北山王国
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北山王国(ほくざんおうこく)、または山北王国(さんほくおうこく)は、今帰仁村を中心として主に現代の沖縄県国頭郡の地域に存在していた王国である。
現在鹿児島県に属する与論島と沖永良部島も北山王国の版図に含まれていた。[1]
山北は中国(明)側からの呼称である。
概要[編集]
14世紀の初め頃、北山世主の今帰仁按司が周辺の按司を従え、今帰仁城主(世之主)の座に付く。1322年頃に世主一族の羽地按司(怕尼芝)が北山王国を建国した[2]。琉球北部の羽地按司(怕尼芝)、南部の大里按司(承察度)、中部の浦添按司と共に「三大按司」と呼ばれる勢力を形成したとされる[2]。なお、怕尼芝が建国する以前の北山世主が治めた時代を「中北山」、怕尼芝王統時代を「後北山」と呼んで区別する。
また、14世紀中に沖永良部島と与論島が北山王国の勢力範囲に入る。
一説には1394年に王の珉が中国(明)に朝貢したとあるが、『琉球国志略 巻四』には1385年(洪武18年)に山北王として「琉球国山北王」の賜印を受けたとある[3]。ともかく進貢貿易によって栄えるが、1416年に中山王国の尚巴志によって滅ぼされる[4]。山北王賜印の行方は分かっていない。滅亡後は、北山監守が置かれた[5]。
王城は代々今帰仁城(附シイナ城)であり、北山監守も引き続き今帰仁城に都した[6]。
北山王国の領域であった沖縄島北部と伊江島、伊是名島、伊平屋島、古宇利島、屋我地島、瀬底島、水納島、および鹿児島県の与論島と沖永良部島では、沖永良部与論沖縄北部諸方言が話されている。
歴代国王[編集]
脚注[編集]
- ^ 『山川 詳説日本史図録 第5版』 p.126に勢力図が載っている
- ^ a b 参考・全国歴史教育研究協議会編 『日本史B用語集』 山川出版社 第1版第16刷1998年(第1刷1995年) ISBN 4-634-01310-X p.84.
- ^ 徐(1991)
- ^ 『山川 詳説日本史図録 第5版』 山川出版社 2011年 ISBN 978-4-634-02525-7 p.126.三山対立を1326年頃と記し、対立から90年後に滅ぼされた。
- ^ 大石直正 高良倉吉 高橋公明 『日本の歴史14 周縁から見た中世日本』 講談社 2001年 ISBN 4-06-268914-6 pp.173 - 174.
- ^ 工藤雅樹 『古代蝦夷』 吉川弘文館 2011年 ISBN 978-4-642-06377-7 p.236.
参考文献[編集]
- 『中国・琉球交流史』徐恭生(1991)、西里喜行・上里賢一訳、ひるぎ社
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