琉球藩

概要
[編集]琉球藩の設置に先立ち、明治政府は明治2年6月(1869年7月)に版籍奉還、さらに明治4年7月(1871年8月)に廃藩置県を断行し、中央集権化を進めていた。
当時、琉球王国は独立した王国で、名目上は清国を宗主国とする朝貢国であったが、明治政府は従来より実質的に薩摩藩の付庸国で、その利権を引き続いだ鹿児島県が所管するものとした。明治5年正月(1872年2月)、鹿児島県より伝事として派遣された奈良原繁と伊地知貞馨は、琉球王府の摂政・三司官との協議で庶政改革を促すとともに、旧薩摩藩への債務を免除した。一方、明治政府は琉球の帰属を明確にするため、藩制実施を決断し、鹿児島県を通じて慶賀使の派遣を促した。
琉球国王尚泰は尚健(伊江朝直)と宜野湾親方朝保を慶賀使として東京に派遣。明治5年9月14日(1872年10月16日)、参内して尚泰からの賀表と献納品目録を呈した使者に対し、副島種臣外務卿が明治天皇に代わり、尚泰を冊封して「琉球藩王」に任じて華族に列する旨の詔勅(
『琉球國王尚泰ヲ藩王トナシ華族ニ陞列スルノ詔』)を朗読、その書を授け、使者は即日、いわゆる「藩王御請」書を上呈した[1]。
以上により琉球王国は鹿児島県付庸国から明治政府の藩国となり、琉球藩が設置された。
解釈
[編集]明治政府側にとっては、琉球王国を日本の天皇が任ずる藩王が治める琉球藩とするものであり、その意味では琉球国王としての尚泰はこの時点(天皇より詔勅を下賜された明治5年9月14日付)で廃位されたものと解釈される。また、琉球王国の滅亡をこの時点とする見方もある。
一方、琉球藩王に封ずる明治天皇の詔勅は、名目上、日本が琉球を管轄する根拠が薄弱な情勢下で、明治天皇が尚泰王を冊封し、天皇と琉球藩王尚泰との間に君臣関係を設定することで、むしろ日清両属を分明化することに政策的意図があったとの解釈がある[1]。
なお、琉球藩の外交権は外務省に移るものとされたが、政体の実態としては琉球藩設置前とあまり変わらず、尚泰と王府臣下一門は琉球に君臨し続けた。尚泰は「皇国と支那の御恩」に感謝し、両国を「父母の国」と仰ぎ奉っているとして、日清両属の現状維持を要請し(『琉球見聞録』)、清への朝貢を続け、中国に対しては王位を名乗り続けた。
台湾出兵との関係
[編集]琉球藩の設置に遡る明治4年11月8日(1871年12月19日)[注釈 1]、琉球御用船の船員が漂着先の台湾で台湾原住民・パイワン族に殺害された、いわゆる琉球島民殺害事件が起き、生存者が明治5年6月7日(1872年7月12日)[注釈 2]、清国経由で那覇に帰着すると言う事件が起きていた。政府は、事件に対し清朝に厳重に抗議したが、原住民は「化外の民」(国家統治の及ばない者)であるという清朝からの返事があり、これを受け、政府は新暦1874年(明治7年)5月6日より台湾出兵を行った。これに清側は直ちに抗議し、撤兵を強く求めた。明治政府は同年9月、「和戦を決する権」を与えられた大久保利通を全権として北京に派遣。清と交渉し、難航の末、清は日本の出兵を「義挙」と認め、50万両(テール)の賠償をすることで事件は決着した。これは、琉球の帰属問題で日本に有利に働くが、清は琉球の日本帰属を正式に承認したわけではなかった。
琉球処分および沖縄県の設置へ
[編集]明治政府は翌1875年(明治8年)、琉球に対して清との冊封と朝貢関係の廃止、ならびに明治年号の使用などを命令するが、琉球は清との朝貢関係を継続する意向を表明。清は琉球の朝貢禁止に抗議するなど、外交上の決着はつかなかった。
1879年(明治12年)3月27日、明治政府は内務大書記官の松田道之・警察隊・熊本鎮台分遣隊を首里城へ派遣。琉球藩王尚泰に対し、琉球藩を廃止し、沖縄県を設置する「廃藩置県」を通達した。さらに尚泰の東京居住、琉球の土地人民と書類の引渡し、首里城明渡しなどを命じた。同年4月4日には「琉球藩ヲ廃シ沖縄縣ヲ置ク」(1879年4月4日 布告第14号)で、琉球藩の廃止と沖縄県設置を全国に布告した[2][3]。
尚泰は、東京の尚家の侯爵邸に移動を命じられたことにより名実ともに廃位になり、琉球王国は滅亡した。
抗命事件、清との交渉
[編集]しかし旧体制での特権階級だった王族や士族の清への亡命など抗命が相次いだ。宮古島では、県派遣警察に対する在地士族の組織的抵抗が起こり、警官を排除して県に味方した島民を殺害した暴動「サンシー事件」も起きたが、警察力で平定された。
この日本側の琉球処分に清は再三抗議し、日本による琉球の併合を承認しない立場を明確にした。対する日本も琉球は元来自国に属するとし、交渉は平行線を辿った。この状況下で、アメリカ元大統領ユリシーズ・グラントが仲介となり、1880年北京で日清の交渉が行われた。
交渉の席上、日本側の思惑としては日清修好条規を期限内改正し中国内での日本人の通商権の追加(最恵国待遇の付与)が最重要課題であり、琉球帰属問題は外交カードの1つに過ぎなかった。そのため日本は、案のひとつとして先島諸島(八重山列島・宮古列島)を割譲し清領とする事を提示した。しかし清は、琉球國の復興を考えており、当時ロシアとの領土問題も抱えていた所から先延ばしを選び、清側が調印せずに終わった[4]。
日清戦争へ
[編集]そのため琉球帰属問題は棚上げとなっていたが、日清戦争における日本の勝利と下関条約の締結により、清は琉球どころか清国の領土であった台湾や澎湖諸島までも割譲させられる。清は朝鮮と共に旧朝貢国への影響力を喪失し、東アジアの伝統的国際秩序であった冊封体制に基づく国際秩序は終焉を迎えた[注釈 3]。
華族令発布後、他の元大名との石高の比較からは尚家は伯爵に相当するが、「国王」に対する敬意により侯爵に叙せられ(当初は公爵に叙すことも検討されていた)、破格の経済待遇を与えられた。また、分家も男爵に叙せられた。
琉球藩が設置されてから沖縄県として日本に完全編入されるまでの経緯を琉球処分という。
歴代藩王
[編集]8万9千石
| 代 | 氏名 | 在職期間 | 享年 | 墓所 | 出身家 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 尚泰 しょう たい |
明治5年 - 明治12年 1872年 - 1879年 |
59 | 玉陵 | 尚家 |
関連作品
[編集]- 長堂英吉『黄色(ちいる)軍艦』新潮社 (1999/03) ISBN 978-4103796039
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- 1 2 波平恒男 2009.
- ↑ “1879年3月27日 「沖縄県」の設置”. あの日の沖縄. 沖縄県公文書館. 2026年3月27日閲覧。
- ↑ 明治12年(1879年)4月4日太政官布告第14号「琉球藩ヲ廃シ沖縄県ヲ被置ノ件」
- ↑ 山城智史「1870年代における日清間の外交案件としての琉球帰属問題」『研究年報社会科学研究』第35号、山梨学院大学大学院社会科学研究科、2015年2月、95-125頁、ISSN 2189-1117、NAID 120005602123。
参考文献
[編集]- 安岡昭男『明治維新と領土問題』教育社〈教育社歴史新書・日本史144〉、1980年。
- 高良倉吉・豊見山和行・真栄平房昭 編『新しい琉球史像』榕樹社、1996年。
- 波平恒男「「琉球処分」再考:琉球藩王冊封と台湾出兵問題」『政策科学・国際関係論集』第11号、琉球大学法文学部、2009年3月、1-78頁、ISSN 1343-8506、NAID 120001374991。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]| 先代 琉球王国 |
行政区の変遷 1872年 - 1879年 |
次代 沖縄県(第1次) |