佐竹義重 (四代当主)
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| 時代 | 平安時代末期 - 鎌倉時代前期 |
|---|---|
| 生誕 | 文治2年(1186年) |
| 死没 | 建長4年2月25日(1252年4月5日) |
| 別名 | 入信房(法名)[1]、義繁[1] |
| 墓所 | 茨城県常陸太田市の勝楽寺(正宗寺) |
| 官位 | 佐竹別当、常陸介 |
| 幕府 | 鎌倉幕府 |
| 氏族 | 佐竹氏 |
| 父母 | 父:佐竹秀義、母:佐竹義宗娘 |
| 兄弟 | 義重、秀繁(秀重) |
| 妻 | 河井忠遠娘、太田為高娘 |
| 子 | 佐竹長義・額田義直[2](額田氏の祖)・岡田義澄(真崎氏の祖)・岡田義高[3](岡田氏の祖)・蓮勝房永慶[1]・岡部義綱(岡部氏の祖)・佐竹重氏 |
佐竹 義重(さたけ よししげ)は、鎌倉時代の武将。『尊卑分脈』では重義[4]。佐竹別当、常陸介[4]。常陸国佐竹氏4代当主。
生涯
[編集]父や弟とともに承久の乱で活躍するなど、鎌倉幕府に忠実に仕えることによって、御家人としての佐竹氏の地位の保全・向上に務めた。寛元3年(1245年)に常陸介に任じられて、諸大夫層への復帰を果たした[5]。
次男の義直(義尚)と三男の義澄と四男の義高(義隆)と六男の義綱は建長年間に分家し、それぞれ額田氏・岡田氏(真崎氏)・岡田氏・岡部氏と称して庶家を興して、南北朝時代以降の佐竹氏の躍進の基礎となった。
建長4年(1252年)2月に死去したと伝えられているが、その2年前の建長2年(1250年)3月に鎌倉幕府が閑院内裏の造営を計画した際に「佐竹入道跡」に築地の造営を命じている[6]ため、この時点で既に死去していたとする説もある(跡は故人の所領・役を継承した後継者を指す用語であるため)[7]。
鎌倉時代の佐竹氏は義重、長義(1207年 - 1272年)、義胤(1227年 - 1278年)、行義(1263年 - 1305年)、貞義と続いて、有力氏族の大掾氏などと婚姻関係を通して御家人としての地位を向上させたと伝わる。