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野村藩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

野村藩(のむらはん)は、美濃国大野郡野村(現在の岐阜県揖斐郡大野町野)を居所とした[1][2]江戸時代初期に存在した織田氏の藩と、明治初年に存在した戸田氏の藩(もと大垣新田藩)がある。

関ヶ原の合戦後に、織田長孝織田有楽斎の子)が1万石で入封したが、2代約30年で無嗣断絶となった。明治維新期の1869年に大垣新田藩が当地に藩庁を置いて野村藩と改称したが、まもなく廃藩置県を迎えた。本記事では廃藩後に設置された野村県(のむらけん)についても言及する。

歴史

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野村藩の位置(岐阜県内)
大垣
大垣
岐阜
岐阜
金屋
金屋
野村
野村
関連地図(岐阜県)[注釈 1]

織田家の野村藩

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織田長孝は、織田長益(有楽斎)の庶長子である。関ヶ原の戦いまでは、美濃国多芸郡金屋村(現在の養老郡養老町金屋)で500石を領していた[3]

慶長5年(1600年)の関ヶ原の役で、長孝は父とともに徳川家康に従って行動した[4]関ヶ原本戦においては家康の麾下に属し[4]、西軍の戸田勝成と交戦して戸田を討ち取った[注釈 2]。このことが戦功とされ、戦後に美濃国大野郡野村などに1万石を与えられた[4]。これにより、野村藩が成立したと見なされる。

なお、関ヶ原の合戦後、父の長益も加増を受け、3万石を領する大名(摂津味舌ました主)となっている[5]

慶長11年(1606年)7月、織田長孝は父に先立って没した[4]。野村藩は長男の織田長則が跡を継いだ[5]と見られる。『寛政譜』において、織田長益から始まる家は長益―長孝―長則と受け継がれたことが記されているが[4]、長則の記述は薄く、いつ誰の知行を継いだかの記載がない[4]

大坂の陣後の元和元年(1615年)、長益は味舌藩3万石のうち2万石を2人の息子に1万石ずつ分け(四男長政戒重藩と、五男尚長柳本藩)、残る1万石を自らの隠居料とした[5]。元和7年(1621年)12月、長益は京都東山において死去した[4]。長則は祖父である長益の遺領である「味舌藩」を継いだとする見解もある[5]

寛永8年(1631年)7月に織田長則は没し、嗣子がなかったために絶家となった[4][注釈 3]。長則がこの時点で野村藩主であったならば、これをもって野村藩は廃藩となった[2][注釈 4]

戸田家の藩

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その後、江戸時代の大部分を通して野村は大垣藩領であった[8]

大垣新田藩

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貞享5年/元禄元年(1688年)、三河国渥美額田両郡内で6200石の知行地を有する大身旗本の戸田氏成[注釈 5]は、実兄の大垣藩第2代藩主・戸田氏信から美濃国内で3000石の分知を受け、これとは別に三河国渥美郡内の新田分を合わせて、知行は合計1万石となって大名に列した[9]。大垣新田藩の立藩である[10]。大垣新田藩主は幕府役職に就くことが多く、家臣もその多くは江戸屋敷に居住した[11]

氏成は三河国渥美郡畑村(畠村)に畠村陣屋を置いたことから[9]、この藩は畑村藩とも呼ばれる。また、元禄年間には野村にも陣屋を置いたともいう[11]

明治初年の野村藩

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戸田氏良

幕末・維新期の大垣新田藩主は戸田氏良である。氏良は大垣藩第9代藩主・戸田氏正の次男で、大垣新田藩主家を継いだ。同時期の大垣藩主は第11代・戸田氏共うじたか(氏正の五男)で、氏良の実弟である。明治元年(1868年)、氏良らは江戸を退去して宗家のある大垣に身を寄せ[11][12]、宗家や同族の旗本とともに明治政府に帰順した[13]。 戊辰戦争において、大垣新田藩は本藩である大垣藩と一団となって行動し[14][注釈 6]北越方面で戦った[16]

明治2年(1869年)2月12日、戸田氏良は版籍奉還を申し出た[17]。同年5月27日、大垣新田藩は野村藩と改称した[18][19]。これに先立つ5月25日、藩名に用いる「城邑の名号」として適切な郡村名や土地の旧名があれば申し立てるようにとの新政府の方針が伝えられた[20]ことを受けたものである。

明治2年(1869年)6月17日に版籍奉還の勅許が行われ、諸藩の藩主は知藩事に任命されたが、野村藩主・戸田氏良には知藩事任命の沙汰がなかった[21]。「封土壱万石に満たざる」が理由とされた[17]。大垣藩からの内分分知3000石は蔵米による支給であって[22]支配地がなく、それを除く7000石の支配地についても実高は9450石であった[22]。宗家の大垣藩知事・戸田氏共は、7月10日付で新政府に対し、戸田氏良を知藩事に任命して藩屏の列に加えるよう嘆願を行った[21]。次いで10月には、美濃・三河両国の支配地7000石について再調査したところ実高が1万5石であったことを新政府に報告し[22]、大垣藩から蔵米を支給していた3000石分の支配地を大垣藩支配地から分割することを願い出、合わせて1万3005石の民政を取り扱う知藩事に氏良を任命するよう重ねて嘆願している[23]

明治2年(1869年)10月23日、戸田氏良は野村藩知事に任命された[23]。3000石の管轄地の引き渡しは11月に行われ、新政府に届け出られた[24]。野村の村高は1653石余であり、大垣藩から野村藩に移管された支配地3000石の過半を占めた[23]

藩庁は野村に「とりあえず」「仮に」の形で設置していたが、明治3年(1870年)2月に新政府に対して、野村の中の荒地を開拓して藩庁・藩立学校および藩士の屋敷を新たに建設することを上申した[25][26]。同年7月にはそれらの建設と移転が完了したことが報告されている[25][27][注釈 7]

野村県

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明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県により野村藩は廃藩となり、野村県となった[17]

明治4年(1871年)11月22日、美濃国全域を管轄地域とする岐阜県が設置され[29]、野村県は大垣県などの諸県とともに廃止されて岐阜県に編入されることとなった[10][11]。岐阜県管下の旧県庁は当分の間岐阜県出張所として扱われ、旧県官吏に事務取扱を行わせる形で、従来通り管内行政が行われた[30]。土地と住民・行政文書(土地郷村簿書)の引き継ぎは順次行われ、旧野村県についても明治5年(1872年)3月10日に岐阜県に接収された[31]

三河国では、明治4年(1871年)11月に額田県(県庁:岡崎城中)が設置されることとなった[32]。額田県の実際の業務は、権令らの着任を待って翌明治5年(1872年)1月に開始された[32]。『額田県史』によれば、明治5年(1872年)1月に三河国所在の旧野村県管轄地の土地・人民および行政文書を接収したとあるが[33]、『岐阜県史稿』によれば、3月10日時点で旧野村県三河国飛地領の額田県への移管が未完了であった[34]。このため、岐阜県側では野村県の引き継ぎが完了したものの、大参事以下の官員26人の事務取扱を免じることができなかったという[34]

岐阜県は翌4月に管下旧県の移管に関連する手続きを完了したことを大蔵省に報告している[35]

歴代藩主

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織田家

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1万石。外様1600年 - 1631年)。

  1. 長孝
  2. 長則

戸田家

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1万石→1万3000石。旧譜代1869年 - 1871年)。

  1. 氏良

領地

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野村藩の位置(愛知県内)
畠村
畠村
樫山
樫山
名古屋
名古屋
岡崎
岡崎
田原
田原
関連地図(愛知県)[注釈 8]

分布と変遷

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幕末の領地

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旧高旧領取調帳』データベースでは、旧領「野村藩」の領分として以下が挙げられている[36]

  • 美濃国
    • 大野郡のうち - 10村
      • 政田村、瀬古村、八木村、宝来村、寺内村、牛洞村、大洞村、府内村、木曾屋村、有鳥村
  • 三河国
    • 額田郡のうち - 5村
      • 樫山村、細野村、光久村、牧平村、滝尻村
    • 渥美郡のうち - 7村
      • 日出村、伊川津村、古田村、畠村、向山村、亀山村、伊井新田

同データベースによれば、藩領は1万182石余(うち三河国に6089石余、美濃国に4092石余)である。

旧高旧領取調帳データベースによる幕末期の領地詳細
  • 国立歴史民俗博物館ウェブサイトの「旧高旧領取調帳データベース」より[36]、「旧領名」が「野村藩領分」であるものを抜粋する。
  • 郡村名の用字等は修正していない。
  • 「石高」欄の数字は、旧高旧領取調帳データベースの「旧高(1)」欄に記載された「江戸時代末期の各村の領主が年貢徴収の基準とした見積生産高」(内高)である[37]。12.345678とある場合、12石3斗4升5合6勺7才8撮を意味する。
  • 「相給」欄は、同村内にある幕府領・大名領・旗本領・寺社領の領主を記す。石高は参考のために付し、石以下は切り捨てている。
  • 「廃藩置県期」欄は、旧高旧領取調帳データベースの「旧県名」欄に記載された県名。野村県管轄地については記載を省略した。「旧県名」欄は一般的には廃藩置県直後の管轄県名を記すとされるが[37]額田県は明治4年(1871年)11月の設置である。
国郡 石高 現在の地名 相給 廃藩置県期 備考
33178三河国額田郡 かしやま樫山村 0693.572021 23502愛知県岡崎市樫山町付近 額田県
33200三河国額田郡 ほその細野村 0501.108002 23502愛知県岡崎市細光町付近 →額田県
33210三河国額田郡 みつひさ光久村 0073.533997 23502愛知県岡崎市細光町付近 →額田県
33245三河国額田郡 まきひら牧平村 0173.660004 23502愛知県岡崎市牧平町付近 大名領(西大平藩)144石 →額田県
33247三河国額田郡 たきじり滝尻村 0064.044998 23502愛知県岡崎市滝尻町付近 大名領(西大平藩)157石 →額田県
34449三河国渥美郡 ひい日出村 0105.058998 23623愛知県田原市日出町付近 →額田県
34458三河国渥美郡 いかわづ伊川津村 0953.312988 23623愛知県田原市伊川津町付近 →額田県
34462三河国渥美郡 こだ古田村 1039.423950 23623愛知県田原市古田町付近 →額田県
34464三河国渥美郡 はたけ畠村 1444.249023 23623愛知県田原市福江町付近 →額田県 畠村陣屋所在地
34465三河国渥美郡 むかいやま向山村 0631.862000 23623愛知県田原市向山町付近 →額田県
34468三河国渥美郡 かめやま亀山村 0322.929993 23623愛知県田原市福江町付近 →額田県
34472三河国渥美郡 いいしんでん?伊井新田 0087.153999 愛知県田原市伊川津町付近 →額田県
43482美濃国大野郡 まさだ政田村 0419.384003 23623岐阜県本巣市政田付近 旗本領(戸田三郎四郎)464石
大名領(大垣藩)835石
43525美濃国大野郡 せこ瀬古村 0542.453979 23623岐阜県揖斐郡大野町瀬古付近 大名領(岩村藩)185石
43532美濃国大野郡 やぎ八木村 0363.445007 23623岐阜県揖斐郡大野町公郷付近
43533美濃国大野郡 ほうらい宝来村 0534.418030 23623岐阜県揖斐郡大野町公郷付近
43534美濃国大野郡 じない寺内村 0347.335999 23623岐阜県揖斐郡大野町寺内付近
43535美濃国大野郡 うしぼら牛洞村 0236.020004 23623岐阜県揖斐郡大野町牛洞付近 旗本領(戸田三郎四郎)750石
43537美濃国大野郡 おおほら大洞村 0808.226990 23623岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲大洞付近
43538美濃国大野郡 ふない府内村 0236.020004 23623岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲長瀬付近
43539美濃国大野郡 きそや木曾屋村 0382.916992 23623岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲木曽屋付近
43540美濃国大野郡 あっとり有鳥村 0222.598007 23623岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲有鳥付近

人文学オープンデータ共同利用センターが提供する「幕末期近世村領域データセット」では、藩領の分布を以下のように図示している。

明治初年の管轄地

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明治3年(1870年)8月に野村藩が民部省に提出した資料によれば[18]、管轄高は1万3211石余[38]。うち「支配地」は9888石余で、「新田」が3320石余である[39]。「支配地」には、三河国渥美郡山田村内にあった[40]泉福寺領122石や、「除地」19石余を含む[41]。また、総人口は8566人(うち士族270人、124人、平民7969人など)とある[40]

明治3年(1870年)に野村藩が兵部省に提出した資料によれば、管轄地は以下の通り[41]

  • 美濃国
    • 大野郡のうち - 14村(7505石余)
      • 野村、政田村、八木村、宝来村[注釈 9]、瀬古村、寺内村、牛洞村、大洞村、府内村、木曾屋村、有鳥村、上長瀬村、赤石村、桜大門村
  • 三河国
    • 渥美郡のうち - 6村(4541石余)
      • 畠村、古田村、伊川津村、向山村、亀山村、日出村
    • 額田郡のうち - 5村(1086石余)
      • 樫山村、牧平村、細野村、光久村、滝尻村
『旧高旧領取調帳』の記載について
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旧高旧領取調帳』データベースでは、旧県「野村県」の管轄地として挙げられているのは、美濃国内のみ(5174石余)である。三河国内はすべて旧県「額田県」でされ、明治4年(1871年)11月以後の状況を反映している。なお、『旧高旧領取調帳』データベースでは野村県管轄地に野村を含まず(大垣県管轄としている)、代わりに下長瀬村を含むとしている。

旧高旧領取調帳データベースによる管轄地(旧藩領以外からの編入分)詳細
  • 国立歴史民俗博物館ウェブサイトの「旧高旧領取調帳データベース」より[36]、「旧県名」欄が「野村県」であるもののうち、「旧領名」が「野村藩」以外のものを抜粋する。用字等は修正していない。
  • 「幕末期」欄は、旧高旧領取調帳データベースの「旧領名」欄に記載された領主名で、一般的には「江戸時代の最末期、幕府滅亡時点」の情報である[37]
国郡 石高 現在の地名 幕末期 備考
43491美濃国大野郡 さくらだいもん桜大門村 0278.510010 21403岐阜県揖斐郡大野町桜大門付近 ←大名領(大垣藩)
43497美濃国大野郡 あかいし赤石村 0127.043999 21402岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲長瀬付近 ←大名領(大垣藩)
43511美濃国大野郡 しもながせ下長瀬村 0354.200012 21402岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲長瀬付近 ←大名領(大垣藩)
43813美濃国大野郡 かみながせ上長瀬村 0322.167999 21402岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲長瀬付近 ←大名領(大垣藩)

地理

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野村

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大名となった織田長孝(河内守)は、現在の野集落の西側、野古墳群の一角[42]に屋敷を構え、城下町を建設した[43]。屋敷は「織田河内守邸」と呼称され[43][3]、現代も屋敷跡の区画の西側に土塁や堀跡が残されている[43]。第二次世界大戦前までは、「織田河内守邸」周辺に土塁を巡らせた武家屋敷跡の区画が残っていたという[43]

明治の野村藩は、野集落の北側一帯に藩庁(陣屋)と士族屋敷を構え、土塁と濠を巡らせた[44]。跡地は「野村藩邸跡」として大野町史跡に指定されており[44]、旧藩庁の建築物のうち「総門」「藩庁門(役所門)」が野集落内の民家に移築されている[44][45]

野村の八幡神社の社殿は、慶長5年(1600年)に織田長孝によって修築されたという[8]

三河領

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大垣新田藩(野村藩)戸田淡路守家の渥美郡の領地は、家祖の戸田氏経戸田氏鉄の次男)が、妻の父である間宮之等(戦国期に畠村一帯の領主であった間宮直綱[注釈 10]の孫)の領地を引き継いだもので[48]、氏経は之等の継嗣となっていたのではないかという見解もある[48]

戸田淡路守家は、三河国の所領を管轄するため、渥美郡畠村(現在の愛知県田原市福江町)に陣屋を置いた[49]。「畠村陣屋」、あるいは現地では「戸田家陣屋」「大垣新田藩陣屋」などの名で呼ばれる[49]。この陣屋は間宮家の屋敷を継承したものと見られている[49]。この陣屋は、大垣新田藩が野村藩に改称し、廃藩置県によって野村県となってからも、その出張所として明治4年(1871年)まで利用されたという[49]

文化・人物

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藩校

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大垣新田藩(野村藩)では、藩主を中心に学問を重んじる気風が強かったとされる[50]。文久3年(1863年)11月、外桜田の江戸藩邸内に大垣新田藩の藩校「済美館」が開設された[51]。藩校設立にあたったのは、家老の柘植唯之進[注釈 11]、同じく家老の島村衛士、側役の小山小隼太[注釈 12]らで、漢学教授に鈴木重遠[注釈 13]、武術教授に島村勇雄[注釈 14]浅羽守雄[注釈 15]を任じ、藩士に文武の諸芸を学ばせた[51]

藩主の移動に伴い、藩校は明治元年(1868年)に大垣に移転して「典学寮」に改称[11][51]。次いで明治3年(1870年)には野村に移動した[11]。80人ほどの生徒がおり、中には藩費で他藩に遊学を命じられる者もあった[52]。東京に遊学する者もいた[52](もっとも、大垣新田藩はもともと江戸を拠点としていたため、そのまま東京に寄留した者もいたと考えられる[55])。

廃藩置県後は「野村県学校」になるが、野村県も廃されたために県学校も廃校となった[11]。県学校廃止時の蔵書目録[注釈 16]には107冊が記録されているが、これは岩邑県支那学校(3万石の岩村藩藩校の後身)の蔵書数に匹敵し、野村藩の学問への関心の高さを反映していると見ることができる[50]

ゆかりの人物

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『美濃文教史要』は、野村藩が小藩のわりに多くの人材を輩出したと評する[52]。藩の貢進生として大学南校に学んだ千本福隆[56]は「日本の理系教育草分けの一人」と評される人物で、東京物理学校東京理科大学の前身)[注釈 17]の創立・運営に関わり、また東京高等師範学校教授を長く勤めて名誉教授の称号を贈られた[57]。藩士であった植村永孚海軍兵学寮に入学、海軍中将まで昇った[58][注釈 18]

備考

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野村モミジ

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カエデ属の園芸品種[注釈 19]として知られるノムラモミジ(ノムラカエデ)は、野村が発祥地である[43]との説がある(ただし、ノムラモミジの名については、「濃紫のうむらモミジ」が変化したものとの説もある[60])。

野村発祥説によれば、織田長孝が養老山中で発見し、野村の屋敷(「織田河内守邸」)内に植えた木が、ノムラモミジの原木であるという[43]。発見経緯については、金屋に住していた頃に発見し、金屋から野村に移植したとする説[43]、野村に移って以後、養老の滝を観瀑した際に見つけたとする説[62]など、諸説が伝えられている。

「織田河内守邸」跡にはこのモミジ(野村モミジ)が残され、文人墨客も訪れたというが、原木は1800年代初頭に、2代目も1945年ころに枯れ、現在は3代目の木に植え継がれている[43]。「野村モミジ」として大野町天然記念物に指定されている[43]

脚注

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注釈

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  1. ^ 赤丸は本文内で藩領として言及する土地。青丸はそれ以外。
  2. ^ 寛政重修諸家譜』(以下『寛政譜』)によれば、西軍の戸田勝成(武蔵守、重政。越前安居城主)と東軍の津田信成山城御牧城主。『寛政譜』には「津田長門守元勝」とある。津田信成は織田氏の同族である)が交戦し、勝敗がつかずにいるところに行き合った長孝は、信成に代わって戸田勢と交戦した[4]。長孝みずから勝成と槍を交える戦闘のすえ、家臣の山崎源太郎が勝成の首を挙げた[4]。なお、戸田勝成が津田信成・織田長孝と戦って討たれた状況に関して異なる記述をする文献もある。戸田勝成津田信成の項目も参照。
  3. ^ なお、長則の弟長政の子孫は、加賀前田家の家臣となっている[4]
  4. ^ 『角川新版日本史辞典』付録「近世大名配置表」では、美濃野村藩[6]・摂津味舌藩[7]の双方において、寛永8年(1631年)に織田長則が除封されて廃藩になったと記す。
  5. ^ この旗本家(戸田淡路守家)の家系は、大垣藩初代藩主・戸田氏鉄の次男である戸田氏経に始まる[9]。氏経は徳川秀忠に小姓として出仕し、御小姓組頭・大番頭を歴任した[9]。幕府から与えられた知行地2200石に加え、実兄の戸田氏信から美濃国大野郡内の新田分4000石を分知され、合計6200石を知行した[9]。氏経の実子・戸田氏利に子がなく、氏成が養子に迎えられた。
  6. ^ 大垣藩兵の「本隊」は「東山道先鋒隊」として関東から白河・会津に向かい、遅れて進発した「別隊」は信濃から越後に転戦して会津に至った[15]。大垣新田藩はこの「別隊」とともに行動した。
  7. ^ 『藩と城下町の事典』によれば、野村に陣屋を構えたのは明治2年(1869年)5月という[28]
  8. ^ 赤丸は本文内で藩領として言及する土地。青丸はそれ以外。
  9. ^ 原文では「宝木村」とある。
  10. ^ 渥美の間宮氏は、伊豆国間宮を名字の地とする近江源氏(佐々木氏)の支流であり、小田原北条家に仕えた間宮氏(間宮康俊ら)と同族とされる[46]。間宮直綱の祖父「豊前守重綱」は北条家に仕えたが、父「兵庫頭正信」の代に今川家に仕えた[46]。直綱は永禄6年(1563年)に今川家を去って徳川家康に従い、天正6年(1578年)に没して栖了院(田原市福江町)に葬られた[47]。直綱のあと広綱―之等と続き、之等は元和5年(1619年)に退隠したという[48]
  11. ^ 藩主の戸田氏良が本藩から新田藩の養子に入った際に傅役として従った人物で、学校拡充政策の主導者であったという[51]
  12. ^ 西洋砲術を学んだ人物という[51]
  13. ^ 号は随窔[52]あるいは随交[53]。儒者塩谷宕陰の門人で、折衷学を称した[52]。藩校廃止後は岐阜県師範学校・岐阜県華陽学校で教諭を務め、のちに私塾をひらいたという[52]
  14. ^ 幕臣の久保田助太郎(窪田清音)に剣術を学んだ人物[51]
  15. ^ 藩の剣術師範の家に生まれ、島村勇雄に剣術を学んで藩の剣術教授を務めたが[52]、戊辰戦争の北越戦争において戦死した[54]。弟の浅羽譲も文武に秀でた人物で、戊辰戦争では藩の砲術長を務め、戦後には藩の文学教授となった[52]。のちに稲富村(現在の揖斐郡大野町稲富)で「温故義塾」を開く[52]
  16. ^ 岐阜県管下の旧県学校の書籍を、岐阜県に移管するための目録。
  17. ^ 創立当初は「東京物理学講習所」。
  18. ^ 『美濃文教史要』は植村も貢進生とするが[52]、岐阜県教育会編『岐阜県教育五十年史』は野村藩の貢進生として植村を挙げず[59]、岐阜県教育会編『濃飛偉人伝』の植村の伝記でも貢進生であったことは記されていない[58]。また、『美濃文教史要』は植村を「陸軍中将」と誤っている[52]
  19. ^ ノムラモミジは、オオモミジの園芸種であるとも[60]イロハモミジの園芸種であるとも[61]いう。

出典

[編集]
  1. ^ 二木謙一監修・工藤寛正編「国別 藩と城下町の事典」東京堂出版、2004年9月20日発行(310ページ)
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参考文献

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外部リンク

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先代
大垣新田藩
行政区の変遷
1869年 - 1871年 (野村藩→野村県)
次代
岐阜県