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ガレノス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ガレノス
ピエール・ロッシュ・ヴィニュロンPierre Roche Vigneronによるリトグラフ(1865年、パリ)

ガレノス: Γαληνός, 129年頃 - 216年頃)は、ローマ帝国時代のギリシャ医学者。臨床医としての経験と多くの解剖によって体系的な医学を確立し、古代における医学の集大成をなした。彼の学説はその後ルネサンスまでの1500年以上にわたり、ヨーロッパの医学およびイスラームの医学において支配的なものとなった[1]。なお、ラテン語ではクラウディウス・ガレヌス (Claudius Galenus) と呼ばれるが、「クラウディウス」に対応する名 (forename) はギリシャ語文献には見出されず、ルネサンス期以降の文献において見られるようになったものである。

生涯

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ガレノスは、裕福な建築家アエリウス・ニコンの息子として、129年にペルガモンで生まれた[2]。父親のニコンは建築、幾何学天文学数学論理学などに詳しく、ガレノスにもそれを教え込んだ。ガレノスは父を非常に尊敬しており、著書内でその人格や見識を幾度となく称賛している[3]。14歳の時に、市の公職で多忙になった父はガレノスに哲学教師をつけ、これを身につけさせた。こうしたことからガレノスは自らのことを哲学者でもあると考えており、哲学に関する著作も残している[4]。16歳の時に父ニコンは夢によってお告げを受け、哲学に加えて医学をガレノスに学ばせるようになった[5]。彼はサテュロス、アイスクリオン、ストラトニコスといった医師の下で講義を受けたほか、解剖や臨床の実践も教育の一環として行っていた[6]。16歳の秋、おそらくアメーバ赤痢と思われる病気にかかり、数年の間それに苦しむこととなった[7]

148年、19歳の時に父が没し、彼は父の財産を相続して豊かな経済的基盤を得た[8]。その後すぐ彼はスミルナへ向かいペロプスから教えを受け、さらにコリントなどを回ってアレキサンドリアに向かい、研究を積んだ[9]157年にペルガモンに戻ると剣闘士の闘技場で161年まで勤務した[10]。この時期に、事故・外傷の手当てに関する多くの経験を蓄積した。ガレノスは後に外傷を「体内への窓」と見なした。

162年にはガレノスはペルガモンを離れ、リュキアやパレスティナ、キプロスなどに立ち寄ったのちローマに移り住んだ[11]。ローマでは執筆活動や講義、公開解剖などを行った。彼は逍遙学派の哲学者でペルガモンでの師の1人だったエウデモスの熱病の予後を正確に行ったことで名医としての評判を得て[12]、顧客にも恵まれた。その中にはコンスルフラウィウス・ボエトゥスもいた[13]。しかし、彼はどの学派にも属していなかった上、非常に激しい論争を頻繁に起こしていたため他の医師たちと対立し[14]、毒殺や暗殺を恐れた彼は166年にペルガモンに戻った[15]

その後、168年にマルクス・アウレリウス・アントニヌス帝に呼び出され、おそらく侍医として宮廷に仕えた[16]。ガレノスはアクイレイアで皇帝と面会したが、ここで「アントニヌスの疫病(アントニヌスのペスト英語版)」の大流行に直面し、その治療に当たった[17]。169年にアントニヌスはゲルマニアへの進軍を再開したが、ガレノスは理由をつけてこの従軍を断ったため、皇帝は後継ぎとなった息子のコンモドゥスの健康を維持させるためにガレノスをコンモドゥスの侍医とした[18]。コンモドゥスの治世中侍医を務め続け、さらにその後の混乱を勝ち残ったセプティミウス・セウェルス帝の侍医にもなった[19]192年、ローマ市内で大火が起きて彼の倉庫が焼け落ち、金貨や友人へ貸した金の借用証、薬種、そしてガレノスの著作のかなりが焼失し、大きな打撃を受けた[20]。しかしその後も執筆と診療を続け、216年頃に没した[21]

理論

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De curandi ratione

ガレノスは、ヒポクラテスの医学をはるばるルネサンスにまで伝えた。彼の On the Elements According to Hippocrates は、ヒポクラテスの四体液説を叙述している。四体液説は人体が血液粘液、黒胆汁、黄胆汁から成るとする説で[22]、それらは古代の四大元素、すなわち(湿)・(熱)・空気(乾)・(冷)によって定義付けられ、血液(熱・湿)、粘液(冷・湿)、黒胆汁(冷・乾)、黄胆汁(熱・乾)の4種の混合の不均衡を是正することが医療の目的だと論じた[23]。彼はこの原理を基にして理論を創出した。しかし、それらは純粋に独創的なものというよりも、ヒポクラテスの人体理論の上に構築されたものと見なしうるものである。

ガレノスの主な著作のひとつとして、17巻からなる『身体諸部分の用途について』がある。ガレノスはまた、哲学や文献学についても執筆し、同じく解剖学についても広く執筆した。彼の全集は22巻にも及び、彼はその生涯のほとんどを通じて、執筆を行っていた[19]

プラトンにも一致するガレノスの理論は、単一の造物主による目的を持った自然(ギリシャ語physisピュシス、英"Nature" )の創造、を強調した。後のキリスト教徒やムスリムの学者たちが彼の見解を受け入れえた理由がここにある[24]。彼の生命に関する根源的原理は「生気」(プネウマ)であり、後の書き手たちはこれをと結びつけた。哲学に関するこれらの作品は、ガレノスの十分に円熟した教養の産物であり、彼は生涯を通じて医学への哲学的要素を強調することを頻りに行った。彼によれば、の中の動物精気 (Pneuma physicon) が運動、知覚、感覚を司る。心臓生命精気 (Pneuma zoticon) が血液と体温を統御する。肝臓にある自然精気が栄養の摂取と代謝を司る。しかし、彼は血よりもむしろ生気が静脈を流れるという生気主義的理論 (Pneumatist theory) には同意しなかった。

ガレノスの知識は、生きた動物を使った臨床実験によって広がりを見せた。その一環として、一度に神経の束を切断するために生きた豚を解剖することを行った。その際に、豚に悲鳴を上げさせないために喉頭の神経を切断したが、この神経は現在、少なくとも英語では「ガレノスの神経 (Galen's nerve) 」とも呼ばれている。彼はまた、腎臓から尿が送られることを見るために生きた動物の尿管を結び、また麻痺を示すために脊髄の神経を切断した。ガレノスは、豚はいくつかの観点から解剖学的に人体とよく似ているということを理由に豚を使う旨を強調していたものの、バーバリーマカク山羊も解剖に使った。しかし、ガレノスは、自身を医学のより職人的な要素とは常に峻別していた。公開解剖は、他の論者たちの理論に対する論駁のためには高い価値のあることでもあったし、古代ローマで学ばれていた医学の主要な手法の一つであった。それは、出席し、しばしば議論に突入する多くの医学生たちにとって、全くの開かれたものであった。

現代から見れば、ガレノスの理論は部分的には正しく、部分的には誤りである。正しいことを示したこととしては、彼は、動脈が運ぶものは生気ではなく血液だということを示したし、神経機能、頭脳、心臓に関する最初の研究も行った。彼はまた、アリストテレスが心は心臓にあるとしたことに対し、心は脳に宿ることも示した。

しかし、現代の視点に照らしたときに、誤りがあることとしては、彼は循環系を認識していなかったし、動脈と静脈がそれぞれ切り離されたシステムであると考えていた。この考えの変更には、17世紀のウィリアム・ハーヴェイを俟たねばならなかった。彼の解剖学的知識の大半は、犬、豚、猿などの解剖に基づいていたために、彼は奇網Rete mirabileラテン語で「驚異の網」の意、有蹄動物がもつ血管の網で一種の熱交換器官)が人体にも具わっていると推測していた[25]。彼はまた、治療法の一つとして瀉血を盛んに宣伝した[26]

ガレノスは目や脳を対象とするものも含めて、技巧に頼った無謀な手術も多く行った。それらは、その後2000年近くにわたり行われることはなくなった。例えば、白内障の手術では、水晶体の内側にまで長い針状の器具を突き通し、ゆっくりと引き抜いた。これは、わずかでもずれれば永遠に失明することになる方法である。もちろん、ガレノスは、他の手法に関しては現代の医療の標準となるものも打ち立てている。

ガレノスは主にギリシャ語で語ったという。当時は、医学分野ではラテン語よりもギリシャ語の方が上位と見なされていたのである。

著作

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ガレノスは非常に大量の著作を執筆し、しかも早い時期に医学の権威としての地位を確立したため、現存する文書も非常に多い。現存する古典ギリシア語文献のうち8分の1はガレノスの著作によって占められているとされる[27]。さらに残された文書は彼の著作の一部にすぎず、192年の大火で焼失してしまったものや長い年月のうちに消失してしまったものも含めば、現存するガレノスの著作は発行されたうちの半数以下にすぎないとされる[28]。こうした著作のうちいくつかは原語版が消失し、アラビア語など他言語に翻訳されたものだけが残っているものも存在する[29]。一方、ガレノスは高い名声を保っていたため、存命中からすでに彼の名を騙った偽作盗作も横行していた[30]

ガレノスの著作は医学一般に始まり、自然学、解剖学、生理学、養生法、疾患学、徴候学、治療学、薬剤学といった医学の広い範囲にまたがっており、さらにヒポクラテス医学書の注釈書や同僚医師への論駁の著、自伝にいたるまで様々な分野の書物を執筆している[31][32]

没後の影響

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東ローマ帝国

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ガレノス以後、ローマ帝国においては目立った医学の進歩は起きなかった。ローマ帝国が東西に分裂すると、西ローマ帝国領となったヨーロッパにおいてはガレノスの著作はほとんど消失してしまった。西ローマの遺領が混乱を続けた上、ガレノスはギリシア語で著述しており、西ローマ帝国はラテン語圏であったからである[33]。一方で、東ローマ帝国においては政情の安定とギリシア語圏であったことからガレノスの著作は残り、医学の正典となっていった。4世紀にはオリバシウスがガレノスの著作を中心とする医学書の抜粋である「医学集成」を著した[34]489年ネストリウス派エデッサに開いていた学校が皇帝の命により閉鎖されると、学者たちはサーサーン朝領内へと移住し、ジュンディーシャープールなどでガレノスの医学を伝えた[35]。6世紀から7世紀ごろのアレクサンドリアでは16点のガレノス選集が重視され、それの要約である「アレクサンドリア集成」と呼ばれる文献群も編まれて、これらはイスラーム世界に伝えられ、その医学に大きな影響を与えた[36][37]

イスラム世界への影響

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ガレノスの著作に擬せられる『テリアカの書』(Kitāb al-Diryāq)。12世紀末の写本。

中世イスラム世界の医師たちの多くは、古代ギリシャの業績、特に四体液説のようにガレノスによって説明されたものに頼った[38]。ガレノスのギリシャ語作品の大半は、まずサーサーン朝時代にシャープール1世がイラン南西部のフーゼスターン地方に建設した都市、ジュンディーシャープールにおいてサーサーン朝後期からアッバース朝時代にかけてこの地の大学でネストリウス派の僧侶たちによりパフラヴィー語シリア語に訳された。フナイン・イブン・イスハークらをはじめとするバグダードの学者たちは、これを他のギリシャ語文献ともどもアラビア語に訳した[39]。特にアッバース朝時代にガレノスの著作の多くがアラビア語へ訳されたが、フナインが翻訳したガレノスの著作には現存するギリシア語文献では散逸したものも含まれており、研究資料として有益とされている[40]。ギリシア語版で失われた著書のなかには倫理学関係のものとして『性格について』などもアラビア語訳が伝わり、ミスカワイヒやその後継者などの倫理学関係の思想に大きく影響を与えている。

他に特筆すべきことは、ヒポクラテス以来の「医学の基礎には哲学が必須である」という考え方が、ガレノスの著作の受容によって後のイスラム世界における医学思想の方向性を決定付けたことである[41]。それらは、アブー・バクル・イブン・ザカリーヤ・アッ=ラーズィーイブン・スィーナーマイモニデスらのようなイスラム世界の学者たちの主要な典拠となった。ガレノスの名は、アラビア語では「ジャーリーヌース」として知られており、この名を持つ人々はイスラム世界では彼の末裔であると考えられている。こうしてガレノスの理論を中心に成立したイスラム医学はアラビア語およびペルシア語イオニア、つまりギリシアのことを指すユナニ医学と呼ばれるようになり、現代でも伝統医学として用いられている[42]

西欧への再導入

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11世紀にはいると、モンテ・カッシーノの修道士だったコンスタンティヌス・アフリカヌスなどによってイスラム医学のテキストがアラビア語からラテン語へと訳されるようになり、ふたたびガレノスの説が西欧にもたらされることとなった[43]。ガレノスの医学書の翻訳はその後も間断なく続き、14世紀以降は原書・翻訳の質が向上した[44]。ガレノスは西欧でも医学の正典となり、サレルノ大学モンペリエ大学パドヴァ大学といった医学で知られる大学で教えられ[45]、ガレノスの権威は16世紀までの西洋医学を支配した。「ガレノスが全てを書いてくれていた」とされ、解剖学の実践は停滞したし、瀉血は標準的な医療行為となった。解剖は大学において実施されたものの、ガレノス解剖学のテキストを教師が読み上げ、その器官を実際に指さして確認するものにすぎず、ガレノスの書物を追認するだけのものにとどまっていた[46]。大学で教えられる医学理論でもガレノスの説は重視された[47]。15世紀後半になると活版印刷が発明され、出版点数が大幅に増えるとともにガレノス医学書の出版点数も激増し、1490年にはヴェネツィアでラテン語訳のガレノス全集が出版され、これを皮切りに各出版所で相次いでラテン語版ガレノス全集が発刊された[48]。さらに1525年にアルド・マヌーツィオアルド印刷所が「ガレノス全集」をギリシア語で出版したことで原典の参照が容易になり、ガレノス医学の普及はより一層進んだ[49]

その後

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ガレノスの出身地、ペルガモン(ベルガマ)のガレノス像

16世紀に入るとガレノス解剖学書の普及や解剖回数の増加に伴い、実際に解剖に当たった医者の中からガレノスの記述と実際の人体との差異に気づくものが現れ始めたが、ガレノスの権威は非常に高いものであり、彼らはガレノスへの直接的な批判を避けたり、またはガレノス時代から人体の構造が変化したのだと考えた[50]。こうした中、ガレノスの権威への最初の真摯な挑戦を行ったのが、16世紀の解剖学者アンドレアス・ヴェサリウスである。彼が1543年に出版した『ファブリカ』(人体の構造)は実際の解剖結果によっていくつかのガレノスの誤りを示した[51]ものの、ファブリカ自体はガレノスの解剖学に沿って記されていた[52]。以後もガレノスへの傾倒は続き、17世紀に入ってもガレノスに基づいた医学理論書が数多く出版されている[53]

最終的にガレノス解剖学の誤りが示されたのは、1628年にウィリアム・ハーヴェイによって発表された血液循環説である。発表当初はガレノス医学の立場から批判があったものの、1650年ごろまでには血液循環説が定説となっていった[54]。その他にも肝臓や脳などにおいてガレノス説と異なる発見が相次ぎ[55]、1708年に書かれたヘルマン・ブールハーフェの「医学教程」ではすでにガレノス生理学は扱われなくなっていた[56]。ただしその後も、1761年に出版され病理解剖学の創始とされるジョヴァンニ・バッティスタ・モルガーニ英語版の「解剖によって明らかにされた病気の座および原因」がガレノス由来の体液説に基づいて書かれる[57]など影響はかなりの間残存しており、瀉血にいたっては19世紀前半まで一般的治療法として残存していた[58]。1821年から1833年にかけて、ドイツのカール・ゴットロープ・キューンがギリシア語原典及びラテン語訳を同時収録したガレノス全集を出版した[59]

日本語訳・研究

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  • 『ガレノス 自然の機能について』 内山勝利編訳・種山恭子訳、京都大学学術出版会西洋古典叢書〉、1998年
  • 『ガレノス ヒッポクラテスとプラトンの学説(1)』 内山勝利・木原志乃訳、京都大学学術出版会〈西洋古典叢書〉、2005年。(2)は未刊
  • 『ガレノス 解剖学論集』 坂井建雄、池田黎太郎、澤井直訳、京都大学学術出版会〈西洋古典叢書〉、2011年
    『骨について初心者のために』『静脈と動脈の解剖について』『神経の解剖について』『嗅覚器について』『子宮の解剖について』『筋の解剖について初心者のために』所収。
  • 『ガレノス 身体諸部分の用途について(1)』 坂井建雄、池田黎太郎、澤井直訳、西洋古典叢書、2016年。全4冊予定
  • 『ガレノス 身体諸部分の用途について(2)』 坂井建雄、池田黎太郎、福島正幸、矢口直英、澤井直訳、西洋古典叢書、2022年
  • 二宮陸雄 『ガレノス 自然生命力』 平河出版社、1998年
    『自然の諸力(自然生命力について)』(『自然の機能について』と同一の著作)『最良の医者を見分ける審査について』を所収。
  • 金山萬里子「ガレノス『最良の医師はまた哲学者でもあること』」『大阪医科大学紀要人文研究』2011, 63–78頁
  • 土屋睦広「ガレノス『魂の能力は身体の混合に依存する』- 序論・翻訳・訳注」『明治薬科大学研究紀要 人文科学・社会科学』1996, 51–94頁
  • 土屋睦広「ガレノスの自己文献解題『自著について』- 序論・翻訳・訳注』『明治薬科大学研究紀要 人文科学・社会科学』1998, 31–59頁

脚注

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  1. ^ 「医学の歴史」p87 ルチャーノ・ステルペローネ著 小川熙訳 原書房 2009年11月30日第1刷
  2. ^ 「ガレノス 西洋医学を支配したローマ帝国の医師」p37-38 スーザン・P・マターン著 澤井直訳 白水社 2017年11月5日発行
  3. ^ 「ガレノス 西洋医学を支配したローマ帝国の医師」p40-42 スーザン・P・マターン著 澤井直訳 白水社 2017年11月5日発行
  4. ^ 「ガレノス 西洋医学を支配したローマ帝国の医師」p45-46 スーザン・P・マターン著 澤井直訳 白水社 2017年11月5日発行
  5. ^ 「ガレノス 西洋医学を支配したローマ帝国の医師」p47 スーザン・P・マターン著 澤井直訳 白水社 2017年11月5日発行
  6. ^ 「ガレノス 西洋医学を支配したローマ帝国の医師」p48-52 スーザン・P・マターン著 澤井直訳 白水社 2017年11月5日発行
  7. ^ 「ガレノス 西洋医学を支配したローマ帝国の医師」p73-74 スーザン・P・マターン著 澤井直訳 白水社 2017年11月5日発行
  8. ^ 「ガレノス 西洋医学を支配したローマ帝国の医師」p74-75 スーザン・P・マターン著 澤井直訳 白水社 2017年11月5日発行
  9. ^ 「ガレノス 西洋医学を支配したローマ帝国の医師」p75-78 スーザン・P・マターン著 澤井直訳 白水社 2017年11月5日発行
  10. ^ 「ガレノス 西洋医学を支配したローマ帝国の医師」p93-106 スーザン・P・マターン著 澤井直訳 白水社 2017年11月5日発行
  11. ^ 「ガレノス 西洋医学を支配したローマ帝国の医師」p108 スーザン・P・マターン著 澤井直訳 白水社 2017年11月5日発行
  12. ^ 「ガレノス 西洋医学を支配したローマ帝国の医師」p139-144 スーザン・P・マターン著 澤井直訳 白水社 2017年11月5日発行
  13. ^ 「ガレノス 西洋医学を支配したローマ帝国の医師」p174-179 スーザン・P・マターン著 澤井直訳 白水社 2017年11月5日発行
  14. ^ 「ガレノス 西洋医学を支配したローマ帝国の医師」p169-173 スーザン・P・マターン著 澤井直訳 白水社 2017年11月5日発行
  15. ^ 「ガレノス 西洋医学を支配したローマ帝国の医師」p199-201 スーザン・P・マターン著 澤井直訳 白水社 2017年11月5日発行
  16. ^ 「ガレノス 西洋医学を支配したローマ帝国の医師」p208-209 スーザン・P・マターン著 澤井直訳 白水社 2017年11月5日発行
  17. ^ 「ガレノス 西洋医学を支配したローマ帝国の医師」p210-216 スーザン・P・マターン著 澤井直訳 白水社 2017年11月5日発行
  18. ^ 「ガレノス 西洋医学を支配したローマ帝国の医師」p217 スーザン・P・マターン著 澤井直訳 白水社 2017年11月5日発行
  19. ^ a b 「近代科学の源をたどる 先史時代から中世まで」(科学史ライブラリー)p134 デイビッド・C・リンドバーグ著 高橋憲一訳 朝倉書店 2011年3月25日初版第1刷
  20. ^ 「ガレノス 西洋医学を支配したローマ帝国の医師」p269-275 スーザン・P・マターン著 澤井直訳 白水社 2017年11月5日発行
  21. ^ 「ガレノス 西洋医学を支配したローマ帝国の医師」p284-285 スーザン・P・マターン著 澤井直訳 白水社 2017年11月5日発行
  22. ^ ヘレナ・アトレー『柑橘類と文明 マフィアを生んだシチリアレモンから、ノーベル賞をとった壊血病薬まで』築地書館、2015年、54頁。ISBN 978-4-8067-1493-4 
  23. ^ 「図説 医学の歴史」p49-50 坂井建雄 医学書院 2019年5月15日第1版第1刷
  24. ^ 「近代科学の源をたどる 先史時代から中世まで」(科学史ライブラリー)p139 デイビッド・C・リンドバーグ著 高橋憲一訳 朝倉書店 2011年3月25日初版第1刷
  25. ^ 「近代科学の源をたどる 先史時代から中世まで」(科学史ライブラリー)p138 デイビッド・C・リンドバーグ著 高橋憲一訳 朝倉書店 2011年3月25日初版第1刷
  26. ^ 「医学史事典」p128 日本医史学会編 丸善出版 令和4年7月25日発行
  27. ^ 「医学史事典」p23 日本医史学会編 丸善出版 令和4年7月25日発行
  28. ^ 「ガレノス 西洋医学を支配したローマ帝国の医師」p272-275 スーザン・P・マターン著 澤井直訳 白水社 2017年11月5日発行
  29. ^ 「医学史事典」p23 日本医史学会編 丸善出版 令和4年7月25日発行
  30. ^ 「ガレノス 西洋医学を支配したローマ帝国の医師」p275-276 スーザン・P・マターン著 澤井直訳 白水社 2017年11月5日発行
  31. ^ 「図説 医学の歴史」p45-48 坂井建雄 医学書院 2019年5月15日第1版第1刷
  32. ^ 「医学史事典」p32-33 日本医史学会編 丸善出版 令和4年7月25日発行
  33. ^ 「近代科学の源をたどる 先史時代から中世まで」(科学史ライブラリー)p158 デイビッド・C・リンドバーグ著 高橋憲一訳 朝倉書店 2011年3月25日初版第1刷
  34. ^ 「図説 医学の歴史」p58 坂井建雄 医学書院 2019年5月15日第1版第1刷
  35. ^ 「医学の歴史」pp135-136 梶田昭 講談社 2003年9月10日第1刷
  36. ^ 「図説 医学の歴史」p58-59 坂井建雄 医学書院 2019年5月15日第1版第1刷
  37. ^ 「医学史事典」p32-33 日本医史学会編 丸善出版 令和4年7月25日発行
  38. ^ 「近代科学の源をたどる 先史時代から中世まで」(科学史ライブラリー)p197-198 デイビッド・C・リンドバーグ著 高橋憲一訳 朝倉書店 2011年3月25日初版第1刷
  39. ^ 「近代科学の源をたどる 先史時代から中世まで」(科学史ライブラリー)p184 デイビッド・C・リンドバーグ著 高橋憲一訳 朝倉書店 2011年3月25日初版第1刷
  40. ^ 「図説 医学の歴史」p63 坂井建雄 医学書院 2019年5月15日第1版第1刷
  41. ^ 「近代科学の源をたどる 先史時代から中世まで」(科学史ライブラリー)p350 デイビッド・C・リンドバーグ著 高橋憲一訳 朝倉書店 2011年3月25日初版第1刷
  42. ^ 「図説 医学の歴史」p69 坂井建雄 医学書院 2019年5月15日第1版第1刷
  43. ^ 「近代科学の源をたどる 先史時代から中世まで」(科学史ライブラリー)p352-353 デイビッド・C・リンドバーグ著 高橋憲一訳 朝倉書店 2011年3月25日初版第1刷
  44. ^ 「図説 医学の歴史」p85-86 坂井建雄 医学書院 2019年5月15日第1版第1刷
  45. ^ 「医学史事典」p49 日本医史学会編 丸善出版 令和4年7月25日発行
  46. ^ 「医学史事典」p57 日本医史学会編 丸善出版 令和4年7月25日発行
  47. ^ 「医学史事典」p88 日本医史学会編 丸善出版 令和4年7月25日発行
  48. ^ 「図説 医学の歴史」p87-88 坂井建雄 医学書院 2019年5月15日第1版第1刷
  49. ^ 「医学史事典」p58 日本医史学会編 丸善出版 令和4年7月25日発行
  50. ^ 「医学史事典」p60-61 日本医史学会編 丸善出版 令和4年7月25日発行
  51. ^ 「50の事物で知る 図説 医学の歴史」p64-65 ギル・ポール 野口正雄訳 原書房 2016年12月20日第1刷
  52. ^ 「図説 医学の歴史」p94 坂井建雄 医学書院 2019年5月15日第1版第1刷
  53. ^ 「図説 医学の歴史」p122-125 坂井建雄 医学書院 2019年5月15日第1版第1刷
  54. ^ 「図説 医学の歴史」p109-110 坂井建雄 医学書院 2019年5月15日第1版第1刷
  55. ^ 「図説 医学の歴史」p117 坂井建雄 医学書院 2019年5月15日第1版第1刷
  56. ^ 「図説 医学の歴史」p129-131 坂井建雄 医学書院 2019年5月15日第1版第1刷
  57. ^ 「医学史事典」p122 日本医史学会編 丸善出版 令和4年7月25日発行
  58. ^ 「医学史事典」p129 日本医史学会編 丸善出版 令和4年7月25日発行
  59. ^ 「図説 医学の歴史」p88 坂井建雄 医学書院 2019年5月15日第1版第1刷

参考文献

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  • 澤井直 訳『ガレノス:西洋医学を支配したローマ帝国の医師』白水社、2017年。ISBN 9784560095843 
  • 『ガレノス 霊魂の解剖学』平河出版社、1993年。ISBN 9784892032318 

関連項目

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外部リンク

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