根白坂の戦い

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根白坂の戦い
戦争九州征伐
年月日1587年
場所日向国根白坂(宮崎県児湯郡木城町
結果:島津軍の降伏による九州平定軍の勝利
交戦勢力
九州平定軍Goshichi no kiri.svg 島津軍Japanese Crest maru ni jyuji.svg
指導者・指揮官
豊臣秀長Goshichi no kiri.svg 島津義久Japanese Crest maru ni jyuji.svg
島津義弘Japanese Crest maru ni jyuji.svg
戦力
15万 3万5,000
損害
不明 不明

根白坂の戦い(ねじろざかのたたかい)は、天正15年(1587年)4月17日に日向国根白坂で行なわれた豊臣秀吉軍と島津義久軍による合戦である。

経緯[編集]

開戦まで[編集]

九州制覇を目指す島津義久は、天正14年(1586年)に入ると豊後侵攻を開始し、12月には戸次川の戦いで豊臣・大友連合軍を撃破し、大友義統島津氏の勢威を恐れて豊前に逃亡し、豊後の西部及び中央部はほぼ島津氏の占領下に入った。

一方、宿敵の徳川家康を臣従させて後顧の憂いを無くしていた豊臣秀吉は、天正15年(1587年)1月に九州征伐の大動員令を発し、畿内や中国・四国の諸大名による軍を九州に送り出した。3月には秀吉の弟・豊臣秀長の軍勢が豊前小倉において先着していた毛利輝元宇喜多秀家宮部継潤ら中国の軍勢と合流し、豊臣軍の総勢は10万になった。これにより先の豊後侵攻で島津軍の侵攻でも陥落しなかった岡城志賀親次栂牟礼城佐伯惟定鶴崎城妙林尼などが勢いづき、豊前・豊後の土豪、さらに肥前龍造寺政家鍋島直茂も豊臣氏に帰順する。

これに対して島津義久は、彼我に圧倒的に兵力差があり過ぎることから戦線の縮小を図った。戸次川の戦い後に義久の弟・島津家久が占領していた府内を放棄させ、家久は後方の豊後松尾城に撤退し、代わって島津家久の兄・島津義弘が府内に入って守備を固めた。そこへ秀吉は高野山の木食応其と一色昭秀を遣わし和議を勧めるが、島津義弘は応じず徹底抗戦を選択した。しかし佐伯惟定率いる大友軍の反撃によって本国との経路・日向国境近くの朝日嶽城が落とされ、戦況の不利を悟った島津義弘の軍勢は3月15日の夜半に府内城を脱出し、豊後松尾城の家久と合流、島津軍は豊後から退却する。退却の際に3月16日に三梅峠で志賀親次、3月17日には梓峠で佐伯惟定が率いる大友軍の追撃を受け、島津軍は犠牲を出しながら日向まで撤退した。3月下旬に入ると豊臣秀長率いる日向方面軍(九州東部軍)が豊後を発って日向に侵攻した。3月29日には日向北部の要衝である日向松尾城が陥落した。秀長軍は日向南部の要衝・高城を包囲した。高城は堅固であり、守将も島津軍きっての将・山田有信だったため、豊臣軍も力攻めを行うには多大な犠牲が必要であった。秀長軍は無理に力攻めをせず、城を何重にも包囲した上で兵糧攻めとし、併せて島津軍が城を助けに来るなら必ず通るはずの根白坂に砦を構築し、ここを要塞化して島津軍を待つ戦略を取った。

一方、豊臣秀吉率いる本隊(九州北部・西部軍)は3月1日に大坂を出陣し、3月29日に豊前小倉に着陣した。秀吉は島津氏に従属する筑前秋月種実の支城・岩石城を4月1日に落とした。秋月種実は秀吉に各個撃破されることを恐れて支城の益富城を破却して全軍で古処山城に立て籠もった。ところが秀吉得意の築城技術により、破却したはずの益富城は早々に修復され、ここを拠点に古処山城が攻撃されたため、種実は戦意を失って4月3日に秀吉に降伏した。その後、秀吉は4月10日に筑後に侵攻し、4月16日には肥後隈本(熊本)、4月17日には宇土へと進軍する。この間、秀吉の勢威を恐れて諸国の土豪は次々と降伏していった。

島津義久は西から秀吉の軍勢が急速に南下していることを知って慌てた。義久は秀長の軍勢に備えるために薩摩大隅などの軍勢の大半を日向都於郡城に結集していた。そのためもあり、九州西側の守備は手薄だった。豊臣方の軍勢がやってくると、各地の島津氏に服従していたはずの在地勢力はことごとく豊臣方に寝返っていった[1]。この状況で有力な家臣である高城の山田を見捨てる選択は、島津氏の評価を下げることとなる。局面の打破を迫られた義久は、九州東部方面軍であり、高城を包囲する秀長の軍勢に決戦を挑んだ。4月17日夜半、島津軍は根白坂を急襲した。この根白坂は高城の南側に位置する坂で、島津軍が高城を救援するなら必ず通らないといけないルートだった。そのため前述のように、島津軍の後詰(救援)を予想していた秀長らは根白坂に砦を構築し、要塞化して守備を固めていた。島津氏は縣城を質に誘い出され、またそうせざるを得ない状況となっていた。

戦闘経過[編集]

この時の両軍の兵力は諸説があって定かではないが、豊臣軍は8万、島津軍は3万5000ほどだったといわれる。島津軍では総大将の島津義弘が自ら前線に立って戦ったと伝えられるほど奮戦するが攻めきれず苦戦した。 砦の守将 宮部継潤らを中心にした1万の軍勢が、空堀や板塀などを用いて砦を堅守。これを島津軍は突破できずに戦線は膠着状態に陥った。 ここに秀長の本隊が救援にきたが、状況を見た軍監の尾藤知宣は救援は不可能、島津の軍に当たるべからずと秀長に進言し、秀長本隊は軍監の言に従い、救援の中止を受け入れた。 しかし豊臣秀長麾下の藤堂高虎の500名と宇喜多秀家麾下の戸川達安の手勢らが宮部継潤の救援に向かい、島津軍を翻弄。ここに小早川・黒田勢が挟撃を仕掛けたため、島津軍は大将格の島津忠隣猿渡信光等が討死するなどほぼ全滅状態となり、敗北遁走した。秀長らは追撃を行おうとしたが、尾藤が深追いの危険を主張したために追撃戦は行われなかった。 後に、日向国高城にて島津家久軍を撃退し大軍を防いだことから、宮部継潤の働きに「法印(継潤)が事は巧者のものにて、天下無双」(『川角太閤記』)と秀吉をうならせた。 この戦いは、豊後国にて防備を固めよという秀吉の命令を順守せず、独断で会戦(戸次川の戦い)に望んだ上で敗北した仙石秀久の失態を挽回、秀吉による九州平定を盤石なものにし、窮地に陥っている大友義鎮を救った戦いであった。

戦後[編集]

尾藤はこれらの消極的な姿勢を秀吉に強く責められ、与えられたばかりの所領[2]没収の上で追放。尾藤は諸国を流浪し[3]、後に処刑された。

敗走した義久・義弘は僅かな手勢と共に都於郡城に退却し、家久も佐土原城宮崎市佐土原町)に兵を引いた。豊臣秀次は都於郡城を攻略し、三ツ山(宮崎県小林市)・野尻(小林市)の境界にある岩牟礼城(小林市)まで侵攻した。義弘は飯野城(宮崎県えびの市飯野)に籠城した。

根白坂の戦いから10日も経たぬ内に、九州西部では豊臣本隊が島津氏の本国である薩摩へと侵攻し始めていた。有力な家臣で一族でもある島津忠辰島津忠長らも降伏していった。根白坂での主力決戦に完敗した島津氏は軍を立て直す暇もなく、義久は戦意を失い剃髪して龍伯と号した上で、5月8日に豊臣秀吉に降伏した。その後、龍伯はあくまで徹底抗戦をしようとした兄弟の義弘や島津歳久、山田や新納忠元ら家臣を説得し、足利義昭木食応其の仲介の下に島津氏が完全に秀吉に降伏したのは、5月下旬のことである。

5月13日羽柴秀吉羽柴秀長へ全11ヶ条の「条々」を下す。大隅日向両国の「人質」解放を命令したこと、長宗我部信親の戦死を悼み大隅国を長宗我部元親へ下す予定、島津義久降伏の様子、毛利輝元小早川隆景吉川元長を薩摩国に移陣させること、志賀親善の忠節に報い大友宗麟の判断で日向国内に城を与えること、大友義統と談議し豊後国内の不要な城の破却命令、日向国における大友宗麟の知行取分は大友宗麟の覚悟次第とすること、宇喜多秀家宮部継潤蜂須賀家政尾藤知宣黒田孝高に日向国、大隅国、豊後国の城普請および城わりを命令、豊前国の不要な城の破却と豊後・豊前国間に一城構築すべきこと、越権行為は成敗することを通達。「大友家文書録」 後に秀吉により、薩摩は義久に、大隅は義弘に、日向の一郡は義弘の子・島津久保に与えられた。以後、義久は弟の義弘に家督を譲って二頭政治を行い、島津家は豊臣政権江戸幕府の下でこの2国1郡の領土を明治時代まで領有した。

脚注[編集]

  1. ^ 前年より九州各地の島津氏に服属する在地勢力に対し「今すぐではなく、秀吉軍がやってきたところで帰順せよ」と黒田孝高らの事前工作があったとされる。これは軍勢侵攻の際にもっとも効果的であろう策をとったとも、「秀吉に服従する」という秀吉の権威付けのために採用された策である、ともされる。
  2. ^ 尾藤の所領は、先に島津氏に大敗した原因を作ったために所領を没収され追放された仙石秀久の旧領。
  3. ^ 所領を失った尾藤を一時保護した(仙石・尾藤の旧領を与えられた)小笠原貞慶すらも「尾藤を匿った罪」により秀吉により所領没収されている。

参考文献[編集]

  • 「豊臣秀吉の合戦 日本の合戦」 桑田忠親 新人物往来社
  • 「豊臣秀吉」 小和田哲男 新人物往来社
  • 「戦国合戦大事典」