関寛斎
関 寛斎(せき かんさい、文政13年2月18日(1830年3月12日) - 大正元年(1912年)10月15日)は、幕末から明治時代の蘭方医。
経歴[編集]
文政13年(1830年)、上総国(現在の千葉県東金市)東中の農家の子として生まれる。養父の儒家関俊輔に薫陶され、長じて佐倉順天堂に入り、佐藤泰然に蘭医学を学び、26歳の時銚子で開業。豪商濱口梧陵の支援で長崎に遊学、オランダ人医師ヨハネス・ポンペ・ファン・メーデルフォールトに最新の医学を学び、銚子を去って徳島藩蜂須賀家の典医となる。
慶応4年(1868年)1月6日、徳島藩主・蜂須賀斉裕の死を看取る[1]。
戊辰戦争(慶応4年/明治元年 - 明治2年(1868年 - 1869年))には官軍の奥羽出張病院長として、敵味方の別なく治療に当る。信ずるところあって徳島に帰り、一町医者として庶民の診療、種痘奉仕などに尽力し、「関大明神」と慕われる。
明治35年(1902年)、72歳にして一念発起し、徳島を離れ北海道に渡る。原野だった北海道陸別町の開拓事業に全財産を投入し、広大な関牧場を拓く。のちにこの土地を開放し、自作農創設を志すが果たせず、大正元年(1912年)、82歳にして服毒により自らの命を絶つ。
事績[編集]

佐藤泰然のもとで寛斎が記録した『順天堂外科実験』、ポンペに学んだ『朋百氏治療記事』『七新薬』は、当時の医学に係る第一級の資料とされる。順天堂での先駆的な種痘奉仕、梧陵が主導した銚子のコレラ防疫の成功などの体験は、若き寛斎にとって、養父から受けた儒学の素養、「人を拯い世を済す医に若くは莫し」との泰然の訓え、梧陵の「人たるの道」への導き、ポンペのヒューマニズム医療教育と相俟って、生涯の生き方の指針となったと思われる。維新に際し、官賊の別なき施療行為は赤十字精神の先駆とされ、その業績は西郷隆盛からも高く評価された。しかし「軍医総監男爵は造作もない」(徳富蘆花)立場を故あって捨て、その後30余年にわたり、徳島にあって庶民への医療と社会奉仕に力を尽くした。
彼の医学思想と実践は、その著『養生心得草』にも見られるように、養生(健康管理と予防)、運動(積極的鍛練)、医療(適切な科学的対処)の総合性を重視した、現代保健思想にも通ずるものといえる。彼の「世を済す」社会貢献は、医療を超えて維新後の旧武士たちへの救済、各戦役時の傷病兵慰問など多岐にわたった。その極は晩年、全資産を投じて理想の「農牧村落を興す」、北海道開拓事業への転身であった。やがて目指す自作農創設のため、彼は徳富蘆花を通してトルストイ主義に近づき、「平等均一の風」実現の農地解放へと向かう。しかし家族との対立などによりそれを果たせず、死を選んで波乱の生涯を閉じた。
寛斎を陸別の地まで訪ねた蘆花は、その著『みみずのたはこと』(岩波文庫版)に関寛斎の一章を設け、その人柄を偲んだ。司馬遼太郎は小説『胡蝶の夢』で、寛斎を「高貴な単純さは神に近い」と評している。彼が拓いた陸別町では、関神社を祀るなど町の開祖として顕彰されている。
関寛斎に係る主な著作・評伝など[編集]
- 徳富蘆花『みみずのたはこと』岩波文庫
- 司馬遼太郎『胡蝶の夢』新潮社、新潮文庫ほか
- 司馬遼太郎『街道をゆく15 北海道の諸道』朝日文庫ほか
- 城山三郎『人生余熱あり』光文社文庫
- 鈴木勝『関寛斎の人間像』千葉日報社出版局 1979
- 川崎巳三郎『関寛斎 蘭方医から開拓の父へ』(新日本新書)1980
- 戸石四郎『関寛斎-最後の蘭医』(三省堂選書)1982
- 米村晃多郎『野のひと 関寛斎 北の肖像』春秋社 1984
- 『関寛斎』陸別町教育委員会 1994
- 鈴木要吾編『関寛齋 伝記・関寛齋』大空社・伝記叢書 1998(1936年を復刊)
- モリテル『彩雲 関寛斎と海部花』創栄出版 2005
- 乾浩『斗満の河 関寛斎』新人物往来社 2008
- 梅村聡・長尾和宏『蘭学医・関寛斎平成に学ぶ医の魂』エピック 2011
- 高田郁『あい 永遠に在り』(角川春樹事務所 2013)- 妻のあいを主人公とした関夫婦の物語[2]リンク切れ。
- 合田一道『評伝 関寛斎』藤原書店 2020
脚注[編集]
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
http://www.pref.hokkaido.jp/kseikatu/ks-bsbsk/bunkashigen/parts/1146.htmlリンク切れ
- ^ “【第1回】 慢性期医療リレーインタビュー 梅村聡氏”. 日慢協BLOG (2012年). 2022年8月27日閲覧。