コザ暴動

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コザ暴動
暴動後、燃やされた車の近くに立つアメリカ軍兵士。
暴動後、燃やされた車の近くに立つアメリカ軍兵士。
場所 アメリカ合衆国の旗アメリカ統治下の沖縄 コザ市
(現在の日本の旗 日本 沖縄県沖縄市
胡屋十字路付近[1]嘉手納基地[2]
日付 1970年12月20日
午前1時半頃[2] – 午前7時半頃[2] (UTC+9)
原因 沖縄住民とアメリカ軍との関係悪化(詳しくは背景の項目を参照)
攻撃手段 ガソリンによる放火[2]投石火炎瓶
攻撃人数 最大で約4千人[2]
死亡者 0人[1]
負傷者 88人(27人が沖縄住民)[1]
損害 車両82台[1]
防御者 米軍憲兵250人、琉球警察官約500人[2]
対処 34人を逮捕、うち10人を起訴
復元された首里城
沖縄県の歴史年表



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沖縄県

アメリカ合衆国による沖縄統治
沖縄県
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関連項目
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コザ暴動(コザぼうどう、英語: Koza Riot)とは、1970年昭和45年)12月20日未明、アメリカ施政権下の沖縄コザ市(現在の沖縄県沖縄市)で発生したアメリカ軍車両および施設に対する焼き討ち事件である。直接の契機はアメリカ軍人が沖縄人[3]をはねた交通事故であるが、その背景には米施政下での圧制、人権侵害に対する沖縄人の不満があった。コザ騒動(コザそうどう)、コザ事件(コザじけん)、コザ騒乱(コザそうらん)とも呼ばれる。

背景[編集]

コザ市はアメリカ軍嘉手納飛行場と陸軍キャンプを抱え、アメリカ軍人・軍属相手の飲食店土産品店質屋洋服店が立ち並び、市民には基地への納入業者、基地建設に従事する土木建築労働者、基地で働く軍雇用員も多かった。事件当時はベトナム戦争の最中で、沖縄を拠点に活動していたアメリカ軍関係者の消費活動は著しく、市の経済の約80%は基地に依存、産業構造は第三次産業に著しく偏向し、特にアメリカ軍向け飲食店(Aサイン)は「全琉のほぼ3割を占める286軒」が集中していた。

アメリカ軍人・軍属の犯罪[編集]

アメリカ軍施政下の沖縄において、沖縄の人々には日本およびアメリカの憲法のどちらも適用されず、身分的にきわめて不安定な立場に置かれていた。

アメリカ軍人・軍属の起こした犯罪の捜査権・逮捕権・裁判権はアメリカ軍当局に委ねられており、加害者は非公開の軍法会議において陪審制による評決で裁かれたが、殺人強盗強姦などの凶悪犯罪であっても証拠不十分として無罪や微罪になったり、重罪が科されても加害者の本国転勤でうやむやになることも多く、また沖縄の住人の被害者が賠償を受けられることはほとんどなかった。

琉球警察はアメリカ軍人・軍属の犯罪への捜査権を持たず、米民政府布令に定められた一定の犯罪でアメリカ軍憲兵(MP)が現場にいない場合のみ現行犯逮捕することができたが、加害者の身柄を速やかにMPに引き渡さなければならなかった。また交通事故は現行犯逮捕可能な犯罪に含まれず、加害者が公務外(非番)であってもMPが「外人事件報告引継書」にサインしない限り琉球警察は事件として捜査・逮捕すらできなかった。アメリカ軍人・軍属による重大事件や不当判決のたびに、琉球政府を筆頭に立法院、政党、各種団体などは強く抗議し、捜査権逮捕権裁判権の移管と被害賠償を強く求めてきたが、なんら改善されなかった。

事件当時の沖縄はベトナムからの帰還・一時休暇の兵士で溢れ、戦地で疲弊したアメリカ兵は基地外で薬物、女に溺れた。沖縄でのアメリカ軍人・軍属による犯罪は、それまで年間500件未満だったものが1958年から増加傾向を見せ、ベトナム派兵が本格化した1965年から1967年には1000件を超え、その後は減少傾向にあったものの、暴動の発生した1970年は960件と急増、そのうち348件がコザ市で発生している。内訳は凶悪犯143件、粗暴犯156件、器物毀棄罪212件で半数以上を占める。これに対し検挙者は436人、検挙率45.3%で、同年の民間犯罪検挙率80%を大幅に下回った。これとは別に交通事故は年間1000件を超え、死傷者は422人に上っている。何より加害者が現行犯逮捕されずに基地内に逃げ込めば、琉球警察は手を出せず、MPも追跡捜査をせず事件が迷宮入りする場合が多く、実際に起きた不法行為は上記をはるかに上回る。

このように多くの沖縄の人々が戦後25年にわたり人権を侵害されても泣き寝入りを強いられてきた。その苦しみは日本国憲法下での保護を求め「即時・無条件・全面返還」(基地撤去)を掲げる復帰協の運動にもつながるものだった。

復帰合意[編集]

1969年11月21日佐藤ニクソン共同声明で日米両国は沖縄の 「核抜き、本土並み、72年返還」に合意した。アメリカ軍基地を残したままでの頭越しの復帰合意に、前年に初めて公選で行政主席となった屋良朝苗や復帰協など革新系団体は強く反発した。またこれとは逆に、基地関連業者は基地撤去 による廃業・失業を恐れ、以前から「即時復帰反対」を訴えていた。

共同声明の2週後の12月4日、アメリカ軍は折からのドル危機と沖縄返還を控えた経費削減のため、沖縄人軍雇用員26000人のうち2400人の大量解雇を通告。これに対し沖縄最大の労働組合であった全軍労は強力な解雇撤回闘争で対決する という方針を打ち出し「首を切るなら基地を返せ」というスローガンのもと、翌1970年1月から48時間、120時間と 長時間のストライキをその後も繰り返し展開した。

これに対しアメリカ軍はストのたびに、アメリカ軍人・軍属・家族に特別警戒警報「コンディション・グリーン(特定民間 地域への立ち入り禁止)」さらに「コンディション・グリーン・ワン(実質的な外出全面禁止)」を発令このような 処置は一般に「オフリミッツ」と呼ばれ、これはアメリカ軍人が民間地において不要のトラブルを避けることが表向きの 理由だが、実質的にはアメリカ軍相手の沖縄人業者の収入源を絶ち、基地周辺の経済を疲弊させることによって軍の意に沿わ ない運動に圧力をかける意図があった。

毒ガス漏洩[編集]

アメリカ軍はベトナム戦争用の兵器として、コザ市に隣接する美里村(現沖縄市)知花弾薬庫などに致死性の毒ガス(主要成分はイペリットサリンVXガス)を秘密裏に備蓄していた。しかし1969年7月8日ガス漏れ事故が発生、軍関係者24人が中毒症で病院に収容されたことが同月内に米ウォールストリート・ジャーナルの記事で明らかになった。アメリカ国外での毒ガス備蓄は沖縄のみで、周辺住民は事故の再発におびえ、島ぐるみの撤去要求運動がおこった。

糸満轢殺事件[編集]

上記のようにアメリカ兵の不法行為について法的に保護されない中、沖縄人は事件発生のたびに団結し示威行動で処遇改善を 要求するしかなかった。1970年9月18日糸満町(現・糸満市)の糸満ロータリー付近で、酒気帯び運転かつスピード違反のアメリカ兵が歩道に乗り上げて沖縄人女性を轢殺する事故を起こした。地元の青年たち は事故直後から十分な現場検証と捜査を求め、現場保存のため1週間にわたってMPのレッカー車を包囲し事故車移動を阻止 した。また地元政治団体とともに事故対策協議会を発足させ、琉球警察を通じてアメリカ軍に対し司令官の謝罪・軍法会議の 公開・遺族への完全賠償を要求した。(この事件は、糸満女性轢殺事件または糸満主婦轢殺事件とも言う)

暴動発生の月[編集]

糸満轢殺事件で1970年12月7日に軍法会議は、被害者への賠償は認めたものの、加害者は証拠不十分として無罪判決を下した。沖縄人の多くがこの判決に憤り、12月16日に糸満町で抗議県民大会が開かれた。さらに暴動前日の12月19日には、美里村の美里中学校グラウンドで「毒ガス即時完全撤去を要求する県民大会」(上記の糸満事件無罪判決に対する抗議も決議文に含む)が開かれ、約1万人が参加した。

事件の勃発[編集]

1970年12月20日午前1時過ぎ、コザ市の中心街にある軍道24号線(現在の県道330号線)を横断しようとした沖縄人軍雇用員(酒気帯び)が、キャンプ桑江(CAMP LESTER)のアメリカ陸軍病院所属のアメリカ軍人(同じく酒気帯び)の 運転する乗用車にはねられ、全治10日間ほどの軽傷を負う事故が発生した(第1の事故) この時点で数百人規模になっていた群集は半ば暴徒と化し、公然と車道に出て、当時黄色のナンバープレートによって 区別されていたアメリカ軍人・軍属の車両が走行してくると進路を妨害するなどしたため、MPおよび警察官は秩序維持のため応援部隊を要請。 隊伍を組み直したMPは午前2時15分ころ拳銃による威嚇発砲を行い、暴行を受けていた運転手を救出。しかし発砲で一旦ひるんだ暴徒はかえって怒りを爆発させ、MPを投石で押し返すとともに、2時30分前後から沿道に駐車中のアメリカ軍車両や放置されたMPカーを車道中央へ押し出し、次々と放火した。

事件の拡大と収束[編集]

午前3時ころには、琉球警察は第三号召集(全警察官1200人の最大動員)を発令、アメリカMPも完全武装の兵員配備を要請したが、暴動発生現場の制圧は不可能と判断しいったん周辺へ退いた。最終的に警察官は約500人MP・沖縄人ガード(警備員)約300人、米軍武装兵約400人が動員された。また米民政府は午前3時30分、コザ市全域に24時間の「コンディション・グリーン・ワン」を発令した。

琉球政府では、屋良朝苗行政主席が東京出張で不在のため、知念朝功副主席が午前5時55分に現地に到着して事態の収拾を指揮した。警察は宣伝カーを繰り出して群集に帰宅を呼びかけ、午前7時30分までに暴動は自然収束した。結果、車両75台以上[4] アメリカ軍人40人、沖縄人ガード5人、アメリカ軍属16人、地元住民14人、容疑者7人、警察官6人が負傷したが、暴動につきものの民家・商店からの略奪行為は発生していない。 事件上特徴的なのは、政治党派の組織的な指導指揮がなく自然発生的であったことである。

事件後[編集]

事件の報道を受けて、それまでアメリカ軍支配に対して鬱屈した感情を抱いてきた沖縄人の多くが快哉を叫んだ。 逆に、ランパート高等弁務官は暴動当日、民間テレビ局を通じ、暴動を強く非難するとともに、予定されていた毒ガス移送の延期を示唆した。この発言は沖縄人の怒りを買っただけでなく、 アメリカ本国からも越権行為と批判され、毒ガス移送は予定通り進めることとなった 毒ガス兵器は、アメリカの領土であるジョンストン島へ撤去移送された。第1次移送は1971年1月13日、第2次移送は7月15日から9月9日までの56日間にわたって行われ、周辺住民約5000人が避難生活を余儀なくされた。

日本政府は米側に対し、事件の発生に遺憾の意を表明したうえで、沖縄住民の感情にも十分留意しつつ、再発防止のため 原因究明に努め、円滑な沖縄復帰のために建設的な協力を申し入れた。その結果、1971年1月5日、アメリカ軍は 軍法会議に琉球政府代表がオブザーバーとして参加することを認めた。

逮捕者[編集]

当日に21人が逮捕された後、琉球警察は暴動の翌年1971年1月8日に騒擾罪容疑で10人を逮捕。 最終的には34人が事件送致された。 沖縄タイムス2010年12月17日[http://www.okinawatimes.co.jp/article/2010-12-17_12894/

琉球新報1999年9月4日http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-95234-storytopic-86.html

出典・参考文献[編集]

  • 「米国が見たコザ暴動」沖縄市企画部平和文化振興課
  • 「沖縄県警察史 第二巻」沖縄県警察史編纂委員会
  • 「コザ市史」コザ市編
  • 「沖縄大百科事典」沖縄タイムス社編
  • 「KOZA 写真がとらえた1970年前後」沖縄市企画部平和文化振興課
  • 「高等学校琉球・沖縄史」新城俊昭
  • 「新歩く・みる・考える沖縄」沖縄平和ネットワーク編
  • 「わが外交の近況 昭和46年版」外務省

脚注[編集]

  1. ^ a b c d “[http://www.nishinippon.co.jp/nnp/culture/kayou/20061014/20061014_001.shtml 九州歌謡地図 コザ暴動 支配への怒り臨界点に達し]”. 西日本新聞 (2006年10月14日). 2012年4月12日閲覧。
  2. ^ a b c d e f 新報アーカイブ・あの日の紙面 車両炎上 コザ騒動(1970年12月21日)”. 琉球新報 (2009年12月25日). 2012年4月12日閲覧。
  3. ^ 当時の沖縄住民は日本およびアメリカのどちらの憲法も適用されない不安定な身分であったことを鑑み、以下便宜上「沖縄人」と表記する。公式の表現は「琉球住民」である。
  4. ^ 「沖縄県警察史」では75台、「米国が見たコザ暴動」収載のアメリカ軍秘密通信ではアメリカ軍人車両72台、軍車両6台、軍消防車1台、オートバイ3台の計82台。軍有車両を除けば両者の数値は一致する。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]