陣屋

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三日月陣屋の長屋門(復元)

陣屋(じんや)は、江戸時代幕藩体制における大名領)の藩庁が置かれた屋敷、もしくは徳川幕府直轄領遠国奉行代官の住居および役所が置かれた建物(代官所)、また江戸定府の旗本知行地を支配するための屋敷である。

また、各地域の藩がそれぞれ統治の都合上、政務のために設置した屋敷も「陣屋」と呼ぶ場合もある。例えば遠国の飛び地領の行政や、河川や港湾、森林などの管理行政のために。現地に設置された陣屋・代官所などに係の役人が置かれた。上記の大名や旗本の本拠としての「陣屋」と比べた場合、これらは規模ははるかに劣るが、広義ではこれらの建築物も「陣屋」に含まれる。

概要[編集]

一般的に3万以下のを持たない大名が陣屋を持った、また上級旗本知行地に陣屋を構えた。さらに大藩の家老の所領地である知行所政庁が置かれた屋敷も含まれる。飛地を所領に持つ大名が、現地の出張所として陣屋を設置することもあった。また、箱館奉行所長崎奉行所なども陣屋として扱われることがある。さらには幕府直轄領地である支配所に置かれた代官所を含む場合もある。領主の領地の居地をあらわす用語は、城主の居城に対して、陣屋を居地とする場合は在所という。

陣屋に藩庁を置く大名のことを無城大名あるいは陣屋大名と呼んだ。無城大名が城主格大名へ昇格した場合、国許の陣屋を城[注釈 1]に転換することは許されず、実際には城門の構築を許されるのみであった。


構造[編集]

陣屋は城郭に比べて簡略化されており、行政・居住の機能しか持ち合わせていないものが多かった。塀で囲った敷地内または外に、長屋または小屋など、各地で呼び名は異なるところはあるが部下が住まう屋敷と、中央となる役所と、奥向きである本陣が造られることが多かった。

足守陣屋の小規模な堀と石垣

旧城地や城郭のように造る場合もあり、園部陣屋菰野陣屋三重県菰野町)のように幕末(明治元年)に至って天守に見立てた隅櫓水堀、低い石垣や土塁を築いたり、森陣屋大分県玖珠町)のように隣接する神社境内に石垣を多用したり、天守に見立てた2階建ての茶屋を建てるなど、もはや城郭と呼んでもよい規模のものもあった。それらの構造物の規模は、藩の規模・陣屋の規模において様々だが、塀や堀は軍事的には無意味な、形式的なもの、例えばその気になれば飛び越えられる程度の堀でしかない場合のものもあり、また堀が正面しかなかったり、背後はただの山で防衛施設は無い、などの場合もあった。それらの陣屋はつまり実戦(籠城戦)を想定したものではなく、「藩主の居館(居城)」「藩の政庁」「地域の支配拠点」としての格式・形式的なものであったからである。

そもそも城があった場所に入封された陣屋格大名の場合、城の構造物を一部撤去して「陣屋」と改称したり、城の構造物を破却したのちに、旧城地を利用して陣屋を建てた例もある。この場合、陣屋としては旧城地は広過ぎたため、旧城の本丸のみや二の丸のみを再利用して小さく構築した例がある。

幕末に建築された松前藩戸切地陣屋北海道北斗市)のように、稜堡式の土塁砲台を構築し、限定的に軍事機能を持たせた例もある。さらに田野口藩の田野口陣屋のように、本格的とは言えないまでも西洋の星形要塞の様式で建築され、龍岡城と呼ばれた例もある。

三大陣屋[編集]

上総国飯野陣屋越前国敦賀陣屋周防国徳山城は規模が大きく「三大陣屋」と呼ばれることがある。

建物が現存する陣屋[編集]

大規模な城郭と比較した場合、規模も構造も、建造物も簡素であったことが多く、大名家自体もさほどの石高を持たない、いわゆる権威のない史跡、と思われがちである。ゆえに廃藩置県後に容易に取り壊され、用地も整地されて現存しない例が多い。(「全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方」参照)また、歴史的有名人(有名家系)が居住したり、天守や大規模な石垣や構造物を持つ、というような「目立つ大城郭」と比べ、地元住民や行政側の扱いもいい加減になりがちであり、保存や復元、歴史的検証または顕彰がおざなりになりがちである。

復元された陣屋[編集]

三日月陣屋 長屋門(復元)

遺構が一部残る陣屋[編集]

陣屋の門などの建物の一部や土塁、石垣等が現存することがあり、ほかに廃止後に移築されて建物の一部が現存する場合もある。

北海道地方[編集]

東北地方[編集]

関東地方[編集]

楽山園 小幡陣屋

中部地方[編集]

奥殿陣屋 書院

近畿地方[編集]

柏原陣屋 玄関

中国地方[編集]

四国地方[編集]

西条陣屋 大手門

九州・沖縄地方[編集]

神代陣屋 長屋門

建物・遺構が現存しない陣屋[編集]

樺太[編集]

北海道地方[編集]

東北地方[編集]

関東地方[編集]

中部地方[編集]

新潟県[編集]

富山県[編集]

石川県[編集]

  • 七尾陣屋石川県七尾市) - 前田利家の妻の甥の土方雄久が、越中新川郡で1万石を領知し、後に能登国へ移封された。土方雄久は、山崎村(七尾市)に陣屋を設けた。土方雄久から雄重・雄直と続き、4代目の雄隆は、延宝9年(1681年)、自分の領地の一部を弟の雄賀に与え、雄賀はその一部(150石)を次男の長十郎に分け与えた。ところが、雄隆がお家騒動を起こしたため、貞享元年(1684年)、領地を没収されて天領となり、幕府は、下村に代官所を設置し、手代を常置させ直接支配した。

福井県[編集]

  • 松岡館(松岡陣屋、福井県吉田郡永平寺町松岡葵) - 越前国松岡藩の藩庁。50年ほどで廃止。陣屋があった当時は御館(松岡御館)と呼ばれていた。所縁とされる椿の木が残る。
  • 本保出張陣屋(福井県越前市) -享保6年(1721年)江戸幕府の飛騨高山陣屋の出先として築かれた。 越前国にある幕府直轄領を管理する天領陣屋。
  • 千福陣屋(福井県越前市) - 越前国南条郡千福村にあった。美濃郡上藩の飛び地管理のための陣屋。
  • 敦賀陣屋(鞠山陣屋、福井県敦賀市) - 越前国敦賀郡にあった。鞠山藩(敦賀藩)の藩庁が置かれた。日本三大陣屋のひとつ。陣屋跡は整地され、民間企業の保養所が建てられていたが現在は更地。私有地につき立ち入りできない。隣接する鞠山神社は藩祖の酒井忠稠を祭る。陣屋大名であり当主は定府であった敦賀藩は、のちに城主格となり、同時に参勤交代の義務が課せられている。

山梨県[編集]

長野県[編集]

静岡県[編集]

  • 下田奉行所(静岡県下田市) - 伊豆下田の港の警備、船舶の監督、貨物検査、当地の民政が役務であった。1,000石高の職で役料が1,000俵支給された。当初元和2年(1616年)に伊豆下田に置かれていたが、享保5年(1720年)には江戸湾内の経済活動の活発化に伴って相模浦賀に移転した。
  • 三島陣屋(静岡県三島市) - 韮山代官所の業務を補佐する出先機関。
  • 松岡陣屋(静岡県富士市) - 韮山代官所の業務を補佐する出先機関。
  • 小島陣屋(静岡県静岡市清水区) - 小島藩の陣屋。
  • 駿府町奉行所(静岡県静岡市葵区) - 駿府の町政の他、駿河国内の天領の主に公事方を扱った。駿府城代ではなく老中の支配に属した。駿府城代と協議して駿府を通行する諸大名諸士の密察、駿河や伊豆の裁判仕置、久能山東照宮の警衛を役務とした。横内組町奉行大手町奉行があった。慶長12年(1607年)に設けられたが、元和2年(1616年)以後しばらく廃職となる。寛永9年(1632年)4月に再置されてから、元禄15年(1702年)9月まで2人体制を継続した。元禄15年(1702年)9月に1人役と改め、横内組町奉行を廃止した。
  • 紺屋町陣屋(静岡県静岡市葵区)
  • 島田陣屋(静岡県島田市) - 韮山代官が東海道筋川々普請御用を担当した際の業務を補佐した出先機関。寛政6年(1794年)駿府町奉行所に統合され紺屋町陣屋の出張陣屋となり明治に至った。
  • 横内陣屋(静岡県藤枝市) - 岩村藩が駿河国内15か村を統治した陣屋。
  • 相良陣屋(静岡県牧之原市) - 相良藩の陣屋。
  • 堀江陣屋(静岡県浜松市西区舘山寺町堀江) - 遠江国敷知郡にあった堀江城跡に置かれた。江戸時代の高家大沢氏の陣屋。

愛知県[編集]

岐阜県[編集]

三重県[編集]

近畿地方[編集]

滋賀県[編集]

京都府[編集]

  • 京都代官所(京都府京都市上京区) - 寛永11年(1635年)、五味豊直が京都の代官奉行に任じられ、二条城の西側に陣屋を設置したために「京都郡代」と呼称されたのが最初と言われる。郡代の職務を、京都町奉行・京都代官・伏見奉行に分割していた。京都所司代の支配下に置かれて京都周辺の天領・皇室領・公家領の支配を行うなど畿内における江戸幕府・朝廷の財政を主として管轄した。
  • 京都町奉行所 - 寛文8年12月8日1669年1月10日)に京都代官から分離する形で設置された。老中支配であるが、任地の関係で実際には京都所司代の指揮下で職務を行った。東西の奉行所が設置され、東御役所西御役所と呼ばれていた。
  • 伏見奉行所(京都府京都市伏見区) - 伏見城廃城に伴い、元和9年12月(1624年1月)伏見奉行が置かれ、江戸幕府成立期には、畿内近国八か国を総監する上方郡代を兼ねた。最初の奉行小堀政一(遠州)は、寛永9年(1632年)、伏見城南方清水谷にあった奉行所と六地蔵西町の小堀遠江守屋敷を、伏見城西方常磐町の富田信濃守屋敷跡に移転新築。幕末の慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いで焼失するまで、江戸時代を通してその屋敷に奉行所が置かれることになる。遠州流茶道の祖・遠州により作られた新しい奉行屋敷は、3つの茶室「松翠亭」「転合庵」「成趣庵」や、数奇屋「松翠亭」、伏見城の礎石などを利用した庭園を擁し、自身が茶道師範を務めた3代将軍徳川家光を迎えるなど、政務と茶の湯が深く交わっていた。寛文6年3月(1666年)に改めて伏見奉行が創設されるも、他の遠国奉行とは違い大名か旗本の中でも大名格の者が任命された。 元禄9年~11年(1696~1698)および文化5年~7年(1808年~1810年)の二度の中断を挟み、慶応3年(1867年)の廃止まで続き、伏見城の城下にあった伏見町と周辺の8カ村を管轄するほか、宇治川(淀川)にて京都と大阪(大坂)を結ぶ水運の拠点・伏見港の支配と参勤交代の西国大名の監視、京都御所の警備などにあたった。
  • 綾部陣屋(京都府綾部市) - 綾部藩の陣屋。
  • 山家陣屋(京都府綾部市) - 山家藩の陣屋。
  • 峰山陣屋(京都府京丹後市峰山町) - 峰山藩の陣屋。

奈良県[編集]

大阪府[編集]

兵庫県[編集]

中国地方[編集]

四国地方[編集]

  • 土庄陣屋香川県土庄町) - 小豆島は、元和元年から天領として大坂奉行の支配下にあったが、天保9年(1838年)に西部の六郷(土庄・渕崎・上庄・肥土山・小海・池田)が、津山藩に移され土庄に津山藩の陣屋が置かれ、明治2年の版籍奉還までの間、代官が常駐して行政上の大抵のことはここで処理された。
  • 日和佐陣屋徳島県日和佐町) - 文化4年(1807年)、徳島藩によって築かれた。 寛政11年(1799年)、徳島藩によって海部陣屋が築かれ那賀郡と海部郡の郡代所となった。文化4年(1807年)、日和佐陣屋が築かれ、海部より移転し明治まで郡代所として続いた。
  • 海部陣屋(徳島県海部町)- 寛永15年(1638年)、海部城が廃城となると東麓に郡代官所が設けられ「御陣屋」と呼ばれた。その後、寛政11年(1799年)に鞆の御陣屋が新設されたが、文化4年(1807年)には郡代官所が日和佐陣屋に移された。

九州・沖縄地方[編集]

福岡県[編集]

佐賀県[編集]

長崎県[編集]

大分県[編集]

宮崎県[編集]

鹿児島県[編集]

沖縄県[編集]

その他の用法[編集]

  1. 平安時代に宮中警護をする衛士の詰所のことであった。
  2. 大名などの武家や、公家などが宿泊する宿を意味する。本陣を参照。
  3. 現代の旅館温泉の名称に「陣屋」を使用するものもある(例として鶴巻温泉元湯・陣屋など)。
  4. 鎌倉時代には合戦における兵士の臨時軍営を陣屋と呼んだ。
  5. 地頭の役所を陣屋とも呼んだ。近世には民政上の拠点を指す意味が強くなり、幕藩体制における政庁兼居所・蔵を意味する言葉となった。

「2」の用法においての陣屋で現存する建築[編集]

  • 二条陣屋(京都府京都市中京区)伝統的建造物(町家)。建築物3棟と土地が国の重要文化財に指定されている(指定名称は「小川家住宅」)。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 享保2年(1717年)の『武家諸法度』によると、城主は・塀・門以下は届出をして許可を得た上で補修することが可能で、石塁・石壁が壊れたときは奉行に報告し、その差図を受けることとなっていた。このことから江戸幕藩体制下におけるの定義は石垣の上に塀と櫓を有しているものとされていた。

出典[編集]

  1. ^ 森下陣屋跡 - Ome.nave 青梅資料館 2021年5月26日閲覧。

関連項目[編集]