奄美群島の歴史

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奄美群島 > 奄美群島の歴史

奄美群島の歴史(あまみぐんとうのれきし)は、奄美群島の歴史を概説する。

先史時代[編集]

奄美群島での人の痕跡は、約3万年前のものと推定されるアマングスク遺跡(徳之島)で、南西諸島最古級の遺跡である。土浜ヤーヤ遺跡(奄美大島)、喜子川遺跡(同)などは旧石器時代から縄文時代初期の遺跡と言われ、姶良カルデラ火山灰(2万4000年前〜2万2000年前)と鬼界カルデラの火山灰(約6400年前)も確認されている。

日本本土沖縄諸島地方と交流は、縄文時代・弥生時代古墳時代などを通じて活発に行われていた。宇宿貝塚(奄美大島)からは、南島起源の宇宿下層式土器と共に、九州の縄文後期の市来式土器や、種子島屋久島口永良部島が起源の一湊式土器が出土している。また、瀬戸内海系の里木式系土器が神野貝塚(沖永良部島)で出土するなど、多くの遺跡で北方と南方の混在、影響を受けた製品、さらに独自に発展したものが確認されている。逆に、市来貝塚(鹿児島県いちき串木野市)からは、地元の市来式土器と共に奄美大島の嘉徳II式によく似た土器と、オオツタノハガイ貝輪が出土しており、薩摩半島への伝播も確認されている。ただ、宇宿貝塚(奄美大島)や住吉貝塚(沖永良部島)などで検出された住居跡は方形状に並べたもので、九州のそれとは形態が異なっている。4-5世紀には地元産のスセン當式土器(沖永良部島)が、6世紀には兼久式土器[1](奄美大島)が出現した。同時に金属製品も出土しているため、鉄器の製造開始はこの年代の可能性が指摘されている。

ヤコウガイなどは、螺鈿の原料として重要な交易品であった。マツノト遺跡(奄美大島)、小湊フワガネク遺跡(同)などで螺鈿原料の加工跡が確認され、開元通宝(奄美群島から八重山列島まで出土)も広く出土しており、商人の広範な活動の証拠とされている。

古代[編集]

奄美の存在が日本の歴史書に登場するのは7世紀で、『日本書紀』には657年斉明天皇3年)に「海見嶋」、682年天武天皇11年)に「阿麻弥人」、『続日本紀』には699年文武天皇3年)に「菴美」、714年和銅7年)に「奄美」とあり全て奄美(大島)のことだと考えられ、当時の日本の中央との交流があったことがわかる。733年天平5年)の第10回遣唐使は、奄美を経由してへ向かっている。735年(天平7年)に朝廷は、遣唐使の往来上の利便のため碑を南島に建てた。『延喜式』雑式には規定が書かれており、島名のほか停泊所や給水所が書き込まれ、奄美群島の各島々にこの碑が建てられたとしているが、未だ実物の発見は無い。また、遣唐使に奄美語通訳を置くことも記されている。

奄美群島に含まれる喜界島は大島とは多少異なる歴史があり、例えば長徳4年(998年)に太宰府から喜界島に対し反乱を起こした南蛮人(大島の島民)を征伐するよう命が下りている。中世の琉球王国による征服も大島は1447年、喜界島は1466年である。

997年長徳3年)に長徳の入寇(新羅の入寇の一)があった際には、対馬、肥前、壱岐、肥後、薩摩、大隅など九州の広範囲にわたり襲撃を受け男女300名がさらわれたと言われているが、被害が広範囲のため、高麗国のみならず、南蛮の入寇として奄美も賊に参加していたといわれる。伝記でも『日本紀略』『小右記』『百練抄』にはすべて「高麗国人」とあるが、『紀略』は南蛮の賊、奄美島人という『小右記』にみえる報告書の説を採って統一している。当時、現地でも混同されていた可能性もある。これにより翌年、大宰府からの追捕命令が「貴駕島」に発せられている。この貴駕島は現在の喜界島と考えられ、城久遺跡(喜界島)が発見されたことにより、ここが命令を受領した大宰府の出先機関と推定されている。

この時代までを「奄美世(あまんゆ)」とも呼ぶ。

中世[編集]

この時代の奄美群島は、遺跡や伝承、また群島外の歴史書によって様子の推定が行われている。

大和からは、安元3年(1177年)の鹿ケ谷の陰謀により、俊寛が薩摩・「鬼界ヶ島」に配流されたと伝わる。また、『吾妻鏡元暦元年(1184年)の条には、阿多忠景の乱を起こした伝・薩摩平氏阿多忠景(伝・平忠景)が「鬼界ヶ島」に逃亡、源頼朝が義経征伐を兼ねて同島を征討し地頭を置いたと記録される。この「鬼界ヶ島」は、俊寛については喜界島に比定する説と、薩摩硫黄島に比定する説とがある。吾妻鏡については不詳。

漂到琉球国記』(1243年)や『元亨釈書』(1322年)では、日本本土から見て奄美は日本の影響下にあり「貴海国」と称され、いっぽう奄美より南の「琉球国」は異域と見做されていた。13世紀頃の『平家物語』でも、奄美と沖縄は違うと捉えられていた。『漂到琉球国記』では肥前松浦党の一派が「琉球国」のいずれか(奄美から台湾までのいずれかは不明)に漂着、原住民と接触した様子が伝承として記されている[2]

奄美群島には、北隣のトカラ列島と同じく平家の落人伝説がある。平資盛が壇ノ浦の戦いから落ち延びて喜界島に潜伏、のち平有盛平行盛と共に奄美大島に入ったと言う。大島の名瀬浦上には平有盛神社が、大島の戸口には平行盛神社もある。

奄美群島でも、按司(領主層)やグスク(城砦)を支配層を語る上で使うが、沖縄本島発祥のこの名称自体、一部を除き当時使用した証拠は無い。事実、現在グスクと呼ばれる遺跡の多くがヒラ、ハラ、モリなど違う名称であった。11世紀頃、グスクの構築が始まる。奄美群島のグスクは集落ごとに複数築かれ、規模はそれほど広くなく住民の共有の施設でもあった。グスクは浜を見下ろす立地をとるものも多いが、集落背後の山の中腹や山頂などにも築かれ、複数(3〜4個)のグスクで有機的な防衛網を構築していた。交易の利便性と、海からの襲撃に対応するためである。その後、グスクは按司により采配されるようになり、そこに拠って互いに抗争していた。按司の中には、日本本土からの移住者との伝承を持つ者も居た。海賊や島外勢力の襲撃に対して、住民を率い戦い、英雄と讃えられる者も出現した。カムィヤキ古窯跡群(徳之島)で生産されたカムィヤキ(類須恵器)は、琉球弧全体に流通の広がりを見せており、それを生産販売する勢力の存在が考えられるが判明していない。12世紀には中尊寺金色堂で奄美産の蝶細がみられるなど、本土との交易も盛んであった。倉木崎海底遺跡(奄美大島)などで、12世紀後半 - 13世紀頃の中国陶磁器が大量に引き揚げられており、中国との交易も確認されている。

鎌倉時代に入り北条得宗領(すなわち執権北条氏惣領嫡流による直轄領)とされ、実務上は得宗被官である千竈氏の采配地となった。『千竈時家処分状』(千竈文書)によって明らかにされており、また『金沢文庫』中の日本地図に「雨見嶋、私領郡」と記載されている。『六波羅御教書』では海上運輸と流通の権益を握り、在地勢力と封建制の関係に有ったと考えられる。その支配体制は、北方の得宗被官安東氏との比較検討が行われている。鎌倉幕府滅亡後、千竈氏の在地勢力は島津氏の支配下に入る。南北朝から室町時代の島津氏は九州南部で内紛に明け暮れたため、記録には当時の様子が余り語られていないが、交易の利益と相まって奄美大島など南島への関心と間接的な関与は推定される。

奄美群島は両者の交易などの往来が盛んになる一方、利害がぶつかる土地となり、紛争も多発したと推定される。文献上の記録に現れるのは後述の1493年の琉球・日本甲船の武力衝突を待たねばならないが、当時、奄美大島や喜界島は島津氏等の大和の武家勢力が関心を寄せていただけではなく、九州海商や倭寇の拠点でもあった。このように大島内の按司勢力、琉球勢力と大和勢力、倭寇などが軍事衝突を繰り返したと考えられ、この衝突は次代の那覇世(なはゆ)を経て薩摩侵攻まで続いたと考えられる。

この頃から奄美大島の系譜上で語られる伝説時代に入る。笠利町誌によると、琉球の舜天王統3代義本の子孫である奄美大王(奄美大主、奄美大守)が大島に君臨していたと言う伝承、義本王伝説がある。大島の芝家伝承によれば、義本は退位後に「阿麻弥(あまみ)島」に渡り、義本の子・継好(つぐよし)が奄美大守を称し、芝家を興したとされる。奄美大王は辺留城を拠点にしたとも伝わるが定かではない。このほか喜界島にも義本王(ジブンシュー)伝説がある。徳之島にも義本の子孫が匿われた伝承がある。琉球の『中山世譜』など史書では、後述の第二尚氏尚円王の父・尚稷も、義本の末裔であるとされているが、これら奄美地方の伝承と尚稷や、各地の在地按司勢力との具体的な関係は未だ明らかではない。

この時代の頃から次代の琉球の影響を受ける頃までの期間の重要な遺跡として喜界島城久遺跡群手久津久遺跡群がある。

按司が登場してからを「按司世(あじんゆ)」とも呼ぶこともあるが、この時代までを「奄美世(あまんゆ)」と呼ぶこともある。

琉球時代[編集]

1266年、奄美群島から沖縄本島の英祖王に入貢した事が、『中山世鑑』などの琉球正史に記されているが、交易の存在を元に創作されたと考えられる。当時の沖縄地域は群雄割拠の状態であり、英祖王の勢力は沖縄本島の一部を支配しているに過ぎず、それ以前から奄美群島に対して行われていた日本本土からの直接的な移住や出先機関の設置と同様な能力がある事も考えられないため、後に宗主国の明に倣った琉球版冊封体制の装飾であると考えられる。

14 - 15世紀頃から琉球勢力の影響が奄美群島にも及び始める。琉球の三山王国や、15世紀半ば成立の琉球王国は日本・中国との中継貿易を盛んに行っており、奄美群島地域を巡っても琉球勢と本土勢との衝突が繰り返された[要説明]1466年文正元年)には琉球使節が室町幕府将軍・足利義政に謁見しており(『親基日記』)。応仁の乱の後、室町幕府は島津氏に商人の往来の統制を命じ、琉球へは交易船の派遣を要請した。

琉球王国成立前後の状況は、沖縄本島からの距離もあって各島々で異なっている。奄美群島南部の沖永良部島与論島は、14世紀に沖縄本島北部に存在した北山王国の勢力圏に入った。徳之島のカムィ焼生産販売勢力の衰退した時期と一致している。

15世紀に入り、沖縄本島の統一を進めていた第一尚氏1416年北山王国を滅ぼし、その領土であった与論島沖永良部島に服従を要求する。沖永良部島において、北山王の一族であった島之主一家とその重臣達は使者船を侵攻と誤認して自刃、1429年に両島は琉球王国の領土に組み込まれた。次いで徳之島も服属し、島之主西世之主恩太良金が徳之島大親に任命された。この後、琉球王国によって奄美群島の地元領主階級は「大親」と呼称される。

1447年第一尚氏4代尚思達王が奄美大島を従わせた。1450年宝徳2年)から1462年寛正3年)まで、喜界島を攻略するためほぼ毎年攻撃を仕掛けていた(『李朝実録』)。1466年(文正元年)に尚徳王が自ら3000の兵を率いて喜界島を制圧、琉球王国はようやく奄美群島全域を支配下に置き、琉球の版図とした。しかし外征続きで、当時の国情を無視した膨張政策によって琉球王国は人心を失い、尚徳が早世したのち琉球那覇首里では群臣のクーデターにより尚円王が擁立されると、王位を簒奪される形で第一尚氏から第二尚氏へと王統が交代する。

琉球王国の大島支配体制は、全域支配の成った1466年(文正元年)に泊地頭を置き、群島各地に年貢の納付を改めて命じた。そのための蔵を天久寺(那覇市)に設け大島御蔵と呼んだ。また首里在勤として「奥渡より上の捌理」と言う役職も置かれた。

朝鮮王朝実録』の「成宗実録」成宗二十四年(1493年)条には、琉球と「日本甲船」が奄美で紛争となり、琉球が勝利したと記されている。「日本甲船」が大和の武家勢力か、あるいは九州船商の部隊、倭寇のいずれかは不明である。

15世紀末から16世紀に入ると、本格的な琉球王国の地方行政制度が敷かれる。この頃から大島でも間切の名称が文書に見え始める。間切ごとに「首里大屋子」が置かれ、その下に集落名を冠した大屋子や、その配下の与人・目差・掟・里主などを置いた。数多の家譜にその記録が現在も残っている。一例をあげれば、笠利為春が1504年に奄美大島に渡り、名瀬間切首里大屋子となっており、2代当主・為充が東間切首里大屋子に、第3代・為明が笠利間切首里大屋子に任命され(1568年)、為充・為明の琉球王からの任命書が現存している。

一方、大島制圧後も在地豪族による琉球への従属や反乱の離合集散が相次ぎ、琉球からは度々外征を受け鎮圧され、琉球は親方を派遣しての直接統治に乗り出した。喜志統(きしとう)親方は那覇首里の喜志統親雲上であり、1522年に笠利大屋子として大島の笠利間切に赴任し、琉球王府派遣役人の家系・喜志統として代々大島の笠利を治めたとされ、6代恩太良肥の時代に薩摩侵攻(1609年)を受けている。また、第二尚氏4代尚清王1497年弘治10年) - 1555年嘉靖34年))の頃、大島の有力な大親に与湾大親( - 1537年)が居たが他の大親に讒言され失脚、後に名誉回復される。また、1571年にも大島で大規模な反乱があり尚元王により鎮圧されている。この反乱では先の与湾大親の子孫が武功を挙げ馬氏として琉球にて興る。鎮圧の翌年、1572年(元亀3年)には蘇憲宜を大島奉行に任じ、動揺した奄美大島の統治に努めさせている。[3]

大島において祭政一致政策の一環として「ノロ」も置かれた。役人やノロの所領はそれまでの世襲を廃止して、一定期間ごとに転出するよう制度が改められ、在地住民との関係の切り離しと中央政府が一元的に人事を掌握するキャリア制度化が行われている。現在ノロ制度は、与湾大親の根拠地であった奄美大島西部に多く残っている。

琉球王国が奄美群島を版図に収める事ができた要因として、室町幕府の全国支配体制の弱体化が挙げれる。日本本土は群雄割拠と戦乱の時代に向かっており、京や関東はおろか九州からも遠く離れた辺境の奄美群島への関心は徐々に失われていった。その隙を狙い、琉球王国は勢力の拡大に成功したとも言える。例外的に、琉球王国や奄美大島の「隣国」にあたる薩摩大隅の守護を務める島津氏だけは交易などを通じて奄美群島への関心を持ち続けた。しかしこの時代は本土では室町時代から戦国時代に至る期間であり、島津氏も一族内や近隣領主、さらには九州島内での抗争や戦争に明け暮れ、南島の情勢に際し渡海遠征などは現実的でなかった。16世紀半ば、それでも島津氏は交易の利益独占のため本土から琉球へ渡る船を統制しようとし、嘉吉付庸説為朝始祖説を持出し琉球を従わせようとした。1587年天正15年)、豊臣秀吉に降った島津氏は領地争いの終了で軍事的経済的余裕が生まれ、秀吉から琉球に課された琉球軍役(兵糧米)を薩摩が半分肩代り(琉球は半分を負担)した事などを理由として、琉球王国に対する圧力を更に強めていった。

琉球王国の統治時代を「那覇世(なはんゆ)」とも呼ぶ。

近世[編集]

名越左源太南島雑話に描かれた、幕末期の砂糖取引の様子。民衆の服装は琉球と共通する。

1603年慶長8年)、江戸幕府が開かれて日本が新時代に入ると、幕府は中国大陸と通航を考えるようになり、薩摩藩主・島津忠恒に琉球王国に進出して明と通じることを許可した。1609年4月8日(慶長14年3月4日)、島津軍3000名余りを乗せた軍船が薩摩の山川港を出帆した。4月12日3月8日)に奄美大島へ上陸して制圧、4月26日3月22日)に徳之島4月28日3月24日)に沖永良部島を次々と攻略し、4月30日3月26日)には沖縄本島北部の運天港に上陸、今帰仁城を落として首里城へ迫った。尚寧は止む無く和睦を申し入れ開城した。島津軍は5月8日4月5日)に首里城を接収し、4月半ばには薩摩に凱旋帰国した。

薩摩藩は奄美群島を割譲させて直轄地とし(ただし対外的には琉球の一部とされた[注釈 1])、1613年(慶長18年)、代官所(赤木名、名瀬など、その他多数)や奉行所を設置した。中国や朝鮮からの難破船などに対応するため、引き続き王府の役人も派遣させていた。この頃の奄美群島は、薩摩からは道之島と呼ばれた。

薩摩は住民にサトウキビ栽培を奨励したが、薩摩藩の財政悪化と共に中・後期には搾取のようになり過酷になっていったといわれる。薩摩はサトウキビを原料とした黒砂糖を幕府や商人に専売することで莫大な富を得たが、サトウキビ中心の栽培はひとたび作物の不作が起こると飢饉に結びつくような有様だった。しかし、このころに黒砂糖を使った「セエ」(黒糖焼酎)が誕生している。庶民の嗜好品として評判となり密造酒が多数作られたが、黒砂糖の収穫が減ると困る薩摩藩がこれを取り締まらなければならないほどだった。主食は主にサツマイモだが、飢饉の時はソテツの実(なり)を毒抜きしたり、幹からでん粉サゴの一種)をとってなどに加工し食用とした。

奄美群島の民謡である島唄は、徳之島以北は本土と同じ五音音階陽音階(律音階。ヨナ抜き音階参照)で、日本民謡の南限という側面を持つ。一方で沖永良部島以南では琉球音階が用いられ、琉歌の北限という側面も持っており、琉球民謡の一翼を担っている。16世紀に弦楽器の三線が琉球からもたらされると島唄にも取り入れられた。

また、本国から離れたこの地は薩摩藩の流刑地とされていたが、送り込まれた罪人の中には知識人もおり、博学の彼等の中には住民に受け入れられた者もあった。幕末には西郷隆盛も流人生活を送り、龍家の娘・愛加那と婚姻し子供ももうけた。お由羅騒動に連座して流刑に処せられた名越左源太は、在島時の見聞を元に奄美大島の地誌『南島雑話』を著している。

薩摩藩の統治時代を「大和世(やまとんゆ)」とも呼ぶ。

近代[編集]

奄美群島は廃藩置県により鹿児島県に、追って1879年明治12年)4月の太政官通達[4]により大隅国に編入、大島郡が設置され、正式に日本の領域となる。1908年(明治41年)4月1日、島嶼町村制の施行に伴い、大島郡に16村が成立する。

第二次世界大戦中、連合国軍上陸の危険が高まった1944年昭和19年)7月以降、沖縄と並んで子供や女性、高齢者の本土疎開が進められた。同年9月には疎開船「武洲丸」が潜水艦に撃沈され、約160人の徳之島島民が犠牲となっている。このほか、近海では軍隊輸送船「富山丸」など多くの日本船舶が撃沈された。1945年(昭和20年)3月末からの沖縄戦の間、北隣の奄美群島には陸海軍合わせて2万人以上が守備に就いていた。特に奄美大島南部の瀬戸内町付近は要塞化(奄美大島要塞)が進められており、特攻兵器である震洋の基地も数箇所に置かれていた。しかし、奄美群島への連合国軍上陸は無く、全体として小規模な空襲だけに終わった。

現代[編集]

アメリカ占領時代[編集]

1945年(昭和20年)9月2日米軍によって本土から分割され米国民政府の統治下に置かれた。同年9月22日に行われた現地守備隊と米第10軍とで交わされた降伏調印式の際、日本軍守備隊は米軍側が用意した降伏文書に奄美群島が「Northern Ryukyu(北部琉球)」と書かれていることを発見、日本から分割する意図を悟り、鹿児島県所属であることを訴えて調印しなかった。これには米第10軍司令官が譲歩し、鹿児島県奄美群島であることを確認した後に降伏した。

1946年(昭和21年)2月2日、正式に日本からの行政分離が連合軍総司令部から発表され、米国民政府の命令により本土出身者が公職から追放、本土に強制送還となった。空席となった役職には地元出身者が就任し、10月3日臨時北部南西諸島政庁が成立した。1950年(昭和25年)11月25日奄美群島政府に改称。しかし民選で選出された知事は日本復帰を公約に掲げた人物であったため(他の民政府も同様)、不快を感じた米国民政府は権限の縮小を決意し、1952年(昭和27年)4月1日には首班が米国民政府任命である琉球中央政府及び奄美地方庁を設立して民政府の権限を縮小、後に廃止した。

それらの米国民政府の政治的動きや、沖縄戦で疲弊した沖縄本島への資金集中、本土との分離により換金作物や物産の販売経路の途絶などにより経済が疲弊し飢餓の兆候さえ出てきていた奄美群島の住民は不満を増大させた。分離直後から始まっていた奄美群島祖国復帰運動は激しさを増し、日本復帰を願う署名が1951年(昭和26年)2月19日より始まり、署名は最終的に14歳以上の住民の99.8%に達し、マハトマ・ガンディーの非暴力運動にならい集落単位または自治体単位でハンガーストライキを行い、小中学生が血判状を提出する事態も発生した。復帰運動の指導者に奄美大島日本復帰協議会議長の泉芳朗や、ロシア文学者の昇曙夢などがいる。

日本国との平和条約の1952年(昭和27年)4月28日発効によって日本の主権が回復することが決まると、アメリカは基地が少なく復帰運動の激しい奄美群島の統治を諦め、1952年(昭和27年)2月10日トカラ列島[5]、奄美群島も1953年(昭和28年)8月8日ダレス声明による権利放棄を受け、12月25日返還された。クリスマスであったことから、米国は「日本へのクリスマスプレゼント」として返還を発表した。

米軍占領・軍政時代を「アメリカ世(あめりかゆ)」とも呼ぶ。

本土復帰後[編集]

本土復帰

国政選挙[編集]

復帰後、衆議院選挙区として奄美群島選挙区が設置される。当時の衆議院は中選挙区制であったため、選挙区は複数議席とするのが原則だったのだが、奄美群島区のみは例外的に1議席であった。奄美群島区では2人の保守候補が競り合い、住民を二分する激烈な選挙戦が展開されている。奄美群島区は、小選挙区制導入の2年前である1992年に、一票の格差是正のため鹿児島1区に編入されて消滅する。小選挙区制下では、本土の一部ともに鹿児島2区を構成する。

米国施政下琉球での奄美出身者[編集]

奄美群島が復帰した後、沖縄県が日本に返還される1972年昭和47年)までの約20年間にわたり、沖縄の6万余人に及ぶ奄美群島出身者は、「在沖奄美人」と称されて様々な社会的制約や差別をうけることとなった。沖縄県がいまだアメリカの占領統治下にあったため、沖縄本島に出稼ぎに出ていた奄美群島出身者は戸籍上外国人となり、就労が難しくなるという経緯があった。公務員等の公職追放も行われ、当時の琉球銀行総裁もその一人である。また、参政権剥奪、土地所有権剥奪、奄美群島出身者以外の日本国民には認められた政府税の外国人優遇制度は奄美出身者には認められなかった。これは奄美復帰運動を、日本共産党の影響を受ける奄美共産党(奄美社会民主党)が主導し、その影響が沖縄県に及ぶのを阻止するためとも言われるが、実際はこれらの政策は沖縄本島住民が、奄美群島出身者によって職を奪われるとの危機感のもと、琉球列島米国民政府に陳情したことによる。また当時の沖縄タイムスなど在琉マスコミもこれを支持した。

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 例えば、明治期まで琉球の間切制度が温存されて国郡制や薩摩藩本土の外城・郷門割といった制度は導入されなかったし、公的な地図(例:元禄国絵図天保国絵図)においても琉球国の一部とされた。
  2. ^ 『鹿児島県管轄大島・喜界島・徳ノ島・沖永良部島・与論島ヲ以テ大島郡ト為シ,大隅国ヘ被属候条,此旨布告候事』

出典[編集]

  1. ^ 中山清美、「兼久式土器分類試論 : 奄美大島マツノト遺跡出土土器を中心に」『先史琉球の生業と交易 -奄美・沖縄の発掘調査からー』巻2、pp171-178、2006年、熊本、熊本大学 [1]
  2. ^ https://shoryobu.kunaicho.go.jp/Toshoryo/Detail/1000672140000
  3. ^ 奄美諸島編年史料 古琉球期編上
  4. ^ 明治12年4月8日太政大臣三条実美通達[注釈 2]
  5. ^ 十島村公式サイト「十島村略年表」

参考文献[編集]

関連項目[編集]