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白倉重家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

白倉 重家(しらくら しげいえ、生没年不詳)は戦国時代の武将。上野白倉城主。白倉氏。父は白倉道佐。通称、源太郎、源左衛門尉、掃部助、宗任。弟に、白倉重治

生涯

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白倉氏は上州八家の一つであり、代々山内上杉氏に仕え、祖父・白倉重佐の頃には関東管領上杉憲政のもと、四宿老の一人に数えられていた[1]

父の白倉道佐は、上杉憲政、上杉謙信武田信玄武田勝頼に仕え、内藤相備え組衆として高山氏、多比良氏、木部氏、あまお氏、倉賀野氏、後閑氏、長根氏と共に箕輪城代の内藤昌秀、及び、内藤昌月に配されたが、天正8年(1580年)3月17日、後北条氏との戦いにより戦死した。

跡を継いだ白倉重家は父・道佐と同様に武田勝頼に仕え、内藤昌月のもと武田氏の上野侵攻を担ったが、 天正10年(1582年)3月11日、織田氏甲州征伐により武田家が滅亡してしまう。 同年3月23日、織田家の重臣滝川一益が東信の佐久・小県二郡と上野一国を与えられると、白倉重家も他の上野国衆と同様に一益に降った。

天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変により織田信長が横死すると、相模の北条氏直が上野に侵攻を開始する。 白倉重家は、同月18日から19日に行われた神流川の戦いにおいて、滝川一益方として戦い敗れている[2]

神流川の戦いの後は北条氏直に降った。

天正18年(1590年小田原征伐では、白倉城に弟・重高を置いて守らせ自らは小田原城に籠城した[3]。 後北条氏が滅亡すると、白倉氏も所領を失い没落した。

脚注

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  1. ^ 『講談社日本人名大辞典』 講談社、2001年
  2. ^ 『上毛古戦記』
  3. ^ 『上州古城塁記』