12世紀ルネサンス
12世紀ルネサンス(じゅうにせいきルネサンス、英:Renaissance of the 12th century)は、中世盛期の幕開けにおける多面的変化の時期である。社会・政治・経済の変容に加え、西欧の強い哲学的・科学的基盤の再活性化をもたらした。これらの変化は、15世紀のイタリア・ルネサンスにおける文学・美術運動や、17世紀の科学革命といった後世の成果への道を拓いた[1]。
西ローマ帝国の崩壊後、ヨーロッパでは科学知の衰退がみられた。しかし、イスラーム世界との接触の増大は学問の復興をもたらした。イスラームの哲学者・科学者は、特にアリストテレスやユークリッドの著作など古代ギリシアの文献を保存・発展させ、これらがラテン語に翻訳されることによって、ヨーロッパの科学は大きく活性化した[2]。中世盛期にはまた、経済成長を促す顕著な技術進歩もみられた。
12世紀には、神学に対する体系的・合理的アプローチを特徴とするスコラ学が成立した。この運動は、アヴィセンナ、マイモニデス、アヴェロエスを含む古代および中世ユダヤ・イスラム哲学者の新たなラテン語訳によって強化された。
12世紀初頭にはラテン古典および文芸の復興がみられ、シャルトルやカンタベリーなどの聖堂学校が学問の中心となった。やがて新興の中世大学においてアリストテレス論理学が重視され、14世紀にペトラルカによって再興されるまで、ラテン語文芸の伝統は後景に退いた[3]。
中世のルネサンス
[編集]学問復興の基盤は、ヨーロッパの君主政体の政治的統合と中央集権化の進展によって築かれた[4]。この中央集権化は、フランク王国のカール大帝(在位768–814、800–814年に神聖ローマ皇帝)に始まり、ラテン語・ギリシア語教育を必修とする多くの教会や学校の創設へとつながった。この動向はカロリング朝ルネサンスと呼ばれる。
第二の「ルネサンス」は、東フランク王(936–973)にして[5]962年から神聖ローマ皇帝であったオットー1世(大帝)の治世に生じた。オットーは王国を統合し、国内の司教・大司教任命権を主張して、王国で最も高学歴で有能な層と緊密に接触した[6]。この近接によって東フランク王国および神聖ローマ帝国に多くの改革が導入され、彼の治世はオットー朝ルネサンスと称される。
かくして12世紀ルネサンスは、中世の三つのルネサンスのうち第三にして最後のものと位置づけられる。ただし、12世紀ルネサンスは、先行するカロリング朝やオットー朝のそれよりはるかに徹底的であった[7]。実際、カロリング朝ルネサンスはカール大帝個人に特有な側面が強く、「変わりつつある社会に施された表層」にすぎなかったとも評され[8]、同様の指摘はオットー朝ルネサンスにも当てはまる。
史学史
[編集]ハーバード大学の歴史家チャールズ・ホーマー・ハスキンズは、概ね1070年頃に始まる中世盛期をもたらしたルネサンスについて最初に広範に論じた研究者である。彼は1927年に次のように記した。
美術史家ケネス・クラークは、西欧最初の「偉大な文明の時代」は1000年頃に始まる準備が整っていたと述べた。1100年以降、壮大な修道院や大聖堂が建設され、彫刻・タペストリー・モザイクなどで装飾され、当時の単調で狭隘な日常生活と鮮やかな対照をなした。サン=ドニ修道院の院長シュジェールはゴシック建築の初期の有力な庇護者とされ、「鈍き心は、物質的なるものを通じて真理へ上る」と考え、美の愛好が人々を神へと近づけると信じた。クラークはこれを「次の世紀の崇高な芸術作品群すべての知的背景」であり、「今日に至るまで、芸術の価値に対する我々の信念の基盤であり続けている」と評している[10]。
翻訳運動
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他文化の文献、特に古代ギリシアの著作の翻訳は、12世紀ルネサンスおよび15世紀の後期ルネサンスのいずれにおいても重要な側面であった。ただし、前者の時期のラテン学者がほぼ専らギリシア語・アラビア語の自然科学・哲学・数学の翻訳と研究に集中し、後者は文学・歴史文献に重点を置いたという単純な対比は正確ではない。というのも、15世紀における最重要のギリシア語訳の幾つかはマルシリオ・フィチーノによるものであり、プラトンおよび新プラトン主義の諸著作に加え、『ヘルメス文書』の極めて重要な翻訳を含んでいたからである。これらはピタゴラス派およびプラトン派の霊性と哲学に関わる著作であり、後代の哲学的・宗教的論争においては、12世紀の翻訳よりもはるかに大きな意義を持った。
交易と商業
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十字軍の時代は、長らく途絶えていた規模でビザンツ(東ローマ帝国)の技術や贅沢品と欧州人の大集団を接触させた。ヨーロッパへ帰還した十字軍従軍者は、多くの小さな贅沢品や土産を持ち帰り、新たな交易需要を喚起した。ジェノヴァやヴェネツィアなど台頭するイタリアの海上勢力は、高度な商業・金融技法を発達させつつ、地中海を経由してヨーロッパ・イスラーム世界・ビザンツを結ぶ交易を独占的に掌握し、フィレンツェのような都市は金融業の一大中心となった[11]。
北ヨーロッパでは、1158–1159年のリューベック建設に続き、12世紀にハンザ同盟が成立した。神聖ローマ帝国北部の多くの都市(ハンブルク、シュテティン、ブレーメン、ロストックなど)が同盟都市となり、帝国外ではブリュージュ、ロンドン、ポーランドのグダニスク(ダンツィヒ)などが挙げられる。ベルゲンやノヴゴロドには同盟の商館と仲介拠点が設けられた。この時期、ドイツ人は帝国の境界を越えて東方(プロイセンやシレジア)への入植を開始した。
13世紀半ばには、パクス・モンゴリカにより、中国と西アジアを結ぶ陸上交易路が再活性化した。1241年のモンゴルの欧州侵略後、教皇および一部の欧州君主は、使節や宣教師として聖職者をモンゴル宮廷に派遣した。これには、ウィリアム・ルブルック、プラノ・カルピニ、ロンジュモーのアンドレ、ポルデノーネのオドリコ、ジョヴァンニ・デ・マリニョーリ、ジョヴァンニ・ダ・モンテコルヴィーノなどが含まれ、他にニッコロ・デ・コンティのような旅行者もいた。カルピニらの報告記はラテン語で後援者宛の書簡として書かれたが、後代のイタリア人旅行者マルコ・ポーロの記録は1300年頃にフランコ・ヴェネト語でまず記され、その後諸言語に訳されて、より広い欧州の読者に比較的容易にアクセス可能となった。
科学
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西ローマ帝国の崩壊後、西欧は深刻な困難の中で中世期に入った。人口減少などの要因に加え、ギリシア語またはラテン語で著された古典古代の多くの科学書は入手不能となるか、完全に失われた。初期中世の哲学・科学教育は、ラテン西欧に残存したわずかなギリシア科学・哲学文献のラテン語訳や注釈に基づいており、その学習は最小限の水準にとどまっていた。キリスト教会だけがこれらの写本の写しを保持し、適宜写し替えて他の教会へ配布していた。
この状況は12世紀ルネサンスの時期に変化した。教会は欧州各地の写本室に古典文献を巻物や書物として保管し、古典知の保存と国王たちのアクセスを可能にした。その見返りとして、国王たちは修道院の建設を教会から奨励され、修道院は病院・孤児院・学校として機能し、社会に利益をもたらすことで、やがて中世からの移行を円滑にした。
イスラーム勢力が支配するイベリア半島(アル・アンダルス)や南イタリアとの接触の増加、十字軍やレコンキスタ、さらにビザンツとの交流は、西欧人にヘレニズムおよびイスラームの哲学者・科学者の著作、特にアリストテレスの著作を探求・翻訳させる契機となった。ユークリッドについては複数の翻訳がなされたが、詳細な注解が現れるのは13世紀半ばまで待たねばならない[13]。
中世大学の発展は、これらテクストの翻訳と普及を物質的に支援し、科学共同体に必要な新たな制度基盤を形成した。実際、欧州の大学はこれらの文献の多くをカリキュラムの中核に据え[14]、その結果として「中世大学は、その後継である現代の大学よりも、はるかに科学を重視していた」[15]。
13世紀初頭までに、古代ギリシアの科学文献のいくつかには相応に正確なラテン語訳が存在していたが、『メカニカ』、ユークリッドの厳密な翻訳、あるいは新プラトン派の科学的進展に関する文献は含まれていなかった。それでも利用可能な文献は研究・発展させられ、宇宙の本性に関する新たな洞察が生まれた。この復興の影響は、ロバート・グロステストの科学研究や、ベルナルドゥス・シルヴェストリスの新プラトン主義に明瞭に認められる[16]。
技術
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中世盛期のヨーロッパでは、生産手段の革新・機械化・分業が進展し、経済成長と広範な繁栄をもたらした。従来、手作業や人力で行われていた作業、たとえば穀物の粉挽き、植物油・ワイン・ビールの製造、羊毛・亜麻・紙用繊維のパルプ化が機械動力へ移行したためである。
水力駆動の搗き機 (パルプ)による植物繊維の離解は、早くも1010年にドイツの上プファルツで文献に確認される。フランス(グレジヴォーダン)では1040年頃に麻線維の機械製造が行われ、ノルマンディーでは1086年頃に初めて縮絨用の水車が言及される。さらに、パリのノートルダム大聖堂参事会が運営する製革用の水車工場が、1138年の記録に見える[17]。12世紀には最初の風車(柱式風車)が開発され、第3回十字軍の時期には中東へも輸出された。12世紀末までにその数はきわめて多くなり、教皇ケレスティヌス3世(在位1191–1198)は風車に課税した[18]。水力製紙工場は1238年にスペインのバレンシアで初めて記録され、1268年にはイタリア半島南東部のファブリアーノに7軒の製紙工場があった。フランス初の製紙工場の記録は1326年、オーヴェルニュのピュイ=ド=ドームに見える。
航海術では、12世紀末にヨーロッパにおける磁気コンパスの使用が確認され、乾式コンパスは12世紀のフランスで発明された[19]。古代ギリシア起源のアストロラーベはイスラーム支配下のイベリア半島を経由して再流入した。西欧で最古の船尾装着舵の表象は1180年頃の教会彫刻に見られ、機械式時計は13世紀に発達した[20][21]。
ラテン文学
[編集]12世紀初頭には、ギリシア哲学のラテン語訳による復興に先立ち、かつそれとは独立に、ラテン古典・散文・韻文の研究が再興した。シャルトル、オルレアン、カンタベリーの聖堂学校は、著名な学者を擁するラテン文学の中心地であった。カンタベリーの書記官であったソールズベリのジョンはのちにシャルトルの司教となり、哲学・言語・人文学においてキケロを最高位に評価した。ラテン人文主義者は、現存するほとんどすべてのラテン古典作家、オウィディウス、ウェルギリウス、テレンティウス、ホラティウス、セネカ、キケロの著作を所持し読んでいた。例外は少数で、タキトゥス、リウィウス、ルクレティウスなどである。詩ではウェルギリウスが普遍的に賞賛され、次いでオウィディウスが高く評価された[22]。
もっとも、この12世紀のラテン復興は、先行するカロリング朝期の復興と同様に恒久的なものではなかった。異教ローマ文学への宗教的反対が存在したとはいえ、チャールズ・ホーマー・ハスキンズの論によれば、「衰退を招いたのは宗教ではなく論理」であり、特に「12世紀半ばにおけるアリストテレスの『オルガノン』が弁証法に大きく比重をかけ」、ラテン古典の書簡・文学・雄弁術・詩を圧迫したという。成立途上の大学はアリストテレス中心へと転じ[23]、14世紀のペトラルカによる再興までラテン人文主義の遺産は後景へ退いた。
ローマ法
[編集]『学説彙纂』の研究は、ローマ法学の復興および西欧における大陸法(民法)の基礎としてのローマ法確立への第一歩であった。世界最古の継続的に運営されている大学とされるボローニャ大学は、この時期、ヨーロッパの法学研究の中心であった。
スコラ学
[編集]この時期には、新たなキリスト教神学の形態が成立した。いわゆるスコラ学者が主導し、神学に対するより体系的・合理的なアプローチを重視した。運動は当初、ボエティウスによるアリストテレス論理学注解およびカルキディウスによるプラトン『ティマイオス』注解(当時ラテン西欧が両哲学者を知る主たる経路)を、アンセルムスやシャルトル学派のベルナール・ド・シャルトル、ギヨーム・ド・コンシュらが再検討したことに触発された[24][25]。さらに、教皇領のコンスタンティヌス・アフリカヌスによる新訳、カスティーリャのトレド翻訳学派、コンスタンティノープルのジェームズ・オブ・ヴェニスらによるラテン語訳を通じて、古代の学者や思想家の著作へのアクセスが拡大し、この運動は強化された[26] 。
同じ経路(とりわけイベリア半島)を通じて、中世イスラームおよびユダヤの哲学的思索、特にマイモニデス、アヴィセンナ、アヴェロエスの議論も流入した。フランス、特にパリ大学はこれら新資料の受容の中心となったが、ロスケリヌス、ピエール・アベラール、ギヨーム・ド・コンシュといった初期の仏人学者の中には、異端として非難されたり、プラトンの「世界霊魂」などの敏感な主題の扱いを修正せざるを得なかった者もいた。その後、アルベルトゥス・マグヌス、ボナベントゥラ、トマス・アクィナスら13世紀のスコラ学者は、世俗的学習と論理によって既存の正統を支持・補強した功績により教会博士として崇敬されるに至った。この時期の主要問題のひとつに普遍論争がある。
同時代の著名な非スコラ学的思想家としては、ペトルス・ダミアニ、クレルヴォーのベルナール、そしてサン・ヴィクトル学派の学者たちが挙げられる[27]。
芸術
[編集]12世紀ルネサンスは、詩への関心の復興をもたらした。同時代の詩人たちは主として各自の母語で執筆し、その作品量はカロリング朝ルネサンス期の詩人を大きく上回った。題材は叙事・抒情・劇詩にわたり多様であり、韻律は古典的形式の枠にとどまらず新たな方式へと分岐した。宗教詩と世俗詩の分断も縮小した[28]。特にゴリアール詩人は、宗教文献の俗悪なパロディで知られる[29]。
こうした詩形の拡張は、新しいリズムや構造を好む俗語文学の台頭に寄与した[30]。
主な翻訳者と訳書
[編集]アラビア語から
[編集]- プトレマイオス『アルマゲスト』
- アリストテレス『分析論後書』『天体論』『気象論』(第一から三巻)
- アルキメデス『円の求蹟』
- アル=フワーリズミー『代数学』
- アル=キンディー『五本質論』
- イブン・スィーナー『医学典範』
- ヒポクラテス『箴言』
- ガレノス『テグニ』など
- エウクレイデス『原論』
- アル=フワーリズミー『インド数学について』『天文表』など
- 『クルアーン』
- アル=フワーリズミー『天文表』など
- アル=キンディー『知性論』
- アル=ファルガーニー『天の運動について』
- イブン・スィーナー『治癒の書』(哲学的自然的部分)
- アル=ガッザーリー『哲学者たちの意図』など
- アル=ファーラービー『諸学総覧』
ギリシア語から
[編集]- アリストテレス『気象論』(第四巻)
- プラトン『メノン』『パイドン』など
- アリストテレス『分析論前書』『分析論後書』『トピカ』など
- エウクレイデス『光学』『反射光学』『与件』など
- ヒポクラテス『箴言』
- ガレノス『テグニ』など
その他
[編集]学問の隆盛
[編集]- アベラール(1079年-1142年)の弁証論(唯名論)がスコラ学の基礎を作り、のちトマス・アクィナス(1224年頃-1274年)により大成された。
- 中世大学が各地に作られた(11世紀末のボローニャ大学、12世紀のパリ大学、オックスフォード大学)。
- シャルトル大聖堂の附属学校では古代の自由学芸(リベラル・アーツ artes liberale 文法、論理学、修辞学、算術、幾何、天文、音楽の7科目)を基盤に、プラトンの思想と聖書の思想を統合しようとした(「シャルトル学派」といわれる)。
ロマネスク美術からゴシック美術へ
[編集]文学など
[編集]日本語書籍
[編集]- チャールズ・H・ハスキンズ、別宮貞徳、朝倉文市訳「十二世紀ルネサンス」みすず書房、1989年、新版2007年ほか
- 「十二世紀のルネサンス ヨーロッパの目覚め」同訳、講談社学術文庫、2017年
- 「十二世紀ルネサンス」野口洋二訳、創文社〈名著翻訳叢書〉、1985年。別訳
- ハスキンズ『大学の起源』青木靖三、三浦常司訳、八坂書房、2009年
- 伊東俊太郎「十二世紀ルネサンス 西欧世界へのアラビア文明の影響」講談社学術文庫、2006年
- 「伊東俊太郎著作集」〈麗澤大学出版局〉にも収録。
- ジャック・ヴェルジェ、野口洋二訳「入門 十二世紀ルネサンス」創文社、2001年
- 「十二世紀ルネサンス 修道士、学者、そしてヨーロッパ精神の形成」
- デイヴィッド・ラスカム 鶴島博和ほか編訳、慶應義塾大学出版会 2000年
関連項目
[編集]脚注
[編集]- ^ (Bauer 2013, p. 1 – preface)
- ^ Robert Louis Benson; Giles Constable; Carol Dana Lanham, eds (1991). Renaissance and Renewal in the Twelfth Century. Harvard University Press. p. 471
- ^ (Haskins 1927, pp. 98–99)
- ^ (Hoyt 1976, p. 329)
- ^ (Hoyt 1976, p. 197)
- ^ (Hoyt 1976, p. 198)
- ^ (Hoyt 1976, p. 366)
- ^ (Hoyt 1976, p. 164)
- ^ (Haskins 1927, p. viii – introduction)
- ^ Civilisation (TV series) [specifics missing]
- ^ See e. g. Lopez, Robert S.; Raymond, Irving W. (1967). Medieval Trade in the Mediterranean World. Columbia University Records of Western Civilization. New York: Norton
- ^ The compass in this 13th-century manuscript is a symbol of God's act of Creation. Thomas Woods. How the Catholic Church Built Western Civilization. Washington, DC: Regenery, 2005, ISBN 0-89526-038-7, 120.
- ^ Robert Louis Benson; Giles Constable; Carol Dana Lanham, eds (1991). Renaissance and Renewal in the Twelfth Century. Harvard University Press. p. 471
- ^ Toby Huff, Rise of Early Modern Science. 2nd ed. p. 180-181
- ^ Edward Grant, "Science in the Medieval University", in James M. Kittleson and Pamela J. Transue, ed., Rebirth, Reform and Resilience: Universities in Transition, 1300-1700, Columbus: Ohio State University Press, 1984, p. 68
- ^ Jane E. House (Spring 2013). “Learning How Much Twelfth Century Scientists knew and How They Knew It”. Folio (Graduate Center of the City University of New York): 2.
- ^ Gimpel, Jean (2003) [1976]. The Medieval Machine: The Industrial Revolution of the Middle Ages. New York: Barnes & Noble, 14 f.
- ^ Gimpel (2003), p. 23–27.
- ^ Barbara M. Kreutz, "Mediterranean Contributions to the Medieval Mariner's Compass", Technology and Culture, vol. 14, no. 3. (July 1973), 368.
- ^ White 1964, pp. 120 – , 121.
- ^ Gimpel 2003, p. 153.
- ^ Charles Homer Haskins. The Renaissance of the Twelfth Century. Cambridge: Harvard University Press, 1927, ch. I-IV.
- ^ (Haskins 1927, pp. 98–99)
- ^ Somfai, Anna (2002), “The Eleventh-Century Shift in the Reception of Plato's Timaeus and Calcidius's Commentary”, Journal of the Warburg and Courtauld Institutes, Vol. 65, Chicago: University of Chicago Press, pp. 1–21.
- ^ Adamson (2019), Ch. 14.
- ^ Adamson, Peter (2019), Medieval Philosophy, A History of Philosophy without Any Gaps, Vol. 4, Oxford: Oxford University Press, Ch. 20, ISBN 978-0-19-884240-8.
- ^ Gilson, Etienne (1991). The Spirit of Medieval Philosophy (Gifford Lectures 1933-35). Notre Dame, IN: University of Notre Dame Press. p. 490. ISBN 978-0-268-01740-8
- ^ (Haskins 1927, pp. 153–158)
- ^ (Haskins 1927, pp. 183–185)
- ^ (Haskins 1927, p. 190)