銚子市
ちょうしし ![]() 銚子市 | |||||
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国 |
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地方 | 関東地方 | ||||
都道府県 | 千葉県 | ||||
市町村コード | 12202-5 | ||||
法人番号 |
6000020122025 ![]() | ||||
面積 |
84.20km2 | ||||
総人口 |
56,093人 [編集] (推計人口、2022年4月1日) | ||||
人口密度 | 666人/km2 | ||||
隣接自治体 |
旭市 香取郡:東庄町 茨城県:神栖市 | ||||
市の木 | サザンカ | ||||
市の花 | オオマツヨイグサ | ||||
市の魚 | イワシ | ||||
銚子市役所 | |||||
市長 | 越川信一 | ||||
所在地 |
〒288-8601 千葉県銚子市若宮町1-1 北緯35度44分05秒 東経140度49分36秒 / 北緯35.73464度 東経140.82678度座標: 北緯35度44分05秒 東経140度49分36秒 / 北緯35.73464度 東経140.82678度 | ||||
外部リンク | 公式ウェブサイト | ||||
ウィキプロジェクト |
銚子市(ちょうしし)は、千葉県北東部に位置する市。関東最東端[注 1]に位置し、利根川河口に臨む。日本随一の水産都市であり、関東風濃口醤油が発祥した醤油の名産地。犬吠埼や屏風ヶ浦で知られる観光都市でもあり、港町の歴史的町並みは日本遺産に登録されている[注 2]。学術的に貴重な地質資産を有し、市全域がジオパークに指定されている[1]。
概要[編集]
古くから港町として栄え、水揚数量が日本最大である特定第3種漁港(国指定最重要漁港)の銚子漁港を有し、全国の水産物流通基地の役割を担う。3つの卸売市場を中心に多数の水産加工場、水産物冷凍冷蔵庫、水産問屋・仲買業者、関連運送業者・鉄工所等が集積している日本随一の水産都市である[2]。江戸の食文化を支えた関東風濃口醤油が発祥した醤油の名産地であり[3]、街の中心部には、全国シェア2位のヤマサ醤油をはじめ、関東最古の醤油蔵であり全国シェア4位のヒゲタ醤油等、大手醤油メーカーの製造工場が立地する。2018年(平成30年)「魅力度ランキング」において、銚子市は浦安市、南房総市に次いで千葉県内3位である[4]。
江戸時代に東廻り海運と利根川水運が確立したことで、海運業を中心に、上方から伝わった鰯漁や醤油醸造業、関連商工業が盛んとなり、幕末に至るまで東国屈指の港湾都市であった。また坂東三十三箇所二十七番札所である飯沼観音の門前町として、諸国から巡礼者や納経者も集まった。明治以降も千葉県東部における政治・経済・文化の中心都市として発展し、1933年(昭和8年)、千葉市に次ぐ千葉県第2の市として銚子市が誕生した[5]。
日本列島で最も早く初日の出を拝める[注 3][6]犬吠埼や東洋のドーバーと称される断崖絶壁が続く屏風ヶ浦、「地球の丸く見える丘」として知られる愛宕山等、全国有数の景勝地を持つ観光都市でもあり、銚子駅を中心とした市街地と海岸地帯の観光地を結ぶ全長6.4kmの銚子電気鉄道は、名物のぬれ煎餅の他、ノスタルジックな車両や駅舎、車窓に広がるキャベツ畑の風景で知られる。犬吠埼には源泉が湧出し、観光ホテルが立ち並んで温泉街を形成している。屏風ヶ浦を望む国指定の海洋性レクリエーション拠点港湾である名洗港内の銚子マリーナには、収容隻数1000隻のヨットハーバーと併せて海浜緑地公園、人工ビーチが整備されており、サーフィンやイルカウォッチング、シーカヤック等のマリンスポーツも行われる海洋リゾート拠点である[7]。毎年8月に開催される「銚子みなとまつり」は銚子の夏の風物詩で、利根川河畔に約6000発の花火が打ち上げられる花火大会、約1000人の担ぎ手による神輿巡行が行われて銚子の街は祭り一色となる[8]。
1874年(明治7年)に点灯した犬吠埼灯台は日本を代表する灯台であり、国産煉瓦を使用した最古の西洋式灯台として歴史的文化財的価値が高く、国の重要文化財及び海上保安庁のAランク保存灯台に指定されている。世界灯台100選にも選ばれており、日本に5つの最大の1等4面フレネル式閃光レンズを使用した第1等灯台である[9]。
銚子半島は千葉県唯一の日本ジオパークに指定されており、黒生から犬若にかけての海岸では、中生代ジュラ紀から白亜紀の恐竜時代の地層を見ることができ、アンモナイト等の化石や琥珀が多産する[10]。 犬吠埼は1億2000万年前に形成された地層であり、この時代の浅い海の海底の痕跡を数多くみることができる学術的に貴重な地層で「白亜紀浅海堆積物」として国の天然記念物に指定されている[11]。
変化に富んだ独特の自然景観から、江戸時代には数々の文人墨客が東国三社参詣と合わせて銚子の磯巡りに訪れ、文学作品や絵画の題材となった[12]。明治時代からは避暑や海水浴に訪れる人も多くなり、犬吠埼や海鹿島には皇族や政府高官、財界人、作家、画家の別荘が構えられた。現在も海岸沿いには文人墨客の歌碑、詩碑が多く立っている[13]。
夏涼しく冬暖かい海洋性気候であり、避暑や避寒に適している。気候を生かした農業も盛んで、露地野菜や果物が栽培されており、春キャベツの生産量は日本一である[14]。
銚子市沖は国の「再エネ海域利用法」に基づく洋上風力発電の促進区域で、今後三菱商事を中心とする千葉銚子オフィシャルウィンドが洋上風力発電施設31基を建設し、2028年(令和10年)9月に運転を開始する見込みであり、銚子市は電力会社・メンテナンス会社を設立して、再生可能エネルギーを活用した新たなまちづくりに取り組んでいる[15]。
地理[編集]

千葉県北東部に位置し、県庁所在地である千葉市から約65キロメートルの距離である。東京都の都心から90 - 100キロメートル圏内である。
犬吠埼は関東地方および関東平野の最東端に位置し、市の東部と南部は太平洋に面する。市の北部には利根川が流れており、銚子市で太平洋に注ぐ。
利根川沿いの低地と北総台地(下総台地)からなり、表層は関東ローム層に覆われている。高神愛宕山(標高73.6メートル)は北総台地最高峰となっている。水田は台地山間の谷津田と利根川沿いに広がっており、畑地帯は台地の平坦部に位置し、比較的農業に適している。
- 山岳:高神愛宕山
- 河川:利根川(利根川が太平洋に注ぐ河口である)
- 湖沼:小畑池
- 海岸:太平洋側 - 銚子海岸、長崎海岸、君ヶ浜海岸(日本の渚百選)
- 岬:犬吠埼、長崎鼻
- 島:一ノ島、三ノ島、海鹿島、沖ノ海老島、茅刈島
- 浦:西明浦
- 崖:屏風ヶ浦
地質[編集]
銚子市は愛宕山を中心に局所的に隆起しており、東関東で唯一、古生界の基盤岩が露出している。また銚子地域は日本の地質体を大きく2分する「東北日本」「西南日本」の境界付近に位置すると考えられ、この境界の東端はまだ確定していないため銚子市の地層がその解明を担うものとして学術的に注目されている。
銚子市は太平洋に突き出た半島状の独特の地形、そして犬吠埼や屏風ヶ浦などの地質資産を核として大地の成り立ちが比較的容易に、そして安全に学べる場所であることから、2012年(平成24年) 9月に日本ジオパークに認定され、市域全体を活動のエリアとして「銚子ジオパーク」活動を推進している。
東部地域[編集]
愛宕山や犬岩、千騎ケ岩は愛宕山層群と呼ばれ、約2億年前に形成された付加体と考えられる。愛宕山(標高73.6メートル)は北総台地最高峰となっており、硬く侵食されにくいため海に突出するような高台が形成されている。
東海岸に露出する白亜系の銚子層群は礫岩、砂岩、泥岩からなる約1億年前の地層であり、アンモナイトなどの化石を多産している。犬吠埼付近は浅い海の堆積構造や生痕化石がよく観察できるため「犬吠埼の白亜紀浅海堆積物」として国の天然記念物に指定されている。この銚子層群の砂岩は古くから「銚子石」と呼ばれ、古くから建材などに利用されてきた。
銚子地域の中新統は火山礫凝灰岩からなる安山岩の溶岩流を含む千人塚層と海成シルト岩からなる夫婦ケ鼻層に二分される。いずれも日本海が形成された時代の地層である。千人塚層の安山岩は利根川河口の川口、黒生、長崎に露出しており、銚子漁港整備に伴い取り除かれた安山岩はその一部が古銅輝石安山岩公園に保存展示されている。また、かつて夫婦ケ鼻層は銚子地域の北東端の夫婦ケ鼻から海岸沿いに黒生付近まで連続して露出していたが、現在は銚子漁港後背地開発により銚子ポートタワー下にわずか6m程度が露出するのみとなっている。
西部地域[編集]
下総台地の平坦面はかつての海岸近くの海底面で、隆起と汎世界的な海水準変動の結果、基本的に4段面の後期更新統の海成段丘が分布する現在の形となった。この台地には谷がいくつも刻まれており平坦面は農業や畜産業に利用されている。
市域の南の海岸線は、犬若から緩やかに湾曲し、屏風ヶ浦と呼ばれる海食崖が広がっている。この崖は下総台地の東端にあたり、常に波浪によって侵食が続いている。屏風ヶ浦では下総台地の地下断面が観察でき、地層は下位から犬吠層群、香取層、関東ローム 層の3つに区分することができる。屏風ヶ浦は江戸時代後期以降、景勝地として著名となり、国指定名勝及び天然記念物として指定された。
市域[編集]
- 広袤(こうぼう):東西16.2キロメートル、南北12.8キロメートル
気候[編集]
周囲が海に囲まれているため海洋性気候となっている。すなわち、湿度は高めであり、気温は年間平均気温が約15℃で夏涼しく冬暖かいといわれる。
夏場は、関東平野部の都市では珍しく日中でも30℃を超えることは少なく、35℃を超えることはめったにない。熱帯夜になることもあまり無く、関東屈指の避暑地と言える。一方、冬場は南九州並みに温暖で気温が氷点下になることはほとんどなく、雪が降ることは非常に珍しい。
また、年間を通して比較的風が強く、風力発電所の風車が34基稼働している。沖合では洋上風力発電の計画が発表されている[16]。
銚子市川口町(銚子地方気象台、標高20m)の気候 | |||||||||||||
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月 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 年 |
最高気温記録 °C (°F) | 23.6 (74.5) |
24.0 (75.2) |
23.0 (73.4) |
25.9 (78.6) |
29.5 (85.1) |
30.9 (87.6) |
34.8 (94.6) |
35.3 (95.5) |
33.7 (92.7) |
30.6 (87.1) |
24.8 (76.6) |
23.4 (74.1) |
35.3 (95.5) |
平均最高気温 °C (°F) | 10.1 (50.2) |
10.3 (50.5) |
12.8 (55) |
17.0 (62.6) |
20.5 (68.9) |
23.0 (73.4) |
26.6 (79.9) |
28.6 (83.5) |
25.9 (78.6) |
21.5 (70.7) |
17.3 (63.1) |
12.7 (54.9) |
18.9 (66) |
日平均気温 °C (°F) | 6.6 (43.9) |
6.9 (44.4) |
9.7 (49.5) |
13.8 (56.8) |
17.4 (63.3) |
20.2 (68.4) |
23.5 (74.3) |
25.5 (77.9) |
23.4 (74.1) |
19.2 (66.6) |
14.4 (57.9) |
9.3 (48.7) |
15.8 (60.4) |
平均最低気温 °C (°F) | 2.9 (37.2) |
3.3 (37.9) |
6.4 (43.5) |
10.7 (51.3) |
14.8 (58.6) |
17.9 (64.2) |
21.2 (70.2) |
23.3 (73.9) |
21.3 (70.3) |
16.8 (62.2) |
11.1 (52) |
5.7 (42.3) |
13.0 (55.4) |
最低気温記録 °C (°F) | −6.2 (20.8) |
−7.3 (18.9) |
−4.3 (24.3) |
−0.2 (31.6) |
4.3 (39.7) |
10.2 (50.4) |
13.0 (55.4) |
15.9 (60.6) |
11.2 (52.2) |
4.5 (40.1) |
−1.3 (29.7) |
−4.6 (23.7) |
−7.3 (18.9) |
降水量 mm (inch) | 105.5 (4.154) |
90.5 (3.563) |
149.1 (5.87) |
127.3 (5.012) |
135.8 (5.346) |
166.2 (6.543) |
128.3 (5.051) |
94.9 (3.736) |
216.3 (8.516) |
272.5 (10.728) |
133.2 (5.244) |
92.9 (3.657) |
1,712.4 (67.417) |
降雪量 cm (inch) | 0 (0) |
0 (0) |
0 (0) |
0 (0) |
0 (0) |
0 (0) |
0 (0) |
0 (0) |
0 (0) |
0 (0) |
0 (0) |
0 (0) |
0 (0) |
平均降水日数 (≥0.5 mm) | 8.2 | 9.1 | 13.0 | 12.3 | 11.3 | 12.3 | 10.4 | 7.4 | 11.8 | 13.3 | 10.6 | 8.7 | 128.4 |
平均降雪日数 | 4.5 | 6.0 | 1.7 | 0.0 | 0.0 | 0.0 | 0.0 | 0.0 | 0.0 | 0.0 | 0.0 | 0.9 | 13.1 |
% 湿度 | 62 | 64 | 68 | 74 | 82 | 88 | 90 | 87 | 84 | 77 | 72 | 66 | 76 |
平均月間日照時間 | 179.8 | 159.0 | 168.9 | 183.0 | 188.9 | 142.3 | 174.0 | 221.3 | 159.0 | 137.9 | 140.1 | 163.7 | 2,017.8 |
出典:気象庁 (平均値:1991年-2020年、極値:1887年-現在)[17][18] |
人口[編集]
市人口は、社会増減が若年労働力の大都市への流出から1949年(昭和24年)以降減少し、自然増減が少子化によって1990年(平成2年)以降減少していることから減少傾向にある。
![]() | |
銚子市と全国の年齢別人口分布(2005年) | 銚子市の年齢・男女別人口分布(2005年) |
■紫色 ― 銚子市
■緑色 ― 日本全国 |
■青色 ― 男性
■赤色 ― 女性 |
銚子市(に相当する地域)の人口の推移 | |
総務省統計局 国勢調査より |
隣接自治体[編集]
歴史[編集]
地名の由来[編集]
銚子は酒をその中に入れる口と、そこからつぐ口が別になった酒器である[注 4]。銚子の本体は表面積の広い容器で、酒を入れるときは直接本体に注ぎ入れ、杯に酒をつぐときは本体に付いている小さなつぎ口からつぐ。利根川は内部の川幅が非常に広いにも関わらず、河口付近が極端に狭く、特異な形状である。そこでその狭い河口から河水が外洋に流れ出ている状態が、酒器の銚子の口から酒がつがれる状態に似ているということで、銚子の地名が起こったのである。
古代の銚子は「三前」あるいは「三崎」と呼ばれていた。和語の「みさき」は陸地が海中に突き出したところを意味する。中世になると飯沼・荒野・本城・垣根・野尻・笹本等の地名が史料の上に現れてくる。「銚子」という文字が古文書の類に登場するのは1644年(正保元年)に製作が始まり、1648年(慶安元年)に刊行された「正保日本図」であり、現存史料としては最古のものである。これは徳川幕府が諸大名に命じて領内の図を献上させて編集したものである。常陸の府中付近の霞ヶ浦湖面に「銚子口廿里」とあり、また土浦付近にも「是ヨリ銚子口廿一里十四丁」と記されている。銚子という地名が発生したのは慶長から正保(1596年〜1647年)に至るおよそ半世紀の間と見られているが、これより早い時期から海運用船舶は太平洋沿岸を航行しており、銚子湊に入港していた。これらの船舶の乗組員や海運業者の間に「銚子口」の名が起こったのである。この時期の「銚子口」という名称は利根川河口の名称に過ぎず、「銚子湊」も利根川の内水面の呼称にとどまっていた。その後正保・寛文期に入ると、銚子は海運の発達に伴って農村から港湾都市へと大きく発展していった。それまで銚子湊沿岸地域には飯沼村・新生村・荒野村・今宮村の4村があったが、船員にとってはそれぞれ固有の村名で呼ぶよりも一括して捉えた方が簡単で都合が良い場合が多く、単に湊や水域名であった銚子という地名は沿岸の陸地名として定着していった。そして江戸との交通が頻繁になるにつれて銚子の呼称は江戸を中心に各地に伝播し、やがて海運に関係のない者も、この地域を銚子として認識するようになったのである。銚子とは銚子湊沿岸の港湾機能あるいは産業都市的機能を有する地域の名であり、前記4村に隣接する諸村もこの機能の一部を担っていたから、垣根・松岸村あたりから東の半島部が銚子の範囲として認識されていた。
この汎称が初めて行政区画名となったのは、1889年(明治22年)4月1日に市制町村制が施行されてからである。すなわち、本銚子町・銚子町・西銚子町の3町である。そして1933年(昭和8年)にこれら3銚子町と豊浦村が合併して銚子市が誕生し、銚子の名は発生以来およそ3世紀を経て近代の単一都市名に到達したのである。
先史時代の銚子[編集]
銚子半島に人間が暮らし始めたのは、約2万8千年前の旧石器時代である。屏風ヶ浦を眼下に望む標高約60mの下総台地上に位置する三崎3丁目遺跡からは約7500点の石器や石核が出土している。出土した石器の石材は黒生海岸周辺で確保できる銚子産のチャートを使用したものが圧倒的に多く、石材産地に近い遺跡として重要な意味を持つ。また、伊豆諸島の神津島から搬入された黒曜石、北関東や東北地方から持ち込まれた硬質頁岩を材料とする石器も見つかっており、他地域との交易も読み取れる。縄文時代前期から中期の粟島台遺跡からは漆塗りの縄文土器や椰子の実容器、琥珀製の玉類等が出土している。縄文時代後期から晩期の余山貝塚はベンケイガイの貝製腕輪、釣針、モリ、ヤス等の骨角器が大量に出土した遺跡として考古学界に古くから知られる。これらの遺跡は水域や下総台地に近く、温暖な気候と海産物に恵まれ、数千年もの長い間狩猟と漁労を中心とした生活が営まれていた。
標高約50mの下総台地上に位置する野尻遺跡からは炭化米が出土し、弥生時代に銚子で米作りが行われたことが明らかになっている。この野尻遺跡や屏風ヶ浦を望む佐野原遺跡からは竪穴住居跡が検出し、下総台地上に比較的まとまった集落があったと考えられる。弥生時代の交易を示す資料としては椎柴小学校遺跡から出土した弥生土器があり、胎土分析の結果からその一部に東海地域から持ち込まれた搬入品の可能性がある土器片が含まれていることが報告されている。また佐野原遺跡から出土した「佐野原式土器」は、北関東地方と南関東地方の弥生土器に見られる特徴を持ち、銚子地域が両文化圏の境界上にあり、2つの文化の波及による影響を受けていることを示している。
中世海上氏と都市の起源[編集]
古墳時代の銚子周辺は、現在の霞ケ浦一帯に香取の海と呼ばれる内海が広がり、「古事記」などに記されている下海上国造の支配下で、海上郡に属していた。当地域を治める支配者たちは、香取の海を眼下に望む沿岸に古墳を造営した。現在、市内で把握されている最も規模が大きな古墳は、全長約35m、高さ約4mを測る前方後円墳の野尻1号墳で、この古墳を含む野尻古墳群には前方後円墳1基、円墳8基、方墳3基が確認されている。
平安時代に入り、武士が勃興するころになると、平忠常の子孫である豪族千葉氏の庶流である東氏(庶家、千葉六党)及び海上氏(庶家)が銚子地方を領有するようになり、建久年間に千葉常衡が海上与市を名のり、銚子地方の支配拠点として船木郷に中島城を築城したといわれている。室町時代になると、関東では新興勢力の後北条氏が覇を唱えるようになり、千葉氏とその一門である海上氏もこれに服属するに至った。そして安土桃山時代、後北条氏は天下統一を志す豊臣秀吉によって小田原城に滅亡し、千葉氏一門も共に滅亡した。
飯沼観音の名前で親しまれている円福寺は、728年(神亀5年)に漁夫が海中から引き揚げた十一面観音像を安置したのが始まりといわれ、海上氏の帰依も厚く、坂東三十三箇所二十七番札所に指定された。巡礼者や納経者が諸国から集まるようになると次第に門前町が形成され、室町時代末期になると旅籠や茶屋、遊女屋等が立ち並ぶようになり、現在の銚子の都市的起源となった[19]。
374年(応安7年)の「海夫注文」(香取文書)には香取の海の南に位置した飯沼・荒野・垣根・野尻・森戸・笹本の津が書上げられている。津(船舶の停泊地)には地頭の支配下に海夫が居住し、魚介を供菜物として香取神宮に納めていた。また津は商品の積み下ろし地でもあり、1560年(永禄3年)には 九十九里方面からの塩荷が船木・野尻宿に下ろされるなど、船木や高田にも津ができ香取の海を舞台とする人々が活動していた。
銚子の海岸には、源義経が兄頼朝に追われ奥州に逃れる途中、一千騎を引き連れて洞窟にこもったと伝えられている千騎ヶ岩や外川浦から船で奥州へ逃れた後、浜に残された愛犬が義経を慕って7日7晩吠え続け、最後は岩になってしまったという犬岩、馬糞池等、義経にまつわる伝説が残されている。
利根川東遷と銚子の発展[編集]
1590年(天正18年)、徳川家康の関東入国に伴い、松平伊昌が飯沼2000石を与えられ、銚子地域に知行した。江戸時代には現在の銚子市域は香取郡6村と海上郡35村から成り、その土地の多くは幕府領や旗本知行地であった。1709年(宝永6年)には高崎藩領に、1717年(享保2年)には幕府領となり、再び高崎藩領となった。その後、銚子は江戸の発展に伴い交通の要地として経済上・軍事上重要度を増していき、明治に至るまで幕府直系の親藩である高崎藩の手に委ねられた。飯沼には陣屋が置かれ、郡奉行1名と代官2名が駐在した。
徳川家康は江戸市中を水害から守り、新田開発を行うため1621年(元和7年)から利根川の東遷事業を命じた。幾度もの改修工事を経て寛永年間(1624年~1643年)に現在の流路に整えられ、江戸と銚子を結ぶ内陸水運路が開けた。1670年(寛文10年)、江戸幕府は河村瑞軒に命じて奥州の幕府直轄領から城米を江戸に輸送する東廻り航路を開発し、太平洋沿岸の主要な湊を立務場に指定、銚子もその一つとなった。これが契機となり、銚子は東廻り海運で運ばれてきた東北諸藩の産米や北海道の海産物を高瀬船に積み換え、利根川水運で江戸へ運ぶ物流基地となった。東北方面からの廻船の多くが利根川水運を利用したのは、従来の外海回り(房州回り)航路より安全で迅速であったためである。外洋利用者の寄港もあり、銚子は「東国一の港」と称され、江戸の外港として繁栄した。銚子湊は飯沼、新生、荒野、今宮、松本、本城、長塚、 松岸の8ケ村に渡り、その中心を担っていたのは飯沼から今宮の4ケ村である。特に荒野村には幕府や諸藩公認の御穀宿、各藩直系の藩蔵、民間船の世話をする船問屋、それより小規模な船宿等が整備され、幕末期には仙台、米沢、笠間等各藩の米蔵が7棟建ち並び、仙台河岸と称されていた。利根川を上下する高瀬船は飯沼49、高田38、野尻41の128隻を数え、飯沼村の廻船問屋は10軒余に及んだ。
陸上交通としては多古銚子道と銚子道があった。多古銚子道は銚子街道とも呼ばれ、延宝期までには成立し、商いの道として銚子地域と江戸を結んでいた。銚子道は木下河岸から飯沼村まで利根川に沿って走り、利根川水運の補助的な交通路として発達しつつ、沿線の村々とを結ぶ生活道路でもあったと考えられ、飯沼観音までの道程を示す石柱の道標も見られる。
地場産業の発達[編集]
家康の関東入国は、西と東の経済的交流を大幅に促進した。銚子にも諸国から人々が入り込むようになるが、その主要勢力の一つが紀州漁民である。漁業の新天地を求めていた彼らは、正保年代から新漁法を携えてこの地に来、半農半漁的な地元漁業を開拓し、漁業を銚子の主要産業にまで成長させた。始めは季節的な出稼ぎであったが、次第に定住するようになり、あるいはまた漁業から商工業に転ずる者もあって、銚子の商工業の発展に寄与することとなった。1656年(明暦2年)に銚子へ渡った﨑山治郎右衛門は、1658年(万治元年)に外川浦に移住し、港に堆積する土砂を掃き出す合理的な工法による築港や碁盤目状の街区整備、台所用水、漁船用飲料水、干鰯加工用水の確保のための「紀州堀」と称される大井戸掘削等、画期的な都市計画事業を実施し、僅か20年で「外川千軒大繁盛」といわれるほどの繁栄を築いた。漁法は正保・慶安期の間に任せ網から八手網に代わり、漁獲された鰯は食用にされるよりも、そのまま乾燥させた干鰯や煮て圧搾した〆粕へと加工された。干鰯は近世農業における最高の金肥であり、関西地方で栽培される綿花の肥料として需要が増大していた。川口神社から東側の浜辺一帯には干鰯場が広がっていたという。また〆粕の製造過程では灯火用の魚油がとれた。これらの流通の過程では仲買・問屋が生まれ、漁業生産に関連して造船業や漁網製造業も発達した。
紀州からは漁業だけではなく、醤油醸造の技術ももたらされた。1616年(元和2年)に銚子の豪農で干鰯生産に携わっていた3代田中玄蕃が西宮の海産物問屋である真宜九郎右衛門から醤油醸造の技術を伝授され、銚子の地で醤油醸造を開始した。現在のヒゲタ醤油である。また、1645年(正保2年)には紀州広村出身の濱口儀兵衛がヤマサ醤油の前身である広屋を創業している。温暖湿潤な気候であり、原料の大豆・麦・塩の生産地が近く、更に大消費地である江戸と利根川水運により結びついたこと等、好条件に恵まれた銚子の醤油は「地廻り醤油」と呼ばれ、味も江戸庶民の嗜好に合わせた関東風の濃口醤油へと改良したことで需要を高め、元禄期に銚子の主要産業へと成長した。醸造業者はいずれも富裕で豪商というべき者も多く、文政年間には20軒があった。中でも田中玄蕃は幕末から明治にかけては苗字帯刀を許されたばかりでなく、御用達頭取筆頭の他、御祐筆格次席という普通地方の庄屋ではとても及びもつかない待遇が与えられ、「銚子でサマの付くのは観音様と玄蕃様」と称された。田中家当主により書き継がれた「玄蕃日記」は当時の銚子を知る上での貴重な資料となっている。幕末期の1864年(元治元年)には銚子のヤマサ、山十、ヒゲタ、ジガミサを含む関東醤油7印が江戸幕府から最上醤油として認められた[20]。
犬吠埼周辺や長崎海岸を中心に愛宕山中腹で採掘された砂岩は「銚子石」と呼ばれて古くは砥石や墓石、供養塔に用いられた。1856年(安政3年)には江戸へ3万斤送られた記録が残っている。
正保・寛文期に海運関連業と漁業が勃興した銚子は、元禄期に入ると醤油醸造の産業化という新しい要素を加えて、享保年間(1716年〜1736年)に至るまでに農村から東国屈指の港湾都市へと急速な発展を遂げた。人口についても飯沼・新生・荒野・今宮の4村だけで1万3千余を擁し、一般の農村の人口とは1桁違っていた。戦前の旧市域でみれば優に2万人を超える人々が生活していたと思われる。文化・文政期にはその他商工業も盛んになり、これらの人々の衣食住や健康・娯楽あるいは教養・文化を支える様々な業種も発達した。医療について見ると、1752年(宝暦2年)の飯沼村の医師数は13人で、医師1人当たりの人口は570人である。1956年(昭和31年)の全国統計では人口834人に対して医師1人の割合であるから、当時の銚子における都市化の進展が窺える。1841年(天保12年)銚子に遊んだ漢学者安川柳渓は今宮付近から飯沼観音に至る道筋を「市中の賑ひ、あきびとの見世棚、すき間もなくうちつづき、十まちばかりも来つらんが」と描写している。江戸末期の銚子の人口は江戸、水戸に次いで関東3位であり、下総・上総を合わせた中では第1位であった。
文人墨客の来遊[編集]
経済力を蓄えた銚子の有力商人は、利根川を通じた江戸との商いの中で江戸に支店を構え頻繁に江戸と銚子を往来し、文化人と交流した。海産物問屋・御殻宿として巨富を成した行方屋の大里庄治郎は自ら俳諧に親しんで俳号を桂丸とし、夏目成美や小林一茶を銚子の自邸に招いて句会を開いた。江戸の豪商古帳庵も銚子を訪れ「ほととぎす銚子は国のとっぱずれ」という有名な句を残している。このような交流の中で次第に銚子は江戸で流布していき、更に旅行案内書も出版されたことで文化・文政期には江戸からの身近な旅行先として多くの学者や文人墨客、江戸庶民が物見遊山に訪れた。木下河岸から出航する木下茶船は東国三社詣の遊覧船として人気を博し、乗客は東国三社詣の後利根川を下り、銚子の磯巡りと称して飯沼観音を始めとした寺社や海岸の奇岩、断崖、白砂、青松、怒涛等変化に富んだ明媚な風光を賞で清遊した。利根川河畔の松岸、本城、田中は花街として盛況を極めた。歌川広重作「六十余州名所図会」には「下総銚子の濱 外浦」と題して名洗濱が富士見の名所として描かれている。来銚した人々と在郷の知識人や経済人との交流によって銚子への江戸文化の流入と地域文化の醸成がもたらされた。銚子では宮内嘉長開創の「守学塾」等、幕末から明治にかけて私塾が相次いで立ち、各村には寺子屋も開かれ、市内には筆子塚が見られる。
信仰と祭祀[編集]
かつての利根川河口は付近は川幅が狭いうえに水面下に岩礁が多く、波高の高い三角波により、当時の船頭歌で「阿波の鳴門か銚子の川口、伊良子渡合が恐ろしや」とうたわれ日本三大難所の一つに数えられていた。1614年(慶長19年)には鹿島灘方面へ出漁中であった漁師の多くが溺死した[21]。利根川河口付近に築かれた「千人塚」は水難で命を落とした人々の慰霊の場所で、かつてはこの塚の上で焚火をして帰りが遅い漁師の目印にしたと言われる。銚子には「銚子の川口てんでんしのぎ」という言葉もあり、川口の難所では自分の船を守るだけで精一杯という厳しい状況であった。出船入船を望む高台にある川口神社は銚子港の守り神として漁業者からの信仰が篤く、毎年旧暦6月15日には大漁と航行の安全を祈願して大潮祭りが行われる。
銚子大漁節[編集]
1864年(元治元年)春、銚子では未曾有の豊漁が続き、港は鰯の銀鱗で埋め尽くされた。この豊漁を祝うため大漁祭を催すことになり、飯貝根の網元網代久三郎と飯沼の松本旭江と俳諧師石毛利兵衛の三人が、松本家の離れ座敷・夏蔭庵に集って歌詞を合作し、常磐津師匠遊蝶が作曲、清元師匠きん子が振付して「銚子大漁節」が作られ、川口神社に奉納された。大漁節は現在も銚子の宴席では必ず歌われて座を盛り上げており、銚子を代表する民謡として全国に広く知られている。小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は「漁師の数え歌」として英訳し、海外に紹介している。
- 銚子大漁節
- 一つとせ 一番ずつに積み立てて 川口押し込む大矢声 この大漁船
- 二つとせ 二間の沖から外川まで 続いて寄り来る大鰯 この大漁船
- 三つとせ 皆一同に招をあげ 通わせ船の賑やかさ この大漁船
- 四つとせ 夜昼焚いても焚き余る 三杯一丁の大鰯 この大漁船
- 五つとせ いつ来てみても干鰯場は あき間もすき間も更になし この大漁船
- 六つとせ 六つから六つまで粕割が 大割小割で手に追われ この大漁船
- 七つとせ 名高き利根川高瀬船 粕や油を積み送る この大漁船
- 八つとせ 八手の沖合若衆が 万祝揃えて宮参り この大漁船
- 九つとせ この浦守る川口の 明神ご利益あらわせる この大漁船
- 十とせ 十を重ねて百となり 千を飛びこす万漁年 この大漁船
文明開化と犬吠埼灯台[編集]

幕末、銚子には異国船打払令による海岸防備のため、川口、長崎、高神に砲台が設置された。1864年(元治元年)には水戸藩士による天狗党事件が起こり、1868年(慶応4年)、榎本武揚が率いる旧幕府軍の艦隊8隻が函館に向かう途中で暴風雨にあい、その内の1隻である美加保丸が黒生沖で座礁・沈没、13名が死亡し、幕末の銚子は騒然となった。この頃、コレラが全国的に流行し、江戸だけで3万人の死者が出た折、銚子で開業していた蘭方医関寛斎はヤマサ醤油7代目当主濱口梧陵から蘭方医林洞海と三宅艮斎の紹介を受けてコレラの治療法・予防法を学び、薬品・書籍を購入して銚子に戻り、防疫治療に尽力した結果、被害を最小限に食い止めることに成功した。濱口梧陵は佐久間象山、勝海舟、福澤諭吉らと活発に交流した他、駅逓頭や和歌山県知事としても活躍した。紀州帰郷時に自分の田に火を放って津波の襲来を村人に知らせた「稲むらの火」の逸話でも知られる。1869年(明治2年)に銚子は宮谷県の管轄となり、県庁は大網白里に置かれ、飯沼陣屋に支庁が置かれた。1872年(明治5年)に新治県に編入されたが、1875年(明治8年)に廃されて千葉県となった。
新政府が推進する文明開化の波は銚子にも及び、西洋文明を採り入れた新施設の建設が相次いだが、その先駆けとなったのが犬吠埼灯台であった。日本における西洋式灯台の建設は江戸幕府が西欧4ケ国と締結した改税約書第11条に始まる。明治に入り条約灯台が次々に稼働するようになると、新政府は灯台は船舶の航海安全のため、条約に取り決めた数にかかわらず外国人と協議の上で灯台を建設することとした。これにより横浜・北米航路間の貿易船に対して必要な箇所として、犬吠埼の断崖に西洋型第1等灯台を建設することが決定した。建設はイギリス人技師のリチャード・ヘンリー・ブラントンの設計・監督の下に進められた。建材中最も多量に必要とした煉瓦は、 ブラントンは日本製は品質粗悪であるとしてイギリス製を使用すべきとしたが、 当時イギリス製の煉瓦は非常に高価であった。このため日本人技師の中沢孝政は日本製の使用を主張、良質の粘土を求めて利根川を遡り、新治県香取郡高岡村に良質の土を発見し、日本製煉瓦の完成に腐心した結果、 外国製に遜色のない優良な煉瓦を完成させた。灯台・付属舎・宿舎には19万3千枚の煉瓦が使用された。地震が多い日本において煉瓦構造を支えるため二重壁構造や帯鉄を挿入するなど、当時の先進的技術が取り入れられて1874年(明治7年)に初点灯し、銚子に新時代の到来を告げた。犬吠埼灯台には毎日のように200人ほどの見物人が各地から訪れたと伝えられている。同時に濃霧時や降雪で灯台の光が遠方まで届かない折に音で船舶に灯台の位置を伝える霧信号所も設置され、30秒毎に5秒の霧笛を鳴らしていた。かまぼこ型屋根の霧笛舎には創業間もない官営八幡製鉄所製の鉄が使用されている。
1886年(明治19年)には地元有志が私立銚子測候所を開設。1908年(明治41年)には逓信省が日本最初の無線交信基地である銚子無線電信局を開局し、横浜からシアトルへ向けて航行中の丹後丸が受信した。これが海岸局と船舶局との間における日本最初の無線電報とされている。敷地内には約70mの鉄製の柱が聳え、犬吠埼灯台と共に銚子の誇りとなっていた。
交通・産業の近代化[編集]

明治維新により幕藩体制は崩壊し、その上に成り立っていた東北地方と江戸を結ぶ海運は急速に衰退、東北諸藩からの廻船やそれに関係する物資船舶の往来は途絶した。一方、利根川水運は明治以降も残り、1874年(明治7年)に高瀬船に代わり蒸気船がいち早く導入され、利根川水運の一層の利便化が図られた。1881年(明治14年)には銚子汽船株式会社が設立され、蒸気船による銚子-東京間の定期航路が開かれ、銚子丸を始めとする7隻の外輪船が利根川を上下するようになった。そして1897年(明治30年)に佐倉-銚子間の総武本線が開通して東京の本所と結ばれた。1900年(明治33年)には駅東側に新生貨物駅が新設された。
鉄道網の整備は鮮魚消費市場の飛躍的な拡大をもたらし、明治末期には漁船の動力化が始まり、その後大型化や漁具・漁船等の改善も加わって漁業の近代化が進んだ。いわし漁は八手網からあぐり網での漁となり、さんま漁やかつお漁、まぐろ漁も盛んとなった。また、漁業に関連して造船業・鉄工業・製網業・撚糸業・漁船用発動機製作・水産加工業も発展し、銚子は水産業を基幹産業として再び発展の道を歩み出した。
当時国内最大規模にあった醤油醸造業では、1893年(明治26年)にヤマサ醤油10代目当主濱口梧洞が国内初の醤油研究所を開設し、手工業的な要素が強かった製造方法の近代化に取り組んだ。また市内の各醤油醸造業者も機械化・工業化に取り組み、生産の効率化が図られた。1914年(大正3年)には醤油醸造元濱口家・田中家・深井家が合同して「銚子醤油合資会社」が設立され、その後1918年(大正7年)に株式会社化して、濱口吉兵衛が初代社長となった。
銚子では江戸時代中頃から甘藷栽培が盛んとなっていたが、1889年(明治22年)に本銚子町の石橋重兵衛が蘇我町から講師を招き、澱粉作りを習得して以降は、甘藷を原材料とした澱粉生産が増加していった。当初は小規模で農業の副業という程度であったが、有力な農家によって製造工場が相次いで建設され、1907年(明治40年)に27軒であった澱粉製造業者は1914年(大正3年)には67軒と急増し、大正時代前期までに醤油醸造業に次ぐ一大産業へと成長した。
こうした産業の発展に伴って大手銀行支店の進出、地元銀行の設立等、金融機関の開設も多くなり、1914年(大正3年)には8行を数えるに至った。国や県の出先諸官庁も設置され、銚子は千葉県東部における政治・経済の中心都市としての機能を備えていった。1889年(明治22年)、町村制にともない、飯沼村が本銚子町と改称、荒野、新生、今宮の3村が合併し銚子町に、また、長塚、松本、本城の3村が合併し伊豆原村と改称したのち1891年(明治24年)に西銚子町となった。
避暑地としての歴史[編集]

犬吠埼周辺は景勝地として古くから著名であったが、明治初期、西洋から健康増進のために海水浴が効果的であるという考え方が導入されて酉明浦一帯が海水浴場として開かれ、灯台見物と相俟って犬吠埼は一大観光地へと発展した。1885年(明治18年)には銚子の有力者が潮湯治客を相手にした海水浴旅館として暁雞館を創業した。以来東京から訪れる皇族・華族・政府高官等の上流階級の人々や文士が頻繁に来訪する銚子の迎賓館としての役割を果たすと共に、銚子における各界の名士の社交場としても利用された。
1912年(大正元年)夏には、暁雞館に宿泊していた高村光太郎が長沼智恵子と出会った。光太郎は智恵子を以前から知っており、この夏の犬吠埼で2人の間に強い繋がりが生まれた。詩集「智恵子抄」に付されている「智恵子の半生」にこの夏のことが書かれている。
丁度明治天皇様崩御の後、私は犬吠へ写生に出かけた。その時別の宿に彼女が妹さんと一人の親友と一緒に来ていて又会った。後に彼女は私の宿へ来て滞在し、一緒に散歩したり食事したり写生したりした。様子が変に見えたものか、宿の女中が一人必ず私達二人の散歩を監視するためついて来た。心中しかねないと見たらしい。智恵子が後日語る所によると、その時若もし私が何か無理な事でも言い出すような事があったら、彼女は即座に入水して死ぬつもりだったという事であった。私はそんな事は知らなかったが、此の宿の滞在中に見た彼女の清純な態度と、無欲な素朴な気質と、限りなきその自然への愛とに強く打たれた。君が浜の浜防風を喜ぶ彼女はまったく子供であった。しかし又私は入浴の時、隣の風呂場に居る彼女を偶然に目にして、何だか運命のつながりが二人の間にあるのではないかという予感をふと感じた。
この出会いの後智恵子は熱烈な手紙を書き送り、光太郎も「此の人の外に心を託すべき女性は無いと思うように」なって、やがて結婚した。
暁雞館の南側にはかつて海水浴旅館の「水明楼」があり、明治を風靡した文豪の一人、徳富蘆花は「枕を撼かす濤声に夢を破られ、起って戸を開きぬ。時は明治二十九年十一月四日の早暁、場所は銚子の水明楼にして、楼下は直ちに大東洋なり。」に始まる「自然と人生」の一編「大海の出日」において、水明楼から見た太平洋に昇る日の出を、華麗で緊迫した文語体で微細に描き出した。「自然と人生」は当時のベストセラーとなり、自然を見る新しい目は旧来の花鳥風月の美意識を覆した。特に「雑木林」と「大海の出日」は明治の青年に衝撃を与え、犬吠埼の日の出へと人々を誘った。
こうした状況の中、伏見宮家別邸の用地として犬吠埼の地が選定され、1904年(明治37年)に瑞鶴荘が建設されている。敷地には主屋、茶室、潮見亭、撞球場などの建物があり、これらの建物や庭園は海岸の風景を借景とした設計がなされていた。伏見宮貞愛親王は66歳で没するまで毎年避暑や避寒のため銚子を訪れ、瑞鶴荘に滞在したとされる。
総武鉄道株式会社は銚子から外川への路線延長を計画し、1901年(明治34年)に免許を取得したが、用地取得の失敗により敷設を断念し、1904年(明治37年)に工事は中止された。その後、1909年(明治42年)に濱口吉兵衛、13代田中玄蕃、小野田周斎ら地元財界人が銚子人車鉄道の計画を申請したが、1912年(明治45年)には人車よりも輸送力の大きい、銚子・犬吠埼間を結ぶ本格的な蒸気鉄道敷設の申請へと転換した。この申請は政府の免許を受け、1913年(大正2年)に銚子遊覧鉄道株式会社が設立され、同年12月に銚子—犬吠間が開業した。しかし収支は毎年度赤字が続き、政府補助金の交付を受けて辛うじて黒字経営を保っていた。1914年(大正3年)に勃発した第一次世界大戦の影響で鉄鋼類の価格が高騰すると、遊覧鉄道はレールや車両を売却して利益を得る方針を採り、1917年(大正6年)に開業から僅か4年で廃止された。残った旧線路用地は暁雞館自動車部の宿泊客送迎用バスの専用道路として利用された。 その後、1921年(大正10年)に旧遊覧鉄道発起人により再度、銚子鉄道の敷設願いが提出され、1922年(大正11年)に免許を取得、1923年(大正12年)に外川まで延伸、開通した。銚子鉄道の路線のうち銚子・犬吠間は遊覧鉄道の旧路線をそのまま使用し、犬吠・外川間は新たに延長したものである。当初使用していたガソリン機関車は故障続きであったため1925年(大正14年)には電化開業している。
このように犬吠埼周辺の観光開発の気運が盛り上がっていた中、銚子鉄道の出資者で、仙台出身の資本家であった武田辰之助は銚子に移住後、1921年(大正10年)頃、海鹿島を保健別荘地区として開発造成して売り出した。海鹿島の名は沖の岩礁に明治時代まで見られたというアシカに由来し、大小無数の岩礁が作り出す明媚な風光が文人を魅了した。
大正浪漫を代表する叙情画家である竹久夢二は、海鹿島を訪れた際に次の詩を作っている。
- 宵待草
- 待てど暮せど来ぬ人を
- 宵待草のやるせなさ
- 今宵は月も出ぬさうな
夢二は1910年(明治43年)夏に海鹿島を訪れ、宮下旅館に間借りをした。夢二はそのとき隣家の次女であった長谷川賢を見そめ、彼女を散歩に誘い出すことに成功した。海鹿島の松林の中には犬吠埼灯台へ行く白い路が延びており、夢二はここを通い路と名付け、逢瀬を重ねた。夢二は翌年再び海鹿島を訪れたが、賢はすでに鹿児島の教師のもとへ嫁入りをしていた。この詩は、夢二が失望のあまり当てもなく海鹿島海岸をさまよっていた時、海岸に咲き乱れる宵待草によせてわが身の悲恋をうたったものである。原詩は今の3行詩の形に改められて、1923年(大正12年)発行の「どんたく」に掲載された。これにヴァイオリン奏者・多忠亮がメロディーをつけて、一世を風靡した。
河童の絵で有名な日本画家の小川芋銭は、1923年(大正12年)、東京三越の展覧会が終わった直後、後援者であった篠目八郎兵衛の勧めにより、海鹿島海岸の高台にある篠目別荘で休息した。芋銭は逗留中に「樹間如水人如魚」や「水魅戯」を描き、海鹿島海岸に魅せられた。翌年、海鹿島を再度訪れた芋銭は篠目別荘を「潮光庵」と名付けて半年間逗留し、その後も毎年のように来て、多くの名作を描いた。1933年(昭和8年)、芋銭は皇太子明仁親王の誕生を賀して、次の句を詠んでいる。
- 大海を飛び出づる如と初日乃出
- 銚子灘朝暾
女流作家平林たい子は大正末期に短い期間であったが文学仲間と銚子で流浪の日々を送ったことがあり、そのときのことを自伝小説「砂漠の花」に書いている。銚子に流れてきたときの平林たい子はプロレタリア文学を志しており、同行の仲間はアナーキスト・グループの仲間で、海鹿島の別荘を借りて滞在していた。彼女は銚子のレストラン「巽軒」で働いていたが、これと前後して、同じ女流作家の林芙美子も近くの「第二仙松軒」というカフェーで女給をしていたことがあった。林芙美子は1940年(昭和15年)に君ヶ浜の杉山平助別荘に泊まり、潮騒に眠りを妨げられるまま壁面に「激しく寝がへを打ちてかへりゆく波のうねり、犬吠の岬に来て何も忘れ果てたり」と鉛筆で書きつけたと伝えるが、建物は現在は失われた。
この他、銚子には明治から昭和にかけて、島崎藤村、与謝野晶子、若山牧水、佐藤晴夫、高浜虚子、久米正雄、前田夕暮、田山花袋、尾崎紅葉、吉田絃二郎、窪田空穂、大町桂月、斎藤茂吉、岡倉天心、中里介山、内田百閒、ノーマン・メイラーら数多くの文人、歌人が訪れている。
また、銚子は国木田独歩を始め、「大日本国語辞典」を刊行した国語学者の松井簡治、画家で詩人の宮崎丈二、講談社専務取締役を勤めた尾張真之介らの文学者を輩出している。
財団法人公正会[編集]
1925年(大正14年)、ヤマサ醤油10代目当主濱口梧桐は学校教育における人物養成の不完全性に目を注ぎ、人物養成のために、私財30万円を投じて財団法人公正会を設立した。「公正」という名前には、私事を捨て大衆を基とし、最も公平に正しく運営するという理念が込められているとされた。翌年には住民のための図書館、勤労青少年を対象とする補修的な夜間学校及び集会場を併せ持つ公益的な施設として、公正会館を開館した。鉄筋コンクリート2階建ての瀟酒な建物で、低い石の柵に囲まれた植込みのある前庭がゆっくりと取られ、銚子における文化の殿堂となった。 1階は図書館・教室・事務室、2階は約500人収容のステージ付き大ホールになっており、会館では講堂と呼んだ。
図書館は閲覧室が3室あり、蔵書は開館時400冊で、文学書の他「国史大系」や「続群書類従」「広文庫」「史料綜覧」等の学術書も多くあった。その他、開架式の閲覧方法や館外貸出しも利用者に大きな利便を提供し、銚子の文化の向上に裨益するところが大であった。公正学院は働く青少年に中等学校程度の教育を施そうというもので、今日の定時制高校に相当した。公正会主催の事業は講演会、講座、展覧会、音楽会、芸能会その他多数で、講演会には各界一流の人々が中央から招かれた。当時の講師の揮毫帖を見ると、作家でいえば巖谷小波・菊池寛・舟橋聖一等のクラスが来銚している。会場は常にほとんど満員で、銚子にも知的に飢えた人々が多かったと見ることができ、その欲求にこたえた事業の意義は大きかった。こうした催しの他に、公正文化会や公正母の会、あるいは子供会・読書会というような会員制グループ活動も推進していた。このような活動を創意し展開できたのは、東京帝国大学出身の文学士であった初代館長兼学院長の小山文太郎の功績によるところが大きい。
1945年(昭和20年)3月の銚子空襲により街は壊滅的な被害を受けたが、この建物は奇跡的に残り、臨時病院として使用された。1948年(昭和23年)、公正会は施設一切を市に寄付して解散し、20年余にわたる歴史に終止符を打った。寄付後の公正会館は銚子市公正市民館及び銚子市公正図書館となった。「公正」の名をとどめたのは、財団法人公正会とその創立者濱口梧桐を永く記念するためである。
近代漁港の建設[編集]
江戸時代の銚子港は主として商港として興り商港として発展したもので、漁業根拠地たることは二次的なものでしかなかった。明治維新によって幕藩体制が崩壊すると、従来の藩を中心にした物資の流通に大きな変化が起こって東廻り海運は急速に衰退した。また、鉄道が発達すると河川を利用していた運輸も衰え、昭和初期までに銚子港の商港機能は全く失われることとなった。この頃我が国の漁業は漁船の動力化・大型化と漁法の改良によって沿岸漁業から沖合漁業への発展期にあり、銚子港は全面的にその根拠地として大きく機能するようになった。しかし大正期に入っても銚子港の形態はほとんど天然のままの河口港であり、僅かに沿岸の海岸のところどころに防波用の合掌枠や桟橋が設けられていた程度であった。港口の出入りには危険が伴い、漁船の遭難が繰り返されていた。そのうえ港といっても接岸できる岸壁はなく、漁船は岸を離れた深みに停泊し、陸とは伝馬船で連絡する状態であった。その陸上にも漁港施設はあまりなかった。そこで近代的な漁港を建設して航行の危険を除くとともに、施設の整備により地元船ばかりでなく廻船を誘致し、銚子の新たな発展の基盤にしようとしたのである。折しも銚子沖が全国屈指の漁場であることが分かり、岩手県・宮城県・和歌山県にいたる各地から多くの漁船が集まるようになり、銚子港は東部太平洋岸の主要漁業基地として認識されつつあった。
このため築港事業は漁業関係者の一致した認識となり、1919年(大正8年)には具体的な実現運動に発展した。その結果政府も銚子港の重要性を認め、我が国の水産業の発展という大局的な見地から一大整備を行うこととなった。銚子醤油株式会社社長の濱口吉兵衛[22]は、代議士の立場から築港の促進を図るため衆議院議員選挙に立候補して当選し、在任中、政党を動かして議会や政府に働きかけた。当初の計画による銚子漁港の規模は外港・中港・内港を有する壮大なもので、外港は夫婦ヶ鼻東方に突き出す北防波堤と黒生北方に建設する南防波堤で囲み、これと河口側の内港は運河を掘って結ぶというものであった。工事は1923年(大正12年)度から10か年継続とし、総工事費1千万円を千葉県の他に将来銚子漁港を利用する東京・神奈川・静岡・愛知・三重・宮城・福島・茨城の各府県で分担することとなった。しかし各府県の財政事情によりこの案は廃され、国庫補助金500万円に県下の寄付金、魚市場の売上等を合わせて、千葉県単独で実施することとなった。これに至るまでには、銚子町選出の県会議員小野田周斎の努力があった。
だが予想外の問題が起こって、事態は頓挫してしまった。起債の許可と工事施行の認可が容易に下りようとしなかったのである。これらの許認可は内務省の所管であったが、利根川河口の沿岸を埋め立てたり、河中に堤防等を構築することは治水上重大な影響を及ぼすとして、農商務省の設計による築港工事を認めようとしなかった。両省の意見の食い違いは、事が科学的・技術的な問題であるだけに容易に解決を見ることができず、折から1923年(大正12年)に関東大震災が発生して国はその対策に追われ、事業開始は遅れるばかりであった。銚子はその将来に関わる重大な問題であるだけに、衆議院議員選挙に再出馬して当選した濱口吉兵衛や香取郡から再選された今井健彦を動かし、内務省や農商務省に働きかけた。その労が実り、1925年(大正14年)、部分的に第二漁船渠の工事が認可された。
起工式は1925年(大正14年)11月21日に飯沼魚市場において挙行された。ここに銚子近代化の最初の槌音が高く鳴り響いたのである。工事には当時としては新鋭のドイツ製の浚渫船や杭打ち船が配置されて、新生・飯沼町地先のさざ波が寄せる天然の岸辺は広大な埋立地に生まれ変わっていった。だが他の工事は依然として認可に至らず、県は大幅に計画を変更して外港・中港・航路の建設を取り止め、その代わりに龍ノ口と一の島間に防波堤を構築し、内港に新たに第三漁船渠を設けることとした。この計画変更と工事施行は1935年(昭和10年)に全面的に認可され、銚子の長年の宿願が果たされた。そしてこの年から、工事は第一漁船渠・外港へと延びていった。なお、この年には既に埋め立ての成った第二漁船渠後背地に東洋一を誇る新魚市場が完成した。この魚市場は戦後の1965年(昭和40年)まで、銚子漁港の中心施設として大きな役割を果たした。1934年(昭和9年)度からは埋立地を貫通する延長5500mに及ぶ臨港道路の建設が始まり、銚子漁港の大動脈となった。これらの護岸工事により往時の利根川河畔の風情は全く消え去り、トラックが頻繁に行き交い、岸壁には大小無数の漁船がマストを林立させる近代的な漁港へと変貌していった。
銚子市誕生[編集]
銚子という地名は江戸時代に発生したもので、もともと特定の村の名称ではなく銚子港沿岸の汎称であった。したがって明確な境界はなく、当時の村名で言えば飯沼・新生・荒野・今宮の4村を中心とし、だいたい垣根村もしくは松岸村以東の半島部を銚子と称していた。明治に入って1889年(明治22年)になると「市制町村制」という近代的な地方制度を定めた法律が施行され、この時江戸時代の村は単独もしくは合併して近代町村に生まれ変わった。銚子では本銚子町・銚子町・西銚子町・高神村・豊浦村・海上村の3町3村になり、初めて銚子の名は行政区画名になった。本銚子町は飯沼村1村で町制を施行した村で銚子半島の東北部を占め、最大の人口を有する漁業の中心地であった。商工業も盛んで観光資源にも恵まれ、飯沼観音を中心に歓楽街が発達していた。銚子町は銚子の中央部に位置する商工業の町であった。荒野・新生・今宮の3村合併してできた町で、銚子の主要な官公署・企業・銀行・公立中等学校等はこの町に集まり、富裕な町民も多く、経済・文化の中心地になっていた。西銚子町は銚子町の西に銚子街道に沿って発達した村で、かつては松本・本城・長塚の3村に分かれていた。町としての規模は3銚子町の中で最も小さく、産業は農漁業である。高神村は銚子の東南部を占め、やはり1村で近代の町制をしいた。人口は西銚子町より大きく、漁業基地になっていた外川は商店も入り混じって小さな町を形成していた。豊浦村は銚子の南部にあり、三崎・辺田・小川戸の3村が合併してできた。三崎地区は純農村であったが、辺田地区や小川戸地区には農業以外の職業の人も多かった。一番西に位置していたのが海上村である。江戸時代の松岸・垣根・柴崎・高野・余山・三宅・赤塚・四日市場の8村が合併してできた村で、純農村に近いが、垣根・松岸は江戸時代に利根川を下る木下茶船の終点、つまり銚子の玄関口として栄えたところであったので、早くから町の形態を成していた。以上のように、各町村はそれぞれ個性の異なる町村であったが、全体として銚子という一つの経済・文化・生活圏を形成していた。これらの3町3村がいつまでも弱小町村のままで分立していないで、行政的にも合併して名実共に銚子という強力な団体を形成し、もって地域の発展を図ろうという意見が出始めたのは大正中期であった。
市制施行は県都千葉市が誕生して間もない1923年(大正12年)頃から有識者間で度々話題になっていた。銚子築港工事は銚子町、本銚子町、西銚子町の3町区域に及び、起工を目前に控えて市制施行が台頭したが、時期尚早論者が多数で遂に実現できなかった。その後、築港工事は計画を変更して内務省・農林省に申請中であったが、1932年(昭和7年)に工事施行の認可が下った。だが当初から問題になってきた第2漁船渠の河堤工事は認可されず、その促進運動は大銚子市建設によって解決する他はないという議論が起こり、これが動機となって市制施行の好機が到来した。
このような中で、銚子町・本銚子町両町長が先頭に立って、市制を施行してほしいという意志を陳情の形で県当局に示すと共に、必要な基礎的調査を要請した。また、各町村では懇談会を開いて県地方課長川村芳次の説明を聞き世論の喚起に努め、全体としては1932年(昭和7年)8月20日銚子町役場で関係町村長会議を開き、市制施行の準備体制を整えていった。各町村からは大銚子建設委員と同代表委員が選出され、9月8日に第1回代表委員会が開かれた。10月15日、知事の諮問に基づいて各町村は一斉に町村会を開き、答申案の審議を行った。一部の村では依然促進論と尚早論が対立して容易に結論に達しなかったが、促進論者の説得によって、本銚子町・銚子町・西銚子町・豊浦村の3町1村が市制施行を可とする答申案を議決した。高神村は反対論者が多く、結局参加を見合せることとなった。海上村はこれより前に不参加を決定している。こうして市制施行計画は3町1村に規模が縮小したものの準備事務は続行され、各町村の希望事項に対する県側の協調案が承認されると、越えて1月4日に内務大臣から各町村会に対して正式な諮問が行われた。この答申に基づき内務省は銚子市制施行を告示し、ここに1933年(昭和8年)2月11日をもって銚子市が発足した。千葉県で2番目、全国では116番目の市であった。市制施行当日の様子を1933年(昭和8年)度の「銚子市政史」は次のように記している。
待望久しき大銚子市制実施は二月十一日建国の佳辰紀元節を期して千葉市に次ぐ県下第二の新興港湾都市として茲に力強く誕生せり、此の日四万五千の市民は歓喜と感激の裡に前途を祝福し毎戸に国旗掲揚一方小学校児童、中等学校生徒、幼稚園児の七千四百余名は午前十一時三十分一斉に校門を出発、「銚子市制祝賀」の小旗と日の丸の国旗を両手に打振り輝かしい市制歓喜の旗行列を挙行す、一方正午より公正会館に於て市制施行祝賀会を開催し町村長、町村会議長、区長、其の他有力者等官民三百余名参列先ず川村銚子市長職務管掌より「私達の市が皆様のお力でこの紀元節に生まれ出たことは全く喜ばしい私は新市民の福利増進を計る基礎を固めるため仕事を進めて行く覚悟です大銚子建設の公約を果たされた市民諸君は更に一層努力されて行くゝは東洋一の大漁港都市を実現されたい」と力強い挨拶を述べれば満場拍手喝采次いで岡田知事始め各市よりの祝電十数通を披露し万歳三唱の上式を閉じて祝宴に移り盛会裡に終了す
市役所は旧銚子町役場に置かれ、ここを拠点として新市の建設が始められることとなった。当時の行政組織は市会・市参事会及び市吏員とからなっており、市会は最高の議決機関である。選挙を経て3月14日に銚子市初の市会が開かれ、全会一致で初代市長に銚子醤油株式会社社長濱口吉兵衛を推挙したが、老齢を理由に固辞された。このため銚子市長職務管掌として市制施行準備を指導し、内務省官吏の経験を持つ県地方課長の川村芳次に決定し、交渉を重ねた末承諾を得た。6月3日には市制祝賀行事の中心行事である祝賀式が第2漁船渠埋立地に新装成った魚市場で挙行され、内務大臣代理以下市内外の関係者千人余の出席を見る盛典となった。
将来の発展のための基盤として市が最も鋭意努力を続けたのは、土木と教育面の建設的事業であった。土木特に道路整備に関する事業は都市づくりの基本として常に市政の重点となり、市の要請で千葉県銚子土木事務所が新設され、市会も県に対し意見書を提出した結果、市内主要道路は次々に整備されていった。中でも銚子駅前通りは、銚子市で最も早く歩車道分離と舗装がなされた。銚子駅は1936年(昭和11年)に木造モルタル2階建、バルコニーのついたモダンな駅舎に新築され、銚子鉄道への地下通路も新設された。その前に伸びる駅前通りは、歩くと靴音の響く舗道沿いに新しい商店が立ち並び、新興都市・銚子を象徴する景観であった。教育面では、各小学校に併設されていた高等科の高等小学校への集約、更に市立中学校の新設が実施された。また市は塵芥焼却場、職業紹介所、火葬場を新設し、県内でいち早く上水道を整備して、都市形態の近代化による産業の発展を図った。1937年(昭和12年)には高神村・海上村が合併し、近世以来銚子という文化圏を形成していた地域はようやく一つの行政区画となったのである。
太平洋戦争と銚子市[編集]
銚子が市制を施行し、近代的な産業・観光都市の建設を目指していた時代は、日本が帝国主義戦争の拡大に向かって、体制の強化を推進しつつあった時代であった。1936年(昭和11年)、下志津陸軍飛行学校銚子文教場が春日台に設置され、飛行場が整備された。学校の分教場であるから戦闘部隊の基地ではなく、したがって軍事基地としては最も軽易なものであった。銚子分教場開校後、銚子沿岸の海上では連日偵察機の射撃訓練や戦闘機の戦闘訓練が展開された。盧溝橋事件を機に日中戦争が勃発した1937年(昭和12年)には銚子憲兵分遣隊が春日町の旧豊浦村役場跡に開設された。この年日中戦争に伴う本土防空のため、銚子市民間防空監視隊が設置され、銚子地区における対空監視を24時間体制で行った。
1941年(昭和16年)の太平洋戦争開戦後銚子市には関係陸海軍部隊が配置され、犬吠埼に海軍の防空監視部隊である横鎮犬吠望楼が常駐するようになり、1942年(昭和17年)の初の本土空襲後は、参謀本部が愛宕山に陸軍レーダー部隊を配置した。レーダー部隊の秘匿名は筑波隊と称し、これを掩護するため高神小学校に砲兵中隊が駐屯した。また海軍も同様に愛宕山にレーダー基地を設置し、これに続いて1943年(昭和18年)には三崎町に陸軍千葉防空学校銚子分校が開校した。空襲時には対空戦闘を行う任務と戦力が与えられており、後の空襲時には何機かの艦載機を撃墜している。1944年(昭和19年)には、戦時下において東京への鮮魚輸送を担う新生駅から銚子漁港魚市場に至る専用側線として臨港線が敷設された。
折から戦局は既に転換し、南方方面では日本軍占領の諸島が次々と奪還され、1945年(昭和20年)に入ると軍部は米軍地上部隊の日本本土進攻を想定した、いわゆる本土決戦の準備に本格的に取り組み始めた。米軍上陸の公算の大きい地域として最も重要視されたのは関東沿岸と九州南部沿岸であった。関東沿岸では、相模湾・九十九里浜・鹿島灘のうち九十九里浜が一番重視され、その東端に近いところに位置する銚子市も決戦態勢の一翼を担わなければないということになった。戦後明らかにされた米軍の作戦計画によると、1945年(昭和20年)11月にまず九州南部に上陸し、次いで1946年(昭和21年)3月に九十九里浜と相模湾に上陸する予定であったというから、日本側の予想はまさに的中していたわけである。決戦準備の推進に伴って、陸海軍部隊が派遣されて不動山と妙見町方面に陸軍の防御陣地が築かれ、弥生町・幸町と外川には海軍の特攻基地が建設された。そして末期には米軍を沿岸で撃滅する任務を帯びた陸軍決戦部隊が移駐し、県立銚子工業学校(旧商業)を連隊本部に定めた。秘匿名は護沢第22630連隊であり、その主たる任務は銚子半島の防護で、米軍が銚子に上陸した場合、市内各所に構築した陣地に拠って決戦を交えることになっていた。
米軍が新たに開発した「超空の要塞」と称される大型戦略爆撃機B29が初めて関東地区に飛来したのは、サイパン島陥落4か月後の1944年(昭和19年)11月であった。これ以後関東地区や中部地区には連日のように40機から100機のB29が来襲し、軍需工場等を目標に爆撃を行った。銚子市上空はB29の関東地区侵入口あるいは退出路となり、市民は空襲警報発令下に爆音を耳にすることが多くなった。1945年(昭和20年)2月には銚子市に初めて米軍艦載機が侵入し、下志津陸軍飛行場銚子分教場が攻撃を受けた。これは日本軍の航空兵力削減が目的と見られ、市街地には大きな被害はなかった。しかしこの頃、米軍は日本の戦争遂行能力の喪失を図るため、木造家屋の密集する日本の都市そのものを焼夷弾で徹底的に焼き尽くす無差別爆撃へと戦略を転換した。この新しい戦略爆撃は3月9日の夜初めて実行され、図らずも銚子市は首都東京と共にその犠牲となったのである。
この日の深夜、B29の梯団は房総半島南端から続々と本土上空に侵入し、東京を目指して一路北上した。このうち5機が銚子市に2000〜3000m若しくはそれ以下の高度で侵入し、照明弾を投下しながら栄町・陣屋町・新生・興野・本通り方面に大量の焼夷弾を投下した。以下は「市民の記録・銚子空襲」に記された、当時海上国民学校の教員であった市民の回想である。
あれはたしか昭和二十年三月九日の夜だった。めっきり暖かくなって春めいてきた夜だった。夜半、例のごとく警戒警報がなり出したので、私はいつものようにすばやく身なりを整えると、家をとび出した。やっと学校近くの利根川河畔の長塚たんぼまで来たとき、背後に、にぶい爆音と、ズシリと腹にこたえるような異様な響きを耳にした。はっとしてふりかえり、みあげた東の空は、あたかも何万燭光のライトに照らし出されたように明かるかった。「かぐや姫を迎えに来た月の使いもかくや」と思われるほどまばゆい光が、数えきれないほど落ちてゆく。あれが新聞で読んだ照明弾か、焼夷弾か?パラパラパラパラ、あいついで水面におちてゆく光の矢。利根河口の水面のさざ波まで、うつし出すほどの明るさであった。その瞬間、私は恐ろしさも忘れてみとれていた。それは実際、おそろしいと思う前に、一瞬、魂を奪われるほどのすばらしい美しさであった。でも、それもつかの間、はっと我に返ると、今出てきたわが家の方角に流れてゆく火箭に、今度は魂の凍るような恐ろしさを感じた。
この地域は市役所を中心とする市の最も中心部であり、折からの北北東の風に煽られて炎は見る見るうちに燃え広がり、やがて市中心部は文字通り火の海となってしまった。その火勢はものすごく、利根川から吹きつける風と共に駅前大通りの路面をうなりを立てて這い上がってくる真っ赤な炎に、幼い日物語に聞いた八岐大蛇の舌を思い出し、足のすくむような恐怖に襲われた市民もいた。B29の攻撃は1時間程続いたと思われる。空襲に対する唯一の民間防衛組織は警防団であり、団員1600人はいつ焼夷弾の攻撃を受けるかわからない危険の中、手持ちのポンプを用いて必死に消火に努めた。対岸の波崎町は幸いB29の攻撃を免れたが、同町警防団は天を焦がすような火炎に包まれた銚子市の惨事を見て、救援のポンプ2台を揚繰漁船に積んで銚子市に派遣し、消火活動にあたった。しかし火災の規模は余りに大きく、破壊消防を行って延焼を食い止めるだけで精一杯となった。火災は夜の明けるまで続き、新生2丁目ではいったん消し止めた炎が朝になってから再び燃え上がり、更に陣屋町・南町・前宿町にまで延焼した。この空爆は千葉県に行われた最初のもので、死者47人、負傷者163人で、焼失戸数は1000戸余、主な焼失建物は銚子市役所・銚子保健所・銚子診療所・銚子醤油・ヤマサ醤油・宝醤油・銚子信用組合・県立銚子高等女学校・白幡神社・大慈寺等であった。この空襲により銚子駅前一帯は何一つない焼け野原となり、駅頭から利根川まで見通せる状態となった。
そして7月19日の深夜、銚子市は3月の空襲を遥かに上回る二度目の大空襲を受けて、市街地はほとんど全滅した。この夜の来襲機数はなんと91機で、最初に市街地の南端に当たる下総台地の縁辺に焼夷弾を投下し、次いで西側に、更に東側に投下した。残る北側は利根川であり、中の市民は四方を囲まれた状態となった。米軍はそこへ更に焼夷弾を投下し、火災から逃れようとする市民を低空で機銃掃射し、爆弾で襲ったのであり、その苛烈さは言語に絶するものがあった。B29侵入後から僅か3分で電話は不通となり、送電は途絶え、30分後には全市が猛火に包まれた。警防団はこの夜も消防と救護に奮闘した。また銚子市が大空襲を受けていることを知った八日市場町と東金町から、消防自動車各1台が救援に駆け付けた。しかしこの夜の被弾範囲は広く、投下された焼夷弾の数は膨大であったので、到底これらの消防能力では及ばなかった。一夜明けた銚子の街の惨状は目を覆うばかりで、死者278人、負傷者は808人で、総焼失戸数は3950戸と銚子市全戸数の30%強が焼失し、銚子駅・銚子警察署・銚子測候所・市立銚子中学校・銚子商工会議所・飯沼観音・浄国寺その他多数の建物が灰塵に帰した。焼失地域の市民は、しばしば自分の家の焼け跡から「御前鬼山が見えるようになった」という言い方をした。御前鬼山はかつて銚子気象台があった標高僅か26m余の小さな丘であり、焼失前は建物に遮られて市街地からはほとんど見えなかった。それが見えるほどに銚子の街は見渡す限り焼け野原になってしまったと、市民は強調したのである。銚子市のような地方小都市が狙われたのは、銚子市が日本における水産業と醤油醸造業の中心で、また千葉県第2の都市でもあり、空襲が成功すれば東京の主要食糧供給基地の一つを破壊できると考えられたためである。
この後も空襲は依然として止むことがなかった。F6FヘルキャットやP51ムスタングのような戦闘機が連日のように飛来し、軍需工場や愛宕山の軍施設を銃撃した。その他、人家や通行人、陣地構築の作業現場、走行中の列車等も目標になった。8月1日深夜と8月5日夜にも単機による空襲が行われ、1日の空襲では内浜町、南町、前宿町を中心に焼失戸数350戸余、死者4人、負傷者37人を出し、5日夜の空襲では焼失戸数28戸、負傷者12人の被害を出した。8月15日も早朝から艦載機が来襲し、新生駅が銃撃されたり、銚子鉄道の仲ノ町駅や八幡町のヒゲタ醤油工場に爆弾が落とされたりした。銚子上空から敵機の爆音がようやく消え去り、静かな真夏の青空が蘇ったのは、終戦を告げる玉音放送がラジオから流れ始めた正午頃であった。
終戦後、銚子市には米軍が駐屯するようになり、ヤマサ醤油本社ビルを接収して関東各地の旧日本軍の砲弾・弾薬の海中投棄作業を指揮した。銚子駅から臨港線によって銚子漁港に集積された爆弾・砲弾は銚子・波崎・片貝方面の漁船によって銚子沖に投棄された。当時の市民を最も苦しめたのは食糧の欠乏で、終戦から3、4年続いた。バラック建築は終戦直後から始まり、どこからでも御前鬼山が見えた焼け跡にも次第に家が立ち並び、1946年(昭和21年)中には町らしくなり、大通りに面した家々では商売らしいものも始めるようになった。しかしそれは「アメリカ映画の西部劇に出てくるような殺風景な姿」であり、駅前通りの一角にはスピードくじの当選番号がはり出され、あたりには外れくじが散らばっていた。闇商売も横行したが、それはやがて銚子市の地域経済を活発にし、戦災復興の原動力となった一面もあった。仲ノ町車庫と電車1両、変電所を焼失し、運行不能のまま終戦を迎えた銚子鉄道は役員会で存続か廃止かが議論されたが、車両は1両を失ったのみで、駅と本社が無傷であったことも幸いして存続が決定された。1945年(昭和20年)末に国鉄から蒸気機関車1両を借り入れて営業を再開、1946年(昭和21年)には電車運転を再開し、その2年後には企業再建整備法の下で銚子電気鉄道株式会社として再出発した。1946年(昭和21年)には昭和天皇が銚子市に行幸した。銚子市は戦災都市であったため適当な宿泊所がなく、異例ではあったが御召列車を新生駅まで入れて、車中に宿泊するということになった。
焦土からの復興[編集]
戦災によって国内の主要市街地の多くが焦土と化し、その復興が急務とされていた終戦直後、銚子市の最大の課題は市街地の復興であった。国は1945年(昭和20年)に将来の地域発展に即応した都市計画を樹立して土地区画整理事業を急施することが基礎であるとの戦災復興計画基本方針を示し、強力な特別立法措置を講ずることを発表した。戦災都市は千葉県では千葉市と銚子市の2市のみであり、銚子市はこの国の方針にそって都市計画事業を円滑に進めるために県に援助を要請した結果、県が主体となって計画立案・設計を執行し、市が街路・公園事業を行うことが決定した。県はこれを強力に推進するため銚子市に復興事務所を設置し、計画の立案・設計に当たっては、銚子市が漁業・農業、更にそれらに関連する諸工業を併せもつ首都外廓の産業・観光都市であることに重点をおき、文化的な近代都市を建設することが目標とされた。1946年(昭和21年)度には街路事業と水道事業の工事が開始され、1947年(昭和22年)度には土地区画整理法における建物移転工事とガス管移設工事が、更に1948年(昭和23年)度には公園事業の工事が開始された。しかし土地区画整理事業が権利者との利害に大きく関係するため権利者との交渉に予想以上の時間を要した。1959年(昭和24年)にはいわゆるドッジ・ラインに基づく経済復興自立策としての経済9原則が樹立され、当初計画は再検討の上整理・圧縮されて、事業の早期収束が計られることとなった。焼失した施設の再建も急ぎ進められ、1948年(昭和23年)に銚子駅舎が、1949年(昭和24年)に銚子市役所庁舎が再建された。いずれも干潟町にあった旧海軍香取航空基地の解体材を用いて作られた急造のものであったが、まだ焼け跡にバラックの目立った当時の市内では、市民に復興の進展を十分実感させるものであった。焼失した学校や諸官公庁もだいたい1950年(昭和25年)までには再建された。
このように復興機運が高まる中、従来には全くなかった新しい開発構想が打ち出された。強風時の船舶の避難碇泊地として知られていた銚子市南岸の名洗・犬若海岸に近代的な港湾を建設しようとする構想が、1950年(昭和25年)1月に開かれた市議会議員協議会において初めて提唱された。当時銚子市では伝統的な主要産業である沿海・近海漁業が不振を続け、その打開策として名洗港を遠洋漁業基地あるいは商港として整備し、銚子市の産業経済面における新しい発展の基盤にするという狙いがあった。その第一段階として比較的実現性の高い避難港の建設が目指され、協議会の全面的な賛成を得て準備委員会を開催すること数回の後、同年3月に銚子市長を会長とする大銚子避難港建設期成同盟会が結成され、翌月第1回陳情を国会と運輸省に具申した。このような地元の強い促進運動の結果、1951年(昭和26年)1月に政令により避難港の指定を受けた。この後も積極的な陳情活動が続けられ、1952年(昭和27年)度予算化の実現をみるに至り、1952年(昭和27年)6月27日に名洗町の海岸で起工式が挙行された。この工事は総事業費7億7000万円をもって犬若岩礁の突端から西方へ沖の海老島に至る外防波堤を築造して小型船舶の避難泊地を確保しようとするものであった。1953年(昭和28年)3月、名洗港は千葉県が港湾管理者となる地方港湾として5月に漁港区域指定の千葉県告示がなされた。
1953年(昭和28年)、国は国と地方の行政事務の再配分と合理化のため「町村合併促進法」を、1956年(昭和31年)に「新市町村建設促進法」を公布し、市町村合併を推進した。このような背景の中で、銚子市は1954年(昭和29年)4月1日に海上郡船木村・椎柴村を合併し、1955年(昭和30年)2月11日には香取郡豊里村を、1956年(昭和31年)4月10日には海上郡豊岡村を編入合併した。このうち豊岡村との合併については村内が分裂・対立して極めて難航し、その最終的な決着までには足掛け4年を要した。これらの市村合併により、市人口は市制施行時の約2倍へと一挙に増加した。
戦災復興都市計画事業はようやく最終段階に入り、変更された期限どおり1960年(昭和35年)に終了した。この戦災復興都市計画事業によって銚子市の景観は一変し、市街地は広い幹線道路とその間を結ぶ区画街路によって整然と区画され、古い港町の面影は全く払拭された。街路計画の骨格となったのは市街を縦貫する延長610m、幅員36mの銚子駅前通りとその左右に伸びる幅員27mと23mの街路である。戦災以前、市の中心部には7つの寺とその墓地があり、総面積は2700坪に及んでいたが、そのうち5つの寺は戦災によって焼失し、戦災復興を機に一括移転が行われた。このうち宝満寺は市の中心部に壮大な伽藍を構えていたが、戦災による焼失後、その広大な墓地と共に台町に移転した。これによって市街地を東西に貫く大幹線道路が実現し、寺の跡地は交差点の中央広場として整備された。商店街はアーケードや街路灯によって整備された近代的な姿に生まれ変わったが、中でも飯沼観音の目抜き通りとして戦前から賑わってきた銚子銀座通りは地元の商店連盟の活動によって商店街としての整備が他に先行し、1960年代まで銚子市の主要商店街として繁栄した。市民の憩いの場として、また防災のため11の都市公園が市街に配置された。計画修正によって戦災復興事業から除かれた第3工区(田中町方面)は戦災復興事業終了に引き続いて県が主体となる飯沼都市改造区画整理事業が実施された。公園の配置、建物の移転、アーケードの設置等が行われて1969年(昭和44年)に終了した。この事業によって東町通りと銚子東銀座通りが幹線道路として生まれ変わる等、空襲で焼失した銚子市の市街地はようやく一体化して整然としたものとなった。この後日本経済の高度成長時代を迎えて、銚子市においても商店街を中心とする市街地の近代化が著しく進展することとなったのは、その基盤がこの事業によって作られていたからであるといえる。
銚子市の復興を示した象徴的な出来事は、銚子大橋の開通である。利根川に橋が架かるということは明治・大正に生きていた銚子の人々にとって当時の技術や経済力から叶わぬ夢であった。利根川架橋が現実味を帯びたのは、1950年代後半に入ってからである。この頃から、技術革新によって日本の技術は様々な分野でめざましい発展を示し、1956年(昭和31年)3月には有料道路方式による道路整備事業の主要な担い手として日本道路公団が設立されるに至った。このような情勢の中、銚子市は波崎町に呼びかけ、更に千葉・茨城両県に働きかけて両者による銚子波崎間利根川架橋促進期成同盟を結成、道路公団に実現の陳情を行った。2年間の調査の末、1959年(昭和34年)6月に利根川架橋の架設実施は決定的となった。1960年(昭和35年)4月4日、待望の起工式が波崎町明神前の架橋地点で挙行された。施工は清水建設が担い、橋脚工事には当時の最新技術であった潜函工法が用いられる等、近代的な工法と工作機械が導入され、9億2000万円をもって1962年(昭和37年)に全長1450mと当時東洋一を誇る長大橋が完成した。公団は全国から橋名の募集を行い、選考委員会により正式名称は「銚子大橋」と決定された。開通式は1962年(昭和37年)12月10日に行われた。この日銚子市内は祝賀一色に塗り潰され、銚子大橋付近や市内一帯は文字通り空前絶後の人出で終日賑わった。銚子大橋開通により、従来利根川によって分断されていた千葉県東総地域と茨城県鹿行地域が結ばれたことで、両地域の経済・社会・文化等の交流と発展を促すと共に、利根川に一大景観を添える新たな観光名所となった。開通後の銚子大橋の車両通行量は本格的な自家用自動車の普及によって予測を遥かに上回るものとなり、1974年(昭和49年)に無料化された。また開通と同時に波崎町東明神前から運航していた自動車渡船は廃止となり、旅客用渡船のみが運航されるようになった。
近代的な産業都市へ[編集]
1960年代に入ると日本経済は池田勇人内閣の「国民所得倍増計画」による高度成長時代に入り、各地で拠点開発方式の経済産業発展政策が強力に推し進められた。銚子市もこうした状況を踏まえ、既存の産業の振興を図るだけでなく、新しい産業の導入や企業の誘致を念頭においた開発行政に本格的に取り組んだ。銚子市は1961年(昭和36年)に「市勢振興調査」を全国市長会に委託し、既存産業の一層の発展、大工業化・新産業創設の可能性、今後の地方都市のあり方等を重点に調査研究を進めていこの調査結果に基づき、1966年(昭和41年)に銚子市としては初の自主的・総合的な行政計画として「銚子市長期計画」を策定した。健康的な環境の下、充実した機能を持った理想的地方都市づくりを目指し、経済基盤の確立、生活基盤の充実、市民生活の向上を実現しようとするものであった。1966年(昭和41年)度以降、この長期計画に基づく5ヶ年の「実施計画」によって各種事業を推進した。
1925年(大正14年)開始の千葉県営事業の銚子築港工事は1946年(昭和21年)に一応終了し、銚子港は初めて漁港としての近代的な施設と機能を備えるに至った。しかし河口港である銚子漁港の宿命的な欠点として、河川流による河床の土砂の移動に伴う航路の不安定だけでなく、外洋からの波浪と河川流とがぶつかり合って生ずる波、すなわち波長の短い尖った高波による航行の危険性があった。「銚子の川口てんでんしのぎ」の俚諺を生んだ波である。そこで銚子漁港の管理者である千葉県当局は、第一期工事の当初計画と発想を同じくする外港実現によってこれらの問題を同時に解決するとともに、従来沿岸漁業や近海漁業の基地でしかなかった銚子漁港を遠洋漁業の基地ともなるように整備して、銚子市における水産業の発展を期すとした。その基本構想は、既設の一の島防波堤と夫婦ヶ鼻から沖合いに向かって新たに防波堤を構築してその内側の水域を外港とし、この外港から内港すなわち既設の第二漁船渠に通ずる新しい航路を設け、同時に内港も拡張整備する、というものであった。銚子漁港は1960年(昭和35年)に政令第255号をもって水産業の振興上特に重要な漁港を表す特定第3種漁港に指定され、銚子市漁業協同組合や市の要請の結果、1963年(昭和38年)3月に成立した第3次漁港整備計画において全国380港の一つとして取り上げられることとなった。総事業費は33億7700万円であった。起工式は1963年(昭和38年)8月3日に東魚市場において挙行され、翌年に事業の執行にあたる県の銚子漁港事務所が川口町に設置された。こうして銚子漁港の抜本的改修といわれた戦後の大修築事業が開始されたのである。第3次整備計画の進捗に伴って東魚市場・中央魚市場等の陸上諸施設も次々と整備された。続く第4次整備計画では成立直前1968年(昭和43年)末から1969年(昭和44年)始めにかけて利根川河口での漁船の遭難が相次いだため、緊急3か年計画として利根川を航行しない新航路の建設が優先実施された。新航路は1971年(昭和46年)9月に開通し、以後河口付近における漁船の遭難は後を絶った。
外川地区の漁業基地として大きな役割を果たしてきた外川漁港も、外洋に面しており漂砂堆積が著しかったため、漁業協同組合、地元住民等が改修促進運動を進めた結果、1969年(昭和44年)に県営移管と国の漁港整備計画への組み入れが実現した。この工事によって江戸時代から名勝として親しまれてきた千騎ヶ岩は堤防によって陸と結ばれ、波騒ぐ酉浜も埋立てられて外川海岸全体が漁港化された。
漁港の整備に加えて、漁船の機械化も著しく進み、船体や装備等様々な面で飛躍的に発達した。海面漁業におけるまき網漁業者、沖合底引き網漁業者、かつお・まぐろ漁業者等の転廃業から地元漁業勢力は後退し、代わって漁港整備に伴い地元船以外の漁船の水揚げが増加していったことから、銚子市漁業は廻船を主体とする漁業へと変化し、全体の水揚高は長期的に見ると増加していった。水産加工業は化学肥料の普及によってイワシ搾粕の需要が絶え、飼料用の冷凍イワシへと代わったことから付加価値生産性は低下したが、冷蔵庫の普及・発達、原料魚の移入増加に伴う原料供給の安定による年間操業化や、機械の導入による省力化が進み、生産額も増大して、銚子市の主力産業として市経済を牽引した。一方で銚子市の伝統的な地場産業であった澱粉製造業、焼き瓦製造業、蠣殻工業等は時代の推移の中でほとんど姿を消すこととなった。
農業については、甘薯栽培に代わるキャベツ生産の開始が特筆される。大正前期に醤油醸造業に次ぐ産業へと成長した澱粉製造業は、戦後の砂糖不足による需要の高まりから戦前に勝る繁栄を示した。しかし1951年(昭和26年)に砂糖の統制が廃止されたことにより甘薯栽培は大きく後退した。この頃畑作の中心は米と麦で、野菜は自家用栽培の一部を農家が市内で切り売りしていた程度であった。このような状況の中、所得の安定を目指し、価格変動が激しかった甘薯に代わる新作物の導入が検討され、より採算性の高いキャベツが採用された。1953年(昭和28年)から試作が始まり、試行錯誤を繰り返しながら、先進地への視察研修や市場動向調査等を重ね、1961年(昭和31年)に本格的な春系キャベツ栽培の第一歩を歩み出した。その後1962年(昭和32年)、「灯台印」のブランド化により他産地との差別化に成功し、銚子市は春系キャベツの一大産地となった。成功の背景には、県の指導の下、集団栽培・共同販売体制の整備に取り組んだことが挙げられる。
高度経済成長期には技術革新と大衆消費革命が進み、個々の商店また商店街の競争が激しくなり、個店の改造、商店街の整備美化、合同大売出しが行われた。自家用自動車の普及と銚子大橋建設等の状況から銚子市商業は周辺の購買力を吸収し、1968年(昭和43年)の「千葉県商圏調査」結果では、銚子市商圏は市内及び旭市・海上町・飯岡町・干潟町・野栄町・小見川町・茨城県波崎町・神栖町までを含めた人口約22万人の地域とされ、千葉県東部最大の商業都市として発展した。1970年代以降は各地域の商業力向上に伴って佐原市、茨城県側、更に旭・八日市場方面を含め商圏の競争が生じるようになった。
高度経済成長期はレジャーの大衆化が著しく進んだ時代でもあった。1956年(昭和31年)に社団法人銚子市観光協会が設立され、1959年(昭和34年)には犬吠埼を中心とする海岸一帯が国定公園に指定された。犬吠埼では1960年(昭和35年)の銚子市営国民宿舎開館を皮切りに、京成ホテルを始めとした高層ホテルの建設、土産物店の開設が相次ぎ、愛宕山一帯も展望施設やプール施設によって観光拠点として整備された。1970年(昭和45年)には犬吠埼灯台下の磯づたいを一周する遊歩道が完成した。またこの年から新たな観光行事として毎年8月に花火大会及び神輿巡幸を柱とする「銚子みなとまつり」が行われるようになった。観光道路については、1960年(昭和35年)に県道銚子公園線の犬吠埼・長崎間が完成して海岸一周が可能となり、1973年(昭和48年)には千葉県道路公社によって愛宕山から屏風ヶ浦の台地を通って三崎町に至る観光有料道路・愛宕山公園線が開通し、自家用自動車時代に対応する観光道路網が整えられた。また国鉄当局に対する運動の結果、ローカル線としては比較的早い時期に電化が実現し、蒸気機関車は1969年(昭和44年)に姿を消すこととなった。電化に伴って列車本数も増え、急行電車や特急電車が運転されるようになった。
バスやタクシーの進出、自家用自動車の普及が相次ぐ中、銚子電鉄の乗降客数は1951年(昭和26年)をピークとして減少傾向となっていたが、1956年(昭和31年)度以降は銚子駅構内とヤマサ醤油工場を結ぶ専用線が完成して貨物輸送量が激減、収支も赤字に転じて経営が悪化した。そして1960年(昭和35年)には競合関係にあったバス会社である千葉交通の系列下に入り、間もなく1963年(昭和38年)の重役会議で廃線の意向が出された。千葉交通が銚子電鉄を買収したのは、当初から銚子電鉄を廃止する意思があったためである。これに対して沿線住民は銚子電鉄廃線反対期成同盟を結成して存続運動を起こしたため、会社は関係当局への廃止手続きを採ることなく終わった。1968年(昭和43年)には愛宕山下の県営採石場の採掘廃止により、貨物輸送量は一段と落ち込んだ。市は市民の足を守るために1969年(昭和44年)度から銚子電鉄に対して独自の交付金を交付することとした。なおこの間市及び地元住民の要望によって西海鹿島駅を新設し、1970年(昭和45年)3月から開業した。1976年(昭和51年)からは「およげ!たいやきくん」のヒットを背景に観音駅でたい焼きの製造販売を始め、ユニークな副業が話題となった。
1965年(昭和40年)度に避難港工事が完了した名洗港は1966年(昭和41年)度から千葉県が国の港湾整備計画による工業港としての整備を開始し、3000t級船舶・小型船舶が接岸できる護岸・岸壁の整備、泊地・航路の浚渫、防波堤の延長が行われた。1969年(昭和44年)に名洗港は地方港湾として供用開始した。この工事と並行して、銚子市は単独で港湾施設用地の確保と企業誘致による市産業の高度化を目的とする名洗港湾区域の臨海工業用地造成に着手した。総事業費は11億8000万円で、第1工区は1967年(昭和42年)、第2工区は1970年(昭和45年)に竣工した。市は企業への第1工区への分譲を開始し、第2工区については名洗港整備計画との関連を見ながら港湾の発展に有効な土地利用を図るために当面は分譲することなく、市有地のまま保留した。この工業用地をめぐって1970年(昭和45年)には名洗港に東京電力が火力発電所建設を希望する計画を千葉県知事が千葉県総合開発審議会に諮問したと伝えられたが、当時は火力発電所から排出される亜硫酸ガスその他の有害物質による住民の呼吸器疾患、更に農漁業への影響等の公害が深刻な社会問題として認識されており、銚子市においては促進派と反対派で見解が分かれ、県知事の東電火力発電所進出計画は白紙に還すとの発表をもって終結となった。
銚子市の西部地域の開発も進んだ。1969年(昭和44年)、銚子市は市街地から離れた小浜町に工業団地を造成し、鉄工業を主とする企業が進出した。また1971年(昭和46年)から民間企業が豊里地区に人口1万人を超えるニュータウンの開発を開始し、従来田園地帯であった豊里台は大きく変貌した。桜井町地先の利根川河川敷の公園化も実施され、1976年(昭和51年)から野球場、自動遊び場等を備えた運動公園として整備された。この年には野尻町に銚子市立銚子西高等学校が開校している。
銚子市が設置した福祉施設として特異なものは、1959年(昭和34年)開設の精神薄弱児通園施設・銚子市立わかば学園である。銚子市程度の規模の中小都市には例のない施設であり、この施設の開設は国立・都道府県立を通じて全国13番目、千葉県では初であった。また、1967年(昭和42年)には特別養護老人ホームの設置も行っている。総合運動公園として整備が行われた前宿町公園には、近代的な設備を完備した体育館、野球場等が設けられていたが、1971年(昭和46年)にはその一角に銚子市青少年文化会館が開館した。同施設は「都市青年の家」「児童文化センター」「市民会館」の総合施設として計画され、劇場としての機能を持つ本格的な大ホールやプラネタリウムを有し、以後半世紀近くにわたり銚子市における文化の殿堂として、市民の芸術文化向上に大きな役割を果たした。
この頃から、銚子といえば高校野球といわれるほど銚子市における野球熱は高まっていった。 千葉県立銚子商業高等学校では銚子市立第一中学校から斉藤一之監督を招聘して以後、1965年(昭和40年)、1968年(昭和43年)、1969年(昭和44年)、1972年(昭和47年)、1973年(昭和48年)、1974年(昭和49年)、1977年(昭和52年)と千葉県代表として出場し千葉県下の高校野球に銚商時代を現出し、その豪快な打線は「黒潮打線」として知られた。この間、1965年(昭和40年)の第47回大会においては決勝戦まで進出して準優勝し、更に1974年(昭和49年)の第56回大会においては遂に全国優勝の偉業を成し遂げた。銚子市民が熱狂したのはいうまでもない。両度とも帰郷時に際しては千葉市からオープンカーでパレードを行ってきたが、沿道至るところで歓迎され、銚子市内入ってからは道路を埋めた大群衆で車が走行できないほどのありさまとなった。甲子園大会への期待は戦後ほとんど全く銚商が担ってきたが、1979年(昭和54年)には銚子市立銚子高等学校が、1981年(昭和56年)には銚子市立銚子西高等学校がそれぞれ千葉県予選で優勝し、銚商に代わって甲子園出場の栄冠を勝ちとった。銚子市民の野球に対する関心は極めて高く、銚子から甲子園大会出場となると多数の市民が甲子園まで出かけ、華やかな大漁旗をスタンド一杯に振って応援した。また試合中銚子にいる市民はテレビで観戦するので、漁は中止となり街の中は自動車も人通りも全くなくなった。銚商校歌の歌節「幾千年の昔より海と陸との戦いの激しきさまを続けつつ犬吠岬は見よ立てり」は現在でも広く知られている。
外洋マリンリゾートの整備[編集]
1970年代に入ってから、銚子市は老朽化・狭隘化が進み新しい事務処理のシステムに対応できなくなっていた市庁舎の建て替えを進めた。1972年(昭和47年)の銚子市庁舎建設審議会の答申を受け、市街地ほぼ中央の銚子醤油株式会社工場跡地を買収して1973年(昭和48年)に着工、1975年(昭和50年)に鉄筋コンクリート造、地上8階地下1階の近代的な新庁舎が完成した。旧庁舎跡地及びこれに隣接する宝醤油工場跡地は商業地域として再開発が行われ、銚子市の中心繁華街が銚子駅前へと遷移する契機となった。また、市は1977年(昭和52年)に総合病院建設準備室を設置し、施設の老朽化が進み、病院の体制も機能が低下してその再建の必要性が高まっていた銚子市立病院を「医療法」における総合病院として大々的に拡充することを決定した。新館は1984年(昭和59年)に竣工し、以後、管理棟・一般病棟・精神神経科病棟が建設され、地域医療の中核病院として整備された。この他、銚子市制施行50周年記念事業として1983年(昭和58年)に銚子市公正図書館が新築開館し、1986年(昭和61年)には旧国鉄新生駅跡地に、防災広場を兼ねた多目的都市公園である中央みどり公園が開園した。
銚子漁港は1973年(昭和48年)成立の第5次漁港整備計画において、夫婦ヶ鼻から黒生漁港に至る間の外港化計画が採択された。これは既定の外港計画では規模が小さく、大型船漁業及び沖合・沿岸漁業の基地として十分な機能を備えるためであった。漁港整備にあわせた沿岸漁業等の水揚げ拠点基地として、1974年(昭和49年)度からは流通加工センター形成が国庫補助事業として順次実施され、市場施設の機能分化、水揚作業の省力化、超低温冷蔵庫の整備、海水浄化施設・市場排水処理施設の設置等が行われた。また搬送設備、冷凍冷蔵施設、公害防止施設、共同集配所等が整備されると共に、食用利用度の低いまいわし・小型さんま等をすり身加工し、練り製品材料に高度利用した高付加価値製品開発によって、銚子市水産業の活性化が目指された。銚子漁港水揚高トップのいわし水揚量の増大に対応して第3卸売市場が増設され、1987年(昭和62年)に開設した。これらの工事によって銚子の東海岸の約3分の1が漁港化され、銚子漁港はもはや利根川の河口港ではなくなり、かつては人工を寄せつけないと思われてきた川口の荒磯と、銚子の名勝とされてきた夫婦ヶ鼻付近の海岸は、太平洋に臨む広大な外港とこれに続く内港とによって、まさに近代的漁港として歴史的な変貌を遂げたのである。
一方、その整備が課題となっていた名洗港について、銚子市は1973年(昭和48年)から重要港湾指定によるフェリー就航促進を行ったが、オイルショックの発生による高度経済成長の終焉と政府の総需要抑制政策への転換、利害関係者である漁業者との関係調整の難航、他港の整備進展等により、実現は容易に進展しなかった。その後も市は名洗港と臨海地域土地の有効活用によって銚子市の産業・経済発展を図るための調査検討を重ね、1979年(昭和54年)度に実施された第二次市勢振興調査では、銚子市の地域特性、潜在的可能性の活用が市勢振興の基本路線であるとの提言がなされ、特に名洗港については地域振興策の手段としての新たな位置づけが必要であるとされた。
銚子を舞台にしたNHK連続テレビ小説「澪つくし」が大ヒット作品となった1985年(昭和60年)、銚子市はこれを観光振興の機会と捉え、この年を銚子観光元年と銘打ち、観光宣伝はもとより観光レクリエーション施設の整備を一層推進し、21世紀に向けた新たな都市づくりの主要なステップとする方針を定め、「銚子市観光振興基本計画-海・川・食との出会い-」を策定した。このような状況の中、1987年(昭和62年)に報告された「名洗港振興調査」は、海洋レクリエーション港湾としての実現の可能性は非常に高いとして、名洗港に規模・質において我が国第一級のマリーナを中心とするマリンリゾート拠点を整備すべきであると提言した。その整備構想は、名洗港にクルーザー1000隻の収容能力を持つマリーナを新設し、既存埋立地にリゾート施設を、既存堤防基部に5000t級船舶が接岸可能な岸壁を新設するというものであった。この構想の実現のため、市は「名洗マリンタウンプロジェクト調査」を委託して、その具体化を進めた。
日本列島リゾートブームの中で、1989年(平成元年)には国の「総合保養地域整備法」に基づく重点整備地区として「銚子マリン・リゾート」が指定された。その概要は、名洗港を海洋性スポーツ・レクリエーションの核とし、銚子漁港はじめ水産基地としてのポテンシャルを生かした水産物販売等の複合施設を備えた外洋性大型マリンリゾートを形成する、というものであった。1990年(平成2年)に「名洗港港湾計画」がまとめられ、翌年には県・市・漁協の「漁業補償契約書」調印、名洗港の「海洋性レクリエーション拠点港湾」指定に至った。こうして名洗港マリーナ整備の前提条件が整い、マリーナの管理運営に当たる第三セクターの設立、マリーナ後背地開発の事業主体となる民間企業の選定、マリンリゾートにふさわしい港湾環境の整備が開始された。
この間、観光拠点の整備も着々と進展した。1988年(昭和63年)、下総一の高地である愛宕山頂に「地球の丸く見える丘展望館」が開館。1991年(平成3年)には21世紀を迎える水産都市銚子のシンボル及び観光拠点として、銚子ポートタワー、水産物即売センター「ウォッセ21」、水産関係公共施設からなる複合施設「水産ポートセンター」がオープンした。1992年(平成4年)には「君ヶ浜しおさい公園」が開園した。市内目抜き通りは銚子駅前通りシンボルロード、銚子銀座通りココロード、本通りマイロードとして無電柱化、街路灯の新設、歩車道の新装整備、植栽等が進められ、銚子にふさわしい魅力ある都市空間の創出が目指された。また銚子海上線の拡幅、銚子公園線長崎周遊道路の建設等も進み、リゾート都市としての交通体系が整備されていった。1995年(平成7年)には銚子新大橋有料道路が起工され、2000年(平成12年)に「利根かもめ大橋」として開通した。また、銚子電鉄は1990年(平成2年)に経営権が千葉交通より内野屋工務店に移り、子会社の銚電恒産が筆頭株主となってから、観光資源でもある電車の環境整備として、観音駅・君ヶ浜駅・犬吠駅の各駅と銚子駅構内銚子電鉄発着場をヨーロッパ風に新築し、電車の塗装変更、沿線のあじさい植栽による車窓風景の美化等を実施して観光路線化を進めた。また、夏期限定で遊覧用オープン客車の「澪つくし号」が運行された。1995年(平成7年)度からは銚子名産として知られていたぬれ煎餅を地元企業の指導協力を得て犬吠駅売店で売り出したのを最初に、事業部・製造所を新設して販路拡大にも努め、その売上が鉄道業の欠損を大幅にカバーするまでに至った。
マリーナの名称は「銚子マリーナ」と定められ、当初計画の見直しを経て港湾改修、埋立土地造成事業、係留桟橋、船揚場ボートヤード、クラブハウス、修理庫、上下架施設、駐車場等のマリーナ施設の整備が進められて1999年(平成11年)に供用開始となり、同年7月18日に銚子マリーナ完成記念式典が挙行された。マリーナ泊地の北側には多目的広場、親水護岸、休憩所等を備えた名洗港海浜公園が整備され、屏風ヶ浦の景勝を活かしてマリーナと一体となった海洋性レクリエーション拠点づくりのための海岸環境整備として、人工ビーチも造成された。銚子マリーナにはオープン以来多くの海水浴客等が集まり、更にサーフィンやイルカウォッチング、シーカヤックも行われるマリンスポーツ基地となると共に、海上からのアクセス拠点としての役割を果たしている。
マリーナ完成によってリゾート都市づくりはようやく一つの段階に達し、銚子市は21世紀の到来にあわせて1999年(平成11年)、2000年(平成12年)、2001年(平成13年)と3年間にわたって「世紀越え事業」を展開した。この事業は、行政と市民が一体となった「協働のまちづくり」の一環として、日本列島沿岸で初日の出が最も早く見られる地の利を活かし、広く情報発信して銚子をアピールすること、民間企業・団体等が展開する各種イベントとの連携による市内外の幅広い交流を促進すること、銚子の自然環境・産業・文化・歴史的遺産等の財産を再認識して21世紀につなげること等を目的とするものであった。初日の出にあわせた多様なイベント開催や記念商品の開発が市内の各種団体、企業、市民の協力によって行われ、テレビや雑誌等にも大きく取り上げられた。この事業は、まちおこし・まちづくりの先駆的事業として千葉県から市町村表彰を受けた。
21世紀の銚子市[編集]
マリーナ後背地について、銚子市は庁内の名洗港マリーナ後背地開発委員会により開発基本構想のプランづくりを進め、多方面にわたり関連企業の事業展開を模索したが、バブル経済崩壊後の国内における景気の減速と民間設備投資の停滞から、土地売却等の具体的な動きと結びつかない状況が続いていた。その後、市が誘致する千葉科学大学の用地として無償貸与されることとなり、2004年(平成16年)3月に管理教育棟(本部キャンパス)が完成し、同年4月6日に開学した。2005年(平成17年)3月には学部棟・図書館棟・講義棟・厚生棟・体育館・グラウンドからなるマリーナキャンパスが完成した。開学後、銚子市は「文教のまちづくり支援事業」を実施して学生への支援を行った。
21世紀が幕を開け、少子・高齢化、グローバル化、情報化等の社会構造の抜本的かつ急激な変化と、地方分権の進展による地方自治体の自立性の高まりといった社会情勢の推移の中で、銚子市は2000年(平成12年)、その特性と資源を生かして、全ての市民が生きがいと幸せを実感できるような個性豊かで魅力ある都市づくりを目指し、市民生活の総合的環境を整えることを目標とする新たな総合計画の基本方針を「銚子ルネッサンス2025」と称し、将来像を「ひとがときめき 海がきらめき 未来輝く都市(まち)」と定めた。新しい時代に即応した持続可能な都市構造及び行政運営への転換が求められる中、銚子市は財政基盤の確立を主とする行財政改革を推進した。
2001年(平成13年)、銚子市における生涯学習・地域コミュニティ活動拠点として、銚子市市民センターが開設した。同施設は1908年(明治41年)に我が国最初の無線電報局として開局し、市民から「小畑無線」と呼ばれてきた旧銚子無線電報サービスセンター施設をリニューアル整備したもので、従来の公正市民館の機能はここに全面移転された。2006年(平成18年)には銚子市保健福祉センターすこやかな学びの城が開設し、各種健康診査・検診・保健指導等の保健福祉事業を推進していく総合的・一体的な施設が整備された。2004年(平成16年)開始の銚子大橋架替え工事は2010年(平成22年)に完了し、新大橋を眺望するウォーターフロント空間散策の拠点として、河岸公園が旧渡船場跡地に整備された。学校の統合・再編は2000年代以降継続して実施され、学校跡地は地域の交流拠点としてリノベーションが行われた。また市制施行以来、銚子市は公共サービスを市単独で供給してきたため広域行政面での取り組みには実績が少なかったが、地方分権とあわせて広域連合等の活用による広域行政の積極的な推進が求められるようになったことを背景として、東総地区広域市町村圏事務組合での連携のもと銚子連絡道路の整備促進、職員共同研修の実施等に取り組み、2021年(令和3年)にごみ処理広域化が実現した。
銚子漁港は2002年(平成14年)度から、漁港漁場整備法により大消費地首都圏を控えた全国有数の沖合・沿岸漁業の水揚拠点港として水産物を安定供給する総合漁業基地の確立を目指し、広域漁港整備事業計画が進められた。2015年(平成27年)に市場食堂、女性部活動拠点等を併設した高度衛生管理型の第一卸売市場が、2018年(平成30年)には第三卸売市場に隣接して新たな製氷工場が整備された。今後は漁港漁場整備法に基づく特定漁港漁場整備事業計画として、漁船の大型化や黒生・川口外港の両港口からの出入港を可能とする二港口化を図ると共に、高度衛生管理に対応した荷捌所としての第三卸売市場、大規模製氷場、陸揚岸壁の整備を行い漁獲物の品質や付加価値の向上と輸出拡大を図るとしている。
水産関連業者における工場設備では、独立行政法人日本貿易振興機構(JETRO)、独立行政法人中小企業基盤整備機構等の欧米の市場を視野に入れた積極的な海外輸出戦略に対応するためHACCP認証加工設備を建設し、販路拡大を目指している。醤油醸造業においては、蓄積された研究開発技術をバイオテクノロジーや医薬品の製造開発に応用し、醤油以外の食品や医薬・化成品・診断薬の開発・販売が進められている。ヤマサ醤油はアメリカ合衆国オレゴン州に工場を新設して国際展開を進めており、銚子市内には2016年(平成28年)に工場見学者用の新施設「しょうゆ味わい体験館」をオープンしている。1992年(平成4年)に大規模小売店の出店規制が緩和されて我が国の小売店をめぐる情勢は大きく変化し、銚子市においては小規模小売店を中心に市街地の低密化が見られた一方、郊外型店舗等の機能集積が進んだ。2010年(平成22年)には、三崎町に東総地域最大規模のショッピングセンターであるイオンモール銚子がオープンし、銚子市における新たな商業拠点となった。このような状況の中、地域通貨として電子マネー「すきくるスター」が導入され、地域づくりプラットフォーム「銚子円卓会議」が中心となって「犬吠WAON」カード登録店の売上げ向上によるイオンと連携した商業振興が推進されている。
銚子電鉄は2006年(平成18年)に運転資金の不足を生じたことで、鉄道車両の法定検査が行えないという事態に陥った。このため同社は公式ウェブサイト上でぬれ煎餅の購入等による支援を呼び掛けた。この件は電子掲示板や個人のブログを通じて大きな話題となり、マスメディアによる報道も手伝って、支援をしようという人々からぬれ煎餅の注文が殺到し、資金調達が可能となった。情報ネットワーク時代の進展を背景として、全く新しい形で企業再生が成し遂げられたのである。2007年(平成19年)には安全運行問題の解決を支援するため有志が「銚子電鉄サポーターズ」を設置し、改善命令に基づいた枕木交換や、踏切設備の改善に限定したサポート基金の募集を行った。
1997年(平成9年)と2000年(平成13年)、犬吠埼に2つの民間ホテルが続いて温泉掘削に成功して、銚子海岸観光のベストロケーションに天然温泉という関係者の長年の夢が実現した。周辺のホテル・旅館もこの源泉から分湯を受け共同利用することとなり、犬吠埼温泉郷が形成された。2001年(平成13年)には社団法人燈光会が犬吠埼灯台初代レンズ、設計者リチャード・ヘンリー・ブラントンの資料、灯台の歴史等が展示された犬吠埼灯台資料展示館をオープンした。2012年(平成24年)に銚子市の地理的な成り立ちや地質の価値の貴重さが認められて千葉県唯一となる日本ジオパークに指定され、更に2016年(平成28年)には千葉県佐倉市・成田市・香取市と共に日本遺産「北総四都市江戸紀行・江戸を感じる北総の町並み」に登録され、東日本大震災により打撃を受けた銚子観光のイメージアップと集客力強化に大きな役割を果たすこととなった。2017年(平成29年)、銚子市及び銚子市観光協会が中心となってDMO準備室が設立された。国が推奨する日本版DMO(Destination Management /Marketing Organization)を参考に、銚子の特性、地域性を生かした地域の稼ぐ力を引き出す観光地域づくりの舵取り役となる組織「銚子版DMO」が構築され、「ヘルス&スポーツツーリズム」による目的型観光の推進が新たに提唱された。2018年(平成30年)には JR銚子駅の建て替え工事が完了し、地域の特色を取り入れた新たな街の玄関口として魅力ある姿に生まれ変わった。2019年(平成31年)には犬吠埼にカフェやベーカリー、野菜マルシェ、地元名産品を扱うマーケット、クラフトビール醸造所、体験ワークショップスペース等が入った地域情報発信施設「犬吠テラステラス」がオープンした。
2001年(平成13年)以降、銚子市内では風力発電施設の建設が相次ぎ、現在では34基の風力発電施設が稼働している。その多くは1000kW以上の大型風車で、総出力は53560kWとなっており、銚子市の新たな景観を形成している。2011年(平成23年)に発生した東日本大震災と福島第一原子力発電所事故後、日本国内のエネルギーをめぐる状況は大きく変化し、特に電力に関しては太陽光発電・風力発電・バイオマス利用等、再生可能エネルギーへの関心が高まった。2013年(平成25年)、NEDO(国立研究開発法人新エネルギー・産業技術総合開発機構)と東京電力株式会社の共同事業により、銚子市南沖約3km、水深約11mの海域に着床式風力発電設備1基(出力=2400kW・高さ=126m)が設置された。これは日本初の洋上風力発電施設であり、洋上における風況や塩害に対する風車の耐久性の確認の他、地震や台風といった日本の厳しい自然環境に対する安全性、環境への影響等の実証研究が行われた。この実証研究において、銚子沖は風況が良好であることや遠浅の地形が続くこと等、着床式洋上風力発電に対するポテンシャルが非常に高いことが判明した。2015年(平成27年)には国際連合で2030年までに達成すべき具体的な目標として「持続可能な開発目標(Sustainable Development Goals:SDGs)」が採択され、各国で地球温暖化の原因である温室効果ガス排出削減の取組が進められた。我が国においても2050年度までに主力電源化する方針が示され、とりわけ陸上に比べて安定した風力を得られることから欧州では盛んに進められている洋上風力発電の開発・普及が推進されることとなり、2019年(平成31年)に「再エネ海域利用法」が施行された。
2020年(令和2年)、銚子市南沖合の海域3948.7haが同法に基づく洋上風力発電事業促進区域に指定され、2021年(令和3年)12月には銚子市沖の促進区域における洋上風力発電事業者として、三菱商事エナジーソリューションズ、三菱商事、シーテックを構成員とするコンソーシアム「千葉銚子オフショアウィンド」が経済産業省及び国土交通省により選定された。環境や漁業への影響調査を経て、2025年(令和7年)に送電線等の地上工事に着工、2027年(令和9年)から洋上風力発電施設31基を建設し、2028年(令和10年)9月から20年間以上操業する見込みである。促進区域に最も近い名洗港は、千葉県が運転管理・保守点検の拠点港湾への機能転換に加えて、風車景観とジオパークを融合したエコツーリズム拠点の形成、海洋性レクリエーション活性化に資する銚子マリーナの拠点化等を図った改修工事を開始している。銚子市は洋上風力発電の導入を2019年(平成31年)策定の「銚子市総合計画」における重点プロジェクトと位置づけ、銚子市漁業協同組合、銚子商工会議所と共同で運転管理やメンテナンス等を担う「銚子協同事業オフショアウインドサービス」を設立し、また、今後発電事業者、千葉科学大学と連携してトレーニングセンターを設置し、カリキュラムを通じた人材育成にも取り組み、漁業や環境と調和した「銚子モデル」確立を目指している。銚子市は2021年(令和3年)2月に、2050年までに温室効果ガスの排出量を実質ゼロにすることを目指す「ゼロカーボンシティ銚子」を表明し、銚子電力、Looopとの官民協働による再生可能エネルギーの導入促進・地産地消などを図るとした。三者連携の取り組みとして、銚子市立銚子西中学校に対し「銚子ウィンドファーム」で発電された再生可能エネルギー由来の電力と非化石証書を組み合わせたCO2排出係数ゼロの電力の供給を行っており、今後は「ゼロカーボンビジョン」を策定し、再生可能エネルギー100%の電力を全公共施設への供給に拡大する他、災害に強い地域循環型スマートコミュニティの構築を進め、再生可能エネルギーを活用した持続可能なまちづくり・しごとづくりを進めるとしている。
沿革[編集]
海上郡銚子町 | C | 銚子市 | ||||||||||||
海上郡本銚子町 | ||||||||||||||
海上郡伊豆原村 | B | 海上郡西銚子町 | ||||||||||||
海上郡豊浦村 | ||||||||||||||
海上郡高神村 | D | |||||||||||||
海上郡海上村 | ||||||||||||||
海上郡船木村 | E | |||||||||||||
海上郡椎芝村 | A | 海上郡椎柴村 | ||||||||||||
香取郡豊里村 | F | |||||||||||||
海上郡豊岡村 | G | |||||||||||||
市制施行前[編集]
- 1874年(明治7年)11月 - 犬吠埼灯台建設。
- 1886年(明治19年)9月 - 銚子測候所開設。
- 1889年(明治22年)4月1日 - 新生村、荒野村、今宮村が合併して町制施行。海上郡銚子町が誕生。
- 1897年(明治30年)6月1日 - 総武鉄道銚子駅開業。
- 1908年(明治41年)5月 - 銚子無線電信局開設。
- 1923年(大正12年)7月5日 - 銚子鉄道開業。
- 1925年(大正14年)4月 - 財団法人公正会設立。
- 1932年(昭和7年)9月8日 - 第1回大銚子市建設代表委員会開催。
銚子市の歩み[編集]
- 1933年(昭和8年)
- 1937年(昭和12年)2月11日 - 海上郡高神村、海上村を編入。
- 1938年(昭和13年)11月1日 - 市上水道給水開始。
- 1945年(昭和20年)
- 1946年(昭和21年)
- 1947年(昭和22年)
- 1948年(昭和23年)4月1日 - 銚子市立銚子高等学校、 銚子市立銚子女子高等学校開校。
- 1950年(昭和25年)6月17日 - 市営野球場開場。
- 1952年(昭和27年)6月27日 - 名洗避難港工事開始。
- 1953年(昭和28年)3月25日 - 名洗港が地方港湾に指定。
- 1954年(昭和29年)
- 1955年(昭和30年)
- 1956年(昭和31年)4月10日 - 海上郡豊岡村を編入。
- 1957年(昭和32年)3月31日 - 一部の地域を海上郡飯岡町(現旭市)に編入。
- 1958年(昭和33年)7月27日 - 酉明浦に長崎海水浴場開く。
- 1959年(昭和34年)4月1日 - 銚子市立わかば学園開設。
- 1960年(昭和35年)
- 1962年(昭和37年)
- 1963年(昭和38年)8月3日 - 銚子漁港修築工事起工。
- 1964年(昭和39年)6月1日 - 犬吠埼に京成ホテル開館。
- 1965年(昭和40年)
- 8月13日 - 銚子市体育館開館。
- 1966年(昭和41年)
- 1967年(昭和42年)
- 1969年(昭和44年)
- 1970年(昭和45年)
- 1971年(昭和46年)
- 1973年(昭和48年)
- 1974年(昭和49年)
- 1975年(昭和50年)
- 1980年(昭和55年)
- 1981年(昭和56年)11月12日 - 第一回東総サミット開催。
- 1982年(昭和57年)
- 1983年(昭和58年)
- 1984年(昭和59年)
- 1985年(昭和60年)
- 1986年(昭和61年)
- 1987年(昭和62年)
- 1988年(昭和63年)
- 1989年(平成元年)
- 1990年(平成2年)
- 1991年(平成3年)
- 1992年(平成4年)
- 1993年(平成5年)
- 1994年(平成6年)
- 1995年(平成7年)
- 1998年(平成8年)4月22日 - 芦崎高齢者いこいセンター開設。
- 1997年(平成9年)
- 1998年(平成10年)10月19日 - 銚子郵便局新局舎完成。
- 1999年 (平成11年)
- 2000年(平成12年)
- 2001年(平成13年)
- 2002年(平成14年)
- 2003年(平成15年)3月25日 - 銚子市ワークセンター完成。
- 2004年(平成16年)
- 2005年(平成17年)4月1日 - 千葉科学大学マリーナキャンパス供用開始。
- 2006年(平成18年)
- 2007年(平成19年)
- 2010年(平成22年)
- 2011年(平成23年)
- 3月11日 - 東北地方太平洋沖地震発生。銚子市では、震度5強の揺れと最大波2.5メートルの津波を観測。
- 5月6日 - 河岸公園全面供用開始。
- 2012年(平成24年)
- 2013年(平成25年)
- 2015年(平成27年)
- 2016年 (平成28年)4月19日 - 銚子市を含む4都市が「北総四都市江戸紀行・江戸を感じる北総の町並み」として日本遺産に認定される。
- 2017年(平成29年)1月24日 - 新消防庁舎完成。
- 2018年 (平成30年)
- 2019年(平成31年)
- 2020年 (令和2年)
- 2021年(令和3年)4月1日 - 銚子市立銚子西中学校開校。
行政区域変遷[編集]
- 変遷の年表
銚子市市域の変遷(年表) | ||
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年 | 月日 | 現銚子市町域に関連する行政区域変遷 |
1889年(明治22年) | 4月1日 | 町村制施行に伴い、以下の町村がそれぞれ発足。[23] |
1891年(明治24年) | 1月26日 | 椎芝村は改称し椎柴村になる。 |
8月14日 | 伊豆原村は町制施行・改称し西銚子町になる。 | |
1933年(昭和8年) | 2月11日 | 銚子町・本銚子町・西銚子町・豊浦村が合併し銚子市が発足。 |
1937年(昭和12年) | 2月11日 | 高神村・海上村は銚子市に編入。 |
1954年(昭和29年) | 3月31日 | 豊岡村の一部(塙と八木の一部)が飯岡町と三川村と合併し、飯岡町が発足。 |
4月1日 | 船木村・椎柴村は銚子市に編入。 | |
1955年(昭和30年) | 2月11日 | 香取郡豊里村は銚子市に編入。 |
1956年(昭和31年) | 4月10日[矛盾 ][矛盾 ] | 豊岡村は銚子市に編入。 |
1958年(昭和33年) | 飯岡町の一部(三川の一部)は銚子市に編入。 |
- 変遷表
銚子市市域の変遷表(※細かな境界の変遷は省略) | |||||||
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1868年 以前 |
明治22年 4月1日 |
明治22年 - 昭和64年 | 平成元年 - 現在 | 現在 | |||
海上郡 | 新生村 | 銚子町 | 銚子町 | 昭和8年2月11日 銚子市 |
銚子市 | 銚子市 | |
荒野村 | |||||||
今宮村 | |||||||
飯沼村 | 本銚子町 | 本銚子町 | |||||
松本村 | 伊豆原村 | 明治24年8月14日 西銚子町に 町制改称 | |||||
本城村 | |||||||
長塚村 | |||||||
小川戸村 | 豊浦村 | 豊浦村 | |||||
辺田村 | |||||||
三崎村 | |||||||
高神村 | 高神村 | 高神村 | 昭和12年2月11日 銚子市に編入 | ||||
松岸村 | 海上村 | 海上村 | |||||
垣根村 | |||||||
四日市場村 | |||||||
余山村 | |||||||
柴崎村 | |||||||
高野村 | |||||||
三宅村 | |||||||
赤塚村 | |||||||
高田村 | 船木村 | 船木村 | 昭和29年4月1日 銚子市に編入 | ||||
芦崎村 | |||||||
岡野台村 | |||||||
船木台村 | |||||||
三門村 | |||||||
中島村 | |||||||
正明寺村 | |||||||
野尻村 | 椎芝村 | 明治24年1月26日 椎柴村に改称 | |||||
小船木村 | |||||||
塚本村 | |||||||
忍村 | |||||||
猿田村 | |||||||
小浜村 | 豊岡村 の一部 |
豊岡村の一部 | 昭和31年7月1日 銚子市に編入 | ||||
親田村 | |||||||
常世田村 | |||||||
八木村の一部 | |||||||
香取郡 | 下桜井村 | 豊里村 | 豊里村 | 昭和30年2月11日 銚子市に編入 | |||
富川村 | |||||||
下森戸村 | |||||||
諸持村 | |||||||
宮原村 | |||||||
東笹本村 |
行政[編集]
市長[編集]
歴代市長[編集]
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政策[編集]
ゼロカーボンシティ推進[編集]
銚子市は2021年(令和3年)2月16日に「ゼロカーボンシティ銚子」を宣言し、銚子電力・銚子市・Looopの協働による官民連携で再生可能エネルギーの地産地消を推進し、2050年までに温室効果ガス排出実質ゼロを目指すことを表明した[27]。
現在までの取り組みとして、2021年(令和3年)に開校した銚子市立銚子西中学校への「銚子ウィンドファーム」を主とする実質再生可能エネルギー100%電力の供給が行われている。 今後の計画としては、災害時に備えた地域循環型スマートコミュニティの形成として、洋上風力発電等のポテンシャルを活用した地域単独のマイクログリッド構築の推進や2035年までの市内全公共施設の二酸化炭素排出係数ゼロ化等が挙げられている[28]。
銚子市沖は、再生エネ海域利用法に基づき国が大規模な洋上風力発電開発を認めた促進区域であり、2021年(令和3年)12月には三菱商事を中心とする「千葉銚子オフィシャルウィンド」が事業者に決定し、2028年9月に39kWに及ぶ設備が稼働を開始する見込みとなっている。 促進地域に最も近い名洗港は千葉県がメンテナンス拠点港湾としての活用を目指して、係留施設建設や埠頭用地造成等、機能強化に向けた整備を開始しており、風車景観とジオパークを融合したエコツーリズム拠点として、眺望緑地も新たに造成される見込みである[29]。 銚子市は銚子商工会議所や銚子市漁業協同組合と共同出資でメンテナンス会社である「銚子協同事業オフショアウインドサービス」を設立し、地元企業のサプライチェーンへの参入促進を行うとともに日本初の漁業共生型となる「銚子モデル」の実現に取り組むとしている[30]。
サテライトオフィス誘致[編集]
銚子市は2016年(平成28年)度から全国10自治体を対象とした総務省「お試しサテライトオフィスモデル事業」に取り組み、企業・起業家の誘致による地域経済の活性化を図るため、主に都市部のベンチャー企業・IT企業を対象に豊富な地域資源、地場産業と都心からのアクセス利便性を活用したサテライトオフィス環境の整備を行った。市街地だけでなく市内景勝地の施設を活用した無料コワーキングスペースを提供し、開発合宿体験事業や観光体験事業等も併せて実施した。同年には銚子市企業立地等促進事業補助金を創設している[31]。
独自性の高い地域資源とそれを運営管理する地元団体を巻き込んでお試し勤務の誘引を行ったこと、企業誘致活動及び当該活動で培った行政と都市部企業の個別ネットワーク等を最大限に活用したこと、SNSを駆使してお試し勤務の状況をリアルタイムに配信する他、地元事業者とUJIターン者のマッチングを促す特設サイトを構築する等、デジタル的なアプローチを充実させたことから順調にお試し勤務企業数を伸ばし、2社のサテライトオフィス進出企業を確保している[32]。
市役所[編集]
- 銚子市庁舎 銚子市若宮町1-1
老朽化・狭隘化が著しかった旧庁舎に代わり、1973年(昭和48年)から新庁舎建設が進められ1975年(昭和50年)に開庁した。設計整理は山下設計、施工は清水建設及び熊谷組共同企業体が担当した。地上8階地下1階建で、庁舎棟、議会棟、付属棟から構成され、庁舎棟下層階への市民窓口の集中と模写電送装置・コンピュータの導入により、事務処理の合理化とスピード化が図られた。また庁舎棟1階には各種相談の窓口として市民相談センターが設置され、議会棟1階には市民との対話の場として約200人を収容する市民ホール及び展示ホールが設けられた。職員厚生設備としては売店、茶室、理髪店、厚生室等がある。市議会議場を始め議会関係の室は議会棟の2・3階に配置されている[33]。
- 銚子市豊里出張所 銚子市笹本町359-1
- 銚子市豊岡出張所 銚子市八木町1777-1
行政組織[編集]
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財政[編集]
銚子市は経常的経費の節減合理化を行財政改革の重点項目として推進していたが、2013年(平成25年)からは行財政改革審議会を新たに設けて歳出削減策を加速させ、公債費償還の増大その他によって硬直化を生じていた市財政の構造転換を進めた。一方で投資的経費に充てるための歳入確保が困難であったことから、普通建設事業費の抑制傾向が続いた。
銚子市の財政状況(令和2年度)
- 会計別予算額
- 一般会計 27628000千円
- 公営企業会計(3会計) 6931000千円
- 特別会計(3会計) 14466000千円
- 一般会計当初予算
銚子市の財政力指数は0.61で、香取海匝地域(銚子市・旭市・匝瑳市・香取市・香取郡神崎町・多古町・東庄町)の中で最も高い[34]。
名誉市民[編集]
- 濱口梧洞(ヤマサ醤油株式会社社長・会長)
- 今井健彦(衆議院議員8期、農林参与官、商工政務次官などを歴任)
- 嶋田隆(銚子市長連続7期在任)
- 赤桐操(参議院議員連続4期、同院地方行政委員会委員、懲罰委員会委員長、参議院副議長などを歴任)
- 安藤勇(千葉県議会議員連続7期、千葉県議会議長などを歴任)
- 西川照幸(銚子市社会福祉協議会会長)
銚子市民憲章[編集]
1970年(昭和45年)3月市議会定例会において、市民から募集した草案98点からの入賞作品を基に作成した「銚子市民憲章」が市長から提案された。この議案は満場一致をもって可決され、同年4月1日からの施行となった。提案理由は、銚子市民であることの誇りと自覚を持ち、銚子市将来の目標をかかげ、これを実践し、健康で明るい文化都市をきづくため、というものであった。
- 銚子市民憲章
- 洋々とした大海原、雄大な流れの利根川。漁業の町として、祖先のたゆまぬ努力によって栄えてきたわが銚子市は、あらたに近代都市として、力強くはばたこうとしています。わたくしたちは、この美しい郷土を守り育て、市民として誇りをもって生活できるようにするために、わたくしたちの願いをこめて、この憲章を定めます。
- 1 仕事をたいせつにし、明るく元気に働きます。
- 1 老人やこどもをいたわり、人に親切にします。
- 1 自然を愛し、町をきれいにします。
- 1 教養を高め、心を豊かにします。
- 1 力を合わせ、交通安全につとめます。
都市宣言[編集]
- 交通安全都市宣言
- 精神衛生都市宣言
- 公害追放都市宣言
- 青色申告都市宣言
- 非核・平和都市宣言
- 産業廃棄物最終処分場設置反対・不法投棄しないさせない都市宣言
- 健康スポーツ文化都市宣言
銚子市紋章[編集]
銚子市紋章は市制施行を記念して、紋章図案を懸賞募集し、応募総数1127点の中から最終決定し、1934年(昭和9年)1月15日に市会の議決を経て、同日告示された。制定にあたっては、銚子市は本邦東端に位置し、旭日仰ぐは最も早く、即ち市の発展性は旭日と共に力強く、その増大を意味して紋章は之を象徴することとし、旭日を中心にその周囲を丁四(銚子)にて輪郭図案化せるものなり、とされた。
銚子市歌[編集]
銚子市歌は懸賞募集し応募総数267点の中から三軒町山崎晋道作詞を一等として採用し、1936年(昭和11年)1月27日に市会議決のうえ、同日告示第2号をもって告示された。
- 銚子市歌
- 1 阪東太郎洋々と 太平洋にそそぐところ 四季に絶えせぬ海の幸 市民の意気はさかんなり 銚子、銚子、吾等の銚子
- 2 潮花咲く磯つづき 観光の美に富めるところ 犬吠埼の灯台は 文化の光世を照らす 銚子、銚子、吾等の銚子
- 3 遠く元和の昔より 醤油の香の匂ふところ 水産業の発展は 伸びゆく力世に示す 銚子、銚子、吾等の銚子
警察・消防[編集]
- 銚子警察署(銚子全域を管轄)
- 銚子市消防本部(銚子市全域を管轄)
- 消防団(全9分団)
- 第一分団 旧高神村及び潮見町地区
- 第二分団 旧本銚子町地区
- 第三分団 旧銚子町、旧豊浦村及び大橋町地区
- 第五分団 旧西銚子町地区
- 第六分団 旧海上村地区
- 第七分団 旧船木村地区
- 第八分団 旧椎柴村地区
- 第九分団 旧豊里村地区
- 第十分団 旧豊岡村地区
国家機関[編集]
国家機関[編集]
県の機関[編集]
- 千葉県海匝地域整備センター銚子整備事務所
- 千葉県海匝健康福祉センター(海匝保健所)
- 千葉県銚子児童相談所
- 千葉県銚子水産事務所
- 千葉県教育庁北総教育事務所東総研修所
- 旭県税事務所銚子支所
議会[編集]
市政[編集]
- 銚子市議会
- 定数:18名
- 2019年(令和元年)5月1日〜2023年(令和5年)4月30日
- 議長:地下 誠幸 (ぢげ まさゆき) 市民クラブ、3期
- 副議長:石神 嘉明 (いしがみ よしあき)新和会、1期
会派名 | 議席数 | 議員名(◎は代表) |
---|---|---|
市民クラブ | 5 | ◎石上允康、岩井文男、地下誠幸、鎌倉 金、大野正義 |
新和会 | 4 | ◎野平仁人、石神嘉明、宮崎光子、桶谷範幸 |
新風 | 2 | ◎石上友寛、池田健一 |
みらい | 2 | ◎釜谷藤男、広野恭代 |
公明党 | 2 | ◎桜井 隆、加瀬栄子 |
リベラル | 1 | ◎加瀬庫藏 |
日本共産党 | 1 | ◎笠原幸子 |
緑の会 | 1 | 工藤忠男 |
※ 2021年6月1日現在
県政[編集]
- 選挙区:銚子市・香取郡東庄町で一つの選挙区をなす。
- 定数:2名
- 任期:2019年(平成30年)4月30日 - 2023年(令和5年)4月29日
- 2015年、2019年と無投票。
- 2021年7月より、信田光保県議、千葉県議会議長
氏名 | 会派名 |
---|---|
信田光保 | 自由民主党千葉県議会議員会
当選回数 5期 |
宮川太 | 自由民主党千葉県議会議員会
当選回数 1期 |
※2020年10月1日現在
国政[編集]
- 衆議院
- 任期:2021年(令和3年)10月31日 - 2025年(令和7年)10月30日(「第49回衆議院議員総選挙」参照)
議員名 | 党派名 | 当選回数 | 備考 |
---|---|---|---|
林幹雄 | 自由民主党 | 11 | 選挙区 |
谷田川元 | 立憲民主党 | 3 | 比例復活 |
経済[編集]
産業[編集]
銚子市は水揚数量と水産物流通加工機能によって日本最大規模の水産業を中心として、畑作野菜生産の一大供給基地となった農業、長い歴史を有し全国シェアでその多くを占める醤油醸造その他製造業及び県東部の中核として発展した商業の複合した産業都市であり、日本経済の好況・不況の影響を直ちに受ける度合いが少ない安定生産型の産業都市とされている。犬吠埼から屏風ヶ浦に至る海岸線は1959年(昭和34年)に水郷筑波国定公園として指定された景勝地で、年間280万人以上が訪れる観光都市としても知られる。
2018年(平成30年)度の産業別就業者の割合を見ると、第1次産業に10.7%、第2次産業に28.5%、第3次産業に58.4%が従事しており、1965年(昭和40年)と比較して第3次産業の割合が拡大している[35]。
商業[編集]
銚子市は外房(海匝・山武・長生・夷隅地域)で茂原市・東金市に次ぐ第3の商業都市であり、銚子商圏を形成する単独商圏都市である[36]。銚子市は古くから水産業・醤油醸造業等の産業と共に、利根川水運の拠点、飯沼観音の門前町として商業機能が集積してきた。銚子市の商業は、銚子漁港魚市場の仲買人による鮮魚の市外出荷すなわち卸売りを除けば、ほとんどが市民を中心とする一般消費者を対象とした小売業である。卸売業はこれらの小売業に対する卸売り、あるいは市内の業者に業務用の原材料を売る卸売りで、市外の小売業をも対象とする卸売業は醤油その他の食料品についてごく少数が見られるだけである。銚子市の商業の特徴の一つは、人口に比較して商店数が多いことであり、銚子市の人口1000人あたりの小売店数は県内1位、飲食店数は県内3位となっている[37]。
商業集積地区[編集]
各商店街の基盤となる主要道路は戦災後の銚子都市計画復興土地区画整理事業により整備されたもので、銚子駅前通りシンボルロード整備事業、マイロード事業、ふれあい商店街近代化事業によって、無電柱化、街路灯の新設、歩車道の新装整備、植栽等が実施され、魅力ある商業空間としての再整備がなされている。郊外にはロードサイド店舗が立地し、国道126号沿いのイオンモール銚子は東総地域で最大規模の大型ショッピングセンターであり、イオン銚子店を中心に、100の専門店や飲食店、映画館(シネマコンプレックス)等のアミューズメント施設を備えている。
本社を置く企業[編集]
第三セクター[編集]
- 銚子マリーナ
- 銚子水産観光
- 銚子市医療公社
- 銚子スポーツタウン
- 銚子電力
- 銚子協同事業オフショアウインドサービス
関連企業[編集]
金融機関[編集]
銚子市内の金融機関は地元信用金庫本店・6支店、地元信用組合本店・6支店、地方銀行支店4店、労働金庫1店の計18店がある。またちばみどり農業協同組合及び東日本信用漁業協同組合連合会も金融機関として大きな役割を果たしている。
- 銚子信用金庫(本店・外川支店・本城支店・橋本支店・松岸支店・船木椎柴支店・清川町支店)
- 銚子商工信用組合(本店・新生支店・三崎支店・川口支店・愛宕支店・松岸支店・椎柴支店)
- 常陽銀行銚子支店
- 千葉銀行銚子支店
- 千葉興業銀行銚子支店
- 京葉銀行銚子支店
- 中央労働金庫銚子支店
- ちばみどり農業協同組合(銚子支店・海上支店・椎柴支店・豊岡支店・船木出張所・豊里出張所)
- 東日本信用漁業協同組合連合会銚子営業所
風力発電[編集]
銚子市で風力発電が開始されたのは2001年(平成13年)9月であり、銚子屏風ヶ浦風力開発株式会社が小浜町において風力発電機の運転を開始した。現在は日本風力開発の関連会社により市内に多数の風力発電が稼働しており、その大半は屏風ヶ浦を中心とした高台に位置する。銚子市で風力発電が進められるようになったのは、地域における平均風速や風向等の風況が風力発電に適していること、台地上には工作物建築の規制が強い自然公園区域指定がないこと、既存の送・配電線との系統連系がよいこと等によるものとされている。2021年(令和3年)12月には銚子市沖が洋上風力発電の促進区域に指定され、三菱商事エナジーソリューションズ、三菱商事、シーテックを構成員とするコンソーシアム「千葉銚子オフショアウィンド」による31基の洋上風力発電機の建設計画が示されている。
- 銚子屏風ヶ浦風力開発
- 銚子屏風ヶ浦風力発電所 1,500キロワット機(1基)
- 銚子小浜風力発電所 1,500キロワット機(1基)
- 銚子風力開発
- 銚子風力発電所 1,500キロワット機(9基)
- 八木風力発電所 1,500キロワット機(6基)
その他の風力発電所は以下の通り。
- くろしお風力発電
- 銚子高田町風力発電所 1,990キロワット機(1基)
- 椎柴風力発電所 1,990キロワット機(5基)
- エムウインズ
- 銚子しおさい風力発電所 1,500キロワット機(2基)
- 堀江商店
- 銚子新町風力発電所 1,980キロワット機(1基)
- 台町自然環境エネルギー研究所
- 台町風力発電事業 640キロワット機(1基)
- 銚子ウィンドファーム
- 銚子ウィンドファーム 1,500キロワット機(7基)
工業[編集]
銚子市の製造業の中で最も市の経済を支える重要な位置を占めるのは、水産加工業と醤油醸造業を双璧とする食品製造業である。食品製造業に続く業種は、窯業建材製品・生コンクリート製造業、電気機械製造業である。これらの代表的な製造業以外の伝統的な地場産業として、漁網やロープ製造、籐製品、造船、鉄工業等がある。
水産加工業[編集]
江戸期に肥料のいわし搾粕生産を中心として発展した銚子市の水産加工業は、戦後、養殖飼料用の冷凍いわしが主力となった。また、さんま・さば漁の発展に伴って、食用の一般加工品の原料が、いわしからさんま、さば、あじへと推移した。 冷凍・冷蔵施設の普及・発展によって市外・県外・国外からの移入・輸入による原料の長期保存が年間均等操業を可能とし、更に最適時期の出荷までの製品の保存を可能にさせた。そしてこのことが水産加工業者による原料売買という新しい流通形態を生じさせ、製造業経営における商業的要素が大きくなった。 また1960年代以降、コンベア、フォークリフト、自動選別機、自動軽量機、自動割裁機その他機械導入による生産設備の省力化、冷凍・冷蔵施設の大型化、経営近代化、原材料の移入・輸入が進み、生産額も増大して、今日まで銚子市の主要業にある。 また、銚子漁港整備の進展と連動して計画的に沿岸漁業の水揚げ拠点基地づくりが推進され、全国有数の水産流通加工センターを形成している。
冷凍冷蔵業・製氷業[編集]
銚子市の冷凍業は大正期に始まり、戦後冷蔵庫が普及すると大型加工場が多かった銚子市では、冷凍・冷蔵施設の大型化が競って進められ、その規模も飛躍的に拡大した。銚子市のように一つの地域に冷蔵能力が集中しているところは他に例がなく、水産業に関する冷蔵庫の数とその能力が大きいことでは、銚子市は全国一となっている。 この中で新しい営業形態として盛んとなったのが、冷蔵業である。主としていわし・さば・さんまを加工原料・飼料用に保存し、そのままの形で冷凍加工原料魚、冷凍飼料として出荷している。 氷は船積み用・鮮魚出荷用その他、水産業における必需品であり、製氷業は冷凍冷蔵業務とは別に専門業者、漁業協同組合、水産業者の製氷工場で行われている。
缶詰製造業[編集]
銚子市における缶詰製造の歴史は1979年(明治12年)に行われたいわし油漬缶詰の試験製造に始まったとされるが、企業としての缶詰生産は明治後期に本格化した。その後、1906年(明治39年)のくじら大漁によるくじら大和煮缶詰製造業の勃興と昭和初期のいわし豊漁に伴ういわしの大和煮・トマト煮、油漬製造の増加によって急激な発展を遂げた。戦後は輸出向けのさば缶詰の生産が進んだが、1980年代からの円高傾向により国内向けへの販路転換と他種兼業の経営多角化が目指された。
肥飼料製造業[編集]
魚を原料とする肥料生産、魚粉(ミール)や配合飼料の原料となる魚粕製造が行われている。
練製品製造業 [編集]
銚子市の練製品製造業は終戦直後に食糧難を背景として急速に発展し、その後製品の質は年々向上し、生産高も増加した。種類としては半片、蒲鉾、鳴門、小魚を使った揚蒲鉾、いわし・さば等を原料とするつみれ等である。これらは大部分が東京を中心とする近県へと出荷されており、地元消費は一部である。
醤油醸造業[編集]
銚子の醤油醸造は江戸時代初期に始まる古い歴史を有し、銚子市における主要産業の一つである。銚子市の醤油醸造業の全国シェアは業界2位のヤマサ醤油と4位のヒゲタ醤油の大手2社を主に15%を占め、銚子市内における企業としては別格の地位にある。醤油は日本料理の基本的な調味料であるため需要は安定しており、年によって大幅に伸びたり減少したりすることはない。したがって景気の変動に左右されることが少ないので、醤油醸造業は昔から不況に強い産業といわれる。近年ではつゆ・たれ等の醤油加工調味料の開発・改良が進められるとともに、うま味調味料やだし類が製造されている。 銚子市内で生産される醤油は、主として濃口醤油と薄口醤油であるが、その種類は多岐に渡り、特に濃口醤油は家庭用にかぎってみてもヤマサ醤油、ヒゲタ醤油の二社の商品は20種類を超えている。 なおヤマサ醤油は1992年(平成4年)、アメリカ合衆国オレゴン州に関連会社を設立し、工場を建設してアメリカ、カナダ、メキシコなどに製品出荷も行っている。 この他、醤油製造会社では、蓄積された研究開発技術により核酸関連物質を利用した医薬品原料、食品添加物、化粧品原料、医薬品合成原料、研究用試薬、体外診断用医薬品、また、動物医薬用ワクチン、抗がん活性物質、抗ウイルス性物質、臨床検査薬、動物薬等の研究開発が進められている。
鉄工業[編集]
銚子では明治以降、漁船用内燃機関である焼玉エンジンに関する鉄工業が勃興し、戦前は漁船用内燃機関の他、澱粉製造機械、醤油工場関係の機械及び農機具等が製作されていた。漁船エンジンのディーゼル化後は、市内の鉄工場の多くが大手機械メーカーに系列化に入り、その下請工場となった。1969年(昭和44年)には、財団法人銚子市開発協会と千葉県開発公社の共同事業により、新たに小浜工業団地が造成されている。
造船業[編集]
銚子市の伝統的な地場産業として造船業があり、江戸期から昭和前期にかけて、銚子市の造船業は全て船大工の個人企業であった。造船所はちょき船や伝馬船のような小舟を除いては川岸や海岸の砂浜にあり、主として市東部では漁船が、市西部では川船が造られていた。銚子市の漁船は和船型が主流であったが、1960年代以降は西洋型が増加し、材質も木船から鋼船・強化プラスチック船へと変化した。
籐製品工業[編集]
銚子で籐製品が製造されるようになったのは明治後期からで、大正から昭和にかけて主要な地場産業に成長した。当時の銚子の籐製品はほとんど全てが草履や下駄に使われる籐表で、その後銚子市は籐表の全国的特産地となった。戦後は国民の生活様式の変化によって籐表の需要は減少し、産業というよりも文化財的な工芸としての性格が強くなっている。
漁業[編集]
- 漁業協同組合
- 銚子市漁業協同組合
銚子漁港は、漁港漁場整備法上の特定第3種漁港(国指定最重要漁港)に指定された日本三大漁港の一つであり、古くから沿岸・沖合及び遠洋漁業の拠点港として利用されている。3つの卸売市場を抱えており、第2卸売市場に入港する大中まき網漁船によってサバ、サンマ、イワシなどの主要な魚種が水揚げされ、これらの魚種を中心に年間水揚量が全国第1位である[38]。総水揚げ量の約90%が大中型まき網漁業によるもので、これらの多くは地元漁船ではなく他の漁港に属する廻船であり、地元漁船は底引き網漁業等の比較的規模が小さい漁業が中心である。
タイやヒラメなどの高級魚も漁獲されており、特に銚子漁業の発祥の地である外川地区の小はえなわ型船による立縄漁業で漁獲しているキンメダイは「銚子つりきんめ」として千葉ブランド水産物第1号に認定され、ブランド力向上と資源管理が行われている。
- イワシ - 2002年(平成14年)度陸揚量全国1位
- サバ - 2002年(平成14年)度陸揚量全国1位
- サメ - 2002年(平成14年)度陸揚量全国3位
- アジ類 - 2002年(平成14年)度陸揚量全国4位
- サンマ - 2002年(平成14年)度陸揚量全国4位
- メヌケ - 2002年(平成14年)度陸揚量全国5位
- マグロ - 2002年(平成14年)度陸揚量全国6位
- そのほか、カツオ、ヒラメ、ホウボウ、キンメダイなど。
プライドフィッシュ[編集]
国漁業協同組合連合会(全漁連)が中心となり、漁業協同組合連合会(漁連)・漁業協同組合(漁協)が選定した、漁師が自信をもって推奨する魚介類として「銚子つりきんめ」「銚子の入梅いわし」がプライドフィッシュとして選定されている。
漁港[編集]
農業[編集]
銚子市は県内有数の農業都市であり、春キャベツの生産量は日本一を誇る。海洋性の気候と首都圏から100km圏内という地理的な利便性を生かし、キャベツやダイコン、スイカ、イチゴなど露地野菜や果物が栽培されている。銚子市の総耕地面積2540haのうち約80%近くが畑地であり、県内トップクラスである農業産出額268億円のうち57%にあたる 152億円を野菜が占め、畑作中心の営農である。 一戸あたりの栽培面積が増加し農地の集約化が進んだことで経営規模は拡大傾向にあり、専業農家率は県の平均が30.6%であるのに対し、銚子市では 55.6%で、販売農家戸数1007戸のうち560戸が専業農家である。
野菜指定産地[編集]
農林水産省による野菜生産出荷安定法および本法に基づき銚子市が指定された野菜[45]。
対外関係[編集]
姉妹都市・提携都市[編集]
クース・ベイ市(Coos Bay, Oregon, アメリカ合衆国オレゴン州)
クース・ベイ市はオレゴン州岸における人口集中地区で、温暖な気候と豊かな自然環境に恵まれている。産業面では農業、林業、水産業、商業及び観光が盛んであり、教育文化面でも短期大学の他図書館、美術館等を有し、全体的に調和のとれた都市である。1982年(昭和57年)10月に銚子市長が港湾施設等視察のため渡米した際にクース・ベイ市を訪問したことが契機となり、同年12月にクース・ベイ市長から同市議会が姉妹都市協定締結の申し入れを決定した旨の書簡を受けた。クース・ベイ市の基幹産業が農業、水産業であり、漁港、港湾を有する等銚子市との類似点が多いことから、銚子市としても姉妹都市協定の締結を希望する旨を回答し、翌1983年(昭和58年)1月市議会臨時会で姉妹都市締結について提案し、満場一致の賛同を得た。同年2月10日、銚子市制施行50周年記念式典の席上、クース・ベイ市代表者の出席を得て、姉妹都市協定締結の調印式を行った。
レガスピー市(Legazpi City, フィリピン共和国アルバイ州)
レガスピー市はアルバイ州の州都で、人口15万人を超える港湾都市である。周辺地域特産のアバガ、ココヤシ製品がレガスピー港から世界中へ輸出されており、マニラ富士とも呼ばれる秀麗なマヨン山をはじめ、海浜、丘陵、河川等に恵まれた風光明媚な観光地としても有名である。1976年(昭和51年)2月、両市のロータリークラブの間で姉妹クラブ契約が締結され、交流が重ねられていく中で両市間での姉妹都市提携の機運が高まり、1985年(昭和60年)3月にレガスピー市議会が銚子市との姉妹都市提携を議決し、レガスピー市長から姉妹都市協定締結の申し入れがあった。両市の都市規模、産業形態が類似していることや、世界の平和を祈念して銚子市に建立された「日比友愛の碑」の斜塔がレガスピー市のマヨン山を指していること等から、同年6月27日市議会の議決を得て提携が成立した。
国際交流イベント・国際交流団体[編集]
1993年(平成5年)に結成された銚子ぽるとがる友好協会は、ユーラシア大陸西端のポルトガル共和国シントラ市のロカ岬とほぼ同緯度にある犬吠埼を姉妹岬として友好親善を深めることを深めることを目的に、銚子市制60周年と日本ポルトガル友好450周年を記念して、犬吠埼に犬吠埼・ロカ岬記念碑を建立し、その除幕式を1993年(平成5年)9月12日に行った。
2017年(平成29年)には市民が地域の文化の担い手であることを自覚し、様々な文化との交流を進め、地域社会に寄与することを目的に銚子市国際交流協会が設立され、日本語教室、国際交流パーティー等の交流事業を進めている。
また、銚子市は世界女子ソフトボール選手権大会における台湾チームの強化合宿をはじめ、東京オリンピック・パラリンピック競技大会における台湾のホストタウン登録、台湾野柳地質公園と銚子ジオパークとの観光交流・学術交流に関する協定締結、銚子電気鉄道と台湾鉄道の姉妹提携等、多方面において交流を深めている。
施設[編集]
図書館[編集]
- 銚子市公正図書館
- 千葉科学大学図書館
交流施設[編集]
- 銚子市民センター
- 銚子市ジオパーク・芸術センター
- 銚子市勤労コミュニティセンター
- 銚子市豊里地区コミュニティセンター
- 銚子市海上地区コミュニティセンター
- 銚子市東部地区コミュニティセンター
- 銚子市西部地区コミュニティセンター
- 銚子市高神地区コミュニティセンター
- 銚子市中央地区コミュニティセンター
- 銚子市農村広場やすらぎの家
スポーツ施設[編集]
- 銚子スポーツタウン
- 銚子市スポーツコミュニティセンター
- 銚子市体育館
- 銚子市野球場
- 銚子市庭球場
- 豊里台多目的スポーツ広場
公園[編集]
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公共福祉施設[編集]
- 銚子市保健福祉センター「すこやかな学びの城」
- 銚子市児童発達支援センターわかば
- 銚子市老人憩の家・地域福祉センター「こも浦荘」
- 銚子市芦崎高齢者いこいセンター
博物館・美術館[編集]
郵便[編集]
- 銚子郵便局
- 本通郵便局
- 銚子南町郵便局
- 銚子本町郵便局
- 銚子植松郵便局
- 銚子愛宕郵便局
- 外川郵便局
- 銚子本城郵便局
- 銚子余山簡易郵便局
- 銚子小浜簡易郵便局
宿泊施設[編集]
- 別邸 海と森
- スパ&リゾート犬吠埼太陽の里
- ぎょうけい館
- 絶景の宿 犬吠埼ホテル
- 犬吠埼観光ホテル
- ホテルニュー大新
- Farm&stay YAOYA
- 銚子プラザホテル
- ホテルサンライズ銚子
- ビジネスホテルいずや
- ホテル近江屋
- ホテルサンサニー
- かもめホテル
- ホテルルートイン銚子駅西(2022年11月開業予定)
- ホテルルートイン銚子駅前(2023年開業予定)
医療[編集]
二次医療圏(二次保健医療圏)としては香取海匝医療圏(管轄区域:香取地域・海匝地域)である[46]。三次医療圏は千葉県医療圏(管轄区域:千葉県全域)。
教育[編集]
大学[編集]
高等学校[編集]
中学校[編集]
- 銚子市立第一中学校
- 銚子市立第二中学校
- 銚子市立第三中学校
- 銚子市立銚子中学校[48]
- 銚子市立銚子西中学校
小学校[編集]
- 銚子市立飯沼小学校
- 銚子市立海上小学校
- 銚子市立春日小学校
- 銚子市立椎柴小学校
- 銚子市立清水小学校
- 銚子市立高神小学校
- 銚子市立豊里小学校
- 銚子市立双葉小学校
- 銚子市立船木小学校
- 銚子市立本城小学校
- 銚子市立明神小学校
幼稚園[編集]
- 銚子市立本城幼稚園
- 飯沼幼稚園
- 銚子幼稚園
特別支援学校[編集]
- 千葉県立銚子特別支援学校
情報・通信[編集]
マスメディア[編集]
新聞[編集]
放送局[編集]
交通[編集]
鉄道路線[編集]
銚子市における旅客輸送の主力機関は鉄道で、市外に通ずる鉄道は東日本旅客鉄道の総武本線と成田線の2本である。このうち総武本線には銚子発・東京駅直行の特急電車「しおさい」が運転されている。
中心となる駅:銚子駅
東日本旅客鉄道(JR東日本)
銚子電気鉄道(銚子電鉄)
銚子市内唯一の私設鉄道である銚子電気鉄道は1923年(大正12年)に銚子鉄道株式会社として設立開業し、戦後の1948年(昭和23年)に企業再建整備法により、新旧勘定合併のため銚子電気鉄道株式会社と改称し、設立登記を行って現在に至っている。営業キロ数は銚子駅構内から外川まで全長6.4キロで、短いことでは全国屈指の私鉄である。主として犬吠埼方面に向かう観光客に利用されている。
銚子電気鉄道線(2000形デハ2002)
バス路線[編集]
鉄道網を補完する形で、市街地と周辺地域が8系統の路線バスで結ばれている。鉄道を除く東京までの交通手段として東京駅の高速バスが3ルートあり、1日43往復86本運行している。
高速バス[編集]
大阪 - 銚子線は夜行、その他は昼行。※主要停留所のみ記載
- 大阪 - 銚子線
- 湊町バスターミナル(OCAT)・大阪駅前(桜橋口アルビ前)・ 京都駅八条口 ⇔ 秋葉原駅・四街道駅・京成成田駅 - 成田空港・銚子駅
- 利根ライナー(佐原ルート)
- 利根ライナー(小見川ルート)
- 東京駅 ⇔ 佐原香取・豊里・高速松岸・銚子駅・陣屋町 (千葉交通)
- 犬吠号(旭ルート)
路線バス[編集]
道路[編集]
銚子市内には一般国道が3路線あるが、このうち最も主要な国道は千葉・銚子間を結ぶ126号線であり、かつては銚子市と首都近郊を結ぶ唯一最大の道路であった。現在も貨物輸送を始めその他の交通における大動脈としての役割は極めて大きい。銚子大橋前交差点は、126号線とこれに次ぐ銚子市の動脈である356号線及び水戸市に至る国道で銚子市と茨城県を結ぶ最大の幹線道路である124号線が集まる3国道の起点となっている。
広域幹線道路については、国道126号線飯岡バイパス、東総広域営農団地農道、東総有料道路、東関東自動車道成田線、九十九里波乗道路等が整備されている。2000年(平成12年)、利根かもめ大橋が開通し、2013年(平成25年)には銚子大橋架け替え工事が完了した。今後は山武方面との高規格幹線道路・銚子連絡道路の早期実現が期待されている。市内の主要道路では、海岸を一周する県道銚子公園線、愛宕山の観光道路市道愛宕山天王台線、三崎町から屏風ヶ浦の台地を通って天王台に至る銚子ドーバーラインが整備されている他、銚子海上線の拡幅整備、銚子公園線長崎周遊道路の開通、銚子駅前シンボルロード・本通りマイロード・銚子銀座ココロードの整備等により、観光都市としての交通体系の整備も進められてきた。
- 銚子新大橋有料道路(利根かもめ大橋有料道路)
- 千葉県道198号銚子波崎線
- 千葉県道211号飯岡猿田停車場線
- 千葉県道216号飯岡松岸停車場線
- 千葉県道244号外川港線
- 千葉県道254号銚子公園線
- 千葉県道286号愛宕山公園線(銚子ドーバーライン)
空港[編集]
千葉県成田市の成田国際空港(成田空港)が最寄りとなり、約40キロメートルの距離に位置する。東京都大田区の東京国際空港(羽田空港)へは約95キロメートルの距離に位置する。
- 成田国際空港(成田国際空港へのアクセスも参照)
- 鉄道:成田線にて銚子駅 - 成田駅(成田線空港支線へ乗換)- 空港第2ビル駅(成田第2・第3ターミナル)・成田空港駅(成田第1ターミナル)。
- 東京国際空港(東京国際空港へのアクセスを参照)
- バス:高速バスが銚子駅と東京駅を結ぶバスがある。
船舶[編集]
観光・文化 [編集]
名所・旧跡[編集]
日本遺産「北総四都市江戸紀行」[編集]
- 外川の町並み - 1658年(万治元年)に整備され「外川千軒大繁盛」と謳われた漁師町の町並み
- 銚子ちぢみ伝統工芸館 - 銚子ちぢみの藍染体験
- 西廣家住宅 - 国登録有形文化財
- 磯角商店主屋 - 国登録有形文化財
- 銚子の醤油醸造
- 犬吠埼 - 日本一早い初日の出を拝むことが出来る関東最東端の岬
- 君ヶ浜 - 日本の渚100選に選定された白砂青松の海岸
- 海鹿島 - 明治大正期に文人墨客の別荘が立ち並んだ保養別荘地
- 長崎鼻 - 銚子半島東海岸の最南端の岬
- 長崎鼻一ノ島照射灯
- 銚子大橋 - 利根川河口に架かる全長1.5kmの斜張橋
- 銚子電気鉄道 - 1923年(大正12年)創業の銚子市街と外川を結ぶノスタルジックなローカル線、ぬれ煎餅で知られる
- ヤマサ醤油煉瓦蔵 - ヤマサ醤油本社西側に1915年(大正4年)から1923年(大正12年)にかけて仕込蔵増設時に建設
- 飯沼陣屋跡 - 江戸時代に高崎藩の郡奉行と代官が派遣常駐した
- 中島城(海上城) - 戦国時代に銚子地方を支配した海上氏の居館として築かれた平城
- 粟島台遺跡 - 縄文時代の琥珀装飾品の生産拠点、漆塗り土器も出土
- 余山貝塚 - 縄文時代後期から晩期の遺跡、考古学界で古くから著名であった
- 野尻古墳群 - 前方後円墳一基、円墳八基、方墳三基からなる
- 千人塚 - 古くからの難所であった利根川河口での遭難者供養のために築かれた塚
- 美加保丸遭難の碑 - 1868年(慶応4年)に幕府の艦隊8隻が銚子沖で座礁・沈没、犠牲者を悼む地元有志によって遭難碑が建てられた
寺社[編集]
- 川口神社 - 銚子漁港の守り神として漁業関係者の信仰が篤い
- 猿田神社 - 樹齢数百年の森に囲まれた本殿は千葉県指定文化財
- 渡海神社 - 神社の森は千葉県指定天然記念物の極相林
- 常燈寺
- 満願寺 - 四国八十八ヶ所霊場の本尊を観請
- 海上八幡宮
- 銚港神社
- 白幡神社
- 菅原大神
- 東円寺
- 等覚寺
- 東光寺
レジャー[編集]
- 銚子マリーナ - 名洗港内に1999年(平成11年)にオープンした本格的マリーナで、海浜緑地公園や人工ビーチと併せて海洋性レクリエーション基地
- 地球の丸く見える丘展望館 - 下総最高峰の標高72.6mに位置する展望台、地球の丸く見える丘ふれあい広場も併設
- 水産ポートセンター - 銚子ポートタワー・ウオッセ21・水産研究センターからなる複合施設
- 君ヶ浜しおさい公園 - 自然との調和と環境保全を基本として整備された海浜公園
- 河岸公園 - 銚子大橋を眺めるビューポイント
- 犬吠テラステラス - カフェやショップ、地元野菜マルシェなどが入った商業施設
- ハーブガーデンポケット - ツリーハウス、グリーンショップ、ドッグランを併設した海辺のハーブ園
- 銚子海洋研究所 - 銚子沖合でのホエールウォッチングやイルカウォッチング
- 屏風ヶ浦シーカヤック - 屏風ヶ浦を眺めながらのシーカヤック体験
- レインボーヒルズカントリークラブ - 27コースを有する林間のゴルフ場
海水浴場[編集]
- 海鹿島海水浴場 - 周りを岩礁に囲まれたプール状の海水浴場、磯遊びに最適
- 長崎海水浴場 - 沖合に岩礁を積んだ犬吠埼灯台を望む海水浴場
- 銚子マリーナ海水浴場 - 東洋のドーバーと言われる屏風ヶ浦を背にした波静かな海水浴場
温泉[編集]
銚子と文学[編集]
江戸時代の文化・文政期頃から多くの文人墨客が銚子に来遊し、銚子の海岸の奇岩、断崖、白砂、青松、怒涛など変化に富んだ明媚な風光を和歌・俳句、漢詩に詠み、あるいは文に記し絵にして、多くの作品を残した。大正時代以降は避暑地として、皇族、政治家、財界人、作家、画家が別荘を構えて滞在した。竹久夢二の「宵待草」や高村光太郎の「智恵子抄」の舞台としても知られる。現在、市内には歌碑、詩碑が多く立つ[49]。以下、代表作一覧。
- 松尾芭蕉「枯枝に からすのとまりけり 秋の暮」
- 小林一茶「此臺の清風たゝちに心涼しく西方仏土もかくあらんと 本とゝす 爰をさること 遠からす」
- 国木田独歩「なつかしき わが故郷は 何処ぞや 彼処にわれは 山林の児なりき」
- 竹久夢二「まてど暮らせど来ぬ人を宵待草のやるせなさ今宵は月も出ぬさうな」
- 小川芋銭「銚子灘朝暾 大海を 飛びいつる如と 初日の出」
- 尾崎咢堂「朝またき 彼方の岸は アメリカと 聞て瓜立つ おはしまのはし」(瑞鶴荘にて)
- 高浜虚子「犬吠の 今宵の朧 待つとせん」
- 佐藤春夫「ここに来て をみなにならひ 名も知らぬ草花をつむ みづからの影踏むわれは 仰がねば 燈台の高さを 知らず 波のうねうね ふる里のそれには如かず ただ思ふ 荒磯に生ひて 松のいろ 錆びて 黝きを わが心 錆びて黝きを」
- 源俊頼「磐はしる 外川の滝の むすぶ手も しばしはよどむ 淀むせもあれ」
スポーツ[編集]
野球[編集]
銚子市の千葉県立銚子商業高等学校は春8回、夏12回という千葉県最多の甲子園出場記録を保持しており、全国制覇の経験もある高校野球の名門校として知られている。 その豪快な打線は「黒潮打線」として知られ、名将・鈴木源三郎、斉藤一之監督の指導の下、木樽正明、篠塚和典、宇野勝ら20人ものプロ野球選手を輩出した[50]。 2019年(令和元年)には木樽正明により野球チームが結成され、銚子スポーツタウンを拠点に活動している。
祭事・催事[編集]
- 常灯寺初薬師 - 年に一度の重要文化財・木造薬師如来坐像の御開帳
- 漕出式 - 海の安全と豊漁を願い大漁旗を掲げた船を漕ぎ出す伝統儀式
- 銚子半島一周駅伝 - 早春の銚子半島で行われる中学生対抗の駅伝大会
- 菅原大神祭礼 - 奉納されている子産石は抱くと子宝に恵まれるという言い伝えがある
- 妙福寺藤まつり - 境内の「臥龍の藤」が見頃を迎える初夏に開催される
- 大潮まつり - 旧暦6月15日に執り行われ、漁師を始めとした漁業関係者が神輿を担ぐ
- 浅間神社祭礼 - 露店150軒以上が並び、多くの参拝客で賑わいを見せる
- 銚子みなとまつり - 利根川河畔の約5,500発の花火が打ち上がる花火大会や、神輿が銚子市役所前から銚子銀座通りを通って飯沼観音まで練り歩くみこしパレードが行われる
- 銚子農産まつり・銚子水産まつり - 銚子の海産物や農産物の直売所が出店、さんま焼き体験などのイベントも開催される
- 銚子さんまマラソン - 風光明媚な海岸線のコース、炭火焼きサンマの無料配布・サンマのつかみ取りも行われる
- 黒潮よさこい祭り - 全国60チームが市内各所で演舞を行い優勝を競う、銚子市民主催の祭りで、名産品マルシェ、軽トラ市、ブランド肉祭りなどの各種イベントも同時開催される
- 銚子マルシェ - グルメや地元野菜の販売の他ワークショップなどが開催される
- 東大社銚子大神幸祭 - 1102年(康和2年)に始まり、20年に一度東大社、雷神社、豊玉姫神社の三社が外川浜へ御渡しを行う
民俗・芸能[編集]
- 銚子大漁節 - 1864年(元治元年)に豊漁を祝って作られた銚子を代表する民謡で、銚子では盆踊りや宴席などでも披露される
- 銚子はね太鼓 - 江戸時代から銚子に伝わる豪快な祭り太鼓
- 銚子弁 - 銚子の方言は紀州からの移民による関西系の言葉や水運の発展に伴う東北系の言葉、対岸の茨城の言葉など各地の言葉が入り混じっており、言葉の響きが重く、言葉の末尾に「べ」や「ぺ」を用いる他、濁音が多いことが特徴で、威勢のよい漁師言葉であると言われる
- 海亀の墓 - 亀が漁網にかかると酒をふるまい海に帰し、万一釣針にかかって死んだ時は、立派な墓を作り敬うという習わしがあり、妙福寺や長崎、恵比須山などに「亀墓」が見られる
- 生切り - 新年最初に漁船を出すことを「生切り」と呼び、銚子では生切りをつとめた船は不祥なことが起こるという言い伝えがあったため、各漁船の乗組員が生切りを避けようとしなかなか船を出すことができず、漁業組合は奨励金を出し抽選で第一船を決めていた
- 川施餓鬼 - 毎年一回、川口の千人塚で行われる海難事故犠牲者の慰霊と供養の儀式
名産・特産品[編集]
- 銚子つりきんめ - 一本釣り漁法により1尾ずつ丁寧に釣り上げられる高級魚
- 銚子の入梅いわし - 6月から夏場にかけての梅雨時に獲れるマイワシ
- 磯がき - 夏場が旬で、生のままレモンをかけて食べる
- 灯台キャベツ - 「ちばエコ農産物」指定、銚子の春キャベツは日本一の収穫量を誇る
- 銚子メロン - 糖度16度以上の金印で、「第16回日本農業賞」を受賞
- 清酒 - 石上酒造「銚子の誉」[51]、小林酒造場「祥兆」」[52]など
- 醤油 - 江戸時代初期に紀州から製法が伝わり、現在でもヤマサ醤油、ヒゲタ醤油、宝醤油、小倉醤油が醤油を製造している
- ひ志お - 大豆と大麦から麹を作り、1年以上熟成させて作る発酵調味料
- ぬれ煎餅 - 焼いた煎餅を熱いうちに醤油に浸し、しっとりした食感をもたせたもので、銚子電鉄の経営危機を救ったことで知られる
- 銚子伊達巻寿司 - 明治初期に細工寿司として考案された、分厚い厚焼き玉子焼きを半月状にして太巻き寿司の上に乗せた郷土料理
- 海藻こんにゃく - 銚子海岸で採れるツノマタやコトジツノマタを煮溶かして固めたもので、鰹節や醤油をかけて食べる
- 佃煮 - イワシ、カツオ、サンマなどを銚子の醤油で煮込んだもの
- なめろう - おろした魚に味噌や香味野菜を一緒にたたき合わせて作る漁師料理
- さんが焼き - なめろうを焼いたもの
- 木の葉パン - 銚子に古くから伝わる郷土菓子
- 今川焼き - 飯沼観音門前名物の甘味
- 犬吠の月 - 1973年(昭和48年)に昭和天皇への献上菓子として誕生
- いわしサブレ - イワシの水揚げ量日本一を誇る銚子にちなんで作られた菓子
- 味噌ピーナッツ - 落花生にハチミツ入り味噌を絡めたもの
- 水産缶詰 - サバカレー、イワシ、サンマ蒲焼など
- 練り物 - 磯揚げ、はんぺん、かまぼこなど
宮内庁御用達
伝統工芸品[編集]
- 千葉県指定伝統的工芸品
文化財[編集]
番号 | 指定・登録 | 類別 | 名称 | 所在地 | 所有者または管理者 | 指定年月日 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | 国指定 | 重要文化財(建造物) | 犬吠埼灯台(灯台、旧霧笛舎、旧倉庫) | 銚子市犬吠埼 | 国(海上保安庁)、公益社団法人燈光会 | 令和2年12月23日 | 1基、2棟 |
2 | 重要文化財(彫刻) | 木造薬師如来坐像 | 銚子市常世田53-1 | 常灯寺 | 昭和34年6月27日 | 1躯 | |
3 | 重要文化財(工芸品) | 鐃 | 奈良国立博物館 | 円福寺 | 昭和34年6月27日 | 1口 | |
4 | 記念物(名勝及び天然記念物) | 屏風ケ浦 | 銚子市春日町744-1他 | 銚子市・千葉県・国 | 平成28年3月1日 | ||
5 | 記念物(天然記念物) | 犬吠埼の白亜紀浅海堆積物 | 銚子市犬吠埼9578-10他 | 銚子市・国 | 平成14年3月19日 | ||
6 | 県指定 | 有形文化財(建造物) | 猿田神社本殿 | 銚子市猿田1677 | 猿田神社 | 昭和30年12月15日 | 1棟 |
7 | 常灯寺本堂 | 銚子市常世田町53-1 | 常灯寺 | 昭和54年3月2日 | 1棟 | ||
8 | 海上八幡宮本殿 | 銚子市柴崎1-17 | 海上八幡宮 | 平成2年3月16日 | 1棟 | ||
9 | 有形文化財(彫刻) | 木造薬師如来立像 | 銚子市岡野台町2-473 | 等覚寺 | 平成元年3月10日 | 1躯 | |
10 | 木造薬師如来立像 | 銚子市岡野台町2-473 | 等覚寺 | 平成元年3月10日 | 1躯 | ||
11 | 木造菩薩立像 | 銚子市岡野台町2-473 | 等覚寺 | 平成元年3月10日 | 1躯 | ||
12 | 有形文化財(工芸品) | 梵鐘(享徳十一年在銘) | 銚子市馬場町293-1 | 円福寺 | 昭和42年3月7日 | 1口 | |
13 | 釈迦涅槃図 | 銚子市馬場町293-1 | 円福寺 | 平成3年2月15日 | 1幅 | ||
14 | 有形文化財(古文書) | 天正検地帳 | 銚子市ほか | 銚子市ほか | 昭和57年4月6日 | 18件・71冊 | |
15 | 有形文化財(考古資料) | 金銅経筒(建長四年在銘) | 銚子市岡野台町2-473 | 等覚寺 | 昭和60年3月8日 | 1合 | |
16 | 無形文化財 | 銚子縮 | 銚子市松岸町 | 常世田眞壱郎 | 平成13年3月30日 | ||
17 | 記念物(天然記念物) | 渡海神社の極相林 | 銚子市高神西町2 | 渡海神社 | 昭和34年4月24日 | ||
18 | 猿田神社の森 | 銚子市猿田1675-21他 | 猿田神社 | 昭和49年3月19日 | |||
19 | 犬吠埼産出のアンモナイト | 銚子市前宿町1034 | 銚子市 | 平成18年3月14日 | 5標本6点 | ||
20 | 国登録 | 登録有形文化財(建造物) | 内野家住宅洋館 | 銚子市長山町2034 | 個人 | 平成11年7月8日 | 1件 |
21 | 磯角商店主屋 | 銚子市飯沼町186 | 個人 | 平成26年4月25日 | 1件 | ||
22 | 滑川家住宅主屋ほか | 銚子市野尻町27-1 | 個人 | 平成29年6月28日 | 2件 | ||
23 | 旧西廣家住宅(治郎吉)主家ほか | 銚子市川口町1-6271 | 株式会社ランス | 平成30年3月27日 | 5件 | ||
24 | 石上酒造米藏ほか | 銚子市田中町7-1 | 個人 | 平成30年3月27日 | 5件 |
出身著名人[編集]
政治家[編集]
- 赤桐操(参議院議員)
- 石毛鍈子(社会福祉学者、衆議院議員)
- 椎名隆(弁護士、衆議院議員)
- 椎名一保(参議院議員)
- 鈴木文四郎(新聞記者、参議院議員)
- 富田茂之(弁護士、衆議院議員)
- 仲内憲治(外交官、衆議院議員)
実業家[編集]
- 五代上野松次郎(旧姓・鵜月、肥料商、上野松次郎商店代表取締役、栃木県多額納税者、資産家、衆議院議員)
- 岡田幸三郎(実業家、作家遠藤周作夫人・遠藤順子の父)
- 嘉納毅六(醸造家・菊正宗)ヤマサ醤油濱口家六男。
- 濱口儀兵衛(醸造家・ヤマサ醤油当主)
- 濱口吉右衛門(醸造家・ヒゲタ醤油当主)
- 田中玄蕃(ヒゲタ醤油・創業元和2年)
学術[編集]
- 青野茂行(化学者、元金沢大学学長)
- 鵜月洋(国文学者)
- 川名登(経済史学者)
- 越川芳明(英文学者・映画評論家)
- 松井簡治(国語学者)
- 松本潤一郎(社会学者)
- 宮内嘉長(国学者)
- 和歌森太郎(歴史・民俗学者)
- 江畑謙介(軍事評論家)
- 清谷信一(軍事評論家)
文化・芸術[編集]
芸能・マスコミ[編集]
- 内田良平(俳優)
- 岡田英次(俳優)
- 宮内洋(俳優)
- 高倉みゆき(女優)
- 名雪佳代(女優・タレント・モデル)
- 夏木ゆたか(タレント)
- 本谷育美(アナウンサー)
- 内海桂子(漫才師)
- 柳家三之助(落語家)
- Yumiyo(作詞家)
- 弦哲也(作曲家)
- 千葉一夫(歌手)
- 今津雅晴(ダンサー・コレオグラファー)
- 菊地成孔(ジャズ・ミュージシャン)
- カノン(ベーシスト、アンティック-珈琲店-)
- 大崎瑠衣(元 銚子元気娘。 現Chu☆Oh!Dolly)
スポーツ[編集]
- 石毛博史(プロ野球選手)
- 木樽正明(プロ野球選手)
- 榊原翼(プロ野球選手)
- 篠塚和典(プロ野球選手・コーチ)
- 鈴木優磨 (サッカー選手)
- 瀧本雄太(サッカー選手)
- 宮内龍汰(元サッカー選手)
- 千田川吉藏 (2代)(大相撲力士)
- 髙見山酉之助(大相撲力士)
- 大ノ濵勝治(力士)
- 竹旺山友久(力士)
- 銚子灘伝右エ門(力士)
- 藤ヶ崎矢子(女子プロレスラー)
- 田中清隆(競馬騎手)
銚子市を舞台とした作品[編集]
文学[編集]
- 『寝顔』(1914年、著者:舟橋聖一) - 最終部分で、ヒロイン菊羽宇ね子が年下の愛人、新宮修一と逃避行をする舞台として銚子が登場。犬吠埼灯台、君ヶ浜、海鹿島、飯沼観音、暁鷄館等が描かれる。
- 『裸者と死者』(1948年、著者:ノーマン・メイラー) - 発表と同時に全米で大ベストセラーとなり、世界的にも又大きな反響をまき起こした作品。作品中の日系少尉イシマルの生まれ故郷を銚子として、その幼年時代の思い出を描く。
- 『The paper house 』(1952年、著者:ノーマン・メイラー) - 『裸者と死者』発表後の短編。太平洋戦争に従軍していたノーマン・メイラーが、終戦後銚子に駐屯していた時に見た松林、海、漁師町等が描写される。
- 『死んだ海』(1952年、作・演出:村山知義) - 漁師町外川を舞台に、米軍の射撃演習その他で不漁に悩む漁民の苦しみを描く戯曲。漁民と網元の矛盾対立、補償金をめぐる政治的動き等を庶民生活の緻密な描写を通して浮かび上がらせる。
- 『砂漠の花』(1957年、著者:平林たい子) - 平林たい子が女学校を卒業後上京してから小堀甚二と離婚する直前までを扱った、「主婦の友」連載の長編自伝小説。彼女が文学仲間と流浪の日々を送った大正末期の銚子の情景が描写される。
- 『燈台への道』(1965年、著者:田山花袋) - 犬吠埼を舞台に会社の金を遣い込んだ銀行員とその愛人との情死を描いた作品。作品中には石切場・水明楼・汽車(銚子遊覧鉄道)・松原等、灯台周辺の風景描写を巧みに織りまぜている。
- 『胡蝶の夢』(1979年、著者:司馬遼太郎) - 幕末に銚子で開業していた医師関寛斎らを主人公にした医学史物語。寛斎を支えたヤマサ醤油7代目当主濱口梧陵も登場する。
- 『かずら野』(2001年、著者:乙川優三郎) - 流浪の果てに銚子へと流れ着いた夫婦が、この地で離別するまでを描く時代小説。
- 『むこうだんばら亭』(2005年、著者:乙川優三郎) - 鰯や醤油で賑わう江戸期の銚子を舞台に、酒場「いなさ屋」に集う銚子の人々の逞しく生きる姿を描く連作短編集。
- 『十津川警部銚子電鉄六.四キロの追跡』(2010年、著者:西村京太郎) - 犬吠埼灯台崖下と東京都内のホテルの2つの場所で起きた殺人事件の真相に迫る旅情ミステリー。
- 『トモシビ-銚子電鉄の小さな奇蹟-』(2015年、著者:吉野翠) - 銚子電鉄を舞台に、歴史を知る老人、淡い恋心を抱く女子高生、倦怠期を迎えた夫婦、夢を追う青年等、乗客それぞれの人生を描いた連作短編集。
- 『十津川警部わが愛する犬吠の海』(2016年、著者:西村京太郎) - 犬吠埼や銚子電鉄を舞台に殺人事件の背後にある哀切のドラマを描く。
楽曲[編集]
君ヶ浜の風景を詠んだ歌人は多いが、ポップスの歌詞のモチーフにもされている。
MV撮影[編集]
屏風ヶ浦では、多数のプロモーション用ミュージックビデオが撮影されている。
- 『ゲンキダシテ』(1997年、大黒摩季)
- 『雨のMelody』(1999年、KinKi Kids)
- 『PARTNERSHIP』(2000年、松任谷由実) - 屏風ヶ浦下の堤防を走っている。
- 『Purple The Orion』(2001年、DA PUMP)
- 『YAMATO』(2005年、長渕剛)
- 『君の知らない物語』(2009年、supercell) - 他に銚子電鉄、犬吠埼灯台等も撮影されている。
映画[編集]
- 東映映画全般オープニング映像『荒磯に波』(1955年 - ) - 東映ロゴでお馴染みの激しい白波は、厳寒期の犬吠埼の岩場で撮影された。
- 『トラック野郎・故郷特急便』(1979年)
- 『こんにちはハーネス』(1983年 、監督:後藤俊夫、主演:中村明美) - 視力を失う女子大生と盲導犬を育てる少年との交流を描く。君ヶ浜の松林を散歩するシーンがある。
- 『ジョゼと虎と魚たち』(2003年 、監督:犬童一心、主演:妻夫木聡) - 劇中、恒夫とジョゼがデートで立ち寄った海岸等。
- 『彩恋 SAI-REN』(2007年、監督:飯塚健、主演:関めぐみ) - 銚子に住む3人の女子高生の恋愛模様を描く。
- 『恋する日曜日 私。恋した』(2007年、監督:廣木隆一、主演:堀北真希)
- 『トモシビ 銚子電鉄6.4kmの軌跡』(2017年、監督:杉山泰一、主演:松風理咲) ‐ 吉野翠の短編小説集『トモシビ 銚子電鉄の小さな奇蹟』を映画化。
テレビドラマ[編集]
- 『港町純情シネマ』(1980年、TBS、主演:西田敏行) - 漁師町・外川の映画館を舞台にしたテレビドラマ。脚本の市川森一はこの作品で、芸術選奨文部大臣新人賞を受賞。
- 『澪つくし』(1985年、NHK連続テレビ小説、脚本:ジェームス三木、主演:沢口靖子) - 醤油醸造業を営む旧家(ヒゲタ醤油がモデル)の娘と漁師の網元の長男との純愛を描いた。高視聴率を記録し、ヒロインを務めた沢口靖子の出世作となった。
- 『ライスカレー』(1986年、フジテレビ系列テレビドラマ。脚本:倉本聰、主演:時任三郎、陣内孝則) - 甲子園にも出場した銚子工業高校(銚子商業高校がモデル)の野球部卒業生仲間がライスカレー店の開業を目指してカナダへ渡る。
- 『このまちだいすき 第一シリーズ・シラベル編』(1992年4月 - 1994年3月、NHK教育テレビ、主演:東善智) - 小学校社会科第3学年用の学校放送番組。銚子市の紹介に貢献したことで、番組の「シラベル」に対し市から感謝状が贈られた。
- 『コーチ』(1996年、フジテレビ系列、主演:浅野温子、玉置浩二) - 缶詰のヒット商品「サバカレー」は、この番組から生まれた。主題歌「田園」は玉置浩二のソロ曲としては最大のヒット作となっている。
- 『さわやか3組』(2002年4月 - 2003年3月、NHK教育テレビ、出演:丸茂逸朗、池田恭祐、貞方徹、三尾玲央奈、山田さくや、大谷英莉)- 小学生向け教育番組。
- 『ラスト・フレンズ』(2008年、フジテレビ系列、主演:長澤まさみ、上野樹里) - 長澤演じる「藍田 美知留(あいだ みちる)」が身を寄せる街。
- 『志村&所の戦うお正月2013』バラエティ番組。2013年1月1日放送の「ペーパードライバー対決」で登場。
アニメ[編集]
- 『アマガミSS』(2010年、TBS系列)、『アマガミSS+ plus』(2012年、TBS系列) - 作品舞台は架空の街「輝日東(きびと)」であり、公式には案内されていないが、銚子市内の風景や実在施設をモデルとした背景画が度々登場する。一例として、主人公達が通う「輝日東高校」校舎は、銚子市立銚子高等学校を作画モデルとしている。
- 『セイレン』(2017年、TBS系列) - 「輝日東高校」は『アマガミ』に登場した高等学校。前作から9年が経過しているが、校舎の外観や敷地内の風景などはほとんど変わっていない。
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
- ^ 銚子ジオパーク推進協議会(2019年9月1日閲覧)
- ^ 水産経済新聞社. “銚子が6年連続1位、28年主要漁港水揚げランキング” (日本語). 日刊水産経済新聞. 2019年2月13日閲覧。
- ^ “金沢の名産品 大野醤油は「うまくちしょうゆ」”. 粟長醤油. 2015年2月26日閲覧。
- ^ “【千葉聞き歩き】魅力度順位に思う”. 産経新聞. 2022年5月13日閲覧。
- ^ “市制施行80周年記念事業”. 銚子市. 2021年7月31日閲覧。
- ^ “asahi.com(朝日新聞社):「初日の出が見たい」 犬吠埼周辺に5万人 - 列島冬景色”. www.asahi.com. 2019年6月12日閲覧。
- ^ “犬吠埼灯台”. 銚子マリーナ. 2022年2月20日閲覧。
- ^ “夏を彩る大イベント!銚子みなとまつり花火大会が開催されます”. 銚子市. 2022年2月20日閲覧。
- ^ “犬吠埼灯台”. 公益社団法人燈光会. 2021年7月31日閲覧。
- ^ “銚子ジオパーク”. 銚子ジオパーク. 2021年7月31日閲覧。
- ^ “銚子市の記念物”. 千葉県. 2021年7月31日閲覧。
- ^ “北総四都市江戸紀行”. 千葉県. 2021年7月31日閲覧。
- ^ “銚子文学碑案内”. 銚子市. 2022年2月20日閲覧。
- ^ “銚子の農産物”. 銚子観光協会. 2021年7月31日閲覧。
- ^ “銚子市の「ゼロカーボンシティ銚子」にLooopと銚子電力が連携”. Looop. 2022年7月20日閲覧。
- ^ 東電、銚子沖で最大37万キロワットの風力発電計画日本経済新聞ニュースサイト(2019年8月29日)2019年9月1日閲覧。
- ^ “平年値ダウンロード”. 気象庁. 2021年6月閲覧。
- ^ “観測史上1〜10位の値(年間を通じての値)”. 気象庁. 2021年6月閲覧。
- ^ “空色Walk ~坂東三十三ヶ所:飯沼山 円福寺~”. sorairowalk.web.fc2.com. 2019年3月4日閲覧。
- ^ 千葉県. “09.利根川水運と醤油・味醂生産” (日本語). 千葉県. 2019年3月4日閲覧。
- ^ “【戦後70年 千葉の出来事】銚子漁港・利根川河口の海難(上)”. 『産経新聞』 (2015年7月31日). 2015年8月3日閲覧。
- ^ “濱口吉兵衛の銅像”. 銚子市観光協会. 2012年1月8日閲覧。
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関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 行政
- 観光
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