尚真王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
尚真王
尚眞王
琉球国王
King Sho Shin.jpg
尚真王の御後絵向元瑚画、1796年
在位 1477年 - 1527年
全名 尚真
神号 於義也嘉茂慧
出生 1465年
成化元年)
琉球王国首里
死去 1527年1月13日
嘉靖5年12月11日
琉球王国、首里
埋葬 1527年
琉球王国、首里、玉陵
王世子 尚清
配偶者 (号は居仁。尚宣威王の長女)
  夫人:思戸金按司加那志(号は華后)
  夫人:銘刈子の娘
子女 尚維衡
尚朝栄
尚韶威
尚龍徳
尚清
尚享仁
尚源道
佐司笠按司加那志
王朝 第二尚氏王統
父親 尚円王
母親 宇喜也嘉
テンプレートを表示
島津忠良宛琉球国世主(尚真王)書状(1526年)

尚 真王(しょう しんおう、旧字尚 眞王1465年成化元年) - 1527年1月13日嘉靖5年12月11日))は、琉球王国第二尚氏王統の第3代国王(在位1477年(成化13年) - 1527年(嘉靖5年))。第二尚氏王統・初代国王尚円王の子。童名は真加戸樽金(まかとたるかね)。神号は於義也嘉茂慧(おぎやかもい)。

即位[編集]

1476年に第二尚氏王朝を開いた尚円王が没すると、実子のマアカトダルが幼かったため、王弟の尚宣威が王位に就いた。ところが半年後に行われた即位式で新国王を讃えるはずのキミテズリ神からマアカトダルを讃える神託を下された。これにより、宣威王は退位し、12歳のマアカトダルが尚真王として即位し以後50年にわたり統治する。これは王府の女官に力を持っていた母后オギヤカの陰謀と考えられている。[1]

中央集権体制の確立[編集]

初期の頃は幼少であり、母后が政務を見ていたという記録が、当時琉球に漂着した朝鮮人の記録にも見える。[2]

50年にわたった尚真王の最大の事跡は、中央集権体制を確立し、第二尚氏王統の権力基盤を安定させたことである。

そのために、各地に割拠して力を持っていた按司を首都・首里に集居させ、地方には代わりに按司掟という役人を派遣して領地を管理させた。首里に住む按司には領地に応じた収入を保証した。按司には位階が与えられ、身分に応じてハチマキの色やかんざしの種類が決められた。

また地方制度を改革し、現在の市町村に相当する地域を間切、字に相当する地域をシマとした。

また神女聞得大君の元に組織化し、各地のノロをその統制下においた。初代の聞得大君には王の妹、月清が就任する。妹の霊力で政治を行う兄を守護するというおなり神信仰であるが、同時に神祗面での中央集権化である。

さらに、中央官庁には王を補佐する三司官(世あすたべ)を置いた。

1500年弘治13年)には八重山諸島で起きたオヤケアカハチの乱を平定し、さらに1522年(嘉靖元年)には与那国島を征服し、版図を拡大した。宮古・八重山から奄美に至るまで琉球王国に服属するに至った。

文化の興隆[編集]

家族[編集]

  • 父:尚円王
  • 母:宇喜也嘉/世添大美御前加那志
  • 妃:居仁(生没年不詳。尚宣威王の長女)
  • 夫人:
    • 思戸金按司加那志(号は華后。生年不伝 - 1516年(正徳11年)3月11日。父は謝氏二世知名親雲上成良、崎山村仲里家の祖)
    • 銘苅村銘苅子の娘
  • 子女:
    • 長男:尚維衡・浦添王子朝満(童名・思徳金、号・月浦。1494年(弘治7年) - 1540年(嘉靖19年)11月11日。 小禄御殿一世、母は妃)
    • 次男:尚朝栄・大里王子(生没年、母、葬地不詳。後裔なし。位牌は天界寺)
    • 三男:尚韶威・今帰仁王子朝典(童名・真武體金、号・宗仁。生日不伝 - 嘉靖年間具志川御殿一世)
    • 四男:尚龍徳越来王子朝福(童名・真三良金、号・雲体。生没年、葬地不詳。向氏嘉味田殿内一世)
    • 五男:尚清・中城王子(のち即位。母は華后)
    • 六男:尚享仁・金武王子(生没年、母、葬地不詳。後裔なし。位牌は天界寺)
    • 七男:尚源道・豊見城王子(生没年、母、葬地不詳。後裔なし。位牌は天界寺)
    • 長女:佐司笠按司加那志(童名・真鍋樽、号・慈山。生没年不詳。母は銘苅子の娘、向氏湧川殿内二世・見里王子朝易に嫁ぐ)

冊封使(1479年)[編集]

  • 正使:董旻(兵科給事中)
  • 副使:張祥(行人司右司副)

脚注[編集]

  1. ^ 新城俊昭「琉球・沖縄史」東洋企画
  2. ^ 新城俊昭「琉球・沖縄史」東洋企画
  3. ^ 新城俊昭「琉球・沖縄史」東洋企画

外部リンク[編集]

注釈[編集]