の河口を日本三大海難所に入れていた。河口では外洋からの波浪と河川流とがぶつかり合い、波長の長い尖った高波が発生し、難破転覆の惨事が絶えなかったからである。川口にかかったが最後、自分の船をあやつるだけで精一杯という状況であり、「銚子の川口てんでんしのぎ」の俚諺が生まれた[63]。1609年(慶長14年)には名洗浦から利根川の間に堀割を掘削する工事が行われている。目的は太平洋と利根川を運河で結ぶことで、利根川の河口を避けて船を通すためである。工事は失敗に終わったが、市公正図書館の脇を流れている滑川がその遺構として残っている[31]。
利根川の河口を眼下に望む川口町の千人塚は、近世以降銚子港付近で遭難した船の乗組員を葬ったところである。昔はこの塚の上で焚火をして、帰りが遅い漁船の目印としていた。幕末、異国船の来航がしきりになった折には、高崎藩は塚上と伊勢路浦(海鹿島海岸)に砲を置いて港口警備にあたり、川口砲台または千人塚砲台と呼ばれた。千人塚は塚の名が示すとおり墓所で、ここに遭難者の遺体が葬られた。戦後漁港工事のため塚の周辺の一部が掘削されたとき、多数の人骨が発見されている。これらの人骨は火葬の上、再び千人塚に葬られた。遺体が収容されない行方不明者の場合も、千人塚が墓所となって供養されてきた[63]。
1960年(昭和35年)には、海難防止悲願をこめて、漁業関係者によって新たに海難漁民慰霊塔が建立された。塔の題字は時の内閣総理大臣岸信介の揮毫によるものである。また塔に向かって左側に、銚子の生んだ現代日本画家渡辺学の漁民の図を刻んだ記念碑も建てられた。この年以降、銚子漁港では土木・港湾技術の粋を集めた建設工事が進められ、1971年(昭和46年)9月に漁船の新航路が開通してからは、利根川の河口付近での遭難はなくなった[31]。かつては人工を寄せつけないと思われてきた川口の荒磯は近代的漁港に変貌し、埋立地には水産加工場が立ち並ぶようになり、銚子は国内有数の水産都市へと発展を遂げた。千人塚では犠牲者の霊を弔うため、毎年4月に妙福寺による「川施餓鬼」が行われている[62]。
犬吠埼灯台[編集]
銚子で文明開化の先駆けとなったのは、犬吠埼灯台であった。1874年(明治7年)11月、海上交通の安全を期して、白亜の西洋式灯台が銚子半島の一角、犬吠埼に点灯した。これにより太平洋通いの船舶は、行き来の際にこれを目標とし、また沿岸航行の漁船もこれによって安全を得ることとなった。この種施設としては日本最古の一つであり、明治以来銚子の象徴として、宣伝印刷物や商品の図案に用いられている[63]。1866年(慶応2年)5月、幕府が英仏蘭米四国との間に締結した改税約書に基づき、犬吠埼へ西洋型第一等灯台を建設することが明治政府とアメリカ公使との間に商議されたのが犬吠埼灯台建設の起因である。維新直後の1869年(明治2年)には相模原観音埼灯台と安房国野島埼灯台が相次いで開業し、以後続々と各地に建設されており、犬吠埼は24番目にあたるものである。灯台を犬吠埼、海抜約51メートルの断崖に定めたのは、1871年(明治4年)3月工部省招聘のイギリス人技師リチャード・ヘンリー・ブラントン等一行が、灯明台視察船テーポール号に搭乗し、この地に来て上陸査定した結果である。1872年(明治5年)に新治県から受領した敷地は650坪であったが、数次にわたる施設の拡充や各種増築によって、最終的に5870坪に拡大した[63]。
起工は1872年(明治5年)9月28日、竣工は1874年(明治7年)11月15日、造営にあたったのは、ブラントンはじめ工事係中沢孝政、道家紋太郎らと器械取付方のイギリス人ジェームス・オーストレル、銚子の大工棟梁松本久左衛門らであった。造営材料は、香取郡産の木材、茨城県筑波郡北条町小田山産出の花崗岩、高神村産銚子石、香取郡高岡村製造の煉瓦を使用し、セメント、硝子板、金属器具、灯台器械類は外国産が用いられた。材料中最も多量を要する煉瓦については、中沢孝政が腐心の末良質の土を発見し、土地の旧藩士に製造法を伝授して、外国品に比較して遜色のない国産煉瓦を完成させた。造営費の総額は当時としては高額の4万4835円63銭に達した。濃霧や降雪に襲来によって光芒も認識されない場合のため、1909年(明治42年)7月には霧信号所が設けられ、20馬力の吸入瓦斯発動機を原動力としてサイレンを吹鳴した。霧笛信号は30秒ごとに5秒間吹鳴し、音達距離は約10海里に及んだ[63]。1935年(昭和10年)には、還暦犬吠埼灯台祭が逓信省後援のもと催された。記念式典にはフランス大使代理、逓信大臣代理以下関係方面の名士百余人、地元関係者2000人が参列し、灯台構内には逓信大臣床次竹二郎の揮毫による記念碑が建立された[31]。
犬吠埼灯台は初期には逓信省、運輸省等に所属していたが、1948年(昭和23年)海上保安庁発足に伴って移管され、1953年(昭和28年)に犬吠埼航路標識事務所が発足し、川口の一ノ島灯台や長崎鼻の照射灯に至る一切の施設を管理することとなった[63]。犬吠埼航路標識事務所は組織の統合により、2003年(平成14年)4月1日に銚子海上保安部航行援助センターとなった。2002年(平成14年)には、社団法人燈光会が日本財団及び銚子市の支援を受けて、灯台敷地内に犬吠埼灯台資料展示館をオープンした[31]。2020年(令和2年)には灯台・旧霧笛舎・旧倉庫が国の重要文化財に指定され、参観可能な灯台としては日本最多の参観者がある[76]。
銚子無線電信局[編集]
1908年(明治41年)5月16日、逓信省が日本初の無線電信局として銚子無線電信局を開設した。マルコーニが無線電信を発明した1895年(明治28年)から数えて13年後のことである。その位置は本銚子町平磯台(現川口町2丁目)であった。ここに日本初の電信局が置かれたのは、航行中の船舶との無線電信電報業務を行い海岸局の設置位置として銚子の地の利が適していたためである。全長約67メートル、鉄製円筒各3メートルずつの22本を接合して建てられた鉄柱が建っていた。これがコンクリート基礎上に直立して天を摩していた壮観は、犬吠埼灯台と並んで銚子名所となっていた[63]。同年5月27日午後8時、横浜港を出帆しアメリカのシアトルに向けて航行中の「丹後丸」が、野島崎沖で銚子無線電信局の信号であるJCSを捉え、報知新聞宛に「二時横浜港出航、今銚子ヨリ西南六十六海里ニアリ初メテ無線電信ヲ開ク感度良シ」を打電した。銚子・東京間は有線電信で送られた。これが海岸局と船舶局との間における日本初の無線電報である。初期の無線は通信距離の拡大と通信内容の充実が進められ、電波帯も中波から短波へと広げられていった[31]。
1929年(昭和4年)3月、銚子無線電信局を送信所と受信所に分離して、高神村後新田(現小畑新町)に受信所を新設するとともに、旧局舎は分室として本銚子送信所と称した。この送信所は1939年(昭和14年)に椎柴村大字野尻字滝ノ台(現野尻町)に移転、銚子無線電信局椎柴送信所となった。戦後は銚子無線電報局と改称し、1960年代から1970年代にかけて、送受信設備の拡充整備、電波増設、出力電力増と取扱通数の増加から、世界一の無線局となり、全世界の海上を航行する船舶と24時間体制で交信した[31]。また、日本が初めて南極観測を開始し、オングル島の昭和基地に第一次の越冬隊員を派遣した1957年(昭和32年)から日本では唯一の南極との通信の基地局として様々な重要な通信を行った。このようなことから、銚子無線電信局のコールサインであるJCSは世界のJCSとして知れ渡った[31]。
海事衛星通信の増加や外航船乗組員の減少に伴う国内電報取扱数の減少を受け、銚子無線電報サービスセンターの業務は長崎無線局へ統合されることとなり、1996年(平成8年)3月31日に廃止され、1908年(明治41年)以来88年の日本最初の無線電信局はその任務を終えた。銚子市は銚子無線が古く明治後期から市の歴史と関わってきたことを踏まえ、小畑無線跡地を生涯学習・コミュニティ活動拠点として有効活用することとし、2001年(平成13年)に銚子市市民センターを建設した。発祥の地である平磯台通称夫婦ヶ鼻には、1940年(昭和15年)に逓信省が建立した「無線電信創業之地」の記念碑がある。夫婦ヶ鼻付近は銚子漁港の建設によって大きく変貌したが、碑はなお太平洋を望んでいる[31]。
郷土の人物[編集]
田中玄蕃[編集]
江戸時代末期の銚子経済界を代表した田中玄蕃は、ヒゲタ醤油の醸造元として早くから巨富を積み、その存在は諸国にまで広く知れ渡っていた。歴代の領主もこれを重視し、幕末高崎藩では経済上の支援を少なからず仰ぎ、御用達頭取として、苗字帯刀はもとより御祐筆次席格・非常鑓御免の特別待遇を与えている。庄屋・名主あるいは郷士でも稀であり、封建時代の地方町人としては最高の身分地位を保証されていた。当時の銚子庶民の間では「銚子でサマの附くのは観音様に玄蕃様」と口ずさまれたほどである[63]。
その家系は、円福寺過去帳や同家所蔵位牌によると、初代は1556年(弘治2年)、また2代は1561年(永禄4年)の没となっており、その頃から基礎が出来上がった富農とみられる。その前後は、海上氏の庇護によって大地主となっていた円福寺の力が少しずつ衰えていく時代であった。それが少なからずこの新興富農に移動し、次いで干鰯産業や江戸の興隆に順応した醤油醸造により、揺るぎない商業資本を蓄積したのである。江戸時代初頭の1616年(元和2年)、摂津国西ノ宮出身の豪商真宜九郎右衛門の教示により溜醤油の醸造を始め、ヒゲタ醤油の起こりとなったと伝えられる。1717年(享保2年)には今宮村に醸造所を増設するほど発展した。1695年(元禄8年)9月からは伊勢地浦に船着場の普請工事を始め、同海岸を開発して干鰯場を設けている。同家に伝わる旧記中、「先代集」(5代繁貞首記)と「後代記」及び「玄蕃日記」95冊は、銚子郷土史料としてばかりでなく、日本の近世商業史研究の上からも貴重な資料である。特に「玄蕃日記」は10代貞矩と11代憲章がその家を治めた61年間にわたり、父子継承して続けられた日記で、気象に始まり家事のメモから商売や社会の事象まで、毎日欠かさず書き留められている。1812年(文化9年)に始まり1872年(明治5年)に及んでいる膨大な記録で、地方庶民史料としては全国的に珍稀なものである[63]。
明治から大正年代にかけての当主、13代直太郎(金兆子)は「醤油沿革史」「醤院座神・高倍神考」等の書を編纂した。また、近郷の有志たちと相談し、多くの困難を経て1897年(明治30年)に総武鉄道を銚子まで開通させた。当時船便で17時間を要した銚子・東京間は、汽車で4時間に短縮され、沿線、特に銚子は大きな利益を得て、急速な発展を促した。ヒゲタ醤油は1914年(大正3年)9月、濱口吉兵衛(ジガミサ印)・深井吉兵衛(カギダイ印)の同業と合併して銚子醤油株式会社に改められ、1918年(大正7年)9月に株式会社に改組された。1937年(昭和12年)5月に野田の茂木家資本が入ると、その傍系会社となって田中家の手を離れ、銚子の玄蕃としての長い歴史を終えた[63]。銚子には玄蕃山、玄蕃坂の地名が残り、醸造用水として用いられていた竜の井(玄蕃井戸)は国の近代化産業遺産に登録されている。銚子醤油株式会社は1976年(昭和51年)に社名変更し、ヒゲタ醤油株式会社となった[77]。
崎山次郎右衛門[編集]
江戸時代中期の銚子に最初に現れた紀州移民の代表者は崎山次郎右衛門である。紀州日高郡由良の出身で、その先は同地長尾城主碕山飛騨入道と伝える。後に有田郡広村に住し、寛永・正保の頃浦づたいに漁業をしつつ房総半島に来て、1656年(明暦2年)飯沼村に腰をおろした。後に今宮村に移り、任せ網と呼ばれる漁法を始め、1658年(万治元年)に高神村外川浦を開き、1661年(寛文元年)その地へ移住した。彼が第一に力を注いだのが築港事業であり、僅か6年間に外川築港を完成した。次いで外川市街の区割を決定し、西方寺を建立し、自己の邸宅を構え、大井戸を掘削し、干鰯場を開いて、漁港としての設備を全て具備するに至り、関東一の外川港を実現した。その間僅か20年である。ここで郷国から多くの漁夫を呼び寄せ、漁業と海運を営んで巨富を積んだ。このため当時の外川浦は千戸以上に達し、その築港と市街整備は「外川千軒大繁盛」の口碑を残している[63]。
外川浦は延宝年中に大津波に遭い、漁船・漁具はじめ家屋多数を流失し、溺死500名に及ぶという全滅に近い惨害を被ったが、その後年を追って復活した。1755年(宝暦5年)頃からは次第に不漁となり、1768年(明和5年)の大不漁を境に50張余もあった八手網が僅か3張を残すだけとなり、ほとんどの網方や商人も転退してしまい、1774年(安永5年)5月、2代崎山次郎右衛門は紀州に帰らざるを得なくなった。しかしこの不漁も寛政年間には漸次回復に向かい、外川浦もまた復興した[63]。
これより先、初代次郎右衛門は1675年(延宝3年)郷里に引退し、1688年(元禄元年)に78歳をもって死去している。彼が開基となって建立した西方寺は廃絶し、その本尊阿弥陀如来像と崎山夫妻木像、彼の事績を記した「外川由来記」1巻は共に本寺であった宝満寺に移されたが、太平洋戦争の空襲によって焼失した。彼が銚子で成功活躍したことは郷里紀州に喧伝されて、紀州人は銚子への関心を高めた。以後漁夫や商人は陸続として来銚し、後に醤油醸造を興して財を成す者も多く、富裕商人の大部分は彼らが占めることとなった。銚子の商店には、湯浅・紀ノ国・印南・美呂津・日高等、紀州地名ゆかりの名が多い。いずれも父祖出身地を示すものであり、銚子の特色である[63]。1898年(明治31年)には、紀州人の子孫が「木国会」を結成した。妙福寺境内には先人の遺徳を讃える「紀國人移住碑」があり、毎年5月に慰霊祭を行っている。
庄川杢左衛門[編集]
高神原町の東南隅、原と俗称される一帯の台地の外れは切通しの坂になっている。切通しの右手には庚申塔群の林立する都波岐神社があり、その反対側の石段上に庄川杢左衛門の碑がある。地方民の間には、天明年間に高崎藩の代官として銚子地方に派遣されていた人で、天明大飢饉の際に領内庶民の難渋するのを見兼ね、藩の銚子米蔵を開いて救済の緊急手配をとったが、その独断専行の責任を問われて自刃したという伝説が流布されている[63]。碑文には1790年(寛政2年)57歳で病死したとあって、再三にわたる救米数千俵と救恤金数百両により、二万余人の者が起死回生することができたと、その仁慈の徳を讃えている。碑は没してから三十三回忌にあたる1823年(文政6年)に、高神村名主の加瀬新右衛門が主となって、村民一同が建立したものである。村の古い盆踊歌に「じょうかんよ節」があり、情深かった代官(じょうかん)を偲んでいる[63]。
- じょうかんよ節
- 様よ三夜の三日月様よ宵にちらりと見たばかり
- 胸に手をあて庄川様は人のためなら是非もない
- 許しを得ずに米蔵開きお役ご免で自刃する
濱口儀兵衛[編集]
ヒゲタ醤油の田中玄蕃が江戸時代の銚子を代表するものとした場合、ヤマサ醤油の濱口儀兵衛は大正以降これに代わってその地位にあった[63]。「浜口梧陵伝」所収の系譜によれば、先祖は尾張管領斯波氏の家臣、濱口左衛門太郎平安忠である。その4世教清の次子、知直が1700年(元禄13年)銚子店の開祖となって初代儀兵衛を名乗り、以来ヤマサ醤油の当主となっている。これより先、荒野村に来て、1645年(正保2年)にヤマサ醤油を創業したと伝えられる。濱口は江戸で金融を業としており、その一方で着手した新事業が銚子における醤油醸造であり、後にこれが江戸の発展その他の諸条件に恵まれて隆盛し、専業となった[63]。
- 濱口梧陵
1820年(文政3年)6月15日、分家濱口七右衛門の長子として紀州に生まれ、1831年(天保2年)9月、12歳で本家の養嗣子となり、幼名七太を儀太と改めた。そして初めて江戸日本橋小網町の濱口家(吉右衛門)を経て銚子店に移り、家業を見習うこととなった。これより20歳で結婚するまで、数年間銚子に滞在し読書・修養に努め、特に剣道を今宮村目出度町の寛竹に学んだ。後年佐久間象山・三宅艮斎・勝海舟・陸奥宗光・福沢諭吉ら、当時最もすぐれた学者や経世家と親交を結んだ。1854年(安政元年)11月4日の広村大津波に際して彼がとった沈着適切の処置が多くの人命を救い、またその後の防波堤築造のため後顧の憂いを絶った事績は、小泉八雲がその著の中で「生ける神」として紹介されて世界に知られ、また戦前の国定教科書に採録された[63]。
梧陵の銚子における特筆すべき事績はコレラ防疫に対する処置である。1858年(安政5年)、コレラが流行し、江戸を中心として猖獗を極めていた時、江戸にいた梧陵は銚子の開業医関寛斎に一書を送った。内容は、江戸で猖獗を極めている悪疫は早晩銚子方面にも蔓延することは必至であり、この予防及び治療法を研究するため急ぎ出地するようにというものであった。梧陵は江戸で寛斎を迎え、当時の大家である林洞海・三宅艮斎の両氏に紹介し、予防及び治療法の研究に関して便宜を図った。寛斎は臨床的にコレラ患者の治療法を学び、また実地に就て各方面より予防法を研究した。この後寛斎は梧陵の命によって予防薬及び治療に関する薬品・書籍等を購入して銚子に帰った。銚子は既にコレラ流行地となっていたが、寛斎は江戸で学んだ治療及び予防法を応用し、全力を挙げてこの撲滅に従事した。このため、銚子地方はコレラ大流行を見ることはなかった[63]。
明治新政府になってからは駅逓頭に任じられ、のち和歌山県大参事・同県会議長等を務めて地方行政に尽くした。1884年(明治17年)5月、欧米視察のため渡米したが、翌年4月21日ニューヨークの客舎に病没した。享年66歳、遺骸は郷里有田郡広村安楽寺に埋葬された。墓域には1893年(明治26年)4月、勝安房撰文・題額の遺徳碑が建立された。銚子には1897年(明治30年)1月、勝安房題額・重野安繹撰の紀徳碑が営まれた。1915年(大正4年)11月10日、政府は生前の諸功績に対して従五位を追贈した[63]。
- 濱口梧洞
名は慶次、1874年(明治7年)4月24日8代儀兵衛(梧荘)の次男として紀州に生まれ、1892年(明治25年)東京帝国大学理科選科に学び、のち1893年(明治26年)10月より翌年9月まで欧米諸国を歴遊した。イギリスでは、特にグラハム博士について醸造科学を専攻した。1899年(明治32年)には銚子に日本最初の醤油研究所を設置した。1928年(昭和3年)1月から1943年(昭和18年)5月までヤマサ醤油社長に就いた[63]。
1925年(大正14年)8月、貴族院議員補欠選挙に当選し、以後3期を務め、1939年(昭和14年)9月まで貴族院研究会に属した。1934年(昭和9年)にはその功により勲四等に叙せられ瑞宝章を賜った。また、全国醤油醸造組合連合会理事長・全国醤油統制株式会社社長等を歴任した。他方、銚子の公益に貢献した事業として財団法人公正会がある。1924年(大正13年)8月に私財を投じて建設された公正会館は、公正学院・図書館・人事相談所等の施設を具備して、当時の銚子町を中心に2町2か村の総合社会教育機関として益することが大であったが、1948年(昭和23年)3月、財団法人は解散して施設の一切は市に寄付された。1956年(昭和31年)1月、銚子市名誉市民に推挙され、銚子市公正市民館前に寿像が建立された。1962年(昭和37年)1月31日、89歳をもって没し、銚子市は同年2月に濱口家の菩提寺宝満寺において市葬を執行した[63]。
関寛斎[編集]
1830年(天保元年)2月18日、上総国山辺郡中村の農家、吉井佐兵衛の子として生まれた。幼名豊太郎。14歳の時、母方の関俊輔の養子となった。養父は素寿と号し、製綿堂という塾を開いていた儒者であり、寛斎は養父から薫陶を受けた。1848年(嘉永元年)19歳の時、佐藤泰然の門に入って佐倉順天堂で医学を修めた。23歳の冬帰郷し、4年の後に銚子荒野村に移住し、洋方医として開業した。4月には濱口梧陵と初めて面識した。梧陵は寛斎を江戸に呼んで当時蘭医の大家といわれた伊藤玄朴・林洞海・竹内玄司に引き合わせ、彼のために支援した。1860年(万延元年)12月には、梧陵の一切の負担によって長崎に新医学研究のため遊学した。1862年(文久2年)7月、銚子をはじめ全国にコレラが流行し、この防疫と治療に大いに尽力した。同年12月には徳島藩主蜂須賀茂韶の国詰侍医に推され、翌年3月赴任した。明治になってからは海軍省医・山梨県立甲府病院長等を務め、晩年73歳で札幌市に移住、陸別の奥地開拓を進め、同村の開祖となった。1912年(大正元年)10月15日83歳で没し、青竜山に葬られた[63]。中央町の本通りには「関寛斎ゆかりの地」の石柱が建っている。
濱口吉兵衛[編集]
1868年(明治元年)7月紀州有田郡広村に生まれた。父は9代吉兵衛門。第一高等学校・帝国大学に学び欧米を視察し、帰国後、志願兵として近衛師団に入営し、日清・日露戦争に従い、歩兵中尉に任じられて、従七位に叙せられた。1906年(明治39年)戦功により勲六等単光旭日章を授けられる。1920年(大正9年)銚子醤油株式会社社長となり、同年衆議院議員に当選、1922年(大正11年)勲四等瑞宝章を賜った。1924年(大正13年)再び衆議院議員に当選、1928年(昭和3年)御大典に際し地方産業発展に功労により緑綬章を賜った。銚子港修築にあたっては、衆議院議員となってこれの実現のために奔走し、貴衆両院の協賛を得て国庫の補助によって千葉県営のもとに起工し、1939年(昭和14年)に竣工した。1935年(昭和10年)10月、市の有力者間に銚子港修築の功労者として吉兵衛の寿像建設の議がおこり、1937年(昭和12年)に建立されたが、1943年(昭和18年)、太平洋戦争の金属回収により応召撤去された。戦後、銚子市制施行20周年記念事業の一つとして新生河岸通り公園内に再建され、1955年(昭和30年)11月21日除幕式が行われた。吉兵衛は1940年(昭和15年)10月4日、74歳をもって東京に没し、多磨霊園に埋葬された[63]。
松井簡治[編集]
1863年(文久3年)5月18日銚子新生に生まれた。父は宮内嘉長で、松井清の養嗣子となって後を継いだ。1890年(明治23年)、東京帝国大学文学部国文学科を卒業し、学習院教授・東京師範学校教授となり、1920年(大正9年)5月、文学博士を授与された。刀水と号し、著書多数があるが、その主要なものとして、1900年(明治33年)から20年の歳月をかけて刊行された「大日本国語辞典」全4巻がある。 6千頁、2万余の語句を収録し、吉田東伍博士の「大日本地名辞書」と並んで二大名著である[78]。 1945年(昭和20年)9月26日に没し、雑司ヶ谷霊園に葬られた。生前「銚水会報」に「吾が銚子」という一文を寄せている[63]。新生町の峯神社には「松井簡治ゆかりの地」の石柱が建っている。
国木田独歩[編集]
明治文壇に不朽の足跡を残した国木田独歩は、戸籍によると1871年(明治4年)7月15日、銚子に生まれている[79]。通説では、難破した播州竜野藩用船の竜野丸に乗り込んでいた藩士、国木田専八と銚子の淡路まんとの間に生まれた子とされている[79]。父である専八は、難破と共に負傷しその療養のため観音前の吉野屋旅館に滞在、そこで女中をしていた淡路まんと結ばれたのであった。独歩誕生の地は、銚子銀座の美呂津薬局裏手あたりに淡路家があったため、同所と推定される[79]。郷土を離れてからの独歩はその短い生涯の大半を東京で過ごし、生活のため各地を転々としたが、何度か保養のため帰郷し、宿泊先の暁雞館から妻に宛てて便りを書いている。彼の終焉は1908年(明治41年)6月23日、神奈川県茅ヶ崎市の南湖院病室で、38歳の若さであった。南湖院は有名な結核療養所であり、明治から大正にかけて幾多の文人が入院し、またその多くがここで他界している。その「病状録」には望郷の念を口述して知友真山青果に筆記させている[79]。
余は水を愛し、雲を愛す。雲を見て空間の無限を恐れ、海を見て空間の無限を知る。然かも海に立つ毎に余は必ずしも対岸を思はざる事あらざるなり。夏の波は高く、冬の波は低し、土用七月の波、これを犬吠岬に見る。その壮観未だ忘るゝ能はず。河流を見て天智の悠久を知る。斯の水、斯の人、何の時か又相会はんや。利根の大流に潸然として涙を濺ぎし事ありき
「病状録」
独歩碑建立の議は幾度か銚子の有志間に取り上げられていたが、実現したのは戦後である。海鹿島海岸の松林に囲まれた一角に巨像が横たわったような形をしている自然石の碑がそれで、1952年(昭和27年)7月15日に落成、除幕式が行われた。全て市民有志の寄付により、「なつかしきわが故郷は何処ぞや、彼処にわれは山林の児なり」の碑文は、詩人日夏耿之介の揮毫にかかる[63]。揮毫の原本は銚子市公正図書館に掲げられた。2008年(平成20年)には、没後100年を記念して、国木田独歩の会及び国木田独歩百年忌記念事業実行委員会により、銚子駅前広場に記念碑が建立された。
文芸[編集]
文化・文政の頃から江戸在住の文人墨客が銚子へ相次いで来遊し、銚子の海岸の風光を和歌・俳句・漢詩に詠み、あるいは文に記し絵にして雅懐を述べている。磯巡りという言葉もこの時代には既に生まれており、文人墨客に限らず一般の人々も含めて、海岸見物が銚子を訪れる人々のコースの一つになっていた。文人墨客の作品は一様に、銚子の海岸の奇岩、断崖、白砂、青松、怒涛等、変化に富んだ明媚な風光を讃えている[31]。海岸以外の名所として江戸時代に著名であったのは飯沼観音や和田不動、川口明神等の寺社であった[31]。文人墨客の中には船主や素封家に寄食し長逗留する人もいて、その折に書画等が記念として贈られたため、多くの作品が銚子に残されている[80]。
犬吠埼周辺は景勝地として古くから知られていたが、1874年(明治7年)の灯台建設後、犬吠埼は磯巡りの名所から、灯台見物や海水浴を目的とした観光の拠点となっていった。1885年(明治18年)には旅館暁雞館が創立されて、その離れ「水明桜」には明治期の多くの文人が宿泊している。この頃日本国内において、治療行為としての海水浴が開始され、暁雞館はこれらの潮湯治客を相手としていた。その後、1897年(明治30年)に総武鉄道が銚子まで開通し、それまでの蒸気船による交通から、より以上の便をもって東京と結ばれた。こうした状況の中、伏見宮家の別邸の用地として犬吠埼が選定され、1905年(明治38年)に竣工した[21]。総武鉄道の銚子駅と犬吠埼付近を結ぶ銚子遊覧鉄道も整備され、1913年(大正2年)から1918年(大正7年)まで営業した。遊覧鉄道の廃業後、1923年(大正12年)には銚子鉄道が営業を開始した。銚子鉄道の出資者で、仙台出身の武田辰之助は銚子に移住後、1921年(大正10年)頃に「海鹿島保健別荘地」を建設し、海鹿島で旅館仙松軒を経営した[81]。昭和初期、利根川河畔の旅館では夏宿泊客のため、利根川に納涼船を出し、投網船のとった魚をその場で料理して食べさせるということも行っていた。戦後1959年(昭和34年)には、犬吠埼を中心とする海岸地帯が「自然公園法」に基づく国定公園に指定された。1975年(昭和50年)からは、東京・銚子間に特急列車「しおさい」が運転されている[31]。
松尾芭蕉[編集]
浄土宗の名刹で大銀杏や老松が枯淡な趣きを見せる春日町の浄国寺境内には、1846年(弘化2年)に建立された芭蕉の「枯枝にからすのとまりけり秋の暮」の句碑がある。句碑の片隅には檀家の行方屋庄治郎(俳号桂丸大里氏)の句がある。浄国寺は江戸時代には江戸の文人墨客や風流雅人が好んで足を運んだ所であり、渡辺崋山や梁川星巌とその妻紅蘭、小林一茶等もその名を連ねている[79]。
桂丸は銚子の廻船問屋「行方屋」の6代大里庄治郎富文である。葛斎恒丸に俳諧を学び恒斎桂丸と号した。編著に「椎柴」があり、青野太筇の序、豊島久蔵(由誓)の跋を得ている。桂丸は渡辺崋山や一茶の後援者の一人としても知られ、一茶の「七番日記」の中に桂丸との風交が記されている[79]。
小林一茶[編集]
民衆俳人として親しまれている小林一茶は、文化年中に何度も下総各地の俳友や弟子を訪ねて来遊している[79]。1817年(文化14年)には江戸隠退を決意、その挨拶巡りのため、松戸の馬橋、布川、鹿島詣での後、潮来から船で銚子入りをしている[63]。浄国寺境内の望西台上で吟じた句として、この台の清風ただちに心涼しく西方浄土もかくあらんと、「ほととぎす爰を去ること遠からず」の句を残している[79]。
十返舎一九[編集]
十返舎一九の銚子への来遊は1816年(文化13年)であるが、「玄蕃日記」の同年閏8月18日の条にもそのことが見えている。銚子地方の紀行をまとめたものは「南総紀行旅眼石」で、この時下総を巡遊して各地に狂歌の愛好家を訪ねている。この時、一九は江戸を出て一路香取神宮に詣で利根川を下り、松岸・銚子に来て磯巡りをし、更に鹿島神宮から水戸・筑波・日光を経て帰っている[63]。銚子の街の様子を詳しく記述し、旅館や料亭、名所等を具体的に挙げている[80]。特に松岸・本城の遊郭に遊楽して遊女の源氏名を挙げている。これ以後、銚子では狂歌が盛んになり、廻船問屋の十五屋が狂歌会を催し、その伝統は明治・大正にまで及んだ。明治に入ってからは情歌の称が起こって神社奉納の歌会がしばしば催されている[63]。
天保水滸伝[編集]
銚子に多くの物資が集まり日雇いの労働者や博徒等も増えてくると、それらを束ねる親分衆も生まれた。後に講談や浪曲で「天保水滸伝」で有名になる笹川繁蔵は1810年(文化7年)、笹川で醤油・酢の製造を営む家に生まれ、江戸の相撲部屋にいたのち笹川で一家をおこした。一方、敵対する飯岡助五郎は1792年(寛政4年)に相模国三浦郡公郷村で生まれたが繁蔵と同じく相撲部屋にいたのち銚子に流れ着く。ここで銚子の五郎蔵の代貸をしたのち十手を預かるようになった。利根川下流域の常陸から下総を舞台にして、繁蔵と助五郎の縄張り争いが激化し、最初の利根川の決闘では繁蔵の圧勝であったが、その後助五郎の子分三人に繁蔵は殺される[62]。
江戸で相撲部屋に入っていたという繁蔵、助五郎のほか、助五郎を見込んだ銚子の五郎蔵は銚子から飯岡一帯を縄張りにする博徒であったし、繁蔵の子分・平手造酒は元・紀州落士あるいは仙台藩士、繁蔵の子分・勢力富五郎も元・江戸の力士と、その人間模様は当時の下総の縮図となっている[62]。
徳富蘆花[編集]
明治を風靡した文豪の一人、徳富蘆花は房総半島には数回来遊しており、銚子へは1897年(明治30年)11月1日、日本橋蛎殻町河岸から船で、中川・江戸川を経て利根川下りで来ている。この時の紀行は「青山白雲」の中に書かれているが、2日の午後2時に銚子に上陸し吉野屋旅館に泊まった。3日は飯沼観音に詣で、浜づたいに川口・夫婦ヶ鼻・黒生・海鹿島・犬吠埼と磯巡りの後、水明楼に泊まっている。蘆花はこの地の風光を気に入り、4日、5日も同様に泊まって、長崎浦から外川方面を散策している。6日には銚子の街に出て、利根川河畔の大新旅館に一泊、翌日息栖・潮来へ出て水郷を数日めぐって帰京している[63]。蘆花は「枕を撼かす濤声に夢を破られ、起って戸を開きぬ。時は明治二十九年十一月四日の早暁、場所は銚子の水明楼にして、楼下は直ちに大東洋なり。」に始まる「自然と人生」の一編「大海の出日」において、水明楼から見た太平洋に昇る日の出を、華麗で緊迫した文語体で微細に描き出している[82]。
波の音に雑る鶏声に夢破れ、起きて縁側の戸少し開けば、海の面は猶ほの闇く、空には星爛々として下弦の月の光さやかなり。左手の方より時々白光のさし来るは、犬吠岬の燈台の回転するなり。己にして東の空少し朱黄色になりて、冷々としたる風の海面を撫づるままに、海は東より明けそめ、仰げば空の星は一つゝ消え、黄金の弓と見し月も今は白銀の光薄うなりつ。東の空は何時か燃ゆるばかり、朱紅色になり、見るが内に一分ばかり流を出づるものあり。眩ゆくして見るべからず。あゝ是れ日の海を出づるなり。真に瞬く間もなし。呀と云ふ間に、分より寸、眉よりして眼、鼻よりして口、今海を離るゝかと思へば一道の金ゆらゆらと万里の太平洋を駛りて、忽ち眼下の磯に到る頃は、吾が居る室内赫と明るくなりて、行燈の光白うなりぬ。顧みれば吾影黒う壁にうつりたり。銚子の日の出聞きしばゝ、今始めて見るを得き。
「自然と人生」大海の出日
「自然と人生」は当時のベストセラーとなり、自然を見る新しい目は旧来の花鳥風月の美意識を覆した。特に「雑木林」と「大海の出日」は明治の青年に衝撃を与え、犬吠埼の日の出へと人々を誘った[82]。犬吠埼から長崎町に至る海岸道路の端には、1957年(昭和32年)徳富蘆花三十回忌の日に、銚子文化遺跡保存会が建立した「水明楼之趾碑」がある。
高村光太郎[編集]
高村光太郎が銚子を訪れたのは1912年(大正元年)夏のことで、その頃デカダンに陥り悩み果てていた光太郎は、犬吠埼に写生に訪れて暁雞館に宿泊し、同じく訪れた長沼智恵子と出会った。光太郎は智恵子を以前から知っており、この夏の犬吠埼で2人の間に強い繋がりが生まれた。光太郎に会いたい希望は智恵子から出たもので、柳敬助夫人や日本女子大学の先輩・八重が仲立ちに立ったと言われている[80]。詩集「智恵子抄」に付されている「智恵子の半生」にこの夏のことが書かれている[79]。
丁度明治天皇様崩御の後、私は犬吠へ写生に出かけた。その時別の宿に彼女が妹さんと一人の親友と一緒に来ていて又会った。後に彼女は私の宿へ来て滞在し、一緒に散歩したり食事したり写生したりした。様子が変に見えたものか、宿の女中が一人必ず私達二人の散歩を監視するためついて来た。心中しかねないと見たらしい。智恵子が後日語る所によると、その時若もし私が何か無理な事でも言い出すような事があったら、彼女は即座に入水して死ぬつもりだったという事であった。私はそんな事は知らなかったが、此の宿の滞在中に見た彼女の清純な態度と、無欲な素朴な気質と、限りなきその自然への愛とに強く打たれた。君が浜の浜防風を喜ぶ彼女はまったく子供であった。しかし又私は入浴の時、隣の風呂場に居る彼女を偶然に目にして、何だか運命のつながりが二人の間にあるのではないかという予感をふと感じた。
「智恵子の半生」
この出会いの後智恵子は熱烈な手紙を書き送り、光太郎も「此の人の外に心を託すべき女性は無いと思うように」なって、やがて結婚した[79]。
暁雞館には当時、水汲みや雑役に太郎と呼ばれる大男がいて、光太郎はこの太郎をモデルに、「犬吠の太郎」と題する一編の詩を作っている[80]。
- 犬吠の太郎
- 太郎 太郎
- 犬吠の太郎 馬鹿の太郎
- けふも海が鳴ってゐる
- 娘曲馬のびらを担いで
- ブリキの罐を棒千切で
- ステテレカンカンとお前がたたけば
- 様子のいいお前がたたけば
- 海の波がごうと鳴って歯をむき出すよ
(以下略)
犬吠埼の強風に荒れ狂う怒涛のリズムを取り入れた、口語体で書かれたこの詩には、当時の光太郎の鬱屈した心理状態が反映されている[80]。
三富朽葉・今井白楊[編集]
早稲田大学出身の青年詩人三富朽葉と今井白楊が1917年(大正6年)8月2日、波荒い君ヶ浜に水泳を試み、一人が溺れているのを救おうとして相共に激浪にさらわれて死んだ。朽葉の父は悲嘆のあまり翌年8月、ここに涙痕の碑を建てて追悼した。二人はこの海岸にあった三富家の別荘に来ていての遭難であった。その前後の模様は「追悼録」に詳しく、また「新東京文学散歩」(野田宇太郎著)は朽葉について「明治四十四年早稲田大学を卒業する以前よりフランス近代詩に意を傾け、サンボリウムに感化され、次々に注目すべき作品を発表していた。『早稲田文学』『劇の詩』などの早稲田系の雑誌のみならず『創作』『文章世界』『ザムボア』などでもその作品は光った」と記している[63]。
竹久夢二[編集]
大正浪漫を代表する叙情画家である竹久夢二は、海鹿島を訪れた際に次の詩を作っている[80]。
- 宵待草
- 遣る瀬ない釣り鐘草の夕の歌が あれあれ風に吹かれて来る
- 待てど暮らせど来ぬ人を 宵待草の心もとなき
- 想ふまいとは思へども 我としもなきため涙 今宵は月も出ぬさうな
夢二は1910年(明治43年)夏に海鹿島を訪れ、宮下旅館に間借りをした。宮下旅館の南隣には長谷川康という名望家がいた。子供が4人あって、長女がシマ、次女がカオル、三女が賢(カタ)、長男が某といった。 夢二は賢を見そめ、長谷川家に近づき、彼女を散歩に誘い出すことに成功した。海鹿島の松林の中には犬吠埼灯台へ行く白い路が延びており、夢二はここを通い路と名付け、逢瀬を重ねた。その様子は集落中の大評判になった。夢二は翌年再び海鹿島を訪れたが、賢はすでに鹿児島の教師のもとへ嫁入りをしていた。この詩は、夢二が失望のあまり当てもなく海鹿島海岸をさまよっていた時、海岸に咲き乱れるマツヨイグサによせてわが身の悲恋をうたったものである。原詩は3行詩の形に改められて、1923年(大正12年)発行の「どんたく」に掲載された。これにヴァイオリン奏者・多忠亮がメロディーをつけて、一世を風靡した[80]。1971年(昭和46年)、房総夢二会が海鹿島の思咢庵美術館敷地内にこの歌碑を建てた。1983年(昭和58年)には、市民投票の結果、銚子市の花としてオオマツヨイグサが選定された。銚子市では夏の夕景として市民や来遊者の目を楽しませようと、海鹿島から犬吠埼にかけての海岸通りにオオマツヨイグサの苗の植付けを行っている[31]。
小川芋銭[編集]
河童の絵で有名な日本画家の小川芋銭は、1923年(大正12年)、東京三越の展覧会が終わった直後、後援者であった篠目八郎兵衛の勧めにより、海鹿島海岸の高台にある篠目別荘で休息した。芋銭は逗留中に「樹間如水人如魚」や「水魅戯」を描き、海鹿島海岸に魅せられた。翌年、海鹿島を再度訪れた芋銭は篠目別荘を「潮光庵」と名付けて半年間逗留し、1938年(昭和13年)に71歳で没するまで毎年のように来て、多くの名作を描いた。1930年(昭和5年)の「積雨収」、1932年(昭和7年)の「海鹿秋来」、1940年(昭和10年)の「雲巒烟水」等である。画作の合間には、海岸を散歩し、俳句を作って楽しんだ。海鹿島滞在中、付近の人はよく「潮光庵」に遊びに行った。洗濯を手伝ったり、お茶話の相手をしたりするとよく即興に絵を描いたという[79]。特に晩年、芋銭の身辺の雑事等、何くれとなく世話した老人に山本喜三郎がおり、芋銭は昼飯時には山本家に勝手口からあがって塩鮭を自分で焼き、お茶漬けを食べるのを楽しみにしていた。海鹿島海岸には丸山あるいは鉄砲台と呼ばれる岩山があり、その自然石の断崖絶壁に芋銭の句碑が刻まれている。1960年(昭和35年)頃に銚子咢堂会が刻んだもので、1933年(昭和8年)に皇太子明仁親王の誕生を賀して詠んだものである[80]。
- 大海を飛び出づる如と初日乃出
- 銚子灘朝暾
海鹿島は「利根川図志」に「年中あしかこの島にあがること二、三十あるいは八、九十多いときには二、三百疋にも及ぶ。数百のあしかかさなりあい、上になり下になり、くるい遊ぶさま、犬の子の乳を争うが如し。その鳴き声白鳥のなくごとく、遠くまで聞こえてさわがし。」とあり、地名はこれによる。1897年(明治30年)頃までは少数のアシカが住んでいたが、その後見られなくなった。
林芙美子[編集]
君ヶ浜の松林の中にはかつて杉山平助の別荘があり、当時としてはモダンな建物であった[31]。女流作家の林芙美子は1940年(昭和15年)にここに泊まり、潮騒に眠りを妨げられるまま壁面に「激しく寝がへりを打ちてかへりゆく波のうねり、犬吠の岬に来て何も忘れ果てたり」と鉛筆で書きつけたと伝えるが、建物は戦後失われた。林芙美子は青春時代の放浪の日を銚子で過ごしたことがあり、銚子のカフェー「第二仙松軒」で女給をしていたことがあった。当時はカフェー全盛の時代であったので、銚子でもカフェーが流行し、人々は和服にエプロン姿の女給のサービスに都会的なモダニズムを味わっていた[31]。
尾崎咢堂[編集]
銚子咢堂会の招きで来銚した政界の重鎮尾崎咢堂(行雄)は、犬吠埼の瑞鶴荘で以下の句を作った。
- 朝またき彼方の岸はアメリカと聞きて爪立つおはしまのはし
この歌碑は1959年(昭和34年)11月に建てられ、海鹿島の小高い小松林の中にある。1947年(昭和22年)には海鹿島に咢堂を迎える「思咢庵」が建てられ、そばにある「思咢庵美術館」には咢堂の遺品が集められている[79]。
ノーマン・メイラー[編集]
米国人作家ノーマン・メイラーは1945年(昭和20年)の9月から翌年春まで半年の間銚子に滞在した。メイラーは短編「The paper house」で銚子について描いている[79]。
ぼくたちは…裏道や山道をジープでとばし、それから海岸へおりていって、波打ちぎわをぶらぶら歩いていった。美しい景色だった。なにもかもまるで、マニキュアみたいにみがきあげているように見えた。
ぼくたちは小さな松林を過ぎて、小っちゃな谷間にはいり岩石のふところにだかれている小さな漁師町を通りぬけて、ピクニックをしたり、話をしたり…とても楽しかった。
「The paper house」(山西英一訳)
メイラーは1946年(昭和21年)5月に帰国して「裸者と死者」を書き上げ、発表と同時に全米でベストセラーとなり、世界的にもまた大きな反響を巻き起こした。作中に登場する日系少尉イシマルの生まれ故郷は銚子で、彼は日記に望郷の思いを綴り、故郷を見ずして戦死するが、その日記を読むワカラは「日本にいたとき銚子を訪れ」ていたことになっている[79]。
2哩ばかりの銚子の半島は、日本全体の縮図だった。太平洋にむかって、数百フィートの高さに切り立った、大絶壁があった。まるでエメラルドみたいに完全で、きちんとつくられた豆絵の林、灰色の木と石塊でつくったちっちゃな漁師町。稲田。悲しげな低い丘。魚の臓腑や人糞が鼻をつく、銚子の狭苦しい息もつまりそうな町。ものすごい人だかりの漁港の波止場。何ひとつむだにするものはない。土地という土地は一千年の長きにわたって、まるで爪の手入れみたいによく手入れされていた。
「裸者と死者」(山西英一訳)
メイラーはアメリカから小説の訳者山西英一に送った手紙ではしきりに日本を懐かしみ、「日本はかつてぼくが見た最も美しい国としてぼくの記憶に生きています」と書いている[79]。
澪つくし[編集]
1985年(昭和60年)4月1日から半年間、銚子を舞台としたNHK朝の連続テレビ小説「澪つくし」が放映された。江戸時代から続く醤油醸造の旧家「入兆」坂東家と漁業「利根川丸」の船主吉武家が、大正末から第二次世界大戦の終戦直後までの激動の期間、伝統と家業を守り抜く生きざまを銚子の風土と人情の中で描いた[79]。物質文明の豊かさと裏腹に欠如している愛と勇気を訴えたドラマとして、作家ジェームス三木は「男の気骨と女の気品を描きたい」と語った[79]。また、制作の中村克史プロデューサーは「いつくしみ手がけた製品を、まさに生きものとして、このうえなく愛する人たち。日本の伝統の心、ふるさとの心を描きたい」と語っている[79]。沢口靖子・川野太郎・津川雅彦・草笛光子・桜田淳子・明石家さんま等豪華キャストの名演技と相まって連日高視聴率となった[79]。
伏見宮家別邸瑞鶴荘[編集]
犬吠埼には、かつて伏見宮家別邸瑞鶴荘があった。瑞鶴荘は1904年(明治37年)、旧伏見宮家21代当主である貞愛親王が46才の時に起工し、48才の時に竣工した。この間、親王は47才の折には華頂宮家を相続していた博恭王を復帰させて伏見宮家の後嗣としている。また、この年2月に日露戦争が始まり、親王は陸軍大将となっており、瑞鶴荘は貞愛親王の老後の別邸として設けられたものであった。宮家の別邸は京都今出川(旧本邸)、鎌倉、中野、拝島にもあったが、親王は毎年のように避暑、避寒に犬吠埼を訪れており、1923年(大正12年)、瑞鶴荘において66歳で亡くなった。次の一文は「貞愛親王事蹟」に記されているものである[21]。
前年来建築中の千葉県銚子海岸の別邸竣工を告げたるを以って、此処に2月4日より3週日に亘り避寒、8月8日より1ヶ月亘り避暑あらせられたり。 同別邸は犬吠岬に隣接し、太平洋に臨める岸上の松林中に在りて眺望大、冬は温暖、夏は冷涼、最も御意に適ひ、かつて大空より此松林に舞ひ降れ る丹頂の鶴ありたりと伝聞し給ひて瑞鶴荘と御命名あり、爾後寒暑共に、此処に避くるを例とし給ふに至り、終に御終焉の地とはなりたり。
「貞愛親王事蹟」
瑞鶴荘の敷地には、主屋、茶室、潮見亭、撞球場、倉庫等の建物があったほか、庭はいくつかの日本庭園が組み合わされたものであった。これらの建物や庭園は、海岸の風景を借景とした設計がなされていた[21]。1913年(大正2年)発行の「銚子案内」は「林中に伏見宮殿下の別邸あり、俗塵を去り霊気鐘る」と記述している[81]。
伏見宮家は旧宮家の中でも最も歴史が長く、22代500余年の歴史を有し、大正天皇の直宮三家を除いた明治維新以後の十余宮家の全てが伏見宮より出ている。また、貞愛親王は明治天皇崩御に際しては大喪使総裁、大正天皇即位大礼に際しては大礼使総裁を任じた[21]。
瑞鶴荘は1905年(明治38年)の竣工から、1926年(大正15年)に売却されるまで宮家の所有であった。 その後、1926年(大正15年)濱口麟藏、1933年(昭和8年)岡田幸三郎、1946年(昭和21年)中村庸一郎と、千葉県内の名士の所有となった。1965年(昭和40年)以後、所有団体の変遷の中で建物・庭園の荒廃が進み、1983年(昭和58年)頃、建物は取り壊された[21]。2010年(平成22年)、跡地にリゾートホテルが開業した。
磯巡り[編集]
磯巡りは江戸時代から銚子における行楽の一つの型になっており、旧暦6月15日の大潮の日は、川口神社の例祭見物と磯巡りを兼ねて、戦前から大いに賑わい、その盛んであることは銚子の年中行事中で最大のものであった。新暦では7月の半ば以降になるため真夏の行楽である。元来はその名の通り、変化の多い銚子の海岸を一周したものであるが、戦後は一周はしなくとも、海水浴をしたり、貝等を拾って楽しむ磯遊びが盛んとなり、この日の潮の引いた海岸には多くの人出が見られた[31]。
大潮の日は川口の夫婦ヶ鼻で日の出を拝む習慣が戦前からあり、旧暦6月15日夜より暁にかけて市民ばかりでなく近郷近在から数万の人々が集まった。江戸時代から銚子の名所になっていた夫婦ヶ鼻は銚子半島の北岸に位置し、東北に突き出た岬であった。高さ約20メートルの断崖をなし、その先の下部は侵食されて大きな穴になっていた。夫婦ヶ鼻の由来もこの穴にある。利根川の河口のほとりにある千人塚の方から眺めると、間の大小の岩礁と相まって一大奇観を呈していたが、1959年(昭和34年)、穴の上部が風浪の侵食によって海中に崩れ落ちた。その後1969年(昭和44年)度からの銚子漁港工事によって夫婦ヶ鼻は削られ、その下の海は埋め立てられて外港となった。日の出を拝む場所は残っており「女男ケ鼻御来光拝礼之碑」が建っている[31]。
花街[編集]
銚子の花街の始まりは、飯沼観音を中心として発生した札所巡礼相手の宿屋や茶店にある。銚子が繁栄の緒についたのは室町時代末頃のことで、それまでは一漁村に過ぎず、もとより他国と頻繁な交流を見るに至らなかった。鎌倉時代から坂東三十三観音札所の一つとなった飯沼観音に参詣する信仰巡礼者だけが、僅かに接する他国人であったのである。この巡礼者のために発達した茶店・旅籠屋等に、いつとなく出来上がった私娼窟が田中料理店街の前身である。室町時代末期、銚子は西国の漁夫の出稼ぎにより港町としての様相を呈するようになり、江戸時代に入って干鰯生産の最盛期に、笠上に遊女屋が発生した。次いで和田堀に諸国漁船の碇泊が繁くなった元禄年中、和田町に船乗り相手の売女屋が出来た。笠上の遊女屋は江戸中期に本城町に移っている[63]。
利根川の水運が開け、東北米の廻送や銚子の水産物・醤油等によって江戸と緊密に結びつくようになると、本城・松岸が発展繁昌し、両地に今までなかった立派な妓楼が建つようになった。本城は天保・弘化・嘉永と年を追って繁昌し、5軒の遊女屋に25軒の引手茶屋が軒を並べていた。本城遊廓の衰微の最大要因は、1840年(天保11年)・1849年(嘉永2年)・1861年(文久元年)と三度火災にあったことである。このため幕末の慶応年間に至ってもなおかつてのように復興せず、維新後1872年(明治5年)の法律改正により貸座敷営業となり、1879年(明治10年)廃業の諭旨を受け、1912年(大正元年)に全廃した[63]。
本城と並び栄えた松岸遊廓の開創は、本城よりやや古く、全盛は文化年中より前であるが、明治・大正に及んでもなお全国に知られて昭和まで存続した。銚子では公娼を相手とするところを女郎屋と称し、私娼を提供するところを茶屋と称したが、松岸にあったのは全て女郎屋であった。1872年(明治5年)の届出書類を見ると松岸町に4軒の女郎屋があり、総勢64名の妓が抱えられている。また1879年(明治12年)の届書には遊客を妓楼に案内する引手茶屋は24軒の名が記されており、この頃からの松岸遊廓は、大利根の流れに映える不夜城の灯火と野趣に満ちた大漁節をもって、その名が広く全国に喧伝されていた[63]。最後まで残ったのは第一・第二開新楼であるが、その前には銚港楼、稲葉楼、新盛楼等があった。第二開新楼は三層の建物が豪壮で有名であり、利根川の水を引いて周囲に堀を巡らせ、門の前には朱塗りの太鼓橋が架かっていた。開新楼は1941年(昭和16年)の太平洋戦争の没発と同時に廃業し、開新楼・大坂屋等の高楼は軍工場の工員寮に徴用されて、戦後解体された[63]。田中にあったのは全て茶屋で、飯沼観音裏手から和田町にかけての一帯に、昭和初期には茶屋90余軒、およそ400から500人の私娼がいた[31]。太平洋戦争の空襲に焦土と化したが、戦後歓楽街として復興し、1958年(昭和33年)まで特殊飲食店街(赤線区域)であった。
伝統芸能[編集]
銚子大漁節[編集]
1864年(元治元年)の春、銚子港は未曽有の豊漁で、港は鰯の銀鱗で埋めつくされた。この豊漁を祝って作られたのが「銚子大漁節」である。川口明神で大漁祭を催すこととなり、飯貝根浦の網元網代久三郎、飯沼村前瀬古の文人松本新左衛門(雅号旭江)、呉服屋と質屋を営んでいた「綿利」の主人で俳諧師の石毛利兵衛の三人が松本家の奥座敷「夏蔭庵」に集って歌詞を合作し、常磐津師匠の遊蝶が作曲し、清元師匠で川安旅館の名妓きん子が振付したものをこの祭礼で歌い踊ったのが起こりとされる[83]。前奏に阿波囃子、後奏に銚子の早拍子を加え、これを松岸遊廓の開新楼が花魁の総踊りに実演して評判となり、花柳界の座敷歌として全国に喧伝されていった[62]。銚子では盆踊りや宴席等で披露されて座を盛り上げている[83]。
- 銚子大漁節
- 一つとせ 一番ずつに積み立てて 川口押し込む大矢声 この大漁船
- 二つとせ 二間の沖から外川まで 続いて寄り来る大鰯 この大漁船
- 三つとせ 皆一同に招をあげ 通わせ船の賑やかさ この大漁船
- 四つとせ 夜昼焚いても焚き余る 三杯一丁の大鰯 この大漁船
- 五つとせ いつ来てみても干鰯場は あき間もすき間も更になし この大漁船
- 六つとせ 六つから六つまで粕割が 大割小割で手に追われ この大漁船
- 七つとせ 名高き利根川高瀬船 粕や油を積み送る この大漁船
- 八つとせ 八手の沖合若衆が 万祝揃えて宮参り この大漁船
- 九つとせ この浦守る川口の 明神ご利益あらわせる この大漁船
- 十とせ 十を重ねて百となり 千を飛びこす万漁年 この大漁船
銚子はね太鼓[編集]
江戸時代から銚子に伝わる祭り太鼓[84]。太鼓を二人の打ち手が担ぎ上げ、首と肋骨で太鼓を支えながら打って跳ね、跳ねては回り、太鼓もろとも宙を舞う[84]。「ねかせ打ち」では、担ぎ手の一人を抱え込み地に這わせて太鼓を打つ。夏の銚子は、神輿を担ぐ掛け声や笛・太鼓の音が終日響き渡って、祭り気分に溢れる[31]。
伝統産業[編集]
万祝式大漁旗[編集]
揚操漁業に関係する衣料に万祝があり、戦前まで盛んに作られていた。万祝を染める染物屋は銚子には何軒もあった。大漁が続くと船主が祝儀用に作って、乗組員や水産加工業者等関係方面に配っていた。万祝は型紙で防染糊を置いて、その中を顔料で色さししたものである。固着剤は豆汁(大豆たんぱく)である。色さしが終わったら伏せ糊をして、地を藍で紺に染める。技法としては友禅染めの種類に入る。万祝の味は生地の木綿と図柄の素朴な趣きにあるが、図柄にも変遷があり、古いものは簡単で小さく、時代が下るにつれて大きく多様になる。万祝を染めていた染物屋は、大抵江戸時代からの型紙を用いていた[31]。銚子の大漁旗はこの万祝と同じ技法で作られたもので、大漁で帰港するときや祭りのときに船上に掲げられるほか、結婚・誕生・節句・新築・開店等の祝い事でも用いられている。
銚子縮[編集]
江戸時代、銚子地方の漁師の主婦たちが、イワシの丸干しを製造する傍らに、家計の一助として手織り布の製造を始めたのが、銚子縮の起こりである。出来上りは縞、格子柄が多く、糸は5倍の撚りをかけ製造する独特の技術を持っている。明治時代においては、その染色のしっかりとしていること、生地の丈夫なことと共に、縮独特の肌触り等が一般に歓迎され、特に通人の間には大変な人気を得た。その後は厚地から薄地に変わった[31]。1949年(昭和29年)、千葉県文化財審議会ではこれを文化財に指定して、その技術と伝統を後代に伝存させることとしている[63]。
籐製品[編集]
籐は熱帯性のヤシ科の植物で、乾燥した茎を材料として椅子やテーブル等の家具、バスケットやかご等の小物類、履物用の籐表等の籐製品が作られる。籐製品の材料は全て輸入ものであり、表皮を材料として仕上げたものについて、銚子では挽籐と呼んでいた。銚子で籐製品が製造されるようになったのは明治後期からで、大正から昭和にかけて主要な地場産業の一つに成長した。当時の銚子の籐製品はほとんどが籐表であった。籐表は草履や下駄に使われるもので、挽籐を畳表の目のように編んだものであり、籐表の履物は丈夫で美しく、履物としては高級品であり贅沢品であった。籐製品製造業は銚子独特の産業で、銚子と波崎は籐表の全国的特産地であった。籐を挽いて籐表を編むには高度の技術と根気を要したが、多くは漁民家庭や一般家庭の主婦が内職として行い、生計の支えとしていた。籐表はそのままの形で、主として中部地方や関西地方に出荷された。最盛期は大正期の関東大震災後で、業者は百数十軒あった。戦後は国民の生活様式の変化によって、製品の主力であった籐表の需要は減少し、家具や小物類が多く作られるようになった[31]。
澱粉製造[編集]
戦前から戦後の一時期まで、千葉県は全国有数の甘薯生産県であり、銚子市は県下有数の甘薯産地であった。これらの甘薯大部分は澱粉の原料とされ、澱粉製造は漁業に関連する水産加工業と同様に、農業関連産業として銚子市の主要な地場産業の一つとなっていた。1889年(明治22年)に小畑町の農家石橋重兵衛が千葉郡蘇我町より講師を招聘して澱粉製造の技術を習得したのに始まり、付近農家数戸が家内工業とする程度であったが、1907年(明治40年)には製造農家27戸と大幅に普及した。1904年(明治37年)には人力の手摺機に改良を加えた澱粉分離機が考案され、更には日露戦争後の急速な日本工業の発展に伴って蒸気機関・石油発動機が登場し、技術も生産も一段と向上した[63]。銚子市で生産される澱粉の用途はほとんど製飴用であり、飴は水飴で製菓の原材料に使用された。一部は水産加工品の練製品にも使用された。製飴業者は千葉方面に大手業者があり、銚子市の澱粉の主な需要者はこれら大手業者であった。戦時中は労働力の不足によって原料甘薯の生産も澱粉の製造も伸びなかったが、戦後は復員等によって労働力が増え、食糧増産のため甘薯の作付面積も増加した。一方、砂糖不足のため甘味料の不足が著しくなったので、砂糖に代わる水飴の需要が増大し、甘薯澱粉の需要もまた増大した。1960年代に入ると従来の甘薯に代わって、より採算性の高いキャベツその他の野菜が銚子市における畑作物の主要な位置を占めるようになったため、原料甘薯の入手が困難となって、市内の澱粉工場はなくなった[31]。
蠣殻[編集]
利根川の河口付近一帯の河底には、大量の蠣殻が埋蔵されている。この蠣殻を採取して利用することは、既に明治時代から行われており、飯貝根から川口にかけて、杉皮屋根に蠣殻をのせた民家の姿は、真夏に冬景色を見るとして珍しがられていた。銚子町唐子(現唐子町)の内蔵徳平が、1897年(明治30年)頃に蠣殻を焼いて貝灰を作ることを営業として始めている。貝灰の主な用途は建築用の漆喰の材料である。1923年(大正12年)の関東大震災以後はセメントの進出が伸びて、貝灰の需要も生産も減少した。1935年(昭和10年)頃になると全国的に養鶏が盛んになり、内蔵も貝灰の製造から養鶏飼料用蠣殻の製造に転換している。貝灰は焼いて微粉にしたものであるが、飼料用蠣殻は乾燥して5ミリ程度の小片に粉砕したものである。1938年(昭和13年)には、蠣殻を採取してこれを飼料用に加工する業者は13人であった。戦時中は一時絶え、戦後復活したが、1960年代に入って蠣殻の減少、他の養鶏飼料との競合等から生産が減少して絶えた[31]。
黒生瓦[編集]
焼き瓦は黒生瓦として、銚子市の特産品の一つに数えられていた。江戸時代末期、越前から移住した柳屋が銚子最古の瓦屋であり、天明年間には瓦製造が始まっていた。黒生に瓦が発達したのは、この地の粘土が良質で瓦に最適であったことに由来する。この辺りは古生代二畳紀に属する頁岩・硬砂岩・角岩・硅岩の露出地で、それらの地層が錯雑混乱している。そのうちの頁岩は無数の断層に破砕され、これが地下水の滲透と風化によって黒色粘土となっている。この粘土が燃焼されると極めて良質の瓦となり、黒生瓦は三州瓦(三河国産出)に比肩するとうたわれた。戦後は原料の粘土が絶えて、他地方から取り寄せるようになった[63]。市内には黒生瓦を葺いた住宅が僅かに残っている[33]。
銚子石[編集]
下総一帯に分布する供養塔婆に下総式板碑と呼ばれるものがあり、鎌倉時代中頃から香取郡を中心に、北限は利根川沿いに印旛郡下に及び、西は旧匝瑳郡にわたって分布しているが、この材石は、銚子産の白亜紀砂岩いわゆる銚子石である。石に乏しい下総地方にあって、銚子半島は例外的に岩石に富み、銚子石は相当需要があった。それも相当上代に遡ると考えられ、旧海上・香取・印旛・旧東葛飾の各郡に、この石材を使った立式石棺あるいは石槨が盛んに発掘されている。室町時代末期から江戸時代にかけては、海上・香取・匝瑳の各寺院の五輪塔や宝篋印塔に盛んに使われ、当時の銚子にはこの石工に携わるものが相当あり、採石事業は銚子を代表する産業の一つであった。1856年(安政3年)には銚子石三万斤が江戸に送られており、銚子の古い記録にも石切役銭のことが散見している。明治以降はほとんど建築用と砥石(荒砥)にあてられるようになった[63]。昭和初期に犬吠埼での採石事業が風致保全のために禁止となり、残った採石場も1968年(昭和43年)に銚子有料道路建設に伴って採掘するための火薬使用が禁止されたため閉鎖された[33][85]。市内の寺院や共同墓地には銚子石の石造物が残るほか、飯沼観音周辺や清水町付近に銚子石の間知石で積み上げられた石垣が残り、銚子特有の景観を構成している[33]。
祭祀[編集]
漕出[編集]
新年の初出漁のことをいい、主として銚子漁港を基地とする漁船の行事である。期日は一定せず、1月の吉日を選んで行われており、旋網・底曳・大縄等漁種ごとに行われる。この日の早朝、漁船員は船主から酒3升と鏡餅2座及び大根の膾を受け、おぼり(鰯の鰓に藁を通した神饌物)を持って、船に祀られている「おふなだま」(船霊)に新潮を汲み、神酒と膾を供え、一同拝礼してから、船頭の合図で出航する[83]。
旋網漁船の場合は、漕出で出航するときの一番船を「生切り」と呼んでいる[31]。生切りは縁起が悪いとされてこれを嫌う習慣があり、漁業組合は奨励金を出し、抽選で生切りを決めていた。出漁遅延の防止のための苦肉の策であり、漁師は抽選に当たれば奨励金で酒を浴びるように飲んで不本意ながら出航するのが常であった[63]。底曳漁船や大縄漁船の場合には生切りはない[31]。生切りの起源は不明であるが、小川芋銭の句に「生切りの船を見送る初霞」がある[63]。
大漁旗で飾られた漁船は、係留地から利根川河口の川口神社の下、通称明神下まで出航、同所で停船して左舷から神酒を注ぎ、幣束で船尾、中央部、船首の順に清め祓いをしてから幣束を海に流す。続いて川口神社に参拝し、神酒と膾とおぼりを献撰し大漁と海上安全を祈り、その後御嶽神社、西宮神社、和田不動尊等に参拝してから、船主宅で開かれる新年の宴に出席することが通例となっている[83]。
八日まち[編集]
期間は4月8日から15日までの8日間であり、4月8日は釈迦の誕生日とされて、寺院では誕生会(灌仏会)を営む。花で飾った小堂を作り、水盤に釈迦の像を(誕生仏)を安置し、参詣者は小さな柄杓で頭上に甘茶を注ぐ。銚子では戦前この日から飯沼観音の境内に曲馬団等の見世物小屋や露店がかかって賑わった[31]。本尊十一面観音は、728年(神亀5年)漁夫の網により海中から拾い上げられたと伝えられ、海上氏一族の庇護によって発展した。江戸時代始めまでは飯沼観音と円福寺本坊は境内つづきになっており、この一帯数万坪を境内としていた。1945年(昭和20年)の戦災により、著名な観音堂等建造物のほとんどを焼失し、1711年(正徳元年)鋳造の露仏のみが現存している[63]。戦後しばらく仮堂のままであったが、1973年(昭和48年)に再建された[31]。
大潮祭り[編集]
大潮は1か月のうちで最も干満の差が大きい潮のことをいうが、銚子で大潮というと、普通旧暦6月15日の大潮をさし、満潮よりも干潮の方が意識されて、この日は銚子では最も潮の引く日とされている[31]。川口神社は銚子漁港の守り神として漁業関係者の信仰を集めているが、旧暦6月15日が例祭の日で、神輿の渡御が行われる。戦前から銚子の夏祭りの代表的なものであり、戦後「大潮祭り」と命名された[31]。
銚子の祭りの特色は、神輿をもみ合う独特な担ぎ方とヨーイヨイヤサという掛け声にある[31]。これは漁業地の風土から生まれたものとされている[31]。銚子の祭りについて、銚子出身の歴史学者である和歌森太郎は、次のように記している[79]。
祭りもとにかく威勢がよかった。後年私がお祭り好きになって、やたらに各地の祭儀を見てまわるようになる素地は、銚子で養われた。「ヤデエ(屋台、山車)見てくんべえ」と母親に一言すると、祭りの日には終日そのあとを追いかけてまわり、だいぶ親に心配かけたものであった。それはすばらしく活気を帯びた興奮をそそる祭りだったのである。
「銚子の今昔」
浅間様[編集]
旧暦6月1日に後飯町の浅間神社に参拝する行事であり、新暦ではだいたい7月になる。浅間神社は富士山信仰をもとに成立したもので、祭神は木花咲耶姫である。この日、生まれて初めて浅間神社の例祭の日を迎えた子は、この日の朝早く裸足の父親に背負われて参拝する。浅間様にお参りすると丈夫に育つといわれており、これを初山と呼んでいる[31]。戦後は裸足の参拝はなくなっている。夕方から沿道には露店が数多く立ち並び、浴衣姿の若者や子供達、家族連れで大いに賑わう。なお浅間神社は後飯町町内会が諸事管理している。
銚子大神幸祭[編集]
香取郡東庄町の東大社は、古く東宮または八尾社と呼んだ旧社で、鎌倉時代にはこの地方の豪族東氏の領域、東之庄三十三郷の総鎮守として崇敬されていた。祭神は玉依姫命である。東大社では20年に一度、オオジン様と称される盛大な神幸祭を行っている。1102年(康和2年)に銚子高見浦で海荒れが起こったため、海神の怒りを鎮めるために東大社、豊玉姫神社、雷神社の三社が御渡したことが起源とされる[63]。神幸には2社の神輿が加わり、先達と供奉をつとめることになっている。外川浜では払暁より、群衆が詰めかける中、神輿を神輿島に進め、更に数百人に担がれて御神浦島へと海中渡御が執行される[63]。
民間信仰[編集]
銚子には農耕神と漁労神が錯雑混交しているが、利根川沿いから海岸づたいに名洗にかけては漁村色の濃い遺物が多く、弁天をはじめ金毘羅、西宮(夷神)等、水運・舟・漁に関する神を祀った小祠が至るところに分布している。これらの神社は全市何百に達し、創建年代不明なものも多いが、板子一枚下は地獄の生活、危険な漁が生業の人々が根強い信仰の中に生きていたことをうかがわせる[63]。川口神社参道石段傍の斜面には海亀を祀る小碑が多くあり、漁夫から大漁の神として崇敬されていた。昔はよく大きな海亀が網にかかったり、陸にあがったりしたが、銚子では酒を呑ませて海へ帰すのが例であった。この塚は斃死した亀を埋め、奉祀したものである。また鯨の頭骨を埋葬して「大漁之神」としたものもあり、明治年間の造立である[63]。
銚子市では、地域の生活共同体、また職能団体として講社が近世以来継承されている。全体的に見ると農業地域に多く、西部地区には様々な種類の講社が見られる。農業地域に次ぐのが漁業地域で、最も少ないのが市街地域である。講社には地域単位のものが多いが、いずれの地域の講社でも、その行事の内容は時代の影響を受けて簡略化されてきている。後草芋念仏は、銚子市の八木町及び旧飯岡町の人々が共同で行っているもので、老人たちで集まり、亡くなった人々に念仏供養する。この芋念仏には独特の儀式と踊りがあって、千葉県の無形文化財に指定されている[31]。
伝承[編集]
延命姫伝説[編集]
川口神社はもと白紙明神といい、1870年(明治3年)に現称に改められた。白紙明神の由来については、安倍晴明と延命姫にまつわる伝説が残っている。銚子近在の長者の娘延命姫は容貌が極めて醜く、陰陽師の安倍晴明を慕って夫婦となったが、晴明は姫を嫌って長者の家を逃げ出し、小浜の海から投身したように装って、親田の真福寺に隠れた。それを知らない姫は、晴明を慕うあまり、後を追って海中に身を投げて死んだ。土地の人はこれを憐れみ、姫の歯や櫛をこの丘に埋めたことから、白紙(歯櫛)明神と呼ぶようになった、というものである。この伝説から、江戸時代から「あざ除け」の白粉を神社で売り出しており、昔はアザやソバカスに悩む妙齢の女性の参詣が絶えなかったという[63]。
義経伝説[編集]
犬吠埼から名洗へかけて、源義経に関する伝説が多い。兄頼朝の追手を逃れて奥州落ちをした時、この地から海路去ったと伝え、その遺跡と称するものがいくつかある。外川浦の犬岩は彼が従者と共に乗船した折、後に残された愛犬が化して巨岩となった。そしてその折、義経を慕って7日7夜吠えたことから犬吠の地名が起こり、乗ってきた愛馬が糞を落とした灯台下に馬糞ノ鼻の称があったと伝えられている[63]。また犬若浦の前方の海中にある千騎ヶ岩(仙ヶ窟)は、義経が一千騎を率いて隠れた洞窟であるといわれる[63]。銚子地方は頼朝無二の忠臣である千葉常胤並びに一族東氏・海上氏の領する地で、到底義経の立ち入りを許さないばかりでなく、順路から考えても通過はなかったとされている[63]。
大納屋おさつ[編集]
外川漁港には、おさつの供養塔がある。おさつは1768年(明和5年)、紀州湯浅村から銚子対岸波崎の移住者を慕って来た女性で、東海道を徒歩で波崎まで来たが、住み良いところではなく、しばらく飯貝根に男装して水夫として働いていた。しかし、男装ということが判って雇う人がなくなり、外川の崎山家に女中兼水夫として雇われ、その後崎山次郎右衛門の後妻となった。おさつは家業に尽くしたが、不漁が続き紀州に帰った次郎右衛門を慕うあまり気が狂い、1802年(享和2年)3月8日に浦人に殺された。おさつの死後、外川浦は不漁時代が続き、村内は寂れるばかりであった。1816年(文化13年)、徳本上人が下総地方への巡錫の折に、外川浦人の懇意によりおさつの霊を慰めた。法力で海は穏やかになり、大漁の日が続いた[86]。地元では「徳本講」を組織し、旧暦3月8日に外川、長崎、高神地区で大法会を行うようになった[87]。団子を供え、小船で団子と花、小銭が海に流され、この小銭が海辺に漂着するとご利益があり、拾った者に幸福がもたらされると信じられている[83]。この日は必ず穏やかな南風が吹いて豊漁となると伝えられ、この日は「徳本風」と呼ばれている[83]。徳本上人の名号碑は外川、千人塚、浄国寺に建立されている。おさつの墓は波崎の宝善寺にあり、湯浅佐平阿姫と刻まれている[87]。
食文化[編集]
おろしたイワシに味噌、長ネギ、青じそ、生姜を混ぜ、包丁でたたき合わせて作る漁師料理[83]。
- さんが焼き
イワシのたたきに味噌、生姜、タマネギ等を加え、小判型に焼いた料理[62]。酒の肴となる[83]。
海藻のコトジツノマタを煮溶かして固めた料理。色は緑灰色で、寒天に似た食感であり、ネギ、鰹節、唐辛子等とあわせて醤油をかけて食べる[62][88]。
- のげのり
銚子特産の乾燥海藻食品。味噌汁や吸い物等に用いる[88]。
- 磯牡蠣
銚子付近の荒磯で採れる天然牡蠣。夏場が旬で、生のままレモンをかけて食べる[62]。
- 伊達巻鮨
半月状の玉子焼きを太巻き鮨の上に乗せた鮨。東芝町の鮨店「大久保」が明治初期に細工鮨として考案したもので、「漁師のプリン」と称される[89]。
- 木の葉パン
卵やバターを加えて焼いた焼き菓子。大正初期に浜町の菓子店「宮内」2代店主により創作された[90]。
方言[編集]
銚子の言葉は大別すると、漁業地域の言葉と農業地域の言葉とに分けられる。漁業地域は主として東部と南東部、農業地域は南部と西部、商工業地域は中央部である。これらの各地域の言葉に共通しているのは、濁音と訛りが多いため言葉の響きが重く、東京言葉のような軽やかさがないことである。戦後はマスコミの発達、生活・教育水準の向上、都市化の進展等に伴い、漁業地域・農業地域というような地域差は薄れ、青少年層はもとより中・高年齢層も含めて共通語化が進んでいる[31]。
意志・推量を表す「べえ」は古語「べし」の変化であり、古くから関東方言の特徴とされている。べえべえ言葉は関東から東北地方南部にかけての広い地域に見られるが、銚子では「コノ イゲー サガナワ アンダッペ」(この大きい魚は何だろう)、「キョーワ アミキヨリ ヤッペヤ」(今日は網の修理をしようよ)のように促音のあとに続く場合には「ぺ」になる。「イゲー」(大きい)は関東から中部地方にかけて分布する方言であり、「いかめしい」の「いか」と同じ語源の語である。発音の面での特徴としては、連母語の長音化、「ヒ」と「シ」の混同、語中のカ行・タ行を有声音(濁音)で発音する現象、鼻濁音の存在等が挙げられる。「アゲー」(赤い)、「テーヘン」(大変)「クデー」(くどい)「シデー」(ひどい)等は連母語が規則的に変化するもので、全国的に広く見られる現象である。「シデー」のように「ヒ」と「シ」の混同する現象は東京下町方言の特徴である[91]。
銚子方言の大きな特色の一つは東北方言との共通性である。「オメサン ドゴサ イグダ」(あなたはどこに行くのか)のように用いられる方向を表す格助詞の「サ」は東北方言の特徴であり、関東では主として栃木・茨城両県のほか、銚子を含む千葉県北東部にも見られる。この「サ」は「サマ」(様)の変化と考えられている。鼻濁音は「カカ゜ミ」(鏡)の「カ゜」のように、語中のガ音行が鼻音になる現象である。関東では栃木・茨城と千葉北部で見られ、銚子では特に盛んである。「ツグエ」(机)、「カダ」(肩)のように語中のカ行音とタ行音が有声語(濁音)になる現象も東北方言の一特徴である。関東では栃木・茨城と千葉県北部に認められる。銚子方言のもう一つの大きな特徴は関西方言の流入である。「臆病者」の意味の「オジクソ」は西日本系の語である。「オジクソ」の「オジ」の部分は共通語の「おじけづく」の「おじ」と同源である。このように、銚子地方の方言は基本的には関東方言の諸特徴を有するが、その上に東北方言と関西方言の特徴がかぶさっており、対岸が茨城県であるという銚子の地理的位置と、漁業や醤油醸造に関わる関西との交流の歴史が言語の特色に反映している。「カンクルリンと忘れた」「アバトバして追いかける」「ミジミジ(しっかり)やれよ」「ヤキヤキ(いらいら)する」のような擬声語・擬態語が豊かなことも銚子方言の特色である[91]。
- 銚子独特の方言語彙
- イガイ(大きい)
- イギレル(はしゃぐ)
- ウダダイ(かったるい)
- オジクソ(臆病者)
- オッペス(押す)
- カッチャグ(掻く)
- クッツグ(食い付く)
- コワイ(疲れる)
- ジャミル(にじむ)
- ショッピグ(引っ張る)
- ダガラヨ(そうだね)
- ツッポス(突き刺す)
- ブッチャゲル(壊れる)
高校野球[編集]
高等学校野球は高校のクラブ活動として学校体育の一環とされ、銚子市においては古くから盛んである。高等学校野球の全国大会には春の大会と夏の大会の2種類があり、春の大会は1924年(大正13年)からの選抜高等学校野球大会であり、夏の大会は1915年(大正4年)からの全国高等学校野球選手権大会である。選抜大会には数県をもって単位とする地区から選抜された学校が、選手権大会には地方大会優勝校が出場する。
1900年(明治33年)創立の千葉県立銚子商業学校は1909年(明治42年)に野球部を創立し、戦前の銚子市においては唯一の野球部を有する中等学校であった。1938年(昭和11年)夏の千葉県予選では初めて優勝したが、南関東大会で敗れて甲子園出場は果たされなかった。しかし戦後、市立第一中学校から斉藤一之監督を招聘してより、「黒潮打線」と称される豪快な打線を武器に、千葉県下の高校野球に銚商時代を現出することとなった。同校は1953年(昭和28年)春の選抜大会に関東代表として甲子園初出場の念願を果たし、以後、1968年(昭和43年)、1969年(昭和44年)、1972年(昭和47年)、1973年(昭和48年)、1974年(昭和49年)、1977年(昭和52年)、1995年(平成7年)に出場した[31]。この間最高の成績は1995年(平成7年)の第67回大会において準優勝したことである。
夏の選手権大会初出場は、1958年(昭和38年)の県立銚子商業高等学校であった。以後、同校は1961年(昭和36年)、1963年(昭和38年)、1965年(昭和40年)、1970年(昭和45年)、1971年(昭和46年)、1973年(昭和48年)、1974年(昭和49年)、1976年(昭和51年)、1985年(昭和60年)、1995年(平成7年)、2005年(平成17年)と合計12回千葉県代表として出場している。この間、1965年(昭和40年)の第47回大会においては決勝戦まで進出して準優勝し、更に1974年(昭和49年)の第56回大会においては、全国優勝の偉業を成し遂げた。甲子園大会への期待は、戦後銚子商業が担ってきたが、1970年代以降は市内他校の力量も向上し、市立銚子高等学校が1979年(昭和54年)に、市立銚子西高等学校が1981年(昭和56年)に銚子商業に代わって甲子園に初出場した[31]。このような活躍の中で、銚子商業から木樽正明、土屋正勝、篠塚和典、杉山茂、渡辺進、根本隆、宇野勝ら、市立銚子から石毛宏典、銚子利夫ら、数多くのプロ野球選手を輩出している。
1960年代から銚子市内の野球熱は大いに高まり、銚子から甲子園出場となると、多数の市民が甲子園まで出かけ、はなやかな大漁旗を振って応援した[31]。また、試合中銚子にいる市民はテレビで観戦するため、漁は中止となり、街の中は自動車も人通りもまばらになるほどであった[31]。銚子商業の校歌は、その簡潔さと歯切れのよさで全国的に有名となった。1910年(明治43年)につくられたもので、作詞は詩人の相馬御風である[80]。
- 幾千年の昔より
- 海と陸との戦いの
- 激しきさまを続けつつ
- 犬吠岬は見よ立てり
出身著名人[編集]
政治家・官僚[編集]
- 赤桐操(参議院議員、参議院副議長、銚子市名誉市民、勲一等旭日大綬章受章)
- 石毛鍈子(社会福祉学者、市民運動家、元衆議院議員、元民主党副代表、「季刊福祉労働」編集長、NPO法人「市民福祉サポートセンター」代表、「市民がつくる政策調査会」代表理事)
- 石毛博行(通商産業省・経済産業省官僚、第12代日本貿易振興機構理事長)
- 岡野俊昭(元銚子市長、元公益財団法人日本体操協会強化コーチ、新しい歴史教科書をつくる会副会長)
- 佐野利男(外交官、内閣府原子力委員会委員長代理、サンライフ国際担当理事、サン・ビジョン国際担当理事)
- 椎名隆(弁護士、衆議院議員)
- 椎名一保(元参議院議員)
- 篠塚保(外交官、防衛大学校防衛教育学群安全保障・危機管理教育センター教授、一般社団法人日本爆発物探知犬セキュリティ協会特別会員)
- 鈴木文史朗(ジャーナリスト、新聞記者、評論家、東京朝日新聞常務取締役、「リーダーズ・ダイジェスト」日本語版編集長、公益社団法人全国出版協会理事長、日本放送協会理事、一般社団法人日本青年館理事長、参議院議員)
- 富田茂之(弁護士、元衆議院議員、公明党政務調査副会長、なのはな法律事務所所長)
- 仲内憲治(外交官、教育者、在アフガニスタン日本大使、千葉県公安委員会委員、衆議院議員)
実業家[編集]
- 上野松次郎(肥料商、上野松次郎商店代表取締役、栃木県多額納税者、衆議院議員)
- 岡田幸三郎(実業家、塩水港製糖常務取締役、塩水港パルプ・新栄産業・新日本食品工業・日立オーバーシーズ社長、東台湾電力興業・花蓮港木材・日本砂糖工業社長・新興産業・満州製糖・北満産業取締役、日本糖業連合会・糖業協会理事)