伏見稲荷大社

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
伏見稲荷大社
KyotoFushimiInariLarge.jpg
千本鳥居
所在地 京都市伏見区深草藪之内町68
位置 北緯34度58分01秒
東経135度46分23秒
座標: 北緯34度58分01秒 東経135度46分23秒
主祭神 稲荷大神
宇迦之御魂大神ほか4柱の総称)
神体 稲荷山(神体山
社格 式内社名神大
二十二社(上七社)
官幣大社
創建 和銅年間(708年-715年
本殿の様式 流造
札所等 神仏霊場巡拝の道123番(京都43番)
例祭 5月3日
地図
伏見稲荷大社の位置(京都市内)
伏見稲荷大社
伏見稲荷大社
テンプレートを表示

地理院地図 Googleマップ 伏見稲荷大社

伏見稲荷大社(ふしみいなりたいしゃ)は京都市伏見区にある神社。旧称は稲荷神社式内社名神大社)、二十二社(上七社)の一社。旧社格官幣大社で、現在は神社本庁に属さない単立神社稲荷山の麓に本殿があり、稲荷山全体を神域とする。

全国に約3万社あるといわれる[1]稲荷神社の総本社である。初詣では近畿地方の社寺で最多の参拝者を集める(日本国内第4位〔2010年〕)[2]。現存する旧社家は大西家。

祭神[編集]

祭神は以下の五柱。これらの神々は稲荷大神の広大な神徳の神名化とされている[3][注 1]

主祭神である[4]宇迦之御魂大神を中央の下社、佐田彦大神を中社、大宮能売大神を上社に据え、明応8年(1499年)に本殿に合祀された左右の摂社、田中大神・四大神とともに、五柱の神を一宇相殿(一つの社殿に合祀する形)に祀っている[3]

  • 宇迦之御魂大神 (うかのみたまのおおかみ) - 下社(中央座)
  • 佐田彦大神 (さたひこのおおかみ)- 中社(北座)
  • 大宮能売大神(おおみやのめのおおかみ) - 上社(南座)
  • 田中大神(たなかのおおかみ) - 下社摂社(最北座)
  • 四大神 (しのおおかみ) - 中社摂社(最南座)

稲荷神は元来、五穀豊穣を司る神であったが、時代が下って、商売繁昌・産業興隆・家内安全・交通安全・芸能上達の守護神としても信仰されるようになった[5]

歴史[編集]

「秦氏の祖霊として創建」の縁起[編集]

「イナリ」の縁起としては『山城国風土記』にあったとされるものが有名である。

風土記に曰はく、伊奈利と稱ふは、秦中家忌寸(はたのなかつへのいみき)等が遠つ祖、伊侶具の秦公、稻粱(いね)を積みて富み裕(さきは)ひき。乃ち、餅を用ちて的と為ししかば、白き鳥と化成りて飛び翔りて山の峯に居り、伊禰奈利(いねなり)生ひき。遂に社の名と為しき。其の苗裔(すゑ)に至り、先の過ちを悔いて、社の木を抜(ねこ)じて、家に殖ゑて祷(の)み祭りき。今、其の木を殖ゑて蘇きば福(さきはひ)を得、其の木を殖ゑて枯れば福あらず。[注 2] — 逸文『山城国風土記』
(大意)風土記にはこうある。イナリは秦中家忌寸[注 3]などの遠い祖先の秦氏族「伊侶具」は、稲作で裕福だった。ところが餅を使って的として矢を射ったところ、餅が白鳥に代わって飛び立ち、この山に降りて稲が成ったのでこれを社名とした。後になって子孫はその過ちを悔いて社の木を抜き家に植えて祭った。いまでは、木を植えて根付けば福が来て、根付かなければ福が来ないという。

この秦氏について、もともと山城国紀伊郡深草近辺に在住していたことが見え(「秦大津父」『日本書紀』欽明紀)、また、

秦公、賀茂建角身命二十四世賀茂県主、久治良ノ末子和銅4年2月壬午[注 4]、稲荷明神鎮座ノ時禰宜トナル、天平神護元年8月8日卒[6] — 『稲荷社神主家大西(秦)氏系図』

とあり、秦氏と賀茂神社との関連や、秦氏が和銅年間に稲荷社の社家となったことを伝えている。社伝には、当時に全国的な天候不順で作物の不順が続いたが、勅使を名山大川に遣し祈請すると加護があって山背国の稲荷山に大神を祀ると、五穀が稔って国が富んだ[6]、とも伝えている。

以降、『延喜式神名帳』には「山城国紀伊郡 稲荷神社三座 並名神大 月次・新甞」と記載され、名神大社に列し月次新甞の幣帛を受けた。

なお、この木を植える伝承は験(しるし)の杉として現代にも伝わっている。

「弘法大師が出会った竜頭太」の縁起[編集]

稲荷大明神流記[注 5]などにはこうある。

稲荷大明神流記 眞雅記云ゝ

弘仁七年孟夏之比。大和尚斗藪之時於紀州田邊宿遇異相老翁。其長八尺許骨高筋太内大權氣外示凡夫相。 見和尚快語曰「吾有神道聖在威徳也。方今菩薩到此所弟子幸也」。和尚曰「於霊山面拝之時、誓約未忘此主他生、形異心同。 予有秘教紹隆之願。神在仏法擁護之誓、諸共弘法利生、同遊覚台。 夫帝都坤角九條一坊、有一大伽藍、号東寺。為鎮護国家、可興密教霊場也。必々奉待々々而巳」。 化人曰「必参会」。守和尚之淘[注 6]命等云々。 同十四年正月十九日。和尚忝賜東寺。為密教道場也、因之請来法文曼荼羅道具等、悉納大経蔵畢。 其後同四月十三日、彼紀州之化人来。 臨東寺南門。荷稲提椙葉、率両女二子矣。和尚歓喜、授与法味、道俗帰敬、備飯献果。 爾後暫寄宿二階柴守、其間点当寺杣山。定利生勝地。 一七ヶ日夜之間、依淘[注 6]鎮壇法示荘厳。 額然而円現矣、為後生記綱目耳。

— 『稲荷大明神流記』
(大意)弘仁7年(816年)4月頃、紀州国熊野で修行中の空海(弘法大師)は田辺の宿で常人とは思えない老翁に出会った。身の丈は八尺[注 7]、立派な体躯で威厳が感じられるが、それを表に出さない顔立ちだった。その老人は空海に会えたことを喜んで語った。「自分は(以前そなたに会ったことのある)神である。そなたには威徳がある。私とともに修行して弟子となるがよい」空海は答えた。「霊山であなたに会った時の約束は、たとえ見かけが変わろうと心は同じであり、まだ忘れていません。私は密教を広めたいという願いが有ります。あなたには仏法でそれを守ってくださるようお願いします。京の都の西南の方角の九条というところに東寺という大伽藍があります。ここで私は国家を護るための密教を興すのです。この寺でお待ちしておりますので、必ずお越しください」。睦まじく語らい合って約束を交わした。
弘仁14年(823年)正月19日、空海は東寺を賜って道場を開くため法文や曼荼羅、道具等を運び、経蔵を納めて真言の道場とした。この年の4月13日、紀州の神が東寺の南門にやってきた。神は椙(すぎ)の葉を持ち稲を担ぎ、2人の婦人と2人の子供を連れていた。空海は大喜びで崇敬の心で一行を食事や菓子でもてなし、周りもこれに倣った。しばらく一行は八条二階の柴守(しばのかみ)の家に留まり、その間に空海は東寺の杣(すぎ)山に17日間祈祷して神に鎮まっていただいた。この事が現在まで伝わる由縁となっている。

また、東寺に伝わる『稲荷大明神縁起』[注 8]では

或記伝、古来伝伝、竜頭太は、和同年中より以来、既に百年に及ぶまで、当山麓にいほりを結て、昼は田を耕し、夜は薪をこるを業とす。其の面竜の如し。顔の上に光ありて、夜を照らす事昼に似り、人是を竜頭太と名く。其の姓を荷田氏と云ふ。稲を荷ける故なり。而に弘仁の比に哉、弘法大師此山をとして難業苦業し給けるに、彼翁来て申し曰く。我は是当所の山神也。仏法を護持すべき誓願あり。願くは大徳常に真密の口味を受け給ふべし。然者愚老忽に応化の威光を耀て、長く垂述の霊地をかざりて、鎮に弘法の練宇を守るべしと。大師服膺せしめ給ひて、深く敬を致し給ふ。是以其面顔を写して、彼の神体とす。種々の利物連々に断絶する事なし。彼の大師御作の面は当社の竃戸殿に案置せらる。 — 『稲荷大明神縁起』
(大意)ある書物では、100年の昔の和銅年間から竜頭太という者が稲荷山の麓に家を構えて住んでおり、昼は田を耕し、夜は山に入って薪を求める仕事をしていた。その顔は龍のようだった。頭の上に光放つものがあり夜でも昼のように明るかった。姓は荷田、名は竜頭太といった。これは稲を背負っていたからという。(中略)空海はその顔を面に写し神体として祀り、それからは収穫が絶えることがなくなった。この面は東寺の竃戸殿に祀ってある。

とあり、当時伏見稲荷大社の社家であった荷田氏の出自を述べていて、社家が秦氏の出身としている。社家の荷田氏は、「和銅年中、初めて伊奈利三ヶ峰の平処に顕坐してより、この神は、秦氏人等が禰宜として春秋の祭りに仕えた」[7][8]。伝統的な社家には、この秦氏を出自とする荷田氏、西大路氏、大西氏、森氏などがいる。なお、東寺が空海(弘法大師)作という面を竃戸殿に置いた由来についてここでは述べられていない。

この当初の伊奈利(稲生、稲成:「いねなり」が由来とも)が「稲荷」と表記されるのはこれらの縁起からである。

平安期の隆盛[編集]

天長4年(827年)、淳和天皇が病に倒れたため占わせたところ、東寺の塔を建てるために稲荷山の樹を伐ったことの祟りであることがわかり大中臣雄良が派遣され、それまで秦氏の私社であった稲荷大神に初めて従五位下の神階が下賜された。以来、京の人々から巽の福神(東南方向の福の神)との崇敬を集めた。現在の東寺との関係はここに端緒があるとする。社では稲荷山に明神が鎮座した和銅4年2月壬午を記念日として初午大祭を興し、稲荷祭もこの頃から始まったとされている。稲荷祭は神幸祭(稲荷のお出で)が、旧暦3月中のの日に、還幸祭(稲荷のお旅)が旧暦4月上のの日、と定められいた[9]

延喜8年(908年)には藤原時平の寄進により社殿が造営され、延長5年(927年)の『延喜式神明帳』には名神大社、また二十二社の上七社に列し、天慶5年(942年)に正一位が授けられた[10]。当時は伊勢神宮は天皇以外の参拝が禁止されており[注 9]、京からも近い当社が多くの参詣者を集めるようになった。平安時代の隆盛が『今昔物語』などにも見え、『枕草子』は初午に7度も詣でる元気な女性がいて羨ましかった、とある[11]。こうして稲荷祭は下鴨葵祭八坂祇園祭とならぶ人気を博したという[10]延久4年(1072年)、後三条天皇が初となる行幸があった。神社ごとに勅使を送る奉幣では久安6年(1150年)の左大臣藤原頼長が初めてである[10]

鎌倉時代に進んだ神仏習合[編集]

しかし、山城国風土記よりも後の鎌倉時代の成立とみられる『年中行事秘抄』[12]では、「くだんの社、立ち初めの由、たしかなる所見無し」とあり、確かな由緒は不確かだとしている。

この頃になると、神仏習合が進み、神社の祭神にも本地仏が解釈されるようになる。また、それまで三座だった祭神が五座となる。前出の『稲荷大明神流記』には、

  • 一、大明神。本地十一面。(上御前是也)
  • 二、中御前。本地千手。(大明神之当御前也)
  • 三、大多羅之女。本地如意輪。(下御前是也。大明神之前御前也)
  • 四、四大神。本地毘沙門。(中御前御子。即同宿中御前)
  • 五、田中。本地不動。(先腹大多羅之女郎子也)

とある。

このような仏教系の伝承に、後に伏見稲荷の眷属とされるに関する伝承が現れている。

時は平安初期の弘仁年間(810年824年)のこと、平安京の北郊、船岡山の麓に、全身に銀の針を並べ立てたような年老いた白狐の夫婦が棲んだ。夫婦は心根が善良で、常々世のため人のために尽くしたいと願っていたが、狐という畜生の身であっては、願いを果たすべくもない。そこで、夫婦は意を決し、五匹の子狐を伴って稲荷山に参拝し祈った。  「今日より当社の御眷属となりて神威をかり、この願いを果たさん」 すると、たちまち神壇が鳴動し、稲荷神の厳かな託宣がくだった。 「そなたたちの願いを聞き許す。されば、今より長く当社の仕者となりて、参詣の人、信仰の輩を扶け憐むべし」 明神からは男狐はオススキ、女狐はアコマチという名を授けられたという。[13]

— 真雅[注 10]『稲荷流記』他

縁起にある竜頭太は自ら稲荷神を名乗り、「その顔は龍のようだった。頭の上に光放つものがあり夜でも昼のように明るかった。」とあり、これは後光を背した羅刹天を想起させ、また中国から派生したと思われる狐に関する寓話(「九尾の狐」や「玉藻前」など)から、次第に仏の像容を白狐にまたがる女天形と解釈して、日本独自の形容を持った荼枳尼天を併せた。由来についても様々に解釈や説話がある。

実は、これらの説話は、先の東寺を開いた空海の縁起と合わせ、平安時代初期の説話が、鎌倉時代から室町時代初期の頃に世に広まりはじめてきていることには留意すべきである。空海の興した真言密教はこの頃には熊野の修験道とともにすでに広く認知されていたが、同じく隆盛した比叡山の天台宗の密教とは内容が異なるとして、「台密」が京の鎮守であったのに対して「東密」はこの時代以降に「経王護国寺」の名を称するようになる(「密教」の項を参照)。護国として実際に帰依した天皇や皇族が多く、増えすぎた貴族が没落して都落ちし、緩みはじめた律令を背景に郡司郷司として、後には守護地頭などとして荘園地主となり、武家を興したり擁したりして台頭し始める時期にあたる。これ呼応するように全国に熊野社や稲荷社が勧請されて急速に広まった時期にもあたる。これらの説話はを通して武士や作人といった民衆にも広まり、祖霊の塚に稲荷社を建てたり[注 11]眷属である狐を併せていくことになる。

応仁の乱[編集]

この頃、地方領主や軍事貴族からの荘園の寄進の倣いが起こり[注 12]、有力となった寺社が独自の僧兵神人を持つようなると武家同士や寺社同士の争いに巻き込まれるようになる。社家一族のうち、羽倉氏はこの頃、南北朝の混乱時に荷田氏を仮冒して社家を継いだことが疑われている[14]が、江戸期の国学の大家である荷田春満はこの氏族から出ている。

永享10年(1438年)、後花園天皇の勅命で、室町幕府6代将軍足利義教により、それまで山頂にあった稲荷の祠を山麓に移した、とする伝承が藤森神社に伝わっている。これによると、現在社地となっている稲荷山麓の当地に天平宝字3年(759年[注 13]から藤尾社という舎人親王、その父の天武天皇を祀る神社があったが、これを稲荷社地にするために藤尾社を南にある藤森神社境内の東殿へ遷座した[15]、現在の藤森にあった真幡寸神社を藤森から西に移した(現在の城南宮)、という。つまりそれまで稲荷社は稲荷山を中心とした修験の場のみであったことになるが、史料に乏しい[注 14]

応仁の乱の最中の応仁2年(1468年)、稲荷山は細川氏側の軍勢の陣地となるが、山名氏側の攻撃を受けて敗退した際、稲荷社も山上の建物を含めてすべて焼きつくされることとなった。

勧進による復興[編集]

応仁の乱の戦渦は甚大であり、文明18年(1486年)に起きた土一揆では伏見稲荷大社の神宮寺の役割を果たしていた東寺の伽藍も焼失[16]、終戦後は稲荷祭でさえ執り行えなかった年があったという。そこで伏見稲荷本願所に真言宗東寺末寺であった愛染寺を改めて神宮寺とし、稲荷山では仏教系の稲荷として荼吉尼天も礼拝され[17]、また愛染寺が伏見稲荷大社の社殿造営や修復、勧進出開帳を管理、円阿弥によって諸国勧進も進められた。このころの勧進とは、寺社造営のために寄進を募ることだった。伏見桃山城を築城した豊臣秀吉は、天正16年(1588年)、母の大政所の平癒を祈願、成就したことから大規模な寄進を行い、現在の楼門はその折の建立という[18]

商人に人気となる江戸時代[編集]

戦国時代を経て江戸幕府を開いた徳川宗家浄土宗に帰依し、幕僚として仕えた天海天台宗の僧であり、稲荷神の崇敬は朝廷の他、専ら町人や商人によって行われた[19]。特に活発となった商いの成功(結願)を祈る商人には人気があった。狐が棲む穴ぐらを見つけては稲荷神を勧請する者まで現れる。併せて、勧請された稲荷神社に「正一位」を冠するものが出てくるのもこの頃である。これは徳川家康が死後東照宮へ神格化されて正一位を追贈されたように朝廷が認める神格の最高格[注 15]を意味し、奉行所から当社へ名の使用について問い合わせがあったことも記されている[注 16][13]。そして結願の礼として本社に赤い鳥居を奉納する習慣が広まり、膨大な千本鳥居を形成するに至るのである。

現在伏見稲荷大社の楼門内に、江戸時代に社家から出た国学の大家・荷田春満の旧宅が保存されている。隣設して荷田春満を祭神とする東丸神社(あずままろじんじゃ)があるが、この神社は旧宅の一角に建てられているため、伏見稲荷大社の摂末社ではなく独立した神社である。明治36年(1903年)に規模の割に高い社格の府社に列し、学問の神として信仰されている。

明治の廃仏毀釈から現在まで[編集]

慶応4年(=明治元年、1868年)の鳥羽・伏見の戦いでは再び戦場となりかけたが、幕府軍は早々に戦闘行為を諦めて大坂に退却したため、稲荷社の被害はほとんどなかった。しかし、同年の神仏分離廃仏毀釈によって愛染寺や社内の仏殿、本殿内の仏像類は廃された。文化財の保存の点では戦禍よりも神仏分離のほうが影響は大きかったわけである。ただし、祭礼時の東寺神供だけは現在も残っている[20]。また、明治政府は稲荷社から領地をすべて召し上げ、境内地も4分の1に減らされた。

明治4年(1871年)には近代社格制度のもとで官幣大社に列格するとともに正式社名を「稲荷神社」とし「官幣大社稲荷神社」となった。

戦後の昭和21年(1946年)に近代社格制度の廃止に伴い宗教法人化したが、神社本庁とは独立した単立宗教法人となった。これは神社本庁が伊勢神宮本宗とするのに対し大社側として別の見解を取ったためで、神社本庁との関係は良好である。宗教法人化とともに社名を「伏見稲荷大社」と改称したが、これは近代社格制度の廃止に伴い、そのままでは社名が単に「稲荷神社」となり、他の多くの稲荷神社と混同することを避けるためである。

境内[編集]

表参道の一番鳥居から楼門、外拝殿(舞殿)、内拝殿、本殿が一直線に並ぶ。本殿の背後に、斎場と千本鳥居から続く稲荷山の神蹟群がある。千本鳥居は約一万基あると言われる[21]

  • 御茶屋 - 楼門の脇奥にある。17世紀初建造で国の重要文化財に指定

稲荷山[編集]

奥社奉拝所(通称:奥の院)

神体山である稲荷山は、東山三十六峰の最南端に位置し、標高233m。3つの(一ノ峰、二ノ峰、三ノ峰)が連なるが、かつては古墳で、それぞれに円墳が確認されている。三ノ峰からは二神二獣鏡が出土している[22]。この山々「お山」を中世には「下ノ塚」「中ノ塚」「上ノ塚」と呼び、奥社奉拝所の先にある山々を巡拝できる参道には、そこかしこに人々が石碑に「白狐大神」や「白龍大神」などの神名を刻んで祀られた無数の小さな祠(その数、1万基、あるいはそれ以上とも言われる)の「お塚」が奉納されており、「お塚信仰」と呼ばれている。

参拝者の中には、石碑の前にひざまづいて「般若心経」や「稲荷心経」などを唱えている人もおり、日本で神仏分離が行われる前の信仰(神仏習合を参照)が今でも保たれているのを見ることができる[23]。奥社奉拝所の奥に「おもかる石」という石がある。この石は試し石のひとつで、願いを念じて持ち上げた時、重さが予想していたより軽ければ願いが叶い、重ければその願いは叶わないといわれている。

また稲荷山には信者から奉納された約1万基の鳥居があり、特に千本鳥居と呼ばれる所は狭い間隔で多数建てられ名所となっている。鳥居を奉納する習わしは江戸時代に始まった。

応仁の乱で焼失する前は稲荷山の山中にお社があったが、再建はされず現在は神蹟地として残っている。明治時代に以下の七神蹟地を確定し、親塚が建てられた。お塚は、その周りを取り囲む形となっている。親塚の神名が本殿に祀られる五柱の神名とは異なるが古くからそういう名前で伝わっているとされ、理由は定かではない。

七神蹟地、およびその親塚にある神名
  • 一ノ峰(上之社神蹟) - 末広大神
  • 二ノ峰(中之社神蹟) - 青木大神
  • 三ノ峰(下之社神蹟) - 白菊大神
  • 荒神峰(田中社神蹟) - 権太夫大神
  • 間ノ峰(荷田社神蹟) - 伊勢大神
  • 御膳谷遙拝所 - 往古に三ヶ峰に神供をした所と伝えられている
  • 釼石(長者社神蹟) - 社殿の後ろに御神体の剱石があり長者社には加茂玉依姫(かもたまよりひめ)を祀る

末社[編集]

稲荷山 中腹
  • 上之社神蹟 - 末廣大神
  • 白狐社 - 稲荷大神の眷属を祀る
  • 産婆稲荷 - 産婆大明神
  • 熊鷹社 - 熊鷹大神
  • 玉山稲荷社 - 玉山稲荷大神
稲荷山 山頂付近
  • 田中社 - 田中大神
  • 大杉社 - 大杉大神、磐根大神
  • 眼力社 - 眼力大神、石宮大神、常吉大神
  • 傘杉社 - 傘杉大神
  • 薬力社 - 薬力大神
  • 長者社 - 加茂玉依姫
  • 上社神蹟 - 大宮能売大神、末廣大神
  • 大岩大神
  • 中社神蹟 - 猿田彦、青木大神
  • 荷田社御神蹟 - 伊勢大神
  • 下社神蹟 - 宇迦之御魂

主な祭事[編集]

出発を待つ五基の神輿
  • 大山祭 (1月5日)
    • 本殿の儀
      御饌石の上に供物を捧げたという故事に基づく。
    • 山上の儀(御膳谷祈祷殿)
      斎土器に中汲酒を盛ったものを御饌石に供えて、五穀豊穣と家業繁栄を祈る。
  • 初午大祭(はつうまたいさい) (2月初午の日)
    稲荷大神が稲荷山の三ヶ峰に初めて鎮座した和銅4年2月の初午の日をしのび、大神の神威を仰ぐ祭
  • 稲荷祭 (4月20日最寄の日曜-5月3日)
    平安時代に起源を持つ祭りで4月20日最寄の日曜の「神幸祭」、4月下旬の「区内巡幸」、5月3日の「還幸祭」まで氏子地域の御旅所に神輿が置かれる。
  • 田植祭(6月10日)
    神前に捧げられる料米の稲苗を神田へ植える祭で、「御田舞」が演奏される中、早乙女らによって田植が行われる。
  • 本宮祭(もとみやさい) (7月土用入り後の最初の日曜または祝日)
    前日の宵宮には境内の提灯や灯籠に一斉に灯を入れる万灯神事が行われる。
  • 講員大祭(10月体育の日の前々日・前日)
    伏見稲荷大社の神徳を広く宣揚し、全国の講員が参拝して神恩に奉賽するとともに、家内安全・生業繁栄を祈願する祭。
  • 火焚祭(ひたきさい) (11月8日)
    「おひたきまつり」とも言われ、社前に火を焚く神事。伏見稲荷大社では丁度初午に相対するものであるとしている。
  • 大祓式(12月31日)
    「師走の大祓」と称され、後半年の罪穢れを祓い、形代を河海に流して新年を迎える行事。

その他にも四季を通じて祭礼・神事が執り行われている。

しるしの杉[編集]

平安時代後期に熊野詣が盛んになると、京の公家や民衆は参詣の途中で伏見稲荷に立ち寄り、縁起に因む杉木の枝を頂いて身体につけることが流行した(『為房卿記』など)。『平治物語』でも平清盛が急な六波羅への警備にも「先ず稲荷の杜にまいり、各々杉の枝を折って、鎧の袖にさして(略)」とある。初午参詣で皆が杉木の枝をとっていくので稲荷山の杉はすっかり葉がなくなった」と詠んだ藤原光俊の歌が残っている。

文化財[編集]

重要文化財(国指定)[編集]

  • 伏見稲荷大社(8棟)
    • 本殿 - 五間社流造、檜皮葺き、明応3年(1494年)建立
    • 権殿 - 五間社流造、寛永12年(1635年)建立
    • 外拝殿(げはいでん)
    • 楼門 - 天正17年(1589年)再建
    • 南廻廊
    • 北廻廊
    • 奥宮
    • 白狐社
    • (附指定)両宮社、五社相殿、荷田社、長者社、藤尾社、熊野社
    • (附指定)城州稲荷社御修復御入用金高目録帳 9冊
  • 御茶屋 - 後水尾上皇より下賜され、仙洞御所から移築

拝観[編集]

24時間稲荷山を含む境内に入り参拝できる。拝観料の類はなく無料で参拝できる。ただしお守りなどを販売する「授与所」は、7:00~18:00頃のみにしか開いていない。稲荷山の茶屋等の営業時間や休日はそれぞれ異なる。

参集殿[編集]

境内駐車場脇に伏見稲荷大社が経営する宿泊施設である「参集殿」があり、設備はかなり古いが比較的安価で宿泊できる。ここに宿泊して夜の稲荷山を体験する観光客も増えている。また、日中は食堂を営業している。玄関ロビーにはコインロッカーがあり、JR駅よりも安い値段で利用できる。

外国人観光客の増加[編集]

近年は外国人観光客からも観光地として人気があり、トリップアドバイザーによる2013年の「外国人に人気の日本の観光スポット」調査では2位を、2014年の調査では広島平和記念資料館を抜いて1位を獲得し、2015年も連続で1位となっている[24]。これは、駅のごく近くに赤い鳥居が続く風景が非常に日本的な上、拝観料不要で閉門時間が無いことも理由であり、稲荷山のお山巡りで欧米人が好むウォーキングができることも高評価の理由とされる。平日は多くの日で外国人観光客の方が日本人よりも多くなっており、夕暮れのあとも稲荷山に登る外国人が多くなっている。なお、本殿付近はもちろんライトアップされており、稲荷山への参道も脇道以外は全区間で照明が1晩中点灯されている。

現地情報[編集]

所在地
交通アクセス

鉄道

バス

  • 京都駅及び竹田駅を結ぶ京都市営バス南5系統・急行105系統で「稲荷大社前」バス停下車 - 日中は1時間に2本ずつ、計4本運転されている。それでもピーク時期は、時間帯により積み残しが出ることもある。徒歩10分ほど西に行った国道24号線(竹田街道)の勧進橋バス停も利用でき、ここは20分おきに京都市営バス81系統が運転されているため、稲荷大社前バス停には勧進橋バス停も利用できる旨の案内がある。

自動車

  • 駐車場:表参道から入って参集殿の前の境内駐車場に普通車が停められるが、初詣の期間や祭事の日など、使用できない時もある。境内駐車場は使用可能日は24時間利用できる。伏見稲荷大社の駐車場はすべて無料である。

脚注[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ 生玉稲荷神社(名古屋市守山区)では、倉稲魂神を主祭神として、大己貴命保食神大宮能姫神太田神とともに五柱の神を稲荷五社大明神として祀るが、伏見稲荷大社と同様にこれら五柱の祭神は稲荷大神の広大な神徳の神名化としている。生玉稲荷神社 - 由緒・沿革
  2. ^ これは吉田兼倶が15世紀頃に延喜式神名帳の注記のため作成した『延喜式神名帳頭註』で書かれている山城国風土記伊奈利の社条の逸文であり、また兼倶は吉田神道の創設者でもあることから、信ぴょう性を疑問視する意見もある。また、山城風土記は編纂の始まる延長3年(925年)以前に伝わる歴史や文物を記しており、和銅年間以降の風聞も含まれる可能性はある。
  3. ^ 「忌寸」は八色の姓での位の1つ。
  4. ^ 和銅4年(711年)2月7日。なお、この縁起を伏見稲荷の創建とみる場合、和歌山県有田市(旧・糸我町)の「糸我稲荷神社」が日本最初・最古の稲荷神社となるという説がある。文化7年(1810年)当時の神官、林周防が寺社奉行に報告した「糸鹿社由緒」によると、創建は「37代孝徳天皇白雉3年(652年)壬子の春、社地を正南森に移し、糸鹿社と申す」とあり、伏見稲荷神社より約60年遡ることになる。(有田市HP 糸我稲荷神社
  5. ^ 14世紀頃の成立。
  6. ^ a b 元字は「氵+缶」。
  7. ^ およそ2m40cm。
  8. ^ 南北朝時代の成立。東寺に伝わる。
  9. ^ これを「私幣禁断」という。天皇以外の個人的な参拝を禁止し、たとえ三后皇太子であっても天皇の勅許が要った。(伊勢神宮HP 神宮の歴史・文化『私幣禁断』参照。)
  10. ^ 空海の弟子。
  11. ^ 塚の規模や由来に関わらず、稲荷社を伴い、または「稲荷」「狐」を称する古墳は全国に存在する。
  12. ^ 天皇以外の参詣を許さなかった伊勢神宮も、この頃から勧請を積極的に行っている。
  13. ^ 秦氏創建とする711年より以降、空海が遷座したとする823年より以前ということになる。
  14. ^ 勅を下した後花園天皇は、北朝持明院統の嫡系でありながら、朝廷を全て配下に置こうとした3代将軍足利義満に忌避され出家せざるを得なかった栄仁親王から始まる伏見宮家から出た初めての天皇である。さらにこの勅は将軍不在(義教は還俗して間がなく征夷大将軍は翌年に任じられている)となった僅かな間隙をついて出されている。
  15. ^ 887年の時点では伏見稲荷大社は従三位の扱いであり、秦氏と関わる賀茂神社松尾大社がすでに正一位に列していたのとは対照的である。また伊勢神宮日前神宮国懸神宮については神格を超越しているという理由で既に正一位を置いていない(→神階#六国史終了時点での神階一覧を参照)。伏見稲荷大社の正一位は前述の通り天慶5年(942年)からである
  16. ^ 建久5年(1194年)に後鳥羽院が行幸した際に「信心からの勧請には神体に正一位を書き加えるべき」としたが、江戸時代のこの問い合わせに対し大社側は「一子相伝でない勧請は迷惑」と返答したとある。(『稲荷社事実考証記』)

出典[編集]

  1. ^ 伏見稲荷大社. “よくあるご質問 - 全国に稲荷神社はどのくらいあるの?”. 2013年8月1日閲覧。
  2. ^ MAPPLE観光ガイド. “初詣の人出ランキングベスト10(1〜5位) - おすすめ初詣スポット2011”. 2011年1月19日閲覧。
  3. ^ a b 伏見稲荷大社. “伏見稲荷大社とは -ご祭神”. 2016年2月21日閲覧。
  4. ^ 稲田智宏「稲荷大神五柱とは何か」『稲荷大神』、戎光祥出版、2009年、p.52。
  5. ^ 伏見稲荷大社. “よくあるご質問 - 「お稲荷さん」のご利益は?”. 2016年3月9日閲覧。
  6. ^ a b 伏見稲荷大社. “伊奈利社ご鎮座説話”. 2016年2月1日閲覧。
  7. ^ 「稲荷社禰宜祝等甲状」(『神祗官勘文』に見る引用から)
  8. ^ 伏見稲荷大社. “沿革 - 稲荷社のあけぼの”. 2016年2月3日閲覧。
  9. ^ デジタル大辞泉『稲荷祭』。
  10. ^ a b c 伏見稲荷大社. “沿革 - 稲荷祭”. 2016年2月3日閲覧。
  11. ^ 伏見稲荷大社. “沿革 - 初午 (はつうま)”. 2016年2月3日閲覧。
  12. ^ 世界大百科事典 第2版『年中行事秘抄』。概ね永仁年間(1293年‐1299年)以前の成立とされる。ただし、この書はもともと式次第や縁起を詳述する態度をとっていない。
  13. ^ a b 伏見稲荷大社. “沿革 - 稲荷勧請”. 2016年2月21日閲覧。
  14. ^ 西田長男『神道史の研究』第2巻、p86。雄山閣、1943年
  15. ^ 藤森神社縁起”. 2016年2月21日閲覧。
  16. ^ 東寺. “東寺の歴史 戦乱の痕跡 そして炎上”. 2016年2月21日閲覧。
  17. ^ 「稲荷一流大事」(伏見稲荷本願所愛染寺初代住職の天阿上人の著作)
  18. ^ 伏見稲荷大社. “沿革 - ご本殿修造”. 2016年2月3日閲覧。
  19. ^ 東京工業大学 山室恭子共著修論 稲荷信仰から見える江戸 (PDF)
  20. ^ 伏見稲荷大社. “稲荷信仰 - 沿革”. 2011年1月19日閲覧。
  21. ^ 個々の境内が有する特異要素について 東京の神社を題材に石田兼之、法政大学大学院デザイン工学研究科紀要Vol.1、2012年
  22. ^ 丘眞奈美『京都のご利益徹底ガイド』「伏見稲荷大社」、PHP文庫。
  23. ^ 島田裕巳 『宗教常識の嘘』 朝日新聞社、2005年、p.97。ISBN 978-4023303591
  24. ^ 口コミで選ぶ 外国人に人気の日本の観光スポット 2014”. トリップアドバイザー (2014年6月4日). 2014年12月17日閲覧。

参考文献[編集]

関連項目[編集]

伏見稲荷大社関連
「伏見稲荷」を称する他の神社

外部リンク[編集]