太田城 (常陸国)
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太田城 (茨城県) | |
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舞鶴城址の碑 (2005年9月) | |
別名 | 佐竹城、舞鶴城、青龍城 |
城郭構造 | 平山城 |
天守構造 | なし |
築城主 | 藤原通延か |
築城年 | 天仁2年(1109年)か |
主な改修者 | 佐竹氏 |
主な城主 | 藤原氏、佐竹氏 |
廃城年 | 慶長7年(1602年) |
遺構 | なし |
指定文化財 | なし |
位置 | 北緯36度32分46.09秒 東経140度31分9.65秒 / 北緯36.5461361度 東経140.5193472度座標: 北緯36度32分46.09秒 東経140度31分9.65秒 / 北緯36.5461361度 東経140.5193472度 |
地図 |
太田城(おおたじょう)は、茨城県常陸太田市にあった日本の城。JR常陸太田駅から北方へ約1.7kmの高台(現在の太田小学校)に本郭が存在したとみられる。関東七名城の一つ。別名:佐竹城、舞鶴城、青龍城。
歴史・沿革
[編集]この城の起源は明らかではないが、天仁2年(1109年)に藤原通延(藤原秀郷の四世)が、下野国から太田郷に入り、太田大夫と称して築城したのが始まりであるという。
新羅三郎義光の孫・源昌義が、後三年の役(1051年から1062年)の功により領有することになった地名をとって「佐竹氏」を称した。二代佐竹隆義は当時の太田城主藤原通盛(通延の孫)を服属させたのち、通盛を小野台地(瑞竜中学校周辺)に移して「小野崎氏」を名乗らせ、自らが太田城に入った。入城の日、太田城の上空を鶴が舞いながら飛んだので「舞鶴城」と名づけたと伝わる。
以降、佐竹氏代々の居城であったが、戦国最末期の当主佐竹義宣が水戸城に本拠を移した。
その後、江戸幕府(徳川家康)の一国一城令により廃城となったが、城の機能は一部残され「太田御殿」と呼ばれ、水戸藩の附家老の中山氏が管理することとなった。
歴代城主
[編集]- 藤原通延など藤原氏
- 佐竹隆義
- 佐竹秀義
- 佐竹義重
- 佐竹長義
- 佐竹義胤
- 佐竹行義
- 佐竹貞義
- 佐竹義篤
- 佐竹義宣
- 佐竹義盛
- 佐竹義人(義憲、義仁)
- 佐竹義俊
- 佐竹義治
- 佐竹義舜
- 佐竹義篤
- 佐竹義昭
- 佐竹義重
- 佐竹義宣(久保田藩「秋田藩」の初代藩主。1600年に勃発した関ヶ原の戦い後の1602年、常陸54万石から出羽久保田18万石へ減封された。)
- 中山氏(水戸藩家老)
構造
[編集]本郭は現在の太田小学校一帯。 二の郭は内堀町から若宮八幡宮一帯。 三の郭は栄町の大部分で北側が搦手とよばれている。 これらの郭は明治の初期に国から町の有志に払い下げられ、土塁をくずし堀を埋めて宅地や道路が造られたが、大正末期まで土塁や郭の一部が残っていた。
参考文献
[編集]- 常陸太田市の歴史散歩(1986年)