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佐倉藩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
佐倉藩
佐倉城の復元された椎木門・馬出
立藩年 文禄元年(1592年)
初代藩主 武田信吉
廃藩年 明治4年(1871年)
最終藩主 堀田正倫
国 下総国
居城 佐倉城[1]

武田家(穴山武田家)
石高 4万石
種類 親藩
藩主 武田信吉

長沢松平家
石高 5万石
種類 親藩
藩主 松平忠輝

小笠原家
石高 2.8万石
種類 譜代大名

土井家
石高 3.2万石→4.5万石→6.25万石→14.2万石
種類 譜代大名
藩主 土井利勝

石川家
石高 7万石
種類 譜代大名

形原松平家
石高 4万石→3.6万石
種類 譜代大名

堀田家
石高 11万石
種類 譜代大名
藩主 堀田正盛

大給松平家
石高 6万石
種類 譜代大名

大久保家
石高 8.3万石
種類 譜代大名
藩主 大久保忠朝

戸田家
石高 6.1万石→7.1万石→6.78万石
種類 譜代大名
藩主 戸田忠昌

稲葉家
石高 10.2万石
種類 譜代大名
藩主 稲葉正往

大給松平家
石高 6万石→7万石→6万石
種類 譜代大名
藩主 松平乗邑

堀田家
石高 10万石→11万石
種類 譜代大名
江戸城控間 帝鑑間[2]
藩主 堀田正亮・堀田正睦
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佐倉藩(さくらはん)は、下総国に1592年(文禄元年)から1871年(明治4年)まで断絶を挟みながらも存在した藩。徳川家康の五男・武田信吉を初代藩主とし、以降は長沢松平家、小笠原家、土井家、石川家、形原松平家、堀田家、大給松平家、大久保家、戸田家、稲葉家、大給松平家、堀田家の、延べ13家が藩主を務めた。藩庁は佐倉城(現在の千葉県佐倉市)に置いた。石高の変動は激しく、土井利勝治世下では最大の14.2万石となり、最小は小笠原吉次時代の2.8万石であった。最後に支配した堀田家時代では11万石である。

佐倉藩の歴史は、文禄元年(1592年)に徳川家康五男武田信吉が、佐倉に4万石で入封したことに始まる。慶長7年(1602年)に徳川家康六男松平忠輝が5万石で入封するが、翌年には転封となり、一時期幕府領となった。慶長12年(1607年)に小笠原吉次が入封して以降は、譜代大名が治めることとなった。慶長15年(1610年)に土井利勝が3万2000石で入封し、老中就任を経て14万2000石まで肥大した。寛永10年(1633年)に石川忠総が7万石で入封、寛永12年(1635年)に松平家信が4万石で入封、寛永19年(1642年)に堀田正盛が11万石で入封、寛文元年(1661年)に松平乗久が6万石で入封、延宝6年(1768年)に大久保忠朝が8万3000石で入封した。貞享3年(1686年)、戸田忠昌の代に6万1000石で1度目の戸田家支配がはじまる。元禄14年(1701年)、稲葉正往が10万2000石で入封し、享保8年(1723年)に松平乗邑が6万石で入封した。

延享3年(1746年)に堀田正亮が10万石、のち11万石で入封した。2度目の堀田家の入封で落ち着き、以降の佐倉藩は堀田家の支配となった。5代目の堀田正睦は、学問を奨励し、佐倉は「学都」と称されるにいたった。また、天保から安政期にかけて老中をつとめた。戊辰戦争では佐幕派が中心であったが、藩主堀田正倫が京で人質となると、新政府側につかざるをえなかった。明治4年(1871年)、廃藩置県により佐倉藩は廃藩となり、その領地は佐倉県、ついで印旛県、千葉県と変遷した。

佐倉は佐倉街道の終点に位置し、房総半島の入り口であるという交通の要所であった[3]。小笠原吉次の入封以降、譜代大名の藩として固定されるようになり、1代2代という短期間で大名が交代することが多かった。山形藩・掛川藩と並んで、最多の延べ13大名家が支配している。歴代藩主のうち、江戸諸藩最多の8名が老中に就任している[注釈 1]。

佐倉藩の藩政資料は現在、佐倉市の日産厚生会佐倉厚生園病院が所蔵している[4]。

藩史

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佐倉藩の位置(千葉県内)
小見川
小見川
東金
東金
大網
大網
船橋
船橋
千葉
千葉
寒川
寒川
公津
公津
佐倉
佐倉
←本佐倉
←本佐倉
関連地図(千葉県)[注釈 2]

前史

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国史跡に指定されている本佐倉城跡

室町時代後期、下総千葉氏は印幡浦(現在の印旛沼。中世には香取海と結ばれていた)に面した水陸交通の要衝である下総国印旛郡印東荘佐倉に拠点を移した[5]。中世に「佐倉」と称されたのは現在の印旛郡酒々井町本佐倉・上本佐倉から佐倉市大佐倉にかけての一帯であり[6]、将門山に本佐倉城が築かれ、城下には町場が形成されて、領国支配の中心となった[7]。戦国時代末期、千葉氏は後北条氏に従属し、本佐倉城も後北条氏の支城となった。天正18年(1590年)、小田原征伐に際して本佐倉城は落城し、千葉氏も没落した[8]。

天正18年(1590年)、関東の江戸城に入国した徳川家康は、各地に諸将を配置した[8]。佐倉地域については、「徳川実記」などに言及がある久野宗能が1万3000石で入封したという説[注釈 3][10][11]と、三浦義次(三浦重成)[注釈 4]が佐倉(本佐倉城)に1万石で入封したとする説[13][14][15][注釈 5]がある。他にも、酒井家次や北条氏勝も広義の佐倉地域を支配していたという[16]。

家康の二人の息子

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文禄元年(1592年)3月、徳川家康の5男・武田信吉が本佐倉に入封した[13][17]。武田信吉の統治から「佐倉藩」として扱う文献が多い。武田家滅亡後、その家臣である穴山信君の息子である穴山勝千代が「武田」の名跡を継いでいた[13]。生母が穴山信君の養女であったため、勝千代の死後、信吉が武田の名跡を継ぎ、天正18年より下総国小金3万石を領していた[13]。本佐倉に入封した信吉は、本佐倉城を廃して大堀に新しく陣屋(大堀館)を築造した[17]。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは江戸城の留守居をつとめ、翌7年(1603年)に常陸国水戸藩15万石へ転封となった[13]。

信吉に続いて、徳川家康6男で信吉の弟にあたる長沢松平家の松平忠輝が5万石で封じられた[17]。忠輝の佐倉藩政は1年にも満たず、翌8年(1603年)に信濃国川中島藩12万石へ転封となった[17]。この後3年間ほど、佐倉は幕府領(天領)として、関東総奉行の青山忠成や内藤清成による支配を受ける[18][17]。

小笠原家時代

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慶長12年(1607年)、小笠原吉次が2万8000石で封じられた[19]。吉次は、徳川家康の4男・清州藩主松平忠吉の付家老として犬山城(3万5000石)に封じられていたが、主君の忠吉が死去したことによって、幕臣に戻り佐倉へ転封となった[19][17][17]。小笠原の支配も短期間で、翌13年(1608年)に常陸国笠間藩3万石へ移封となった[19][17]。

大老・土井利勝

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土井利勝

慶長15年(1610年)、下総国小見川藩1万石を治めていた土井利勝が3万2400石で加増転封してきた[20][21]。また、この年に利勝は老中となった[22]。利勝は鹿島城[注釈 6]に本格的な城を築くことにし、翌16年(1611年)から、近世城郭としての佐倉城の建築が始まり、元和3年(1617年)ころに完成された[20][21]。

老中となった土井利勝は佐倉藩主時代にも加増を重ね、まず慶長17年(1612年)に4万5000石に加増となった[22]。大坂の陣にも出陣し、その功あって、元和元年(1615年)に約6万石に加増されたほか、その後も多少の加増があった[注釈 7][21]。さらに寛永2年(1625年)になって、佐倉藩史上最大の14万2000石に加増される[22][21]。

利勝自身は幕政に大きくかかわっており、佐倉藩政に関わることは少なく、弟の土井元政や家臣に任せることが多かったという[25]。寛永10年(1633年)、土井利勝は下総国古河藩16万石に加増転封された[21]。その後15年(1638年)、大老まで昇進した[21]。

相次ぐ転封

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同年に、豊後国日田藩6万石の藩主であった石川忠総(大久保忠隣の次子)が7万石で佐倉に加増転封された[26]。しかし、翌11年(1634年)には、近江国膳所藩へ転封となった[26]。

かわって翌12年(1635年)には、摂津国高槻藩2万石を治めていた形原松平家の松平家信が4万石に加増されて入封した[27]。家信は同15年(1638年)に死去し、弟の松平氏信と松平信忠にそれぞれ2000石を分知して、残りの3万6000石を子の松平康信が継承した[27][28]。しかし、同17年(1640年)に再び高槻藩へ封じられることとなった[29]。この後佐倉藩領は再び幕府領となり、代官野村為重や八木重絲が支配した[29]。

前期堀田家時代

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佐倉藩主・堀田正盛

寛永19年(1642年)になって、信濃国松代藩10万石を領していた堀田正盛が11万石で入封した[30]。堀田正盛は将軍徳川家光の近習として仕え、六人衆(のちの若年寄)、のちに老中の一人として幕政に関わっていた[31][29]。寛永15年(1638年)に老中職を解かれていたが、その後も幕政に関わることがあった[32]。

慶安4年(1651年)に家光が死去すると、正盛はその跡を追って殉死した[32][29]。佐倉藩主は長子の堀田正信が継いだ[33]。この際、弟の堀田正俊に新田高1万石、堀田正英に新田5000石、堀田勝直に新田3000石を分知している[29]。そのうち勝直の領地は、万治2年(1659年)に盛岡藩南部重直の養子となったために、佐倉藩に還付された[29]。

正信の治世中には、「租税の重さによる農民の窮状を、将軍徳川家綱に直訴して処刑された」義民佐倉惣五郎の事件があったとされる[注釈 8][34]。万治3年(1660年)、正信は突然、「旗本が困窮しているため、自らの領地を返上して旗本に分け与えてほしい」という旨の幕府批判の意見書を保科正之と阿部忠秋にあて、無断で佐倉に帰国した[35]。この行動を狂乱によるものとみなされ、堀田正信は改易、実弟の飯田藩主脇坂安政お預けとなった[36][37]。佐倉城は朽木植綱が受け取り、安藤重博が在番として管理した[38]。

つづく相次ぐ転封

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寛文元年(1661年)になり、上野国館林藩5万5000石の藩主であった大給松平家の松平乗久が6万石で入封した[39]。延宝6年(1678年)に肥前国唐津藩へ転封となり[39]、かわって唐津藩8万3000石の藩主大久保忠朝が入封した[40]。忠朝は前年に老中となっており、貞享3年(1686年)に相模国小田原藩へ転封となる[41]。

代わって武蔵国岩槻藩5万石の藩主戸田忠昌が6万1000石で入封した[42]。忠昌も佐倉入封時にはすでに(天和元年、1681年)老中職に就いており、元禄7年(1694年)に1万石の加増を受けた[42]。元禄12年(1699年)に忠昌は死去し、嫡子の戸田忠真が継承した[43]。この際に、弟の戸田忠章に3200石と新田高3800石を分知し、佐倉藩は6万7800石となった[28][44][45]。元禄14年(1701年)に、越後国高田藩へ移封となった[44]。

かわって佐倉に入封したのは、越後国高田藩主の稲葉正往であった[46]。同年すでに老中に就任しており、佐倉藩10万2000石を治めた[46][45]。宝永4年(1707年)に正往が隠居・老中を辞し、嫡子稲葉正知が継承した[46][47]。この際、弟の稲葉正佐に新田高3000石を分知している[47]。享保8年(1724年)、山城国淀藩へ転封した[46]。

淀藩主となっていた大給松平家の松平乗邑が6万石で入封した[48]。乗邑はかつて佐倉藩主であった松平乗久の孫であり、大給松平家は乗久・松平乗春(乗久の子、乗邑の父)・乗邑と続いた[48]。乗邑もやはり老中に就任し、同年の内に佐倉藩へと転封している[48]。乗邑は将軍徳川吉宗のもと、享保の改革を老中として支え、延享2年(1745年)に1万石の加増を受けて、7万石となる[49][50]。しかし同年、吉宗が将軍職を辞すると、乗邑は将軍徳川家重から蟄居を命じられ、加増分の1万石は没収され、佐倉藩主は息子の松平乗佑が受け継いだ[51][50]。翌3年(1746年)、乗佑は出羽国山形藩へと転封となった[52]。

堀田家の定着

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延享3年、前年に老中へ任命されていた山形藩主堀田正亮が10万石で佐倉藩へ入封した[53]。かつて佐倉藩を治めた堀田正盛の息子で、将軍徳川綱吉時代に大老をつとめた堀田正俊の子孫にあたる[50]。のちには老中首座や勝手掛などの立場で徳川家重時代の幕政を支え、宝暦10年(1780年)には1万石の加増を受けた[54][55]。小笠原吉次以来、佐倉藩では領主の交代が頻繁に起こっていたが、これ以降は堀田家が廃藩置県まで佐倉藩11万石を統治することとなる[52]。

翌11年(1781年)堀田正亮は死去し、堀田正順が継承した[54]。堀田正順も大坂城代や京都所司代などの幕府の役職を長年務めた[28][56]。

堀田家は重なる転封もあり、藩財政が困窮していた[57]。遠隔の山形藩から江戸近隣への佐倉藩への転封による収入増や、正亮の老中就任による雑収入(贈物など)もあり、正亮の代には比較的財政に余裕があった[58]。正順の代にはそういった補助がなく、幕職による京阪在住や浅間山の噴火、日光東照宮修繕の費用なども財政窮乏を加速させた[56][59]。天明3年(1783年)には、浅間山の噴火や利根川の洪水、大凶作を背景とした、年貢減免などを求める百姓一揆が城付領で発生し、最終的には藩内124村が関与した[28][60]。

文化2年(1805年)に正順は死去するが、正順の跡継ぎにあたる堀田正功はすでに死去しており、その子堀田正愛は幼少であったため、弟の堀田正時が中継ぎとして藩主に就任することとなった[61][59]。中継ぎと自覚していた正時は藩政に関わることが少なく、藩政は家臣の会議で運営され、藩政改革も行わないまま、文化8年(1811年)に死去した[62][59]。

佐倉藩の文政改革

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正時の実子のちの堀田正睦はいまだ幼少であり、予定通り堀田正愛が佐倉藩を継承した[63]。正愛の命じられた大手門番の負担や、江戸屋敷の延焼、風水害、米価の低落などが財政難を加速させた[64]。松平定信以来白河藩が東京湾の警備を担当していたが地理的に不便であることから、佐倉藩への転封の話が持ちあがり、財政負担をおそれた佐倉藩はもみ消しの工作のために多大な財をなげうち、有事の際は佐倉藩も海防を担う意思があると示した[65][66]。それらの財政負担を受け、文政4年(1821年)より藩主正愛が主導、支藩堅田藩主堀田正敦が補佐し、向藤左衛門を実質的な中心とした藩政改革(佐倉藩の文政改革)が始まった[63][59]。収入を三分して、借金の返済、公務および藩主家の費用、家臣の俸禄に充てる三ツ割の法を適用した[67]。また、恒常化していた歩引の法(家督相続の際に減給)を具体化し、藩の借金を整理、蔵元の一元化などが行われた[68]。しかし借金の返済は思うようにすすまず、文政6年(1823年)に勝手役を辞すこととなった[69][70]。文政改革で定められた諸法は5年を期限としていたが、その後も延長が続き藩士の窮乏は加速していった[71]。

文政6年(1823年)より、以前の転封問題と関連してか、佐倉藩は房総の東京湾海岸警備を担うことになった[72]。千葉町の猪鼻陣屋を作って拠点とし、特に他国と交戦をすることはなく、20年後の天保15年(1844年)に引き上げた[73]。

病弱な正愛の子はすでに夭逝しており、後継者問題が藩内で沸きおこった[74]。支藩堅田藩主堀田正敦の子を擁立する動きもあったが、渡辺弥一兵衛を中心に先代藩主正時の実子の堀田正睦が推され、後継者となった[75]。

「学都」・佐倉と開国の時代

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佐倉藩主・堀田正睦

正愛は文政7年(1824年)に死去し、翌8年(1825年)に堀田正睦が佐倉藩を継いだ[76]。藩政当初は、正敦が後見の立場となった[77]。

天保4年(1833年)11月より渡辺弥一兵衛を中心に、文武芸術の振興をはじめ、家中扶持政策(窮乏した家臣に貸付[78])・学制改革・勧農政策・人口増加政策などで構成される(佐倉藩の)天保の改革がなされた[28][77]。新たに増引(給与削減)が設定されるも文武いずれかの免許を得ることによって免除がなされたため、藩士らは幼少より文武に励む者が増えたという[79]。天保7年(1836年)には、藩校温故堂を拡充して、成徳書院として新築・開講された[80]。

弘化元年(1844年)より、佐倉藩は以前の東京湾警備に代わって九十九里浜の警備を担当することとなった[81]。嘉永元年(1846年)には一部領地替えが行われ、新知された匝瑳郡木戸村に海岸警備の拠点となる陣屋を設けた[82]。その後もたびたび警備を命じられることがあり、文久2年(1862年)には横浜外国人居留地、慶応2年(1866年)には横須賀製鉄所の警備を命じられた[83]。慶応3年(1867年)には第5台場の警備を命じられる[84]。

日米修好通商条約(外務省外交史料館蔵)

天保8年(1837年)、老中水野忠邦の推挙もあって正睦は西丸老中に進み、12年(1841年)には本丸老中となり、天保の改革を推進した[70]。しかし天保の改革は失敗し、一度老中職を引くこととなった[70]。その後の幕政は福山藩主阿部正弘が主導したが、安政2年(1855年)に再び正睦に白羽の矢が立ち、老中首座となった[70]。安政5年(1858年)には、アメリカ駐日総領事のタウンゼント・ハリスとの間に日米修好通商条約を結ぶこととなった[70]。

戊辰戦争の動乱

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安政6年(1859年)、正睦は隠居し、その子堀田正倫が継承した[85]。幼少であるために父正睦が死去する元治元年(1864年)まで、実質的な藩政を執り行っていた[86]。万延元年(1860年)より、依田貞幹を勝手役に任じ、正睦主導の(佐倉藩の)万延の改革が始まった[87]。この改革では、藩の借金の整理や蔵元の廃止、新規の借財を領内の者からに限定することなどがなされた[87]。

元治元年(1864年)、水戸藩で起こっていた内部抗争天狗党の乱が下総国にも飛び火し、下総国一の大藩である佐倉藩は幕領佐原地区約2600石を与えられ警備することとなった[88][89]。のちには天狗党の討伐命令が下り、那珂湊の戦いなどに参戦し、一部の降伏したものは佐倉藩預かりとなった[88][90]。万延の改革は順調に進んでいたものの、この年以降廃藩まで出兵や正倫の上京(京都)、新施設・制度の設置などで出費がかさんでいる[91]。

慶応3年(1867年)に大政奉還がなされると、大身の譜代大名である佐倉藩は朝廷からの上洛命令を無視する態度をとっていた[88]。まずは様子見として、家老平野縫殿を京都に派遣している[92]。鳥羽伏見の戦い後には徳川慶喜追討令が出されるも、小田原藩とともに助命嘆願書を中心となって起草したが、これは却下された[93][94]。慶応4年(1868年)、正倫は藩兵を連れ慶喜の助命嘆願を訴えるために上京するも、道中の駿府にて上京の遅延を理由に、貞享の上蟄居することが命じられ、実質的な人質となった[93]。藩主や家臣が人質にとられた中で、国元の平野縫殿は新政府につくことを主張するも、佐倉藩は譜代であるために佐幕論を主張する藩士は依然として多かった[93]。

江戸の無血開城の前夜に、開城を拒否する旧幕臣らは徳川義軍を結成し、佐倉藩に救援を求めたが、東海道鎮撫府より逆賊が領内に入った場合は即時出兵を命じられており、正倫が人質となっていることを理由に援軍を拒否した[95][96]。東海道鎮撫使副総督の柳原前光からは、鳥羽伏見にて幕府側の前線指揮を担った大多喜藩大河内正質の征討への出陣を命じられるも、佐倉藩内での議論が沸騰し、出兵の意志が決まるころには出陣を断られた[95][97]。新政府に恭順する意思を明らかにするため、出兵への許可をなんとか取り付け、無血開城された大多喜城の城主正質は佐倉藩預かりとなった[95]。同年の内に正倫は帰国を認められた[98][99]。その後も佐倉藩士は各地に出兵し、明治2年(1869年)の戊辰戦争の賞典では、藩主正倫に金450両が下賜された[100]。

最後の藩政改革と廃藩

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佐倉藩最後の藩主・堀田正倫が、廃藩置県による東京移住が解かれた際に住まった旧堀田邸

明治元年(1868年)に正倫は佐倉に帰国すると、翌2年より藩政改革に取り組み始めた[101]。平野縫殿や西村茂樹を中心に藩治職制(諸藩の役職名統合)を実行し、佐倉藩の役職を一新した[102]。

明治2年(1869年)に諸藩と比較して遅めに版籍奉還し、正倫は佐倉藩知事に任じられた[103][104]。版籍奉還後は、執政・参政(藩治職制下のトップ)を廃して、代わって選挙によって大参事・小参事を選定した[105]。積もりに積もっていた借財を返済するために、藩士の禄を削った[106]。明治4年(1871年)、廃藩置県により佐倉藩は廃藩となり佐倉県となった[103][107]。

歴代藩主

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武田家

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親藩、石高:4万石

代 氏名 在職期間[108] 出自[109]
1 武田信吉
たけだ のぶよし
文禄元年3月 - 慶長7年11月28日
(1592年 - 1603年1月10日)
徳川家康の5男
水戸藩へ

長沢松平家

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親藩、石高:5万石

代 氏名 肖像 受領名[108] 在職期間[108] 出自[109]
1 松平忠輝
まつだいら ただてる
左少将・上総介 慶長7年12月 - 慶長8年2月18日
(1603年 - 1603年3月30日)
徳川家康の6男
深谷藩より
川中島藩へ

小笠原家

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譜代大名、石高:2万8000石

代 氏名 肖像 受領名[110] 在職期間[110] 出自[109]
1 小笠原吉次
おがさわら よしつぐ
和泉守 慶長12年閏4月 - 慶長13年9月
(1607年 - 1608年)
新知
笠間藩へ

土井家

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譜代大名、石高:3万2000石→4万5000石→6万2500石/6万5200石→14万2000石

代 氏名 肖像 受領名[110] 在職期間[110] 出自[109]
1 土井利勝
どい としかつ
大炊頭 慶長15年2月 - 寛永10年4月7日
(1610年 - 1633年5月14日)
小見川藩より
古河藩へ

石川家

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譜代大名、石高:7万石

代 氏名 受領名[110] 在職期間[110] 出自[109]
1 石川忠総
いしかわ ただふさ
主殿頭 寛永10年6月7日 - 寛永11年閏7月6日
(1633年7月29日 - 1634年8月30日)
日田藩より
膳所藩へ

形原松平家

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譜代大名、石高:4万石→3万6000石'

代 氏名 受領名[110] 在職期間[110] 出自[109]
1 松平家信
まつだいら いえのぶ
主殿頭 寛永12年2月29日 - 寛永15年1月14日
(1635年4月16日 - 1638年2月27日)
高槻藩より
2 松平康信
まつだいら やすのぶ
紀伊守 寛永15年5月16日 - 寛永17年9月28日
(1638年7月1日 - 1640年11月11日)
先代の子
高槻藩へ

堀田家

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譜代大名、石高:11万石

代 氏名 肖像 受領名[110] 在職期間[110] 出自[109]
1 堀田正盛
ほった まさもり
出羽守・加賀守 寛永19年7月16日 - 慶安4年4月20日
(1642年8月24日 - 1651年6月8日)
松本藩より
2 堀田正信
ほった まさのぶ
上野介 慶安4年8月14日 - 万治3年11月
(1651年9月29日 - 1660年)
先代の子
改易

大給松平家

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譜代大名、石高:6万石

代 氏名 受領名[111] 在職期間[111] 出自[112]
1 松平乗久
まつだいら のりひさ
和泉守 寛文元年閏8月3日 - 延宝6年1月23日
(1661年9月26日 - 1678年3月15日)
館林藩より
唐津藩へ

大久保家

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譜代大名、石高:8万3000石

代 氏名 受領名[111] 在職期間[111] 出自[112]
1 大久保忠朝
おおくぼ ただとも
出羽守・加賀守 延宝6年1月23日 - 貞享3年1月21日
(1678年3月15日 - 1686年2月13日)
唐津藩より
小田原藩へ

戸田家

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譜代大名、石高:6万1000石→7万1000石→6万7800石

代 氏名 受領名[111] 在職期間[111] 出自[112]
1 戸田忠昌
とだ ただまさ
伊賀守・越前守・山城守 貞享3年1月21日 - 元禄12年9月10日
(1686年2月13日 - 1699年10月22日)
岩槻藩より
2 戸田忠真
とだ ただざね
日向守・能登守・山城守 元禄12年閏9月23日 - 元禄14年6月14日
(1699年11月14日 - 1701年7月26日)
先代の子
高田藩へ

稲葉家

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譜代大名、石高:10万2000石

代 氏名 受領名[113] 在職期間[113] 出自[112]
1 稲葉正往
いなば まさゆき
丹後守 元禄14年6月14日 - 宝永4年8月21日
(1701年7月26日 - 1707年10月4日)
高田藩より
2 稲葉正知
いなば まさとも
美濃守・長門守・丹後守 宝永4年8月21日 - 享保8年5月1日
(1707年10月4日 - 1723年6月19日)
先代の子
淀藩へ

大給松平家

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譜代大名、石高:6万石→7万石→6万石

代 氏名 肖像 受領名[114] 在職期間[114] 出自[112]
1 松平乗邑
まつだいら のりさと
和泉守 享保8年5月1日 - 延享2年10月10日
(1723年6月19日 - 1745年11月3日)
松平乗久の孫
淀藩へ
2 松平乗佑
まつだいら のりすけ
和泉守 延享2年10月10日 - 延享3年1月23日
(1745年11月3日 - 1746年3月14日)
先代の子
山形藩へ

堀田家

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譜代大名、石高:10万石→11万石

代 氏名 肖像 受領名[115] 在職期間[115] 出自[108]
1 堀田正亮
ほった まさすけ
相模守 延享3年1月23日 - 宝暦11年2月8日
(1746年3月14日 - 1761年3月14日)
堀田正盛の子孫
山形藩より
2 堀田正順
ほった まさなり
相模守 宝暦11年3月26日 - 文化2年7月12日
(1761年5月1日 - 1805年8月6日)
先代の子
3 堀田正時
ほった まさとき
相模守 文化2年8月27日 - 文化8年4月10日
(1805年9月19日 - 1811年5月31日)
先代の弟
4 堀田正愛
ほった まさちか
相模守 文化8年5月25日 - 文政8年1月22日
(1811年7月15日 - 1825年3月11日)
堀田正功(堀田正順の子)の子
5 堀田正睦
ほった まさよし
相模守・備中守 文政8年3月8日 - 安政6年9月6日
(1825年4月20日 - 1859年10月1日)
堀田正時の子
6 堀田正倫
ほった まさみち
相模守 安政6年9月6日 - 明治4年7月14日
(1859年10月1日 - 1871年8月29日)
先代の子

所領

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佐倉藩の所領は佐倉城を中心とする城付領6万石、出羽国村山郡4万石(柏倉陣屋による遠隔支配)、関東に分散した飛び地に大別される[116][117]。後期堀田家の領した関東の飛び地領のうち、相模国3000石は春日局の遺領として堀田正俊の代から維持しており、固定されていた[118]。

石高と領地

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佐倉藩の石高変遷(表高)は以下の通り。一方で幕末時点での内高は13万2000石ほどであった[119]。

旧高旧領取調帳をもとにした旧高旧領取調帳データベースによれば、佐倉藩(堀田家時代)の領地は以下のとおりである[120]。

佐倉街道

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江戸と佐倉とを結ぶ交通路として佐倉街道があり、江戸近郊の主要な街道として幕府道中奉行の管轄下にあった[121]。佐倉街道は、千住宿から船橋・大和田・臼井などを経て佐倉に至る道筋で、成田参詣の道としてにぎわった[121]。ただし千住宿を経由する佐倉街道は遠回りとなるため、日本橋から行徳へ水路をとる道筋が一般に用いられた[121]。また、千葉の町から加曾利を経由して佐倉に至る道筋もあった[121]。

城付領

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城付領は、下総国印旛郡・千葉郡・埴生郡にまたがる約6万石の領地であり、時代によって多少の変化はあるが佐倉城付の領地として、佐倉藩領の基礎となった[122]。

城付領に含まれる千葉町とその周辺は陸上・海上交通の要衝であり、佐倉藩の外港としての役割を担った[123]。後期堀田氏は千葉町に千葉役所を置いて支配拠点とした[124]。千葉氏没落後に寒村となっていた千葉町は、交通の発展とともに繁栄を遂げたと見られる[123]。文政8年(1825年)には海防のために千葉町の猪鼻山に陣屋(亥鼻陣屋[125] )が置かれた[124]。

佐倉藩は寒川浦を海上輸送の拠点とし、御蔵を建てて年貢米などを集積して江戸に廻送した[126][127][123]。佐倉は江戸に近く海上輸送網が発達していたため、輸送費がかからず、江戸への廻米による収入が多く見込まれた[118]。文政4年(1821年)の藩政改革以後、佐倉領内の村は年貢を椎木蔵(佐倉)か寒川蔵のいずれかに収納した[127]。江戸への輸送は寒川の船問屋が引き受け、五大力船によって行われた[127]。

出羽国分領

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佐倉藩の位置(山形県内)
山形
山形
磐城平
磐城平
柏倉
柏倉
関連地図(山形県)

後期堀田氏時代、出羽国村山郡(1878年以後の東村山郡・南村山郡の一部にあたる地域)にあった分領は約4万石と規模が大きく、明治期まで存続した。堀田正俊の後を継いだ堀田正仲が山形藩に封じられた際や、次代の堀田正虎が再び山形藩に封じられた際にも治めていた土地であった[128]。堀田正亮が山形から佐倉に移封するときにも、出羽国村山郡の領地のうち一部をそのまま維持することとなり、飛び地となった[128]。一旦消滅もはさむが、寛政10年(1798年)には固定されることとなる[129]。

分領の統治拠点として、延享4年(1747年)に柏倉陣屋(現在の山形市柏倉)が置かれた[130]。柏倉には藩校成徳書院の分校(北庠)も置かれ、武士のみならず百姓も学ぶことができたという[130]。代官を務めていた田内与七郎成伸は名代官とされ[130]、平清水村(山形市平清水)の平清水焼の振興に携わったことから同地に報恩碑が立てられている[131]。柏倉陣屋の跡地には堀田永久稲荷神社が残る[130]。

佐倉城と城下町

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佐倉城の図

いわゆる近世佐倉城は土井利勝の代、慶長16年(1611年)より始まり、元和2年(1616年)頃に完成した[132]。武田信吉や松平忠輝などのそれ以前の藩主は、現在の佐倉城とは離れた本佐倉に陣屋を置いていた[132]。天守閣は存在していたが、文化10年(1813年)堀田正愛の代に焼失している[133]。

佐倉市 武家屋敷通り

江戸藩邸

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家臣団

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前期堀田家の家臣団

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前期堀田家の家臣団構成は堀田正盛時代のものとされる「総州佐倉分限帳」の記述によれば、総勢2052人であった[134]。そのうち士分が599人、さらに知行取は329人であったという[135]。正信は改易となっているため家臣団は一旦離散するも、そのうち一部は分家筋の堀田正俊に召し抱えられ、後期堀田家臣団にも受け継がれている[136]。

後期堀田家の家臣団

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後期堀田家の祖にあたる堀田正俊は、佐倉藩主堀田正盛の息子であり、養母の春日局死後に遺領3000石を継ぎ、さらに慶安4年(1651年)に大名となり、家臣団が形成されつつあった[137]。さらに安中藩2万石へと加増され、後期堀田家臣団の基礎が構成された[138]。最終的に古河藩13万石まで出世し、石高に相応の家臣が召し抱えられ、のちに佐倉藩へ転封されたときも同じ規模の家臣団となっている[139]。その多くは、改易になった旧佐倉藩家臣であった[139]。地方知行の家臣はおらず、蔵米による支給のみであった[140]。

堀田正睦時代の分限帳によれば、家臣の席次は家老、城代、年寄と続いた[141][142]。

経済・財政・文化

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藩札

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佐倉藩の藩札は、明治2年(1869年)に発行された銀札・銭札が発見されている[143]。しかし、藩政資料や領内資料からは、藩札の発行・流通に関する言及はいまだ見つかっていない[143]。

佐倉牧

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学都・佐倉

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佐倉藩の藩校は、堀田正順の代、寛政4年(1792年)に佐倉学問所が創立されたことに始まる[144]。文化年代になって、この学問所に藩主正時が「温故堂」と名付けた[144]。

佐倉順天堂記念館

堀田正睦の代、藩政改革の一環として、一芸に秀でた藩士は減給を免じられたため、学問に力を入れる藩士も増えた[144]。また、江戸の蘭医であった佐藤泰然を召し抱え、成徳書院に出講した[144]。泰然は私的に(佐倉)順天堂を開いている[144]。

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ↑ 土井利勝(のちに大老に)、堀田正盛、大久保忠朝、戸田忠昌、稲葉正往、松平乗邑、堀田正亮、堀田正睦の8名が老中に就任している[3]。
  2. ↑ 赤丸は本文内で藩領として言及する土地。青丸はそれ以外。
  3. ↑ 『佐倉市史』では、久野宗能の本拠を鹿島城であるという説を挙げ、下総国のうち1万3000石が久野宗能の領地としている[9]。なお、鹿島城は江戸時代の佐倉城の前身とされる城であり、本佐倉城とは別の位置にあるため、『佐倉市史』の説であれば、三浦と久野が同時に佐倉にいた説明も成り立つ。
  4. ↑ 中村孝也『徳川家康の研究』では、佐倉に封じられた人物を「三浦監物義次」とある。『寛政重修諸家譜』によれば、佐倉に封じられた三浦氏の人物は「三浦監物重成」である。『大網白里町史』は「義次とこの重成が同一人物であるかどうかは、現在のところ判定しえない」としている(本文では佐倉に封じられた人物として「重成」を採用)[12]。
  5. ↑ 『佐倉市史』によれば、天正19年(1591年)に知行割りが行われ、上総国大網(現在の大網白里市大網)・本納(現在の茂原市本納)および下総国佐倉で1万石が宛がわれた[12]。
  6. ↑ 鹿島城(加島・神島とも)の築城時期は諸説あるが、史料で裏付けれられるところでは、天正13年(1585年)に千葉邦胤の急死を受けて後北条氏が本佐倉城を接収した際に新たな城を築いて邦胤の娘を移したのが始まりとされている[23][24]。
  7. ↑ 6万2500石とする資料と、6万5200石とする資料[22]が存在する。また、元和6年(1620年)に、9万2000石へ加増されたという説もある[22]。
  8. ↑ 佐倉惣五郎の実在性は長く議論されている。人物叢書「佐倉惣五郎」では、佐倉惣五郎は実在するという見解が示されている[34]。
  9. ↑ 明治維新後に、この相馬郡8村が加わった。旧幕府領1村、旧旗本領4村、旧高岡藩領4村ほか、寺社除地のみの編入が1村)、埼玉郡1村(旧幕府領)、愛甲郡2村(旧旗本領)である。なお相給が存在するため、村数の合計は一致しない。

出典

[編集]
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  142. ↑ 藤方 2019 p,286
  143. 1 2 木村 1989 p,472
  144. 1 2 3 4 5 木村 2006 p,418

参考文献

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関連項目

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  • 立身流
  • 川越藩 - 佐倉同様、「老中の城」と呼ばれることのある藩
  • 佐倉牧(佐倉七牧) - 江戸時代に幕府が下総・上総両国で所有した牧の総称。うち3牧は佐倉藩が管理を委託された。

外部リンク

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先代
(下総国)
行政区の変遷
1593年 - 1871年 (佐倉藩→佐倉県)
次代
印旛県