小田原征伐

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小田原征伐
小田原城
後北条氏時代の小田原城の空堀(小峰の大堀切)
戦争安土桃山時代
年月日天正18年(1590年)2月 - 7月
場所相模国小田原、関東一帯
結果:豊臣軍の勝利 後北条氏の降伏。
交戦勢力
豊臣軍Goshichi no kiri inverted.svg 北条軍Mitsuuroko.svg
指導者・指揮官
豊臣秀吉Taiko Giri (inverse).svg
徳川家康Mitsubaaoi.svg
ほか
北条氏直Mitsuuroko.svg
北条氏政Mitsuuroko.svg
ほか
戦力
本隊 161,135
九鬼・毛利勢(水軍)20,630
前田・上杉勢 35,000
(諸説あり)
82,000(諸説あり)
損害
不明 不明
豊臣秀吉の戦闘

小田原征伐(おだわらせいばつ)は、天正18年(1590年)に豊臣秀吉後北条氏征伐し降した歴史事象・戦役。後北条氏が秀吉の沼田領裁定の一部について武力をもっての履行を惣無事令違反とみなされたことをきっかけに起こった戦いである。後陽成天皇は秀吉に後北条氏討伐の勅書を発しなかったものの[1]、遠征を前に秀吉に節刀を授けており[2] [信頼性要検証]関白であった秀吉は、天皇の施策遂行者として臨んだ[3]。ここでは小田原城の攻囲戦だけでなく、並行して行われた後北条氏領土の攻略戦も、この戦役に含むものとする。

小田原合戦小田原攻め小田原の役北条征伐小田原の戦い小田原の陣小田原城の戦い(天正18年)[4]とも呼ばれた。

北条氏康から氏政の時代へ[編集]

戦国時代に新興大名として台頭した北条氏康武蔵国進出を志向して河越夜戦で、上杉憲政足利晴氏などを排除し、甲斐武田信玄駿河今川義元との甲相駿三国同盟を背景に関東進出を本格化させると関東管領職を継承した越後の上杉謙信と対峙し、特に上杉氏の関東出兵には同じく信濃侵攻において上杉氏と対峙する武田氏との甲相同盟により連携して対抗した。

戦国後期には織田・徳川勢力と対峙する信玄がそれまでの北進策を転換し駿河の今川領国への侵攻(駿河侵攻)を行ったため後北条氏は甲斐との同盟を破棄し、謙信と越相同盟を結び武田氏を挟撃するが、やがて甲相同盟を回復すると再び関東平定を進めていく。

信玄が西上作戦の途上に急死した後、越後では謙信の死によって氏政の庶弟であり謙信の養子となっていた上杉景虎と、同じく養子で謙信の甥の上杉景勝の間で御館の乱が勃発した。武田勝頼は氏政の要請により北信濃まで出兵し両者の調停を試みるが、勝頼が撤兵した後に和睦は崩れ、景勝が乱を制したことにより武田家との同盟は手切となった。なお、勝頼と景勝は甲越同盟を結び天正8年(1580年)、北条氏は武田と敵対関係に転じたことを受け、氏照が同盟を結んでいた家康の上位者である信長に領国を進上し、織田氏への服属を示した[5][6]。氏政は氏直に家督を譲って江戸城に隠居したあとも、北条氏照北条氏邦など有力一門に対して宗家としての影響力を及ぼし実質的当主として君臨していた。

武田氏との手切後、勝頼は常陸国の佐竹氏ら反北条勢力と同盟を結び対抗し、織田信長とも和睦を試みているが天正10年(1582年)に信長・徳川家康は本格的な甲州征伐を開始し、後北条氏もこれに参加している。この戦いで武田氏は滅亡し、後北条氏は上野や駿河における武田方の諸城を攻略したものの、『信長公記』に「後走の人数を出し(時機を逸した軍勢を出して)」と批判される結果に終わり[7]、戦後の恩賞は皆無であった。

しかし、同年末の本能寺の変で信長が明智光秀の謀反によって自刃した直後に北条氏は織田家に謀反を起こし織田領に攻め込んだ。織田氏家臣の滝川一益の軍を敗退させた神流川の戦いを経て、織田体制に背いた北条氏を征伐するために軍を起こした家康との間に天正壬午の乱が勃発した[8]。この遠征は家康が単独で行ったものではなく、織田体制から承認を得たうえでの行動であり、織田体制側からも水野忠重が援軍として甲斐に出兵していた[9]。また、追って上方からも援軍が出兵される予定であったが織田信雄と織田信孝の間で政争が起こったため中止された[10]。家康は北関東の佐竹義重結城晴朝皆川広照水谷正村らと連携しながら北条氏打倒を目指した[11][12]。北条氏は一時は東信濃を支配下に置いたが、真田昌幸が離反。後方に不安を抱えたままの合戦を嫌った後北条氏は、10月に織田信雄、織田信孝からの和睦勧告を受け入れ[13][14]、後北条氏が上野、徳川氏が甲斐・信濃を、それぞれ切り取り次第領有することで講和の道を選んだ。だが、徳川傘下となった昌幸は勢力範囲の一つ沼田の割譲が講和条件とされたことに激怒、徳川氏からも離反し景勝を頼ることとなった。

後北条氏は徳川氏との同盟締結によって、全軍を関東に集中できる状況を作りあげた。既に房総南部の里見氏を事実上の従属下に置いていた北条氏は、北関東に軍勢を集中させることとなった。

北条氏は翌天正11年(1583年)1月に早速前橋城を攻撃すると、3月には沼田にも攻め込んだ[15]

6月、北条氏と家康の間で婚姻が成立した。この婚姻成立は、天正壬午の乱のときと同様家康に対北条の後ろ盾になってくれることを期待していた北関東の領主たちに衝撃を与えた。北関東の領主たちは家康から離れ、一斉に羽柴秀吉に書状を送り、秀吉に関東の無事の担い手になることを求めた[16][17]。秀吉も北条氏の無事を乱す行為を問題視したものの[18]、当時の政権内では東国についての優先度は低く[19]、10月末に家康に関東の無事の遅れを糺しただけで終わった[20]。それさえも翌天正12年(1584年)に小牧・長久手の戦いが始まると無形化してしまった。

天正11年11月末、沼尻の合戦が起こり北条氏と北関東の領主たちは全面戦争に突入した[21]。天正12年になると北条氏は宇都宮へ侵攻し、佐竹氏も小山を攻撃した。両者は4月から7月にかけて沼尻から岩舟の間で対陣した[22]

天正13年(1585年)から15年(1587年)にかけて秀吉が西国計略を進める裏で関東の無事は放置され、北関東の領主たちは苦境に陥った。北条氏は天正13年1月に佐野を攻撃し、当主の佐野宗綱を戦死させ氏政の六男・氏忠を当主に据えることに成功した。また同月までに館林城長尾顕長を服属させた。館林は南関東と北関東の結節点に当たり[23]、館林攻略によって北条氏の北関東への侵攻が容易になった。9月には真田領・沼田に侵攻し[24]、14年4月にも再度侵攻した[25]。北条氏は並行して皆川氏にも攻撃を加えた。天正14年5月にいったん和睦したが、その後再び侵攻した。皆川氏は上杉氏の助力を得て撃退に成功するが、天正15年に講和し北条氏の支配下にはいった[26]。また、天正13年閏8月には家康が真田を攻撃し、翌14年(1586年)にも再度侵攻を計画したが、秀吉が間に入って未遂に終わった[27]

天正15年12月、秀吉は北関東の領主たちに北条氏の佐野支配を認めることを通知し[28]、現状を追認することを明らかにした。天正16年(1588年)2月、北条氏直は笠原康明を上洛させ沼田領の引き渡しを条件に[29]豊臣政権に従属を申し入れた[30]

「五畿内同前」と重要視していた[31]九州の平定を天正15年中に終えた秀吉は、天正16年4月、後陽成天皇聚楽第行幸を行った。北条氏に対して氏政・氏直親子の聚楽第行幸への列席を求められたが、氏政はこれを拒否した。京では北条討伐の風聞が立ち、「京勢催動」として北条氏も臨戦体制を取るに至ったが、徳川家康の起請文により以下のような説得を受けた。

  1. 家康が北条親子の事を讒言せず、北条氏の領国を一切望まない
  2. 今月中に兄弟衆を派遣する
  3. 豊臣家への出仕を拒否する場合督姫を離別させる

行幸には東国の領主たちも使者を派遣したが、北条氏は使者を派遣しなかった[32]

5月、東国取次の家康は北条氏政と氏直に書状を遣わし、氏政兄弟のうちしかるべき人物を上洛させるよう求め[33]、8月には氏政の弟の氏規が名代として上洛し、両勢力間の緊張は和らいだ。また、12月に氏政が弁明のために上洛する予定であることを伝えた[34]がこの約束は履行されなかった。

宇都宮周辺部では壬生城および鹿沼城壬生義雄がもともと親北条であり、宇都宮家の重臣で真岡城城主の芳賀高継も当初こそ主家に従い北条に抵抗するも天正17年(1589年)終にこれに屈し、那須一族とは主導的な盟約を結び、小田原開戦時点では下野の大半を勢力下に置いていた。さらに常陸南部にも進出し、佐竹氏背後の奥州の伊達政宗と同盟を結ぶなど、関東制圧は目前に迫った。劣勢となった佐竹義重、宇都宮国綱、佐野房綱ら反北条氏方は秀吉に近づくこととなる。


沼田城割譲[編集]

年が明けて天正17年2月、北条氏直家臣の板部岡江雪斎が上洛し、秀吉は北条氏が従属の条件としていた沼田城(沼田領)の割譲について裁定を行った。また、来年春または夏頃の上洛を氏政提示したが、豊臣氏側に拒否されている。

当時、沼田一円は(一応、徳川氏の傘下という立場にあった)真田氏の支配下にあった。秀吉は北条氏、家康から事情聴取を行い、沼田領の内3分の2を北条氏、3分の1を真田氏のものとする、秀吉からすると譲歩に近い裁定を行った。また秀吉は、北条当主の上洛ののちに沼田を引き渡すとし、これに対し6月5日付で北条氏直より、氏政が12月初旬に上洛すると伝えた(岡本文書)。この上洛の約束より先立つ形、つまりここでも秀吉は譲歩する形で7月、秀吉家臣の富田一白津田盛月、徳川家康家臣の榊原康政の立ち合いの下、沼田城は北条氏に引き渡され、真田氏には代替地として信濃国箕輪が与えられた。秀吉は天正13年に関白に就任しており、この裁定は天皇から「一天下之儀」を委ねられた存在である秀吉が行ったもので、この裁定に背くことはすなわち天皇の意思に背くことをも意味した[35]

この時点では北条氏当主の12月中の上洛は前向きに検討されており、費用の調達や調整が行われている。ただし、以降は後述の名胡桃城事件が起こるまで、北条氏から豊臣氏への音信・交渉は途絶える。

名胡桃城事件[編集]

11月10日、秀吉は佐野房綱に対し、氏政の上洛が無い場合、北条氏討伐のために関東に出馬することを伝えた[36]

一方同年10月下旬、北条氏は真田領となった領分の拠点である名胡桃城に沼田城代猪俣邦憲を侵攻させ奪取、いわば先の秀吉の裁定を軍事力で覆した。

この事件は真田氏から徳川氏を通して秀吉に伝えらた。北条方からは弁明の使者として石巻康敬が上洛し、豊臣氏側からは先の沼田城引き渡しと同じ津田盛月と富田一白が派遣されて関係者の引き渡し・処罰を求めたが、北条方はこれを拒否した。秀吉はこの朱印状の中で「氏政上洛の意向を受け、それまでの非議を許し、上野沼田領の支配さえ許した。しかるに、この度の名胡桃攻めは秀吉の裁定を覆す許し難い背信」であると糾弾した[37]。これに対して氏直は遅れて12月7日付の書状で、氏政抑留や北条氏の国替えの惑説があるため上洛できないことと、家康が臣従した際に朝日姫と婚姻し大政所を人質とした上で上洛する厚遇を受けたことを挙げた上で、名胡桃城事件における北条氏に対する態度との差を挙げ、抑留・国替がなく心安く上洛を遂げられるよう要請した。また名胡桃城事件については、氏政や氏直の命令があったわけではなく、真田方の名胡桃城主が北条方に寝返った結果であり、「名胡桃城は真田氏から引き渡されて北条側となっている城なので、そもそも奪う必要もなく、全く知らないことである」「名胡桃城は上杉が動いたため軍勢を沼田に入れたにすぎない」、「既に名胡桃城は真田方に返還した」と弁明している。[38]

しかし同時期、上野鉢形城主である北条(藤田)氏邦が下野の宇都宮国綱を攻めており、これも秀吉の施策に反する行為である。[39]

11月、秀吉は関東の領主たちに「氏政の11月中の上洛がない時は来春に北条討伐を行う」ことを通知した[40][41]

11月21日付で真田昌幸にも書状を送り、「今後北条氏が出仕したとしても、城を乗っ取った者を成敗するまでは北条氏を赦免しない」「来春(年頭)に出兵する」旨を記している[42]

11月24日、秀吉が家康へ書状を送り、来春の出陣決定と陣触れを出したことを伝え、軍事の相談のため家康の上洛を要請した。また津田盛月・富田一白を派遣して家康領内の駿河国沼津の三枚橋城に在番させ拠点地としての用意をさせること、北条からの使者石巻康敬は北条氏の返事次第で国境で処刑することも要請した。このように家康に対しても北条討伐の意向を言明し、どちらかといえば北条氏と懇意であった家康の動向が注目されたが、秀吉と北条氏の仲介を断念した家康は12月に上洛し、秀吉に同意の意向を伝えるとともに自身も対北条戦の準備を開始した[43]

また、 同日付で秀吉は北条氏に対し、5ヶ条の宣戦布告とされる書状を送った[44]。この書状は12月5日に三枚橋城に着いた津田と富田により、北条氏へ届けられた。

秀吉は小田原征伐を前に、各大名に書状を発した。その書状中に「氏直天道の正理に背き、帝都に対して奸謀を企つ。何ぞ天罰を蒙らざらんや・・・・・・。所詮、普天下、勅命に逆ふ輩は早く誅伐を加へざるべからず」と記し[45]、すなわち「天道に背き、帝都に対して悪だくみを企て、勅命に逆らう氏直に誅伐を加えることにした」と述べている。

氏直は12月17日、北条領国内の家臣・他国衆に対して、小田原への翌年1月15日の参陣を命じた。

開戦[編集]

北条氏は小田原で籠城することを決定し、1月に軍事動員令を出している[46]。家康は三男の長丸(後の秀忠)を事実上の人質として上洛させて、名実ともに秀吉傘下として北条氏と断交する姿勢を示すとともに、先鋒部隊を出陣させた[43]。この人質は即座に送り返され、秀吉は家康に対し領内の軍勢通過の際の便と、領内の諸城の使用を要求している。家康は2月中にかけて、大軍勢の領内駐留・通過の便宜を図るべく、領内の城や橋の整備を行った。

2月中に、豊臣秀次、徳川家康、前田利家織田信雄ら各大名が出陣し、2月25日には織田信雄、徳川家康が三枚橋城に到着。3月3日に豊臣秀次、蒲生氏郷の軍勢が到着。

2月20日、志摩国九鬼嘉隆来島通総脇坂安治加藤嘉明長宗我部元親、その他宇喜多氏毛利氏らの1千隻を超える豊臣方の水軍が集結し、出航。2月27日、駿河国清水港へ到着。輸送としても、大軍勢と長期の合戦を想定して、清水港には20万石を越える兵糧が運び込まれていた。3月に入ると、水軍は秀吉の到達を待たずに伊豆長浜城を攻略。以降、西伊豆の諸城を落としながら伊豆半島を南下した。

3月1日、秀吉は後陽成天皇から節刀を賜り、聚楽第から北条氏の討伐のため東国に下向した[47]

北方(中仙道)からはいわゆる北国勢(前田利家・上杉景勝・真田昌幸・依田康国)らが3月15日に碓氷峠へ進軍。

3月27日、秀吉が三枚橋城に到着。ここに奥州津軽の津軽為信が参陣し、所領安堵を受けている。その他にも出羽国戸沢盛安らも参陣している。

翌28日、北方では松井田城攻めを開始。29日には箱根山中城が攻められ、一日で陥落した。

開戦までの経過[編集]

後北条氏側は関東諸豪制圧の頃から秀吉の影を感じ始めていたと言われ[要出典]、その頃から万が一の時に備えて15歳から70歳の男子を対象にした徴兵や、大砲鋳造のために寺の鐘を供出させたりするなど戦闘体制を整えていた。また、ある程度豊臣軍の展開や戦略を予測しており、それに対応して小田原城の拡大修築や八王子城山中城韮山城などの築城を進めた。また、それらにつながる城砦の整備も箱根山方面を中心に進んでいった。

一方、豊臣側では傘下諸大名の領地石高に対応した人的負担を決定(分担や割合などは諸説ある)。また、陣触れ直後に長束正家に命じて米雑穀20万石あまりを徴発し、天正大判1万枚で馬畜や穀物などを集めた。長宗我部元親宇喜多秀家九鬼嘉隆らに命じて水軍を出動させ、徴発した米などの輸送に宛がわせた。毛利輝元には京都守護を命じて、後顧の憂いを絶った。豊臣軍は大きく2つの軍勢で構成されていた。東海道を進む豊臣本隊や徳川勢の主力20万と、東山道から進む前田・上杉・真田勢からなる北方隊3万5千である[48]。これに秀吉に恭順した佐竹氏小田氏大掾氏真壁氏結城氏宇都宮氏那須氏里見氏の関東勢1万8千が加わった[48]

豊臣側の主だった大名は以下の通り。

推定総計約21万。

後北条側の主だった諸将

豊臣側の基本的戦略としては、北方隊で牽制をかけながら主力は小田原への道を阻む山中、韮山、足柄の三城を突破し、同時に水軍で伊豆半島をめぐって小田原に迫らせる方針であった。一方、兵力で劣るとは言いながらも後北条氏側も5万余の精鋭部隊を小田原城に集め、そこから最精兵を抽出[要出典]して山中、韮山、足柄の三城に配置した。主力を小田原に引き抜かれた部隊には徴兵した中年男子などを宛てた。各方面から豊臣側が押し寄せてくるのは明らかであったが、それ以上に主力が東海道を進撃するのが明らかだったため、箱根山中での持久戦を想定した戦略を推し進めることになった。野戦を主張した氏邦がこの戦略に異を唱え、手勢を率いて鉢形城に帰る事態となったが最終的にこの戦略が採られる事となった。とはいえ、松井田城には大道寺政繁が率いる数千の兵が、さらに館林城にも同程度の兵が割り振られていた事を考えると、北関東にもある程度の備えは配置されていたといえる。

小田原城包囲[編集]

北条支城攻略[編集]

天正18年(1590年)春頃から豊臣軍主力が、かつて源頼朝平家打倒の挙兵の際に兵を集めた黄瀬川周辺に集結。3月27日には秀吉自身が沼津に到着し29日に進撃を開始、進撃を阻む山中城には秀次・徳川勢を、韮山城には織田信雄勢を宛てて攻撃を開始した。

山中城[編集]

小田原征伐の位置(100x100内)
箱根峠
箱根峠
山中城
山中城
小田原城
小田原城
箱根峠と山中城などの位置関係

秀吉は山中城攻撃軍の大将を兵数と官位のより高い家康ではなく、秀次と認識していた[50]。山中城では間宮康俊勢により攻め手の一柳直末討死したものの、小田原の西の護りであり、鉄壁であるはずの城は豊臣方の前に僅か数時間の戦闘で落城し、主将の松田康長は北条氏勝兄弟を逃したのち、手勢を率いて玉砕した。間宮康俊ら多くの将兵が討ち取られた。

その他、徳川勢別働隊は山中城落城の同日に鷹之巣城を落とした。同じく箱根越えの要衝であった足柄城佐野氏忠(北条氏忠)北条氏光が守備していたが、山中城の陥落を知ると守将は主な兵をまとめて城を退出して小田原城守備軍に合流したため、翌日に徳川麾下の井伊直政隊が攻城を開始したが戦闘らしい戦闘はなく、4月1日に落城した。経路上の要害が次々と陥落したため、豊臣方の先鋒部隊は早くも4月3日には小田原に到着した。

韮山城[編集]

韮山城の位置(静岡県内)
韮山城
韮山城
韮山城の位置

天正18年(1590年)3月29日から6月24日まで続いた。

韮山城では攻撃側の10分の1の城兵が織田信雄勢を阻み、包囲持久戦となった。そのため秀吉は、韮山城包囲のための最小限の兵力だけを残し、織田信雄以下の主力は小田原方面に転進させた。籠城方は4ヶ月以上の間を凌いだが、秀吉が徳川家康[51]を交渉役として派遣し、領内の城が次々に落城している北条方の現状を伝えて説得したため、元々非開戦派であった守将の氏規は降伏に応じ、以降は小田原開城のための説得工作に尽力した。

下田城[編集]

下田港。中央の岬が下田城址

清水康英は手兵600余で約50日に渡って籠城抵抗した後、脇坂安治や安国寺恵瓊らと起請文を交わし開城した。 後北条氏配下の伊豆水軍の最大の拠点を制圧した豊臣方の水軍部隊は、伊豆半島沿岸の水軍諸城をも落とし、小田原沖に展開して小田原市街の海上を封鎖した。

玉縄城[編集]

玉縄城堀切

先に山中城の落城の際に脱出し落ち延びた北条氏勝は、これを恥じて自害しようとしたが、家臣の朝倉景澄や弟の直重繁広らに説得され、手勢700騎を率いて居城の玉縄城に逃げ戻り籠城した。この際に小田原城の北を迂回するルートで玉縄に戻り、すなわち小田原城籠城軍に顔見せもなく合流することもなかったため、北条氏政に疑念を持たれている。 その後、徳川麾下の本多忠勝らを中心とした軍に城を包囲されるも抵抗らしい抵抗はせず、家康からの使者である都築秀綱・松下三郎左衛門や、城下の大応寺(現・龍寶寺)住職の良達による説得に応じ、4月21日に降伏開城。開城後は徳川氏や古田重然瀬田正忠らが守備した。以降氏勝は豊臣方として、下総地方の北条方の城の無血開城に尽力する。

小田原城[編集]

石垣山城より小田原城(中央)を望む。
蓮上院土塁

小田原包囲戦が始まると秀吉は石垣山に石垣山城を築いた。また茶人の千利休を主催とし大茶会などを連日開いた。茶々などの妻女も呼び寄せ、箱根で温泉旅行などの娯楽に興じた。

北方軍(北国勢・信州勢など)[編集]

北条氏側は北方軍の進軍を阻害するため、庇護していた相木常林(相木昌朝の子)、伴野信番(元・佐久野沢城主)を信濃国に潜入させ、佐久郡の白岩城で挙兵させたが[52]、これは松平康国(依田康国)が派遣され即座に鎮圧されている。また碓氷峠に与良与左衛門を配して豊臣方の侵攻を阻害しようとした。

前田勢・上杉勢ら北国勢と、途中で合流した信州勢を主力とする北方隊は碓氷峠を越えて関東平野・上野国に侵攻した。松井田城主であり北条氏累代の重臣であった大道寺政繁はこれを碓氷峠で迎え撃つも、与良が真田勢の先方の真田信幸隊に打ち取られ、主力も真田軍と激戦になり、総兵力で圧倒的に劣勢であったこともあり、松井田城に退却し籠城した。豊臣方は碓氷峠を越え、関東平野に侵入した。

松井田城[編集]

松井田城の位置(群馬県内)
松井田城
松井田城
松井田城の位置

天正18年(1590年)3月28日から4月20日まで続いた。

北方隊は松井田城攻略に取り掛かった。3月20日に総攻撃が行われたが、守る大道寺勢はこれを防いだ。北方隊は城を包囲し、周辺地域に放火し、城塞を削るように攻撃を続けたが、城方の必死の抵抗により攻城は遅々として進まなかった。北方隊は松井田城は包囲したまま、周辺の城塞を攻略してまわった。一方の東海道方面では山中城が半日で落城したため、予想以上に小田原包囲が早まることとなり、北方軍は秀吉から松井田城攻略の督促を受けている。焦った北方軍は攻城の勢いを増した。守将の政繁は嫡子を脱出させ[53]、自らは激しく抵抗するも、連合軍の猛攻の前に廓をひとつ、またひとつと落とされ、水の手を断たれ、兵糧を焼かれ、総攻撃から一か月後の4月22日に終に降伏開城した。以降、政繁は北方隊の道案内をすることとなった。

浸透制圧[編集]

前後して北方隊は4月17日頃に国峰城、宮崎城[54]の諸城、厩橋城(4月19日)、箕輪城(4月23日)、松山城(5月22日)、その他西牧城石倉城など上野・武蔵北西部の各城を攻め落とした。各城はそれぞれ主力や当主自身が小田原城に籠城しており、留守を預かる程度の兵や城代家臣、近隣領民などしか籠城していなかったため、戦意が高かったとは言い難かった上、圧倒的な軍事力の差を前にしては降伏開城もしくは敗北する外の選択肢が無かった。この間に石倉城で松平康国が戦死している[55]

南方からの加勢[編集]

一方、秀吉は圧倒的多数で完全包囲した小田原城の包囲勢から主に徳川勢を主力として兵力を抽出し、北方隊を助ける部隊を編成し、武蔵に進撃。前出の相模国玉縄城(4月21日)や江戸城(4月27日)などの武蔵の諸城を次々に陥落させた。次にその戦力を二手に分け、片方は下総国方面に向かわせた。浅野長政や徳川家臣の内藤家長らによる下総方面軍は小金城(5月5日)、臼井城(5月10日)、本佐倉城(5月18日)と次々と落とした。このあまりの急進撃に秀吉からは浅野に対して、敵である房総諸将の不甲斐無さを詰った上で「房総諸城の攻略は(あまりに簡単過ぎて)戦功として認めない」とする書状が送られたほどであった(5月20日付、「浅野家文書」)。もう一方の軍は武蔵国方面に侵攻し要衝である河越城を攻めたが、河越城の本来の守将は先に松井田城で降伏した大道寺政繁であり、城は政繁の子(養子)の直英(大道寺隼人)が大道寺氏の守備部隊で守備していたため、政繁の降伏を受ける形で河越城も降伏開城した。以降の大道寺氏の軍は秀吉方の道案内を務め、各城攻めにも加わっている。後述の岩付城5月20日に徳川勢の働きもあって落城した。

これら房総・武蔵の諸城の異常な速さでの陥落の理由は、各城の兵力のほとんどは小田原城の籠城戦のために引き抜かれ、当主や城主自身も小田原城籠城に参加していたために、どの城も最低限の守備兵すら確保できない状態での籠城戦となったためである。例を挙げると、下総の小金城の高城氏の軍事力は豊臣側が作成した「関東八州諸城覚書」では700騎と記されているが、実際には城主の高城胤則ら大半が小田原城に籠城し、小金城が包囲された時に残されたのは200騎と軽卒300名であったとされる(「小金城主高城家之由来」 )。箕輪城などは北条氏としては決して失いたくない重要拠点ではあったが、豊臣方の大軍勢と周辺諸城が続々と陥落していく状況を見た城兵によるクーデターが発生し、主将の垪和氏が追放されて無血開城している。決して北条方が弱かったわけではなく、ある程度の兵士が確保されていた鉢形城館林城、主将が指揮を執った前出の松井田城、東海道方面でも城主が守将となった伊豆方面の韮山城などは豊臣方も攻め倦み、それらの城では進撃の速度は大幅に落ちている。

また、先に降伏した北条氏勝山中城を脱出し、玉縄城で降伏)や大道寺政繁ら元北条方の諸将による降伏開城の説得交渉に応じた城もあり、さらに彼ら降将による各城の案内、具体的に言えば城の弱点のリーク、という情報的有利さも影響している。

岩槻城(岩付城)[編集]

岩付城の位置(埼玉県内)
岩付城
岩付城
岩付城の位置

天正18年(1590年)5月19日から22日まで続いた。

城方は城主の氏房が小田原城に籠城したため主力を欠き、付家老である伊達房実の指揮の下で数日間の激戦が行われたが衆寡敵せず、籠城側は兵のほぼ半数である1000余人の死傷者を出したのち降伏した。

鉢形城[編集]

鉢形城の位置(埼玉県内)
鉢形城
鉢形城
鉢形城の位置
鉢形城址

天正18年(1590年)5月14日から6月14日まで続いた。

城主の氏邦は北条当主一族であり、政治にも軍事にも功のある人物であった。小田原城籠城策に反対して氏政らと意見が対立した。氏邦は駿河に打って出ること、平野部での大規模な野戦を主張したが容れられず、小田原ではなく自城に帰還して籠城した。彼我の差は10倍以上であったが家臣らと籠城戦を戦った。本多忠勝が近隣の山に大砲を運び上げ、城に向かって打ち込み始めると被害は甚大となり、約1か月の戦いの末、城兵の助命と引き換えに守将の氏邦は開城した。鉢形城攻将の前田利家が氏邦の助命嘆願を行い、氏邦は剃髪することで一命を許され、身柄は利家の預かりとなり、領国内の能登国津向(現在の七尾市)に知行1000石を得た。

忍城の戦い[編集]

忍城の位置(埼玉県内)
忍城
忍城
忍城の位置

天正18年(1590年)6月5日から7月17日まで続いた。

忍城の成田氏当主の成田氏長と弟の泰親が小田原城に籠城したため、城は一族などの留守部隊と近隣の領民だけの寡兵となっていた。当初の籠城軍の主は氏長の叔父の成田泰季であったが、籠城戦の始まる直前に死去したため、一族郎党相談の上で泰季の子の長親が指揮を執ることとなった。 攻め手は石田三成を大将、長束正家を副将として佐竹義重や宇都宮国綱、結城晴朝、北条氏勝、多賀谷重経、水谷勝俊、佐野房綱などの常陸、下野、下総、上野の諸将を先鋒に、本陣を忍城を一望する近くの丸墓山古墳埼玉古墳群)に置いて忍城を包囲した。秀吉は三成に対し、近くを流れる利根川を利用した水攻めを行うよう命じ、利根川から忍城付近までの長大な貯水堤(石田堤)の築堤が進められた。

現在残る石田堤

しかし予想に反して利根川の水量が貧弱であったため、水攻めの効果は薄かった。その後の増水により水攻めに光明が見えたが、城方が堤を一部破壊し、そこから決壊して豊臣方に溺死者が出た。結果として城周辺は大湿地帯となり人馬の行動が困難になり、すなわち力攻めも困難となり、忍城攻めは7月に入っても続くことになる。鉢形城を落とした浅野長政や真田昌幸・信繁親子らが増援となり攻撃は続いたが、秀吉は力攻めではなく水攻めを続けるように指示した。その後の再三の攻撃も凌いだ忍城は落城しないまま、小田原城開城により降伏した氏長の説得により、開城した。城の接収には浅野長政らが務め、この際の浅野指揮下に秀吉軍に臣従した大田原晴清がいる。

八王子城の戦い[編集]

八王子城の位置(東京都区部および多摩地域内)
八王子城
八王子城
八王子城の位置
曳橋(推定復元)と御主殿石垣(一部復元)

天正18年(1590年)6月23日。

  • 八王子城守備軍(北条氏照の配下)および領民 総勢3,000人

八王子城攻めには、上杉景勝・前田利家らの部隊約1万5,000人が動員された。当時八王子城は城主・氏照が不在で、場内には城代の横地吉信、家臣の狩野一庵中山家範近藤綱秀および近隣の農民・婦女子ら約3,000人が立てこもっていたとされる。先に松井田城で降伏開城した大道寺政繁の手勢も攻撃軍に加わり、城の搦手の口を教えたり、正面から自身の軍勢を猛烈に突入させたりなど、攻城戦に際し働いたとされている。 秀吉軍は前夜のうちから城の大手と搦手の双方から侵攻し、力攻めにより早朝には要害地区まで守備隊を追いやった。その後は激戦となり攻め手も1000人以上の死傷者を出し、一時は攻撃の足が止まったが、上杉景勝の下にいた藤田信吉の家臣の平井無心が、この周辺の地理に詳しく、抜け道を案内した。絡め手側別働隊の奇襲が成功して、その日のうちに城は陥落した。氏照正室の比左を初めとする城内の婦女子は自刃、あるいは御主殿の滝に身を投げ、滝は三日三晩、血に染まったと言い伝えられている。城代の横地監物は檜原村に脱出したが、小河内村付近にて切腹している。獲られた将兵の頸は本来の城主である氏照も籠る小田原に運ばれ船に並べて堀に浮かべられ、または捕虜にした者を小田原城の城門近くに晒すなどして、八王子落城の現実を小田原城守備兵に見せ付けることで、豊臣方は小田原城の早期開城を迫った[要出典]

詳しくは八王子城も参照。

小田原開城へ[編集]

5月9日には後北条氏と同盟を結んでいたはずの奥州の伊達政宗が、秀吉の参陣要請(要求)に応じて本拠から小田原へと向かった[56]。開城への勧告は5月下旬頃から始められており[56]、それに伴う交渉は、支城攻略にあたった大名たちなどによって、それぞれに行われていた[57]。6月に入ると、小田原を囲む豊臣軍主力の中に乱暴狼藉を働く者や逃散が頻発するようになる(「家忠日記」)。包囲中、戦らしい戦と言えば、北条氏房(太田氏房)蒲生氏郷勢に夜襲をかけたのが後北条氏側唯一の攻勢であり、囲む方は、井伊直政が蓑曲輪に夜襲を仕掛けた作戦と6月25日夜半に捨曲輪を巡る攻防があったぐらいであった。それ以外は、互いの陣から散発的に鉄砲を射掛けるぐらいのものであった。

そんな中、後北条氏側から離反の動きが見えるようになった。4月8日、小田原城に在陣中の皆川広照が豊臣軍に投降し[58]、6月初旬には家康の働きかけによって上野の和田家中と箕輪城家中[59]が城外に退去している[57]6月16日には、重臣であった松田憲秀の長子の笠原政晴が数人の同士とともに豊臣側に内通していたことを政晴の弟の松田直秀が氏直に報告することで発覚、政晴は氏直により成敗された[57]。また、その数日後に氏政の母である瑞渓院と、継室の鳳翔院が同日に死去しており、「大宅高橋家過去帳」の鳳翔院の記載から共に自害と見られている[57]。さらに6月23日に北方隊が落とした八王子城から首多数が送られ、また将兵の妻子が城外で晒し者にされたことが後北条氏側の士気低下に拍車をかけた。

石垣山一夜城から望む小田原城

6月26日には小田原城を見下ろす石垣山に関東初の総石垣の威容を誇った一夜城(石垣山城)が完成したことも後北条氏側に打撃をもたらした。このとき、後北条氏の一族・重臣が豊臣軍と徹底抗戦するか降伏するかで長く紛糾したため、本来は平時に月2回ほど行われていた後北条氏における定例の施政方針重臣会議を指すものであった「小田原評定」という言葉が、「一向に結論がでない会議や評議」という意味合いの故事として使われるようになった。

この6月に入る頃には、氏房、氏規、氏直側近らによって、家康と織田信雄を窓口とした和平交渉が進んでいた[56]。後世になって成立した『異本小田原記』では伊豆・相模・武蔵領の安堵の条件での講和交渉は行われ、同じく『黒田家譜』では、その講和条件を後北条氏が拒否したために秀吉が黒田孝高に命じて交渉に当たらせた事などが記されているが、実際のこの頃には後北条領は家康に与えられることになっていたと考察されており、伊豆は4月中旬には既に家康の領国化が始まっていた[60]。残されていた北条氏の拠点城も、北の鉢形城は6月14日に守将の北条氏邦が出家する形で開城となり、伊豆の韮山城も6月24日に開城し北条氏規が秀吉の元に出仕した。八王子城の落城に続いて津久井城も開城し、秀吉は黒田孝高と共に織田信雄の家臣滝川雄利を使者として氏政、氏直の元に遣わした[57]

7月5日、氏直は滝川雄利の陣に向かい、己の切腹と引き換えに城兵を助けるよう申し出、秀吉に氏直の降伏が伝えられた[60]


戦後処理[編集]

7月5日、滝川雄利の陣所へ赴いた氏直は自身の切腹をもって城兵全ての赦免を願い出たが、切腹は見送られた。

開城・降伏の条件は

  1. 北条氏は武蔵・相模・伊豆のみを領地とする。
  2. 氏直に上洛をさせる。

であったが、秀吉は前当主である氏政と御一家衆筆頭として氏照、及び家中を代表するものとして宿老の松田憲秀と大道寺政繁[61]に開戦の責があるものとして切腹を命じた[60]

7月7日から9日にかけて片桐且元脇坂安治榊原康政の3人を検使とし、小田原城受け取りに当たらせた。7月9日、氏政とその弟の氏照は最後に小田原城を出て番所に移動した。7月11日、康政以下の検視役が見守る中、氏規の介錯により切腹した。氏政・氏照兄弟の介錯役だった氏規は兄弟の自刃後追い腹を切ろうとしたが、果たせなかった。氏直は徳川家康の婿でもあったために一命は温存され、高野山に蟄居を命じられたが、翌年2月には家康を通して赦免の沙汰が伝えられ、8月に1万石が与えられたが、11月に病死した。北条氏は紆余曲折の後に河内狭山藩の小名として豊臣・徳川期と存続した。

一方、小田原城開城後も抵抗を続けていた忍城へは、城主の氏長の小田原城での降伏を受けて使者が送られ、7月16日に開城した。秀吉はその後鎌倉幕府の政庁があった鎌倉に入り、続いて宇都宮大明神に奉幣して奥州を平定した源頼朝に倣って宇都宮城へ入城し、宇都宮大明神に奉幣するとともに関東および奥州の諸大名の措置を下した(宇都宮仕置)。

後北条氏の旧領はほぼそのまま家康にあてがわれることとなった。

脚注[編集]

注釈[編集]

出典[編集]

  1. ^ 岡本良一 「天下人」 『国民の歴史』 第12巻 文英堂、1969年、[要ページ番号] 全国書誌番号:73001143
  2. ^ 長谷川成一 「奥羽仕置と東北の大名たち」『白い国の詩』 569号、東北電力株式会社広報・地域交流部、2004年、p.4。
  3. ^ 下山(1996) pp.91-96。
  4. ^ 池田公一、下山治久、湯山学、伊藤一美、柴辻俊六『戦国合戦大事典(二)』(新人物往来社、1989年)
  5. ^ 黒田基樹「織田政権と関東」『小田原合戦と北条氏』 吉川弘文館、2013年、pp005-016。
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  7. ^ 太田牛一 『信長公記』巻15 4月12日条
  8. ^ 宮川展夫 「天正期北関東政治史の一齣 : 徳川・羽柴両氏との関係を中心に」『駒沢史学78 』、駒沢史学会、2012年、p.23。
  9. ^ 谷口央 「小牧長久手の戦い前の徳川・羽柴氏の関係」『人文学報』445号、 東京都立大学人文学部 首都大学東京都市教養学部人文・社会系 、谷口、2011年、p.4。
  10. ^ 丸島和洋、『戦国大名の「外交」』、講談社、2013年、p.244。
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  12. ^ 谷口、2011年、p.8。
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  16. ^ 宮川、2012、p.31。
  17. ^ 谷口、2011、p.15-18。
  18. ^ 谷口、2011、p.20。
  19. ^ 宮川、2012、p.34。
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  25. ^ 富澤、佐藤、2012年、p.43。
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  31. ^ 小竹文生、「豊臣政権の九州国分に関する一考察 - 羽柴秀長の動向を中心に -」、『駒沢史学』55号、2000年、p.123。
  32. ^ 中野、2015、p.140。
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  34. ^ 中野、2015、p.140。
  35. ^ 中野、2015、p.154。
  36. ^ 高橋六右衛門氏所蔵文書
  37. ^ 中野、2015、p.156。
  38. ^ 『武家事紀』
  39. ^ 北条氏邦は沼田城および猪俣邦憲を采配する立場でもあり、のちに豊臣方との開戦が決まった際は駿河国への先制侵攻、または関東平野での大規模な野戦を主張したが、この意見は小田原の本家に退けられた、とされる。
  40. ^ 宮川、2012、p.110。
  41. ^ 中野、2015、p.157。
  42. ^ 『真田文書』
  43. ^ a b 片山正彦「豊臣政権の対北条政策と家康」『豊臣政権の東国政策と徳川氏』(思文閣出版・佛教大学研究叢書、2017年) ISBN 978-4-7842-1875-2 p38-69。
  44. ^ 粟野、1988、p.110。
  45. ^ 桑田忠親(編)、『豊臣秀吉のすべて』、新人物往来社、1981年、p.191。
  46. ^ 粟野、1988、p.110。
  47. ^ 長谷川成一 『北奥羽の大名と民衆』 清文堂、2008年、p.7。
  48. ^ a b kuroda(2013)pp150-163。
  49. ^ a b c d e f g h 『小牧・九州・小田原の役』(1965)
  50. ^ a b c d 矢部健太郎「秀吉の小田原出兵と「清華成」大名」(『國學院大学紀要』49号、2011年)
  51. ^ 家康と氏規は幼少時期、共に駿河の大名今川義元の下で人質生活を送っており、その頃の旧知であるとする説がある
  52. ^ 平山優「真田三代: 幸綱・昌幸・信繁の史実に迫る」、PHP新書、2011年
  53. ^ 孫を脱出させた、とも。長男はこの時、小田原城にいた。またこの脱出を真田昌幸が見て見ぬふりをした、との話が伝わる。
  54. ^ どちらも小幡氏の城であり、当主の小幡信貞は小田原籠城中。国峰城を落としたのは上杉景勝麾下の藤田信吉
  55. ^ 石倉城守将の寺尾左馬助から康国への申し入れにより、いったんは開城となったが開城時の混乱の中で疑心暗鬼に陥った左馬助が康国を殺害、康国弟の依田康勝が左馬助を討ち取った、という話が伝わる
  56. ^ a b c kuroda(2013)p207。
  57. ^ a b c d e kuroda(2013)pp208-212。
  58. ^ 高橋、1992、p.22。
  59. ^ 箕輪城主の北条氏邦(藤田氏邦)は小田原籠城に反対し、大規模な野戦を主張したが採用されず、領内の鉢形城に籠城して10倍の北方軍と対峙、6月初旬に開城している。
  60. ^ a b c kuroda(2013)pp213-215。
  61. ^ 大道寺政繁は早期に降伏し、以降は豊臣方として他の城の攻城や開城交渉に働いていた。
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参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]