立身流

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立身流
たつみりゅう
発生国 日本の旗 日本
発生年 永正年間
(室町時代 1504年-1520年)
創始者 立身三京
主要技術 居合剣術捕縄長刀
半棒四寸鉄刀乱合
物見(測量、和算)、集団戦闘法
馬術など
公式サイト 立身流
伝承地 千葉県
現宗家 第22代 加藤紘
  

立身流(たつみりゅう)は戦国時代初期に立身三京が創始した武術。所謂古武道・古武術の流派。

[以下立身流総本部が記載(公式サイトより一部修正し引用)]

概要[編集]

表芸を刀術(居合 剣術)としながらも、俰(やわら・柔術)、鎗、長刀、棒、捕縄、四寸鉄刀(手裏剣)、物見(測量、和算)、集団戦闘法、弓、馬術など、戦国時代の戦闘体系の流れが包括されており、現在まで500年以上に亘り歴代の非凡な剣士によって厳しく伝承されてきた。

江戸時代には、譜代大名で幕府の要職を務めた佐倉堀田藩における藩外不出の武術として藩士教育の中枢にあり、堀田藩主をはじめ藩士の武芸として重視されてきた。

また幕末には、半澤成恒、逸見宗助、兼松直廉などの多くの名人を輩出するとともに、明治初期の警視庁流創設に関わるなど、現代剣道の源流のひとつとしても大きな役割を果たしてきた。

現在、伝書全15巻と関連古文書が完全に伝来されており、その体得と次代への伝承が行われている(千葉県無形文化財指定)。

主な活動は総本部及び千葉県佐倉市、八街市、市原市、東京都大田区の各支部道場での稽古の他、所謂古武道・古武術の流派として日本古武道協会(昭和54年(1979年)2月17日設立)及び日本古武道振興会(昭和10年(1935年)4月1日設立)の各創立時よりの会員である。

立身流系譜[編集]

  • 立身三京
  • 立身石見守
  • 立身数馬佐
  • 三上半之丞
  • 松井琴古
  • 桑島太左衛門
  • 大石千助
  • 山口七郎左衛門
  • 竹河九兵衛
  • 糟谷団九郎
  • 逸見柳芳
  • 逸見宗八
  • 半澤喜兵衛
  • 逸見新九郎
  • 半澤権右衛門
  • 逸見宗八
  • 逸見忠蔵
  • 半澤成恒
  • 加藤久
  • 加藤貞雄
  • 加藤高
  • 加藤紘

特徴-総合武術としての立身流[編集]

立身流は戦国時代に興った流派で、立身三京が必勝の原理を会得して創始した。その必勝とは、いかなる武器を持っても、又は持たなくとも必勝と言うことで、刀の他に俰(やわら・柔術)、鑓(やり)、長刀(なぎなた)、棒、半棒、四寸鉄刀(手裏剣)、鉄扇等を使いこなせなければならず、又心法が重要視される。当時は、決まりや規則は一切無く、武器を選択する余裕はなかったため、立身流が総合武術として成立したことも必然であった。

しかし、立身流の表芸は、刀術(居合、剣術)である。立身流正伝書全15巻の内には、俰(やわら)目録之巻、俰(やわら)極意之巻もあるが、ほとんどは主に刀術を中心とした、武術全般と心法について書かれ、正伝書の他にも古文書(研究書)が数多く残されている。又佐倉藩に於いては、立身流教場が刀術所内に置かれていたし、鑓、棒等の形のおいては、最終的には太刀が勝つ形になっている。

俰(やわら)は刀術とも密接な関係があり、特に重要な意味をもっている。その他、捕縄(21通り、抵抗する相手を素早く一時的に縛る早縄と、しっかり縛る本縄がある)等、武技一般のほか、弓、馬、集団戦術の心得、物見、測量法、兵術、甲冑着具次第にまで及んでいる。

立身流の各種の形は戦国の古式そのままに伝承されたため、外観は虚飾なく、一見して地味ではあるが、実は頗る高度な技術内容の集約であって、これが巧妙に構成されており、動く禅とも称されている。極めて実際的であると同時に、その洗練された動きは、見る者をして立体芸術的な動作美を感じさせる。

諸武技の心技の奥義は共通であるとされ、その基本は刀術(剣術と居合)に求められ、更に、その極意は、向、円の二本にあるとされている。そして、刀の振り方、抜き方、帯刀時の指の掛け方など、立身流独自の研究によるものが多く見られる。

伝技と各種武器[編集]

現代に伝わる古武道は、戦国時代の戦闘の体系化から始まるものが多い。戦闘は準備段階での物見(測量、和算)、作戦(兵学)から始まり、馬に乗り、弓、鎗、長刀[→現代なぎなたへ]、刀術(居合[→現代居合へ]と剣術[→現代剣道へ])、短刀、四寸鉄刀等、すべての得物を使いこなせなければならない。 得物を失えば、落ちている棒(約6尺)、半棒(約4尺[→現代杖道へ])を拾って戦い、それも失えば素手の俰(やわら)[→現代柔道へ]で闘う。立身流にはそのすべてが包含されている。 また、現代合気道に似た形試合(かたじあい)、現代剣道の稽古や試合に似た乱打(みだれうち)、現代柔道の乱取に似た乱合(みだれあい)等がある。
居合
立合(表 序・破・急の3段階(各8本)、陰 初伝・本伝・別伝の3種類(各8本))
居組(表 序・破・急の3段階(各8本)、陰 初伝・本伝・別伝の3種類(各8本))
剣術
表之形(序・破・急)各8本、
陰之形(小太刀)3本
二刀之形
五合之形
五合之形詰合
俰(やわら) 45ヶ条  (含、短刀)
鎗(約9尺)
鎗合せ 表6本、陰
太刀合せ 鎗勝身(表4本、陰)、太刀勝身(表4本、陰)
小太刀合せ 小太刀勝身(表4本、陰)  
長刀(約6尺) 表3本、陰
棒(約6尺)  表5本、陰
半棒(約4尺) 表3本、陰
提刀(ていとう)
四寸鉄刀
伝技 弓、馬など
その他

立身新流と立身当流[編集]

現在、立身流の傍系伝承は全て途絶えている。 伝書や関連文書の一部は立身流でも保管しており、立身新流は江戸時代以前の分岐だが、幕末の伝書は立身流のそれをよく伝えている事が分かる。

立身新流[編集]

立身新流(たつみしんりゅう)は、第6代桑島太左衛門より分岐した。

福沢諭吉中津奥平藩でこれを学んでいた(相当の腕前と考えられるが伝書を受けているかは不明)。

木村権右衛門【1】-木村安戴-木村権右衛門-木村権兵衛-小形安兵衛-[失伝]

【1】-下山新左衛門【2】-高橋紋右衛門-中村喜助-中村庄米(庄兵衛)-(福沢諭吉)-[失伝]

【2】-菅沼五郎左衛門-三浦太右衛門【3】-猿橋代助-垂水清右衛門-猿橋代助-荻原忠助-江口良右衛門-[失伝]

【3】-今村杉右衛門-富永応助-松本二右衛門-福島茂右衛門-中西兵四郎-[失伝]

立身当流[編集]

立身当流(たつみとうりゅう)は、第7代大石千助より分岐した。

松川兵右衛門-服部善右衛門-奥平理兵衛-恩田治郎蔵-恩田四郎治-恩田弥忠治-菅沼孫右衛門-[失伝]

明治時代の伝承と警視庁流[編集]

明治政府となってから武術は断絶の危機にあったが、撃剣興行西南の役での抜刀隊の活躍等により従来の撃剣が見直され、明治14年(1881年)には多数の名剣士が警視庁に採用された。その警視庁で当時師範を勤めたのが、梶川義正上田馬之助そして立身流剣士 逸見宗助であった。この逸見宗助の活躍がきっかけとなり、警視庁で活躍する立身流剣士がでてきた。

逸見宗助 (へんみ そうすけ)[編集]

逸見忠蔵の嫡男として、天保14年(1843年)出生。18才にして立身流の目録を受け、万延2年(1861年)正月18日に、まず千葉栄次郎の下で稽古に入った(坂本龍馬と接触があり「龍馬の剣は、大きく、のびのびした、立派な稽古であった」と語っていた)後、鏡新明智流桃井春蔵門下となり、竹刀剣術を学んだ。立身流の修行でその土台が出来ていたためか、1年足らずで桃井道場の塾頭となった。 その後、帰藩し明治12年(1879年)頃警視庁(当時は警視局)に入り同20年には外勤部警部となったが、実際は、本部で武術指導者を教授する撃剣専務教師が本職であった。また、宗助は上田馬之助や高山峰太郎等と数々の名勝負を繰り広げ、当代随一の剣道家であると称賛された。「大日本剣道史」には以下のように記されている。

「(前略) 日本でも一、二番で三番とは下らぬ名人になった。山岡鉄舟曰く、剣客は沢山あるが、逸見だけは、真の剣を遣ふと評したといふ。稽古振りの立派な事無類で逸見の歿後其類を見ないといふ。」

宗助は汗かきで、稽古の際も大きく「フー」と、深呼吸をよくしていたという。水術は向井流であった。没は明治28年(1895年)末頃と思われる。千住町源長寺に葬られた。

兼松直廉 (かねまつ なおかど)[編集]

明治21年(1888年)6月の「警視庁撃剣世話係たりし者及びその階級」の中の二級(最上級)の部に、吾妻橋署 真貝忠篤、守衛係 得能関四郎、八名川署 三橋鑑一郎、富岡署 下江秀太郎等と並んで、小川町署 兼松直廉の名を見ることができる。明治22年(1889年)7月20日、逸見宗助等と共に出場した撃剣大会に於いて警視庁勢で唯一人引き分けに持ち込んだと言う記録が残っている。

村井光智 (むらい みつとも)[編集]

「日本武術名家傳」によると嘉永2年(1849年)7月佐倉藩士村井孫太夫の二男として生まれた光智は、12才の時から逸見忠蔵の門下に入り、剣術を学んだ。18才で立合目録、19才で居合目録を受けた。20才の時藩から剣術修行の命を受け、諸国を回り数々の剣士と試合をした。明治16年警視庁に招かれ剣術教師となり明治31年(1898年)まで勤めた。明治17年(1874年)に向ケ岡弥生舎に於ける撃剣大会に出場し、長岡の神道無念流坂部小郎と対戦したが敗れたと言う記録が残っている。明治31年(1898年)には大日本武徳会に入会し、その後は毎年本部大会に列席し諸国の剣客と試合をした。明治32年(1899年)には総裁小松宮殿下より武術精錬の状を受けている。

「大日本剣道史」では、逸見宗助、兼松直廉、村井光智は共に、流派は立身流となっており、彼らの警視庁での活躍によって立身流の名は全国に知れわたった。又、警視庁では、剣術、居合、柔術の形を制定した際、立身流の形を取り入れている。明治18年の武道大会を契機に、指導上の統一を期する為、梶川義正、上田馬之助、逸見宗助、得能関四郎、真貝忠篤の5人が協議して16の流派から選んだものを統合して、警視庁流木太刀の形をつくった。それによると、剣術の形10本の内4本目に立身流の「巻落」が、居合の形5本の内5本目に「四方」が採用されている。又、現在は消滅してしまったが、警視庁流柔術の形全16本の3本目に「柄搦」(つかがらみ)が採用された。

[立身流の形 第一巻より抜粋、改訂]

関連項目[編集]

  • 鏡新明智流幕末期、立身流は竹刀稽古法を採り入れるため、門人を鏡新明智流の道場「士学館」に留学させた)。
  • 警視流(立身流から「巻落」が採用されている)

外部リンク[編集]