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尚育王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
尚育王
琉球国王
尚育王の御後絵毛長禧画、1852年
在位 1835年-1847年

全名 尚育
名乗 朝現[1]
烏帽子親 毛廷勷・池城親方安昆[2][3]
出生 (1813-08-19) 1813年8月19日
琉球王国首里
(現:日本の旗 日本沖縄県那覇市
死去 1847年10月25日(1847-10-25)(34歳没)
琉球王国・首里
埋葬 1847年
琉球王国・首里玉陵
王世子 尚泰
配偶者 佐敷按司加那志 向元貞
子女 別記
家名 第二尚氏
王朝 第二尚氏王統
父親 尚灝王
母親 具志堅按司加那志
サイン
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尚育王(しょういくおう、1813年8月19日嘉慶18年7月24日) - 1847年10月25日道光27年9月17日))は、琉球第二尚氏王朝第18代国王。在位1835年 - 1847年尚灝王の子で、琉球最後の国王尚泰の父。童名は思徳金(うみとくがね)。書家としても知られる[4]

主な経歴

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父・尚灝王が亡くなった1835年(道光15年)に22歳で即位する。但し尚灝王の体調不良により(通説では精神病を患ったとされる)1828年(道光8年)に摂位し、15歳で実質的な王位に就いた。

1829年には、鹿児島の御用商人からの借財がかさんでいたため、増税や官人層の給与削減などによる厳しい財政再建策を示した[5]。一方で、士族の教育の為の学校を作るなど学問分野において力を入れるが、このことはさらなる財政逼迫を生じさせた[6]。在位中に死去、34歳。王位は次男の尚泰が継承した。

在位中、1844年(道光24年)、フランス海軍が那覇へ来航すると、フランス側の要求で貿易と宣教師テオドール=オギュスタン・フォルカードを滞在させて布教するのを許可した。1846年(道光26年)、フランスから開国を迫られ、入港を許可し、フランス海軍はフォルカードを伴い、帰国したという。同年、英国海軍が入港し、宣教師ベッテルハイムが逗留した。翌1847年(道光27年)、キリスト教の宣教師が滞在していたことを薩摩藩に報告。

家族

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  • 父 : 尚灝王
  • 母 : 具志堅按司加那志
  • 妃 : 佐敷按司加那志 向元貞(童名・思真鶴金。1814年(嘉慶19年)10月20日 - 1864年(同治3年)12月17日。豊見城御殿7世・豐見城王子朝春の女)
  • 夫人 : 真南風按司加那志(童名・真牛金。1824年(道光4年)9月15日生。向氏多嘉良殿内7世・多嘉良親方朝清の女)
  • 子女
    • 長男 : 尚濬・中城王子(童名・思五郎金。1832年(道光12年)7月18日 - 1844年(道光24年)8月21日。早世)
    • 次男 : 尚泰・中城王子朝憲(母は妃の佐敷按司加那志。のち即位する)
    • 三男 : 尚弼・今帰仁王子朝敷(童名・思樽金。母は真南風按司。1847年(道光27年)6月4日 - 1915年(大正4年)8月11日。今帰仁御殿元祖)
    • 長女 : 国場翁主 (童名・真鍋樽、号は妙香。1830年(道光10年)5月3日生)
    • 次女 : 末吉翁主(童名・真牛金。母は真南風按司。1838年(道光18年)5月28日生。与那城御殿8世・与那城按司朝知に嫁ぐ)
    • 三女 : 上間翁主 (童名・恩真松金。母は真南風按司。1841年(道光21年)3月15日生。馬氏国頭御殿14世・国頭按司正全に嫁ぐ。)
    • 四女 : 兼城翁主(母は真南風按司。1842年(道光22年)11月20日生。向氏幸地殿内14世・幸地親方朝常に嫁ぐ)
    • 五女 : 照屋翁主(童名・真嘉戸樽、母は真南風按司。1844年(道光24年)11月10日生。向氏森山殿内13世・森山親方朝盛に嫁ぐ)

脚注

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  1. ^ 王代記[リンク切れ]』、53ページ
  2. ^ 王代記[リンク切れ]』、58ページ
  3. ^ 中山王府相卿伝職年譜 Archived 2011年10月9日, at the Wayback Machine.』、17ページ
  4. ^ 尚育王の「書」発見 1838年、国宝級”. 琉球新報. 2019年5月16日閲覧。
  5. ^ 中塚武 監修「一八二九年の財政再建策」『気候変動から読み直す日本史6 近世の列島を俯瞰する』p33-34 2020年11月30日 臨川書店 全国書誌番号:23471480
  6. ^ 首里城公園管理センター - 首里城 ‐ 琉球王国の栄華を物語る 世界遺産 首里城”. 琉球新報. 2019年5月16日閲覧。
先代
尚灝王
第二尚氏18代琉球国王
1835年 - 1847年
次代
尚泰王