封建制

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封建制(ほうけんせい)とは、

  • 中国など漢字文化圏における政治思想において主張された、王朝を規範とする政治制度。
  • 西欧中世社会を特徴づける社会経済制度であるフューダリズムFeudalism)。Feudalismの訳語として、近・現代になって、中国語の「封建制」という言葉を援用・転用したもの。

両者は本質的に異なる概念であるため、詳細はそれぞれの節に記す。

中世封建制度(フューダリズム)[編集]

フューダリズムFeudalism)とは歴史学において中世北西部欧州社会特有の支配形態を指した用語であり、「封建制」と訳出される。土地を媒介とした国王・領主・家臣の間の緩やかな主従関係により形成され、近世以降の中央集権制を基盤とした絶対王政の中で消失した。

マルクス主義歴史学(唯物史観)においては、生産力と生産関係の矛盾を基盤として普遍的な歴史法則を見いだそうとするため、この理論的枠組みを非ヨーロッパ地域にも適用して説明が試みられた。この場合、おおよそ古代の奴隷制が生産力の進歩によって覆され、領主が生産者である農民を農奴として支配するようになったと解釈される社会経済制度のことを示す。

北西部ヨーロッパ[編集]

騎士と聖職者

ゲルマン人社会の従士制度(軍事的奉仕)と、ローマ帝国末期の恩貸地制度(土地の保護)に起源を見いだし、これらが結びつき成立したと説明されることが多い。国王諸侯に領地の保護(防衛)をする代償に忠誠を誓わせ、諸侯も同様の事を臣下たる騎士に約束し、忠誠を誓わせるという制度である。この主従関係は騎士道物語などのイメージから誠実で奉仕的な物と考えられがちだが、実際にはお互いの契約を前提とした現実的なもので、また両者の関係が双務的であった事もあり、主君が臣下の保護を怠ったりした場合は短期間で両者の関係が解消されるケースも珍しくなかった。

更に「臣下の臣下は臣下でない」という語に示されるように、直接に主従関係を結んでいなければ「臣下の臣下」は「主君の主君」に対して主従関係を形成しなかった為、複雑な権力構造が形成された。これは中世西欧社会が極めて非中央集権的な社会となる要因となった(封建的無秩序)。

西欧中世においては、特にその初期においてノルマン人イスラーム教徒マジャール人などの外民族のあいつぐ侵入に苦しめられた。そのため、本来なら一代限りの契約であった主従関係が、次第に世襲化・固定化されていくようになった。こうして、農奴制とフューダリズムを土台とした西欧封建社会が成熟していった。

日本[編集]

日本の封建制は武士による統治などの国内的要因が主となって形成された(天皇やその藩屏たる貴族は武士の権威を『根拠付ける』存在である)。西欧のフューダリズムで複数の契約関係や、短期間での契約破棄・変更がみられたのと同様、日本でも実際のところ戦国時代まで主従関係は後述の「御恩と奉公」の言葉で表現されるように一部双務的・流動的なものであり、「二君にまみえず」「君、君たらずとも臣、臣たれ」という語に示されるような主君への強い忠誠が求められたのは、江戸時代に入ってからである。

日本の封建制の成立をめぐっては、いくつかの説がある。鎌倉幕府の成立によって「御恩と奉公」が既に広義の封建制として成立したとする説で、第2次世界大戦前以来、ほとんどの概説書で採用されていた。この考え方では、古代律令国家の解体から各地に形成された在地領主の発展を原動力として、領主層の独自の国家権力として鎌倉幕府が形成された(鎌倉幕府の力は、日本全国に及んでいた訳ではない)とみなす。従って承平天慶の乱(承平5年、935年)がその初期の現われとみなされる。

日本中世史と日本近世史の間で、1953年から1960年代にかけて日本封建制成立論争が展開した(太閤検地論争とも呼ばれる)。その口火を切った安良城盛昭は、太閤検地実施前後の時期の分析から荘園制社会を家父長的奴隷制社会(=古代)とし、太閤検地を画期として成立する幕藩体制を日本の封建制と規定した。他には、院政期以降を成立期とする説(戸田芳実など)、南北朝内乱期を成立期とする説(永原慶二など)が提起された。

中国における発展段階論[編集]

周の封建制(後述)とは別に、中国史において唯物史観的発展段階論を適用した場合の封建制について述べる。

郭沫若はその著書『中国古代社会史研究』の中に於いて中国史に発展段階論を適用し、西周奴隷制の時代とし、春秋時代以降を封建制とした。これに対して呂振羽を奴隷制、代を封建制の社会だとして反論し、この論争は結論を見ないままに終わることになる。

これらの論の基準となる所は封建制の特徴とされる農奴の存在である。現在は春秋時代までの農耕民と牧畜民という文化の異なる都市国家・小国家間の戦争による捕虜などを供給源とした時代の奴婢を奴隷と見做し、戦国時代以降唐末までの奴婢を農奴と見る。

マルクス主義の立場をとる研究者からも、在地の地主に裁判権などの権力が備わっておらず、それらが国家権力の手に集中されており、封建制の重要な内容である領主権力が存在しないため、中国史における封建制概念を否定する見解が出された。封建制に代わる、中国史上の経済制度を特徴づける概念や歴史像はいまだ構築されていない。

中国史における「封建制」[編集]

中国王朝でおこなわれた封建制君主貴族に領域支配を認める制度。「分封建国」(ぶんぽうけんこく、領地を分けて国を建てること)から封建と呼ばれる[1]。同時に封建された貴族は君主の支配下に入る。後世に封建制の規範的時代とされた周代は都市国家の時代であり、周の王は大小の都市国家に対して支配権を及ぼしている長に対してこれを行った。一定の領地と結びついた爵位が授与され、引き換えに貢納や軍事奉仕などが要求された。

殷・周[編集]

初期から封建制が行われていたとみられるが、殷代封建制については詳しくはわからない。殷代には封建された国とは別に方国という国が存在しており、これらを外様あるいは異民族の国とする説がある。殷を方国の連盟の盟主と見る場合、封建された国はより殷の支配の強い国々であったと考えられ、したがって殷代には同族や直接支配下にあった部族の有力者が封建されたと考えられる。殷代の封建された所領について地名を比定する研究が続いている。

の時代には、各地にを基盤とした氏族共同体が広汎に現れ、周はこれらと実際に血縁関係をむすんだり、封建的な盟約によって擬制的に血縁関係をつくりだし、支配下に置いたと考えられている。

長子相続を根幹する体制を宗族制度といい、宗族制度と封建制度には当然関連性がある。宗族制度は紀元前2千年紀前半に一般的となったとされている。

春秋時代[編集]

宗族組織が解体されより集権的な官僚制に置き換わるとともに中国的な封建制度は徐々に消滅していった。宗族制度は春秋末期から戦国初期にかけて解体され、末端では邑を中心とする貴族支配が確立した。

また春秋時代には会盟政治と呼ばれる政治形態が出現した。これは覇者と呼ばれる盟主的国家が他国に対して緩い上位権を築く仕組みであるが、周王朝が衰え各国単独では北方・東方異民族の侵攻への対応が難しくなったため、新たな支配-被支配が必要となり誕生したと考えられている。会盟の誓約は祭儀的な権威に付託して会盟参加者に命令する関係を築いた。

戦国時代・秦以後[編集]

戦国時代には宗族組織はほとんど消滅もしくは変質して封建領主は宗族や功臣を除いて居なくなり、在地や諸侯は血縁ではなく官吏と律令により支配されるようになり、郡県制に置き換えられた。始皇帝は中国を統一すると全てを郡と県に分け、中国全土を完全な中央集権的郡県制で支配した。その秦を滅ぼした前漢では郡県を布く地方と新たに諸侯王を封建する地方とに分ける郡国制を行った。当初は諸侯に貨幣鋳造権や軍事権が認められていたが、徐々にこのような権力は回収された。後漢時代になると恩給と変わらず、それも形骸化して、爵位だけを授ける封爵制として存続した。

周の礼制を規範とする儒教では周の封建制を重視するが、中央集権的な官僚制とは大きな矛盾をはらみ、たびたび封建論あるいは郡県論として論議された(ここでいう封建制・郡県制は実際のものではなく儒教思想上の観念的なもの)。特に東林党や遺老の学が有名であり、そこでは官僚が責任者として自発的に地方統治を行うための制度として封建制が議論された。顧炎武は「封建の意を郡県に寓す」という郡県制のなかに封建制を組み込ませ、地方分権型の政治体制を主張している。

脚注[編集]

  1. ^ 常石茂編訳「司馬遷 中国史物語」、少年少女世界の歴史 10、p. 23、あかね書房 (1990)

関連項目[編集]