飯野藩
飯野藩(いいのはん)は、上総国周淮郡飯野(現在の千葉県富津市下飯野)の飯野陣屋に藩庁を置いた藩。江戸時代初期に保科氏が藩主となり、廃藩置県まで10代にわたって存続した。江戸時代の領地は上総国のほか、摂津国を中心とする関西地方に分散していた。
飯野陣屋は、徳山陣屋、敦賀陣屋と共に日本三大陣屋の一つに数えられる。
藩史[編集]
慶安元年(1648年)6月26日、7000石を知行していた旗本の保科正貞が大坂定番となって摂津国有馬郡・河辺郡・能勢郡・豊嶋郡などにおいて1万石を加増されたことから、1万7000石の大名として飯野藩を立藩した。正貞は初めは兄である保科正光の養子となっていたが、兄が2代将軍・徳川秀忠の落胤(後の保科正之)を秘かに養子として迎えることになったために一度は廃嫡された。しかし正之が秀忠の子として認められると正貞が改めて保科家の家督を相続することになったのである。正貞は寛文元年(1661年)11月1日に死去し、跡を保科正景が継いだ。このとき、正景は正貞の養子だった保科正英に2000石を分与している。延宝5年(1677年)7月7日、正景は大坂定番になったことから丹波国天田郡内に5000石を加増された。その後も歴代藩主の多くが大坂定番を務めた。特に最後の藩主・保科正益は大坂定番を務めた後の慶応2年(1866年)5月26日に若年寄にまで栄進し、第二次長州征伐では征長軍の指揮を務めた。
慶応4年(1868年)の戊辰戦争では、正益は新政府側に与する代わりに徳川慶喜の助命を求めて入京しようとしたが、親戚に当たる会津藩が徹底抗戦の構えを取ったため、正益も連座して謹慎処分となった。これに対して正益は幕府側に与した家臣を処刑して罪を許されている。翌年版籍奉還により知藩事となり、明治4年(1871年)7月の廃藩置県で飯野藩は廃藩、その後飯野県、木更津県を経て、千葉県に編入された。
歴代藩主[編集]
- 保科家
幕末の領地[編集]
「旧高旧領取調帳」では、70村・2万659石余
江戸時代の飯野藩の領地は、飯野陣屋周辺よりも関西地方により多くあった。「旧高旧領取調帳」では両総二国4,360石、関西三国1万6,298石。このため飯野藩は摂津国豊島郡浜村(現在の大阪府豊中市浜)にも浜村陣屋を構えていた。
明治維新後に、周淮郡9村(旧前橋藩領6村、旧旗本領の旧安房上総知県事領4村)が加わり、上総国内の領地は大幅に入れ替わった。なお相給が存在するため、村数の合計は一致しない。ただし、「旧高旧領取調帳」には維新の領地替え後の飯野藩領は2,628石分しか記載されていない。
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
先代 (上総国) |
行政区の変遷 1648年 - 1871年 (飯野藩→飯野県) |
次代 木更津県 |