奄美群島の名字

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本来、奄美群島には名字が存在しなかったと言われているが、琉球王国時代以前にも島民や本土住民の移住や往来が多く確認されているため、そのことからも名字の使用が古くからあったことは確実とされる(奄美群島の歴史参照)。また琉球王国時代には、その制度上の名乗りを使用していた(沖縄県の名字参照)。

しかし、薩摩藩時代に島民を全て農民とする政策により名字が禁止され(士農工商参照)、後に特に藩政に貢献した家に限って名字が与えられた(最初に田畑家。1726年に田畑佐文仁〈さぶんに〉が代々外城衆中格となる)。

歴史[編集]

奄美はヤマト王権(大和朝廷)に方物を献上した独自の国であったが、1266年に琉球王に朝貢して以降、その文化的な影響を受け、1429年尚巴志沖縄全島を統一して勢力を強めた後、琉球王国に服従する関係となった。

薩摩藩は1609年に琉球王国を服属させ、1611年には奄美群島を蔵入地(直轄領)とし政治機構などの整備を進めた。当初は群島民を農民とすることで、琉球時代の士族の名乗りを禁止したが、統治が安定してくると奄美群島における藩政に多大な貢献をした者に限って名字を与えた。

当初は二字姓で、奄美大島本島の支配者であり笠利〈かさり〉氏を名乗っていた佐文仁為辰〈さぶんにためたつ〉が1726年に代々外城衆中格(後の郷士格)となり田畑姓を与えられ、1752年に澄江(一代郷士格)、1761年に砂守(代々郷士格)の計3家が成立した。

その後4番目の郷士格への取立審議が行われた際、藩主島津重豪の時代に薩摩本領と差別化するため一字の名字とすることになり、以前よりの郷士格3家に対しても一字姓とするように命じられた(1785年)。これについては、支配下に置いた琉球王国が中国の冊封体制下でもあり、士族以上が中国名(唐名・からなー)をも使用していたこと、また対外的には奄美群島が琉球領であるとの建前があったことが関係していると思われる。

藩が名字を許可する場合には、最大で十種類程度の中から選ばせる方法もあったが、郷士側は主に家に関係する地名や祖先の名前と縁のある一文字を選び名乗った。前述の田畑家は居住の龍郷から家(西郷隆盛の島妻・愛加那は一族の娘を、砂守家も同じく伊仙から家を名乗るようになった。薩摩藩士が任期後も留まることや、罪を得て遠島され永住するなどで子孫達がその名字を継承したが、公的には二文字や三文字であっても、その中の一文字を使って山元を元、伊集院を伊などとしていた。また統や朝のように先祖が琉球の役人であったため、名乗頭をそのまま名字とした例もある。

これらの一字姓は主に公的な場合に使用され、本来二文字や三文字の家は私的には元の名字を名乗ることが多かったようである。幕末になるにつれ藩の基準も曖昧になっていき、公文書や記録にも元の二文字や三文字の名字が現れてくる。

1875年の平民苗字必称義務令により全ての国民が名字を名乗ることが義務付けられると、多くは馴染みのある一字を姓にしたり、それを組み込んだ二字姓にした。かつて二字姓を与えられていた家は復姓したりした。

なお名字と姓はもともと別のものであるが、今日では混同されている。特に奄美群島では「一字姓」というように「姓」が名字の意味で使われることが多い。

参考文献[編集]

  • 「奄美学」刊行委員会編 『奄美学ーその地平と彼方』 南方新社 2005年 ISBN 9784861240263
  • 大江修造 『明治維新のカギは奄美の砂糖にありー薩摩藩 隠された金脈』 アスキー新書 2010年 ISBN 9784048684101

関連項目[編集]